2013年2月16日土曜日

ぽんかんすドレッシングが販売中

前にもこのブログで触れた「ぽんかんすドレッシング 薫」が発売され、南さつまの物産館で買えるようになった。さらに東京の「かごしま遊楽館」でも販売しており、2月23日(土)には販売イベント(試食)も行われる。

販売イベントでは、(たぶん)唐揚げにこのドレッシングをかけたものが振る舞われるが、唐揚げとこいつの相性は抜群なのでぜひご賞味ありたい。

ちなみに、改めてこの商品の特徴をまとめると、
荒廃するポンカン園を有効活用
荒れたポンカン園を有効活用して生産された加工用ポンカンを使用
環境に配慮した栽培
加工用のみを生産する園地に特化したことで、環境に配慮した農薬不使用の栽培が可能に。
加工専用の青採りポンカン
生食用の余り物や規格外品ではなく、加工専用のポンカンとして、爽やかな酸味と香りが強い「青採りポンカン」を特別に使用。
果汁40%の新感覚ドレッシング
果汁40%というまるでジュースのような新感覚ドレッシング。レモン汁を絞るように爽やかな酸味をプラスします。
というところで、要は「過疎の農村で、環境に配慮して作られた青採りポンカンを使った、果汁たっぷりのドレッシング」である。とはいえドレッシングというにはややあっさりしていて、どちらかというと調味料の領域と思うが、これでカルパッチョなどを作ったら本当に美味しいので是非試して欲しい。

ところで、日比谷にある「かごしま遊楽館」だが、ぱっとしない(?)外見とは裏腹に、全国のアンテナショップの中で3位の売り上げを誇るらしい。各県が予算をけちってやや奥まったところに店舗を設ける中、日比谷、有楽町の駅前という立地が効いているに違いない。

ついでに書いておくと、同じ2月23日(土)には天文館のベルク広場で、「南薩の食&農フェア」というのが開催されるらしい。とはいえ鹿児島県のWEBサイトにも「南薩地域の農林水産物や加工食品の展示即売会を開催します」とだけあってそれ以上の情報がないため行く価値があるのかどうか不明だ。せっかく開催するのだから、もう少しちゃんとお知らせをしたらいいと思う。

2013年2月14日木曜日

イケダパンの地元愛に感謝! OUTLET BREAD

イケダパン、といえば南九州では有名なパンメーカーである。多角経営に失敗し、1986年に経営破綻して山崎製パンのグループになったが、地元でのブランド力があったためか、その屋号を残して今もイケダパンとして製造を続けている。

このイケダパンは、南さつま市の加世田に発祥した企業で、今でも登記上の本店は加世田にある。ところが工場や本店機能は2002年に加世田から撤退しており、約60km離れた姶良市(重富)に移転している。南さつま市は高速道路も鉄道もなく、流通上不利なための経営判断と思われる。姶良市には高速道路も鉄道もあり、空港にも近い。

このイケダパンの工場直売所である「OUTLET BREAD」という店が、2012年4月に加世田に出来た。この店、製造過程で生じる少々見た目が悪い品などを重富工場から直送し破格で提供する店で、文字通りパンのアウトレットショップである。

菓子パンなども安いが(私自身はあまり菓子パンは食べないこともあり)食パンやパンの耳が安くてしかも美味しい。もちろん、元の商品名はわからないのだが、按ずるに、少し高級な食パンの規格外品が使われているのだと思う。特にパンの耳は量が多く、お買い得だ。

同様の店は重富工場にも附設されており、そこでは製造に伴って生じる規格外品が逐次補給される。しかしこの店の場合、工場からは遠く朝にしか入荷がないため、売り切れればおしまいになる。こうした店は製造地にあって手間がかからないからこそ経営的な意味があり、わざわざ遠方に運んで破格の商品を提供しては割に合わないように見える。

事実、9枚入りの角食(食パン)を100円で売っていては、とても利益は出ていないだろう。私が経営者なら、とても作れない店だ。こんな店をなぜ南さつまに作ったのか、その経緯は知らないが、きっと加世田への地元愛のなせる業ではないだろうか。

