2016年2月7日日曜日

寄り道と街の発展

イオンのショッピングモール
前回の記事で、「イケダパン跡地を有効利用したら?」ということを書いたら、思いの外賛同の声があったので、調子に乗ってまちづくりについてもうちょっと語ってみることにする。

さて、加世田には、南さつまの中心街として物足りないことが一つある。

それは、「歩いて楽しむ通り」がないことだ。都市には、いくら車がたくさん通行していてもそれで十分ではなく、「人通り」のある場所が必要だ。

歩道がいくらでもあるじゃん、と思うなかれ。言いたいのは、歩道があるとかないとかそういうことではなくて、なんとなく歩いても楽しく、いつも幾ばくかの人が歩いていて、できればステキな店へと通じているような、そんな通りがないということである。

…ところで、いきなり話が変わるようだが、東京から田舎に越してくるとみんな運動不足になる。東京では電車移動が中心で、駅から目的地まで歩くのは当然として、乗り換えでだって駅で結構な距離を歩かされるから日常生活で結構歩くのだ。通勤通学するだけで2キロや3キロ歩いている人はザラではないだろうか。

その上、街は歩いて回遊するように出来ているから、散歩すると楽しい。私も東京に暮らしていたとき随分散歩が好きだった。道すがらいろんなお店を見つけたり、史跡に出会ったりするのがとても楽しかった。今でも散歩は好きである。でも、やっぱり田舎だと車移動が中心になる。これはしょうがないことだとは思う。

でも街のどこかに「歩いて巡る場所」がなければ、その街は衰退していかざるをえないように感じている。歩くことと文化・経済の発展とは、意外に大きな関連があると思うからだ。

東京で街中を散歩すれば、楽しいがやっぱり疲れる。歩くのは結構な運動だ。そして疲れるから休みたくなる。だからカフェに入って休憩する。そこで見知らぬ人との出会いがあったり、立ち止まって物事を考えたりする。それが人生に新たな展開を生む。それが都市に生きることの醍醐味だと私は思う。歩く、買う、休む、そしてまた歩く、そのリズムが都会の通奏低音になっているような気がする。

車文化の田舎だとそういうことがない。目的地から目的地まで車で行けてしまう。ドアからドアまで歩かないから疲れない。疲れないから休まない。休まないから田舎にカフェは少なく、見知らぬ人々が交錯する場が少ないのかもしれない。

カフェがあるのかどうかと「文化・経済の発展」という大上段の話がどう繋がるのかピンと来ない人のために少し事例を出せば、フランスのサロン(これは正確にはカフェではなく会員制クラブみたいなものであるが)が科学・哲学・文学・音楽といったフランス近代文化を揺籃したことはよく知られているし、イギリスのコーヒーハウスはかつて経済人の交わりの中心的装置であって、世界の保険業界を牛耳るロイズ保険組合を生みだしたほどだ。ロイズは、カフェ店そのものが発展して保険組合にまでなっており、カフェ文化の申し子である。

カフェはただコーヒーや紅茶を飲んで一服入れる場所ではなく、文化や経済の発展に重要な役割を担っているのである。私も年に1回、笠沙美術館を借り切って「海の見える美術館で珈琲を飲む会」というカフェみたいな催しを開催しているが、これは私がコーヒーが大好きというだけでなく、コーヒーを共に楽しむことが誰か(もちろん私含む!)の人生に何か面白い展開をもたらすことを期待している部分もあるのだ。

話を戻すと、歩くことの効用はカフェの存在だけではない。

歩いてどこかへ行くことの最大の利点は、寄り道がしやすいということである(もちろんカフェも寄り道の一種だ)。車やバイクでも寄り道はできる。が、徒歩や自転車での寄り道とは比べるべくもない。寄り道もまた、文化や経済の発展に非常に重要な役割を担っている。特に、文化と寄り道の関係は切っても切れぬものである。

というより、文化そのものが寄り道や回り道みたいなものだ。例えば、茶席でお茶を喫する時、わざわざ茶碗を3度回して正面に向けて飲む。いやそれだけでなく、ただお茶を飲むだけのことに数え切れないくらいの作法と仕草が決められている。めんどくさい作法を決めずにただ飲む方がよほど無駄がないのに、 なぜ小うるさい作法や仕草によって遠回りするのか。

それは、ややこしくしたり、小難しくしたり、遠回りしたりすることこそが文化の本質で、目的に対して合理的なだけの直線的なやり方をするのはむしろ野蛮に近いからであろう。極端に言えば、目的地へ最短で到達するのは(文明的ではあっても)文化的ではなく、目的地へ着くまでに寄り道したり、敢えて遠回りしたりする方が遙かに文化的なのだ。

これは、学問なんかにも当てはまる。効率よく学ぶには公文式のようなやり方が合理的だが、興味関心の赴くままに寄り道しながら非効率的に学ぶ方が、結果的には深い洞察へと到達することが多い。人工知能が今よりずっと発展すれば、単なる学習ということでは人間はコンピュータに太刀打ちすることは出来なくなることは明白だが、それでも(たぶん)コンピュータに「寄り道」はできないということが、ギリギリのところで人間の優位性を確かにするような気がする。

目的地への最短経路を探すのはコンピュータでもできるが、寄り道するのは人間にしかできないのだ。それが、人間らしさの大事なところだと思う。

そういう、理念的な話だけでなく、寄り道には現実的な効用もある。それはスモールビジネスが発展するには、寄り道が必要だということだ。ショッピングセンターとドライブスルーにしか人が行かないような車移動の街では、どうしても新たな客商売の立ち上げというのは難しい。

そういう街では、大通りに面した広い駐車場の入りやすい店でないと成功はおぼつかないが、商売を始める時にいきなりそういう大型投資は難しい。やはり路地裏の5坪くらいの店から始めるのが、スモールビジネスのスタートとしては気が利いている。でも、車社会で寄り道のない街だと、そういう店は成り立っていかないのだ。だから、かなりの程度成功が確約された、無難なチェーン店ばかりの街になってしまう。

