2022年2月1日火曜日

ドルフィン跡のサッカースタジアムはさすがに無理です。

久々に「オイオイ」と思った。

鹿児島市の下鶴市長が、ドルフィンポート跡につくる鹿児島県の新体育館の隣にサッカースタジアムを作りたいといっている件だ。

しかも、県民の多くが「ぜひあの芝生は残してほしい」と言っているその緑地帯を移設すれば建設できるじゃないか、と主張している。さらに結婚式やコンサートにも使える施設とし、フィットネスクラブやワークスペース、保育施設や高齢者住宅を併設して「稼げるスタジアム」にすることを検討しているという(2月1日付南日本新聞より)。

たぶん、塩田知事がいつも「稼ぐ力」を強調していて、経済政策を重視する立場なので「稼げるスタジアム」と言っているのだろう。

しかしながら、実際に新体育館とスタジアムが併設されることを想像すれば、この計画には無理があることがすぐわかる。両方の施設で大規模イベントが行われることを考えてほしい。駐車場はすぐにいっぱいになり、多くの人は遠くのコインパーキングから歩かなければならない。しかも土地勘のない人にはどこにコインパーキングがあるのかもわからず、空き駐車場を探して街中をさまようことになる。

さらなる問題は帰りの時間だ。イベントの終了後には多くの人が一気に帰るわけで、ただでさえ常態化している夕刻の渋滞はすごいことになるだろう。

覚えている人も多いだろうが、2019年に鹿児島アリーナ(西原商会アリーナ)でB'zのライブがあったことがある。このライブの収容人数が5700人。この時は中央駅からアリーナまで臨時の市営バスがかなりの本数運行されていた。ライブのお客さんはマナーのいい人が多いのか特に混乱があったとは聞いていないが、当日の交通はかなり気が遣われていた印象だ。

それが、下鶴市長が作ろうとしているスタジアムの収容人数は「1万5千人から2万人が最適」だという。この人数が鹿児島県で最も交通量が多い箇所を移動すると思うとゾッとする。スタジアム構想は、景観面や緑地の関係で反対している人も多いが、そもそも交通計画だけを見ても破綻していると思う。

しかし、それすらもこの案件のヤバさの一面でしかない。

それは、これまでの新体育館の検討の経緯を知っている人からすれば明らかだ。

県の新体育館は、現体育館が1960年の建設で老朽化しつつあったため、もともとは1985年~94年度までの10年間に新設する予定だった。ところが、なぜだかこの計画は棚上げされ、2008年に伊藤祐一郎知事(当時)が、県庁東側(与次郎2丁目)に体育館を整備することを表明したことで動き出す。

県庁東側の土地はMBCの所有地だったが、その取得交渉の過程において県有地のドルフィンポート敷地との土地交換が俎上に上がると、伊藤知事は「むしろドルフィン敷地に県体育館を建てた方がいいのでは」と心変わりし、計画を拡大して「スーパーアリーナ」と呼ばれる構想を発表した。これが2013年。

「スーパーアリーナ」は「飲食店や展望スペースを備え、イベント会場としても利用できる、多くの人々が集う機能を有した総合的な施設」だということだった。ところがこの案は空から降ってきたような話で、内容の是非以前に唐突なことだったため県民の理解が得られず2015年に撤回。

2017年には三田園知事(当時)が、事実上凍結されていた新県体育館を早期整備することを表明し、2018年には鹿児島中央駅西口の県工業試験場跡地(武1丁目)を候補地として表明する。

しかしここには交通上の問題が大きく、しかも十分な駐車場が設けられないという致命的な問題があって断念。それで話が戻ってきて、やはり県庁東側はどうか? いや、県農業試験場跡地(谷山)はどうか? と議論が錯綜。結局、2019年には「県庁東側が現実的」としてMBCとの土地の譲渡交渉に入ったところを止めたのが現塩田知事だった。

塩田知事は、これまでの検討経緯が「土地ありき」のもので、「どのような施設が必要なのか」という観点からのボトムアッププロセスが欠落していたことを踏まえ、検討委員会を設けて改めて検討させた。そして委員会があるべき施設の姿を示し、それに応じて候補地を評価して選出されたのが「ドルフィンポート跡地」だった。

私自身は、ドルフィン跡は正直なところ交通の問題など考えても良策とは思えないが、それでも一応公開での議論の下で、透明性をもって検討したことは評価したい。そもそも新県体育館の方針が二転三転したのは、伊藤知事・三田園知事がどちらも「県立体育館をどこに作るかは俺が決める」みたいなことを言っていたためだ。

ここから導かれる教訓は、「県民の施設を、知事の一存でつくるようではダメ」ということに尽きるだろう。

ところが! 下鶴市長はこの経緯を全くご存じないと見える。スタジアム建設は下鶴市長の肝煎りなのでヤル気があるのは理解するが、全く内実が伴っていない。まさに伊藤知事・三田園知事の失敗の二の轍を踏んでいるようだ。

しかもその構想は伊藤知事の「スーパーアリーナ」と極めて近い。核心部分の価値があやふやだから、「これにも使えるしあれにも使える」と計画を肥大させただけのように見える。逆に本当にスタジアムが必要なのか疑問になってきた。

下鶴市長のスタジアム案は、「首長主導」「土地ありき」「あれこれ盛り込む」という、これまでの県体育館構想のダメなところだけを集めて作ったものだとすらいえると思う。

私は南さつま市民である。本来は、下鶴市長のやることにアレコレいうべきではないのかもしれない。しかし県体育館の隣にスタジアムができるとなれば、少なからず影響を受ける。下鶴市長は、これまでの県体育館建設のゴタゴタの経緯を踏まえた上で、わが身を鏡で見てほしい。

2022年1月1日土曜日

新年の忙しいアピール

謹んで新年のお慶びを申し上げます(…と書いたが、喪中なので書いてはいけないのかもしれない…?)。

この2年ほど、こちらのブログがすっかり疎かになってしまった。「書くことがなくなったんじゃないの?」と思っている人も多いと思うが、実はそんなことはなく、…いや、まあちょっとはそれもあるかもしれないが、主な原因は書く時間がないことである。

昨年は、クラウドファンディングで資金を募って「古民家ブックカフェ」を開店させたので、それにもかなり時間を使った。

※クラウドファンディングでご支援いただいた皆様で「まだ返礼品が届かないぞ!」と思っている方もいらっしゃると思いますが、こちらの事情で一斉に送付できておりませんのでもうしばらくお待ち下さい。すみません。

それから、今年度は小学校のPTA会長もやっているし、その前から農業委員会の仕事(正確には農業委員会の農地利用最適化推進委員)もやっていて、なんだか細々とした用事がいろいろと襲ってきている感じである。

