2022年4月1日金曜日

生徒の自由は制限できて当然だという間違った考えについて

この春、上の娘が中学生になる。

地元の公立中学だが、うちはやや僻地に住んでいるので結構遠い。ちゃんと計ってはいないが、家から4kmくらいありそうである。

当然、自転車通学になる。というわけで、中学校から自転車通学の申請書を出してくれとの指示があった。

その申請書を見て、私は「はぁ? おかしいんじゃないの??」と思ってしまった。

「いや、自転車通学の申請なんかどこでもやってるでしょ」「普通でしょ」と思う人が多いに違いない。それはそうだと思う。でもよくよく考えてみると、これはとてもおかしいことなのだ。どこがどうおかしいのかちょっと説明させて欲しい。

まず大前提として、道路交通法を守る限りは、日本では誰でも公道を自転車で通ることができる。

中学生も小学生も、自転車に乗るのは自由である。事実、うちの娘は自転車で友だちの家に遊びに行っている。それに誰の許可を必要とすることはない。もちろん親は、子どもが自転車(や遠出)に慣れないうちは、遠くに行かせないとか、交通量の多いところには行かせないとかするかもしれないが、それはあくまでも安全上の配慮からすることで、基本的に「子どもが自転車に乗る権利」を尊重する。

お店も同じである。「うちの店には自転車で来ないでください」なんてことは、どんな店でも言えない。人には自転車で移動する自由があるからだ。一方で、「うちには駐輪場がないです。店の前に自転車を路駐しないでください」は全然アリだ。これは実質的に自転車で来店することを制限してはいるが、「自転車を利用する自由」を制限しているわけではないからだ。

もう少し分かりやすく言うと、「うちには駐輪場がないです」の方は、あくまでもお店の管理責任が及ぶ範囲のことだけしか制限していない。店には自転車が駐められないと言っているだけで、別の場所の駐輪場を利用するなら店に自転車で来たっていいことになる。一方で、「うちの店には自転車で来ないでください」の方は、本来店側には全く制限する権利のない、店に来るまでの方法を制限しているからNGなのである。この2つが、似て非なるものであることをまず理解して欲しい。

では中学校の自転車通学の申請はどうか?

これは、どう考えても「うちの店には自転車で来ないでください」式のやり方である。自転車通学に許可が必要だなんて馬鹿げている。何しろ、中学校以外のところはどこへでも自転車で行くことができるのに、中学校に自転車で行くには許可が必要だなんてことがあるわけがないのだ。

「いや、でも家が近い人に自転車を使わせるのはちょっと…」という人もいるかもしれない。実際、うちの中学の場合も自転車通学の許可要件は「通学距離が1.5km以上あること」である。だが、実のところ距離で要件を定めるのは不合理だ。しかもそのことには、中学校自身も薄々感づいているようだ。

というのは、先日あった入学説明会でも中学校から「距離は自己申告ですので、1.5kmに100m足りないから申請できないとかそんなことはないので〜」と言っていたからだ。許可要件が合理的でないから、こういう「柔軟な対応」が出てくるのだ。

通学距離が1.5kmの人は自転車通学がOKで、1.4kmの人はダメなのは理屈に合わない(それが規則だから、という理由以外では)。では1.3kmはどうか? 500mなら? どこにラインを引くべきなのか? 結局、元来誰でも自由に自転車で学校に来ていいはずなのに、そこに無理矢理1.5kmという自転車通学の許可要件を定めているだけであり、どこにも合理的なラインはないのである。だからこそ中学校は距離要件に関しては「柔軟な対応」をするわけだ。しかし「柔軟な対応」が必要なくらいなら、最初からそういう要件は設けない方がずっと合理的なのである。

「でも家が近い人もみんな自転車で通学していいわけ?」と思う人もいるだろう。私は全然構わないと思う。各人が、一番疲れない、楽に登校できる方法で登校したらよいと思う。人によってはそれが「不公平」だというかもしれないが、そもそも家から学校への距離が違う以上、どんな交通手段を用いたとしても不公平である。学校に近い人の自転車通学を禁じたとしても、遠い人の通学が楽になるわけではない。

だが、現実的に駐輪場の数が限られていて、生徒全員が自転車通学すると駐輪できない! という場合は、通学距離が短い人から駐輪場の利用を制限されるのはもちろん合理的である。先ほどの譬えでいえば、 「うちには駐輪場がないです」式の制限なら理解できる。生徒の自転車を使う自由を制限しているのではなく、あくまで駐輪場という学校施設の管理上の都合を言っているに過ぎないからだ。

だから私の主張をまとめるとこうだ。

「「自転車通学の許可申請」は、中学校には本来は規制する権限がない「生徒が公道を自転車で移動する自由」を制限しているのでよくない。あくまでも学校施設の都合からの「駐輪場の利用許可申請」にすべきである。」

「いや、ほぼおんなじことじゃん!」と感じる人もいるに違いない。どっちにしろ実質的には自転車通学を規制するのだから。だがその細かい違いには、日本の学校にありがちな問題が現れている。それは「中学校には本来規制する権限がない」ことでも制限できて当然という、中学校の認識である。いや、中学校の方では「中学校には本来規制する権限がない」なんてことすら見えていないに違いない。ただ、「中学校は生徒の自由を制限できて当然だ」と思っているのである。民主制の社会では、本来、人が当然に持っている自由を制限するということは簡単なことではないにも関わらずだ。

行政が人々の自由を制限したり、義務を課したりする際には、通常「法律」の制定が必要になる。どういう要件の時に制限できるかといったことを定めるのは「政令」(閣議決定)で、要件の細かい内容を定めるのは「省令」(大臣が定める)である。でも普通は、国会を経ない「政令」とか「省令」だけでは、自由の制限そのものをすることはできない。それくらい、自由を制限することは重いことだ。

そして人々の方は、理由なく自由の制限をされることには反発しなくてはならない。なぜなら、今我々が享受している自由は、先人が戦って手に入れたもので、その戦いは静かにでも続けない限りは、再びなくなってしまうものだからである。

だが中学校というところは、そうした権力と自由の関係を全く理解していないようだ。例えば、中学校には非合理的な校則が多い。うちの中学では下着の色まで決まっている。もちろん馬鹿げた校則である。しかしそもそも、どうして中学校は校則というものを定める権限があるのだろうか。

実は校則は、法令の上では全く位置づけられていない。中学校には、校則を定める法的な権限はないのである。ただ、学校長が学校運営を行う上での決まりを定められるだけだ。しかしながら、その点があまり学校や教育委員会には認識されていないようだ。そうでなければ「中学校は生徒の自由を制限できて当然だ」なんて思うはずはないのである。