もちろんチェーン店が悪いというわけではない。でもそういう店ばかりで、地元の小さな手作りの店が参入していく余地のないような街は、結局街として消費者の地位に甘んじるしかない。都会でつくられたサービスを受け入れるだけの街に。逆に、新たな価値を生みだしていく街になるためには、そこから小さなビジネスが巣立っていく場所にならなければならないと私は思う。

そのために、街の中心部には「歩いて楽しむ通り」があるべきだ。

気軽に寄り道が出来るような「歩いて楽しむ通り」は、街の人々の小さな夢を育てていくゆりかごになる。裏通りのささやかな店が成り立っていく街であるためには、街の中心にそんな通りが絶対必要なのである。

そんな通りを南さつま市にもつくるとしたら、候補地は(前回書いたイケダパン跡地の他に)本町の商店街だろう(通称ゆめぴか通り)。

本町の商店街には既に歩きやすい歩道が設置されており、幸か不幸か空き店舗も多い。私は下水道の敷設には反対だが、この通りをより魅力的にするために再開発するというならば大賛成である。

そして私がこの通りに可能性を感じる最大のポイントは、通りが一直線ではなく微妙にカーブしていることで、実は「歩いて楽しむ通り」の(必須ではないが)かなり重要な要件は、カーブしていて見通しがよすぎないということなのだ。

ところで、歩くことをよく理解しているなと感じるのはイオンのショッピングモールだ。イオンのショッピングモールは、直線的でなくカーブを描いて専門店街が構成されており、非常に歩きやすい。実は徒歩移動は直線が苦手で、ずっと遠くまで見渡せる直線道路というものは歩いていると疲労感があり寄り道もしづらく、それどころが目的地すら「あんなに遠いなら今日はパス」となりがちである。

それが不思議なことに、微妙にカーブしていて目的地が見通せないと結構遠くまで苦もなく歩くことができ、さらに重要なことに、いろんなお店の店構えが自然と目に入ってきて寄り道(つまり衝動買い)を誘うということがある。

そして買い物は結構疲れるので、休憩しようとフードコードに入るとやっぱりここも微妙にカーブしてお店が配置されていて、非常に目移りしやすいようになっている。真四角のスペースに碁盤の目上にお店を配置するほうがよほど合理的であるが、実際にはやや不整形なスペースにやや不規則にお店がある方が人々は移動の苦を感じず、余計な購買を誘うようである。

衝動買い、無駄遣いはよくない、というのは一面のことに過ぎず、商売をやっている人からすればできるだけお客さんには衝動買いや無駄遣いをして欲しいわけだし、このイオンの戦略は(道義的に)悪いものではない。だいたい、必要なものを必要なだけ、最も合理的な方法で手に入れるというだけだったら、もうコンピュータが自動的に生活必需品を発注するような仕組みがそこまで来ているわけで、人間の購買はいらない。むしろ衝動買いや無駄遣いこそ人間らしい消費のあり方だとさえ言えるのである。

また、こういう人間心理を上手く衝いているのが「カルディコーヒーファーム」で、見通しが悪い店内に不整形な棚を配置し、ちょっとカオス気味に商品を陳列させて店内を探索する楽しみを与えているのが上手だと思う。商品はわかりやすく、探しやすくあるべき、というのがかつての小売りの常識だったと思うが、それの真逆を行っているわけだ。

「カルディ」は消費者が求めている商品を提供する店ではなく、消費者が今まで知らなかった(探していない)新しくて面白い商品をどんどん提案する店なのである。同様の手法をとった店として、「ヴィレッジ・ヴァンガード」や(ちょっと違うが)「ドン・キホーテ」を挙げることも出来るだろう。

他にも、東京にかつてあった「松丸本舗(丸善のインショップ)」なんかは、書店であるにもかかわらず、どこに何の本があるかがにわかには分からず、本同士の有機的な連環にそって本が配置されているという革命的な手法が面白かった。この本屋も、四角いスペースに四角い棚という普通の本屋ではなく、回廊的な不整形の棚の配置をしていた。そしてもちろん、この本屋も、「探していた本を見つける」ための場所ではなく(それならもはやAmazonで十分)、ここに来ていなかったら出会わなかったかもしれない一冊と出会うための場所として構想されたのである。

少し事例が煩瑣に過ぎたかもしれないが、クリック一つで欲しいものにアクセス出来る時代になっており、田舎においてもリアルの購買活動の比重は「予期せぬものとの出会い」に移って来つつあるのではないか。その際に求められるのは、碁盤の目上に整然と区画された合理的な空間設計ではなく、ゆるくカーブした道にやや不規則にものが配置されていくという(前時代的なものとされていた!)かつての商店街的な場所なのだ。カーブしているかしていないかなんて些末なことと感じるかもしれないが、土地の構造は人間の心理に意外なほど大きな影響を及ぼしている。

そういう意味で、本町の商店街にはリノベーションのチャンスがあると思っている。適度にカーブして見通しはよくないが閉鎖感はなく開放的な場所。商売のインフラとして、本町の商店街の地相には魅力がある。

地相と言えば、天文館が中央駅前の開発で随分さびれたと言われても、やはり歩いて楽しい街としては中央駅なんかより天文館の方が断然上で、そのことだけでも暫くは天文館は生まれ変わり続けるという確信が持てる。事実、最近天文館はかつてとは違った街としてまた盛り上がって来ているような気がする。

同じように、加世田の本町もこのあたりで生まれ変わってみてはどうだろうか。

※冒頭画像はイオン九州のサイトより拝借しました。

2016年1月22日金曜日

イケダパン跡地の有効利用

先日の記事で、加世田の市役所周辺に下水道を敷設することへの反対意見を書いた。

そのついでといってはなんだが、47億円で下水道を作るくらいならぜひやってほしいことがあるので書いておきたい。それは、イケダパン跡地の有効利用である。

イケダパンは、加世田発祥のパン屋である。加世田出身の人には今でもイケダパンのパンに思い入れがある人がいると思う。イケダパンは加世田の中心部(地頭所)に大きな工場があって、ここでパンを製造し出荷していた。今は商売上の都合(主に流通の効率だと思う)で重富に移転して、広大な工場跡地は廃墟化している。広さは、多分約2ha=20,000㎡くらい。

