2016年5月14日土曜日

ホヤ的な商売のススメ

先日、加世田に「ダイレックス」がオープンした。ディスカウントストアである。オープンセールは大賑わい。

私も歯医者のついでに寄ってみたら、原価割れ必至の激安価格ばかり(タマネギ1玉9円には、農家的に心の痛みを禁じ得なかった……)。こりゃあ、人が来るはずである。

都会に住む人は、こういう面白味のない量販店が田舎に進出することに寂しさを覚えるかもしれない。このディスカウントストアのせいで、味のある個人商店が潰れてしまわないかと。もっというと、地方都市の衰退に拍車をかけてしまわないかと。

しかし田舎に住むものの実感としては違う。やはり、こうした店の進出は、それなりに街を活気づかせると思う。確かに個人商店はこれに太刀打ちできないが、商店街は既にシャッター通り化しており、潰れるべき小さな商店ももはやあまり残っていない。こうした店と競争しなくてはならないのは、同じようなショッピングセンター(たとえばニシムタ)だ。

「ダイレックス」の隣には、つい先日「ケーズデンキ」ができたばかり。近くには「西松屋」や「すき屋」もできているし、最近の加世田は企業進出が相次いでいる。南さつま市全体では人口はずっと減り続けているが、加世田の中心部に限って言えば人口は増えているくらいで(どこを中心部と見なすかによってどうとでも言えそうだが)、旺盛な需要が維持されているように見える。

ところで、「不況」というのは、要するに需要が供給を下回ることで起きる。作ってもものが売れないというわけだ。なので、不況を解消するには、供給能力を切り下げる(そもそも作るのを辞める)か、需要を増やすかの2つしか方法がない。 供給能力を切り下げるというのは、社会全体でリストラをするということに他ならないから論外で(※)、不況を終わらせる唯一の方法は「需要を増やす」ことなのだ。しかし悲しいことに需要を増やす簡単な方法はない。

なぜなら究極的には、需要というのは誰かの「あれが欲しい」という欲望(とそれに伴う購買能力)に立脚しているからである。必要のないものをどうすれば欲しがってもらえるか、というのが産業革命以降のビジネスが直面してきた難問中の難問なのである。この需要不足、という難問に突き当たっているのが日本の不況だ。

だが、田舎で過ごしていると需要不足をあまり感じない。今流行りの「マイルドヤンキー」の話ではなく、むしろ供給不足の方を強く感じる。つまり、買いたくてもそれを売っている店が近場にないということだ。実際、田舎でのある種のビジネスは殿様商売のようなところがあり、「他に選択肢もないでしょ」みたいな横柄な(というのは言い過ぎにしても、愛想がない)態度を取られることがある。

じゃあ、田舎の企業は大儲けしているのか、というとそんなこともない。需要は不足していないのに大儲けしないのは、「大儲けするほどの需要」はないからだ。

しかし、大儲けするほどの需要がないために、商店自体が少なくなっていき、今となっては南さつまの人も買い物に鹿児島市まで出て行くという人も多いのではないだろうか。休日に谷山(鹿児島市)のイオンに行くと、南さつまの知り合いに会う確率が高い。

つまり、田舎にも需要は確実にあるが、それを満たす供給は少ないのである。ここに田舎でのビジネスチャンスがあると思う。少ない需要をアテにしたビジネスというのは、厳しいようでいて、競争があまりないというメリットもある。

例えば、田舎の食堂を考えてみて欲しい。激安ではないがそれなりにリーズナブルな価格、掃除の行き届いていない店内、大昔から張られっぱなしのポスター、のんびりとした給仕係、いつも同じ顔が座るカウンター、お客と世間話をする店主、といったようなものを。

都会では、同じクラスの店の競争は大変激しい。ファストフードがそれにあたるだろう。きびきび動くレジ打ち、マニュアルに沿って勧められる追加の一品、秒単位で待ち時間を気にする人たち、ピカピカの店内、昼食時のどこか殺気だった雰囲気——。同じような商売なのに、どうしてここまで違うのだろうか? それは、都会では巨大な需要を奪い合うために激烈な競争があり、田舎にはそれがないからだ。

譬えるなら、都会でのビジネスはサメとして生きるようなものだ。投資(生きるためのエネルギー)も大きいが利益も大きい。これはこれでやりがいがある。田舎でのビジネスは、 同じ海で生きるのでも、イソギンチャクとかホヤ(海鞘)として生きるのに似ている。省エネモードで生きていて、目の前に餌が流れてきたときだけ反応する。利益も少ないが投資も少ないので生きている。

投資家として世界を見ると、利益は大きい方がいいに決まっているが、労働者として世界を見ると、利益率が低くても投資が少なくて済むのも魅力的である。というのは、簡単に言うとそんなに働かなくてもいいからだ。言い方を変えると、経営するなら都会のファストフード店の方が魅力的かもしれないが、働くなら田舎の食堂の方が楽かもしれないということだ。もちろん、これは単純化した話なので、実際にはこうはいかないかもしれない。でも多くの人が、薄々思っている。「田舎での仕事は楽だが面白味はない」というように。