「いや、そんなこと思っていませんよ」というのであれば、今すぐ「自転車通学の許可申請」を「駐輪場の利用許可申請」に変更して下さい、といいたい。「いやあそれにはこういう事情があって…」と言い訳するのは目に見えている。生徒の自由よりも、「諸般の事情」が優先されるのが、残念ながら今の公立中学校であろう。

ちなみにうちの娘が進学する中学校は、生徒数が50人くらいの過疎の中学校である。当然駐輪場の数も十分だ。教室も校庭も体育館も、本当にひろびろ使える人数である。そして生徒の方も、規則でその自由を制限しなくても、自分たちでよりよい学校生活を作っていくことができる子たちばかりだ。

中学校では、不条理に自由を制限されることを覚えるよりも、人が本来持っているはずの自由を守っていく力をつけて欲しい。入学前から、自転車通学の許可申請書を前にしてそんなことを思っている。

2022年3月30日水曜日

はじめに——もうひとつの廃仏毀釈(その1)

明治初年に、全国各地で廃仏毀釈が起こった。

寺院や神社から仏像が撤去されて無造作に打ち捨てられ、あるいは打ち砕かれた。寺院は取り壊されたり、その建物が別の目的に転用された。僧侶たちは還俗させられ、盂蘭盆会のような行事までもが仏教的だからと取りやめさせられた。追って、葬儀も仏式で行ってはいけないとされ神式の葬儀(神葬祭)を行うよう指導された。千年以上にわたって日本文化に根付いてきた仏教が急に否定されたのである。

しかし、これは明治政府の政策ではなかった。明治政府の目的は廃仏毀釈ではなく「神仏分離」であった。それまで神道と仏教は分かちがたく結びついており、例えば神社のご神体が仏像であったり、神社への祈願にお経を奉納することもあった。逆に仏教でも神々が仏法を守護するという考えで神社への信仰が位置づけられ、いわば仏教と神道は地続きのものであった。神社の境内には寺が建てられ(神宮寺)、寺院の中に鎮守が置かれることも多かった。そういった、神道と仏教が混じり合っている状態を「神仏習合」という。

明治政府が問題視したのはこの状況だ。

明治政府は「復古」を旗印にして出発した。明治政府は江戸幕府を打倒して政権を樹立することの正統性を神話的な古代に求め、将軍ではなく天皇が日本を治める状態があるべき姿なのだとした。明治政府の実質的な出発点となった「王政復古の大号令」では、「諸事 神武創業之始ニ原(もとづ)キ」と宣言し、神武天皇の治世を今の世に再現することを高らかに謳った。それが「復古」だった。

この「復古」という考えに沿えば、仏教は元来の日本にはなかったものであるから、仏教を取り除いた状態に戻さなくてはならないということになる。また神道も仏教と入り交じった状態になっているから、仏教が伝来する前の状態へと純化しなくてはならない。国学者たちはそういう純化した神道を「復古神道」——古代にそうであったはずの神道——として構想した。彼らの構想はそのまま実現したわけではないし、実際にはそう単純に仏教を排除しようとしたのでもないが、少なくとも神社や神道から仏教的な要素を取り除く、という神仏分離政策は実行に移された。慶応4年(1868)、明治政府の出発直後のことである。

後に「神仏分離令」と呼ばれることになる一連の布告は、全国で様々に解釈された。ある場所では寺院の全面的な破壊を意味するものと曲解され、別の場所ではそれほどの破壊は起こらなかった。また破壊が起こった場所でも、地方政府の主導によって粛々と寺院の整理が実行された場所もあれば、路傍の石仏までたたき壊されるなど民衆的な暴動へと発展したところもある。そうした仏教・寺院の破壊運動を「廃仏毀釈」と呼んでいる。

しかし明治政府の意図は、あくまでも神社から仏教的な要素を取り除くということにあり、廃仏毀釈は意図するところではなかった。明治政府は総じて、そうした破壊活動をたしなめ、強引な廃仏を行わないように指導した。とはいえ、明治政府があからさまに神道を優遇し、仏教を冷遇する傾向を有していたのは否定し得ない。 政権の中枢には国学者たちが入り込み、首脳陣にも国学的な素養を有していたものが多かった。政権の基本コンセプト「復古」は、神道を国教化することを求めていた。神話の時代の日本を再現するのが「復古」だったからである。

当然、こうした明治政府の動きには仏教界は反発した。彼らは最初のうちは政府に従ったが、徐々に政府のやり方に釘を刺すようになっていく。そして政府の方としても、仏教界を敵に回すよりは、彼らの協力を得て政権を運営する方がずっと効果的だと考えるようになった。また国学者たちの構想した神道国教化政策は、実際にはあまりうまくいかなかった。仏教は日本社会の基層をなすほど人々の生活に浸透していたし、仏教の代わりとなるはずの新しい神道の教えは急ごしらえ過ぎた。

そうしたことから、神道国教化政策は明治5年3月に終わりを告げる。政府は神道を国教化することを諦め、神道と仏教が共同して国民強化に邁進する体制(教部省・大教院体制)へと移行したのである。政府はもはや仏教を一方的に排斥することはなくなった。全国的には、明治5年以降にも廃仏毀釈が続いた地域はある。しかしそれはあくまでも地方政府や神官、あるいは住民の暴走であったといえる。大まかに言えば、廃仏毀釈は明治5年3月までで終了したのである。

ところが、明治5年に前後して、それまでとは全く異質の廃仏毀釈が動き出していた。 それまでの廃仏毀釈は、政府の「神仏分離令」に触発されてはいたものの、政府の政策そのものとは見なせない。ところがこの廃仏毀釈は、厳然たる政府の政策として行われたものだったのである。

具体的には、明治4年10月に「六十六部廻国聖」と「普化宗」を明治政府は禁止した。また明治5年9月には「修験宗」を廃止する。その他、僧侶の身分を解体するような諸政策が矢継ぎ早に打たれるのである。一般には「六十六部廻国聖」や「普化宗」はあまり馴染みのないものであろうし、当時であってもこれらは比較的小集団であり社会的な影響は大きくなかった。しかしながら、実はこうした宗派の禁止は日本の仏教が受けた被害のほんの一部で、その裏では仏教の在り方を変えてしまうような変革があったのである。

従来、これらの遅れて行われた廃仏毀釈はさほど注目されず、研究書において語られる場合も神仏分離政策の延長線上として理解され、その余波とされることが多かった。しかし2000年代に入ってから、この「もうひとつの廃仏毀釈」は必ずしも神仏分離政策の結果ではなく、それとは異なる原理によって行われたものであることを明らかにする研究が発表されるようになった。

