明治20年12月、島津久光が亡くなった。
政府はこれを受けて、久光を国葬を以て送った。葬儀を取り仕切ったのは式部次官だった高崎正風。そして斎主を務めたのが田中頼庸であった。この人選には久光との関係が考慮されただろう。
高崎正風は、明治政府に出仕して以降は疎遠になっていたが、幕末においては久光の腹心であった。かつて久光が抜擢した志士たちが久光をよそに維新政府で栄達していったのと違い、高崎正風は宮中の御歌掛などを務め、伝統主義者としての地味な仕事に甘んじていた。そして頼庸は久光の神道政策におけるかつての右腕だった。正風と頼庸は無二の親友でもある。しかも頼庸は当時神宮教管長として神道界の頂点に立っていた。この二人が久光を葬ったのは、至極自然なことだったと思われる。
自然でなかったのは、久光が政府を退いてから長く、何の官職にも就いていなかったのに国葬を行ったことだった。
この国葬には反対するものもいたらしい。政府の要人でもなんでもない久光を、国費を以て葬るのはいかがなものか、という批判があったのだろう。久光の前に国葬が行われたのは在職中に死亡した岩倉具視の一例があっただけで、国葬の例規も整っていなかった。政府はわざわざドイツの例を調べ、国家に対する功労に報いるため「臣民」を国葬に付することがドイツにもあるとの回答を得た。政府には、そうまでしても久光を国葬で送らなくてはならない恩義と後ろめたさがあったのだ。維新最大の功臣の一人であった久光を、敬遠し続けてきた後ろめたさだった。
政府は、久光の政治的意見には全く耳を傾けなかったが、それであるだけに形式的な面だけは最高の待遇を以てした。最晩年には従一位に列せられ、病床にあって大勲位菊花大綬章を受章。久光は人臣の極位にあって死んだ。享年71歳。久光の国葬は、その締めくくりであった。
ここで、明治5年、鹿児島へ巡幸した明治天皇に「14箇条の建白書」を奉じた後の久光の人生について、少し振り返ってみよう。
既に述べたように、久光の慰撫を図って行ったはずの天皇巡幸であったが、西郷が久光に挨拶しなかったことや、「14箇条の建白書」を黙殺する結果となったこともあり、久光と政府との対立は解けるどころがより深まっていた。こうして久光の処遇問題は政府の中で最重要課題となっていくのである。
そのため、政府は是が非でも久光を政府内に取り込む必要を感じ、明治6年5月には久光を「麝香之間祗候(じゃこうのましこう)」に任命。これは具体的な権限がない名誉職だったが、同年12月には「内閣顧問」に、さらに明治7年「左大臣」へ任命し久光を政府の首脳の一人に迎えた。
一方、久光が提出した建白書は人々の間で話題になっていた。久光は反政府の旗手とみなされ、久光の元には全国から反政府的な内容の建白書が届いた。その数は150件にも登る。新政府の粗忽で早急な西洋文明導入に、日本社会にはそれだけ反発があったということなのだ。新政府への異議申し立ては、決して久光の独りよがりではなかったし、時代遅れの見解ばかりでもなかった。久光は政府内にいて反政府的立場の代表であった。そんな久光が自らの立場を表明したのが、明治7年頃に朝廷に提出した「20箇条の建白書」である。そこではこのようなことが批判されている(わかりやすいように現代文に意訳した)。
一、天皇の衣装を洋服に改めた
一、西洋の暦(太陽暦)を導入した
一、玉座(天皇の御座所)をはじめ皇室までも全て洋風に倣うようになった
一、各省が外国人を雇って彼らの指導を受けている
一、侍読に人を得ていない
一、侍従に人に阿る輩が多い
一、兵卒(身分の低いもの)を主君のそばに近づけている
一、役人が傲慢でだらしのないものが多い
一、華族の遊蕩を禁止していない
一、学校の規則を洋風にしている