確かに、田舎の食堂で一生を終えるのは面白味がないかもしれない。 都会にバラ色の生活があるのなら。しかし、現在の日本ではそこが怪しくなってきている。かつて自由な生き方として称揚された「フリーター」は、今や資本家に買いたたかれる安物の労働者になってしまった。同じ働くなら、田舎の食堂の方が面白い、という世界になりつつあるのではないか

そして、企業を経営するにしても、都会の激しい競争の中で周りに伍していくより、田舎で少ない需要をアテにした「ホヤ的な商売」をする方が、実は面白いことができるような気がしている。確かに売り上げはさほど期待できない。でもなるだけ固定費を抑えて、あんまり売り上げが無くても生きていける、というようなスタイルの商売にすれば、かえって自由な発想でビジネスを組み立てられるのではないか。

固定費を抑えた商売というと、例えば露天商のようなものだ。普通の人は、露天商などマトモな人がやる仕事ではないと思っているだろうが、最近盛んになってきたマルシェとかフリーマーケットは露天商の集合といえる。「南薩の田舎暮らし」がイベントに出店するのも一種の露天商である。

もちろん、専業で身を立てている露天商(縁日に出てくるテキ屋さんのような)の暮らし向きがいいとは思えない。しかし、ブラック企業でボロボロにされるような働き方をするくらいなら、不安定な零細商売でやっていくのも悪くはない。

田舎への移住というと、すぐに「仕事がない」という反応がある。それは事実で、確かに「求人」は少ない(ただし介護関係を除く)。でも仕事がないわけではないと思う。田舎には満たされていない需要が意外とある。 「ダイレックス」が加世田に進出してくるくらいである。私はこうしたお店も肯定するが、でも個人の才気による小さなお店がこの街で生まれたらなお面白い。田舎には大きなチャンスはないかもしれない。でも小さなチャンスがたくさん転がっている。南さつまへ進出してくる、商売の新しい才能を待っています。


※と書いたものの、実は「供給能力の切り下げ」は真面目に検討すべき方策だと私は思っている。

2016年5月9日月曜日

子どもが小学生になると親も大変

少数ながらこのブログをチェックしてくれている人がいるのは知っている。……というわけで、最近あまり更新できていなくてすいません。

というのも、タダでさえ4月というのは田植えやら春作の植え付けやらで忙しいのに、上の娘がこの4月で大浦小学校にめでたく入学して、どうもまだ生活リズムが摑めず、ブログを書く時間が取れずにいた。

まだ子どもが小学校に上がっていない人は、子どもが小学生になっても親にはそこまで関係ないだろ、と思うかもしれない。実際、さほど影響を受けないという親もいるので、みんながみんなそうだ、というわけではない。

でもうちの場合は、(自分がだらしないこともあり)小学校に対応するのに親が苦労している。

まず何に苦労するかというと、子どもを早起きさせないといけない。うちは、大浦小学校から2キロくらい離れたところにあって、子どもの足だと45分はかかる。8時までに始業準備を終えることとされているので、7時には子どもを家から出さないといけない。

そのためには、6時には娘を起こさないといけない。朝の準備をもうちょっと能動的にこなせるようになったら出発30分前に起きるくらいでもいいだろうが、今はまだ「制服に着替えなさい」とかいちいち言ってる段階なので、1時間くらいかけてノンビリ準備させる方がこっちの気が楽である。

で、6時に起こすためには夜は8時半に寝かしたい。この頃の子どもは10時間くらい睡眠を必要とするらしいので、理想的には8時就寝がいいが、それだと早すぎて親の方が対応しきれないので8時半にしている。でも8時半でも十分早い。5時過ぎに学童クラブから帰ってきて就寝するまで3時間くらいしかない計算だ。この間に、ご飯を食べてお風呂に入って次の日の準備をして、本を読んで、となると本当にスケジュールが過密である。実際、このスケジュール通りにいってる日は4日に1回くらいかもしれない。

でも早寝させたら、夜に自分の時間を長く取れるので良い面もある……はずだが、下の子の生活リズムはまだそういう風になっていないので、下の子は10時近くまで起きていることがよくある。そして当然ながら朝寝坊である。結局、何が大変かというと、小学校の上の子と、保育園の下の子という二つの違うリズムで動いている相手を世話しないといけないことなんだろう。両方小学校に上がったら、随分楽になる気がする。

ところで、大浦小学校の新一年生は10人。幸いにしてまだ複式学級ではなく、今後数年はその規模が維持される見通し。大浦小学校は、かつて「南薩一のマンモス校」と呼ばれたらしく、児童数が1500人を超えていたこともあったそうだ。広々とした校庭がかつての賑わいの名残である。今では、この校庭は子どもたちには広すぎるくらいだ。

