本と出会うイベント、の構想を書いたので本の話もしてみよう。
毎晩、私は子どもたちに本を読んであげる。下の子はまだ2歳なのでごく簡単な絵本だが、上の子は5歳なので絵本だけでなく文字だけの本も読み聞かせしている。別に子どもの教育のためにということではなくて、寝る前の儀式みたいなもので読むのはなんでもいいのだが、どうせ読むなら自分自身が面白い方がよい。
それで、日本の昔話を一度ちゃんと読んでみたいと思っていたので、昨年『日本の昔話1 はなさかじい』という本を買った。おざわとしお先生の再話である。
多くの昔話の本がある中でこの本を選んだのにはいくつか理由がある。
まず、このシリーズは伝承された話を忠実に再現(再話といいます)していて創作や脚色がない。他のお手軽な日本昔話本は話を簡略化していたり、当時の道具を(子どもには理解できないといって)出さなかったり、現代の倫理観から結末が変わるなどヘンテコな改変があってよくない。その点このシリーズは採録された話をそのままの形で提示しようとしており、ちゃんと出典が明示されていて信用できる(ただし採録されたそのままの姿ではなく、標準語に改変している。昔話はずっとお国言葉・方言で語られてきた)。
ただ、やっぱり子どもにはちょっと難しい言葉も出てくる。一番難しいのは昔の道具の名前で、「長持」とか「かます(ムシロで作った袋)」なんかは今の子どもは絶対に分からない。が、そういう言葉が出てきても子どもは驚異的な言語感覚によって「なんか入れるための道具だな」くらいのことはちゃーんと推測できるので、実は読み聞かせにはあまり支障はない。
そしてこの本を選んだ理由のその2は、再話しているおざわとしお(小澤俊夫)さんである。実は私はこの小澤先生がFM福岡でやっているラジオ「昔話へのご招待」をPodcastで愛聴していて、農作業中によく聞いているのだ。
小澤先生は元は大学教授でドイツ文学が専門。メルヒェンなどドイツの口承文学を研究するうち昔話に魅せられ日本の昔話も採録・研究するようになった。大学退官後、全国で「昔ばなし大学」という市民講座的なものを立ち上げ、小澤昔ばなし研究所を主宰。民俗学的な考察など学究的アプローチもある一方で、子どもへ昔話を語る活動もあり、アカデミアと草の根の両輪で活躍されている方である。
ちなみに小澤先生の弟が有名な指揮者の小澤征爾さんであり、息子さんはミュージシャンの小澤健二さん。他にも小澤一族には学術と芸術の分野で著名な人がたくさんいる。
ラジオではこの小澤先生が昔話にまつわるアレコレを語るわけだが、その内容は雑学的なものというよりも、究極的には「子どもにどう向き合うか」という話になっていく。その語り口は、「この人は本当に子どもが好きで、子どもが成長していくことに全幅の信頼を置いているんだなあ」と思わされるもので、それだけでこのラジオは気持ちがいい。
翻って自分のことを考えてみると、子どもをぞんざいに扱っている時もあり反省させられる。だからせめて寝る前の読み聞かせくらい毎日欠かさずしたいと思う。このシリーズは5巻で300の話が再話されていて、今のところ2巻の『したきりすずめ』までほぼ全部の話を一度は読んだが、本当に毎日読んでいたら300の話があと2年くらいで全部読めそうである(でも実際には毎日というわけではないです)。
ところで先日ブックオフに行ったら『初版グリム童話集 ベストセレクション』という本が200円で売っていたので買ってみた。小澤先生が昔話の世界に入るきっかけとなったグリム童話である。ついでに言えば、「元の話を改変しない。脚色しない。そのままの形で採録する」というような本シリーズの方針は、実は既にグリム兄弟が打ち出していたもので、グリム兄弟はちゃんと出典(どこどこ地方の誰さんにいつ聞いた話か)まで残している。グリム兄弟はものすごく先駆的な仕事をした人たちなんだということも小澤先生のラジオで知った。
それはともかく、やはりまだグリム童話はうちの子には難しかったようである。日本語訳もあまりよくなく、もうちょっと平明な訳の方がよかった(童話なんだから平明に訳して欲しい)。それに文化の違いなのか、なんだかストーリーがしっくりこないところがあって、私にも意味がよくわからない話があった(なんでそこがそうなるのー! とツッコミを入れたいような話が多い)。
というわけで、まずはやっぱり日本の昔話から読み聞かせを続けたい。
2015年6月19日金曜日
2015年6月15日月曜日
景色の中で本と出会うイベントをやったら楽しそう
こちらに越してきて3年と半年。ようやく本を読む余裕が出てきた。
いや、実を言うと相変わらず生活には余裕がない。本なんか読んでる暇があったらやるべきことが本当はたくさんある。が、そういう諸々の些事をうっちゃって本でも読んじゃおうか…、という精神的余裕(横着ともいう)が出てきた。いいことなのか悪いことなのか。
もちろんこの3年半の間も全く読書をしていなかったわけではないけれども、必要だから読む本とか、調べ物をするために読む本が多く、要は目的のある読書がほとんどだった。でも最近、何の役にも立たない本を読む気になってきた。例えば詩集とか。
それで、ただ自分がなんとなく本を読むだけでなくて、本にまつわる何か(イベント?)をできないかと考えるようになった。
都会では本をテーマにしたイベントが割とあって、読書会、ブクブク交換(物々交換のもじりで本の交換)、ビブリオバトル(本のオススメ合戦)といった草の根のイベントから、数年前の話にはなるが松岡正剛氏のブック・パーティ・スパイラル(本をテーマにした講演+社交会)みたいなハイソサイエティの取り組みまで様々なものがある。
でも、当たり前だが田舎にはそういうものがない。田舎の人は都会の人に比べて総じて本を読まないというのは多分本当で、予算が少ないにしても図書館の貧弱さは目を覆うばかりだし(もちろん自治体によります)、書店・古書店も本当に少ない。でも田舎の人が本を読まないというのは知的レベルの問題ではなくて、ただ「電車通勤」がないからだというのが私の仮説である。
当たり前のことだけど、田舎にも読書家はいるし、何かよい本があれば読みたいというくらいに思っている人はたくさんいる、と思う。そして、自分の世界を広げてくれるような本や体験を待っている人もそれなりにいる。少なくとも私自身はそう思っている。私はたいそうな読書家というわけではないし、愛書家でもないけれども、「本と出会う」のは好きである。そういうイベントをしたら自分も楽しいし喜ぶ人もいるかもしれない。