登記上の本社は加世田にあるとはいえ、工場の撤退以後は事実上加世田との繋がりはなくなっていた。だが元は地域密着の企業であり、地域のお祭りなどにも積極的に参加していたと聞く。そういうことを考えると、イケダパンを育ててくれた加世田への恩返しをするために、敢えて損をするような店を作ったとしか思えないのである。

イケダパンはもはや加世田の企業とは言えないが、もし上に書いた推測が正しいならば、南さつま市の人は少しはイケダパンを贔屓してもいいだろう。末永く続いて欲しい。

【情報】
OUTLET BREAD イケダパン工場直売所 加世田店
南さつま市武田15417-3

【2013年12月30日追記】
本店、今冬に閉店していた。経営的に無理がある店だとは思っていたが、閉店したのは大変残念である。最初から利益を度外視するのであれば、もう少し公共的な意味合い(例えば、小学校の給食に提供するとか)を持たせた事業を行って、CSR(この言葉はキライだが)の一環としてやった方が株主への説明もできてよかったと思う。

2013年2月13日水曜日

丁子屋:廻船問屋が醤油屋になったわけ

南さつま市加世田のはずれ、万世(ばんせい)という町に、鹿児島では有名な醤油屋さんである丁子屋がある。この前「白だし」を買ってみたら、評判通りの美味しさだった。

丁子屋の創業は享保20(1735)年。300年弱の歴史があり、県内では3番目の長寿企業らしい。しかし、藩政時代から醤油屋さんであったわけではない。

では何をしていたかというと、藩政時代を通じて丁子屋は廻船問屋だった。廻船問屋というのは、今風に言えば総合商社のようなもので、舟で日本全国を巡りながら安いところで商品を仕入れ高いところで売る、という商売である。

丁子屋という屋号はもちろん香辛料の丁子=クローブ に由来し、南方産の丁子油を扱ったことによる。江戸時代、丁子油と椿油を混ぜたものが刀の錆止めに使われていたのだそうだ。このほか、丁子屋は当地で干しトビウオや鰹節(※)を仕入れて大坂で売り、塩や素麺を買い入れる貿易をしていたという。

万世は万之瀬川の河口に位置したため、中世以来天然の良港として栄えた。蛇足だが、船が常に海にあると海洋付着生物がびっしりと船底に固着して使い物にならなくなるため、船底塗料の登場前はわざわざ河を遡って真水に船を繋留する必要があった。このため古来より港というものは多くが河口近くに位置したのである。

丁子屋はこの地の利を活かし、藩からの特認の下で(幕府からは禁じられていた)琉球との交易も行い、相当に稼いだという。最終的には3隻の千石船を所有したらしい。

ところが、創業して70年ほど経った1802年、この地に激変が訪れる。万之瀬川が氾濫によってその流れを変え、河口が北にずれて突如として万世から港がなくなったのだった。もちろん丁子屋は新たな河口に対応して拠点を設けたが、新しい河口は川底が浅く、大きな舟が出入りできなかった。そのため商売が小口にならざるを得なかったと思われる。

そんな中、幕末に至って醤油醸造が始まる。これは推測だが、港から遠くなって使い勝手が悪くなった万世の倉庫を有効利用するための事業だったのかも知れない。丁子屋は元々、肥後から小麦と大豆を仕入れて琉球に売るという商売をしていたらしいが、この商材と万之瀬川の清流を利用して出来る醤油という商品を思いついたのだろう。

こうして、河の流れが変わっても、万世と丁子屋は海運と先進的な商品の取り扱いで繁栄を続けたが、明治後半から大正初期が隆盛の掉尾だった。交通が鉄道の時代になり、大正3年に加世田から枕崎に抜ける南薩鉄道が開通すると、鉄道網からはずれた万世は凋落を始めたのである。遅れて加世田から万世にも支線が延びたが、海運の利を失った万世に流通上の価値はもはやなかった。