ちなみに、幸いにして、近くに小学生4年生と3年生の先輩がいるので、朝はその子たちと一緒に登校させてもらっている。

入学して2週間くらいは学校近くまで一緒に歩いて慣れさせた。次の2週間は、その先輩のお家まで送っていった。こうして、朝いちいち送っていくのがまた大変だった。でも今日は、先輩のお家へも独りで歩かせてみた。それで、今日めでたく、家を独りで出て行くということができるようになったのである! よかったよかった(小学生に人気のない道を45分も歩かせていいのか、安全面とか大丈夫なのか。という観点からすると全然よくはないのだが、そこは悩ましいところ)。

というわけで、親の方もだんだん小学校の生活リズムに慣れてきて、ようやく新年度の仕事に身を入れていけそうです。

2016年4月23日土曜日

ホンモノレトロな村田旅館がステキにリニューアル

以前ブログ記事で紹介した村田旅館。改装されたと聞いていたが、どうなっているのかずっと気になっていた。

【参考】ホンモノレトロな村田旅館が素晴らしい

改装で素晴らしい部分がなくなってしまって、機能的でオシャレだがどこにでもある施設になってしまわないかと心配していたのである。というわけで、先日、用事で村田旅館を訪れた折り、少しだけ改装箇所を確認してきた。

一番心配していたのは、冒頭写真の洗面所のタイルである。ここが残っていて本当によかった!

昔の手洗い場のタイルはこういうデザインが多かったが、今では全く絶えてしまった様式である。我が家も改装前、お風呂の手洗い場(お風呂の中に手洗い場があったのです)はこれ式のタイルだった。丸っこい小石みたいなのが敷き詰められた感じのこのタイル(と呼んでいいのか)、本当に好きだ。5分くらい眺めていても飽きない。

それから、メインの洗面所の流し台のタイルも残っていてなにより。

ここの流し台のデザインはとても瀟洒で、あか抜けている。昔はこういうデザインの流し台が流行ったんだろうか。寡聞にして知らない。質感もとてもよく、キレイに掃除するのが生きがいにでもなりそうな、そういう流し台である。

ちなみに、細かいことだがここの電灯のスイッチが昭和なやつなのもよかった。本当は、電灯がもっと薄暗かったらなお雰囲気が出ると思う(当日、ちゃんとしたカメラを持っていなかったので写真がイマイチですいません)。

私が水回りばかり気にしているのは、立派な梁とか階段の手すりのような構造・意匠はどこでも残りやすいのだが、水回りは真っ先に改装される部分であるためなかなかホンモノのレトロが残らないためである。水回りを昔ながらに残していくためには、丁寧なメンテナンスが求められる。つまり村田旅館の洗面所のタイルがちゃんと残っているのは、維持管理の丁寧さの現れだと思う。

といっても、女性にとっては「やっぱウォシュレットがあった方が…」とか「薄暗い洗面所だと化粧がしにくい」といった事情はあるだろう。

そういう声を考慮してか、村田旅館でもトイレはそれなりに改装されており(でもやっぱりタイルはそのままだった。立派)、特に手洗いの流しが変わっていたようだ(男性用だけしか見ていないので女性用はどのようになっているかわかりません)。

そして安心したのは、その前の鏡! 昔からある広告入りの鏡がちゃんとそこにあるではないか。「御菓子の小田屋」(地元の老舗和菓子店)の広告が入った鏡である。前も書いたが私はこういう広告入り鏡が好きで、改装後も見たところ広告入り鏡がほぼそのままになっていたのには安堵した(ただし、場所が変わっていたものがありました)。

ちなみに、なぜ昔の鏡には広告が入っていたのかというと、昔は鏡がかなりの高級品であったために、おいそれと鏡を購入するということができず、スポンサーを募って鏡を買っていたのの名残のようである(推測)。この「御菓子の小田屋」の鏡が設置された頃は既に鏡は高級品というほどでもなかったと思うが、鏡に広告を入れる文化がまだ残っていたのだろう。この頃(おそらく昭和50年代?)までは、店舗の新築・改装などの時に御祝いの品として鏡を送るという文化もあったように思われる。

なお、お風呂がどうなっているのかが気になるところだが、宿泊で行ったわけではないのでさすがに見に行くのが憚られ確認していない。ただし、かなり工事をしてキレイになったらしいということは聞いた。

改装は、全体として壁紙の張り替えや建具の入れ替えなど内装関係が中心で、構造的な部分にはほとんど手をつけていないようだ。入り口すぐにある2階への急な階段(この階段がまたすごくいい感じ)などもそのままになっており、これもよかったところである。

逆に言うと、各所の段差などもそのままであるため、バリアフリー対応の面では遅れていると言わざるを得ないが、バリアフリーだがつまらない旅館より、バリアフリーでなくても味のある旅館に泊まりたいという人はたくさんいるのだから、今後も無理にこの建築物の構造を変える必要はないと思う(※)。

客室の中はほとんど見ていないが、今回の改装は、改めるべきを改め、守るべきは守ったような気がしている。欲を言えばあまりキレイにならないようにしたらもっとよかったと思うが、ちょっと使い古された感がある方がよいというのは私の偏った好みで、普通はキレイな方が好まれるわけだから、お客さんの目線に立った改装だと思う。

ところで、今回は宴会利用で村田旅館を訪れたのだが、宴会料理も処理が丁寧で全て美味しくいただいた。宴会料理は大量に作るのでどうしても手抜きになりがちだが、ここはレトロ関係なく料理が本当に美味しい。たくさん余ったので包んでもらい、家でも美味しくいただいた。

というわけで、ホンモノレトロな村田旅館は健在である!