ただ、良書を探すというような単純な話になると、別に田舎とか都会とか関係ないし、インターネット上で探す方が効率がいい。ひょっとすると、Amazonのオススメ機能くらいで事足りるのかもしれない。
つまり、ただ「情報」を目的とするなら「田舎」でやる意味はない。それは都会でやっていることのミニチュア版をやるだけの取り組みになってしまいそうな気がする。
それに価値がないというわけではないだろうが、でもせっかく田舎で何かやるなら、都会ではできないようなことをした方がもっと楽しい。
例えば、本に関するイベントをするのでも、景色の素晴らしいところでやってみるとか。景色と本は全然関係ないでしょ、と思うのは早計だ。本というのはただ情報が詰め込まれた紙の束ではなくて、人格と同じように「本格」がある。その本とどこでどうやって(誰の紹介で!)出会ったのかというのは意外と(どころではなく超弩級に)重要だ。
そう考えると、昨年やった「笠沙美術館で珈琲を飲む会」のvol.2(今年も是非やりたい)のテーマとして「本」を取り上げたら面白いかもしれないと思いついた。実は去年のvol.1の時も、古書店に出張販売してもらう構想はあったのだ。だが、雨天の時の対応が大変なのと直前まで決まらなかったいろいろなことがあってできなかった。
今年はこの構想をもう少しちゃんと考えて、笠沙美術館で珈琲を飲みつつ景色と本を眺める会にしてみよう。日本のコーヒー文化では、「コーヒーと(JAZZと)古本」が分かちがたく結びついているので筋はいいはずである。ついでに、あとJAZZがあれば最高だ。
というわけで、何かボンヤリと企画のアイデアがあるが、でもやっぱりボンヤリとして茫洋としている段階である。もしグッドアイデア(やご希望)があればドシドシお寄せください(他力本願)。
いや、実を言うと相変わらず生活には余裕がない。本なんか読んでる暇があったらやるべきことが本当はたくさんある。が、そういう諸々の些事をうっちゃって本でも読んじゃおうか…、という精神的余裕(横着ともいう)が出てきた。いいことなのか悪いことなのか。
もちろんこの3年半の間も全く読書をしていなかったわけではないけれども、必要だから読む本とか、調べ物をするために読む本が多く、要は目的のある読書がほとんどだった。でも最近、何の役にも立たない本を読む気になってきた。例えば詩集とか。
それで、ただ自分がなんとなく本を読むだけでなくて、本にまつわる何か(イベント?)をできないかと考えるようになった。
都会では本をテーマにしたイベントが割とあって、読書会、ブクブク交換(物々交換のもじりで本の交換)、ビブリオバトル(本のオススメ合戦)といった草の根のイベントから、数年前の話にはなるが松岡正剛氏のブック・パーティ・スパイラル(本をテーマにした講演+社交会)みたいなハイソサイエティの取り組みまで様々なものがある。
でも、当たり前だが田舎にはそういうものがない。田舎の人は都会の人に比べて総じて本を読まないというのは多分本当で、予算が少ないにしても図書館の貧弱さは目を覆うばかりだし(もちろん自治体によります)、書店・古書店も本当に少ない。でも田舎の人が本を読まないというのは知的レベルの問題ではなくて、ただ「電車通勤」がないからだというのが私の仮説である。
当たり前のことだけど、田舎にも読書家はいるし、何かよい本があれば読みたいというくらいに思っている人はたくさんいる、と思う。そして、自分の世界を広げてくれるような本や体験を待っている人もそれなりにいる。少なくとも私自身はそう思っている。私はたいそうな読書家というわけではないし、愛書家でもないけれども、「本と出会う」のは好きである。そういうイベントをしたら自分も楽しいし喜ぶ人もいるかもしれない。
ただ、良書を探すというような単純な話になると、別に田舎とか都会とか関係ないし、インターネット上で探す方が効率がいい。ひょっとすると、Amazonのオススメ機能くらいで事足りるのかもしれない。
つまり、ただ「情報」を目的とするなら「田舎」でやる意味はない。それは都会でやっていることのミニチュア版をやるだけの取り組みになってしまいそうな気がする。
それに価値がないというわけではないだろうが、でもせっかく田舎で何かやるなら、都会ではできないようなことをした方がもっと楽しい。
例えば、本に関するイベントをするのでも、景色の素晴らしいところでやってみるとか。景色と本は全然関係ないでしょ、と思うのは早計だ。本というのはただ情報が詰め込まれた紙の束ではなくて、人格と同じように「本格」がある。その本とどこでどうやって(誰の紹介で!)出会ったのかというのは意外と(どころではなく超弩級に)重要だ。
そう考えると、昨年やった「笠沙美術館で珈琲を飲む会」のvol.2(今年も是非やりたい)のテーマとして「本」を取り上げたら面白いかもしれないと思いついた。実は去年のvol.1の時も、古書店に出張販売してもらう構想はあったのだ。だが、雨天の時の対応が大変なのと直前まで決まらなかったいろいろなことがあってできなかった。
今年はこの構想をもう少しちゃんと考えて、笠沙美術館で珈琲を飲みつつ景色と本を眺める会にしてみよう。日本のコーヒー文化では、「コーヒーと(JAZZと)古本」が分かちがたく結びついているので筋はいいはずである。ついでに、あとJAZZがあれば最高だ。
というわけで、何かボンヤリと企画のアイデアがあるが、でもやっぱりボンヤリとして茫洋としている段階である。もしグッドアイデア(やご希望)があればドシドシお寄せください(他力本願)。
2015年6月12日金曜日
アボカドを植えました。が…
予定していた開墾が「一応」終わってアボカドの苗を植えた。これで約120本アボカドを栽培していることになる。
「一応」というのは、予定地全てを借り受けることが出来なかったからである。もちろん全て内諾は取っていたのだが、いざ契約(使用貸借契約)の段になって、ある地主さんが「やっぱり貸せない」と役場に言ってきたそうだ。
理由は(直接聞いていないので)よく分からないが、「自分も長くないので10年間の契約だとどうなるかわからないから」というようなことだったらしい。「2、3年だったら大丈夫なんだが」とのこと。