加世田の市街地が抱えている課題の一つは、中心部にこの廃墟を抱えていることである。この廃墟が、加世田市街地の発展を阻害している要因の一つだと思う。昼も雰囲気は悪いが夜になると更に不気味であり、小さな子どもがいる親などは不安に思っている部分もあるだろう。もちろん、こうした広大なスペースが中心部の一等地に存在しているというだけで損失である。

ところで最近、加世田中心部に「すき屋」と「西松屋」ができて私はビックリした。都会の人は「すき屋」とか「西松屋」みたいな面白味のないチェーン店が出来るのは街の衰退を表しているようにも思うかもしれないが実態は逆で、このような採算をシビアに考える企業が衰退しつつある(とみんな思っていた)街に進出してきたということは、加世田市街地の可能性を考える上で重要なことだと思う。

つまり、こういう企業が進出してくることの是非はさておいて、加世田中心部にはまだまだ発展の可能性があるということだ。適切な事業用地さえあれば。

もともと、加世田市街地の中心部は今「ゆめぴか通り」と呼ばれている本町商店街の方にあった。南薩鉄道の駅の目の前だったからである。今でもここに鹿児島銀行があるし(※鹿児島銀行は鹿児島では街の一番中心部にあります)、かつては太平デパートという百貨店もあった(※南薩で鹿児島市の「山形屋」のような位置を占めていた百貨店)。

それが鉄道の廃止により人の流れが変わり、商業の重点が県道沿いへと移ってきた。太平デパートも移転して県道沿いに「ピコ」という店舗を構えた。駅の周りがさびれて、県道・国道やそのバイパス沿いに店舗が出来ていくというのはどこの地方都市でも起こっている遷移だろう。加世田の場合、南薩鉄道の廃止も随分前のことだし、その遷移は終了し、これから県道沿いの店舗もさびれていく運命なのだろうかと思っていたのだが、どうもそうではなかったらしい。それなりに購買力のある消費者を抱えた、まだまだ商売の可能性がある街なのかもしれない。これから笠沙、大浦、坊津あたりの若者世代がどんどん加世田へ移住していくからだ(これは僻地在住者としては少し悲しいですが)。

そこで、問題はイケダパン跡地へと戻ってくる。街の中心部にある広大な商業用地が、使われないまま塩漬けにされているというのはとてももったいない。ここの土地が使えるようになったら、新たな企業が進出したり、地元企業が店舗を構えたりするといったことが起こるのではないか? いや、きっとそうに違いないと思う。「すき屋」や「西松屋」が進出してきたくらいだから。

では、なぜイケダパンはここの土地を売らないんだろうか。固定資産税も払い続けなければならないというのに。

答えは多分簡単で、「ここを買いたいという企業がないから」だろう。なにしろかなり広大である。ここをまとめて買い上げて、再開発していこうという野心的なデベロッパーはそうはいないと思う。そこまでの収益性が見込めないからだ。工場を解体して更地にし、細切れにして販売することは出来るだろうが、工場を解体した段階で固定資産税が上がるので(たぶん)、よほど楽観的な土地売却の見込みがないかぎりイケダパンはそれはしないだろう。

だからここの土地を動かそうとしたら、買い手は市役所以外に考えられない

すなわち、市役所がイケダパンの跡地を買い取って、事業用地として分譲するのがもっとも合理的な廃墟の解消方法だと思う。イケダパンにすれば一種の不良資産であるので、激安でなければ手放したいはずである。加世田中心市街地の再開発事業は、地元業者の活躍の余地があり(何しろ事業の中心は廃屋の解体と基盤整備だろう)、下水道敷設よりも地元が受ける恩恵は大きい。

もちろん、ただ土地を分割して販売するだけでなく、いろいろなことが考えられる。例えば、現在の土地を2つに分割して半分を公園にし、市民の憩いの場にすることも一案である。

都市の中心には公共のスペースが必要で、ニューヨークにセントラル・パークがあるごとく、東京の中心に皇居があるごとく、見ず知らずの他人同士が同胞として集う、しかも消費行動から距離を置いた場所は都市にとって絶対不可欠だと私は思う。公園は子どもや老人のためだけのものではなく、共同体をつくっていくために必要な「場」なのである。

今の南さつま市にはそういう場所がない。敢えて言えば市役所の市民会館とか「ふれあい加世田」であるが、こうした場所は「用事がないと行かない(行けない)場所」である点で真の「公共のスペース」ではない。暇な時にふらっと散歩してベンチで読書し、見ず知らずの人と立ち話するような場所があるべきなのだ。

こうした土地は一見無駄であるが、人々の創造性を刺激したり、人と人の思わぬ結びつきをもたらしたり、様々な人が目に見える場所に出る機会を得る(※例えば、障害を持っている人を普段街中ではあまり見ないが、そういう人が共同体の一員として存在できる場所になると言う意味。最近の言葉でいうと「ソーシャル・インクルージョンの場としての公共空間」)といった面で、都市が真に都市的になるための重要な機能を担っているのである。

ついでに、そうした公園に「イケダパン発祥の地」の石碑をつくってあげればイケダパンも喜ぶと思うし、イケダパンの郷土愛に訴えるものがあるに違いない。

というわけで、47億円かけて市役所周辺に下水道をつくるよりは、イケダパン跡地を市役所が購入し、公園を造成したり事業用地を分譲したりするという再開発事業をする方が、南さつま市の発展に繋がると思うのですがみなさんはどう思いますか?