※バリアフリー法によって、旅館はバリアフリーに努めないといけないとされているが、あくまで努力義務である。

2016年4月21日木曜日

花と情緒

大浦の玄関口「くじらの眠る丘」では、芝桜が満開である(でももう盛りは過ぎた感じ)。

この芝桜がどうしてここに植えられたのかは知らない。地域の要望があったわけでもないようだ。植えられた時は、(工事に随分とお金がかかったようなので)芝桜を植える予算があるんなら、別のことに使った方がいいような…と思っていたが、こうして花が満開になってみると、なかなか悪くない風景である(でも、以前の芝生もそれはそれでよかったと思う)。


せっかくこうしてキレイな芝桜の風景が出現したので、これを活かして何かしてもいいかもしれない。

隣にある大浦ふるさとくじら館(物産館)で物販イベントをしたらどうかと思ったが、この時期にはちょうどめぼしい農産物がなく、また春先ということで農家も春作の準備で忙しい。その上、3月半ばには「たんかん祭り」が開催されているのでイベント後ということもあり、「くじら館」全体の物販イベントを企画するのは難しいかもしれない。

でも満開の花があると、自然とそこに人は集まってくるものだ。最近は、ひねた(?)地域おこしなんかより、花を植える方がよっぽど効果があるという話もある。

例えば、お隣の川辺に大久保集落という所があって、毎年晩秋に一面のヒマワリを咲かせている。ここは川辺の山の中にあり、見るべきものはヒマワリ以外何もないのだが、季節になるとけっこう大勢のお客さんが訪れる。ただヒマワリを見るだけのために。かくいう私も昨年子ども2人を連れて行った。

もうその頃はヒマワリも終わりの頃だったが、多くの車が路駐してあり(駐車場らしきものがない)、たくさんの人たちがヒマワリの中で写真を撮っていた。だが、そこで何かを売っているとかそういうことはなくて、基本的にはただヒマワリを見て帰るだけのところである(盛りの頃は何かしているのかもしれません)。

要するにこれは、ヒマワリで客寄せして何かしようということではなく、ここへ来てもらってヒマワリを見てもらうだけでいい、というような活動らしい。なぜ大久保集落がこのような奉仕活動をしているのかは知らない。種代や圃場準備のための燃料代もバカにならないと思うが、基本的には持ち出しで活動しているようだ。でも結果的に、これは「地域おこし」になっていると思う。

ヒマワリを植えるという、たったそれだけのことで、「地域おこし」になるのである。お金にはならなくても、来なかったはずの人がそこへ訪れ、出会う、というだけでも素晴らしいことであるし、ステキな風景を作るために地域の人が協力するということ自体が、既に「地域おこし」だろう。

いや、それどころか、特産品づくり、観光振興、地域のブランド化、箱物整備、ゆるキャラといったありがちな「地域おこし」よりも、こちらの方がずっとよいのではないかとすら思う。大久保のヒマワリは経済効果という点ではほぼゼロだと思うので、経済至上主義的地域おこし(結局はお金儲けにならないと意味ない、という立場)からは評価されないと思うが、地域に住む人が元気になるだけでも十分に意味がある。

……ところで、以前書いたように今年は「風景」についていろいろ考えている。もちろん「花のある風景」についても。

例えば、どうして花畑を見ると人は元気になるのか? というようなことだ。

打ちひしがれている人を少しでも元気づけるというのは、本当に難しいことで、千言万語をつくして励ましても、気が滅入っている人を笑顔にさせるのは普通できない。むしろ、千言万語をつくすほど、元気づけることから遠ざかるような気さえする。

今、熊本・大分の被災地には精神的に辛い人がたくさんいると思う。近親の方を亡くしたり、地震の恐怖に怯えたり。悲しみと恐怖、不安と絶望。被災して何もかも奪われるということは、途方もない精神的負担を強いられる。

それで、最近は被災者の精神的ケアということがいわれるようになって、例えば東日本大震災の時は「傾聴ボランティア」というものが実践された。これは、「被災者の気持ちをとにかく聞いてあげる」というような活動で、辛いことでも人に話すとちょっとは楽になるということから行われたものだ。

しかし本当に辛い時にはなかなか人に心を開けないもので、カウンセリング(心理療法)などにおいても、具体的なアドバイスより、クライアント(患者)に心を開いてもらう「聞く」技術の方が難しい。バーバル・コミュニケーション(言葉によるコミュニケーション)は理屈的なものを解決していくには適しているが、情緒的な問題を扱うにはあまりに生硬すぎて遠回りな問題解決しかできない面がある。

では、花はどうか? 滅入っている人が、一面の花畑を見たら?