ついでに、今は(昨年10月〜1月まで)南日本新聞の読者モニターも務めている。これは「南日本新聞を読んで」というコーナーに月1回投稿するもので、このブログを読んでなのか何なのか、新聞社の方から依頼してきたものである(ちゃんと原稿料も出る)。最初は「月一回の投稿だからそんなに大変じゃないでしょ」と思っていたが、やはりちゃんとしたものを書くには、新聞を毎日しっかり読まないといけないので思ったより負担だった。

ついでに書くと、新聞に毎月載れば何か反響があるだろうと思っていたが、意外と何も反響がないので拍子抜けしている(笑)まあそんなもんか。

それからもう一つ、昨年は「やうやう」という大隅(鹿屋)で創刊されたフリーペーパーで連載を持つことになり、2ヶ月に1回くらいのペースで原稿を書くようになった。連載のテーマは「バッハ以後のフーガ250年の歴史」。誰が読む連載なのか自分でもわからないマニアックなテーマである(ただし、今はまだマニアックな話題には到達していない(笑))。

【参考】バッハ以後のフーガ250年の歴史
https://fugue-after-bach.blogspot.com/
※フリーペーパーに掲載後しばらくしてから転載しています。

そして実は、最近私の時間を奪ってきたことがもう一つある。それは、本の出版である。まだ詳細は伝えることができないが、某中堅出版社から本を出版することになった。それでこの数ヶ月は原稿の整理やら校正やらで時間を取られていた。

内容は、このブログで「なぜ鹿児島には神代三陵が全てあるのか?」というタイトルで連載していたもの。もちろんブログに書いたままではなく、ブログを元にまとめ直したものである。最初は地元出版社に出版を打診したものの、「かなり専門的なので中央の出版社に持っていった方がいいんじゃないか」ということで持ち込みし(といっても電子メールで送っただけですけど)、驚くべきことに一社目で出版が決まった。

そんなわけで、今年は本を出す予定である。これは私も以前から目標にしていたことなので非常に嬉しい。ただ、そのためにもっと忙しくはなりそうである。

と、いうように、こんなブログでも、書いているといろいろ発展があるものだ。もうちょっと積極的に書いていった方がいいかもしれない。

というわけで今年もよろしくお願いいたします。

2021年12月31日金曜日

元寺と今寺、宝福寺の拡大——宝福寺の歴史と茶栽培(その3)


前回からのつづき)

覚卍が無一物の暮らしを貫いていたとすれば、宝福寺での衣食住はどうまかなわれていたのだろうか。覚卍自身は「寒暑を避けず、草を編み衣となし、飢えれば則ち菓蓏を食べる」という自然と一体化した生活が出来たとしても、その頃の宝福寺には覚卍を慕ってきた人々が三渓を為すほど多く、しかも彼らは覚卍と同様の頭陀行に徹していた。

しかし覚卍的な自然からの採集生活ができるのは深山幽谷にあってもせいぜい十人程度のものであろう。普通、「頭陀行」と言えば普通は托鉢を示すが、険阻な山奥にある宝福寺から街へ托鉢に出るのは毎日できることではなかったように思われるし、毎日街へ托鉢に行くとすれば山奥で修行する意味も薄い。そう考えると、覚卍の魅力に引かれ多くの人が宝福寺を訪れたことは事実だろうが、覚卍が健在な時にはその滞在は一時的なものであったのだろう。おそらく当時の宝福寺には立派な伽藍もなく、山岳寺院本来の自然と一体化した暮らしが行われていたのではないかと思われる。

だが覚卍という偉大なカリスマの死後、宝福寺はこのような在り方で存続していくことはできなかった。宝福寺は、覚卍の理想とは違う、立派な七堂伽藍を備えた大寺院として発展していくのである。

それを象徴するのが、寺院の移転である。宝福寺には覚卍が開いた「元寺」跡と、移転後の「今寺」跡という二箇所の遺構が残されている。「元寺」にも立派な石積みなどが残されているが、急峻な山に囲まれているところで、大規模な寺院建築には適さず、あまり多くの人が暮らせそうな場所はない。一方「今寺」の方は、同じく山中にあるものの割と平坦な土地が広がっていて、寺院の建設にはずっと適している。宝福寺の経営規模が拡大したため、よりその経営に適した土地に移転したというのが「今寺」の建設であったと考えられる。

とはいえ、それは覚卍の理想を忘れて堕落した結果だということはできない。というのは、宝福寺には覚卍の遺徳を慕って多くの人が訪れていたに違いない。そうした人々全員が覚卍風の頭陀行を行うことは現実的でない以上、覚卍を嗣いだ住持にとっては、集まってくる人々を養っていく手立てを講じる必要があっただろうからだ。覚卍たった一人ならば無一物の暮らしは理想的であったのだろうが、多くの人がその教えを学ぼうとする以上、宝福寺は組織的な経営を行わざるをえなかったのである。

「本寺」から「今寺」への移転は、『川邊名勝誌』や『三国名勝図会』には詳細な記載がないが、『川辺町郷土誌』によれば六代雲岳和尚(天文16年(1547)示寂)の時とされており、経営方針転換後の宝福寺はその規模をさらに拡大させたようである。今の企業と同様に、規模が拡大することでさらに強固な経営基盤が必要となっていくからだ。

こうしてこの時代、宝福寺には急に寄進が続いている。特に七代南室和尚は、日新公(島津忠良)により重んじられたらしく、加世田村小湊の田(10石5合2勺1分)と「中之塩屋一間」、「御分国勧進」(の権利)が寄進されている。特に注目されるのは加世田小湊の塩田「中之塩屋一間」が寄進されていることだ(だだし「一間」がどのくらいの広さ・単位を表すのか不明)。

赤穂の塩田が東大寺の庄園だったように、製塩業と寺院とは古代から深いつながりがある。『川邊名勝誌』に掲載された伝説では、宝福寺が山深い場所にあって塩の入手に苦労しているため日新公は塩田を寄進した、となっているが、そもそも宝福寺と小湊ではかなり距離がある。ほかの寺領が清水にあって宝福寺の近くにあるのに、なぜ宝福寺に小湊の土地を寄進したか。それは宝福寺の経営が拡大し、すでに多くの場所に拠点があったからであろう。そして塩の販売による現金収入が必要だったからではないかと思われる。そしてこうした経営の拡大に伴って宝福寺は各地に末寺を増やしていったのだろう。小湊の「中之塩屋」が寄進されたのが天文21年(1552)。どうやら宝福寺の拡大時期は1500年代半ばからということのようである。

そうして増えていった末寺の一つに、京都伏見の宝福寺がある。これは宝福寺と茶の繋がりを考える上で看過できないことである。伝説的な部分が多いとはいえ、藩政時代における鹿児島の茶産地は全て宇治から茶栽培が伝わったとされているからである。宇治と伏見は目と鼻の先にある。宝福寺には、伏見にあった末寺を通じて茶の栽培が導入されたのではないだろうか。

