2019年2月24日日曜日

海からやってきた2頭のクジラ

先日、笠沙の小浦に2頭のクジラが打ち上がった。

下の娘がクジラを見てみたいというので保育園から海岸まで直行。正確な場所は聞いていなかったが、行けば人だかりがあるだろうとタカをくくって進むと、果たして大勢の人が集まっているところがある。自宅から車で15分ばかりの岩場に巨大なクジラが横たわっていた。

クジラは大きい、と頭で分かってはいても、実際間近で見るのは初めてで、大きさに圧倒された。あまりにも大きいので、逆にリアリティが感じられないほどだ。20m弱のマッコウクジラで、重さは40トンくらいではないかという話だった。

クジラは、発見された時には既に死んでいたそうだ。こういう巨大なクジラは、浮力で体を支えなくては自らの重みに耐えられないため、陸に上がると体が押しつぶされ死んでしまうのだという。それとも元々病気で弱っていて打ち上げられたんだろうか。

娘たちは、意外とケロっとしているように見えたが、次の日、上の娘は過去最長の日記を書いていた。やはり、強烈な印象を与えたのかもしれない。そして、下の娘が夜の読み聞かせに読んでもらおうと本棚からとってきたのが『海に帰った4頭のクジラ』という絵本。私自身、この本を読みながら、なぜか感極まって泣きそうになってしまった。

『海に帰った4頭のクジラ』
『海に帰った4頭のクジラ』はニュージーランドのダニーデンという港町で実際にあった出来事を描いている。ある日11頭のヒレナガゴンドウという小型のクジラが海岸に打ち上げられ、それを町のみんなで力を合わせて救出するという話である。クジラを海に返していくシーンが特にいい。みんな、へとへとに疲れているなかで大喜びするという描写が、生き物への愛情に溢れていて感動する。

ちなみに、私の住む大浦町でも2002年に14頭のマッコウクジラが漂着し、真冬の大荒れの海でクジラの巨体と格闘し1頭を救出したという事件があった。うちに『海に帰った4頭のクジラ』という絵本があるのも、自分の町でこの事件があったからこそだ。

ちなみに助かったのは1頭だけで、残りの13頭は死亡、その処理にも非常なる苦労があった。後日、13頭の慰霊の意味もこめた「鯨との日々」というモニュメントが建てられ、またさらに数年後、そのうち1頭の骨格標本を展示する「くじらの眠る丘」も作られた。ことの顚末は当時鹿児島新報(今はないローカル新聞社)の記者をしていた方が詳細に書いている。

【参考】クジラ漂着騒動記
http://www5.synapse.ne.jp/kabahiko/newpage426.htm

詳細な記録としては、『鯨との日々 : くじら座礁の記録』という本が公的機関(南薩西部地域振興対策協議会=合併前の市町村連合会みたいなもの)によってまとめられた。またこの事件によって、地域には漂着クジラの処理のノウハウが蓄積し、今回打ち上げられたクジラについては翌日には沖合に仮繋留されたらしい。ものすごい対応の早さである。

だから14頭のクジラ漂着は忘れられたわけではないのだが、しかしこの事件ももう17年も前のことで、子どもたちは直接知らないし、記憶もやがては風化していく。何もかも覚えていられない以上、忘れても仕方ないものといえばそれまでかもしれない。

でも『海に帰った4頭のクジラ』を読んで改めて思った。物言わぬ生き物を助けるということには無上の価値があることで、その経験は次の世代に伝えていくべきなんだと。そのためには、絵本という形態が非常に理に適っているということも。

そんなことで、私が密かに思ったのは、大浦町の14頭のマッコウクジラ漂着の物語を絵本にしたらどうだろうということだ。 今ならまだ当時奮闘した人の話も聞ける。見守っていた人たちの話も聞ける。私自身は新参者の住民なので漂着事件を直接には経験していないが、そういう人たちの話を元にすれば少なくとも何があったかを伝える絵本が書けるんじゃないか。

ただ絵本である以上、絵を描く人を見つけないといけない。それを子どもたちに言ったら、「自分たちが描くから大丈夫だよ」と気軽に言う。

——そんなに簡単に描けるわけないだろ、難しいんだぞ、と言っておいた。

2019年1月26日土曜日

かつ市の「本枯れ黄金だし」を全国に普及させるために

「本枯れ黄金だし」を知っているだろうか?

これ、枕崎のかつ市(中原水産)で売っているいわゆる「だしパック」。30パック入って2000円くらいの商品である。

【参考】本枯れ黄金だし|かつ市
http://www.katsu-ichi.com/ougon-honkare/

最近、うちではこの「本枯れ黄金だし」を切らしてしまって大変困っているのである。枕崎まで買いに行けばいいじゃないか、と言われれば全くその通りである。でも車で30分、往復1時間かかる。私は今柑橘のシーズン真っ最中なので忙しいのである。

しかし誇張ではなく、このだしパックに慣れてしまうと、ちょっと後戻りが出来ない。

私はほぼ毎日料理をしていて、ほとんど毎日味噌汁を作る。料理の中で味噌汁が一番好きなんじゃないかというくらいに味噌汁を作るのだが、どんなに時間がない時でもちゃんと出汁(だし)をとって味噌汁を作る。基本は昆布出汁で、さらにかつお節で取ることも多い(既に削ってあるやつを使うが)。

ところが、 この「本枯れ黄金だし」を使うようになってから、そうした伝統的な方法で出汁を取る習慣が廃れてしまった。それくらい、「本枯れ黄金だし」は次元が違う出汁が取れる。名前の通り黄金色をしていて見た目にも美しく、しかも出汁だけで十分旨い。料理に使うのがもったいないくらいの美味しさである。

「本枯れ黄金だし」がこのまま普及してしまったら、伝統的な手法で出汁を取る人は誰もいなくなってしまうのではないか、と思うほどである。

私が「本枯れ黄金だし」をこうして強力にオススメしているのはなぜかというと、これがもっと売れてもらって、どこででも(特に近所のAコープで)買えるようになってほしい、枕崎までいかなくても済むようになってほしい! と思うからである。

そんなことで、他人事ながら「本枯れ黄金だし」を全国に普及させていく方法を考えていたら、面白い方法を思いついた。

飛行機(特に国際線)の機内サービスドリンクに営業を掛けるというのはどうだろう?

和食がユネスコ世界無形文化遺産になったらしいが、日本を海外から訪れる観光客は、意識して体験しようとしない限り、滞在中に出汁そのものを味わうことはない。だが出汁は和食を特徴付けるものだから、ぜひ体験してもらいたいと思うし、観光客にとっても他ではできない経験になる。だから、機内サービスで「出汁スープ」が出てくればとても意義があるはずだ。もちろん「だしパック」も機内販売したらいい。

ちなみに、ソラシドエアでは既に機内サービスとして「アゴユズスープ」が提供されているらしい。これはあご出汁(とびうおの出汁)に柚子によって風味をつけたものとのこと。しかもソラシドエアの中では人気商品になっているそうである。機内サービスで出汁、というのは荒唐無稽な話ではなさそうだ。

本当に国際線で「本枯れ黄金だし」の「出汁スープ」が提供されるようになれば、観光客からの需要を喚起し、多くの観光地で「だしパック」は売られることになるだろう。そしてそれを起点として全国に広がっていくに違いない。そしたら、うちの近所のAコープでも売られることになるのである(笑)

そうなれば、もう往復1時間かけて「本枯れ黄金だし」を買いに行かずに済む。その上、海外からの観光客が出汁の素晴らしさを手軽に体験できて一石二鳥なのだ(笑)

【参考】
ちなみに、かつ市を率いている中原さんについて以前記事を書いたことがある。
枕崎「かつ市」の中原さん|南薩日乗
https://inakaseikatsu.blogspot.com/2017/04/blog-post.html 

2019年1月14日月曜日

大坪白夢と面高散生

改めて、明けましておめでとうございます。

昨年は、「なぜ鹿児島には神代山陵が全てあるのか」というマイナーなテーマの連載に余暇の全てを使ったため、ごく普通の話題を書くことが全く出来ず、読者の皆様(あんまりいないとは思いますが)には大変退屈な思いをさせました。改めてお詫び申し上げます。

というわけで、今年は肩の凝らない内容の記事も書いていきたいと思います。よろしくお願いいたします。

さて、大浦の亀ヶ丘の頂上、パラグライダー発進所の近くに、「大坪白夢詩碑」がひっそりと建っている。

大坪白夢(おおつぼ・はくむ)というのは、大浦町出身の詩人・俳人・歌人で、「きりしま事件」によって弾圧されたことで知られている。本名は「実夫」。明治42年生まれ、昭和58年歿。鹿児島日報、東京読売新聞社の記者として活躍したそうだ。

大迫 亘『薩摩の兵児大将—ボッケモン先生青春放浪記』という本には、この大坪白夢のことがちょっとだけ出てくる。著者大迫によれば、大坪白夢は「大浦に住み、焼酎を人生の伴侶として詩を書き、女を語り、酔うてはあたりかまわぬ迷惑をまきちらしている」そうだ。「そういう人いるよなー」と眼前に浮かぶような苦笑の描写である。