2016年1月18日月曜日

【急告】南さつま市役所周辺に下水道は必要か

南さつま市で、加世田の市役所周辺に公共下水道を設置しようという事業が去年からにわかに動き出した。

【参考】市報南さつま 2015年3月号「汚水対策、凍結から解凍へ」(4ページ目)

だが、この事業にはいろいろと問題があり、昨年末に住民説明会が行われてから「ちょっと待ったをかけた方がいいんじゃないか」という人たちで急遽「南さつま市公共下水道を考える会」というのができた。

それで、この会の主催で「公共下水道事業を取りやめた志布志市に学ぶ下水の話」という講演会が行われたのでそれに参加してきた。

志布志市も合併前に下水道を作ろうという話があって、当時の首長はそれを公約にも掲げていた。しかし、人口集積地でないと下水道事業は赤字になるということで、事業の推進の仕方に問題点を感じた市の職員の一人が反対。自治衛生連の会長もしていた市議の一人に働きかけてこの問題を市議会でも取り上げてもらい、施工一歩手前まできていた下水道事業を土壇場で中止させたのだという。当時、担当係長には随分恨まれたらしいが、今になって「あれは英断だったと感謝している」と言われているとのこと。

諫早干拓や八ッ場ダムに象徴されるように、その意義がなくなっても一度立案された計画は実行されるのが日本の行政の悪癖の一つであるが、このように施工一歩手前までいきながら事業中止の決断を下した市長は素晴らしい。こういう志布志の経験に学んで、南さつま市の下水道事業もちょっと立ち止まってみようじゃないかというのが会の趣旨である(私の理解)。

さて、南さつま市が推進しようとしている下水道事業は、市役所近辺の約77haの市街地に公共下水道を設置しようとするもので、下水処理施設は市役所の用地につくるそうである(対象地区は上の図の緑の部分。ちなみに赤い部分は、以前の計画では検討されていたが今回は見送る地域)。

もちろん私は大浦町に住んでいるので、この下水道の対象範囲外で無関係…といいたいところだが、実はそうではない。

というのは、下水道事業は47億円もの事業費が必要になるので、受益者(その地区に住んでいる人や事業者)だけでは負担しきれない。よって一般財源からの補填がなされるはずで、要するに、下水道を使えない多くの人にとってもお金という面で関係してくる話なのだ。

では受益者の数がどれくらいなのかというと、この地区の住民は約2000人だそうである。商業地なので従業員なども間接的な受益者だとしても、せいぜいその数は3000人だろう。そして、この地区に下水道を設置するには約47億円かかるので、この地区だけに一人当たり157万円もの税金が投入されるということになる。4人家族なら1世帯600万円以上である。これは住民サービスの観点からかなり不平等な政策ではなかろうか。

しかも、受益者である地区住民にしてもさほどのメリットがあるわけではない。その地区の人たちは既に浄化槽を設置しているわけだから、その浄化槽を廃棄して下水道に接続するという工事が必要になり、15〜40万円くらいのお金が一時的にかかる。

もちろん浄化槽の保守点検費が不要になるので長期的にはモトをとるかもしれないが、法律では下水道が整備されたら3年以内に(浄化槽をやめて)下水道に接続しないといけないとなってるものの、実際には接続はなかなか進まず下水道への加入率が8割を超えるには15年くらいかかるようだ。その間、低い加入率で経費のかかる下水道を運営しなくてはならないため、下水道事業は赤字になり、その費用はかさむことになる。

しかも、最大のポイントは下水道事業はある程度の人口密度がないと黒字にはならないということで、その境界は1haあたり40人くらいらしい。今回の対象地域の人口密度は25人/haということで長期的に赤字が予見され、モトが取れなくなる可能性が極めて高い。なにより、これから急激な人口減少が見込まれているわけで、人口密度が必要なインフラを整備するのは時代に逆行していると言わざるを得ない。

また、市は下水道事業の推進目的の一つとして「水質保全」を掲げるが、会の立役者(?)テンダーさんのWEBサイト(↓)で述べられているように、そもそもこの地区の排水が汚染度が特に高いという事実もなく、市は現在は水質調査すらしていない。

【参考】 47億円に匹敵?! DIYで下水の汚染度を要チェックだ!

さらに、今回対象地区となった地域がどうして選定されたかというと、住民の賛成が多かったからとのことであるが、その実態も不明であるし、巨額公共事業を行うのに、ちゃんとしたアセスメント(どの範囲で事業を行うのが合理的かの検証)なくして、住民のウケがいいからというだけで範囲が決まるのは解せない。

まとめると、現在計画中の下水道事業の問題点として、
  • たった2000人のために47億円もかけて、モトがとれるかも分からない下水道を整備する意味があるのか(浄化槽設置に補助金を出すほうが安上がり。ちなみに南さつま市の年間予算は400億円くらい)。
  • しかも対象地区の人口密度が25人/haであることを考えると、下水道事業は将来赤字を垂れ流し続ける可能性が高い(事実、人口10万人未満の自治体の9割で下水道事業は赤字だという)。
  • 市は事業目的の一つに水質保全を掲げるが、水質調査すら行われていない。
  • 対象範囲の決定にも不透明なところがある。
が挙げられる。

では、こういう問題がありながら、どうして市は下水道事業を進めようとするのか。私は下水道の説明会に参加していないので(対象地区外では説明会が行われていない)、なんともいえないがこういう事情があると思う。

まず一つには、下水道の整備には国庫補助があり、およそ半額は国が負担してくれるということがある。残り半分も全額起債によってまかなうことができ、要するに手持ち資金なしで巨額の公共事業を行うことができるのである。しかも起債の分は、地方交付税交付金の基礎財政需要額に算入されるので(要するに交付金の額が少し増える)、実質的な手出しは少なくて済む。多分事業費の1/4程度だと思う。

しかし建設費はお得だとしても、長期的には赤字に苦しむ可能性が高い。建設費に国庫補助はあるが、運営費には国庫補助はないからだ(というより、地方交付税交付金の基礎財政需要額の算出項目には、既に「下水道費」という項目があって、その分で運営しなさいといのが基本的な考え方)。