『川邊名勝誌』によれば、「伏見 宝福寺」は末寺の筆頭に掲げられ、「右開山覚卍禅師開基之寺ニ而御座候」とされている。同誌にはそれ以外の情報はなく、どういった経緯で宝福寺が同名の末寺を伏見に持つに至ったのか不明というほかない。しかしながら、その情報にしても、覚卍が伏見に宝福寺を開くことはまずあり得ない。確かに覚卍は南禅寺時代には京都にいた。しかし転宗して薩摩に帰郷してからは京都に出向いたという記録はなく、また覚卍のライフスタイルから推して考えても京都に出張していくことはないだろう。

実はこの宝福寺は現在でも「久祥山寶福寺(曹洞宗)」として京都市伏見区西大文字町に存続している。この「伏見の宝福寺」に伝わる開基の由来はこうなっている。

【史料四】久祥山寶福寺の「歴史や由緒」(抜粋)
「当寺は、元「瑞応院」と号し、「伏見九郷森村」にあったが、応仁の乱(1467~77)によって兵火に遭い、末寺に寺号を移した。永禄2年(正親町天皇御宇=1559)に、出雲国野﨑浦城主・野﨑従五位備前守(久祥院殿太雄覺山大居士)が国を譲り、当地に閑居して開基となり、「久祥院」と改名し真言宗・冨明法印を開創開山とした。その後、豊臣秀吉公が「伏見九郷」を開拓して文禄3年(1594)に伏見城を築城し、慶長4年(1599)に薩摩国川邉郷曹洞宗寶福寺11代目住職・日孝芳旭大和尚を特請し、曹洞宗開山となり「久祥山寶福禅寺」と改名し、大本山永平寺(福井県・道元禅師開山)と大本山總持寺(神奈川県・瑩山禅師開山)の両本山とする曹洞宗の法脈・法燈を現在も継承している。」

(※久祥山寶福寺WEBサイトより、2021年10月取得 
https://sotozen-navi.com/detail/article_260049_1.html#art1

これによれば、伏見の宝福寺は、元来は瑞応院という真言宗の寺院だったが、慶長4年(1599)に川辺の宝福寺の11代日孝芳旭大和尚により曹洞宗開山となり宝福寺と改称した、ということである。この1599年という年代は、先ほど考察したように川辺の宝福寺の拡大期とも合致している。

ところが川辺に伝わる伝承と食い違うのは、第一に伏見の宝福寺を開基したのが覚卍ではなく「 11代日孝芳旭」という人物になっていること(すなわち開基の年代が大きく異なる)、第二に川辺での伝承では11代は「海雲(または「海雲呑」)という人物であるということだ。これはどのように考えればいいのか。なお11代だけでなくその前後にも「日孝芳旭」という住持は川辺側の記録には存在していないようだ(『川邊名勝誌』および『川辺町郷土誌』に引用された「万延元年寺院由来書上帳」による)。

しかしながら、伏見の宝福寺は現在まで存続しており伝承が連続していると考えられること、開山の人物を間違える可能性は小さいということから、ここでは伏見の宝福寺の伝承の方が正しそうだとしておきたい。日孝芳旭は伏見の宝福寺に移籍したため、川辺の宝福寺の法統から除外されたのかも知れない。

それでは、伏見の宝福寺が曹洞宗として開山した1599年とはどのような時期だったのか、再び茶からは逸れる部分もあるが概観してみることとする。

文禄2年(1593)、天下人・豊臣秀吉は本拠地である大阪城を秀次に譲り、自身は築城中の伏見城(指月伏見城)へ隠居した。しかし同時期、秀吉にとっても思わぬことであったが実子秀頼が誕生したため、伏見城はやがて隠居所の性格が薄れていくこととなる。秀吉は一度は隠居したものの、権力を秀頼に継承させるべく引き続き政務の実権を保持し続けることになったからである。文禄4年(1595)には関白秀次が失脚し一族もろとも処刑され、権力は再び秀吉の一極集中となっていく。

文禄5年(1596)には指月伏見城が同年の慶長大地震で倒壊してしまい、伏見城は北東に1㎞ほど離れた木場山へ全国の大名を動員して再建された。慶長2年(1597)に天主が完成し秀吉が移徙(いし=引っ越し)。この間、伏見には全国の大名屋敷が建築され政治的中心となった。「西尾市岩瀬文庫」収蔵の「伏見図」(慶長年間に製作されたと思われる)によると、伏見城を取り囲むように諸大名の屋敷が配置されているが、このような都市がたった数年という短い期間に造成されたことに驚きを禁じ得ない。秀次失脚の以前は、大名屋敷は秀次の居館である聚楽城の周辺に造営されていたのであるが、秀次失脚の後に聚楽城は派却されてその一部が伏見に移転された。おそらくそれと同時期に大名屋敷も伏見に建築されたのだろう。このようにして、一時期ではあったが伏見は日本の政治的中心になったのである。

慶長3年(1598)、豊臣秀吉が死亡すると伏見城は五大老の筆頭であった徳川家康に引き継がれる。しばらくは豊臣政権は存続の構えを見せたものの、絶対権力者であった秀吉が死亡したことは全国の大名に動揺を与え、島津家でも新たな権力闘争の動きに入っていくことになる。事実、翌1599年には島津家の家老伊集院忠棟が島津忠恒(後の第19代当主島津家久)によって伏見において誅殺されている。伊集院忠棟は島津家の家臣であるとともに、秀吉から直接知行を安堵された「御朱印衆」(つまり秀吉の家臣)でもあり、島津家領国における太閤検地を石田三成とともに推進した人物である。伊集院忠棟を誅殺したことは、島津家として豊臣政権から距離を置こうとしていることの表れといえよう。やや長くなったが伏見の宝福寺が曹洞宗開基となった1599年はこのような時期であった。

先述の「伏見図」では、島津関係として「嶋津但馬守」「嶋津右馬守」「嶋津右馬頭」「嶋津兵庫」の四つの屋敷が掲載されており、宝福寺も「嶋津兵庫(島津義弘)」の屋敷のそばに「禅 寶福寺」としてしっかり書かれている。

この図を見てすぐに理解できることは、秀吉の意向によって急ごしらえで作られた政治都市伏見において寺院の新設が自然発生的に行われるはずもなく、宝福寺の末寺開基にも政策的必要性があったに違いないということだ。ではどのような必要性だったのかということについては残念ながら史料からは明らかでない。

ところで以前から、宝福寺は琉球とのパイプを持っていたらしき形跡がある。「覚卍伝」において宝福寺には「琉球」「筑前」「豊後」の三渓があったとされているが、琉球から多くの人が訪れていたのである。また琉球禅林の祖であり首里円覚寺の開山である芥隠承琥(かいいん・じょうこ)は、琉球渡海前に宝福寺に滞在し覚卍に師事したとされている。16世紀末、文禄・慶長の役後の明との国交回復のために琉球国との外交が非常に重要になっており、そのために伏見の宝福寺が開基されたのかもしれない。しかも、宝福寺はそれ以前からも島津氏によって政治的に利用されていたフシがある。