こういう、耕作放棄地だったようなところが(仮に管理者が亡くなったとしても)10年そこらでどうこうなるものでもないと思うので(そもそも20年以上耕作放棄地で荒れっぱなしだったのに!)、その理由はいまいちピンと来ないのだが地主さんがそう言ってるんでは手も足もでない。
なので、予定地が500㎡ほど狭くなって、予定した本数を全て植えることができなかった。苗木は既に発注した後だったのでベーコンという品種が8本余ってしまった。うーん、この8本をどうしよう。たぶん定植後に2本くらい枯れるので、2本は予備としても6本余る。1本4200円するので無駄にはできない。
とりあえず暫くはポットで栽培して補植に備えつつ、もし必要な人が近所にいたらお分けすることにしたいと思う。ちなみにこの品種だけで植えてもなかなか実がならないはずなので、もし植えたいという人は受粉樹は自分で用意してください。
「一応」というのは、予定地全てを借り受けることが出来なかったからである。もちろん全て内諾は取っていたのだが、いざ契約(使用貸借契約)の段になって、ある地主さんが「やっぱり貸せない」と役場に言ってきたそうだ。
理由は(直接聞いていないので)よく分からないが、「自分も長くないので10年間の契約だとどうなるかわからないから」というようなことだったらしい。「2、3年だったら大丈夫なんだが」とのこと。
こういう、耕作放棄地だったようなところが(仮に管理者が亡くなったとしても)10年そこらでどうこうなるものでもないと思うので(そもそも20年以上耕作放棄地で荒れっぱなしだったのに!)、その理由はいまいちピンと来ないのだが地主さんがそう言ってるんでは手も足もでない。
なので、予定地が500㎡ほど狭くなって、予定した本数を全て植えることができなかった。苗木は既に発注した後だったのでベーコンという品種が8本余ってしまった。うーん、この8本をどうしよう。たぶん定植後に2本くらい枯れるので、2本は予備としても6本余る。1本4200円するので無駄にはできない。
とりあえず暫くはポットで栽培して補植に備えつつ、もし必要な人が近所にいたらお分けすることにしたいと思う。ちなみにこの品種だけで植えてもなかなか実がならないはずなので、もし植えたいという人は受粉樹は自分で用意してください。
2015年6月5日金曜日
「メガ農協」と日本の農協——農協小考(その3)
ヨーロッパにもこういう「メガ農協」はある。例えばオランダの巨大乳業メーカーであるフリースランド・カンピーナ(日本ではフリコチーズで知られる)は、そのものは農協ではないが同名の農協が所有する企業で、10億ユーロ以上の売り上げと2万人の従業員がおり、その農協にはオランダ、ベルギー、デンマークに約2万人の組合員がいる。
ヨーロッパには村落単位の小さな農協もあるが、こうしたメガ農協もたくさんあって、近年は特に国際的な合併が盛んになってきて農協が巨大化・国際化していく傾向があるという。
さて、こうした農協は日本で言うところの「専門農協」であり、例えばサンキストは柑橘専門の農協だし、フリースランド・カンピーナは酪農の農協である。当然、日本の農協のように共済や信用事業(銀行)を兼業しているわけではない。一方日本では、農産物の流通の赤字(あるいは低利益)を金融部門の利益で補填している収益構造があり、それは農産物の流通が利幅の小さい事業であることからやむを得ないことと見なされている。しかし海外の農協では農産物の流通のみで立派に経営が成り立っているのである。どうして海外の農協は農産物の流通のみで利益を出すことができるのだろうか?
既に述べたように、欧州においても農協はその黎明期には金融や肥料の購買、農産物の流通などさまざま事業を兼業する「総合農協」として構想された。「ドイツ農協運動の父」と呼ばれるライファイゼンは、農協の単位をカトリック教会の教区として企画し、農協の根底に信仰の共同体を据えていた。カトリックの教区というのは全員が顔見知りであり、宗教儀礼だけでなく村落生活全般にわたる連帯意識があった。そういうわけだったから、当初借金組合として出発したライファイゼンの農協は、生活協同の組合として農業経営全般へと取り扱いを総合化していく素地があったのである。
ところが、時代が進むにつれドイツの農協の事業は整理され、やがて専門農協へと分化していく。例えば、1960年の時点ではドイツの協同組合銀行(日本でいうJAバンク)が農産物の流通や資材の購買を兼業している割合は76%だったが、2004年にはそれが19%に低下している。
なぜこのように専門へと分化していく動きが起こったのだろうか。実はドイツでも、農産物の流通などより金融部門の方が利益率がよかった、という事情があるようである。ということは、日本と同じく「農産物の流通の赤字を金融部門の利益で補填」というような構造があったのかもしれない。だが農協の合併などを期に、不採算部門をより広域の専門農協に売却するということが相次いで、結果として専門農協化が推し進められたらしい。
考えてみれば、協同組合というものは、利害を共有する人間によって構成されていなければ上手く経営できないものである。畜産農家と野菜農家は、同じ地域に住んでいてもあまり利害を共有しておらず、同じ組織でいるメリットは小さい。それよりも、違う地域でも畜産農家同士、野菜農家同士の方が同じ目標や経営課題を共有し、同じ施設設備を必要とする。だから、「地域に根ざした」組合よりも、業種ごとの組合の方が効率的に経営できるはずだ。そういうことから、ドイツでは村落ごとにあった「総合農協」が解体され、次第に地域を越えた「専門農協」へと整理されてきたのであろう。
そして、専門農協化することにより経営を効率化・高度化して農産物の流通だけで利益を出していくことができるようになったのだと思う。
ではなぜ日本では同じような動きがなかったのだろうか。専門農協化が農協にとっての唯一の冴えたやり方だとも思わないが、専門農協は世界的な主流となっていて日本のような総合農協は日本・韓国・台湾だけのトレンドだ。日本で専門農協へと再編していく動きはどうして存在しなかったのか。
一つは、日本の農業は明治から昭和半ばまでの長い期間、米も作れば野菜もつくる、牛も飼えば茶も育てるといった零細複合経営が主流で作物毎の専門農家があまり存在しなかったということが理由として挙げられる。だがこれはヨーロッパなどでも同じことで、有畜複合経営(家畜、穀物、野菜などを組み合わせる農業)はかつてのヨーロッパ農業の特色でもある。現代のこういう農家はヨーロッパでは複数の専門農協に加入している。だからこれはあまり説得的ではない。
