2015年9月11日金曜日

荒瀬ダムと棚田——棚田を巡る旅(その1)

撤去されつつある荒瀬ダム
先日、棚田を巡る研修に行かせてもらった。

といっても、実は私は「棚田再生!」などには否定的である。棚田のように一つひとつの耕作面が小さくて道が狭く、大型の機械が入らないような田んぼは管理にとんでもない労力がかかる。要するにコストがかかりすぎる。タダでさえ農業は収入が低く、経営の効率化が叫ばれている現在、棚田のような趣味的・余暇的なことに農家が手を出す余裕はない。

この研修の主催者は、鹿児島の「土改連」すなわち「土地改良事業事業団体連合会」であり、まさに「生産性の高い農地の集積が大事だからみなさんご協力ください」みたいなことを言い続けてきた団体である。棚田みたいな狭隘で形の悪い農地を崩して整地し直し、四角くて広い、使いやすい農地に変えてきた(「基盤整備事業」と言います)のが土改連なのである。その土改連が、かつて破壊してきた棚田を今になって称揚しているのはなぜなのか。棚田には景観や村おこし以外の価値があるのか、そういう興味を持って研修に参加したのである。

結論を言ってしまうと、その疑問は氷解しなかったし、ますます謎が深まった面もある。というわけで、とりとめのない内容になるが紀行文的に棚田を巡る旅のことを語りたいと思う。

さて、旅は球磨川を遡っていくもので、最初の休憩が道の駅「さかもと」。熊本県八代市、球磨川のほとりにある物産館である。

この物産館から少し先に、その筋には有名な「荒瀬ダム」がある。荒瀬ダムは、ちょうど今、日本で初めての本格的なダム撤去工事が行われている。これは老朽化によるものというよりは、元の景観や環境を復活させようという意図で行われるもので、このような理由でダム撤去の決定がなされたことは画期的なことであった。

荒瀬ダムは、地元の電力をまかなうために1955年に出来た。当時、熊本には既に水力発電所があったそうだが、その電力は北部九州に送られており熊本県民は宮崎から電力を購入していたそうである。そこで、今風に言えばエネルギーの地産地消のために作られたのが荒瀬ダムだった。そこから約50年、水利権の更新という行政上の問題をきっかけにして撤去の声が上がったのだった。

ダム撤去の費用はかなり高額であり、逆にダムを使い続ければ毎年1億円以上の純利益が見込めていた。電力需要の面で存在価値が低下していたとはいえ、数字には換算できない「環境」や「地元住民の気持ち」が優先されたことは、経済至上主義者だらけの日本では誇ってよいことだろう。

しかも地元にかかっていた垂れ幕の内容が意外で、「荒瀬ダム55年間ありがとう」みたいなことが結構書いてある。撤去運動の時はたぶん「ダムが環境悪化の犯人だ」みたいな、ダム悪玉論が展開されていたのではないかと想像されるが、いざ撤去にあたってダムへの感謝が表明されるというのは住民の穏当な感覚を示していて好感を持った。なにしろ、ダムが地元のために作られたのは事実で、確かに球磨川流域の人々の生活を支えた存在だったのである。

こうして荒瀬ダムのことを長々と書いてきたのは、撤去されるダムがこれから見る棚田の情景と重なったからだ。 ダムも棚田も、元々は経済的に重要な存在だった。今でこそ棚田は生産性が低い困った農地であるが、東アジアの各地に棚田が存在していることから分かるように、機械耕作以前の世界においては棚田は合理的な水田耕作法である。また、米もかつては今とは比べものにならないほど重要な作物で、江戸時代には米の石高が経済力そのものを示したし、明治維新後にも何をおいても米を作ることが求められた時もあった。

しかし時は移り、ダムも棚田も時代に合わなくなった。依然として細々と続けていくことはできても、それよりももっと効率のよい方法があるわけで、敢えて維持しなくてはならない理由がなくなった。それどころか、人の手が入る前の自然に戻す方がなおよい、という考えも出てきた。

そして、ダムは撤去された。

だが逆に、棚田は今になって見直されている。

ダムと同じように考えれば、棚田も自然に戻す方がよいように思う。棚田が経済的な役割を終えたのなら、樹が生い茂る山の景観へと戻していくべき、ということにならないか。その使命を終えたものを、敢えて延命する必要はないのではないか。