宝福寺は罪人が幽閉される寺だったようなのである。

(つづく) 

※画像(伏見図)は西尾市岩瀬文庫/古典籍書誌データベースより。注釈は著者が挿入。原図では東が上になっているが、北が上になるよう改変している。

【参考文献】
『「不屈の両殿」島津義久・義弘—関ヶ原後も生き抜いた才智と武勇』新名 一仁 著

2021年12月27日月曜日

パチンコ屋が潰れて、跡地にまたパチンコ屋ができる街

今年のうちに、今年一番のガッカリ、について書いておきたい。

以前、「イケダパン跡地の有効利用」という記事を書いたことがある。加世田の街の中心部に、イケダパン跡地が廃墟化した区画が残っているからそれを有効利用した方がいい、という内容だ。

【参考】
イケダパン跡地の有効利用
https://inakaseikatsu.blogspot.com/2016/01/blog-post_22.html

その跡地は、どういう経緯か知らないが「株式会社正一電気」というところが再開発することとなり、「いろはタウンかせだ」という複合施設が2018年に誕生した。 今ではヤマダ電機を中心にコメダ珈琲、シャトレーゼなどが入った、駐車場350台を擁する施設になっている。

これによってさらに加世田中心部は再開発的機運が高まってきたように見受けられた。

そんな中、「いろはタウン」に隣接するパチンコ屋「T-MAX」が廃業し取り壊された。 実はこの「T-MAX」は、元々はイケダパンが経営していたパチンコ屋を、市丸グループ(鹿児島の企業)が買収したものだ。1985年に買収したそうだから、建物がだいぶ老朽化して廃業したのだろう。この由来を考えれば、「T-MAX」の取り壊しはイケダパン跡地有効利用の一環であるように思われた。

「T-MAX」の取り壊しに続いて、新たに店舗が建設される工事が始まった。

私は、どんなお店ができるのだろうと楽しみにしていた。「けっこうお店は大きい。駐車場らしき建物も大きそうだ。いろはタウンと同じような複合施設だろうか…」と建設工事を見るたびに期待を膨らませたものである。

ところが!!

なんとオープンしたのは、またパチンコ屋「イエスランド」だったのである…!! パチンコ屋が潰れて、またパチンコ屋ができた。そんなことってアリかよ。

いや、何も私はパチンコをひどく毛嫌いしているわけではない。もちろんあまり誉められた娯楽ではないと思うし、私自身は全くやらないが、節度を持って楽しむならば無害な遊興なのかもしれない。

だが、加世田には既にパチンコ屋が林立しているのである。街の中心部にあり、もはやランドマーク的な存在感がある「モリナガ」、ニシムタの裏手にある「ダイナム」、本町の「京極」とモリナガの近くにある「ライト京極」といったパチンコ屋が犇めいているのだ。

その上、パチンコ 559台/スロット 232台で地域最大の規模の「イエスランド」が参戦したわけだ。連日駐車場もいっぱいで繁盛しているように見える。すっかり飽和しているのかと思っていた加世田のパチンコ界が、意外な需要を抱えていたことを気づかされると共に、いろんな意味でガッカリしたのが正直なところだ。

ちなみに「イエスランド」を含め、加世田にあるパチンコ・スロットの数を合計すると、

パチンコ  1646台/スロット 722台 合計2368台

にも上る(私調べ)。南さつま市の人口は32,946人(2021年11月末時点)。このうち、未成年がだいたい5000人くらいいるので、成人人口に対してほぼ10%の数のパチンコ・スロット台があるということになる。これはさすがに多すぎではないか。

もちろんこれは、パチンコ屋のせいではないのである。これだけのパチンコ屋に行く人がいる、という事実がパチンコ屋を呼び寄せているのだ。

私は、人生には無駄が必要である、と常々思っている。パチンコやスロットに費やす金は無駄だとは思うが、アウトドアやスポーツなどのもっと健全なレクリエーションだって無駄だし、極論を言えば読書だって無駄だと思う。しかしこのパチンコ・スロットの数を考えると、街ぐるみで随分な無駄遣いをしているということになりはしないか。

「お金は賢く使いましょう!」なんてつまらないが、それにしても、うーん、「もうちょっと前向きなことにお金を使った方がよくありませんか…」と思っちゃうのである。

日本は今、急速に貧しくなりつつある。この25年ほど、ほぼ全く経済成長していないのだから、世界の国々に置いて行かれるのは当然だ。とはいえ同時に、社会に全くお金がないというわけでもない。現に南さつま市も、高齢化と人口減少に喘ぐ典型的な崖っぷちの街ではあるが、まだまだ2368台のパチンコ・スロット台を支えていける経済的余力は持っていることになる。

問題は、その「余力」をどう使うか、ということだ。これは日本全体にも言える。貧しくなりつつある中だからこそ、未来を創ることにお金を使いたい。

いや、「未来を創る」なんて大げさでなくて、もっと正直に言えば、今でも十分多いパチンコ屋より、街にないものが欲しかった。発想がつまらねーと思うかもしれないが「スターバックス」 「無印良品」「ケンタッキーフライドチキン」「餃子の王将」…そういう店だった方がまだずっと嬉しかった。

都会にいる人は、こういうフランチャイズの店が地方都市を画一化して、さらに衰退を早めることになる、と思うだろう。それはおそらく正しい。でも、そういう店が進出してくる街の方が、パチンコ屋が潰れて、跡地にまたパチンコ屋ができる街よりは、まだ未来がある。

何にお金を使うのか、みんなの選択が街をつくる。

2021年11月30日火曜日

字堂覚卍は茶をもたらしたか——宝福寺の歴史と茶栽培(その2)

前回からの続き)

宝福寺ではいつ頃、どのようにして茶の栽培が始まったのだろうか。

それを示す直接的な史料は今のところ見出すことができないため、いくつかあり得そうな道筋を考察してみたい。まずは、宝福寺の開基である字堂覚卍(じどう・かくまん)について考えてみる。

字堂覚卍については、『三国名勝図会』(巻之十一)の樋脇の「永禎山玄豊寺」の項に詳細な伝記(以下「覚卍伝」という)が掲載されている。『川邊名勝誌』、『本朝高僧伝』、『延宝伝灯録』にも覚卍の伝記が掲載されているが、これらは全て「覚卍伝」に基づいているようだ。

以下、「覚卍伝」に従って字堂覚卍の生涯を簡単に紹介する(なお「覚卍伝」は、貞享三年(1686)に玄豊寺に建立された石碑に刻まれているもので、覚卍死後約250年を経たものであるから伝説的な要素を割り引いて考える必要がある)。