もっと本質的な理由は、日本では農協が「農政の実行機関」と位置づけられて国家によってその形が定められ、自由な経営が行われなかったからである。やや過激な表現を使えば、農協は国家による農村支配の道具だった。このため、かつての全戸加入の強制や、市町村・都道府県・国という行政の3段階に対応した系統3段階制といった世界に類を見ない行政との相即不離の仕組みとなっていた。農村はこうした管理機構を受け入れる代わりに、特に米作において手厚い保護を受けることができたのである。
だが協同組合の本質は組合員の自主・自律性にある。共同組合とは、利用するもの、出資するもの、管理するものが一体であるという、究極の自律的組織である。そしてその根底には、組合員の連帯意識が必要である。かつてそれは村落の仲間だったのかもしれないが、連帯意識の範囲は時代に応じて移っていくものであり、地域が限定されていること自体が協同組合の理念に反すると思う。
日本の農協の歴史を紐解けば、その歴史はほとんど農政史そのものと変わらないものであって、常に上(国家)からの指示によって動かされてきた。そのため、本来は民主的組織であるはずの農協が、今の時代にあっても「組合員の意見を集約して経営する」という形になっておらず、そのための仕組みも未整備なところが多い。そしてそれ以上に、組合員自身が「農協は自分たちが経営するもの」との意識を持っておらず、農協に対して他人事的になってしまっている。
現在の農協改革も、これまでの歴史と全く同じく、上からの指示のみによって動かされている。下(組合員)からの発意がないのだからしょうがない、というのも一理ある。しかしこの調子だと、日本の農協は真の意味での協同組合にならないままではないか。
農家は農協に何を求めるのか。何を提供し何を得るのか。どのような仲間と一緒にやっていくのか。農家は、どのような存在になっていきたいのか。そういった根本を見つめないままに弥縫的に改革をしても絶対にうまくいかない。
もちろん、農協にはこれまで辿ってきた歴史があり、地域単位の総合農協という現状がある。それを無視して、ヨーロッパ流の専門農協に変えようとしてもいきなりは無理だしそれが本当に日本に合っているかもわからない。一度全部壊して新しく造ろうとするやり方もまた危険なものであり、変えられるところから地道に改善していく下からの努力が必要だ。
例えば、部会活動(農協では、果樹部会、園芸部会など部会に分かれて出荷・販促・技術向上などが図られている)をより実質化するような地味なことが、引いては農協の改善に繋がっていくように思う。世界では「メガ農協」が誕生しているからといって日本の農協も徒に大規模化を目指す必要はないし、むしろ部会のような小さな単位に注目することが有益ではないか。組合員が連帯意識をもち、当事者意識を持てる範囲での活動を実質化して、農協本体はそれを支えるインフラ化していくのが一つのあり方ではないかと思う。
【参考文献】
「独仏協同組合の組合員制度」2006年、斉藤由理子
”Agricultural cooperatives in Europe - main issues and trends" 2010, cogeca
「農協のかたち」(農業協同組合新聞の連載記事)2013年、太田原高昭
2015年5月29日金曜日
大浦"ZIRA ZIRA" FES 2015が開催されます!
今年も「大浦 ”ZIRA ZIRA“ FES」が開催される!
(大浦の若者が主催する大規模な焼肉パーティです)
7月19日(日)15:30〜18:30、場所はなんと亀ヶ丘にて。2015年現在、多分日本一眺めのよい焼肉パーティになるはずである。申込制なので、参加希望の方は「おおうら元気づくり委員会事務局 0993-62-2110」まで。
で、昨年に引き続き告知ポスターもデザインさせてもらったが、今回はあわせて当日販売グッズのタオルのデザインも担当した。
タオルという長細い枠の中に何を表現しようかとあれこれ悩んだが、ふと大浦を囲う山の稜線というテーマを思いついた。開催場所も亀ヶ丘ということで山の上だし、大浦は三方を山に囲まれていて稜線が長く、タオルのような横長のものに表現するには最適である。
そこで大浦町中央部あたりからの写真を繋ぎ合わせて、ベザイテン(弁財天)→長屋山→磯間嶽→陣の尾→亀ヶ丘→高ボ子山(タカボネやま) という長い山稜を描いた。もっとも写真を単純にトレースしたわけではなく、人間の視覚は高低差に敏感であるため高さをちょっと強調したり、より特徴的な形が見える写真を選ぶなど、ある地点から見た現実そのままの山稜線というより「みんなの心の中にある大浦の山々」を表現したつもりである。
で、いきなり話が抽象的になるが、私は「地域の風景」は人間のアイデンティティの形成に一役どころか二役も三役もかっていると思っている。特に特徴的な山容というのはそうだ。つまり、山を仰ぐ風景というのは「自分はここに住んでいる(orここで育った)」という強い感覚を呼び覚ますものだ。そしてその風景を共有することは、人々に連帯意識を抱かせるものである。
古い民話には、「山と山との喧嘩」というテーマがよく登場する。大浦にも磯間嶽と野間嶽(笠沙にあります)が喧嘩した民話が残る。野間嶽は磯間嶽に向かって石の矢を射たがそれが磯間嶽まで届かずに落ちた。今も久保・柴内集落の外れにある鏃(やじり)の形をした「矢石」という大きな石はこのとき落ちたものとされる。
こういう話では、自分の地域への誇りが「擬人化された山」に仮託されているわけだ。その山が他の地域の山と喧嘩するということは、他の地域との確執や優劣の比較がその背景にあったのだろう。山は、とかく「おらが村」的な意識(我が村が一番、というような意識)を惹起するものである。
今ではそんな意識ないのでは? と思うかもしれないが、例えばこのタオルに登場する磯間嶽は、その山容がかなり特徴的であることもあり、それぞれの地域の人が「ここから眺めるのがやっぱり一番だ」と今でも内心思っている。客観的な指標の上では「おらが村」的な意識は持ちようがない世の中だが、自分が住む地域が一番よいところだと思っていたいのが人間である。
桜島の灰にいくら悩まされても、鹿児島市民が桜島を憎みきれないどころか非常なる愛着を抱いているのもそのせいだと思う。大げさに言えば、桜島を否定することは、自分のアイデンティティを否定することに等しい。桜島を眺めるという、ただそれだけのことが鹿児島市民の連帯意識を作っているのではないか。