荒瀬ダムの景観は、そういうことを考えさせられた。

しかし当然、ダムと棚田は違う。ダムは自然環境に負荷を掛けるが、棚田は生物多様性を高める。ダムは特定の企業の利益になるが、棚田で儲ける人は(僅かな例外を除いて)いない。でも決定的に一番違うのは、ダムは醜く、棚田は美しい、ということだ。

この問題の本質を理解するには、経済とか環境とか、そういうことは二の次で、きっと、「美」とは何か、という問題を考えなければならないのかもしれない。

(つづく)

2015年9月2日水曜日

鹿児島は歴史的に男尊女卑なのか

『薩摩見聞記』より「村落女子」
先日鹿児島県の伊藤知事が「女子にサイン、コサインを教えて何になる」と発言した問題に関してちょっと思うことがある。

「鹿児島は男尊女卑の牙城だ!」と他県民から思われていて、実際にちょっと男尊女卑的な部分もある。私の祖父にもそういう面があって、奥さんや子どもには質素なご飯を食べさせながら、自分だけ刺身をつまんで焼酎を飲んでいたとかいうから、まあ男尊女卑だと言われても仕方ない。

そういう「女、子どもは黙っとれ」的な人がいるにしても、鹿児島は昔から男尊女卑の風土だから、とひとくくりにされるのもあまり気分がよいものではない。鹿児島の男女の力関係が「男尊女卑」の一言で片付けられるのには違和感がある。

男尊女卑的な実情(女性議員の数がかなり少ないとか)があるにしても、本当に鹿児島には男尊女卑の「風土」があるのか。男尊女卑の知事を生んでしまう必然性があるのか。つまり、鹿児島は歴史的に男尊女卑の「文化」があったのであろうか。

こういう時に参照できるのが『薩摩見聞記』という本である。この本は以前にもちょっとだけ紹介したが、明治中期頃の鹿児島の庶民社会を知るのに格好の資料で、新潟から教師として明治22年(1889年)に鹿児島に赴任した本富 安四郎という人が書いたものである。本書は、本富が「鹿児島って変わってるなあ!」と思うところを記したものであるから、他県と比べ男尊女卑が激しければ必ずその記述があるはずだ。

だが、明治の頃の鹿児島は決して男尊女卑な土地柄ではなかったらしい。それどころか、夫婦関係についてはこんな記述がある(口語に訳した。原文は文語)。
「男女間の愛情も厚い。婦人は従順でよく夫に仕え、夫もまたこれを愛す。妻が病気になると夫は妻のために親切に介抱して、もし妻が死ねば夫は日々お墓参りをして花を供える」
ここに描かれる夫婦関係は、「女は黙ってついてこい」的なものとは随分違う。また、現代の鹿児島でもお酒の席で女性に給仕させるということは当然多いのだが、当時はそうでもなかったらしくこんな記述がある。
「男性も一通りの料理の法を心得ていて、宴会などの時も女性の手を借りないことが多い」
とのことである。自分だけ刺身をつまんで焼酎を飲んでいた祖父に聞かせてやりたいものだ。でも実は、今でも鹿児島では「男子厨房に入らず」というようなことはなくて、意外に料理好きな男の人が多い印象がある。私自身も料理は結構好きだ。

ちなみに本富は鹿児島の女性を随分褒めていて、
「その容貌を見れば明眸皓歯で瀟洒な人や、豊満艶美で温厚な心持ちを持っている人が多い」
として
「とはいっても他郷の人に比べると愛嬌があるというより凛とした面持ちがあって、姿勢は正しく血色もよく、都会にいるような蒼顔柳腰(青い顔をしてなよっとした)の美人は少ない。むしろ強健でよく働き、自ら薩摩婦人という一種の気概がある」
しかも
「彼女らは男性のように乱暴や不規則(規則を守らないことを指していると思われる)はせず、また並の婦人のように家から外に出ない無職的な生活もしない。よく外に出て作業をし、相当の労働をしている」
だそうである。この頃の鹿児島の女性は、美しく気概があり、よく働くという随分デキる人が多かったようである。いや、私は今の鹿児島もそういうテキパキっとしたデキる女性が多いように思っているのだが。

このように、少なくとも明治の頃の庶民社会では、鹿児島は他県と比べて特に男尊女卑がひどいということはなかった。それどころか、女性も生き生きと働いていた様子が窺える。実は鹿児島だけでなく、かつては全国的に農村部ではかなり男女は対等な立場にあった。