一、都下の規則があまりに苛酷である
一、軍隊を洋式にしている
一、予算を顧みず不要不急の土木事業をしている
一、無用の役人を増やしている
一、邪宗(キリスト教)の蔓延を防がない
一、外国人との婚姻を許した
一、神祇官を廃止して神仏混合の教部省とし、弾正台・刑部省を合併して司法省を置いた
一、民部省と大蔵省を合併した
一、散髪脱刀して洋風になり、国風の衣装風俗を軽んじている
ここでも天皇の洋装がやり玉の筆頭に挙げられ、暦・皇室・行政・軍隊・学校・人々の風俗が洋式になったことを批判している。さらにキリスト教への禁令が緩んでいることを指摘し、神仏合同の教部省を設置したことをも批判した。久光は、あくまで神道一辺倒で国民教化を図っていくことを企図していた模様である。
こうした守旧的な意見がある一方で、役人の綱紀が乱れていることや不要不急の土木事業をしていることも指摘し、開化路線に伴う脇の甘い行政を批判したことは、政府にとっても痛いところを突かれた感があったかもしれない。
ところが、やはり政府は久光の進言には耳を貸さなかった。右大臣岩倉具視よりも上位の左大臣にありながら、久光は政府の中で孤立し冷遇され、いくら反対意見を唱えてもそれが真正面から受け止められることはなかった。そのため久光はさっさと辞表を出し、明治9年4月、鹿児島に帰ってきた。
その後、明治10年に西南戦争が勃発し、そして政府により鎮圧。久光自身は西南戦争とは距離を置いたが、西南戦争で南九州の不平士族が一掃されてしまうと久光の反政府の旗手としての影響力も減衰。こうして久光は、若い頃から心に期するところがあった歴史を軸に、晩年は一人の学者として静かに過ごすのである。
そもそも久光の学問好きについては、兄斉彬も久光の博覧強記に一目置いていたくらいである。久光は若い頃から詩歌や歴史に親しみ、多くの古典や重要書籍を収集し、またそれらを自ら筆写までして、一字一句を苟もしない綿密で厳格な学風をつくり上げていた。
そんな久光は、既に元治元年(1864年)に重野安繹(やすつぐ)らに命じて後に「皇朝世鑑」と呼ばれることとなる歴史書の編纂を命じている。これは紀伝体で編纂された水戸藩の『大日本史』を編年体に再編集し、簡約したものであり、神武天皇から後小松天皇の明徳4年(1394年)までの日本の歴史書である。
重野らは翌慶応元年(1865年)に「皇朝世鑑」全41冊を完成させ久光に提出したが、久光は自らこれに厳正な校正を加えた。というのも、久光自身が『大日本史』本紀列伝(本紀第1巻〜列伝194巻までの58冊)を自ら書写し、さらには異本との校合を綿密に行っていたのである。重野たちは編纂期間の短さや資料の不足から、半ば機械的に『大日本史』を再編集したのであるが、これに久光は誤記や脱文の指摘はもちろんのこと、『大日本史』に欠落している年月の記載を補って厳密な編年主義を貫徹させるとともに、『大日本史』の記述そのものにも検討を加え、自ら考証を行って完全を期したのであった。
そして強調すべきことは、この歴史書が編纂されたのが元治から慶応という時期にあたっており、薩摩にとっては薩英戦争の直後で、さらには禁門の変や第一次長州征討といった維新の事件が急転直下の展開を見せる、久光にとっても激動の時期だったということだ。このような時期に歴史書の編纂という平和的で悠長な事業に自ら取り組んだということは、よほどの思い入れがなくてはならない。
さらに「皇朝世鑑」編纂の後、重野安繹と近かった儒者水本成美(樹堂)へその続編の編纂も命じた。しかし「皇朝世鑑」は『大日本史』の再編集であったため短期間で編纂が可能だったが、その続編となると史料の収集から始めなくてはならず、一朝一夕ではなしえない大事業である。結局、この大日本史続編の試みについては頓挫したらしい。また「皇朝世鑑」自体も、稿は成ったものの維新のゴタゴタなどで結局刊行されることはなかった。