鹿児島市は政令指定都市になるため南北に細長い無理な合併をしたが、道路交通の事情だけでなく、桜島が西側から見える場所、という共通点があるために錦江湾南岸に延びていったのだと思う。
そういうわけで、タオルが細長いから山稜線を描いたというだけでなく、大浦という地域の連帯意識の象徴として山を表現してみたつもりである。
ちなみにこのタオルの販売による収益はFESの運営に当てられる。このタオルが欲しい! という人は僅かで、実際には地域のお祭りイベントへの寄附として購入する人がほとんどだと思うが、少しでもこのデザインが収益に役だって欲しい。
(後日「南薩の田舎暮らし」でも販売しますので、「大浦の若者を応援したい!」という方がいたら是非購入してください)
2015.6.19アップデート
「南薩の田舎暮らし」で500円+送料で販売しております! どうぞよろしくお願いします。
(大浦の若者が主催する大規模な焼肉パーティです)
7月19日(日)15:30〜18:30、場所はなんと亀ヶ丘にて。2015年現在、多分日本一眺めのよい焼肉パーティになるはずである。申込制なので、参加希望の方は「おおうら元気づくり委員会事務局 0993-62-2110」まで。
で、昨年に引き続き告知ポスターもデザインさせてもらったが、今回はあわせて当日販売グッズのタオルのデザインも担当した。
タオルという長細い枠の中に何を表現しようかとあれこれ悩んだが、ふと大浦を囲う山の稜線というテーマを思いついた。開催場所も亀ヶ丘ということで山の上だし、大浦は三方を山に囲まれていて稜線が長く、タオルのような横長のものに表現するには最適である。
そこで大浦町中央部あたりからの写真を繋ぎ合わせて、ベザイテン(弁財天)→長屋山→磯間嶽→陣の尾→亀ヶ丘→高ボ子山(タカボネやま) という長い山稜を描いた。もっとも写真を単純にトレースしたわけではなく、人間の視覚は高低差に敏感であるため高さをちょっと強調したり、より特徴的な形が見える写真を選ぶなど、ある地点から見た現実そのままの山稜線というより「みんなの心の中にある大浦の山々」を表現したつもりである。
で、いきなり話が抽象的になるが、私は「地域の風景」は人間のアイデンティティの形成に一役どころか二役も三役もかっていると思っている。特に特徴的な山容というのはそうだ。つまり、山を仰ぐ風景というのは「自分はここに住んでいる(orここで育った)」という強い感覚を呼び覚ますものだ。そしてその風景を共有することは、人々に連帯意識を抱かせるものである。
古い民話には、「山と山との喧嘩」というテーマがよく登場する。大浦にも磯間嶽と野間嶽(笠沙にあります)が喧嘩した民話が残る。野間嶽は磯間嶽に向かって石の矢を射たがそれが磯間嶽まで届かずに落ちた。今も久保・柴内集落の外れにある鏃(やじり)の形をした「矢石」という大きな石はこのとき落ちたものとされる。
こういう話では、自分の地域への誇りが「擬人化された山」に仮託されているわけだ。その山が他の地域の山と喧嘩するということは、他の地域との確執や優劣の比較がその背景にあったのだろう。山は、とかく「おらが村」的な意識(我が村が一番、というような意識)を惹起するものである。
今ではそんな意識ないのでは? と思うかもしれないが、例えばこのタオルに登場する磯間嶽は、その山容がかなり特徴的であることもあり、それぞれの地域の人が「ここから眺めるのがやっぱり一番だ」と今でも内心思っている。客観的な指標の上では「おらが村」的な意識は持ちようがない世の中だが、自分が住む地域が一番よいところだと思っていたいのが人間である。
桜島の灰にいくら悩まされても、鹿児島市民が桜島を憎みきれないどころか非常なる愛着を抱いているのもそのせいだと思う。大げさに言えば、桜島を否定することは、自分のアイデンティティを否定することに等しい。桜島を眺めるという、ただそれだけのことが鹿児島市民の連帯意識を作っているのではないか。
鹿児島市は政令指定都市になるため南北に細長い無理な合併をしたが、道路交通の事情だけでなく、桜島が西側から見える場所、という共通点があるために錦江湾南岸に延びていったのだと思う。
そういうわけで、タオルが細長いから山稜線を描いたというだけでなく、大浦という地域の連帯意識の象徴として山を表現してみたつもりである。
ちなみにこのタオルの販売による収益はFESの運営に当てられる。このタオルが欲しい! という人は僅かで、実際には地域のお祭りイベントへの寄附として購入する人がほとんどだと思うが、少しでもこのデザインが収益に役だって欲しい。
(後日「南薩の田舎暮らし」でも販売しますので、「大浦の若者を応援したい!」という方がいたら是非購入してください)
2015.6.19アップデート
「南薩の田舎暮らし」で500円+送料で販売しております! どうぞよろしくお願いします。
2015年5月21日木曜日
EUにおける農協の立ち位置——農協小考(その2)
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農協の市場シェア(濃い色がシェア高)同報告書より |
内容に立ち入る前に、なぜ今になってEUが農協に注目するのか? ということについて触れておきたい。この報告書ではこうした調査が行われる背景については簡単にしか述べていないが、少し邪推するとこうだ。
実は一昔前まで、EUの予算の2/3くらいは農業補助金だった。EUは巨大な自由貿易圏を構築したが、TPPが特に農業分野で喧しい議論を惹起しているごとく、自由貿易によって農業はとても大きな影響を受ける。そこで自由貿易圏の構築と歩調を合わせて農業への手厚い保護政策が実施されたのである。
しかし保護政策は一時的なものであるべきだ。なぜなら、いつまでも保護を続けるならば自由貿易の意味がないからである。そういうわけで、農業補助金の割合は漸次減らされてきて、今では30%くらいになっているはずである。
しかもEUが中東欧にまで拡大して農業保護の意味合いも変わってきた。EUを一つの経済圏として見た時、農業従事者は約5%もいて耕地面積は1億8000万ha以上もあるのである。EUにとって農業は保護すべきマイノリティではなくて、中心的で巨大な産業になってきた。