というのは、農作業というものは男性だけでするものではなく、女性もその重要な部分を担っていた。例えば「早乙女(田を植える乙女)」という言葉があるように、田植えは女性が主役になる作業で、テキパキと田植えをこなす女性が、なかなか田植えが進まない男たちを「あんたらまだ終わってないの〜」とからかっていた、というような話がある。農業は力任せの作業の他にも、時にリズムが大事だったり、精密さや気遣いが大事な作業があったり、いろいろな場面があるから常に男性が優位とは限らない。

このように、女性も仕事の重要な部分を担っていたから、昔は農村部では男女は対等だったのである(「平等」ではない。役割分担はあった)。男尊女卑の価値観が遅れた農村的なものだというイメージは全くの誤りだ。

そして先ほどの『薩摩見聞記』でも女性が「相当の労働をしている」とあるように、経済的に男性に従属していなかったというのが「男女が対等であること」に大事である。逆に言えば、男尊女卑の根幹には、女性を経済的に男性に従属させる社会構造がある

さて、鹿児島の男尊女卑の風土が歴史的なものでないとしたら、いつから鹿児島は「男尊女卑の牙城」になってしまったのだろうか?

これには社会学的な考証が必要になってくるので私の手には負えないが、憶測でものを言わせてもらえばそれは日露戦争(明治37年)あたりからではないかと思う。戦争はどうしても男性が中心になり、女性は従属的な役割にならざるをえない。さらに日露戦争は勝利に終わったために、従軍帰還兵は「日本に勝利をもたらした兵隊さん」として随分チヤホヤ(?)されたらしい。地域の顔役のような人ですら、帰還兵の若者に頭が上がらなかったというような話も聞く。

また、海外どころか他県に出るということも稀だった明治時代に、海外まで派兵されたり、日本全国を軍艦で回ったりという経験をした従軍者は、外の世界への目を開かされ、土地の境界の1尺や2尺で争っているような田舎の文盲の人間が、随分遅れたものとして目に映っただろう。それに、文字通り生死の境という極限状況をくぐり抜けてきたという自負もあったはずだ。そういう帰還兵が、奥さんにとった高飛車な態度が鹿児島の男尊女卑の起源ではないか、というのが私の空想である。

もちろん、その後のサラリーマン社会化で男性が稼いで女性が家を守る、という形になっていったことの方が影響は大きく、女性が経済的に従属的な存在となっていったことで男尊女卑の社会になっていったのだろう。

ただ、それは全国的な現象なので鹿児島の特殊性を説明する材料にはならない。それよりも、日清・日露・太平洋戦争という戦争の時代が鹿児島の社会生活のあり方を大きく変えたということの方がまだ説明がつくのではないか。もちろん戦争の時代も全国的な現象であるが、どうも日露戦争というのは鹿児島が深くコミットしていて、他県と比べ鹿児島の社会にはインパクトが大きかったように見える。

例えば、バルチック艦隊を破った元帥海軍大将・東郷平八郎は鹿児島人だし、 元帥陸軍大将・大山巌も鹿児島人、他にも大幹部クラスとしては黒木為楨野津道貫川村景明らが鹿児島出身であり、日露戦争の陸海軍において鹿児島は相当の存在感がある。大幹部クラスでこうだから、そうした大幹部に憧れて入隊していった鹿児島の若者の数も相当だったはずだと思う。

鹿児島の神社には大抵「日露戦争戦没者慰霊碑」があって、これは普通のことだと思っていたが、他県でもそうなんだろうか?この「日露戦争戦没者慰霊碑」の多さは、鹿児島の社会が日露戦争で受けた大きな衝撃の証左のように思える。

それはともかく、私は鹿児島の古くからの姿はかなり変わってしまったのではないかと思っている。いや、『薩摩見聞記』を見ればわかる通り、変わっていることは間違いないし、むしろ社会や経済の仕組みが随分変わったのに鹿児島の人の価値観が変わっていなかったらそっちの方がおかしい。

でも、『薩摩見聞記』に記された鹿児島の姿はまだ残っているような気もしている。「男尊女卑の牙城」としての鹿児島より、こちらの方が鹿児島県民にしっくり来るんじゃなかろうか。「男尊女卑の牙城」とか言われると、確かに男が偉そうにしているが女性も相当やり手が多い鹿児島の実情とはちょっと違う、という気がしてならない。