そうした研究結果は、未だ広く知られているとは言えない。それどころか、この「もうひとつの廃仏毀釈」自体がほとんど認識されておらず、それを統一的に記述した本もまだ出版されていないのが現状である。

そこで私なりに、この「もうひとつの廃仏毀釈」を語ってみたいと思う。

(つづく)

2022年2月24日木曜日

幽閉寺としての宝福寺——宝福寺の歴史と茶栽培(その4)

(「元寺と今寺、宝福寺の拡大」の続き)

近世末期に編纂された『本藩人物誌』という史料がある。戦国時代を中心に、15世紀半より17世紀までの約二世紀にわたって活躍した島津氏の一門・家中の諸士のいろは順による略伝集であるが、この史料にいくつか宝福寺が登場する記事があるので管見の限りで抜粋してみよう。

【史料五】『本藩人物誌』({}内は原文では割注)
(一)「新納二右衛門久親{初宮内少輔}(中略)正保三年島津大和守久章川辺宝福寺ヘ寺領ニテ遠島被仰付候得共元来無道人之故御家老衆下知ニ可被致背違モ難計トテ久親并市来備後家尚ヲ宝福寺ヘ差越久章無異議御下知ニ可被相附旨得ト申合候処初ハ承引無之候得共漸ニ屈シ納得ニテ伊東仁右衛門祐昌高崎宗右衛門能延御使ニテ遠島被仰付候旨被仰渡候ニ付久章出寺清泉寺江被差越一宿ニテ候然処久章家来ニ三次ト申者宝福寺ニ罷在候ニ付久親三次ヲ召列清泉寺ヘ差越候於途中三次ヨリ久親ヘ切付候顧帰リ三次ヲ打果シ早速致帰宅候トモ同廿四日右之疵相破レ死ス于時四十四歳也(後略)」(巻之二)
(二)「大野駿河守忠宗{三郎次郎治部大輔}(中略)竜伯公初テ御上洛ノ御供天正十九年四月廿七日於川辺堂尾被誅{川辺宝福寺門前市之瀬トイフ処ニ観音堂アリ忠宗被誅シ地ナリ被誅訳追テ可糺ナリ}」(巻之四)
(三)「荒尾嘉兵衛 但馬カ叔父也但馬ニ与党シテ川辺市ノ瀬ニテ誅セラル」(巻之十三)
(四)「比志島宮内少輔国隆(中略)寛永四年国隆罪科ノ条々被仰出御家老職御免ニテ河辺保福寺ヘ寺領被仰付所領家財没収被仰付同六年種子島へ配流其後切腹被仰付候」(後略)(巻之十三)
【史料五】(一)では、正保3年(1646)に島津久章(新城島津家の当主で島津家久の娘婿)が宝福寺に幽閉されている。なおここでいう「寺領」とは、寺の領地のことではなく寺に幽閉する刑罰の名前らしい。幽閉中の久章は遠島(島流し)を申しつけられたが納得せず、その説得にあたった新納久親らは久章をなんとか清泉寺(谷山にあった宝福寺の末寺)に護送したが、そこで宝福寺にいた久章の家来三次が切り付けてきて、その傷が元で久親は死亡している。

【史料五】(二)では、天正19年(1591)に大野忠宗が川辺の「堂尾」という場所で誅殺されており、割注でそこは宝福寺門前の市之瀬の観音堂がある場所だとしている。なお大野忠宗は川辺の山田2297石を知行する家臣であった。この記事では、大野忠宗は宝福寺に幽閉されていたとか、護送中であったとは書いていないので、宝福寺と大野忠宗の関係は不明であり、また誅殺された理由についても「追って糺(ただ)すべきなり」(=今はわからない)とのことである。

【史料五】(三)に登場する荒尾嘉兵衛は、田尻荒兵衛(但馬)の叔父である。田尻荒兵衛は元百姓であったが武勇に秀でて取り立てられた人物。文禄元年(1592)、梅北国兼が起こした一揆(梅北一揆)に参加して誅殺された。その叔父もこの一揆に参加しており、川辺の市之瀬で誅殺されたのである。本記事でも宝福寺と荒尾嘉兵衛の関係は不明であるが、市之瀬というのはかなり山深いところであり、誅殺の際に偶然にいる場所ではない。【史料五】(二)(三)は、やはり宝福寺と何らかの関係があるものと思われる。

【史料五】(四)では、寛永4年(1627)薩摩藩の家老であった比志島国隆が何らかの罪によって、家老の罷免、「河辺保福寺」(おそらく「川辺宝福寺」の誤記)に「寺領」(幽閉)、家財没収の処分を受けている。さらに2年後には種子島へ配流され切腹を申しつけられている。この記事に依れば、少なくとも1627年には宝福寺は「寺領」を申しつける拘置所・刑務所のような機能を果たしていた。とすれば、その36年前にあたる大野忠宗の誅殺とその一年後の梅北一揆参加者の誅殺も、宝福寺へ幽閉するまでの護送中に行われたと考えるのが自然ではないだろうか。とすると、16世紀末には、宝福寺は「罪人を拘置し、幽閉する寺」とされていたということになる。

宝福寺は二つの点でこうした機能を果たすに適した場所であった。まず、宝福寺は急峻な山中にあり脱走が困難であったということ。そしてより重要なことに、宝福寺は特定の家との関係がないフリーな立場の寺だったということである。この時代の大寺院というものは、広大な領地を持つか、特定の家の菩提寺であるか、その両方であることが多かった。島津本宗家およびその分家、上級家臣などはそれぞれ菩提寺を持って先祖の法要を行い、その見返りとして土地を中心として様々なものを菩提寺に寄進しており、それが寺院の経済を支えていた。そうでない場合も、何らかの経済基盤を持たなければ大寺院を維持していくことができなかったのは言うまでもない。例えば坊津の一乗院は特定の家の菩提寺ではなかったが、島津氏の庇護を受け貿易の後援を行っていたと見られる。しかも広大な寺領を持ち、『三国名勝図会』によれば最盛期には1500石、減じても350石を給与されていたという。一方宝福寺は、『川邊名勝誌』によればわずか59石である。そんな宝福寺が、かつては「薩州三ヶ寺」として知られた大寺院だったというのは奇異な感じがする(他の二つは勝目の「善積寺」、鹿屋市吾平町の「含粒寺」)。

そこで考えたいのは、「罪人を拘置し、幽閉する寺」=幽閉寺にされたことは宝福寺にとってどのようなことだったか、ということである。素直に考えれば、罪人の幽閉場所となることは宝福寺にとっては負担が大きかったと思われる。罪人を監視し面倒を見なくてはならないし、場合によっては門前で切り捨てられることもあったとすれば大迷惑である。であるから、政権側からはそのための相応の見返りをもらっていたに違いない。それが宝福寺の寺院経済を支えていたのであろう。ここではそれが何なのか明らかにすることは出来ないが、もしかしたら茶の栽培も見返りの一つだったのかもしれない。