一方で中東欧勢の参加は、農業における域内の生産性格差の問題をも生んでいる。オランダやフランスといった高生産性の農業国と、ルーマニアのような弱い農業の国が同じ土俵で競争しなくてはならないというのは大変なことである。
そういうわけで、EUとしては域内の農業の均衡ある成長をしてもらいたいという希望があるのだと思う(でないといつまでも農業補助金が減らない)。その期待の表れとしてこのような報告書を出して、各国の政策担当者へ「組合への支援で農業を強くしましょう」というメッセージを送っているのだと思う。
というわけで、日本では農協というと時代遅れで非効率的なものというイメージがあるが、EUは農協(農家組合)を農業の競争力強化における重要な役割を果たすものと捉えており、農家には農協の設立を強く勧奨している。事実強い農業国である域内先進国では農協のシェアが大きい傾向があり、後進的な地域で農協の存在感は小さい(我々のイメージとは逆かもしれない)。実は、農協という存在は先進国的なものなのである。
もちろん一言に農協といっても、EUにおける農協と日本の農協はかなり違う。一番大きな違いは日本の農協が「総合農協」であるということである。「総合農協」というのは、肥料や資材の購買、共済、銀行機能、農産物の流通など、農家の生活全般の事業を取り扱う農協のことである。EUにおける農協は、そうした機能毎に個別化しているのはもちろん、取り扱う農産物毎にも分かれていることが多い。例えば、畜産の組合、野菜の組合、といったようなことだ。
そしてもう一つ大きい違いは、日本の農協は全国の農協が全中を頂点とするヒエラルキー組織によって統合されているのに比べ、EUではそうした連合組織は国毎にあったりなかったりで、さほど中央集権的ではないということである。
ただ、EU域内には27カ国もあるわけで、その内実はかなり多様である。日本との違いも大きいが、域内27カ国ごとの違いもまた大きい。何しろ旧社会主義国の場合は集団農場の残滓などもあって全く状況が異なる。だからこういう調査を見る場合、違いよりも共通性を見る方が有益だ。
さてその内容は、(1)域内における農協の現状、(2)組織運営(internal governance)の実態、(3)フード・チェインにおける農協の役割の考察、(4)国際的に活動している農協、(5)中東欧の国における農協の現状、(6)農村発展における農協の役割、(9)法制度および支援策、(10)競争力の問題、(11)提言、である(目次通りではありません)。
具体的な内容をいちいち説明するのは辞めて、興味深かった点について二三述べたい。
まず、本報告書は「農家組合への支援」を銘打っており、加盟国(特に農協が未整備な中東欧国)へ向けて「農協を支援して農業を強化しましょう」というスタンスであるにもかかわらず、正直に「公的な支援の有無と農協のパフォーマンスにははっきりとした関係はありませんでした」と明言しているところである。
では農協のパフォーマンスと最も強い相関があるのは何かというと、それは組織運営だそうだ。「我々の研究によると、理事会構成に関する専門的な構造やポリシー、組合員のインセンティブは農協のパフォーマンスに影響する。[一人一票制ではない]比例配分票(Proportional voting right)、プロフェッショナル・マネジメント、外部による監督、地縁ではなく専門性や生産物に基づいてリーダーを選ぶこと、こうしたものは全て農協のパフォーマンスによい効果を与える」(訳が生硬ですいません…)
また、「多くの農協で、マネジメントや監督には改善の余地がある」としており、EUの農協も経営が万全というところばかりではなさそうである。さらに、「政策担当者は、理事や経営者を組合員がチェックする機構についてより注意を払うべきだ」としていて、農協の組合員が経営に関与しなくなる傾向は日本と共通のものがあるようだ。
こうしたことからの当然の帰結かもしれないが、小規模で組合員一人ひとりの関与が大きい農協の方がパフォーマンスがよいとのこと。実際、EUには小規模農協が多く、日本でいうところの村落単位くらいの農協が普通のようである。
だが一方で、最近の流通環境の変化はこうした農協にも変革を促している。特に国際的に活動する小売りの力が大きくなってきたことで、従来の小規模農協は交渉力が小さく不利な状況になりつつある。そのため最近ではEUでも農協の合併(特に国境をまたいだ合併!)が盛んになってきた。そこで本報告書でも、そうした合併への支援策が求められているとしている。
ここは少々矛盾を感じるところで、経営としては組合員が連帯意識を感じられるような小規模のものがよいとしながらも、実際の流通環境の中では大規模化せざるを得ないというところに難しさがある。
また、農協の設立・成長にとって必要なものは「リーダーシップと人的資源」であるとしているところも日本と状況が全く同じである。「それには、社会的・経済的な能力、また組織運営の能力と、組織の成長のために使える十分な時間と余力が必要である。農協の設立後は、組合員もリーダーも、高度化(professionalisation)に十分に気を使うべきだ」
こういう調子で、この報告書は単なる現状報告を超えて、いわば「農協の経営学」とでもいいたいような内容を持っている。
本報告書を読むと、農協にまつわる問題は日本とEUで共通している部分が大きいと感じるし、その目指す姿も意外と近いと思う。EU(の先進国)の農業は、とかく成功モデルとして語られることが多く、その紹介も「出羽の守」的になりがちだ。しかしそれを無闇に称讃するのではなく同じ課題を共有する仲間として比較してみれば、日本の農協の長所短所が見えてくるし、改革によって目指すべきものがなんなのかも見えてくるのではないかと思う。
2015年5月16日土曜日
ライファイゼンバンクとJAバンク——農協小考(その1)
現政権で行われている農協改革は、そもそも農業の振興を目的としていないように見える。だからあまり関心はないのだが、日本の農協のあり方を考えるいい機会であるようにも思う。
農協改革が喧しく言われるようになったのも、農協の票田としての価値が低下してその存立基盤が弱体化していることの現れだし、一度「農協とはどうあるべきなのか」を広く議論したらよいと思う。
私自身、日頃疑問に思っていることを整理してみたい気持ちもあるし、ちょっとだけ農協のあり方を考えてみたい(予め言っておきますが結論は出ません)。