明治維新からもうすぐ150年、ここらで本来の鹿児島人の姿に戻ってはどうか。

2015年8月28日金曜日

大浦町の台風被害

台風15号、ものすごい台風だった。大浦町のランドマーク、丸山島公園のてっぺんにある展望台も全壊した。この展望台、予算の関係でもう再建されないのではないかと思う。

停電は、うちの場合は2日半続いた。全然停電しなかった地域もあるようだが大体は2日間くらい停電したようだ。2日もろうそく生活をしたのは初めてかもしれない。

このブログは大浦町出身者の方が多くご覧になっているようなので、ちょっと町内の被害状況を報告したいと思う(自分の被害については「南薩の田舎暮らし」の方で述べるつもりです)。テレビや新聞では大浦のような辺鄙なところの被害などは全く出ないと思うので。

※ただし、個人住宅の被害写真を載せると問題もありそうなので、それなりに公共性のある場所のみに限っています。

まず干拓から。

干拓の中心にある恋島コンクリートの工場、上の部分が傾いている。これを最初に見た時はかなり衝撃を受けたが、よく構造を見てみるとそこまで頑強なものではなかったようだ。でもコンクリートが一番必要な復興期に恋島コンクリートが稼働しないのはちょっと残念。

大浦干拓の防風林になってる松も、ところどころねじ切れたり折れたり。お米の収穫作業が終わっていたのがせめてもの救い。

 西福寺の瓦もちょっと崩れた。もちろん、個人住宅も瓦が飛んだ家は多数。

道路標識も倒れているのが何本か。(この写真の標識は看板がついているので折れやすそうだが、標識のみのものも折れていた。狭い街なのに標識が多すぎるからこの機会に減らしたらいいと思う)

この写真はわかりにくいが、これは石垣の上にあった竹林が根こそぎ倒れた様子。竹林が根っこごと倒れるなんて聞いたことがない。

次に、上山(かしたやま)に向かう。県道272号線で久志へ向かう峠の道。大浦では、今回の台風でここが一番大きな被害を受けていると思う。

県道沿いに植林された杉のかなり多くが風でなぎ倒されていた。

電柱も折れたり倒れたりしているものが多数。しかも電線にはかなりたくさんの木が掛かった状態。でも驚くべきことにこの状態で通電している。こんな状態でも電気を復旧してくれた九電には感謝!

山自体が崩れたような(山崩れがあったわけではない)、風が山を引き裂いていったような感じ。

今回の台風は、自然の木がたくさん倒れたりねじ切れたり折れたりしているということが印象的だ。自然の木は強いという印象があったが、これほどの強い風になると自然の木も抗うことが出来ないらしい。枕崎で最大瞬間風速45m/sとの報道があったが、ここはたぶん地形的な要因でそれより強い風が吹いたのではないか。60m/sくらいないとこんな被害にならないと思う。

かなりの大径木が根こそぎ倒伏している。切られているのは、道路を塞いでいたので切断して片付けたため。

大きな杉が、3本傾いていた。しかも電線に引っかかっている。この先にも集落はあるが、このあたりで先へ進むのが怖くなって引き返した。

山の木が倒れても経済的な被害としてはさほどではないが、これを片付けるという作業は大変になるので、たぶん放置されてこのまま山が荒れるのではないかと思う。

最後に、大木場のヤマンカン(山神)こと大山祇神社。

社殿(拝殿?)の裏手にある木々がバリバリ倒れてしまった。ここは元々鬱蒼とした森になっていたが、台風後は随分明るくなって雰囲気が変わった。ただ社殿への被害はないようである。

社殿の裏手へ近づいてみるとこんな感じ。かなり太い樟(くす)もあっけなく折れている。そんなに強い風が当たるところではないようなのに不思議だ。集落を守って身代わりに折れてしまったんじゃないかと思わされた。

ここにはかなり被害がひどいところだけ写真を載せたので、市街地の方がどうなっているか心配な人も多いと思う。だが意外と人家への被害は軽微で(瓦が飛ぶ程度は多いが)、けが人も僅かだそうである。

また、大浦町には、文字通り吹けば飛びそうな古くてぼろい家(失礼な表現とは思うが本当にそんな家がたくさんある)が多いのに、そうした古い家は意外と平気だった。これも不思議である。やはり昔の家は見た目よりずっと丈夫に作ってあるんだろうか。

不思議と言えば、大浦や笠沙、坊津(直接はまだ見ていません)はかなり大きな被害が出ているのに、加世田の市街地に行くと何事もなかったかのように被害がほとんど出ていないことである。この格差はなんなのか。