字堂覚卍は鹿児島に生まれ、幼い頃から大変な俊英だったらしく、京都の南禅寺(臨済宗)で椿庭海寿(ちんてい・かいじゅ)に二十余年学び、応永9年(1402)帰郷した。覚卍は「日置郡藤氏」の家系らしいがその父母の名は明らかでない。家格的な後ろ盾がないにもかかわらず臨済宗における最高の寺である南禅寺(五山十刹制度における「五山之上」。足利義満以前は「五山第一」)に入ったということは、覚卍その人の力量が抜きんでたものだったのだろう。

ところが、帰郷した覚卍はエリートコースを捨てる。臨済宗の教えは覚卍を満足させることはできなかった。覚卍は「破鞋(はあい)庵」—破れわらじ—という庵を結んで世捨て人同然の暮らしをした。その時の偈にはこうある。「人有り、若し意の何如んと問えば、推し出す秦時の轆轢鑽(たくらくさん)。」これは、「どうしてあなたほどの人がそんなところにいるんですか? と問う人がいたら、無用の長物が押し出されただけだよと答えよう」というような意味である(秦時の轆轢鑽=役に立たない品を意味する禅語)。「破鞋庵」の楣(まぐさ)(出入り口の上部に取り付けた横木)にも、「秦鑽」(「秦時の轆轢鑽」を約めた言葉)と書いていた。南禅寺で二十余年修行して禅を究めたはずの覚卍は、自分を役立たずだと言っていたのである。この偈を不審に思った竹居正猷(ちくご・しょうゆう)(妙円寺・福昌寺第二世)がその意を尋ねたところ、覚卍は「私は道を理解せず、禅を理解せず、いたずらに“馬の角と亀の毛”(=存在しないものの譬え)を論じるだけの人間になってしまった」と答えたという。この頃の覚卍は生きる道を見失い、自嘲気味になっていたようである。

その後、覚卍は樋脇に移り玄豊寺を開く。なぜ世捨て人となった覚卍が寺を開基したのかは詳らかでない。その後、覚卍の人生は再び動き出す。加賀(石川県)の瑞川寺(曹洞宗)に行き竹窓智厳(ちくそう・ちごん)に学んだのである。南禅寺で臨済禅を学び、かえって道を見失った覚卍は、今度は曹洞禅を学んだ。同じ禅宗でも臨済宗は体制派的であり、曹洞宗は在野的である。この転宗によって覚卍は何かを摑んだように見える。そして応永21年(1414)、竹窓智厳の法を嗣いで帰郷した。覚卍は58歳になっていた。

帰郷した覚卍は烏帽子岳に住んでまたしても世捨て人的な生活をし、毎夜漁り火が見えるのを嫌って、より山奥の川辺の熊ヶ嶽に移ってきた、熊ヶ嶽でも「寒暑を避けず、草を編み衣となし、飢えれば則ち菓蓏(から)(木の実と草の実)を食べる」という生活をしたが、通りがかった猟人藤田氏が覚卍の行いに感銘を受け、覚卍のために庵を建てたのが宝福寺の始まりとなった。『川邊名勝誌』では応永29年(1422)が開基の年ということになっている。

その後、覚卍の声望はつとに高まり、非常に多くの人が覚卍を慕ってやってきた。宝福寺には「琉球」「筑前」「豊後」と名付けられた谷(三渓)があって、そこにはそれぞれの出身者がまとまって住んでいたということである。福昌寺第三世住持の仲翁守邦(ちゅうおう・しゅほう)もその徳を聞いて話を聞きにやってきた。先ほどの竹居正猷もそうだが、仲翁守邦も当時の薩摩における曹洞宗の最高権威である。わざわざ覚卍の話を聞きに熊ヶ嶽までやってくるというのは、覚卍の声望が非常に高かったことを物語る。それに対し、覚卍は次の偈を以て応えた。

玉龍は奮迅として烟霞に出ず、下りて訪う南山の瞥(ママ)鼻蛇。
碧漢は霈然(はいぜん)として法雨を傾け、寒林枯木、盡(ことごと)く花開く

この偈は当時の覚卍の心境を伝える数少ないものであるから、少し意味を繙いてみたい。現代語に翻訳すれば次のようになる。「玉龍が勢いよく、もうもうとした霞の中から出てきて、天から下り“南山の鼈鼻蛇(べっびだ)”を訪ねてきました。天(碧漢)はざあざあと法の雨を降らし、冬枯れの寒林枯木が悉く花開いております。」

「玉龍」とは言うまでもなく玉龍山福昌寺の仲翁守邦のこと。「南山の鼈鼻蛇」とは、『碧巌録』第二十二則に出てくる言葉で、スッポンのように鼻がつぶれた毒蛇(コブラ?)のことらしい。「鼈鼻蛇」が何の比喩なのかはいろいろな考えがあるが、要するに自らの中にいる怪物、迷いに覆われた「真実の自己」、といったようなものであると考えられている。覚卍は自分を「南山の鼈鼻蛇」に譬えた。「この迷妄の怪物のところへ、よく訪ねてきてくださいました」というところか。かつて自分を「秦時の轆轢鑽」に譬えた覚卍は、今度は自分を「毒蛇」と言っているのである。そして次の行の「寒林枯木」も覚卍が自身を重ねた言葉かもしれない。「大自然の中で仏の慈悲に包まれ、“寒林枯木”にも花が咲きました」という。同じ無一物の世捨て人的な暮らしであっても、破鞋庵時代とはちょっと雰囲気が違う。かつての自嘲気味な態度は消えてなくなり、自分が「鼈鼻蛇」「寒林枯木」であることを楽しんでいる様子すら感じられる。

こうして覚卍は永享9年(1437)に81歳で死亡した。そこから逆算すると、覚卍の生没年は1358〜1437年ということになる。

なお、瑞川寺が開かれたのは応永20年(1413)であるが、覚卍が法を嗣いだ58歳の時は1414年頃だから、創建間もない瑞川寺に行って一年しか修行せず法を嗣いだということになる。南禅寺で二十数年修行したのに比べると随分短い修行期間のような気がする。

ちなみに、瑞川寺を開いたのは竹窓智厳の師匠にあたる了堂真覚(りょうどう・しんがく)であるが、『三国名勝図会』によれば、了堂真覚は市来氏に招かれ永和3年(1377)に市来の大里に萬年山金鐘寺(曹洞宗)を開基している。この金鐘寺は能登の総持寺の直末であったという。そして金鐘寺の二世となったのが竹窓智厳であり、加賀の瑞川寺はこの金鐘寺の末寺だったということである。なお宝福寺ははじめ瑞川寺の末寺であり、瑞川寺が破壊された後は金鐘寺の末寺となったという。