先にも少し触れたように、藩政時代には茶には高額の税金が課せられていた。伏見の宝福寺が開基される五年前にあたる文禄3年(1594)に、石田三成から薩州奉行にあてた検地書に「茶えん之事、年貢もり申間敷候」とある。これは「茶園への年貢を漏らさないように」との注意であり、既に茶には年貢が課されていたことが知られる。しかも国家権力によって茶への課税は義務づけられていたわけである。この頃の茶への税率がいかばかりであったかは不明だが、慶長年間(1596〜1614)には茶一斤につき籾2升5合の割合で年貢が設定されていたようだ。近代以前の茶産業では、今のような整然とした茶園の仕立てではなく現在の数分の一の生産性しかなかったと考えられている。茶一斤(250匁=約1kg。おそらく荒茶の重さ)の生産にどのくらいの労力がかかったのか分からないが、これにかかる年貢が米2升5合(約4.5kg)ということは、茶も米も今よりもずっと価値が高かったことを考えると大きな負担であったことは間違いない。寛永年間(1624〜43)になるとさらに年貢の割合が上がり、茶一斤につき米3升5合になっている(以上『鹿児島県茶業史』による)。

こうしたことを考えると、宝福寺は幽閉寺になったことの引き換えとして、茶の栽培を無税で行うことが認められていたのかも知れない。『川邊名勝誌』によれば、宝福寺には寺領高59石余りの他に「寺地御免地」が4反9畦9歩、「門前屋敷御免地」が1町7段2畝10歩ある。「御免地」とは免税の土地のことであり、この中で茶の栽培が行われていたとは考えられないだろうか。

しかも織豊政権下においては、茶は単なる嗜好品ではなく非常に重要な役割を負わされていた。茶の湯が外交の舞台となり、また茶器の贈答が政治的な性質を帯びるようになったからである。最高級の茶器は一国の命運を左右するほどの価値を持っていた。茶そのものは消費財であることもあり、それほどの重要性はなかったが、この頃に茶の需要が増したことも確かである。それでは、川辺の宝福寺は、伏見の宝福寺を通じて宇治から茶の種や苗を仕入れて茶栽培を開始したのだろうか。先述のとおり伏見の宝福寺は現存しているため、思い切って薩摩藩や茶栽培との関係を問い合わせてみたところ、ご住職と思われる方から次の回答をいただいた。
「元は真言宗の寺でしたが、本寺宝福寺の住職?が開山となり曹洞宗寺院となったようです。豊臣秀吉の祈願寺として、当時の住職が伏見城内金毘羅堂で祈祷したようです。付近には薩摩藩屋敷跡もありますが、関わる資料は皆無です。当寺は、一代補住ばかりですので資料保存もほとんどありません。」「「茶」に関しては、資料は皆無です。」

このように、推測を裏付ける回答はなかったものの、同時に「現在の本寺跡の写真を見て、一度は拝登したいものだと思っております。」とのコメントをいただき、本末関係が途絶して約150年経過しているにも関わらず川辺の宝福寺に関心を寄せて下さっていることに感激した次第である。なお「豊臣秀吉の祈願寺として」云々については、伏見の宝福寺の開基は秀吉死後であるため、真言宗時代のことと思われる。

以上の通り、伏見の宝福寺から川辺に茶がもたらされたとする仮説は、それを裏付ける史料や遺物が存在せず、空想の域を出ないと言わざるを得ない。しかしながら、宝福寺での茶栽培は江戸時代の初期(17世紀前半)には始まっていたと考えられ、既に考察したように16世紀前半までに始まっていた可能性は低いので、伏見の宝福寺が茶栽培において何らかの役割を果たした可能性はあると考えられる。

<おわりに>

本稿では、宝福寺での茶生産がどのように始まったのかを推測することが目的であったが、その時期についてはある程度絞り込めたものの、それ以外についてはやはり不明であるということが結論である。

とはいえ、茶の伝来については、DNA分析を行えば明らかにすることができるかもしれない。冒頭に述べたように、宝福寺のチャノキは中国から渡ってきた原種の形質を保っていると言われるが、その遺伝子がどの地方のどのチャノキに由来するのかが分析できれば、少なくともどこから伝来したのかは解き明かすことが出来るはずだ。

宝福寺の茶栽培は、現在南九州市で行われている大規模な茶業の直接の祖ではないが、この地域で古くから茶が栽培され、しかもそれが薩摩藩内における最高級品として扱われていたことは注目すべき歴史的事実である。宝福寺の茶栽培の起源を明らかにすることは「知覧茶」の推進にも役立つかも知れない。今後は、文献史学からだけではなく、科学的手法による研究の進展も期待したい。

また本稿を作成するにあたり、『川邊名勝誌』や「覚卍伝」、『本藩人物誌』を読みなおしてみて、字堂覚卍という傑出した僧侶の人生に改めて興味が湧くとともに、宝福寺には茶栽培以外にもまだまだ解くべき謎が残っているということをつくづく感じた。特に伏見の宝福寺の存在は大きな謎である。なぜ豊臣秀吉の死後、政治的に不安定になっていた時期に島津義弘の屋敷の目と鼻の先に宝福寺が開基されたのか、深い理由がありそうである。

2022年、宝福寺は開基600年を迎えたことになる。これを機に多くの人が宝福寺に関心を抱き、宝福寺研究がさらに進展することを期待したい。本稿がその一助となれば望外の喜びである。

最後に、本稿をまとめるにあたり南九州市役所文化財課の新地浩一郎学芸員(役職要確認)に多大なる協力をいただいた。また問合せに快く回答してくださった伏見の宝福寺のご住職にもこの場を借りて改めて感謝の意を表したい。

【参考文献】
足立東平「島津藩政時代の茶の歴史 (I)(II)(III)」
鹿児島県茶業振興連絡協議会編『鹿児島県茶業史』

2022年2月19日土曜日

「思想」としての近代日本文学

高校の国語の授業が、論理的・実用的な文章を扱う「論理国語」と、文学的な文章を扱う「文学国語」に分かれる、という報道がされている。

正確にいえば、これまでは必修の「国語総合」に加え「国語表現」「現代文 A」「現代文 B」「古典 A」「古典 B」の5つの選択科目という構成だったのを、新学習指導要領では、必修科目として「現代の国語」「言語文化」を設け、選択科目として「論理国語」「文学国語」「国語表現」「古典探究」の4つの選択科目という構成にしたものである。