加世田には丈夫なしっかりした家が多いということもあるのかもしれないし、今回の台風は進路的に南に開けたところでの被害が大きいので加世田は被害が軽かったのかもしれない。でも同じような条件に思える金峰ではけっこう被害があるらしい(これも伝聞)。そういうことを考えると、麓(ふもと:鹿児島の言葉では、武士の集落があったところ、という意味です)は災害を受けにくいところが選ばれているのかもしれないと思った。

今回の台風は、野間池ではルース台風以来とか言われているようだし、大浦でもこんな大きな被害があるのは数十年ぶり、少なくとも20〜30年ぶりだそうだ。復興にはかなりのエネルギーが必要だろうし、丸山島公園の展望台みたいに、もう二度と再建されなさそうなものも多い。歴史的な出来事、というには大げさだが、その影響はしばらく残るだろう。

2015年8月18日火曜日

決められた「お米の食品表示のラベル」

今年から「南薩の田舎暮らし」ではお米を販売した。それで、初めてお米の食品表示のラベルを作ったわけである。

このラベル、小売りされているお米のパッケージには必ず付いている。実はかなり細かいところまで書くことが決められていて、その大きさまで(文字の大きさまで!)含めてどこもほとんど同じである。

実は、「決められている」といっても農水省の告示「玄米及び精米品質表示基準」というやつに書いてあるだけなので、(虚偽を書いてはいけないが)これに違反しても特に罰則があるわけでもない(行政指導を受けるくらいだと思う※)。

こういう、法的拘束力がほとんどない「告示」にほとんどの業者が従っているというのは良くも悪くもすごいことだ。「告示」のように、行政的には軽微な、つまり役人のさじ加減次第でどうにでもなるような規則が社会の様々な面で大きな影響力を持っているのはあまりよいことではないが、そう思っている私自身もこれに従っているのだから人を笑えない。

このラベルにはもう一つ笑えないことがある。それは「原料玄米」の項目が「未検査米」となっていることだ。普通の人は、これではなんのことか分からない。

「玄米及び精米品質表示基準」では、この「原料玄米」の項目は「登録検査機関」による証明事項を記載することになっており、その検査を受けていない場合は「未検査米」として表示しなければならない。つまり、品種どころか産年(2015年産とか)すら表示できないのである。

ちなみに、このラベルには(告示に従って!)記載していないが、このお米は当然2015年産の新米であり、品種はコシヒカリである。「登録検査機関」に検査してもらわないとそれは書けないのである。

では「登録検査機関」とは何かというと、農産物検査法に規定するもので、農水省の指定を受けた機関である。具体的にはJAとか小売業者とかが指定を受けているが、うちの地域の近場でいうとJAがそれにあたる。だから収穫したお米をJAに持っていき、検査を受ければ「2015年産のコシヒカリ」という表示をすることができる。でも僅かとは言え検査料も取られるし、何より(こういう言い方をすると傲慢だが)私よりJAを信じる、という人が私のお客さんにはいないと思うので検査はしなかった。新米だと私が言ってるんだから信じて欲しい。

それにしても、どうしてこう穀物類は規制と管理ばかりなのか。上記の基準の他に「米トレーサビリティ法」というのもあって、取引の際に産地や品種などの情報を引き継いで行かなくてはならないとか、いろいろある。補助金との関係があるにしても過剰な管理がなされているように感じる。

ちなみに「米トレーサビリティ法」は、数年前に食用でない米を食用に転用していた悪い業者がいて、そのせいで出来た法律だが、そもそも規制と管理は多いのに、人々の善意に頼るばかりで実質的な拘束力を持たないことが事件の背景にあったと思う。

農業関係ばかりでなく、こういうことが日本の規則体系には多い。事細かにいろいろ決められている割には、それを破るのは簡単である。つまり、善意の人はちゃんとその煩瑣な規則に従うが、悪意ある人にはそれをやすやすと無視しうる。それで、正直者は馬鹿を見る、みたいな規則がたくさんある。米の食品表示にしても、安い米を仕入れてきて「魚沼産コシヒカリ」と詐称して売るのは簡単であって、登録検査機関による証明とか、そういうことは生産者や業者の善意に任されているのだ。

一方で、物事は善意に任すべきだ、というのが私の考えである。性悪説に立った規制でがんじがらめになるのはまっぴらゴメンである。でもどうせ善意に任すなら、最初から規制なんかない方がいい。悪意ある人を排除できないような規制なら、ある意味がない

結局、安い米を仕入れてきて「魚沼産コシヒカリ」として売る人を排除するのは規制の力でなくて消費者の選択であるべきだ。ウソで成り立たせる商売は、長期的にはペイしないと信じるしかない。「消費者に味などわからない、彼らは情報(ラベルや評判や格付け!)を消費しているんだ!」と訳知り顔に言う人もいるが、そんなことはないと思う。意外と消費者は騙せない。