広島の世羅高原というところは花と果樹で有名で、菜の花と菊桃のすごい観光農園があるそうだ(私は行ったことない)。そこでは「挫折した人生をもう一度やり直してみる」と泣く人がいたり、仕事を辞めようと思っていた人が思い直したり、ただキレイというだけでなく人の心まで変わるようなところらしい(少し誇張はあるでしょうが)。

風景には人の心を変える力が確かにあるのだ。

「挫折した人生をもう一度やり直してみる」という人は、どうして花畑を見ただけで気持ちが切り替わったのか。これはよく考えてみないといけない問題である。心理療法の理論では、気が滅入った状態にある人がそれから回復するためには、おおよそ(1)問題の自覚、(2)混乱した状態を解きほぐし、個別の問題に分割、(3)それぞれの問題への対処・気持ちの整理、というような道筋を辿る必要がある。カウンセラーは、クライアントの話を聞きながら問題の本質に迫り、その根本原因が解決するように導いていく。しかし、風景による心の癒しは、そういうものとは全く違う。

問題を解決させるとか、そういうことは全くないのに、なぜか心が癒され、気持ちが整理されるのが風景である。もちろん、万人に通用するわけではない。同じ風景でも、ある人にとってはなつかしい故郷の風景で、ある人にとっては縁もゆかりもないただの地方都市の風景であったりするわけで、同じように花畑を見ても何も感じない人もいる。

しかし、東日本大震災の時に「奇跡の一本松」がどれほどの人に希望を与えたのか、ということを思い起こしてみよう。一本の松には、実利的な価値はほとんどない。一本松の保全なんかにお金をかけるなら、もっと他の実用的なものにお金を使ったらどうかと思った人もいるだろう。だが、ある種の植物は象徴的な価値を持ち、人の情緒を代弁することがある。特に松は、擬人化されたり気持ちが託されたりしやすい植物だ(たぶん、一本残ったのが杉や檜だったらああはならなかっただろう)。

一方、花は情緒を伝える性格を持つ植物で、花が贈り物になるのはそのせいだ。だが、「一面の花畑」には一つ一つの花とはまた違った性格があるようで、私にもそれははっきりとはわからないが、「普段の生活をしばし忘れ、あるがままの自分を回復させる」とでもいいたいような機能があるように思う。だから、「人生をもう一度やり直してみる」という気持ちの変化が起こるのではないだろうか。

今から考えると、東日本大震災の時の復興支援ソングが「花は咲く」だったのは象徴的である。「心の復興」というのは、「家が建つ」でも「街が活気づく」でも十分ではない。もちろんそういったものは絶対必要で、それがないと復興とはいえない。だが、その上で「花が咲く」までいかなくては人間の復興にならないのかもしれない。

これから、熊本・大分の人たちは長い復興の道のりを歩かなくてはならない。今は緊急的に必要なものすらない状態で、花についてどうこう言うタイミングではないと思う。

でも、被災した人たちに早く「花が咲く」よう祈っています。

2016年4月9日土曜日

アボカドオイルを搾った話

以前ちょっとだけ書いたことがあるとおり、私の住んでいる集落は「共生・協働のむらづくり活性化事業」に昨年度まで取り組んでいた。

それで、その活動の一環として、私は農産加工品の試作をすることを命ぜられていた。去年集落でアボカドの苗を40本くらい植えたので、そのアボカドの収穫を見込んで、特にアボカドを利用した加工品を検討してはどうかと言われていた。

それならば、ということで、先日、以前から自分としても興味があったアボカドオイルの搾油に取り組んでみたので、参考までにその次第をここに書いておく。

アボカドオイルというのは、アボカドの果肉を搾って取った油のことである。ゴマ油にしろ菜種油にしろ普通の油というのは種から搾るものだが、その例外がアボカドとオリーブで、これらは果肉を搾って油を採る。果肉を搾ったものは普通「果汁」と呼ばれるわけだから、これらのオイルは果汁から採れる油なのである。

このアボカドオイル、最近健康によいとか美容によいとかでずいぶん注目を集めており、ネットで検索すると記事がたくさん出てくる。自分自身ではアボカドオイルを使ったことがないので効果がどれほどのものなのか分からないが、不飽和脂肪酸の含有量の高さなどがオリーブオイルと近いということで、少なくともオリーブオイル程度の健康オイルではあるらしい。

ちなみに、アボカドオイルのもう一つの特徴は沸点がかなり高いこと(250℃くらい)であり、カラッとした揚げ物に向いているそうである(でも値段が高いので実際には揚げ物には使えない)。

アボカド自体が日本でもかなり市民権を得てきて、この辺境の地(大浦)でもスーパーにアボカドが売っているくらいだから、次はこのアボカドオイルが絶賛注目中なのだ。

とまあ、そんなアボカドオイルを商品化できたら、独特な特産品になるかもしれないということで、アボカドオイルの搾油に取り組んだわけである。

さて、先ほど書いたように、アボカドオイルはその果肉から搾る油なので、最初はオリーブオイル方式で搾油してみようかと思っていた。 つまり、果肉をミキサーにかけて揉み揉みし、出てきた果汁に浮いてきた上澄みの油をとるやり方である(あくまで家庭用のやり方)。