報道のされ方はやや一面的な気もしないではないが、古典を含む文学が軽視されているというのは事実であろう。

これに関してちょっと思うことがある。

昨年の12月に「books & cafe そらまど」というブックカフェをオープンさせた。古本屋とカフェが一体になった店である。本棚には既に本がぎゅうぎゅうに詰まっている。この本は、いろいろな人が寄贈してくださったもので、驚くべきことにほとんど集めようとしないうちに、半ば自動的に集まったものである。

こうして集まった本の中に、「名著復刻全集」が2セットも入っていた。古本屋を使う人にはお馴染みのセットで、明治以来の名著を初版本そのままに復刻したシリーズである。このシリーズが復刻にかけた意気込みはすさまじく、紙や造本にいたるまで当時の技術を再現し、研究に使えるレベルの「初版本のレプリカ」とでもいえるものとなっている。

当然値段も張り、いろんなセットが断続的に販売されていたので数種類があるが、「近代文学館」と題されたものはセット販売のみで20万円くらいだったと記憶する。しかしこの高価なセットはかなり売れた。元値は1冊数千円のものだったのに、今では古書価格で1冊数百円になっていることでも、いかにたくさんのセットが行き渡ったか窺い知れる。

どうして初版本の復刻版などというものがそんなに売れたのだろうか。

これが売れていたのは主に高度経済成長期からバブル期であって、その頃の日本人は単にお金があったからだ、という見方もできる。また、これらは書店で販売されるのではなく、訪問販売によっていた。当時は百科事典とか図鑑の訪問販売が盛んにされていて、その熱心な販促活動が功を奏して売れた、ということもあるだろう。また、「教養主義」が生きていた時代、こういう名著は読んでいないと恥ずかしい、という意識が底流にあったことも否めない。

しかしそれにしても、今目の前にあるこの復刻本、そして多くの古書店に並んでいる名著復刻全集が、ほとんど開かれたこともない様子なのをどう考えたらいいのか。名著を読むだけなら数百円の岩波文庫で事足りるのだ。むしろそちらの方が、充実した注釈や解説、読みやすい活字といったものを考えると、復刻本を高いお金を出して買うよりずっと優れている。

同じく訪問販売されていた百科事典や図鑑だってあまり使われた様子はないが、それでもインターネット以前の社会ではそういうものはとても役立つ道具だった。わからないものがあった時に頼れる唯一のよすがだったと言ってもいい。でも名著復刻全集はそういった実用性はまるでないのである。気も蓋もない言い方をしてしまえば、それはただ所有欲を満たすためだけのものであったといえるかもしれない。要は見栄えのする「置物」だったのである。

しかし、それはそうだとしても、美術品とか高級な家具や調度品ではなくて、なぜ復刻本が「置物」になりえたのか。この全集を買った人は、何を求めて高いお金を出したのか。

私は、それは近代日本の「思想」を手元に置いておきたかったからではなかったのか、と考える。

文学を「思想」と言い切ってしまうのは乱暴だとは思う。それについては少し説明が必要であろう。

普通の人にとって、思想や哲学は身近なものではなかった。それが海外の思想家の著作を翻訳してつくった観念的なものばかりで、生活に立脚した、普通の言葉で語れるものでなかったからだ。いわば思想はハナから「外国語」であった。でも思想は、なくて済ませられるものではない。この社会をどう考えるか、人生はどう生きるべきか、正しさとは何か、といったことは、明確な理論で説明出来なかったとしても、やはり社会を成立させている重要な地盤なのである。

ところが近代日本では、そうした思想は、地盤であるどころか空中楼閣のように人々の心から遊離していた。その代替になったのが、近代文学であったように私には思えるのである。

もちろん、日本近代文学が思想の表現だったとは全然思わない。例えば谷崎潤一郎を読んで人の道を学ぶなんて不可能だし、芥川龍之介『羅生門』で正義のなんたるかを知るなんてできようはずもない。私は文学の内容ではなくて、むしろ「表現」の方を人々は「思想」と受け取っていたのではないかと思うのである。

美しく格調高い「表現」そのものが、日本人にとっての「規範」だったと私は思う。ある意味では、そこに「内容」は必要なかった。「内容」がないことは、日本人の「思想」が容易に換骨奪胎されうる危険性を内包しているが、それでも美しさや格調高さが共有されている限り、日本人の「思想」は原点に戻れるものだと私は思っている。

だから、やはり新学習指導要領での文学軽視の傾向はよくないものだと思うのである。

日本人は論理的な文章の読解や作文が不得手だというのはその通りだと思う。文科省がそこのテコ入れをしようと思ったのは理解できる。しかし元来日本語は論理的な表現に適さないもので、新しい科目を増やしたくらいで強化できるように思えない。むしろ古典や近代文学に触れる機会が減るデメリットの方が大きいのではないだろうか。

名著復刻全集を買った人たちは、美しさや格調高さが日本文学の核心であることを無意識的にでも感じていた人たちだったと思う。でなければ、美しい「初版本のレプリカ」を大枚をはたいて手元に置こうとは思わなかったはずだ。読みもしないのに。

日本近代から、美しさや格調高さを取り除いたらどんな「思想」が残るというのだろう。実用性や合理性の面ではからきしダメだったのに。ネットの海に大量に漂流している醜悪な言葉は、論理性の欠如の帰結だとでもいうのか。

今必要なのは、論理的文章を書ける訓練をするよりも、開かないで過ごしてきた復刻本を改めて開いてみることのような気がしてならない。



2022年2月1日火曜日

ドルフィン跡のサッカースタジアムはさすがに無理です。

久々に「オイオイ」と思った。

鹿児島市の下鶴市長が、ドルフィンポート跡につくる鹿児島県の新体育館の隣にサッカースタジアムを作りたいといっている件だ。

しかも、県民の多くが「ぜひあの芝生は残してほしい」と言っているその緑地帯を移設すれば建設できるじゃないか、と主張している。さらに結婚式やコンサートにも使える施設とし、フィットネスクラブやワークスペース、保育施設や高齢者住宅を併設して「稼げるスタジアム」にすることを検討しているという(2月1日付南日本新聞より)。

たぶん、塩田知事がいつも「稼ぐ力」を強調していて、経済政策を重視する立場なので「稼げるスタジアム」と言っているのだろう。

しかしながら、実際に新体育館とスタジアムが併設されることを想像すれば、この計画には無理があることがすぐわかる。両方の施設で大規模イベントが行われることを考えてほしい。駐車場はすぐにいっぱいになり、多くの人は遠くのコインパーキングから歩かなければならない。しかも土地勘のない人にはどこにコインパーキングがあるのかもわからず、空き駐車場を探して街中をさまようことになる。