久光は明治9年以降、いわばこの流産した歴史書を書き直すプロジェクトとも言うべき『通俗国史』の編纂に、たった一人で取り組むのである。
そもそも日本の正史というものは、『日本書紀』に始まり『続日本紀』『日本後紀』『続日本後紀』『文徳実録』『三代実録』という「六国史」が残っている。しかしこれは神武天皇から第58代光孝天皇(平安時代)を以て終わっていて、その後は正史が編まれることはなかった。水戸藩の『大日本史』は大藩の財政を傾けるほど考究を尽くし編纂された大著ではあるが、紀伝体(正史は編年体で編纂されるものだった)で記述され、第100代後小松天皇(室町時代)で終わっているのが憾みである。
そこで久光は、自ら「六国史」を継ぐ国史を編纂するという壮大な企図を抱き、第59代宇多天皇から第100代後小松天皇までの歴史(つまり『大日本史』の扱う範囲まで)を『通俗国史 正編』全22冊として執筆。追って第101代称光天皇から第107代後陽成天皇までの歴史を『通俗国史 続編』全11冊として執筆した。時に明治16年のことであった。平安から江戸初期に至る歴史書を、久光は完成させたのである。なお「通俗」の名を冠しているのは、それが漢文ではなく漢字仮名交じり文で書かれた平易なものであるためだ。
この執筆にあたり、久光は毎朝必ず机に向かい、草稿より浄書に至るまで誰の手も借りず全て自らの筆で取り組んだ。第108代後水尾天皇以降についても『通俗国史 続々編』として執筆に当たったが、病に倒れ遂に完成することはなかった。未完には終わったが、『通俗国史』こそは久光が余生をかけた執念の大作であり、久光の学問の到達点であったといえよう。
さてここに一つの不思議がある。実は「皇朝世鑑」の完成した慶応元年、編者の重野らはその前編として神代の歴史も編纂してはどうかと提案しているのに、それを久光は「神代の事は大日本史の通り委しく書かせざるをよしとする歟、前編編集先は無用歟」として却下しているのである。慶応元年といえば、鹿児島では廃仏毀釈前夜である。未だ廃仏の運動は形になっていないとはいえ、久光も神道に傾倒していた時期だ。神代を扱う前編の方が政治的に重要と思われるのに、同じく提案があった続編の方のみを許可し、先述の水本成美へと命を下すのである。久光はなぜ神代の歴史書の編纂を許可しなかったのか。
そして明治9年以降も、力を入れたのは近世史であって神代については黙して語っていない。廃仏毀釈を行い神道国家薩摩の実現へと邁進した久光と、歴史家として神代を語らなかった久光に、微妙な距離を感じるのは私だけだろうか。
さらに不思議なことは、『三国名勝図会』に対する校正である。薩摩・大隅・日向(の一部)の名所旧跡を総覧する『三国名勝図会』全60巻は天保14年(1843年)に編纂されたものであるが、これにも久光は校正を加え、完全を期したのであった。現在『三国名勝図会』は、廃仏毀釈で破壊された寺院の往時の様子を詳細に知ることができる重要な史料となっている。しかし藩内の名刹を悉く破壊し、歴代藩主の墓石から戒名を削り取って新たに神号を刻みつけ、鹿児島から仏教の痕跡を消し去ろうとした久光その人が、一方でかつての仏教隆盛の記録を残すことに一役買っているのは、奇妙なことと言わねばならない。
私の考えでは、久光は晩年に至って廃仏毀釈運動について反省し、その償いとして『三国名勝図会』の校正を手がけたのだと思う。