なぜこの本に大坪白夢が登場するのかというと、著者大迫は加世田で育った悪ガキ中の悪ガキだが、川辺中(現・川辺高校)時代にどういうわけか文学や芸術に興味を持ち、中学4年の時に地域の文学愛好者を集めて『鴻巣(くるす)』という同人雑誌を創刊するのである(鴻巣とは加世田の地名)。その創刊メンバーとして集まった一人が大浦の大坪白夢だった。

雑誌には他に、西村清、網屋則義、川越通夫などが名を連ね、新屋敷幸繁も寄稿した。大迫によれば、これは当時南薩で唯一の文芸誌だったそうである。

その創刊メンバーの中に、大坪白夢と共に「きりしま事件」でしょっぴかれることになる面高散生(おもだか・さんせい)がいた。面高散生も『薩摩の兵児大将』にたびたび登場し、不自由な体を松葉杖で支え、無頼を地でいく大迫とは対照的な文学上(?)の相棒として描かれている。『鴻巣』の創刊号を大迫と面高で売りさばく場面があるので、きっと雑誌運営の中心人物だったのだと思う。

さて、この「きりしま事件」とは何かというと、大坪白夢が昭和14年に創刊した同人雑誌『きりしま』が、昭和18年に治安維持法違反・不敬とされ、関係者が一斉検挙された事件である。

検挙されたのは、大坪白夢、瀬戸口武則、面高散生など(全貌は不明)。大坪と瀬戸口は6ヶ月もの勾留の末、証拠不十分のため不起訴処分となったが、面高散生は懲役2年・執行猶予4年の有罪判決を受けた。

3人は当時、鹿児島日報(現・南日本新聞)に務めており、大坪白夢は政治部記者、瀬戸口武則は社会部記者、面高散生は営業局員(販売員)であった。同人雑誌への弾圧の形を取っているものの、実際には新聞への脅しの意味で行われた検挙だった可能性が高い。

というのも、この「きりしま事件」で問題視された俳句というのは、次のようなものであった。
溶岩に苔古(ふ)り椿赤く咲く  大坪白夢
どうしてこの句が治安維持法違反・不敬になるのかにわかには納得しがたいが、彼らを検挙した特高(鹿児島県特別高等警察)によれば「南国のツバキの見事な赤色を賛美した句は「共産主義の肯定だ」」というのである。赤色を賛美したらダメというのはもちろん口実だろう。そもそも日本の国旗も白地に赤である。ツバキは日章旗のメタファーですとでも言えば許してもらえそうなものだが、そうは問屋は卸さなかった。

さらに、面高散生の次の句も問題視された。
われ等馬肉大いに喰ひ笠沙雨  面高散生
これもいったいぜんたい、どこが問題なのかよくわからない。しかし特高によれば、馬といえば軍馬であり、軍馬を殺して食べ、戦争を嘲笑していることを思わせる、というのだ。こうしたこじつけによって面高は有罪判決を受けた。

特高にとって同人雑誌『きりしま』は、「社会主義的リアリズムに依拠するプロレタリア俳句、詩歌等を発表した」ことが問題だった。私自身、この雑誌『きりしま』を実見したことはないのだが、問題視された上記2つの俳句を見ても、おそらく特高の検挙はいいがかり以上ものもではなかったであろうことは明白である。特高は、本当は俳句を問題視したのではなくて、面高散生や大坪白夢をしょっぴくために俳句を利用したのであった。

なお「きりしま事件」は、全国的に起こった「新興俳句弾圧事件」の一環と見なされている。

これは昭和15年の「京大俳句事件」を皮切りに行われた俳句誌・俳人への一連の弾圧事件である。この頃、特高は自由主義的な新興の俳句運動に目をつけ、昭和15年〜18年にかけて各地の俳人集団を一斉検挙した。

それぞれの検挙について詳しいことは知らないが、「きりしま事件」が上述のようにいいがかりにすぎないものであったことを踏まえれば、おそらく「新興俳句弾圧事件」全体が特高のデッチ挙げによる言論弾圧であったのだろう。直接に反戦や反体制を掲げなくても、大政翼賛に与しないだけでどんな目にあうかを知らしめたのだ。

そんな「きりしま事件」のことを密かに注目していたら、先日の「石蔵ブックカフェ」で立ち読みした『鹿児島評論』という昔の雑誌(何年号か忘れてしまった)に、なんと面高散生が捕まったときの日誌が掲載されているのを見つけた。

表題は「永吉町十三番地 日誌」。「永吉町十三番地」とは、鹿児島刑務所の所在地だ(現・鹿児島アリーナの場所)。この稿には「きりしま事件」のことは全く書いていないが、その際の日誌であることは明らかである。

こういう予期せぬ出会いがあるから古本漁りは面白い(買わなかったけど)。亀ヶ丘の上にある「大坪白夢詩碑」と、この『鹿児島評論』の記事、それから『薩摩の兵児大将』が頭の中で繋がって、意外な発見を一人で喜んでしまった。


【参考文献】
薩摩の兵児大将—ボッケモン先生青春放浪記』1978年、大迫 亘
『かごしま文学案内』1989年、鹿児島女子大学国語国文学会編
 ↓このWEBサイトも参考にしました。
「俳句」まで殺された時代―『共謀罪』の拡大解釈に不安はないのか

2019年1月1日火曜日

神話を再び神話へ——なぜ鹿児島には神代三陵が全てあるのか?(その20)

終戦後の昭和20年(1945年)12月15日、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は「神道指令」として知られる指令を発した。

これは正確には「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件」という表題の指令で、その表題が示すとおり、国家神道を禁止することによって、宗教と国家とを分離しようとしたものである。

連合国、特にアメリカは、国家神道こそが日本人を狂信的な戦闘にかりたてる魔術の種に違いないと見ていた。特攻による自爆攻撃、自滅的な玉砕戦、民間人の集団自害といった、アメリカ人には全く理解できない日本人の全体主義的行動の背景に、国家神道があると考えたのだ。

また、国家神道には統治上のまやかしとしても機能していた。名目的には現人神の天皇が至上権を有しながらも、実際には文武の官が天皇の名の下にどんな政策でも実施でき、しかも責任逃れできる政治体制の源泉として国家神道が捉えられた。自国民を顧みない狂気じみた政策は、国家神道がなければとても決定することができなかったものだと思われた。

こうしたことから、GHQは、国家神道の解体こそ新生日本にとって必要なものだと考えたのである。

そして「神道指令」によって、政府は国民に神道を強制することはおろか、国家は神道を保護したり経済的に援助したりすることができなくなり、政府として神道の考え方を用いることもできなくなった。さらに、「八紘一宇」といった国家神道を連想させる言葉も禁止され、公務員が公の立場で神社に参拝することも禁止された。

こうして国家神道の命脈は絶たれた。明治以来築かれてきた、政府と神道の異常な共生関係が終わりを告げた。

ところが、「神道指令」はあくまで政府と神道を分離しようとしただけで、神道自体を破壊するものではなかった。アメリカは宗教の自由を認める以上、神道を個人が信仰する分には問題はないと考えたし、神道を構成する要素のうち非常に国家的な部分——すなわち皇室祭祀に関しても、いわば黙認の形を取った。

であるから、国家神道は解体されたが、明治政府の宗教政策によってそれまでと全く違ったものとして再創造された「神道」は、その異形の姿を留めたまま、戦後も生き続けた。そして、それが歴史的に見て異形の姿であることは一般には忘れられ、神道とはそのようなものだ、と受け入れられてきた。それどころか、この神道こそが日本人の元来の信仰のありようだとさえ考えられるようになった。

そして戦争から時間が経つにつれ、国家神道的なるものは徐々に甦ってきている。

例えば、「神道指令」によって国家の宗廟としての資格を失い、民間の神社となった伊勢神宮は、少しずつ天皇家との特別な関係を復活させていった。民間の一神社でありながら、国家との関係を再建していったのだ。その象徴となったのが昭和34年(1959年)の正月、岸信介が総理大臣として参拝した時であった。戦後にも私的に参拝した総理はいた(鳩山一郎、石橋湛山)。しかし岸は、非公式参拝としていたにもかかわらず、随行者60人以上を連ねて明らかに公的行事として参拝を行ったのである。

これに続き、昭和35年(1960年)池田勇人首相は浜地文平(はまち・ぶんぺい)議員の質問趣意書に答え、伊勢神宮の「神鏡は、皇祖が皇孫にお預けになった八咫(やた)の鏡である」とし、伊勢の神鏡が神話に基づいた公的なものであるという答弁書を閣議決定した。天照大神は、再び国家に公認され、現実に存在する神になった。