丁子屋が廻船問屋から醤油屋へと変遷した理由としては、万之瀬川の流れの変化と海運の時代の終わりという二つが挙げられる。どんなに堅牢な商売をやっていても、それを存立させている基盤が崩れれば商売の形は変わらざるを得ない。だが、その変化を捉えて先を読んできた経営があったからこそ、丁子屋は300年弱も続いている。幕末、明治維新、日清・日露戦争、太平洋戦争という激動の時代を生き抜いてきたことを思うと、歴代の店主に非常な商才があったのは間違いない。オオイタビに覆われた大正時代の石蔵は、未だ活躍の機会を虎視眈々と窺っているようにも見えた。

※ 鰹節というと枕崎が有名だが、枕崎で燻製したものを万世に運び、丁子屋で鰹カビをまぶして本枯れの鰹節にしたのだそうだ。このカビを扱った経験が、後の醤油醸造に活きているのだと思う。

【参考文献】
万世歴史散策』2012年、窪田 巧

【補足】2014/02/04 アップデート
「丁子屋」を「丁字屋」と書く致命的な誤字をしていたので改めました。

2013年2月10日日曜日

かぼちゃの原産地は冷涼で日照量の多いところ

例によって先輩農家Kさんの全面協力・指導を得て、春かぼちゃの栽培をしている。なんと、ビニールハウスまで貸してもらった。昨年の秋かぼちゃが惨憺たる有様だったので、今回に期待である。

ところで、かぼちゃというと「栽培に手のかからない野菜」というイメージがあり、事実何もしなくても収穫できるが、高級野菜である加世田のかぼちゃの場合は違う。

かぼちゃは蔓が無制限に出てくる植物なのだが、その蔓を(今回の場合)2本に留めるため定期的に芽を取り除き、かつ各々の蔓に適正な枚数・大きさの葉がついた状態で雌花を咲かせ、さらに不要な雌花は摘み取らなくてはならない。そしてもちろん、毎日の温度管理(ビニールを剥いだりかぶせたり、通気したり)もある。このための管理作業はとてもやっかいで、手間がかからないどころか、つきっきりの作業が必要になる野菜である。

そして、驚いたのだが、ビニールハウス栽培の場合「低温処理」といって一時期寒さに晒す作業まである。ポカポカ暖かいだけだと花芽分化が進まず雌花が咲かないので、敢えて低温な環境にすることにより、生殖生長を促すのだそうだ。

「西洋かぼちゃ」の原産地は南米で、ペルーや北部アルゼンチンの高原地帯だという。このため寒さには意外と強いが、赤道付近の環境であるため太陽光への要求は大きい。かぼちゃというと夏のイメージがあるが、西洋かぼちゃは実は暑さには弱く、日本の盛夏には耐えられない。つまり日照量は多いが冷涼な環境を好む植物である。そしてこのため、「低温処理」が必要で、ポカポカ暖かいだけだとダメなのだ。

話は逸れるが、江戸時代から栽培されている「日本かぼちゃ」の場合はどうかというと、こちらは逆に暑いのが好きである。ちなみに原産地はインドから東南アジアという(厳密には特定されていないらしい)。

このように、かぼちゃの2大系統である西洋かぼちゃと日本かぼちゃでは栽培適地がかなり違う。このため、冷涼な気候を好む西洋かぼちゃは関東以北(特に東北と北海道)で、温潤な気候を好む日本かぼちゃは西日本で作られてきた。しかし北海道でのかぼちゃの大規模栽培が確立したことや、甘味の強い西洋かぼちゃの方が手軽な家庭料理に合うことなどから、現在、一般的な流通では西洋かぼちゃが主流である。

本来冷涼な気候を好む西洋かぼちゃを鹿児島で栽培するのは一見奇異だが、原産地は赤道に近い地域なので、気温の低い冬から初夏までの間に南国で栽培するのは合理的である。また国内生産量の半分以上を占める北海道産が登場する前に旬を迎えるので、流通的にも競争力がある。そんなことから、あまり認識されていないが鹿児島はかぼちゃの生産量が全国2位(シェアは約7%)なのである。