でも国のお金を使っての公共事業ならば、多少なりとも仕事が生まれるのだからいいんじゃないか、という考えもある。でも当然ながら南さつま市内には大規模な下水処理施設を建設したことのある業者はいないと思われるので、この大規模公共事業は市外の業者が落札する可能性が高い。

実際、旧笠沙町時代に野間池で下水処理施設を建設した際、20億円弱のお金がかかったらしいが、工事を請け負ったのは鹿児島市の業者で、15億円くらいのお金はその業者に落ちたようだから、市内に環流した分はほんの何分の一しかなかったことになる。南さつま市でも同様のことが起きれば、せっかくの47億円のほとんどは市外の人のフトコロに入ることになる。

ということで、下水道整備は公共事業としても筋が悪いように思われる。浄化槽方式なら市内の業者が潤うし、保守点検が生む雇用も大きい。

もう一つの推進理由はもう少し真面目なことで、インフラ整備を進めることで中心市街地を活性化したいということだろう。下水道を整備することは、現に浄化槽を設置している今の住民にはあまりメリットはないが、これから家や店舗をつくろうとする人には利点がある。

特にメリットを受けるのは店舗・事業所である。というのは、一般住宅に浄化槽設置をする場合は補助があるので下水道がなくても別に困らないが、商売で使う物件には浄化槽設置の補助がない。なので、特に小規模な店舗などにとって浄化槽を設置する負担は大きく、仮に下水道があれば初期投資がけっこう抑えられる。今回下水道事業の対象となっている地区にかなり商業用地が含まれていることを考えると、インフラ整備としては理解できる。

ただし、今後この地域に新しい店舗がたくさん出来ることは考えづらいし、商業振興を考えるなら下水道に47億円かけるよりも、直接的な商業支援を行った方がよほど効果的だろう。

以上のように、下水道に関してこれまで縷々述べてきたが、こうした問題の背景にあるもっと大きな問題は、巨額の公共事業を行うにあたり、まともな費用対効果の検証が全く行われていないように見えるという点である。

民間どころか国(政府)においてさえ、最近はフィージビリティ・スタディということが盛んに言われるようになった。これは、プロジェクトを実施する前にその実現可能性や採算性を調査することで、プロジェクトが巨大であればあるほどこの事前調査が重要になる。一時期やかましくいわれた「環境アセスメント」もその一つで、プロジェクトの実施によってどのような影響があり、そのコストをどう考えるか事前に事細かに検証する必要がある。巨大事業ほど実施後に「問題がおこったので中止しまーす」というわけにはいかなくなるので、これは役所の担当者・責任者の首を救うことにもなるのである。

下水道事業の目的が水質保全なら水質保全で、どの程度水質が汚染されていて、その汚染源は何で、下水道の整備でそれをどの程度改善するのか、それにどれくらいのお金をかけるのが至当なのかといった検証をちゃんと行わないといけないと思う。費用と効果が釣り合っているのかという検証無しに、事業の当否を議論するのは得策ではない。

本記事は、下水道事業反対の立場から記述してきたが、本当は推進派の市役所の意見もちゃんと聞き、その費用対効果の計算を踏まえて賛否を定めたいと思う。しかし50億円近くの事業をするというのに、その内実が全く不透明で、市役所のWEBサイトにも何も公表されていないので立場を定めようがない。

また、南さつまの下水道事業は、合併前から検討されながら凍結されていたものが、今回「公共下水道事業(汚水対策)検討委員会」で事業計画の見直しを提言されて再始動したらしいが、その「公共下水道事業(汚水対策)検討委員会」の議事録も資料もメンバーも公表されておらず、その提言書さえ公表されていない

こういう大規模事業は、実行の気運がある時に急にやってしまうということが行政には多い。長々検討していると「ああでもないこうでもない」という議論ばかりが続いて前に進まなくなり、利害関係者の調停が困難になって頓挫する。だから気運がある時に、住民を置き去りにしてでもともかく着手することが、優秀な行政官なんだという風潮すらあったように思う。

しかし時代は変わっている。そういう方法で建設した施設や大規模土木事業は長期的に見てお荷物になることが多かった。今から考えれば、「ああでもないこうでもない」と長々議論することの方に意味があったのではないか。

下水道事業を実施するにしても、1年でも2年でもフィージビリティ・スタディを行い、どの範囲でどのような下水道網を整備することが理に適っているのかを検証し、費用対効果を(お金に換算しにくい部分も含めて)厳正に行い、その結果が芳しくなければ潔く撤退するという判断の余地を残した事業にするべきである。

また、この地区のインフラを充実させるということであれば、市役所周辺地域を南薩地区の中心として重点投資することを地区外の住民にも広く理解を求めるべきであるし、下水道整備の事業のみならず、電柱の埋設(麓地区の歴史的景観の整備)や本町商店街の活性化といった他の政策課題とも有機的に連携させた形で整備を進めるべきで、こうしたことをするには数多くのステークホルダー(利害関係者)を巻き込んだ検討が必要である。

一度大規模な公共事業が動き出したら役所の担当者本人にも止められなくなる。こういうことに慎重すぎるということはない。一部の人の独断専横ではなく、多くの人の意見を糾合させてよりよい街をつくりあげていく南さつまであってほしい。

今度の3月の議会で、早くも下水道事業の予算が審議されるそうである。「南さつま市公共下水道を考える会」はそれに少なくとも意見は届けようと、「せめて水質調査はしてください」という署名を集めて陳情を出そうとしている。私も署名してきたところだ。

南さつま市役所周辺に下水道は必要か。市民一人ひとりが考える時である。

【参考】
私も署名していいよ! という方は、署名用紙をダウンロードしてプリントアウトし、自筆にて氏名住所を記入の上、「南さつま市公共下水道を考える会」の平神純子市議会議員(加世田地頭所町24番地12)へと郵送またはお渡し下さい。2月初旬までに集めないと議会に間に合わないそうです。
署名用紙(ダウンロード)