さて、私が一番問題意識を感じているのは「農協の収益構造」である。
以前の記事(1,2)で、「農協は、農産物の流通部門は赤字で、その赤字を保険・金融関係の収益で補填している」というようなことを書いた。「本業」と思われている農産物の流通(集荷・販売)は収益事業ではないどころか財務諸表にも載っていない事業で、逆に保険(共済)や金融(信用)の方こそ財務諸表の主戦場なのである。
だがそれがゆゆしき問題であるかどうかは一考を要する。例えば、郵便局も「本業」の郵便事業は創業以来ずっと赤字であり、その赤字を簡易保険や郵貯の利益で補填するという農協と似たような収益構造がある。 それがさほど問題視されないのは、このような構造に対する社会的承認と組織内での合意があるからである。
農協の場合も、ある意味ではそれに似た合意があったのだと思う。しかし、であるならば、どうしてそのような合意が形成されたのか、ということが問題になってくる。
そしてもう一つの疑問は、農産物の流通の赤字を他から補填するという収益構造は必然なのかということである。郵便の場合、全国一律たったの52円でハガキを届けるというような、法に定められた無理な事業を行っていることから赤字は必然であろう。だが農協の行う農産物の集荷・販売については薄利なのが予見されるとしてもそれほどの無理はなさそうだ。とてもこのような収益構造が必然とは思えない。
実際、欧州先進国の農協にはそういう構造はなさそうである。というか、欧州では農産物の集荷・販売などと金融事業は別の組合が行うのが普通で、日本のように農産物の集荷・販売、肥料や資材の共同購入、金融事業、保険事業など全てを担ういわゆる「総合農協」はないようである。
しかし実は、日本の農協は19世紀末にドイツで生まれた農協をお手本の一つとして作られたものであり、かつてはドイツでも総合農協があったようである。それが次第に機能毎に分離して現在の姿になってきたようだ。
ちょっとこの動きは興味深いので、ドイツの農協の歴史的経緯について簡単に触れておく。
ドイツで農協が生まれた19世紀末は農村が疲弊して、その日の暮らしにも困る貧農がたくさんいた時代だった。折しも天候不順や新大陸からの新しい病害虫によって農業の生産性が低下するとともに、農村にも貨幣経済の波が押し寄せ、現金収入に乏しい農民が貧民化していくという状況にあった。
こうした農村の悲惨なありさまを変えようとしたのがドイツの農協の産みの親、フリードリヒ・ライファイゼンである。ライファイゼンは今で言えば社会事業家であって、例えば明日のパンにも困る人たちのために、パンを共同で焼いて廉価に販売する「パン焼き組合」を起こすなど、慈善に頼るのではなく農民自身の共助と自助によって生活改善を行う活動をしていた。
そのライファイゼンが、ドイツ西南部のアンハウゼン村というところで借金組合を起こしたのがドイツの農協の起源である。その頃、農民は金を借りようにも普通の金融業者から相手にされなかった。仕方なく高利貸しに頼り、べらぼうな金利を取られることでさらに貧民化してゆくという悪循環が起こっていた。
そこでライファイゼンは、農民を組織化して互いに無限責任を負わせる(つまり誰かが破産したら残りの全員がその連帯保証人になる)ことにより信用力を高め、金融業者からまとめて金を借りて、それを農民同士で低利融資する仕組みを作った。
これはまさに現代のインドにおいてムハマド・ユヌスが行ったマイクロファイナンスと相似な事業である。マイクロファイナンスには功罪両面があり、多分ライファイゼンのやり方もよいことづくめではなかったのだろうが、この仕組みは大成功してドイツ各地で同様の取り組みが行われた。それだけでなく、その評判を聞きつけた外国の人たちも草の根レベルから政府レベルまでこぞって真似をしたのである。
それが現在まで各地で続く「ライファイゼンバンク」の濫觴だ。現在、ドイツのライファイゼンバンクはドイツ国内で第2位の預金規模を誇るメガバンクに成長しており、これを真似して作られたオーストリアのライファイゼンバンクも預金規模では同国内1位である。同様の農業協同組合銀行は、フランス(クレディ・アグリコル)、オランダ(ラボバンク)でも国内1位のメガバンクに成長している。
しばしば、日本の農協は銀行になってしまった、と嘆かれることがあるが、銀行業は歴史的経緯を見れば元々農協の事業の柱であり、その批判は的外れであると思う。少なくとも、欧州先進国においても農業協同組合銀行がメガバンクとして残っているところを見ると、農業協同組合銀行そのものは社会にとって必要なものだった。
ただ、日本の農業協同組合銀行、つまりJAバンクが銀行として適正に運営されているのかというのは別問題である。ちゃんとした統計が見つからなかったが、どうも欧州のライファイゼンバンクらと比べ、JAバンクは農林水産業への貸付比率が低いようである(違っていたらすいません)。
ライファイゼンバンクが農民(や小規模商工業者)から集めた資金を再び農業への貸付に環流させているのと比べ、JAバンクの場合は90兆円もの預金規模がありながら、20兆円ほどしか貸付に回っていない。もちろんJAバンクも農村・農業への融資は行っているが、欧州各国の農村信用組合銀行に比べてその機能が弱く、集めた資金は農業分野というより一般の資金運用に回っている割合が多いようである。
同じような機能を持ちながら、日本と欧州各国の 信用組合銀行になぜこのような違いが生まれたのかというのは興味ある問題であるが、それはさておき、農協のあり方を考える上においては、JAの銀行機能の肥大ということを問題にするのではなく、むしろそれがちゃんと農林水産業の振興に役立ってきたのか、そしてこれからはどのような役割を担うべきなのか、という視点が必要だと思う。
現状、JAバンクは農村において年金受け取りの窓口としての機能が大きいような支店も多いような気がする(主観です)。だがそれで十分とは誰も思っていないだろう。一方、ライファイゼンバンクなども時代の変化を受けて融資先や営業形態を大分変化させているようであり、組織形態や根拠法なども変わりつつある。農業信用組合銀行のあり方は、世界的にも岐路に立っている。
(つづく)
農協改革が喧しく言われるようになったのも、農協の票田としての価値が低下してその存立基盤が弱体化していることの現れだし、一度「農協とはどうあるべきなのか」を広く議論したらよいと思う。