さらなる問題は帰りの時間だ。イベントの終了後には多くの人が一気に帰るわけで、ただでさえ常態化している夕刻の渋滞はすごいことになるだろう。

覚えている人も多いだろうが、2019年に鹿児島アリーナ(西原商会アリーナ)でB'zのライブがあったことがある。このライブの収容人数が5700人。この時は中央駅からアリーナまで臨時の市営バスがかなりの本数運行されていた。ライブのお客さんはマナーのいい人が多いのか特に混乱があったとは聞いていないが、当日の交通はかなり気が遣われていた印象だ。

それが、下鶴市長が作ろうとしているスタジアムの収容人数は「1万5千人から2万人が最適」だという。この人数が鹿児島県で最も交通量が多い箇所を移動すると思うとゾッとする。スタジアム構想は、景観面や緑地の関係で反対している人も多いが、そもそも交通計画だけを見ても破綻していると思う。

しかし、それすらもこの案件のヤバさの一面でしかない。

それは、これまでの新体育館の検討の経緯を知っている人からすれば明らかだ。

県の新体育館は、現体育館が1960年の建設で老朽化しつつあったため、もともとは1985年~94年度までの10年間に新設する予定だった。ところが、なぜだかこの計画は棚上げされ、2008年に伊藤祐一郎知事(当時)が、県庁東側(与次郎2丁目)に体育館を整備することを表明したことで動き出す。

県庁東側の土地はMBCの所有地だったが、その取得交渉の過程において県有地のドルフィンポート敷地との土地交換が俎上に上がると、伊藤知事は「むしろドルフィン敷地に県体育館を建てた方がいいのでは」と心変わりし、計画を拡大して「スーパーアリーナ」と呼ばれる構想を発表した。これが2013年。

「スーパーアリーナ」は「飲食店や展望スペースを備え、イベント会場としても利用できる、多くの人々が集う機能を有した総合的な施設」だということだった。ところがこの案は空から降ってきたような話で、内容の是非以前に唐突なことだったため県民の理解が得られず2015年に撤回。

2017年には三田園知事(当時)が、事実上凍結されていた新県体育館を早期整備することを表明し、2018年には鹿児島中央駅西口の県工業試験場跡地(武1丁目)を候補地として表明する。

しかしここには交通上の問題が大きく、しかも十分な駐車場が設けられないという致命的な問題があって断念。それで話が戻ってきて、やはり県庁東側はどうか? いや、県農業試験場跡地(谷山)はどうか? と議論が錯綜。結局、2019年には「県庁東側が現実的」としてMBCとの土地の譲渡交渉に入ったところを止めたのが現塩田知事だった。

塩田知事は、これまでの検討経緯が「土地ありき」のもので、「どのような施設が必要なのか」という観点からのボトムアッププロセスが欠落していたことを踏まえ、検討委員会を設けて改めて検討させた。そして委員会があるべき施設の姿を示し、それに応じて候補地を評価して選出されたのが「ドルフィンポート跡地」だった。

私自身は、ドルフィン跡は正直なところ交通の問題など考えても良策とは思えないが、それでも一応公開での議論の下で、透明性をもって検討したことは評価したい。そもそも新県体育館の方針が二転三転したのは、伊藤知事・三田園知事がどちらも「県立体育館をどこに作るかは俺が決める」みたいなことを言っていたためだ。

ここから導かれる教訓は、「県民の施設を、知事の一存でつくるようではダメ」ということに尽きるだろう。

ところが! 下鶴市長はこの経緯を全くご存じないと見える。スタジアム建設は下鶴市長の肝煎りなのでヤル気があるのは理解するが、全く内実が伴っていない。まさに伊藤知事・三田園知事の失敗の二の轍を踏んでいるようだ。

しかもその構想は伊藤知事の「スーパーアリーナ」と極めて近い。核心部分の価値があやふやだから、「これにも使えるしあれにも使える」と計画を肥大させただけのように見える。逆に本当にスタジアムが必要なのか疑問になってきた。

下鶴市長のスタジアム案は、「首長主導」「土地ありき」「あれこれ盛り込む」という、これまでの県体育館構想のダメなところだけを集めて作ったものだとすらいえると思う。

私は南さつま市民である。本来は、下鶴市長のやることにアレコレいうべきではないのかもしれない。しかし県体育館の隣にスタジアムができるとなれば、少なからず影響を受ける。下鶴市長は、これまでの県体育館建設のゴタゴタの経緯を踏まえた上で、わが身を鏡で見てほしい。

2022年1月1日土曜日

新年の忙しいアピール

謹んで新年のお慶びを申し上げます(…と書いたが、喪中なので書いてはいけないのかもしれない…?)。

この2年ほど、こちらのブログがすっかり疎かになってしまった。「書くことがなくなったんじゃないの?」と思っている人も多いと思うが、実はそんなことはなく、…いや、まあちょっとはそれもあるかもしれないが、主な原因は書く時間がないことである。

昨年は、クラウドファンディングで資金を募って「古民家ブックカフェ」を開店させたので、それにもかなり時間を使った。

※クラウドファンディングでご支援いただいた皆様で「まだ返礼品が届かないぞ!」と思っている方もいらっしゃると思いますが、こちらの事情で一斉に送付できておりませんのでもうしばらくお待ち下さい。すみません。

それから、今年度は小学校のPTA会長もやっているし、その前から農業委員会の仕事(正確には農業委員会の農地利用最適化推進委員)もやっていて、なんだか細々とした用事がいろいろと襲ってきている感じである。

ついでに、今は(昨年10月〜1月まで)南日本新聞の読者モニターも務めている。これは「南日本新聞を読んで」というコーナーに月1回投稿するもので、このブログを読んでなのか何なのか、新聞社の方から依頼してきたものである(ちゃんと原稿料も出る)。最初は「月一回の投稿だからそんなに大変じゃないでしょ」と思っていたが、やはりちゃんとしたものを書くには、新聞を毎日しっかり読まないといけないので思ったより負担だった。

ついでに書くと、新聞に毎月載れば何か反響があるだろうと思っていたが、意外と何も反響がないので拍子抜けしている(笑)まあそんなもんか。

それからもう一つ、昨年は「やうやう」という大隅(鹿屋)で創刊されたフリーペーパーで連載を持つことになり、2ヶ月に1回くらいのペースで原稿を書くようになった。連載のテーマは「バッハ以後のフーガ250年の歴史」。誰が読む連載なのか自分でもわからないマニアックなテーマである(ただし、今はまだマニアックな話題には到達していない(笑))。