2016年1月13日水曜日

「風景」について

こちらへ越してきてから、風景のことをよく考えるようになった。

南さつま市に地域資源と呼ばれるものはたくさんあるが、その中でも一番すごいのは間違いなく景観である。国道226号線沿いの「南さつま海道八景」、金峰の「京田海岸」、そして大浦の「亀ヶ丘」。こういう場所の景観は、鹿児島の本土では有数だし、全国的に見ても誇れるものだと思う。

だから、地域の発展のことを考えると、この風景という地域資源を活かそう! という話になっていく。私自身、この風景をもっと活かせないかと南薩のポストカードを作ったくらいである。

【参考】 南薩の風景ポストカード5種セット「Nansatz Blue」


実際、素晴らしい風景には大きな価値がある。国内旅行の主要目的は、風景と食事と温泉ではないかと思われるが、その中でも風景の存在は大きい。素晴らしい風景には、ただそれだけで人をそこへ連れてくるという力がある。

しかし、風景の価値というものをジックリと考えてみると、なかなか一筋縄ではいかない。

例えば、我が大浦町の越路浜という海岸で、バブル期に地元企業がリゾートホテルを建てる計画が持ち上がったことがある。結局その計画は実現しなかったが、もしステキなリゾートホテルが建っていたらどうなっただろう。

そうなっていたら、素晴らしい景観に惹かれて、今頃多くの観光客が大浦町を賑わせていたかもしれない。そしてその観光客のために飲食店や土産物屋がたくさんできて、その経済効果は年間10億円くらいになっていたかもしれない。

仮にそうなっていたとしたら、越路浜の風景の経済的価値は、10億円相当だと言えるんだろうか。 もしそうなっていたら、今の縹渺とした静かな海岸ではなくて、人や建物に溢れた全く違う海岸になっているかもしれないのに。

これは全く仮定の話だが、実際に似たようなことが起こっている地域もある。人があまり来なかったからこそ残っていた素晴らしい風景が、多くの人が来るようになるとどんどん変わって行く。自動販売機が置かれ、看板が乱立し、ゴミが捨てられる。風景を活かそうとして、逆に殺してしまうことになる。

風景を活かそうとしていろいろ活動することが、皮肉なことにその風景自体を変えていってしまうのだ。

だからといって、風景を手つかずのまま、人跡未踏のまま残しておくとしたら、その風景がいかに絶景であったとしても、その価値を活かすどころか、その価値そのものを考えることすらできない。誰も行けないアフリカの奥地の奥地に、どんなに素晴らしい風景が待っていたとしても、誰にも行けないなら風景としての価値はない。やはり、人が行けて、そこで五感で眺望を体験する、ということがなくては風景としての価値は考えようがない。

つまり「景観」は、人間社会となんらかの接点がなくては、そこからその価値を取り出すことはできないのである。しかし人間社会が関わる以上、絶対に手つかずにはならない。その風景は人間が手を加えたものにならざるをえない。

もちろん、これは程度問題である。しっかりと風景を守り、マネジメントすれば、最小限の人工物でほとんど自然そのままの景観を維持することはできる。風景との関わり方には、そういう節度が求められるのだ。

ではそういった風景への節度を保ちつつ、観光客を呼び寄せて、何億だかの経済効果がもたらされたら、その何億だかが風景の価値ということになるんだろうか。もしかしたら、風景の経済的価値、ということに限ったらそうなのかもしれない。でも、風景は人の心の中にあるものだから、経済的価値だけではその価値を考えることはできない。もっと多面的に考える必要がある。

南さつまにとっての素晴らしい風景の価値、いや、人間にとっての風景の価値、それをもうちょっとちゃんと考えてみたい。

(いつかにつづく)

2016年1月6日水曜日

恭賀新年

明けましておめでとうございます。

(フライングして普通の記事を昨日書いてしまいましたが)

こちらに移住してきてから4年、そろそろ生活や仕事の基盤ができあがり、暮らしが安定してこなくてはいけない時である。でも今のところまだ基盤づくりすらまだ十分に出来ていない。

昨年の大きな目標は、「ちゃんと収入があるように」やっていきたい、ということだったが、それが達成できなかったのが心苦しい。といっても途中まではそれなりに出来ていたと思う。でも8月に台風直撃を受けて三歩進んで二歩下がる状態になり、様々なことがうまくいかなかった半年だった。柑橘が豊作だったので一昨年よりはマシだと思うが多分去年の所得も100万円未満だろう(ちなみに一昨年は70万円だった)。

年間の所得が100万円未満で、家族4人がどうやって暮らしているのだろうと私自身思う。メディアでは「年収300万円未満の低所得者が…」といった言葉が聞かれるように、年収が200万円台だと多くのことがままならない生活になる。100万円台になると収入のほとんどが必要経費に消えて、裁量的に使えるお金がなくなる。ましてや100万円未満では、現実的に生活ができない。

でも、救いがあるとすれば農村で生活していることで、お金がないと万事どうしようもない都会と違って、田舎でやっていればお金がないなりになんとか暮らしていけるのが不思議である。もちろん貯金も取り崩しながらであるが…。しかし今年は「青年就農給付金」という農業の補助金も遂に支給が終わってしまうので、油断していると本当に生活が破綻する危険がある。

というわけで、今年の目標も引き続き「ちゃんと収入がある農業を実践する」ということにしたい(低レベルな目標ですいません)。具体的には、(1)栽培している植物の管理をしっかり行う、(2)作付面積を増やす、(3)個人販売に力を入れる、の3点である。

とはいっても、目先の収入のことだけを考えていたら面白くないので、収入とは直結しないが、(4)農業の理論的な勉強をする、(5)小菜園でいろいろな野菜を作って物産館に出荷し、野菜作りの経験を積む、(6)耕作放棄地を開墾して果樹類を植える、というようなことにも引き続き取り組んでいこうと思う。

それから、ようやく植物を育てるということのリズム感が摑めてきたので、今年は(7)ハーブの栽培、に取り組んでみたいと思う。以前ちょっとだけつくってみたら、意外と難しくて挫折したので、改めて勉強するつもりでやってみたい。ハーブも全然儲からないと言われているが、経費くらいは出るようにやってみるつもりである。