戦後日本でも神話が現実のものと公認され、天皇の神的性格が確認されたことは、戦後の科学的世界観の浸透を考える時、奇異な感じを抱かずにはいられない。政府の首脳は本当に伊勢神宮の神鏡は天照大神がニニギのミコトに預けた「八咫(やた)の鏡」そのものだと信じていたのだろうか? 神話が事実だと。それはありそうもないことだ。ありそうもない答弁書を決定したのは、明らかに神道界に迎合したためだ。当然ながら、この答弁書を神社本庁をはじめとする神道界は大歓迎した。三重県選出の浜地議員を焚きつけこの答弁書を引き出したのは、神道界そのものだったのだから。神道は、再び国家神道へと「昇格」したがっていた。

さらに2013年10月2日、伊勢神宮の式年遷宮が行われたその当日、岸信介の孫である安倍晋三が首相として遷御に参列した。記者会見では官房長官が「本人が個人的に参拝したものだ」と述べたが、安倍首相は8閣僚を従えてしかも遷御行列に加わっており、内閣総理大臣の立場として行事に参加したことは明白だった。式年遷宮は戦後4回行われているが、遷御当日に参列した総理大臣は安倍晋三だけである。国家神道は、甦る一歩手前まで来ているように思われる。

今や私は、1986年に人類学者のクロード・レヴィ=ストロースが鹿児島を訪れ、「九州では神話的な雰囲気に浸ってしまう」と述べた時、それにどう応えるべきだったか分かる気がする。既に本稿「その1」で簡単に引用したが、その際に省略した文章を含めて改めて引用しよう。

「九州ではそのようなことはなくて、まったく神話的な雰囲気の中に浸ってしまいます。歴史性は問題にはなりません。より正確に言うなら、このコンテキストでは、歴史性を問題にすることが適切ではないのです。瓊瓊杵尊が天から下った場所という名誉を争う所がニカ所あったところで別に困りません。パレスチナでは、それ自体が聖地となる根拠を備えていない場所には、神話で箔づけをするように求めます。しかし神話が神話でないと主張することが必要になります。すなわち事柄が実際にそこで起ったのだと主張することが求められるのです。しかし実際にそこだったと証明するものは何もありません。
 われわれ西洋人にとって、神話と歴史との間は深い淵で隔てられています。それに対し、もっとも心を打つ日本の魅力の一つは、神話も歴史もごく身近なものだという感じがすることなのです。今日なおたくさんのバスで観光客が押しかけて来るのを見れば、国の初めを語る神話や、その舞台と伝えられる雄大な景色のために、伝説の時代と現代の感受性との間に生きた連続性が保たれているのだとわかります。」(クロード・レヴィ=ストロース「世界の中の日本文化」より)

これに対し、九州の神話的雰囲気に対する賛辞へのお礼を言いつつも、私だったらこう応えるだろう。この国で、神話と歴史の間にあった淵を埋め、伝説の時代と現代とを連続させたのは、我々の父祖たちの大きな過ちだった、と。歴史性を無視して神話を現代に甦らせ、あるはずのない神の墓を祀るようになったのは、決して日本の元来の魅力ではなかったのだ、と。我々は、レヴィ=ストロースに神話と歴史の連続を鋭く指摘されたとき、誇るよりもむしろ恥じ入るべきだった。

ただ、誤解して欲しくないのは、私は「神話は荒唐無稽な作り話で、真面目に受け取るべきでない」とか、「神話を現在と繋げることは悪いことだ」と言いたいわけではない、ということだ。

むしろ、私たちの祖先が営々と伝えてきた神話は、我々の財産であり、決して蔑ろにすべきではないと思う。神話は我々のアイデンティティを形作り、古代と現代を繋げる物語である。地域に残る神話ゆかりの地を荒れるに任せておくのは忍びないし、神話を次世代に伝えていくことが必要だ。

しかし、それを国家がやっていくとなると話は別だ。私が問題だと思うのは、国家が神話を事実だと公認し、正統な神話を定めてしまうことなのだ。「可愛(えの)山陵」、「高屋(たかや)山上陵」「吾平(あいら)山上陵」の神代三陵も、明治7年の前にはたくさんの比定地があり、伝説があったのである。いや、今でも、宮崎県は「男狭穂塚(おさほづか)古墳」を真の「可愛山陵」だと見なしているし、それどころか鹿児島県内においても、真の「高屋山上陵」は江戸時代にそう見なされていた内之浦の国見岳であるという異説が存在しているのである。だがそうした説は、明治7年に政府により神代三陵がまとめて確定されたことで、正統でないものと見なされるようになった。それらの一部は追って宮内庁により「陵墓参考地」「御陵墓伝説地」 などと指定されはしたが、あくまでも異説としての扱いを免れなかった。

しかしレヴィ=ストロースが炯眼にも述べている。「瓊瓊杵尊が天から下った場所という名誉を争う所がニカ所あったところで別に困りません」と。本来、神話というものは検証しようにもそうできないものである。私は、真の神代三陵は政府の決定とは別のところにあるのではないか、と言いたいわけでもない。確かに、神代三陵の決定にあたっては薩摩閥の政治力が背景にあり、特に高屋山上陵については田中頼庸の功名心も場所の確定に影響したかもしれない。神代三陵は絶対にそこであると、確実な証拠によって主張することは難しいだろう。

だが私は、そもそも「真の神代三陵」などというものはどこにも存在しないのだ、と言いたいのである。それは、神話の中にしかないのだから。我々が神話を次の世代に伝えていく上で、それが国家によって正統なものと認められる必要はないし、ましてやそれが事実であったなどと公認されることなど弊害しかない。なぜなら、国家が神話の正統を定めることは、すなわちそれ以外の神話を異端として斥けることを意味する。そうなると、我々の祖先達が伝えてきた豊かな神話世界の多様性は切り詰められ、国家にとって都合のよい、国家への服属を正当化する神話だけが正統として生き残っていくに違いないのだ。

南薩には、『日本書記』や『古事記』に伝わっているのとは違う、土着の神話がたくさん残されている。私が好きなのは、ニニギノミコトが笠沙の黒瀬海岸に流れ着いたという神話だ。記紀神話ではニニギノミコトは天から降ってくるのに、この神話では海から流れついたとしているあたり、黒潮に生きた祖先達の息吹を感じるではないか。我々にとって、ニニギノミコトは霧島の高千穂峰に降り立ったのでもいいし、宮崎の高千穂町に降り立ったのでもよい。そして黒瀬海岸に流れ着いたのでもかまわないのである。それらが並立していて、何ら問題はない。いや、相互に矛盾する多様な神話が残されている方がずっといい。

神代三陵についても同じことが言える。従来、特に宮崎県の郷土史家(例えば日高重孝)は明治7年の政府の決定を不服とし、神代三陵の場所について再考が必要ではないかと主張してきた。だが私は、神代三陵を政府が確定したこと自体おかしかったと言うべきだったと思う。

神の墓、などというあるはずのないものを、本来は四角四面で頭の堅い日本の役所が戦後になっても公認しているというのがそもそも滑稽なのである。一度宮内庁の管轄になったものを外すというのは手続き的に困難ではあると思うが、それが面倒だからといって神代三陵を引き続き現実のものと扱っていっては、我々の父祖が冒した過ちを訂正することはできない。

繰り返すが、私は神代三陵などなくしてしまって、本来の山に戻せばいいと言いたいわけではない。神話は、あくまでも神話として尊重すればよく、それを国家が公認する必要はないと言っているだけだ。我々の神話を国家の手に委ねたくはないのだと。そして、神代三陵として祀られている場所が、実際にはどういう場所であるのかを科学的に調べ、父祖達の過ちを正していく方がよいのだ。

既に述べたように、「高屋山上陵」とされている溝辺の神割岡は明治3年に発掘調査がなされたものの、古代の焼物等を発見したため、恐懼して発掘が中止されたという経緯がある。この岡を「高屋山上陵」として垣で囲み聖域化して立ち入り禁止にするよりも、この調査の続きをやった方が、古代社会と現代を繋げる意味ではずっと意義深い。そして古代社会の実相を考古学的・実証的に探っていく方が、よほど普遍的な価値を生みだすことになる。

ニニギノミコト、ヒコホホデミ、ウガヤフキアエズという神代三代の神話は、受け継いで行くべき地域の遺産であろう。しかし、神代三陵が政府によって確定されたことは、そのプロセスに鹿児島の人間が多く関わっていたことから、鹿児島にとっては清算すべき負の遺産であると、私は思うのである。

明治維新から150年が経過した。また、2020年には我々は『日本書記』編纂1300年という節目の年を迎える。神話を新たに見つめ直すには格好の機会だ。この機会に、鹿児島県としては神代三陵を「返上」するよう運動してもいいのではないだろうか。神話を再び「神話」に戻すことは我々の責務だ。そして逆に、今度は神話を国家の手から我々の手に取り戻さなければならない。

神話は国家のものではなく、我々のものなのである。

(終わり)

【参考文献】
神道指令の超克』1972年、久保田 収
『神都物語:伊勢神宮の近現代史』2015年、ジョン・ブリーン
『国家神道と日本人』2010年、島薗 進
「世界の中の日本文化」クロード・レヴィ=ストロース(『世界の中の日本 Ⅰ:日本研究のパラダイム―日本学と日本研究―』所収、国際日本文化研究センター、1989年)
「神代三陵」日高重孝、鯨 清 訳(『邪馬台国』1988年、第37号)