【参考】バッハ以後のフーガ250年の歴史
https://fugue-after-bach.blogspot.com/
※フリーペーパーに掲載後しばらくしてから転載しています。

そして実は、最近私の時間を奪ってきたことがもう一つある。それは、本の出版である。まだ詳細は伝えることができないが、某中堅出版社から本を出版することになった。それでこの数ヶ月は原稿の整理やら校正やらで時間を取られていた。

内容は、このブログで「なぜ鹿児島には神代三陵が全てあるのか?」というタイトルで連載していたもの。もちろんブログに書いたままではなく、ブログを元にまとめ直したものである。最初は地元出版社に出版を打診したものの、「かなり専門的なので中央の出版社に持っていった方がいいんじゃないか」ということで持ち込みし(といっても電子メールで送っただけですけど)、驚くべきことに一社目で出版が決まった。

そんなわけで、今年は本を出す予定である。これは私も以前から目標にしていたことなので非常に嬉しい。ただ、そのためにもっと忙しくはなりそうである。

と、いうように、こんなブログでも、書いているといろいろ発展があるものだ。もうちょっと積極的に書いていった方がいいかもしれない。

というわけで今年もよろしくお願いいたします。

2021年12月31日金曜日

元寺と今寺、宝福寺の拡大——宝福寺の歴史と茶栽培(その3)


前回からのつづき)

覚卍が無一物の暮らしを貫いていたとすれば、宝福寺での衣食住はどうまかなわれていたのだろうか。覚卍自身は「寒暑を避けず、草を編み衣となし、飢えれば則ち菓蓏を食べる」という自然と一体化した生活が出来たとしても、その頃の宝福寺には覚卍を慕ってきた人々が三渓を為すほど多く、しかも彼らは覚卍と同様の頭陀行に徹していた。

しかし覚卍的な自然からの採集生活ができるのは深山幽谷にあってもせいぜい十人程度のものであろう。普通、「頭陀行」と言えば普通は托鉢を示すが、険阻な山奥にある宝福寺から街へ托鉢に出るのは毎日できることではなかったように思われるし、毎日街へ托鉢に行くとすれば山奥で修行する意味も薄い。そう考えると、覚卍の魅力に引かれ多くの人が宝福寺を訪れたことは事実だろうが、覚卍が健在な時にはその滞在は一時的なものであったのだろう。おそらく当時の宝福寺には立派な伽藍もなく、山岳寺院本来の自然と一体化した暮らしが行われていたのではないかと思われる。

だが覚卍という偉大なカリスマの死後、宝福寺はこのような在り方で存続していくことはできなかった。宝福寺は、覚卍の理想とは違う、立派な七堂伽藍を備えた大寺院として発展していくのである。

それを象徴するのが、寺院の移転である。宝福寺には覚卍が開いた「元寺」跡と、移転後の「今寺」跡という二箇所の遺構が残されている。「元寺」にも立派な石積みなどが残されているが、急峻な山に囲まれているところで、大規模な寺院建築には適さず、あまり多くの人が暮らせそうな場所はない。一方「今寺」の方は、同じく山中にあるものの割と平坦な土地が広がっていて、寺院の建設にはずっと適している。宝福寺の経営規模が拡大したため、よりその経営に適した土地に移転したというのが「今寺」の建設であったと考えられる。

とはいえ、それは覚卍の理想を忘れて堕落した結果だということはできない。というのは、宝福寺には覚卍の遺徳を慕って多くの人が訪れていたに違いない。そうした人々全員が覚卍風の頭陀行を行うことは現実的でない以上、覚卍を嗣いだ住持にとっては、集まってくる人々を養っていく手立てを講じる必要があっただろうからだ。覚卍たった一人ならば無一物の暮らしは理想的であったのだろうが、多くの人がその教えを学ぼうとする以上、宝福寺は組織的な経営を行わざるをえなかったのである。

「本寺」から「今寺」への移転は、『川邊名勝誌』や『三国名勝図会』には詳細な記載がないが、『川辺町郷土誌』によれば六代雲岳和尚(天文16年(1547)示寂)の時とされており、経営方針転換後の宝福寺はその規模をさらに拡大させたようである。今の企業と同様に、規模が拡大することでさらに強固な経営基盤が必要となっていくからだ。

こうしてこの時代、宝福寺には急に寄進が続いている。特に七代南室和尚は、日新公(島津忠良)により重んじられたらしく、加世田村小湊の田(10石5合2勺1分)と「中之塩屋一間」、「御分国勧進」(の権利)が寄進されている。特に注目されるのは加世田小湊の塩田「中之塩屋一間」が寄進されていることだ(だだし「一間」がどのくらいの広さ・単位を表すのか不明)。

赤穂の塩田が東大寺の庄園だったように、製塩業と寺院とは古代から深いつながりがある。『川邊名勝誌』に掲載された伝説では、宝福寺が山深い場所にあって塩の入手に苦労しているため日新公は塩田を寄進した、となっているが、そもそも宝福寺と小湊ではかなり距離がある。ほかの寺領が清水にあって宝福寺の近くにあるのに、なぜ宝福寺に小湊の土地を寄進したか。それは宝福寺の経営が拡大し、すでに多くの場所に拠点があったからであろう。そして塩の販売による現金収入が必要だったからではないかと思われる。そしてこうした経営の拡大に伴って宝福寺は各地に末寺を増やしていったのだろう。小湊の「中之塩屋」が寄進されたのが天文21年(1552)。どうやら宝福寺の拡大時期は1500年代半ばからということのようである。

そうして増えていった末寺の一つに、京都伏見の宝福寺がある。これは宝福寺と茶の繋がりを考える上で看過できないことである。伝説的な部分が多いとはいえ、藩政時代における鹿児島の茶産地は全て宇治から茶栽培が伝わったとされているからである。宇治と伏見は目と鼻の先にある。宝福寺には、伏見にあった末寺を通じて茶の栽培が導入されたのではないだろうか。

『川邊名勝誌』によれば、「伏見 宝福寺」は末寺の筆頭に掲げられ、「右開山覚卍禅師開基之寺ニ而御座候」とされている。同誌にはそれ以外の情報はなく、どういった経緯で宝福寺が同名の末寺を伏見に持つに至ったのか不明というほかない。しかしながら、その情報にしても、覚卍が伏見に宝福寺を開くことはまずあり得ない。確かに覚卍は南禅寺時代には京都にいた。しかし転宗して薩摩に帰郷してからは京都に出向いたという記録はなく、また覚卍のライフスタイルから推して考えても京都に出張していくことはないだろう。