しかし、九電工が熊本の天草でやっている「天草オリーブ園」というところでオリーブオイルの搾油を一度体験したことがあって、 この方法もかなり非効率的であることがわかっていたので、やはり圧力をかけて搾油するほうが簡単なのではないかと思い、今回は果肉を乾燥させてから圧搾する方法でやってみた。

つまり、オリーブオイル方式だと「果肉→果汁・カス→水分・油」と分離して油を採るわけだが、まず果肉を切ってよく乾燥させれば、果肉→(水分乾燥)→カス・油となり、分離する手間が省けるのではないかと目論んだのである。

実際、アボカドの果肉をスライスして乾燥させたら冒頭写真のようになって、もうそのままで油が採れそうな感じになった。写真だとしっとりした感じに見えるが、実際はカラカラに乾燥していて、濡れているように見えるのは浮いてきた油でギトギト・ヌメヌメしているからである。

これを、PITEBA(ピテバ)という機械を使って搾油した。PITEBAは途上国の農家の自立支援のために作られているらしい簡易的な搾油機である。本当はちゃんとした搾油機を使いたかったが、ちゃんとした搾油機は少なくとも10万円以上はするので予算の関係から簡易的なもので我慢することにしたわけだ。

↓PITEBAはこんな感じ。


結果は、正直言ってほとんど搾れなかった。この機械はあくまで種から油を搾る機械で、ちゃんと注意書きにも「オリーブオイルは搾れません」と書いており、果肉を搾ることは想定されていないのである。乾燥させたら大丈夫かなと思ったが、乾燥させてもブヨブヨした果肉はなかなか機械に入っていかず、入っていっても先端のスクリュー部分でうまく圧力が掛からない。

圧力が掛からないから、油がかなり含有された状態でカスが排出されてしまい、無駄が多い。そもそもアボカドに含有されている油分が多いから、それでもそれなりに搾れたが、搾油率は50%以下だったと思う。

採れたアボカドオイル(濾す前)はこんな感じである。香りが独特で、油というより草っぽい香りがする。上質なオリーブオイルも草っぽい香りがするものだが、やはり同じ果汁系オイルであるだけに質感が近いと思った。

また、色もエメラルドグリーン(写真だとちょっとわかりにくいですが)で、オイルっぽくない(葉緑素が溶けているためらしい)。これを濾紙で濾してみると黄色っぽくなって普通のオイルの色に近くなったが、濾す前の方がアボカドっぽくてキレイかもしれない。

しかし、10個のアボカドから採れた油が100gにも満たないくらいだったので、ちょっと搾油の実験としては失敗である。果肉を乾燥させてから搾るにしても、やはりジャッキ式でちゃんと10tくらいの圧力が掛けられるようにしないと搾油率が低すぎて商業的には難しい。

また、オリーブの場合は(抗酸化オイルとか謳ってる割に不思議なのだが)収穫後24時間以内に搾油しないと品質が劣化するとか言っているのに、アボカドの果肉を(今回の場合は2日間も)乾燥させて搾油したら、油が劣化するのではないかというのも気になった。これは今後ちゃんと調べてみないといけない。

ちなみに、実際売っているアボカドオイルはどうやって作っているのかというと、WEBで調べる限りでは果汁を遠心分離して水と油に分けて作っているようである。工業用の遠心分離器はすごく高そうなのでアボカドオイルづくりのために遠心分離器を導入するのはちょっと現実的でないような気もする。やはり、ジャッキとか気軽に手に入るもので搾油できないと難しい。アボカドオイル屋さんになろうというわけではないので、高額な機械の導入は無理である。

ところで、わざわざアボカドからオイルなんか採らないで、アボカドはそのまま食べたらいいじゃん! と思うかもしれない。その通りである。青果で食べられるものは無闇に加工せず、そのまま食べるのが一番だ。国産アボカドは1個250円以上はするとかいうので、わざわざ油を採らないでそのまま売った方が簡単で収益性がよさそうだ。

しかし、アボカドの場合、「受粉樹」というのが必要である。受粉樹というのは、要するに花粉のために育てる樹のことで、これがないと実がとても付きにくくなる。私の場合は受粉樹に「メキシコーラ」という品種を植えている。この品種は寒さに強く生育が旺盛であり、育てやすい品種なのだが、悲しいことにあまり美味しくない。なのでせっかく実がなってもそれを売ることができない。受粉樹もそれなりの本数があるので、これを利用しなくてはもったいないわけだ。

ということで、この「メキシコーラ」という品種からアボカドオイルが採れればとても嬉しいわけである。世界的にもこの品種は油を採るために育てられていることが多いのではないかと推測され、「メキシコーラ」から生まれた「メキシコーラ・グランデ」という品種は油の含有量が特に高いことで有名だそうだ。

とはいうものの、今回、アボカドオイルを初めて搾ってみて、ここでアボカドオイルを商業的に成り立たせるのは難しい感じがした。菜種油のようなシンプルな搾油であっても国産で作るとかなり高額になるのに、アボカドの場合は材料(果実)にも菜種などと比べるとコストが掛かる上、かなり手間がかかる搾油法をも必要とするのでそこが一番のネックじゃないかと思う。そのあたりにあるようなローテクな機材を使って効率よく搾油する方法が出来れば、100mlを2000円で売って採算が合いそうな気がする(予想)。