これらの事実関係は『三国名勝図会』以外の資料で跡づけることができないが、それを信頼するとすれば、覚卍は市来の金鐘寺で竹窓智厳や了堂真覚と出会い、臨済宗から曹洞宗に転宗して、瑞川寺の創建に伴って竹窓智厳と共に加賀へゆき、法を嗣いで帰郷したと考えるのが自然である。そうすれば瑞川寺での異常に短い修行期間も説明がつく。

また、了堂真覚と字堂覚卍という名前の類似を考えると、覚卍が禅への不信を乗り越え、再び禅の道に入ったきっかけはむしろ了堂真覚にあったように想像したくなる。「字堂」という法号は(ひょっとすると覚卍という諱も)了堂真覚によって与えられたものではないだろうか。覚卍は南禅寺時代と名前が変わっている可能性がある。

話がやや脇道に逸れたが、ともかく川辺の宝福寺を開基した字堂覚卍は、室町時代初期を生きた人物で、臨済宗から曹洞宗に転宗した僧侶、ということである。

覚卍が生きた時代、京都の寺院では闘茶といって茶の銘柄を当てる賭け事が流行していた。そしてこの頃、茶の栽培はほとんど寺院か寺院領の庄園で行われていたと考えられている。このことを踏まえると、覚卍は南禅寺時代に喫茶および茶栽培を知り、それを川辺の宝福寺にもたらしたと考えることはできないだろうか。

しかしそのようには考えられない理由がいくつかある。

第一に、その行状を見る限り、覚卍は賭け事の闘茶にうつつを抜かすような人物には思えないということである。南禅寺での修行を終えて破鞋庵を結んだ時も、川辺に来てからも、無一物を貫く清貧な暮らしをしており、むしろ闘茶のような遊興を嫌っていたと考えるのが自然だろう。

第二に、覚卍は徹底して「頭陀(ずだ)行(=托鉢行)」を実践しており、茶であれほかの農産物であれ、自ら生産などを行うことは考えられないということだ。「覚卍伝」によれば、八代当主島津久豊とその子忠国は覚卍に帰依し、宝福寺に「腴田(ひでん)(肥沃な田)を寄進したい」と申し出たものの、覚卍はこれを固辞し、「仏勅に遵い、頭陀を行う、以て其の身を終えん」と答えたそうである。そしてそれは覚卍のみならず、宝福寺の寺衆は皆それに倣っているということだ。中世においては、寺は寺地や庄園を持って生産活動を行い、一般よりも進んだ経済を営んでいたのであるが、宝福寺ではそのような生産活動は一切否定され、無一物を理想とする仏道修行が行われていた。それを考えると、嗜好品である茶の栽培を手がけるということは覚卍にはありえそうもないことだ。

そして第三に、もし覚卍が茶栽培をもたらしたとすれば、「覚卍伝」にそのことが書いていないのは不自然だということである。「覚卍伝」には多分に伝説的な事項を含めその生涯が述べられている。仮に覚卍が茶の栽培をもたらしていないとしても、そうした伝説を覚卍に付託してもおかしくないほどである。そう考えると、宝福寺での茶栽培は「覚卍伝」の撰述(=1686)の近過去に始まったことと認識されていて、とても覚卍まで遡らせることはできなかったのではないだろうか。

以上をまとめると、覚卍が宝福寺に茶栽培をもたらした可能性はほとんどないと結論づけることができる。

(つづく)

【参考文献】
伊吹敦『禅の歴史』
※冒頭の法統系図は『禅の歴史』所収の系図より抜粋し、覚卍関係を著者が追記して作成しました。

2021年11月26日金曜日

宝福寺での茶栽培の記録——宝福寺の歴史と茶栽培(その1)

南九州市川辺町清水には、かつて忠徳山宝福寺(曹洞宗)という寺があった。

宝福寺は「山ん寺」として知られた大きな寺院で、往時はお茶が栽培されていたという。その廃寺跡(今寺跡)には、その頃の名残と見られるチャノキが今でも自生しており、このチャノキは中国から渡ってきた原種の形質を保っていると言われている。しかしながら、宝福寺での茶の生産は記録が残っていないためよくわからないことが多い。そこで、既出の情報を整理し、宝福寺の歴史を振り返ってその茶生産がどのように始まったのかを推測してみたい。

まず、藩政時代(またはそれ以前)に宝福寺で茶栽培がされていたことを示す一次史料を見つけることはできなかった。編纂ものとしても、例えば江戸時代後期に編纂された『三国名勝図会』には宝福寺の項目があるが、茶が栽培されていたとは一言も書いていない。その記載の出典である『川邊名勝誌』も同様である。宝福寺跡にチャノキが自生している以上、かつての宝福寺で茶が栽培されていたことは確実と思われるが、名勝誌等になぜ記載がないのかは謎である。

次の二つの史料は、近現代の編纂ものだが宝福寺(または川辺)での茶の生産・流通について触れている。なお文章番号は便宜的につけた(以後同じ)。

【史料一】『川邊村郷土誌』
(一)「延享年間(二四〇四※)煎茶蒸茶各々少し宛(ずつ)江戸御用として買入度に付風味茶として差出べき様寶福寺に申付けらる」
(二)「寛政九年(二四五七)二月十五日茶園仕立方被仰渡候に付苗木二千三百八十株を新に植附其旨届出たり」
(三)「文久三年(二五二二)正月町名子源右衛門の子與八へ茶、卵一手買ひ纏め方差許され錢四十二貫文宛上納することを許可せらる」
(※原文ママ。皇紀による換算。以下同様。西暦換算では、延享年間=1744〜47年、寛政九年=1797年、文久三年=1863年。)
【史料二】『川辺町郷土誌』
(一)「熊ヶ岳の宝福寺では茶を毎年藩に上納して銭一貫文ずつを賜ったという」

これらの記載は、郷土誌編纂の際に何かの史料から抜き出したものと考えられるが、その原典を探し出すことが出来なかった。『旧記雑録』ではないかと考え、該当の年代を一ページずつめくりながら確認してみたがこれらの記事は存在していないようだ。原典史料をご存じの方は御高教いただけると有り難い。

原典史料が不明であるため、本来はこれらの記述はいくらか留保して考えなければならない。正確に原典を転記していないかもしれないし、原典史料の信頼性が低いかもしれない。しかし郷土誌編纂時には多くの人がチェックしたはずであり、ある程度確かなものとみなせると思う。

またこの他、【史料二】には、直接宝福寺に言及したものではないが次の記述がある。

【史料二】『川辺町郷土誌』
(二)「万治元年(一六五八)の検地では、田部田村に茶一斤二百三十匁が記録され、享保九年(一七二四)の内検では両添村に茶九十匁を生産したことになっている」
これらの記述から宝福寺での茶栽培について読み取れることを少し考えてみたい。