だから、消費者が騙されないように煩瑣な規則を作るよりも消費者の力量を信じた方がよいと思うし、仮に消費者保護を厚くするにしても、善意の人に守ってもらうような規則ではなく、悪人を厳罰に処する規則にすべきだと思う。

※ ちなみに虚偽を書いたら1年以下の懲役又は100万円以下の罰金。

2015年8月11日火曜日

川内原発再稼働に想う

川内原発が再稼働した。大変難しい問題で、これについてはブログなどでは語らない方がいいような気がする。でも大きな問題でもあるので、県民の一人として洞ヶ峠を決め込むというわけにもいかないという気持ちである。

最初に言っておくと、これを表明するのはたいへん勇気がいるが、私は脱原発派ではない。

震災後にこちらへ移住してきているので、当然私を脱原発派だろうと思っている人が多いだろうし、職業も「百姓」を名乗っているくらいなので、地球環境に負荷を掛ける原発には反対だろうとみなさん想像されると思う。

だが原発推進派というわけでもない。福島であのような事故(そしてその後の情けない対応!)が起こってしまった以上、我々日本人には(少なくとも今は)原発のような難しいものをマネジメントしていく能力がないことが明らかになってしまったので、経産省の言うように原発が「重要なベース電力」を担っていくことなんかできないんじゃないか、とは思っている。20年くらいかけて現在ある原発は順次廃炉にしていくべきではないかと思う。

しかし、それと即時廃炉・脱原発、というのとはちょっと距離がある。

といっても、即時廃炉派の人の意見も分かる部分はある。「喉元過ぎれば熱さを忘れる日本人のことだから、今のタイミングで脱原発できなければ、ズルズルと元に戻っていくのではないか」という危惧が即時廃炉派の人にはあるのではないか。確かに日本人は物事をジワジワと地道に変えていくのが不得意である。変えるときは一気に変えるのが性に合っている気もする。

川内には直接の友人はいないので、川内の人が原発をどう思っているのかはよくわからない。でも伝え聞くところによれば反応は複雑だ。原発推進や反原発といったわかりやすい主義主張の対立というより、その中間の大きなグレーゾーンの中で人々は落ち着かない日々を過ごしているように感じる。

元々川内原発は(他の原発も似たようなものではないかと思うが)地元の熱烈な誘致によって出来たものである。これといった産業がなかった川内の活性化のために原発を呼び込んだのである。当然、その際には原発の危険性などは地元住民には十分に伝わっていなかったし、原発誘致をした当人ではない現在の川内の住民たちに責任はないが、設立の経緯からすると川内に原発が立地していることの責任は九電のみにあるわけではない。

そして、川内という地方都市は、原発があることを前提に発展してきた。もちろん事故は怖いわけで、ないならないに越したことはない。でも経済の基盤をいきなり失うのも怖い。今は暫定処置として稼働していない原発(が立地する自治体)にも交付金が出るようになっているが、そんな制度は長続きしないだろうし、何より原発が稼働しなければそこに働く多くの人が失業することにもなる。地元住民としては、脱原発するにしても次の経済基盤を作るのが先決、という気持ちではないだろうか。

政府及び九電は、法律によって必要な手続きではなかったにも関わらず、再稼働には事実上地元自治体の同意が必須だとして、議会へ意見を求めた。そして薩摩川内市の市議会、また鹿児島県議会でも再稼働に同意する議決が出ている。今回の再稼働は民意を無視しているという人もいるが、手続き的には民意に添っている。直接恩恵を受けるわけではない周辺自治体の人たち(私もその一人)の意をあまり汲んでいないという批判はあるにしても、まるきり政府や九電の独走というわけではない。

もちろん、薩摩川内市の市議会、そして県議会が市民や県民の真の代表たり得ているか、ということは一考を要する。ちょっと産業寄りすぎるきらいはある。でも私の実感として、市民や県民の複雑で割り切れない思いを議会はそれなりに共有していたように思う。

ただ、再稼働同意ということが最終的な民意か、というとそれは違う。割り切れないグレーゾーンの人たちが、暫定的に選んだのがそれであって、川内はこれからも原発の街でやっていく! という結論が出たわけではない。その意味では、まだまだ議論すべきことはたくさん残っていて、私としては、ようやくこれから落ちついて議論ができるようになったのではないかとも思っている。