でもアボカドの栽培をしているところ自体が日本では限られている中、アボカドオイルまで出来れば相当な話題性がある。話のタネとしてであっても、「南薩のアボカドオイル」ができたらこれは面白い。今回は成功とはいえないが、引き続きアボカドオイルづくりに取り組んでみたい(でも実際アボカドが収穫できるようになるのは先の話なので、気長に)。

2016年3月26日土曜日

「薩摩文旦」サワーポメロの定植

以前、サワーポメロには将来性があるのではないかという記事を書いた。

その時は、自分では「これから増やしていこうという気もないが…」と書いていたものの、いろいろ考えてみて、理屈の上ではやっぱりサワーポメロは将来有望だと確信するに至ったので、今年約30本サワーポメロを植えてみた。

時々農作業を手伝ってくれる父も「今時サワーポメロが売れるはずがない」と言っているし、周りにもサワーポメロに力を入れている農家はいないので、ある意味リスクのある選択だが、理詰めで考えてこうだとなったら、それを実行に移してしまうのが私のサガである。

ところで、このサワーポメロというもの、調べてみると実体がはっきりしない。

「サワーポメロ」という柑橘には鹿児島県以外の人は馴染みがないと思うが、それもそのはずで実は「サワーポメロ」という柑橘は存在しない。これはブンタンの一品種「大橘(オオタチバナ)」というものの鹿児島県での通称・愛称であり、柑橘の分類としては単なるブンタンなのである。

昭和の終わり頃、鹿児島県が「大橘」を将来有望なブンタンであるとして生産奨励を行い増産を図ったことがある。この時、「ブンタン(大橘)」では社会へのアピールが足りないということだったのだと思うが、鹿児島県と鹿児島県経済連でこの品種の通称を公募したのである。それで、昭和60年に「サワーポメロ」という通称が定まり今に至っている。年寄りに聞くと「昔はサワーポメロなんかなかった」と言われるが、おそらく、この通称決定以前はこの果物は単に「ブンタン」と呼ばれていたのだろう。

しかし、この名称が定まった時には、時代は既に軽薄短小で食べやすい果物へとシフトしてきていた。ブンタンのように、大きくて皮が剝きにくく、包丁を使って処理しなければならない柑橘は人気が出なかった。結局、「大橘」は増産されたものの、期待されたほどの利益が生まれず、今では県内で40haくらいしか生産されていない。実はまだ生産奨励品目から外れていないらしいが、実際にこれを増やしていこうという農家は少数だと思われる。

さらに、このような経緯で「サワーポメロ」という名称が定まったためもあるのだと思うが、この果物は名称が混乱している。同様のブンタンが熊本県では「パール柑(カン)」という名称で販売されているが、この「パール柑」と「サワーポメロ」が同じものなのか、違うものなのかもあやふやである。

「パール柑」は、鹿児島の垂水の果樹試験場にあったブンタンを原木にして熊本県で育成されたものであるが、これが昭和20年代のことであったために、同じ果物が鹿児島と熊本で違う名称で呼ばれることになった、と言われている。

とまとめたら簡単なのだが、実はそうはいかない。

「パール柑」と「サワーポメロ」は別物だ、という説が存在するのである。曰く、「パール柑」は「サワーポメロ」ではなく、「土佐文旦」だというのである。実際、苗木屋のカタログを見ると「土佐文旦(パールカン)」と書いてある。そして、「土佐文旦(パールカン)がサワーポメロとして販売されていることがあるので注意」などと但し書きがあったりする。どちらが本当なのか。

しかし、今度は「土佐文旦」を調べてみると、これは「サワーポメロ」と同一品種だという情報もあるのだ! 「土佐文旦」は「土佐」とついているが、実はこれも鹿児島の加治木にあったブンタンから増殖させたもので、実際は鹿児島のブンタンであり、その原木がどうやら今で言うサワーポメロかその近縁種だったらしい。これを元に高知県で原木が確立したのが昭和4年の話である。

となると、結局「大橘」=「サワーポメロ」=「パール柑」=「土佐文旦」、ということになるが、苗木屋のカタログでも「サワーポメロ」と「土佐文旦」は別の苗木として販売されており、それどころか収穫時期や果重、果実の特性(ジューシーさなど)も違うと書いてある。うーん、真実はなんなのか。

実は、「大橘」は鹿児島在来のブンタンであり、来歴は不明ながら、いわば自然発生的な品種のようである。つまり誰かが品種改良して作ったものではなく、ブンタンを育てているうちに交配を繰り返していつからか生まれた品種ということになる。なので、現代でいう「品種」にぴったりこないところがあるのだろう。そのため、同じ「大橘」でも様々な変種や亜種が存在して、同一品種が違うものとして認識されたのかもしれない。