まず【史料一】(一)では、延享年間(1744〜47)に「煎茶蒸茶」を「江戸御用」として買い上げたいので「風味茶」を宝福寺に差し出すよう申しつけている。「江戸御用」が、江戸の藩邸における藩主の「御用茶」なのか、将軍に献上する「将軍家御用茶」なのか判然としないが、いずれにしても最高級品の茶が求められることは間違いない。当時の宝福寺では、薩摩藩内において最高級品の茶が生産されていたということになる。ちなみに、鹿児島県内で同じく茶が栽培されていた寺院として吉松の般若寺(真言宗)が知られている。『三国名勝図会』の「吉松」の項(巻之四十一)には次の記載がある。

【史料三】『三国名勝図会』(巻之四十一)
(一)[物産]「茶 當郷諸村の内に多く産す、名品種々あり、本藩の内、茶の名品は吉松、都城、阿久根を以て、上品とす、其の内にても吉松の産は、往古より特に久しく名品を出す、凡そ當郷の地は、茶性に相愜(かな)ひ、茶種を蒔ざれども、山林の間、天然に生じ易し、その名産ある推て知るべし」
(二)[般若寺]「茶園 當寺の境内に多し、名品にして、世に是を賞美す、名を朝日の森と呼へり」

『三国名勝図会』編纂の時点(天保期(1831〜45))では、既に宝福寺の茶は名品ではなくなっていたということなのか、または地域の特産品と呼べるものではなかったからなのか、宝福寺の茶についてはこの記事では触れていない。

なお【史料一】(一)の「煎茶」と「蒸茶」の違いはよくわからないが、少なくともこの頃の宝福寺のお茶は抹茶ではなかったようである(全国的な趨勢としても江戸時代には煎茶が一般的になっていた)。

次に【史料一】(二)を見ると、寛政九年(1797)に茶園の仕立て方について藩から申し渡しがあり、苗木2380株を新に植え付けた旨を届け出ている。これは宝福寺の茶栽培が実質的には藩の支配下にあることを示している。実際、それから数年後の文化期(1804〜18)には、薩摩藩は茶を藩の専売事業に位置づけ、この頃から藩の強力な奨励がなされている。しかしながらこれは逆にいえば自由な取引を禁じることでもあったので、あまりうまくいかなかったと言われている(以上『鹿児島県茶業史』による)。

また茶の苗木を2380株植え付けたということについては、当時は今のような密植が行われることはなかったと考えられるし、現代の茶園の標準的な植え付け本数が反当たり1500〜2000株であることを踏まえると、2反(20a)ほども増産したように見受けられる。機械化が進んだ現代ではこの程度の増産は容易だが、当時は全てが手作業であるためかなり力を入れた新植だったと思われる。

次に【史料一】(三)では、文久三年(1863)に町人と見られる与八が茶・卵の「一手買い」、つまり独占的な買い占めの権利を得て、その許可料が年銭42貫文だったとしている。これは宝福寺の茶とは書いていないので、ここで与八が「一手買い」を許された茶がどこで生産されたものだったのかは明確ではない。しかしながら、薩摩藩では茶を専売品にする以前から、茶には高額な税金がかけられていたので、民間の換金作物としてはあまり生産されていなかったと考えられる。また薩摩藩では、この記事の三年前である万延元年(1860)に茶の専売制度を解いて自由販売品にしている(『鹿児島県茶業史』)。そうした状況証拠からすれば、この記事は町人の与八が宝福寺の茶の卸売りの権利を得たというように読めると思う。

ところで【史料二】(一)では、年代不明ながら宝福寺では毎年藩に茶を上納し「銭一貫文」を賜ったというが、銭一貫文とは銭貨1000文のことで、現代の貨幣価値にするとだいたい1万円強になる。江戸時代のどのあたりを換算の基準にするかにより上下するるにしても、たいした金額ではない。文久三年(1863)に与八が茶の一手買いの権利を年額42貫文で手に入れたのを見ても、藩から下賜される金額としてはいかにも小さい。これは史料の誤記ではないかと考えられる。

最後に【史料二】(二)では、これらの資料中で最も古い年代である万治元年(1658)に、田部田村では茶が一斤230匁=約1.5kgが生産されていたと述べている。田部田村の検地結果であり宝福寺の茶生産ではないが、近世以前において茶の栽培が寺院を中心に行われていたことを考えると、宝福寺での茶栽培はこれに先駆けることは間違いないように思われる。

これまでの史料をまとめると次のように言うことができる。即ち「宝福寺の茶は少なくとも江戸時代の初期には栽培されており、江戸時代半ばには藩内における最高級品であった。しかしやがて『三国名勝図会』等でも特筆されるものではなくなっていき、十八世紀末には藩の強い統制を受けて増産するものの、やがて販売自由化された」ということになろう。そして明治初期の廃仏毀釈によって宝福寺が廃寺になることによって茶栽培も終了したのである。

(つづく)

【参考文献】
『鹿児島県茶業史』1986年、鹿児島県茶業振興連絡協議会編

 ※冒頭写真は宝福寺跡に今も自生するチャノキ

2021年11月11日木曜日

南さつま市議選。政策を「選挙公報」から見る

南さつま市議会議員選挙が行われる。この過疎地大浦町でも、(意外にも)連日街宣車が走り回っている。

前回、前々回の市議選では、私は議会の一般質問の数から議員の働きぶりを見てみる、という記事を書いた。

【参考】
「立候補しなかった人」の責任 (2017年)
「南さつま市 市議会だより」で市議の働きぶりを垣間見る (2013年)

しかし今回は有り難いことに約半数が新人の立候補である。これまでの議員の働きぶりを見るのにも意味はあるが、今回のように新人が多い場合には選挙への向き合い方としては偏っているので、今回は一般質問の数の分析は辞めることにする。

ところで、先日ある立候補者の方が、「市議選ももっと政策論をしなきゃならないのに、そういう話が全然無いのはよくないですよね〜」とぼやいていた。ところが、この人自身が街宣車での呼びかけばかりで、全然政策論を言わないので「そう思うならまず自分がしてくださいよ」と言ってしまった(笑)

でも、ここのような田舎町の市議選だと、実際ほとんど政策論など出てこない。まず市長の力が強大なので市議の力で実現できる政策があまりないということがあるし、選挙活動のメインが電話での投票依頼だから、ということもある。

そういうやり方がそれなりに働いていた時代はあったにしろ、「地方創生」が叫ばれている現在、市民→市議→市政というボトムアップ型のまちづくりが重要になってくると思う。となると、やはり市議の持っている政策的方向性はしっかり見た上で投票したい。

ところが先述のとおり選挙運動といえば「皆様お疲れさまです。○○をぜひよろしくお願いします。南さつま市のために頑張ります」みたいな街宣しかないので、どうも政策が分からない…と思っていたところ、「選挙公報があるじゃないか」ということに気づいた。