実はこの宝福寺は現在でも「久祥山寶福寺(曹洞宗)」として京都市伏見区西大文字町に存続している。この「伏見の宝福寺」に伝わる開基の由来はこうなっている。

【史料四】久祥山寶福寺の「歴史や由緒」(抜粋)
「当寺は、元「瑞応院」と号し、「伏見九郷森村」にあったが、応仁の乱(1467~77)によって兵火に遭い、末寺に寺号を移した。永禄2年(正親町天皇御宇=1559)に、出雲国野﨑浦城主・野﨑従五位備前守(久祥院殿太雄覺山大居士)が国を譲り、当地に閑居して開基となり、「久祥院」と改名し真言宗・冨明法印を開創開山とした。その後、豊臣秀吉公が「伏見九郷」を開拓して文禄3年(1594)に伏見城を築城し、慶長4年(1599)に薩摩国川邉郷曹洞宗寶福寺11代目住職・日孝芳旭大和尚を特請し、曹洞宗開山となり「久祥山寶福禅寺」と改名し、大本山永平寺(福井県・道元禅師開山)と大本山總持寺(神奈川県・瑩山禅師開山)の両本山とする曹洞宗の法脈・法燈を現在も継承している。」

(※久祥山寶福寺WEBサイトより、2021年10月取得 
https://sotozen-navi.com/detail/article_260049_1.html#art1

これによれば、伏見の宝福寺は、元来は瑞応院という真言宗の寺院だったが、慶長4年(1599)に川辺の宝福寺の11代日孝芳旭大和尚により曹洞宗開山となり宝福寺と改称した、ということである。この1599年という年代は、先ほど考察したように川辺の宝福寺の拡大期とも合致している。

ところが川辺に伝わる伝承と食い違うのは、第一に伏見の宝福寺を開基したのが覚卍ではなく「 11代日孝芳旭」という人物になっていること(すなわち開基の年代が大きく異なる)、第二に川辺での伝承では11代は「海雲(または「海雲呑」)という人物であるということだ。これはどのように考えればいいのか。なお11代だけでなくその前後にも「日孝芳旭」という住持は川辺側の記録には存在していないようだ(『川邊名勝誌』および『川辺町郷土誌』に引用された「万延元年寺院由来書上帳」による)。

しかしながら、伏見の宝福寺は現在まで存続しており伝承が連続していると考えられること、開山の人物を間違える可能性は小さいということから、ここでは伏見の宝福寺の伝承の方が正しそうだとしておきたい。日孝芳旭は伏見の宝福寺に移籍したため、川辺の宝福寺の法統から除外されたのかも知れない。

それでは、伏見の宝福寺が曹洞宗として開山した1599年とはどのような時期だったのか、再び茶からは逸れる部分もあるが概観してみることとする。

文禄2年(1593)、天下人・豊臣秀吉は本拠地である大阪城を秀次に譲り、自身は築城中の伏見城(指月伏見城)へ隠居した。しかし同時期、秀吉にとっても思わぬことであったが実子秀頼が誕生したため、伏見城はやがて隠居所の性格が薄れていくこととなる。秀吉は一度は隠居したものの、権力を秀頼に継承させるべく引き続き政務の実権を保持し続けることになったからである。文禄4年(1595)には関白秀次が失脚し一族もろとも処刑され、権力は再び秀吉の一極集中となっていく。

文禄5年(1596)には指月伏見城が同年の慶長大地震で倒壊してしまい、伏見城は北東に1㎞ほど離れた木場山へ全国の大名を動員して再建された。慶長2年(1597)に天主が完成し秀吉が移徙(いし=引っ越し)。この間、伏見には全国の大名屋敷が建築され政治的中心となった。「西尾市岩瀬文庫」収蔵の「伏見図」(慶長年間に製作されたと思われる)によると、伏見城を取り囲むように諸大名の屋敷が配置されているが、このような都市がたった数年という短い期間に造成されたことに驚きを禁じ得ない。秀次失脚の以前は、大名屋敷は秀次の居館である聚楽城の周辺に造営されていたのであるが、秀次失脚の後に聚楽城は派却されてその一部が伏見に移転された。おそらくそれと同時期に大名屋敷も伏見に建築されたのだろう。このようにして、一時期ではあったが伏見は日本の政治的中心になったのである。

慶長3年(1598)、豊臣秀吉が死亡すると伏見城は五大老の筆頭であった徳川家康に引き継がれる。しばらくは豊臣政権は存続の構えを見せたものの、絶対権力者であった秀吉が死亡したことは全国の大名に動揺を与え、島津家でも新たな権力闘争の動きに入っていくことになる。事実、翌1599年には島津家の家老伊集院忠棟が島津忠恒(後の第19代当主島津家久)によって伏見において誅殺されている。伊集院忠棟は島津家の家臣であるとともに、秀吉から直接知行を安堵された「御朱印衆」(つまり秀吉の家臣)でもあり、島津家領国における太閤検地を石田三成とともに推進した人物である。伊集院忠棟を誅殺したことは、島津家として豊臣政権から距離を置こうとしていることの表れといえよう。やや長くなったが伏見の宝福寺が曹洞宗開基となった1599年はこのような時期であった。

先述の「伏見図」では、島津関係として「嶋津但馬守」「嶋津右馬守」「嶋津右馬頭」「嶋津兵庫」の四つの屋敷が掲載されており、宝福寺も「嶋津兵庫(島津義弘)」の屋敷のそばに「禅 寶福寺」としてしっかり書かれている。

この図を見てすぐに理解できることは、秀吉の意向によって急ごしらえで作られた政治都市伏見において寺院の新設が自然発生的に行われるはずもなく、宝福寺の末寺開基にも政策的必要性があったに違いないということだ。ではどのような必要性だったのかということについては残念ながら史料からは明らかでない。

ところで以前から、宝福寺は琉球とのパイプを持っていたらしき形跡がある。「覚卍伝」において宝福寺には「琉球」「筑前」「豊後」の三渓があったとされているが、琉球から多くの人が訪れていたのである。また琉球禅林の祖であり首里円覚寺の開山である芥隠承琥(かいいん・じょうこ)は、琉球渡海前に宝福寺に滞在し覚卍に師事したとされている。16世紀末、文禄・慶長の役後の明との国交回復のために琉球国との外交が非常に重要になっており、そのために伏見の宝福寺が開基されたのかもしれない。しかも、宝福寺はそれ以前からも島津氏によって政治的に利用されていたフシがある。

宝福寺は罪人が幽閉される寺だったようなのである。

(つづく) 

※画像(伏見図)は西尾市岩瀬文庫/古典籍書誌データベースより。注釈は著者が挿入。原図では東が上になっているが、北が上になるよう改変している。

【参考文献】
『「不屈の両殿」島津義久・義弘—関ヶ原後も生き抜いた才智と武勇』新名 一仁 著