そもそも、鹿児島はブンタン類の本場である。中国からブンタンの原種が渡ってきたのが鹿児島の阿久根だという。大橘だけでなく、鹿児島ではかつてたくさんのブンタンが自然発生的に栽培されていたようだ。ブンタンの大きな果実はどことなく南国を彷彿とさせ、鹿児島の南国ムードを演出するのにも一役買っていた。「ボンタンアメ」(鹿児島では、ブンタンは「ボンタン」と発音されることが多い)とか「ざぼんラーメン」はいかにも鹿児島な感じがする(ざぼん=朱欒はブンタンのこと。ざぼんラーメンは鹿児島のラーメンの老舗で、別にラーメンにブンタンが入っているわけではない)。

今から考えると、大橘の「サワーポメロ」という通称があまりよくなかったかもしれない。「サワー」と言いながら酸っぱさが際立っているわけでもないし、どことなく外来の品種のような感じがして地に足がついていない名称である。むしろ鹿児島在来のブンタンであることを誇り、シンプルに「薩摩文旦」で良かったのではないか。そっちの方がずっとわかりやすくて認知が進んだような気がする。

「土佐文旦」で文旦の栽培振興を行った高知県は、今では鹿児島を遙かに凌ぐブンタンの産地となっている。「土佐文旦」から生まれた「水晶文旦」は、非常なる高級品を産み、一玉2000円もする極上品が販売されてもいる。ブンタン栽培の中心地はすっかり高知県になってしまった。


もちろん、鹿児島を改めてブンタンの産地にしていこうというのは、ちょっと無理があるだろう。だが、「大橘」は戦前のブンタン類の中では最高の品種とされていたそうである。高知みたいに上手く栽培・販売はできないにしても、在来の「大橘」はまだ活かす道があるのではないか。改めてその可能性を信じて、「薩摩文旦」を作ってみるのも一興だろう。

【参考】
広報いちき串木野 2015.2 VOL.112 「知っておきたいサワーポメロの話」(p.11)

2016年3月22日火曜日

縁あってアーモンド栽培がちょっとだけ拡大

アーモンド栽培の記事は、「南薩日乗」の中でも特に反応(アクセス数・コメント)がある。日本でアーモンド栽培に取り組んでいて、それをネットで発信しているところはごく限られているためだと思う。

【参考】アーモンドは無様に失敗中(2015年11月)
【参考】アーモンドはじめました(2014年5月)

そのお陰で、「アーモンド畑を見せて欲しい」という人も結構いる。正直、栽培がうまくいっていないので、実際に見たらガッカリすると思うが、うまくいっていないことも含めて参考になったらと思う。

先日は、突然連絡があって、「アーモンド栽培がうまくいかないのは台木のせいだと思う。自分は苗木屋だからアーモンドの穂木を送ってくれれば適した台木に接いでみる」という話がきた。ブログへのコメントならまだしも、わざわざ電話をくれるなんてただ事ではないし、そういう縁は大切にしたいので早速穂木(ほぎ=新芽がついた枝)を取って送った次第である。

それでさらに、穂木を送ってくれたお礼として、ダベイという品種のアーモンドと黄金桃という受粉用の桃の木の苗木も送って下さった! わざわざ山形から! こちらからお礼しないといけないくらいなのに恐縮である(もちろん、お礼の柑橘を送りましたが)。

というわけで、送られてきたアーモンドも定植したので、アーモンド栽培はちょっとだけ拡大である。この機会に、これまでの反省を込めてアーモンド栽培のポイントをまとめてみたい。(あくまで南薩の気候における栽培です)
  • 最重要なのは排水。日当たりも重要だが、それよりも排水がよいところを選ぶこと。大雨が降ったら水が溜まるようなところは絶対に避ける。
  • 風には弱いので、台風対策をしっかりすること。丈夫な支柱にくくりつけるべし。
  • 土壌は、よく団粒化して通気性がよいところが理想であり、弱アルカリくらいがよさそうである。(私の圃場は粘土質なのでよくない)
  • 梅雨時が試練。梅雨に入る前に下草をキレイに刈って、カタツムリ対策に万全を期すこと。
  • 雨量の少ない地域の方がうまく栽培できると思う(年間降雨量1000ミリ程度)。
まだよくわかっていないのは、肥料について。私の考えでは、果樹はあまり肥料をあげない方がよいと思うのだが、アーモンドの苗木の場合はどうあるべきかよくわからない。肥料を上げた方が初期生育は早いような気もするが…。肥料の実験以前に、それ以外の要素で生育が不調なので実験のしようがないところである。

ともかく、アーモンドの着目度は高く、これが繋いでくれた縁も既に多い。今のところ全然うまくいっていないが、これでは終われないので、まだまだ悪あがきを続けてみたい。それどころか、詳細はまた別に書くが、アーモンドだけでなく、これからナッツ系を充実させていって、ナッツ園を作っていきたいという計画もある(たぶん、そういうコンセプトでやっている農家は日本でも数少ないはず)。

というわけで、今後のアーモンド栽培にも乞うご期待!(今までが失敗続きなので、期待する要素があまりないですけど、潰滅しない程度を期待してください!)