選挙公報には街宣車では言わない(正確には公選法の規定で「言えない」)いろんなことが書いてある。投票に当たってかなり参考になりそうだ。というわけで選挙公報から各候補の掲げる政策を全部抜き出そうとしたが、そうするとあまりに長くなるし、候補毎に記述のスタイルが違いすぎるので、思い切って次の方針でまとめてみることにした。

【方針1】選挙公報で最初に掲げている政策(以下「第一政策」という)を取り上げる
【方針2】スローガン的なもの(住みよい南さつま市へ! とか)や政治家としての理念は政策とみなさない
【方針3】図で表示されていてどれが第一政策なのか不明な場合、左上のものを便宜的にそれとみなす
【方針4】独断と偏見でコメントを付け加える

この方針の下でまとめたのが次の一覧である(届出順)。せっかくまとめたので、皆さんの投票行動に参考になれば幸いである。

坂本 あきひと

【第一政策】魅力ある街づくり
【コメント】そもそもこれが政策なのか迷った。ちなみに次は「スポーツを通した交流活動」だった。

山下 みたけ

【第一政策】ムダを徹底的に省き、行政改革を!
【コメント】これの具体策の一つとして「イベントなどの費用対効果の吟味を徹底」とある。砂の祭典について言っているのかもしれない。

松元 正明

【第一政策】(基本理念のみのため記載無し)
【コメント】基本理念の一番が「変えられないものは変えられないとして受け入れる心!」とあり、これが非常に独特。保守ということが言いたいのだろうか。しかし保守なら普通は「変えてはいけないものは変えない」となりそうなのにちょっと不思議だ。

きじま 修

【第一政策】交通弱者対策
【コメント】紙面では実際には理念の方がずっと大きく表示されていて、理念の1番は「変革する勇気」。松元氏と好対照。

清水 はるお

【第一政策】県内で一番高い介護保険料の引き下げを!
【コメント】これはずっと清水氏が主張してきたことである。ちなみに他の項目も非常に具体的な提案が多い(例:特老「和楽園」、坊津病院は公営で存続を)。個人的には「超大型洋上風力発電計画は中止」が好印象。

神浦 由美子

【第一政策】より子育てしやすいまちに!
【コメント】具体策の筆頭(と判断できる位置)に「男女共同参画の推進」とあるのがいい(全候補者中唯一)。なお政策ではないが、神浦氏は街宣車を使わずゴミ拾いしながら歩いて選挙活動をしているのがグッド。

竹内 ゆたか

【第一政策】高齢者や子供たちが住みやすい町にする
【コメント】具体策をみてみると、実際には高齢者向けが中心。ちなみに具体策の筆頭は「見守り活動」と「ゴミ収集支援」。

田中 ひろみ

【第一政策】安全で安心して暮らせます(仕事・防災・救急・福祉・教育)
【コメント】カッコ内筆頭に「仕事」とあるが、これは安全・安心とどう繋がっているのかよくわからない。ちなみにこの方は阿多自主防災組織会長・阿多消防協力会長らしく、防災には力を入れているようだ。

小園 ふじお

【第一政策】なにより、健全財政
【コメント】健全財政を強く訴えているのは小園氏のみ。そのうえ「なにより」とつけているのが特徴的。こういう方も議会には一人はいないといけないという感じがする。

おつじ さちお

【第一政策】子どもの見守り
【コメント】これに続いて「児童虐待、ネグレクト、いじめから子どもを守る環境を作っていきます」とあり、普通は「子育てしやすい環境づくり」とかなのに、厳しい境遇にある子どもを守ろうということを第一に掲げているのが目を引く。個人的な経験からきたものなのかもしれない。

すわ 昌一

【第一政策】(基本理念のみのため記載無し)
【コメント】「密を避けるためマイク要員をお願いしていません」等、コロナ禍対応の選挙活動をすると書いているのが特徴。

ひらがみ 純子

【第一政策】市民の感覚を忘れません
【コメント】これは「私の約束」とされておりこれが政策なのか微妙だが、2番目が「女性や弱者、少数派の意見を届けます」なので政策と判断した。「私の令和2年度の議員報酬は4,809,217円です。大切な市民の税金です。4年間の活動を審査してください」と書かれていたのがちゃんと「市民の感覚」を体現している。

神野 たかし

【第一政策】自然災害への防災予算を確保し、「事前防災対策」を
【コメント】2番目には「吹上浜沖洋上風力発電事業計画中止」が掲げられている。この方は当該事業への反対署名を集めた団体の事務局長を務めている。

石原 てつろう

【第一政策】第一次産業の育成を図ります
【コメント】ちなみにその具体策の一つは「特産物の販売促進に力を入れます」。全体的に非常にすっきりと重点政策がまとまっている見本のような選挙公報。

上野 あきら

【第一政策】農業を基本とした地域づくり
【コメント】候補者の本業は茶農家のようだ。「農業を基本とした地域づくり」が何を示しているのかいまいちわからないが、農家が中心になって地域おこしをしようということのように思われる。 

上村 研一

【第一政策】「コロナ災禍」分散型社会への転換時期
【コメント】全候補者中、おそらく最も文字数が多く、いろいろな分野のことが非常に短い言葉で書いてある。

大原 としひろ

【第一政策】子育て支援
【コメント】ただし政策列挙の前の文では「コロナ禍を乗り越えることが喫緊のテーマ」としており、何が第一政策なのか判断に迷った。

小薗 いくや

【第一政策】健康で安心できる暮らしの明日を考える
【コメント】「ふるさとの明日を考え、提案します」ということなので、政策というよりはこれからジックリ考えていきたいということなのかもしれない。

かとう あきら

【第一政策】より子育て世代にやさしい市へ
【コメント】全候補者中、唯一ちゃんとしたWEBサイトを開設していて、総花的であるが政策がしっかり掲載されている。職業が「冒険家」でぶっとんでいるのに内容は王道(笑)

くろせ 家盛

【第一政策】一次産業(農林水産業)の振興
【コメント】全候補者中、唯一の漁協関連の人。政策とは関係ないが、名前の「家盛」を何と読むのかわからない。名字じゃなくて名前の方をひらがなにすればよかったのにと思った。


以上、候補者20名の選挙公報を熟読した結果である。これまで選挙公報は「みんな似たようなことが書いてある」と思っていたが(いや、実際大同小異なのだが)、熟読してみると意外と個性が出ていて面白いと思った。みなさんにも選挙公報を熟読するのを勧めたいと思う。

なお、上記の一覧について、私が恣意的にまとめている部分があるんじゃないかと思った人もいるかもしれない。というわけで、検証のために選挙公報のコピーを掲載する(※順不同)。ただし公選法において、選挙公報をネットにアップすることの可否がよくわからなかった(そもそも想定されていないような感じ)。もしダメならご指摘いただければ幸いである。