2018年12月30日日曜日

挫折した歴史編纂——なぜ鹿児島には神代三陵が全てあるのか?(その19)

久光が病床に伏していた明治20年11月、政府の調査団が島津家を訪れ、同家が保存していた大量の歴史資料の提出を求めた。

明治18年(1885年)から、政府は歴史編纂に用いる史料収集のため全国に人を出張させ、史料の探索と写本の作成を行っていた。調査団を率いたのは、かつて久光に見いだされ「皇朝世鑑」を編纂した重野安繹(やすつぐ)、そして鹿児島にやってきたのは、重野の片腕として修史事業を推進した久米邦武であった。

明治政府の修史事業は、明治2年の「修史の詔」(修史御沙汰書)に始まる。これは古代律令制国家によって編纂された「六国史」以降、国史が途絶していることを嘆き、国家として行うべき事業として国史編纂を復活させようとしたものである。これには、明治政府の正統性を歴史的に裏付けるという目論見もあっただろうし、古代の歴史編纂を引き継ぐという意味で復古政策の一環であるとも位置づけられる。

この修史事業は、まずは「史料編輯国史校正局」(1869年3月)、継いで「太政官正院歴史課」(1872年10月)、さらに「修史局」(明治8年(1875年))と担当部局が二転三転しながら推進された。修史局では、「六国史」以降の時代を編纂するにあたり、水戸藩の「大日本史」を正史に準ずるものとみなして、それに続く時期を歴史編纂の対象とした。

明治10年(1877年)、修史局はさらに改組され、折からの財政切り詰めの影響を受けて「修史館」と縮小された。縮小されたとはいえ50人ほどの官員を従えて修史館のトップに立ったのが重野安繹である。また、岩倉使節団の団員として欧米を巡覧し『欧米回覧実記』を刊行した佐賀藩出身の久米邦武もその編集能力を買われて修史館に迎えられ、やがて重野と久米、それから漢学者の星野恒(ひさし)の三人がこの事業を率いるようになっていく。

重野が久光の下で「皇朝世鑑」を編纂してから10年以上が経っていた。久光がたった一人で「六国史」を継ぐ『通俗国史』に取り組み始めたのとほぼ同時期に、重野は数多くの部下を従え、国家プロジェクトとして同趣旨の歴史編纂に携わっていたのである。

そして明治15年、重野安繹は日本の正史たるべき「大日本編年史」の執筆に着手する。当初重野らは、前述のとおり「大日本史」以降の歴史を対象としていたのであるが 、「大日本史」の記述に必ずしも信用できない点があることから、その対象を南北朝時代にまで遡らせ、全国から史料収集し考証を厳密に行った上で編纂に取り組もうとした。そのため、重野は調査団を組織し、全国に館員を派遣して調査を行った。この調査は、国家の権力を笠に着た半強制的なもので、短期間で厖大な史料を接収することとなった。

その一環として、島津家にも史料の提出依頼があったのである。しかし島津家ではこれに対して難色を示したらしい。久光も「大日本編年史」の事業については冷ややかに見ていた。そうでなければ、自ら『通俗国史』を編みはしなかっただろう。一部の文書の閲覧は叶ったようだが、調査中に久光が死去しそれどころでなくなったこともあり、結局島津家文書の調査は中断された。

島津家については国家の威光が通じなかったものの、修史館には全国から厖大な史料が集められ、歴史編纂の材料となった。こうして「大日本編年史」は、その手法に強引なところはあったとはいえ、古文書を中心とした一次史料に基づいた実証的な歴史記述という、近代史学の出発点となったのである。

ところでこうした事業が行われている間にも、担当部局の変転は続いた。修史館は明治19年(1886年)「内閣臨時修史局」と改められ、また明治21年(1888年)帝国大学に移管されて「臨時編年史編纂掛」、さらに明治24年(1891年)には「史誌編纂掛」と改称されている。これらの改組には、予算の縮減や人員の削減といった事情と共に、修史館の人材を帝国大学で活用し、国史科を設立するための準備といった側面もあったそうである。このような改組の結果、重野安繹らは帝国大学文科大学教授を兼任し歴史編纂にあたっていく。

ところがその編纂ははかばかしく進まなかった。全国から収集した史料を付き合わせてみると、これまでの歴史書の誤りが次々と見つかって来たからである。重野は修史に携わった当初は、漢文の大家として流麗な漢文で歴史書を編むことに意欲があったようだ。しかしやがて歴史の真実を明らかにすることに関心の重点が移っていく。「大日本編年史」の目的は、これまでの歴史書の誤謬を排し、正しい事実に基づく歴史書を編纂することに変化していった。

そうした重野の姿勢が世に知れ渡ったのが、いわゆる「抹殺論」として批判を受けた一件であった。重野は明治23年(1890年)5月の史学会において「児島高徳」と題してこの人物を考証の俎上に載せた。児島高徳(たかのり)とは『太平記』に出てくる南北朝時代の武将で、南朝後醍醐天皇のために奮戦した人物とされている。今でこそあまり注目されない人物であるが、戦前は忠臣の代表として道徳的模範、国民的英雄と目されていた。

特に、後醍醐天皇奪還に失敗し院庄(いんのしょう)の仮寓居に密かに赴いた高徳が、桜の木の表面を削って「天、勾践を空しうすること莫れ、時に范蠡の無きにしも非ず」という漢詩をサラサラと書き付けたというエピソードはよく知られていた。これは、「天は越王勾践を見捨てず、范蠡のような忠臣が現れたように、必ずや帝を助ける忠臣が現れることでしょう」と天皇を勇気づけたもので、忠君を鼓舞する説話となっていた。

ところが重野は、これら『太平記』の高徳関係の記事9つを詳細に検討し、児島高徳に関する記録が『太平記』以外になく、他の資料で裏付けられないことから、それらを作者の創作と断じ、児島高徳自体が実在の人物ではないと結論づけた。これが「児島高徳抹殺論」(「抹殺論」)である。重野はこの他、楠木正成・正行(まさつら)親子が湊川合戦に赴くにあたって桜井駅で死を覚悟して別れを交わしたという、いわゆる「桜井の別れ」も史実かどうか疑わしいとするなど、さまざまな伝説を歴史的事実でないと発表したのである。

これに反応したのが国家主義者や新聞などのメディアであった。重野は国民道徳、忠君の精神を毀損すると見なされ、児島高徳を歴史から抹殺したことから新聞などで嘲笑的に「抹殺博士」と書き立てられた。重野は、歴史は道徳のために存在するのではなく、事理の究明こそ重要であると説き、むしろ勧善懲悪主義によって歴史を枉げることこそ非難すべきであるとしたが、世間ではそう考えなかった。国家主義者たちは重野を狙うようになり、重野は身に危険すら感じて沈黙せざるを得なかったのである。重野は政府から処分こそ受けなかったものの、これが近代史学にとっての初めての弾圧となった。

一方、久米邦武は、重野の実証主義的立場を過激に推し進めた。明治24年(1891年)には『太平記』全体を創作的物語と断じてその価値を否定する「太平記は史学に益なし」という論文を発表。これは現在の学問水準から見るとやや行き過ぎの主張であったが、道徳を説くことを目的に史実と創作が渾然一体となっていた歴史観念を破壊するための鉄槌であった。

さらに同年10月から12月にかけ、久米は「神道は祭天の古俗」とする論文を『史学会雑誌』に発表。これは専門誌であるため当初一般には注目を浴びなかったが、翌年(明治25年)1月ジャーナリスト田口卯吉により挑発的なコメントが付されて歴史雑誌『史海』に転載されたことで大問題に発展する。久米はこの論文で、神道は宗教ではなく東洋の古代社会に普遍的に見られた「天」を祀る信仰であるとし、神についても「我々に禍福を下し給ふならんと信じたる観念の中より、神といふ者を想像し出して崇拝をなし」たものだとした。さらに、伊勢神宮についても元は天を祀る神社であって大廟などと称するのはおかしい、三種の神器もおそらく祭典の神座を飾るものであろう、などとして神道を構成する様々な要素に忌憚ない批判を試みたのである。

これは今の我々からすれば特に驚くにあたらない主張なのであるが、日本の神話は世界で唯一正しく伝えられた真実の古史古伝であり、神道は世界に冠たる真実の教えであると考えていた神道家たちが久米の説に激昂したのは当然である。翌月2月には4人の神道家が久米の家に押しかけ、久米の説が「国体を毀損する」として5時間にわたって難詰。遂に久米は論文を撤回せざるを得なかった。さらに4人は宮内省や内務省、文部省に赴いて久米のような人物が教育に当たっているのは好ましくない」と久米を処分するよう運動した。

久米が論文を撤回しても騒ぎが収まらなかったこともあり、翌3月には久米は帝国大学を非職(身分を保ったままで職務がなくなる)処分となり、さらに『史学会雑誌』『史海』は国家の安寧秩序を乱すという理由で発禁処分となった。これがいわゆる「久米邦武筆禍事件」である。