私自身、日頃疑問に思っていることを整理してみたい気持ちもあるし、ちょっとだけ農協のあり方を考えてみたい(予め言っておきますが結論は出ません)。
さて、私が一番問題意識を感じているのは「農協の収益構造」である。
以前の記事(1,2)で、「農協は、農産物の流通部門は赤字で、その赤字を保険・金融関係の収益で補填している」というようなことを書いた。「本業」と思われている農産物の流通(集荷・販売)は収益事業ではないどころか財務諸表にも載っていない事業で、逆に保険(共済)や金融(信用)の方こそ財務諸表の主戦場なのである。
だがそれがゆゆしき問題であるかどうかは一考を要する。例えば、郵便局も「本業」の郵便事業は創業以来ずっと赤字であり、その赤字を簡易保険や郵貯の利益で補填するという農協と似たような収益構造がある。 それがさほど問題視されないのは、このような構造に対する社会的承認と組織内での合意があるからである。
農協の場合も、ある意味ではそれに似た合意があったのだと思う。しかし、であるならば、どうしてそのような合意が形成されたのか、ということが問題になってくる。
そしてもう一つの疑問は、農産物の流通の赤字を他から補填するという収益構造は必然なのかということである。郵便の場合、全国一律たったの52円でハガキを届けるというような、法に定められた無理な事業を行っていることから赤字は必然であろう。だが農協の行う農産物の集荷・販売については薄利なのが予見されるとしてもそれほどの無理はなさそうだ。とてもこのような収益構造が必然とは思えない。
実際、欧州先進国の農協にはそういう構造はなさそうである。というか、欧州では農産物の集荷・販売などと金融事業は別の組合が行うのが普通で、日本のように農産物の集荷・販売、肥料や資材の共同購入、金融事業、保険事業など全てを担ういわゆる「総合農協」はないようである。
しかし実は、日本の農協は19世紀末にドイツで生まれた農協をお手本の一つとして作られたものであり、かつてはドイツでも総合農協があったようである。それが次第に機能毎に分離して現在の姿になってきたようだ。
ちょっとこの動きは興味深いので、ドイツの農協の歴史的経緯について簡単に触れておく。
ドイツで農協が生まれた19世紀末は農村が疲弊して、その日の暮らしにも困る貧農がたくさんいた時代だった。折しも天候不順や新大陸からの新しい病害虫によって農業の生産性が低下するとともに、農村にも貨幣経済の波が押し寄せ、現金収入に乏しい農民が貧民化していくという状況にあった。
こうした農村の悲惨なありさまを変えようとしたのがドイツの農協の産みの親、フリードリヒ・ライファイゼンである。ライファイゼンは今で言えば社会事業家であって、例えば明日のパンにも困る人たちのために、パンを共同で焼いて廉価に販売する「パン焼き組合」を起こすなど、慈善に頼るのではなく農民自身の共助と自助によって生活改善を行う活動をしていた。
そのライファイゼンが、ドイツ西南部のアンハウゼン村というところで借金組合を起こしたのがドイツの農協の起源である。その頃、農民は金を借りようにも普通の金融業者から相手にされなかった。仕方なく高利貸しに頼り、べらぼうな金利を取られることでさらに貧民化してゆくという悪循環が起こっていた。
そこでライファイゼンは、農民を組織化して互いに無限責任を負わせる(つまり誰かが破産したら残りの全員がその連帯保証人になる)ことにより信用力を高め、金融業者からまとめて金を借りて、それを農民同士で低利融資する仕組みを作った。
これはまさに現代のインドにおいてムハマド・ユヌスが行ったマイクロファイナンスと相似な事業である。マイクロファイナンスには功罪両面があり、多分ライファイゼンのやり方もよいことづくめではなかったのだろうが、この仕組みは大成功してドイツ各地で同様の取り組みが行われた。それだけでなく、その評判を聞きつけた外国の人たちも草の根レベルから政府レベルまでこぞって真似をしたのである。
それが現在まで各地で続く「ライファイゼンバンク」の濫觴だ。現在、ドイツのライファイゼンバンクはドイツ国内で第2位の預金規模を誇るメガバンクに成長しており、これを真似して作られたオーストリアのライファイゼンバンクも預金規模では同国内1位である。同様の農業協同組合銀行は、フランス(クレディ・アグリコル)、オランダ(ラボバンク)でも国内1位のメガバンクに成長している。
しばしば、日本の農協は銀行になってしまった、と嘆かれることがあるが、銀行業は歴史的経緯を見れば元々農協の事業の柱であり、その批判は的外れであると思う。少なくとも、欧州先進国においても農業協同組合銀行がメガバンクとして残っているところを見ると、農業協同組合銀行そのものは社会にとって必要なものだった。
ただ、日本の農業協同組合銀行、つまりJAバンクが銀行として適正に運営されているのかというのは別問題である。ちゃんとした統計が見つからなかったが、どうも欧州のライファイゼンバンクらと比べ、JAバンクは農林水産業への貸付比率が低いようである(違っていたらすいません)。
ライファイゼンバンクが農民(や小規模商工業者)から集めた資金を再び農業への貸付に環流させているのと比べ、JAバンクの場合は90兆円もの預金規模がありながら、20兆円ほどしか貸付に回っていない。もちろんJAバンクも農村・農業への融資は行っているが、欧州各国の農村信用組合銀行に比べてその機能が弱く、集めた資金は農業分野というより一般の資金運用に回っている割合が多いようである。
同じような機能を持ちながら、日本と欧州各国の 信用組合銀行になぜこのような違いが生まれたのかというのは興味ある問題であるが、それはさておき、農協のあり方を考える上においては、JAの銀行機能の肥大ということを問題にするのではなく、むしろそれがちゃんと農林水産業の振興に役立ってきたのか、そしてこれからはどのような役割を担うべきなのか、という視点が必要だと思う。
現状、JAバンクは農村において年金受け取りの窓口としての機能が大きいような支店も多いような気がする(主観です)。だがそれで十分とは誰も思っていないだろう。一方、ライファイゼンバンクなども時代の変化を受けて融資先や営業形態を大分変化させているようであり、組織形態や根拠法なども変わりつつある。農業信用組合銀行のあり方は、世界的にも岐路に立っている。
(つづく)
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