ここですごく心配なことがある。原発再稼働そのものよりももっと心配だと言ってもいい。それは、脱原発派、原発推進派、そしてその間のグレーゾーンの人たちの間で、全く対話が成り立たないことである。

脱原発派の人たちは、原発推進派の人たちを政府の狗か経済至上主義者の愚昧な輩と思っているし、一方原発推進派の人たちは、脱原発派の人たちを現実を見ないお花畑だと思っている。互いに互いをバカにしていて、「バカだからあっちの派閥なんだろう」と互いに思う始末である。

こういう調子だから全然対話が成り立たない。お互いに見ているものが違いすぎて言葉が通じない。互いに軽蔑し切っているから、対話するための最低限の条件、いやたった一つの条件である「互いを尊重する」ということができない。今こそ対話が必要な時なのに、対話どころか挨拶すらできないような状況になっているのは残念だ。

そしてもっと気になるのはその間のグレーゾーンの人たち。脱原発派と原発推進派がいがみあっているものだから、どうしてもそこから距離を取ってしまう。普通の人の普通の意見が表明しづらくなって、元より割り切れない意見がさらに曖昧なものになる。この人たちはその考えの深さの度合いはともかくとして、対話や議論の先に現実的な解決策を見つけなければならないと感じている人たちだと思う。それが議論の輪の中に入ろうとしない、それが最も危険なことのように感じる。極端な意見だけが取り上げられて、それが対立を更に煽り、普通の人がどんどんそこから遠のいていく。

もちろん、過激な意見も時に必要である。水俣病の時には過激な意見がなければ住民は見殺しされていただろう。国家権力に逆らって正しいことを成し遂げるには時に住民をも置き去りにするような過激さが必要だ。しかし今の場合はちょっと違う(と私は思っている)。鹿児島県民は、落ちついてどうすべきか考える時ではないか。

こういう時には、モデレーターがいる。つまり調停者である(皮肉なことに、原子炉の減速材という意味もある)。異なる立場にある人の間を取り持って、少なくとも対話が成立するようにする人だ。いがみ合うのではなく、より大きな立場で(極端に言えば人類全体くらいの視野をもって)共通の土台に立って共に前進できるように取りはからう人だ。

今はアクティビスト(活動家)には事欠かないがモデレーターはどこにもいないようだ。このように対立が深い問題なので、これを調停してやろうと思うような人はいないのだろうし、双方が、そのような対話路線を取ることは愚かなことだと思っているのかもしれない。

私にもう少し力があれば、こういう時に、政府・九電や産業界と脱原発派の間で少しでもよいから対話できる機会を作ってみたいと夢想する。地元の、本当に地元の普通の人と、政府の下っ端の役人や九電の中間管理職と、脱原発でユルく活動している人に、同じ席に座ってもらって、「いやー、最近本当に暑いですねー」みたいな挨拶程度の、中身のない話をする場を設けてみたい。それで何かを変えるのじゃなくて、みんな同じ人間なんだということを確認したい。

どこかに絶対の真理があるのではなく、一寸先は闇の中を手探りしながら人間は先へ進んでいく。手探りするならその手は多い方がよい。脱原発派も原発推進派も、そしてその間の人も、未来へ向かって手探りするのに手を貸して下さい。

2015年8月7日金曜日

クモ、カマキリ、ムカデと圃場生態系

私の柑橘園にはクモが多い。今ちょうど夏剪定をしているが、その最中によく顔にクモの巣をひっつけてしまう。

クモの多さは多分、無農薬栽培をしていることと関係がある。普通の柑橘園にはこんなにクモはいない(ような気がする)。私も無農薬栽培を初めて最初に感じた変化は、「なんかクモが多いなー」ということだった。

クモに比べれば目立った変化でないような気もするが、カマキリも他と比べて多いと思う。ただ、大型のカマキリはあまり目にすることがなく、小さいカマキリが中心なのはなんでなんだろうか。

それから、最近はムカデも多くなって、よく幹にムカデが這っているのでとても怖い。しかもこんな巨大なムカデ見たことない! というような立派なのが這っている。この前はあんまり怖いもんだからムカデを殺してしまった。でもクモもカマキリもムカデも、他の昆虫を食べてくれる存在だから農業的には有り難い虫である。

クモやムカデのような虫は他の虫を食べ、その虫はまたより小さな虫を食べているわけで、クモたちが存在していること自体が、圃場内に餌となる虫がたくさんいる証左だ。だいたいの虫は益虫でも害虫でもないし、クモやムカデがことさら害虫ばかりを食べてくれるというワケでもないのだが、こうして圃場内に(たぶん)安定した生態系ができているということは喜ぶべきことだ。