一方重野は、久米邦武が神道家たちに命すら狙われる中、積極的に擁護しようともせずに沈黙を守っていた。きっと「抹殺論」で世論に刃向かうことに懲りていたのだろう。「抹殺論」の渦中にあった明治23年(1890年)11月、後に国家神道の聖典のような存在となった「教育勅語」の発布にあたり帝国大学で行われた式典においても、重野は「教育勅語」がいかに歴史に則ったものであるかという白々しい演説を行った。芽生え始めた近代史学の芽は摘まれてしまったのだ。

また、重野や久米の立場は政府首脳にも受け入れられなかった。「久米邦武筆禍事件」から1年後の明治26年(1893年)3月、こうして明治政府の修史事業は頓挫し、帝国大学の史料編纂掛は廃止、重野も解任された。彼らの仕事のうち歴史資料の収集のみが継続され、それは現在の東京大学史料編纂所に続いていくのである。

重野安繹の「抹殺論」、そして「久米邦武筆禍事件」に共通していたのは、彼らは国家の正統な歴史に異を唱えたわけではなかったということだ。なにしろ国家の正史はどこにもなかった。むしろ、彼らこそが「大日本編年史」によって国家の正統な歴史を紡ごうとしていた。しかし、彼らは「正統と思われているもの」という曖昧なものに挑戦したために挫かれたのである。誰も、国家の正統がどこにあるのか知らなかった。ただ、皇室や国家権力を脅かす可能性があるものが、なんとなくタブーとなっていった。しかもそれは、国家自身が望んだと言うよりも、過激な国家主義者、神道家たちの手によって自然発生的に作られていったのである。皮肉なことに、考証によって正統な歴史を編もうとした重野たちは、逆に歴史が不可侵なものとなっていく一因を作っていたとも言える。

国家の中心に、誰も手の届かない聖域が出来つつあった。神話と信仰と歴史、虚実が綯い交ぜになった何かだった。その何かは、何人も理性的に検討することができないのだ。どんな知識人、どんな碩学であれ、その領域には科学の力をもって近づくことはできなかった。それが何であるかは、明確には誰もわからなかった。ただ、至高の存在である曖昧な何かなのだ。それを人は、「国体」と呼んだ。

「国体を毀損する」と言われれば、誰でも萎縮せざるを得なかった。「国体を毀損する」ということが、一体どういうことなのか誰にも分からなかったとしてもだ。

教科書には、神話が事実として載せられた。最初の歴史教科書『官版史略』で既に天御中主神以来の神々は歴史として扱われている。神話は「国体観念」の淵源をなすものと権威付けられ、科学的な精神によって自由に検討できる対象ではなくなった。

後に、大正デモクラシーの自由主義的雰囲気の中、津田左右吉が科学的に記紀神話を検証し『古事記及び日本書紀の研究』『神代史の研究』等を発表して神話研究は画期的な進歩を遂げたが、それも一時のことだった。太平洋戦争に突入する昭和10年代になるとこれらは発禁処分とされ、津田は弾圧を受けるのである。

こうして神話は、疑うことを許されない歴史的事実となっていった。

重野安繹が児島高徳の史実性を否定したくらいで大問題になったくらいである。神話を疑うことは国体を毀損し、皇室に対し不敬であり、非国民的なのだ。国民学校の児童が、授業中に神代説話が本当の話ではないのではという発言をしたために教師から殴打や減点を受けたという話は多く伝わっている。神話が、理論的に事実と認められるものであれば、教師は理論的に反論し、優しく教えることができたはずである。しかしそうではなかった。教師は、神話を暴力によってしか守ることができなかった。神話が、実際には虚構であったからだ。「国体」も同じだった。世間に雷同しないものが非国民と罵られ、国体を蔑ろにすると難癖をつけられて暴力を振るわれた。

国体が、本当に確固たるものであれば、暴力ではなく理屈で説き伏せられたはずだ。しかし誰にも国体が何なのか分かっていなかったのである。国体は、何重にも張り巡らされた晦渋な理論と過激な国家主義者、そして強圧的な国家権力に守られてはいたが、その中心は空虚だった。子どもでも分かる、簡単な嘘がそこにあった。「天皇は神である」という嘘だ。それが嘘だからこそ、人々は暴力を使ってそれを守ったのである。

そして、国体を守る、そういう何重もの垣の一つが、歴代の山陵であった。不敬罪において、山陵に対する罪は皇族に対する罪と同様であると定められた。それが、万世一系の皇統を示す物的証拠であり、日本を歴代の天皇が治めてきたことの象徴でもあったからだ。

多くの山稜は、幕末以前にはただの山でしかなかった。そこで人々は耕作し、生産し、当たり前に生活していた。ところがそこが幕府や政府により山稜であると指定され、垣で囲われ兆域となり、不可侵なものとされていったのは、まさに国体を維持するために社会の様々な部分が不可侵な領域とさせられていったことの一例だった。

さらに神代三陵には別の意味があった。神話に描かれた神々が、現実にこの土地に生きていたという証しとしての意味だ。天から降ってきたニニギのミコトは可愛山陵に今でも眠っているのである。神の墓がそこに厳然として存在しているというのに、神がいないわけがなかった。

幕末明治の思想史を振り返っても、誰一人として神をこの世に現実化しようとした人はいなかったように思う。あの平田篤胤ですら、天皇を神そのものとは見なしていない。むしろ、篤胤は天皇ですら死後には大国主命の審判を受けると考えた。彼は神々の世界を現実のものと信じていたが、それにしても神々が物理的存在であると考えていたわけではない。しかし明治政府の無定見な宗教政策の結果や、過激な神道家たちの運動や、日本の好戦的な対外政策の行き着くところであったのか、やがて天皇自身が神とされ、「現人神」として崇拝されるようになるのである。誰も、天皇自身を神に演出するプランは持っていなかったにも関わらずだ。

「文明開化」にせよ、「富国強兵」にせよ、いや「復古」ですら、天皇を神にしつらえる必要はないスローガンだった。それなのに、いつの間にか天皇は神そのものとなり、日本は「神の国」となっていったのである。

(つづく)

【参考文献】
『重野安繹と久米邦武—「正史」を夢みた歴史家』2012年、松沢裕作
「ゆがめられた歴史」大久保 利謙(『嵐のなかの百年』 1962年、向坂 逸郎 編)
『続 発禁本』1991年、城 市郎
『日本書紀 上 日本古典文学大系67』1967年、坂元太郎、家永三郎、井上光貞、大野晋 校注

2018年11月28日水曜日

保守主義者「玩古道人」——なぜ鹿児島には神代三陵が全てあるのか?(その18)

明治20年12月、島津久光が亡くなった。

政府はこれを受けて、久光を国葬を以て送った。葬儀を取り仕切ったのは式部次官だった高崎正風。そして斎主を務めたのが田中頼庸であった。この人選には久光との関係が考慮されただろう。

高崎正風は、明治政府に出仕して以降は疎遠になっていたが、幕末においては久光の腹心であった。かつて久光が抜擢した志士たちが久光をよそに維新政府で栄達していったのと違い、高崎正風は宮中の御歌掛などを務め、伝統主義者としての地味な仕事に甘んじていた。そして頼庸は久光の神道政策におけるかつての右腕だった。正風と頼庸は無二の親友でもある。しかも頼庸は当時神宮教管長として神道界の頂点に立っていた。この二人が久光を葬ったのは、至極自然なことだったと思われる。

自然でなかったのは、久光が政府を退いてから長く、何の官職にも就いていなかったのに国葬を行ったことだった。

この国葬には反対するものもいたらしい。政府の要人でもなんでもない久光を、国費を以て葬るのはいかがなものか、という批判があったのだろう。久光の前に国葬が行われたのは在職中に死亡した岩倉具視の一例があっただけで、国葬の例規も整っていなかった。政府はわざわざドイツの例を調べ、国家に対する功労に報いるため「臣民」を国葬に付することがドイツにもあるとの回答を得た。政府には、そうまでしても久光を国葬で送らなくてはならない恩義と後ろめたさがあったのだ。維新最大の功臣の一人であった久光を、敬遠し続けてきた後ろめたさだった。

政府は、久光の政治的意見には全く耳を傾けなかったが、それであるだけに形式的な面だけは最高の待遇を以てした。最晩年には従一位に列せられ、病床にあって大勲位菊花大綬章を受章。久光は人臣の極位にあって死んだ。享年71歳。久光の国葬は、その締めくくりであった。

ここで、明治5年、鹿児島へ巡幸した明治天皇に「14箇条の建白書」を奉じた後の久光の人生について、少し振り返ってみよう。

既に述べたように、久光の慰撫を図って行ったはずの天皇巡幸であったが、西郷が久光に挨拶しなかったことや、「14箇条の建白書」を黙殺する結果となったこともあり、久光と政府との対立は解けるどころがより深まっていた。こうして久光の処遇問題は政府の中で最重要課題となっていくのである。