農業以外の面では、去年は地域情報の発信みたいなことがあまりできなかったので、今年はブログで地域情報(風景や文化や歴史)についてもうちょっと情報発信をしてみたい。需要があるかどうかはともかく、ちゃんと地域のことについて知るということが生活の基本だと思うので、自分のために調べて書いていくつもりだ。

また、今年は本にまつわる何か(イベント?)もやってみたいと思っている。読書メモブログも少しだけリニューアルしたので、本と自分の関わり方も少し変わっていきそうな予感がする。今はしまいっぱなしになっている本たちも、ちゃんとしかるべき本棚に陳列できるように準備をしていこう。

もちろん、「海の見える美術館で珈琲を飲む会」「公民館 de 夜カフェ」みたいなイベントも引き続きやっていきたい。収入には直結しなくても、楽しいことに前向きに取り組むことが結果的によい展開を生むのではないかと思うし、そもそも楽しくなかったら移住してきた意味もない。あんまり「楽しいこと」に軸足を置きすぎると収入の方が疎かになるのでそこはシビアにバランスを取りつつ、今年一年も笑って暮らせるようにしていきたいものである。

というわけで、今年もよろしくお願いいたします。

2016年1月5日火曜日

農産物の価格を自分で決められるのがよい、のかどうか

「南薩の田舎暮らし」では、今年も無事「無農薬・無化学肥料のポンカン」の販売を開始した。価格は、去年と同じで9kg入りで3000円。つまり1キロあたり約300円。

今年は、ポンカンだけでなく柑橘全般がとても不作で、年末はポンカンも異常な高値だった。市場価格でA品L玉500円をつけていたこともあるようだし、小売価格でもだいたい1キロ500円くらいが相場だった。

もちろん年を越すと急に値段が下がるのがポンカンという商品の悲しいところなので、この価格と私の販売価格を単純に比べるわけにはいかないが、それでも「個人販売で高く売ろう」みたいなことが言われている最近の農業界隈を考えると、安売りしている自分は少し馬鹿みたいな感じがする。

でも高値で売るためにはそれなりの営業努力が必要だし、高値にしたらそれなりに責任も生じる。何よりまだまだ栽培がよくわかっていないので、今年までは「シロウト価格」としてこの価格を維持することにした。来年もちゃんと狙った通りに作れたら、その時は価格を改訂することも考えたい。何しろ、今の価格はほとんど最安値付近なので、「無農薬・無化学肥料」関係なく安さで勝負している感じである。もうちょっと付加価値で勝負しないと個人販売する意味がない。

ところでそれに関して一つ思うことがある。最近、農家の個人販売や独自ブランド構築といったことがよくメディアに取り上げられ、その際に「価格を自分で決められるのがよい」といったようなことを農家が発言するが、これは本当にいいことなんだろうか。

やり手の農家の場合はそれが歓迎すべきことなのは当然として、私みたいな商売がヘタクソな農家の場合は、本当に価格をいくらにしたらいいのか全然わからない。

例えば、今の時期、私は(無農薬・無化学肥料で育てた)大根を物産館に半定期的に出荷しているが、1本100円で販売している。これ、大きさや品質を考えると他の人よりかなり安い感じで、他の人に申し訳ない感じがする。でも私は物産館に頻繁に行って在庫を確認する方ではないし、売れ残るのがイヤなので結局安値販売してしまう。正直言って、物産館の人が「この大根だったら○○円ですね」といって値付けしてくれる方がずっと気が楽だ。

まあこれは程度の低い問題なので、もう少し真面目な話をすると、農家の方で価格交渉しなくてはならなくなると、実際は農家が企業に負ける場合が多いような気がしている。

少し話が大きくなるが、今先進国では食料品市場において小売りの統合が進んできて、米国だったらウォルマートみたいな大きいチェーン店が非常に大きな力を持ってきている。米国の食料品小売市場はウォルマート、クローガー、アルバートソンズ、セイフウェイ、コストコ、アーホルドの6社で市場の半分を占めるという(※)。青果に限ればこの割合はかなり減ると思われるが、米国においてこうした巨大企業が仕入れる食料品の量は莫大で、農産物にももの凄い価格交渉力がある。

日本では、例えばイオンに野菜を個人(または法人)で卸すというとなんとなく先進的な農家、という感じがするし、農協を通すのと違って価格交渉ができるのが魅力だろう。でも米国のように小売りの力が大きくなると、それはほとんど巨大企業の言うなりの価格になっていき、農家の方にはほとんど価格決定権がなくなってしまう。

これはヨーロッパの方でも事情が似ていて、EUの小売りはたった15のグループに牛耳られていて、食品に関して言えばほとんどが110の小売業者の買付窓口を通じて購入されていると推定されている。生産者(団体)の方は何千何万といるのに、小売りの方はたった100程度しかいないのである。これでは生産者の価格交渉力はほとんど存在せず、小売りの言いなりになるしかない。

こうしたことから、EUでは農協の巨大化によって生産者グループも小売りに匹敵する交渉力をつけようとする趨勢があり、日本で言えば県レベルの経済連的な活動が活発になってきている。日本では農協は遅れたものと見なされて、農家の個人販売が持てはやされている時に、ヨーロッパの方では農協が見直されているというのがとても面白い対比である。

ともかく、一見価格交渉の余地が大きく見える農産物の個人販売だが、生産者に比べると小売りの方がどうしても巨大であるために、実際には生産者にはそれほど自由度はないようだ。今の日本の流通システムでは、高品質なものを安定生産している農家、つまり優秀な農家にとっては、農協を通すよりも独自に販路を開拓して自分で価格を決める方が利益が大きいのは間違いないとしても、ごく普通の農家にとっては、単に需給に応じて決まる価格の方が好ましいと言える。

そもそも、価格は「自分で決める」ものというよりは、究極的には需給で決まるものであるから、農産物のようなコモディティ商品の場合、市場が効率的に働いて、需給で決まる価格が信頼できるものとなるようにしていくことが大切なことだと思う。

つまり、「価格を自分で決められるのがよい」と発言している農家の場合、その生産物が過小評価されているという思いがあるわけだから、品質をしっかりと評価できる市場を作っていくことが重要なことではないだろうか。これは優秀な農家だけでなく、普通の農家にとっても恩恵のあることだ。

でも全ての農産物に対して、それに適切な市場が用意できるかというとそんなのは無理な話である。私が作るほんの少しの大根やポンカンのためには市場はできていない。こういう零細な商売の場合、やっぱり、自分で何らかの価格を決めて販売していくしかないのである。商才のない私には本当に難しいことだ。

というわけで、話がだいぶ逸れてしまったが、「無農薬・無化学肥料のポンカン」、安値にて販売中なのでよろしくお願いします!