クモ、カマキリ、ムカデは圃場生態系においてほとんど最上位に位置していて、圃場生態系のありさまを決める重要な存在だ。生態系における少数の捕食者は、生態系のバランスを決める決定的な要因となっていることが多く、それは生物学の用語ではキーストーン種という。

キーストーン種がいなくなると生態系は重大な影響を受ける。無農薬栽培を始めてみて思ったのは、こうして圃場に生態系が出来てくると、農薬を使うとそれを壊してしまうことになるからおいそれとまた農薬は使えないな、ということである。生態系の攪乱によってどのような影響が出るのか不安になるからだ。

例えば日本でイノシシやシカが増えすぎて問題になっていることの原因の一つに、日本の山野におけるキーストーン種であったニホンオオカミの絶滅がある。イノシシやシカが人里まで下りてくるようになったのは山野が杉林ばかりになって食べ物が少なくなったからとか、人家が山近くまで作られるようになったからとかではなく、捕食動物が減ったことが要因として大きいと思われる(そもそも戦前の山ははげ山が多かった)。

ちなみにキーストーン種は生態系のバランスを決めるが、生態系の全生物量(バイオマス)を決めているのは、水とか太陽エネルギーのような外界からの影響を除くと、たぶん土壌微生物だと思う。土壌微生物の生物相が安定することによって、生態系のバランスがより強固になるのではなかろうか。

土壌微生物についてはクモとかムカデみたいに直接観察することは難しいので、ちょっと勉強してみたいと思う。

2015年7月27日月曜日

米袋デザインとお米の販売告知

去年と一昨年「南薩の田舎暮らし」で販売した狩集農園の「おうちでたべているお米」、今年はその米袋(5kg入り)のデザインをさせてもらった!

磯間嶽のシルエット(これは狩集農園さんからのリクエストによるもの)を遠景に、ちょっとだけ不整形な緑の四角形。この四角はもちろん狩集農園の田んぼを象徴していて、田んぼというのはキッチリ四角なら作業がしやすいがゆがんでいると手間がかかる。さらには山あいの狭い田んぼとなれば手間は段違いで、そういう手間をかけて育てたお米ですよ、ということを暗示したつもりである(まあそんなことにピンと来る人はいないと思いますが)。実際、干拓のだだっ広いところで米を作るのと、山あいの狭くて形の悪い田んぼで米を作るのでは3倍くらいの手間が違う、それなのにお米の値段は(農協に出荷したら)全く同じなのだから現実は非情である。

ちなみに「おうちでたべているお米」の題字は狩集農園のお子さんに書いてもらった。去年は、ネット販売の売り文句か何かに「ちっちゃな子どもがいる狩集農園の…」と加えたが、そういう説明もちょっと野暮ったいし、題字の雰囲気で表現したいと思い、 こうしてみた。

で、このお米、せっかく米袋をデザインさせてもらったのだが、今年は「南薩の田舎暮らし」では販売しないことにした。いろいろ事情はあるが、一番は「よく考えたら全国の郵便局で申込を受け付けているわけで、あえてインターネットで販売する意味があんまりない」ということである。

というわけで、ご注文の方はカタログチラシをご覧いただき、お近くの郵便局の窓口にて備え付けの「カタログ販売申込書(一般用A)」で申込いただきたい(このカタログチラシが置いてある郵便局でしか取り扱っていないのかと勘違いしていたのですが、全国の郵便局で受け付け可能との由でした。ただしふるさと小包のWEBサイトでは申込できません)。

で、その次に大きな理由は、今年から自分で栽培したお米を販売するということである。

私は米作りは「田舎モノの嗜み」としてやる程度…と思っていてこれを個人販売していくつもりはあんまりなかった。でも気づいたら5反(50a)も水田を作っていて、自家用以外は全部農協に出すということだとせっかく無農薬栽培しているのにもったいない。専門の米農家の方に比べれば品質は全然マダマダではあるものの、無農薬・無化学肥料に価値を感じていただける方もいると思うので販売に踏み切ったわけである。

というわけで、南薩の田舎暮らしの「無農薬・無化学肥料のお米」10kg 4000円(+送料500円)。予約のみ販売となっていますのでよろしくお願いします!

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【予約商品】無農薬・無化学肥料のお米
※発送は8月10日前後を予定しています。

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