そのため、政府は是が非でも久光を政府内に取り込む必要を感じ、明治6年5月には久光を「麝香之間祗候(じゃこうのましこう)」に任命。これは具体的な権限がない名誉職だったが、同年12月には「内閣顧問」に、さらに明治7年「左大臣」へ任命し久光を政府の首脳の一人に迎えた。

一方、久光が提出した建白書は人々の間で話題になっていた。久光は反政府の旗手とみなされ、久光の元には全国から反政府的な内容の建白書が届いた。その数は150件にも登る。新政府の粗忽で早急な西洋文明導入に、日本社会にはそれだけ反発があったということなのだ。新政府への異議申し立ては、決して久光の独りよがりではなかったし、時代遅れの見解ばかりでもなかった。久光は政府内にいて反政府的立場の代表であった。そんな久光が自らの立場を表明したのが、明治7年頃に朝廷に提出した「20箇条の建白書」である。そこではこのようなことが批判されている(わかりやすいように現代文に意訳した)。

一、天皇の衣装を洋服に改めた
一、西洋の暦(太陽暦)を導入した
一、玉座(天皇の御座所)をはじめ皇室までも全て洋風に倣うようになった
一、各省が外国人を雇って彼らの指導を受けている
一、侍読に人を得ていない
一、侍従に人に阿る輩が多い
一、兵卒(身分の低いもの)を主君のそばに近づけている
一、役人が傲慢でだらしのないものが多い
一、華族の遊蕩を禁止していない
一、学校の規則を洋風にしている
一、都下の規則があまりに苛酷である
一、軍隊を洋式にしている
一、予算を顧みず不要不急の土木事業をしている
一、無用の役人を増やしている
一、邪宗(キリスト教)の蔓延を防がない
一、外国人との婚姻を許した
一、神祇官を廃止して神仏混合の教部省とし、弾正台・刑部省を合併して司法省を置いた
一、民部省と大蔵省を合併した
一、散髪脱刀して洋風になり、国風の衣装風俗を軽んじている

ここでも天皇の洋装がやり玉の筆頭に挙げられ、暦・皇室・行政・軍隊・学校・人々の風俗が洋式になったことを批判している。さらにキリスト教への禁令が緩んでいることを指摘し、神仏合同の教部省を設置したことをも批判した。久光は、あくまで神道一辺倒で国民教化を図っていくことを企図していた模様である。

こうした守旧的な意見がある一方で、役人の綱紀が乱れていることや不要不急の土木事業をしていることも指摘し、開化路線に伴う脇の甘い行政を批判したことは、政府にとっても痛いところを突かれた感があったかもしれない。

ところが、やはり政府は久光の進言には耳を貸さなかった。右大臣岩倉具視よりも上位の左大臣にありながら、久光は政府の中で孤立し冷遇され、いくら反対意見を唱えてもそれが真正面から受け止められることはなかった。そのため久光はさっさと辞表を出し、明治9年4月、鹿児島に帰ってきた。

その後、明治10年に西南戦争が勃発し、そして政府により鎮圧。久光自身は西南戦争とは距離を置いたが、西南戦争で南九州の不平士族が一掃されてしまうと久光の反政府の旗手としての影響力も減衰。こうして久光は、若い頃から心に期するところがあった歴史を軸に、晩年は一人の学者として静かに過ごすのである。

そもそも久光の学問好きについては、兄斉彬も久光の博覧強記に一目置いていたくらいである。久光は若い頃から詩歌や歴史に親しみ、多くの古典や重要書籍を収集し、またそれらを自ら筆写までして、一字一句を苟もしない綿密で厳格な学風をつくり上げていた。

そんな久光は、既に元治元年(1864年)に重野安繹(やすつぐ)らに命じて後に「皇朝世鑑」と呼ばれることとなる歴史書の編纂を命じている。これは紀伝体で編纂された水戸藩の『大日本史』を編年体に再編集し、簡約したものであり、神武天皇から後小松天皇の明徳4年(1394年)までの日本の歴史書である。

重野らは翌慶応元年(1865年)に「皇朝世鑑」全41冊を完成させ久光に提出したが、久光は自らこれに厳正な校正を加えた。というのも、久光自身が『大日本史』本紀列伝(本紀第1巻〜列伝194巻までの58冊)を自ら書写し、さらには異本との校合を綿密に行っていたのである。重野たちは編纂期間の短さや資料の不足から、半ば機械的に『大日本史』を再編集したのであるが、これに久光は誤記や脱文の指摘はもちろんのこと、『大日本史』に欠落している年月の記載を補って厳密な編年主義を貫徹させるとともに、『大日本史』の記述そのものにも検討を加え、自ら考証を行って完全を期したのであった。

そして強調すべきことは、この歴史書が編纂されたのが元治から慶応という時期にあたっており、薩摩にとっては薩英戦争の直後で、さらには禁門の変や第一次長州征討といった維新の事件が急転直下の展開を見せる、久光にとっても激動の時期だったということだ。このような時期に歴史書の編纂という平和的で悠長な事業に自ら取り組んだということは、よほどの思い入れがなくてはならない。

さらに「皇朝世鑑」編纂の後、重野安繹と近かった儒者水本成美(樹堂)へその続編の編纂も命じた。しかし「皇朝世鑑」は『大日本史』の再編集であったため短期間で編纂が可能だったが、その続編となると史料の収集から始めなくてはならず、一朝一夕ではなしえない大事業である。結局、この大日本史続編の試みについては頓挫したらしい。また「皇朝世鑑」自体も、稿は成ったものの維新のゴタゴタなどで結局刊行されることはなかった。

久光は明治9年以降、いわばこの流産した歴史書を書き直すプロジェクトとも言うべき『通俗国史』の編纂に、たった一人で取り組むのである。

そもそも日本の正史というものは、『日本書紀』に始まり『続日本紀』『日本後紀』『続日本後紀』『文徳実録』『三代実録』という「六国史」が残っている。しかしこれは神武天皇から第58代光孝天皇(平安時代)を以て終わっていて、その後は正史が編まれることはなかった。水戸藩の『大日本史』は大藩の財政を傾けるほど考究を尽くし編纂された大著ではあるが、紀伝体(正史は編年体で編纂されるものだった)で記述され、第100代後小松天皇(室町時代)で終わっているのが憾みである。

そこで久光は、自ら「六国史」を継ぐ国史を編纂するという壮大な企図を抱き、第59代宇多天皇から第100代後小松天皇までの歴史(つまり『大日本史』の扱う範囲まで)を『通俗国史 正編』全22冊として執筆。追って第101代称光天皇から第107代後陽成天皇までの歴史を『通俗国史 続編』全11冊として執筆した。時に明治16年のことであった。平安から江戸初期に至る歴史書を、久光は完成させたのである。なお「通俗」の名を冠しているのは、それが漢文ではなく漢字仮名交じり文で書かれた平易なものであるためだ。

この執筆にあたり、久光は毎朝必ず机に向かい、草稿より浄書に至るまで誰の手も借りず全て自らの筆で取り組んだ。第108代後水尾天皇以降についても『通俗国史 続々編』として執筆に当たったが、病に倒れ遂に完成することはなかった。未完には終わったが、『通俗国史』こそは久光が余生をかけた執念の大作であり、久光の学問の到達点であったといえよう。

さてここに一つの不思議がある。実は「皇朝世鑑」の完成した慶応元年、編者の重野らはその前編として神代の歴史も編纂してはどうかと提案しているのに、それを久光は「神代の事は大日本史の通り委しく書かせざるをよしとする歟、前編編集先は無用歟」として却下しているのである。慶応元年といえば、鹿児島では廃仏毀釈前夜である。未だ廃仏の運動は形になっていないとはいえ、久光も神道に傾倒していた時期だ。神代を扱う前編の方が政治的に重要と思われるのに、同じく提案があった続編の方のみを許可し、先述の水本成美へと命を下すのである。久光はなぜ神代の歴史書の編纂を許可しなかったのか。

そして明治9年以降も、力を入れたのは近世史であって神代については黙して語っていない。廃仏毀釈を行い神道国家薩摩の実現へと邁進した久光と、歴史家として神代を語らなかった久光に、微妙な距離を感じるのは私だけだろうか。

さらに不思議なことは、『三国名勝図会』に対する校正である。薩摩・大隅・日向(の一部)の名所旧跡を総覧する『三国名勝図会』全60巻は天保14年(1843年)に編纂されたものであるが、これにも久光は校正を加え、完全を期したのであった。現在『三国名勝図会』は、廃仏毀釈で破壊された寺院の往時の様子を詳細に知ることができる重要な史料となっている。しかし藩内の名刹を悉く破壊し、歴代藩主の墓石から戒名を削り取って新たに神号を刻みつけ、鹿児島から仏教の痕跡を消し去ろうとした久光その人が、一方でかつての仏教隆盛の記録を残すことに一役買っているのは、奇妙なことと言わねばならない。