明治政府は「文明開化」の美名の下に、よく吟味することもなく西洋の風習や文物を導入し、旧来の文化を容易に捨て去っていった。差別の撤廃や科学技術の導入といった進歩もあったが、それは全体としては旧文明の破壊だった。 幕末に通訳として日本を訪れたヘンリー・ヒュースケンは既に「いまや私がいとしさを覚えはじめている国よ。この進歩はほんとうにお前のための文明なのか」と西洋文明を日本が受け入れることに疑問を呈している。久光がこだわったのもこの点であり、日本の文明の滅亡を阻止したいという思いであったろう。
しかし守旧的意見が明治政府に全く受け入れられず、あえなく帰郷した久光は、いきおい自らの行動をも自省せざるを得なかったと思われる。明治政府が日本の文明を破壊したのと同様、自らも維新の熱に浮かれた文明の破壊者の一人であったと久光は痛恨したのではなかろうか。廃仏毀釈によって、鹿児島の仏教文化や信仰は文字通り潰滅してしまったのだから。私にはそう思えてならないのである。
「復古」を旗印にしたはずの維新運動は、いつの間にか「復古」の名の下にあらゆる制度や文化を組み替えていった。「太政官」や「神祇官」の復興など当初は復古的な政策もあったが、それは徐々に修正され、やがて「万国公法」が基準となり、日本を西洋に並ぶ文明国にすることが目標になった。
西南戦争の際、薩軍に歌われた「出陣いろは歌」というのがある。そこでも
大名つぶしたその時に
昔にかえるというたのも
うそと今こそ知られけり
と「復古」が「うそ」だったと非難されている。「復古」を貫徹させようとした国学者たちも、政府から疎まれ遠ざけられた。平田派の重鎮矢野玄道は「橿原の御代に返ると頼みしは あらぬ夢にて有りけるものを」と失望した。「橿原(かしはら)」とは、神武天皇が最初に都を置いたとされる場所である。「神武創業の始めに復る」などといっておきながら、日本の文化や習俗を尊重することもなかった明治政府の姿勢は失望されて当然だろう。
しかし久光はかつての狂信的な「復古主義者」としての相貌を改め、晩年は穏当な「保守主義者」となっていくように見受けられる。
晩年の久光は必ずしも明治政府とは対立的ではなかった。一定の距離は保ちつつも、政府の政策には協力的だったようだ。しかし一方で、自分は政府が破壊しつつあった旧文明を背負っているという自覚もあったのかもしれない。彼は「玩古道人」と号した。玩古——すなわち骨董品を楽しむ、という言葉に、新生日本が捨て去ろうとした旧文明をあくまでも愛し抜こうとする久光の気概を感じるのである。
事実久光は、歴史書の編纂や『三国名勝図会』の校正、島津家に残る史書の整理と保存といったことに取り組み、かつて廃仏毀釈を推進した市来四郎に命じて薩摩藩の幕末の事績を記録せしめた。こうして久光は死ぬまで薩摩藩の旧文明の保存に努めた。久光が残した史料群は「玉里島津家史料」として、日本の中世から近代にかけての歴史学には欠かすことの出来ない重要史料群となっている。
久光が余生をかけたのは、歴史と文化を残そうとするたった一人の戦いだったのだ。それは、廃仏毀釈の反省だけでなく、先祖伝来受け継いだ薩摩藩をなくしてしまったことへの償いだったのかもしれない。
一方で同時期、政府内においても歴史を巡る静かな戦いが始まっていた。中心人物は、「皇朝世鑑」を編纂した重野安繹である。
(つづく)
【参考文献】
『島津久光と明治維新—久光はなぜ、倒幕を決意したか』2002年、芳 即正
『大久保利謙歴史著作集 7』(「六 島津家編修「皇朝世鑑」と明治初期の修史事業」)2007年、大久保利謙
『學者としての島津久光公』中村徳五郎(『南国史叢』第3輯、1936年、薩藩史研究会)
『逝きし世の面影』2005年、渡辺京二
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