→ご購入はこちらにて。
【南薩の田舎暮らし】無農薬・無化学肥料のポンカン

※参考文献『食の終焉』2012年、ポール・ロバーツ著、神保哲生 訳

2015年12月26日土曜日

「天成り果」と窒素過多

一昨年から、柑橘の肥料をものすごく減らした。

販売する時に「無農薬・無化学肥料」を謳っている通り、化学肥料はもちろん使っていないし、それどころか実は有機肥料も入れていない。ということで今のところほぼ無肥料である。

「ほぼ」と言っているのは、堆肥の中に肥料成分が含まれているからだが、栽培基準に比べると10分の1以下の肥料だと思う。

それで、ほぼ無肥料にして気づいたことがある。無肥料にすると、「天成り果」が出来ない。

「天成り果」というのは、樹冠付近の上向き枝の先端に、上向きにつく果実のこと。これは肌がゴツゴツしていて大きく、ジューシーさがなくパサパサしていて甘みも弱く美味しくない。こういう天成り果は商品価値が低いため、通常は摘果(収穫しないで早く取って捨ててしまうこと)してしまうのだ。

だが、無肥料にすると樹冠付近の上向き枝の先端に果実がついても、「天成り果」にならない!

写真のように、だんだん枝がしなってきて、下向き果実になるのである。ちなみに、柑橘の場合、こういう葉裏(葉に隠れる)の下向き果実というのが一番味がのっていて美味しい果実といわれている。肥料をやっていたら摘果しなくてはならなかった果実が、無肥料にすることで一番美味しいタイプの果実になるのである。

ちなみに、「天成り果」はなぜ品質がよくないのか、というと、植物のホルモンの働きによると思われる。植物の成長ホルモンは上へ上へと流れていく性質があり、上向きの枝の先端には成長ホルモンが集まっている。すると、そこになった果実には過剰に成長ホルモンが与えられ、ホルモンバランスが崩れて変な果実になるというわけである。

だから「天成り果」は避けられない自然現象だと思っていたのだが、無肥料にするとこの現象が見られないことを考えると、どうやらそれは窒素過剰を表す植物からのサインだったようだ。

農業において、窒素は非常に重要な成分であるが、やりすぎると弊害が起こることが多い。窒素が多すぎると病虫害に弱くなり、そのおかげで農薬を多用しなくてはならない羽目になる。私が柑橘に農薬をかけなくてもさほど虫害が起こっていないのは、たぶん無肥料にしている効果が半分くらいあると思う。野菜なども肥料をごく少なくすれば、無農薬でもひどく虫に食われるというような悲惨なことは自然と避けられる(もちろん種類による)。

ただ、残念なことに窒素分が少ないと収量は確実に減る。

ポンカンの場合、基準通りに肥料をやるのと比べて収量はたぶん7割以下になると思う。そう考えると、生産原価において肥料の値段などたいしたことはないから、窒素肥料を多用して収量を増加させるのは、通常の農業経営において当然の判断だと思う。

しかしその判断が全世界的にやられているので、世界的な窒素過多はとんでもないことになっている。およそ100年前にハーバー=ボッシュ法が開発されてから、 地球上に供給される窒素はうなぎ登りに上がった。特に1960年代からの上昇はすごい。

ハーバー=ボッシュ法以前、農業生産の限界のひとつを定めていたのは窒素肥料であった。しかしこの革命的な方法により、窒素が人為的に供給できるようになり窒素肥料を多用するようになると、反収(単位当たり収穫量)の方もうなぎ登りに上がった。お陰で、農地をしゃかりきに増やさなくても、今のところ食糧危機が起こらずに済んでいる。

こうして窒素の大量生産が進められた結果、全発電量の1%以上がハーバー=ボッシュ法での窒素生産に費やされているといわれるほどで、現在、地球上の窒素固定量の半分が人為起源であるとの推計もある。微生物などによって自然に窒素固定はなされるが、そうやって自然が固定する窒素化合物と同量のそれを人間がつくりだしているというわけで、窒素の過剰放出は自然の物質循環に深刻な影響を及ぼしている。

しかも先述の通り、窒素肥料には功罪両面があり、使いすぎると「罪」の方の性格が強くなっていく。といっても肥料を減らすと収量も減ってしまうので、ただでさえ厳しい農業経営において肥料を減らす選択肢はなかなか取りづらい。

それに、私個人の農業経営としては、無肥料にする選択はさほど悩ましいものではないとしても、それを世界規模でしようとすると深刻な食糧危機を将来する可能性がある。タダでさえ人口が増え、新興国の生活水準がどんどん上がっていく局面であり、近い将来、穀物の不足が懸念されてもいる。そんな中で、窒素を減らすという決断は、非人道的なものですらあるかもしれない。

しかし、無肥料にすると天成り果ができないというメリットがあるように、窒素を減らすことには意外な効用もあるように思う。反収が減るのは確かだとしても、それを補う利点もあるかもしれない。科学もこの100年でずいぶん進んだのだから、そろそろ「減窒素の農学」が出来てもいい頃だ。

【参考文献】
地球環境に附加される自然起源と人為起源の窒素化合物」2010年、佐竹 研一