私の考えでは、久光は晩年に至って廃仏毀釈運動について反省し、その償いとして『三国名勝図会』の校正を手がけたのだと思う。

明治政府は「文明開化」の美名の下に、よく吟味することもなく西洋の風習や文物を導入し、旧来の文化を容易に捨て去っていった。差別の撤廃や科学技術の導入といった進歩もあったが、それは全体としては旧文明の破壊だった。 幕末に通訳として日本を訪れたヘンリー・ヒュースケンは既に「いまや私がいとしさを覚えはじめている国よ。この進歩はほんとうにお前のための文明なのか」と西洋文明を日本が受け入れることに疑問を呈している。久光がこだわったのもこの点であり、日本の文明の滅亡を阻止したいという思いであったろう。

しかし守旧的意見が明治政府に全く受け入れられず、あえなく帰郷した久光は、いきおい自らの行動をも自省せざるを得なかったと思われる。明治政府が日本の文明を破壊したのと同様、自らも維新の熱に浮かれた文明の破壊者の一人であったと久光は痛恨したのではなかろうか。廃仏毀釈によって、鹿児島の仏教文化や信仰は文字通り潰滅してしまったのだから。私にはそう思えてならないのである。

「復古」を旗印にしたはずの維新運動は、いつの間にか「復古」の名の下にあらゆる制度や文化を組み替えていった。「太政官」や「神祇官」の復興など当初は復古的な政策もあったが、それは徐々に修正され、やがて「万国公法」が基準となり、日本を西洋に並ぶ文明国にすることが目標になった。

西南戦争の際、薩軍に歌われた「出陣いろは歌」というのがある。そこでも
 大名つぶしたその時に
 昔にかえるというたのも
 うそと今こそ知られけり
と「復古」が「うそ」だったと非難されている。「復古」を貫徹させようとした国学者たちも、政府から疎まれ遠ざけられた。平田派の重鎮矢野玄道は「橿原の御代に返ると頼みしは あらぬ夢にて有りけるものを」と失望した。「橿原(かしはら)」とは、神武天皇が最初に都を置いたとされる場所である。「神武創業の始めに復る」などといっておきながら、日本の文化や習俗を尊重することもなかった明治政府の姿勢は失望されて当然だろう。

しかし久光はかつての狂信的な「復古主義者」としての相貌を改め、晩年は穏当な「保守主義者」となっていくように見受けられる。

晩年の久光は必ずしも明治政府とは対立的ではなかった。一定の距離は保ちつつも、政府の政策には協力的だったようだ。しかし一方で、自分は政府が破壊しつつあった旧文明を背負っているという自覚もあったのかもしれない。彼は「玩古道人」と号した。玩古——すなわち骨董品を楽しむ、という言葉に、新生日本が捨て去ろうとした旧文明をあくまでも愛し抜こうとする久光の気概を感じるのである。

事実久光は、歴史書の編纂や『三国名勝図会』の校正、島津家に残る史書の整理と保存といったことに取り組み、かつて廃仏毀釈を推進した市来四郎に命じて薩摩藩の幕末の事績を記録せしめた。こうして久光は死ぬまで薩摩藩の旧文明の保存に努めた。久光が残した史料群は「玉里島津家史料」として、日本の中世から近代にかけての歴史学には欠かすことの出来ない重要史料群となっている。

久光が余生をかけたのは、歴史と文化を残そうとするたった一人の戦いだったのだ。それは、廃仏毀釈の反省だけでなく、先祖伝来受け継いだ薩摩藩をなくしてしまったことへの償いだったのかもしれない。

一方で同時期、政府内においても歴史を巡る静かな戦いが始まっていた。中心人物は、「皇朝世鑑」を編纂した重野安繹である。

(つづく)

【参考文献】
島津久光と明治維新—久光はなぜ、倒幕を決意したか』2002年、芳 即正
『大久保利謙歴史著作集 7』(「六 島津家編修「皇朝世鑑」と明治初期の修史事業」)2007年、大久保利謙
『學者としての島津久光公』中村徳五郎(『南国史叢』第3輯、1936年、薩藩史研究会)
『逝きし世の面影』2005年、渡辺京二

2018年10月3日水曜日

つくりかえられた伊勢神宮—なぜ鹿児島には神代三陵が全てあるのか?(その17)

田中頼庸は、明治7年の春、教部省から伊勢神宮に大宮司として赴任した。

この頃、教部省は各地の古社・大社に直接人を送り込むようになっていた。それは、いっこうに成果の上がらない大教宣布運動を続けるより、直接神社に手を入れることで信仰のてこ入れを図ったという面もあるし、また、官吏としては頑迷固陋すぎ、扱いに困っていた国学者たちを体よく中枢から遠ざけるという意味合いもあった模様である。明治六年政変のために、教部省における薩摩派の政治力も弱体化していた。

しかし最大の目的は、神道そのものを国家の手によって作りかえるためであった。民衆との繋がりの中で育ってきた神祇信仰を破壊し、国家にとって都合のよい新しい宗教として神道を再創造しようとした。

その嚆矢となり、またその中心になったのが伊勢神宮であった。

伊勢神宮といえば、皇室と特別な関係を持つのみならず、三種の神器の一つ「八咫(やた)の鏡」を祀る「国家の宗廟」と思われているが、明治以前からそうであったわけではない。式年遷宮の際に勅使を派遣し幣帛を奉納するといったことはあったが、何しろ天皇は明治に至るまで歴史的に一度も伊勢神宮を参拝したことがなかったのである。

初めて天皇が伊勢に参拝したのは、明治2年4月のことだ。京都から東京へゆく途中、天皇は神宮に玉串をささげ維新政府の成立を報告、近代日本の発展を祈った。この参拝は岩倉具視や木戸孝允、そして津和野派の亀井茲監(これみ)と福羽美静がなさしめたものという。

言うまでもなく、伊勢神宮は天照大神を祀る。天皇は天照大神の子孫であり、それこそが日本を治める正統性の根源と考えられたのだから、伊勢神宮が国家にとって重要になってくるのは当然だった。しかも津和野派は天照大神を絶対視していた。だから彼らは伊勢神宮を国家の手中に収めようとしたのである。

しかし、国家のみが強制的に伊勢神宮の改変を行ったのではなかった。伊勢神宮(内宮)の世襲の下級神職に産まれ、権禰宜(ごんねぎ)だった浦田長民(ちょうみん)は、このような国家の趨勢を敏感に察知し、伊勢神宮を国家的存在とするよう内からも積極的に運動した。例えば、彼は維新直後に度会(わたらい)府御用掛に採用され、着任直後に伊勢神宮のある宇治山田から仏教を完全に排除する提案を行った。度会府(三重県の一部)は天皇が伊勢神宮に参拝するという情報に接すると、この提案に基づき参宮街道沿いの廃仏毀釈を行い、維新前までにあった258もの寺院のうち183が潰された。伊勢を純粋な神道の地へと自主的に「浄化」しようとしたのだ。

もちろん政府はさらに強力な改革を実施した。明治3年11月には世襲の祭主藤波教忠(のりただ)を免職し、公家の近衛忠房を新たに祭主に任命。さらに明治4年には神社は「国家の宗祠」であるから私有すべきでないという原理を打ち出し、神宮の世襲職をすべて廃止した。こうした処置は全国の神社に対して行われ、全国の神社と神職は国家機関となった。

伊勢神宮で廃止された世襲職に「御師(おんし)」とよばれる権禰宜身分の存在があった。「御師」には、天照大神を祀る内宮(ないくう)が荒木田家271家、豊受大神を祀る外宮(げくう)が度会家479家もあり、この御師が全国津々浦々にそれぞれ檀家を持ち、毎年神宮大麻(お札)や暦を配って初穂料を集めたり、伊勢講の受け入れを担当したりしており、「御師」の中には莫大な収入を得るものもあった。政府は「御師」が「国家の宗祠」である神社を用いて私腹を肥やしているとして問題視したのである。浦田長民自身も御師の出身であったが、御師廃止論の急先鋒に立った。

さらにこの頃には、伊勢神宮に祀られているご神体の鏡を東京に遷座すべきという議論が湧き起こってくる。浦田長民は津和野派と気脈が通じていたことで半年間政府に出仕しているが、その間に自身でも福羽らとともに神宮の鏡を東京に遷座する案を練っていた。ご神体を失った伊勢神宮に存在意義はないため、これは事実上の伊勢神宮廃止論でもあった。そういう議論が行われている中で、三島通庸は新たな国家の中心として「黄金の神殿」を作り、そこに伊勢神宮を遷座しようというアイデアを提出するのである。

田中頼庸も三島と同調し、伊勢神宮を東京に遷座するよう促す建白を認めて、高崎五六、三島通庸、山之内時習との連名で提出している。そんな伊勢神宮遷座派の先頭だった田中頼庸が、伊勢神宮の大宮司として赴任したのは皮肉なことであった。

浦田長民も、頼庸の1年前に伊勢神宮の少宮司として再び神宮に舞い戻っていた。二人は、中央にいるときは伊勢神宮の遷座論を展開していたが、いざ神宮に赴任すると伊勢神宮の聖地化を推し進め、共同して伊勢神宮を国家第一の宗廟と発展させていくのである。

そして伊勢の街自体が「神都」として作りかえられた。伊勢神宮の周辺は、全国から伊勢参りに来る人々のための娯楽や遊興に溢れた活気溢れる門前町が形成されていたが、猥雑な妓楼街は主要道路から遠ざけられて自然消滅させられ、代わりに聖地としての風格ある施設が次々建設された。

さらに、天皇との特別な関係の樹立のために、今に続く数々の儀礼が定められ(『神宮明治祭式』)、新しい神道理論も確立していった。この際に26の明治以前の儀礼が廃止され、新しい儀礼が21も取り入れられたという。例えば元始祭、祈念祭、新嘗祭、歳旦祭、天長節祭、紀元節祭など国家的色彩を持つ祭りが新たな年中祭祀として取り入れられている。こうした教義面の改革は主に浦田長民が担い、実務面を頼庸が担当した。伊勢神宮は、こうして明治以前のそれとは全く違う神社になっていった。頼庸は、鹿児島を聖地に変えることはできなかったが、代わりに伊勢を国家の聖地に変貌させることに成功した。

また、教部省が大教院体制で大教宣布運動を進めると、浦田長民はこれに呼応して神宮に教院や説教所などを附設し、神宮を国民教化運動の中心的存在にしようとした。まず地元の度会県の倭町に説教所を開設。そして順次各所に説教所を設けていった。その中心として、明治6年に説教所における教義学修行のための機関として「神宮教院」を開設した。

神宮教院は、伊勢神宮において国民教化運動を担った支部組織だった。しかしその広がりは全国規模のものになっていく。従来から各地に存在していた伊勢講(定期的に伊勢参りをするグループ)を母体にして、全国に「神風講社」という組織を作り神宮教院に附属せしめたからだ。

大教院でも、神宮教院の活動に期待していた。明治7年4月には、神宮教院の活動を受け持ち区域外でもやれるようにして欲しいという神宮からの要望を認め、神宮教院の教化運動は区域外にも拡大し、神宮の神官が各地に巡教するようになった。また神宮教院に中教院が設立され、その活動は次第に公的なものとなっていった。

ところが明治8年に大教院が瓦解。追って教部省も解体。政府による大教宣布運動の頓挫を受け、神道関係者は大教院に代わって神道事務局を作って自ら大教宣布運動を続けることとなったから、自然と神宮教院がその中心となった。田中頼庸も神道事務局の副管長に就任。こうして神宮教院は規則を改め組織を再編成し、全国を13の教区に分かち、各県毎に教会を置き、大規模な布教体制を充実させた。さらに神宮教会は、青少年の教育のための「本教館」を設立(明治9年)、追ってこれは「神宮皇学館」に発展(明治15年)した。また旺盛な出版活動にも取り組み、神道理論や祭式、古伝に関する本を陸続と出版した。

神宮教院の活動は、頓挫した国家の運動を補填することで、一神社の行う範囲を超えて、準国家的な規模と内容を持つものとなっていった。

ところが、明治13年頃に、神宮教院が中心となっていた神道事務局で「祭神論争」が起こる。神道事務局では、大教院時代から引き続いて祭神を造化三神と天照大神の四柱の神としていたが、これに出雲大社大宮司の千家尊福(せんげ・たかとみ)が異論を唱え、大国主神も加えるべきと申し立てたのである。

天照大神と大国主神を巡る近世の神学に立ち入る余裕はないが、平田篤胤はこの世を支配しているのは天照大神だが、あの世(幽冥界)を支配しているのは大国主神だとする説を提示しており、死後の魂の行方に強い関心を持った平田派は大国主神を重視した。篤胤の説は、門人の矢野玄道(はるみち)や六人部是香(むとべ・よしか)に受けつがれてはいたが、津和野派の天照大神一神教的な政策、続く薩摩派の造化三神の重視政策に押され、それまで閑却されていたのである。

だが出雲大社では大国主神を祀っていることから、平田派とはまた違った面から大国主神を重視しており、千家は「大国主神が幽冥の主宰神であることは古典により明らかだ」として、以前からこれを四柱の神に祭神として付け加えるべきと主張していた。既に大教院時代、祭神に追加することは認めなかったものの、大教院は千家の主張に応じ「大国主神が幽冥の主宰神」であることは認めていた。薩摩派には確たる神道理論がなかったから、こういう論争には弱かった。

この論争が、神道事務局に持ち込まれたのである。論争は、田中頼庸を中心とする伊勢派と、千家尊福を中心とする出雲派によるものだったが、その論争は全国の神職を巻き込んだものとなっていく。

組織的には全国に影響力を及ぼしていた伊勢派だったが、彼らには決定的な弱点があった。彼らは篤胤の『古史伝』に相当するような、古典となる「教典」を持っていなかったのである。つまり伊勢派には、依って立つ確固たる神道理論がなかった。一方、出雲派には、かつて神学論争に破れ没落していた平田派の面々がどんどん合流していった。矢野玄道や角田忠行が千家に同調、全国に散らばる草莽の国学者たちも、篤胤の思想を武器に、出雲派として再び勢力を結集していった。伊勢派の源流は津和野派と薩摩派にあったが、薩摩派は言うに及ばず津和野派が依って立つ大国隆正の思想も、平田篤胤に比べれば古典と呼ぶには小粒すぎた。

窮地に陥った伊勢派は非常手段に出る。神道家による話し合いでは埒があかないから、いっそ勅裁を仰ごうというのである。より政治に近いという立場を利用し、論争ではなく権力によって出雲派を圧迫しようとしたのだ。明治14年2月、これに応じて太政大臣の三条実美(さねとみ)は宮中祭祀における祭神を決定した。その勅裁では、はっきりと大国主神が否定されているわけではなかったが、大国主神には言及がなかったために伊勢派の勝利となった。

しかしながら、こうした神道界の内紛は政府にとって好ましからざるものだった。神道は政権が依って立つ国体理論の一部であったから、そこに動揺があってはならなかった。しかも、信教自由になったことでただでさえその基盤が揺らいでいた。信教は自由だとしても、国家の基盤たる「天壌無窮なる万世一系の皇統」や「万古不易の国体」を正当化し、その祭祀を国民に強制する方途が必要とされていた。このため政府は、明治15年1月、「祭祀」と「信教」を区別することとし、神社は宗教ではなく、祭祀を主とした「国民道徳上の存在」であると整理した。

たとえ信仰しているのが仏教やキリスト教であっても、神社への祭祀は「国民道徳上」行わなければならない。それは信教の自由とは関係ない。なぜなら神社は宗教ではないのだから、という理屈だ。祭祀と信教を区別するのは明らかに詭弁であったが、これは国家の根幹たる神話を個人の信仰とは無関係に承認させるための譲歩でもあった。明治国家は、神道の国教化政策の失敗、そして国民教化運動の失敗に懲りて、神道を国家的宗教とすることは諦める替わり、神社祭祀のみを国民に強制したのである。こうして国家は、宗教的次元では責任逃れをしつつ、実際には宗教として神道を機能させることに成功した。

それは、かつて三島通庸が構想した、神道があらゆる宗教の上に超然と立つ体制だったのである。しかも、それは「黄金の神殿」を必要としない、安上がりな方法で達成されたのだ。

こうして、神社は宗教ではないということにされた。それまで神官は国民教化運動を担う教導職を兼任することになっていたのに、これが逆に禁止された。また神道による葬祭が推進されていたのに、神官は葬儀に関わってはならないとされた。神社は、宗教活動を一切禁止されてしまった。神社は、神道論を唱えることも、布教活動をすることもできなくなった。強力に推進されてきた政策が一気に逆転し、関係者ははしごを外された格好になった。

田中頼庸は、やむにやまれず宗教活動を禁じられた神宮を去る。

伊勢神宮でも、それまで大教宣布運動を続けていた「神宮教院」を附属することができなくなり、これを分離したからだ。しかし田中頼庸は、「神宮教院」を母体として新興宗教「神宮教」を立ち上げ、その初代管長に就任するのである。このようなことは他の大社の場合でも起こった。神社から、宗教部分を分離して別団体として宗教化したのである。明治15年5月、政府もこうした新しい団体を「教派神道」として認定した。

「神宮教院」はその全国組織を活用し、御師から取り上げた大麻の頒布も担っていたが、「神宮教」はこれも引き継いだ。「神宮教」は明治32年(1899年)に解散したものの、その内実は「財団法人神宮奉斎会」に改組されて大麻頒布も続けられた。この神宮奉斎会は戦後、日本各地の神社を包摂する宗教法人「神社本庁」の母体の一つとなる。

ところで、田中頼庸が「神宮教」の管長として神道界の絶頂にあった明治20年12月、彼のもとに訃報が届いた。島津久光が薨じたという知らせだった。

(つづく)

【参考文献】
『神都物語:伊勢神宮の近現代史』2015年、ジョン・ブリーン
<出雲>という思想』2001年、原 武史
日本政治思想史―十七~十九世紀』2010年、渡辺 浩
神々の明治維新—神仏分離と廃仏毀釈』1979年、安丸良夫
神道指令の超克』1972年、久保田 収