産地が北海道と鹿児島、という組み合わせの野菜は、他にはないのではないかと思う(ジャガイモが似た傾向を示すが、こちらの場合は長崎が2位であることと、北海道が圧倒的過ぎることで「北海道とそれ以外」の形になっている点が違う)。産地というのはいろいろな事情から形成されるが、南米の赤道付近の高原地帯が原産である、ということが北海道と鹿児島を産地たらしめる主因だとすれば興味深い。

【参考文献】
Cucurbitaceae」2008年、 Austin Deyo and Brendan O‘Malley(多分学生のレポートだと思うが、無難にまとまっていた)

2013年2月5日火曜日

「神社のリストラ」の産物かもしれない大山祇神社

大浦に大木場(おおこば)という集落があって、そこに大山祇(おおやまつみ)神社がある。巨大な草履を奉納することで知られた神社である。

そこは小さいながらも幽玄な場所なのだが、私にはひとつ気になることがある。それは、まさにその「大山祇神社」という社名である。

というのも、始めに種明かしをすると、これは大山祇神社なんかではない、かもしれないのだ。

では何かというと、古い記録ではこの社は「大木場山神」と呼ばれていて、それが正式な名称である。創建は意外に古く、1382年に遷宮の記録があることから、おそらく700年以上の歴史がある

大山祇神社に改称したのは明治から大正のころで、当時の近代社格制度によるものと思われる。近代社格制度について簡潔に述べるのは難しいが、おおざっぱに言うと、神社の世界を合理化・序列化する制度と言える。

明治に至って国の思想的根本に神道を据えることとした政府は、神仏分離、続いて廃仏毀釈を行って仏教の弾圧を行ったが、実は神道側も相当の痛手を被っている。それまで天神地祇への礼拝は自然発生的に行われていたわけだが、明治という大いなる統合の時代にあって、それでは都合が悪かった。それぞれが礼拝する神が、神々のヒエラルキーの中に位置づけられ、その頂点に天皇がくる、ということでなければならなかった。

その上、日本にはこの狭い国土に多数の神社が犇めいていたので、新道を通したり、新たに土地を切り拓いたりするにあたって、有象無象の神社が邪魔だったという実務的な理由もあった。

そこで、明治政府は神社の合理化・階層化、つまり神社のリストラに乗り出す。行政区画ごとに(正式な)神社は一つと決め、村社 < 郷社 < 県社 < 官社… などと神社を序列化した。さらには、祀られている神が天皇家とは何の縁もない神だと思想的に無意味になるため、祭神および社名も多数変更させられた。つまり都合が悪い場合は、実質的に全く別の神社に作り替えられたのであった。

これにより、水神さま、山神さまなどと呼ばれていた自然発生的な社は、廃止させられるか、合理化によって「由緒ある」祭神に改めることになった。全国の無名の「山神」は、(記紀により山の神の総元締めとなっている)大山祇神へと変更させられたのである。

大山祇神自体は南薩に縁の深い神であって、この地に大山祇神社があることは自然ではあるのだが、もともとの民間信仰では山の神というのは醜い女性であるとされ、一方の大山祇神は男性の神なので性格がかなり異なる。同じ山の神とはいえ似て非なるものだ。

この大山祇神社がそのようにして変容させられた神社であるのか確証はないので、「平安風の貴人の像」というご神体なども実見して確かめなければならないが、おそらく間違いはないだろう。

明治政府の強引な国家統合は、様々な面で日本文化に大きな傷を残したが、神道の受けたそれは、神道自身が国家の道具となり戦争へ荷担した経緯もあってあまり顧みられることはない。しかし、そのあたりを見つめ直さなければ、かつての人々の素朴な信仰は忘却の彼方へと消えてしまう。700年以上もの歴史のある神社を、一時の気の迷いで変容したままにしておいては申し訳ない。大山祇神社は、もうそろそろ「大木場山神」へ戻してはどうか。

2013年1月30日水曜日

とても美味しいがあまり知られていないローカルな山芋

山芋は、美味い

が、「山芋」というだけでは人によって思い浮かべるものが違う。というのも、一般的に山芋と言われているものには、ナガイモツクネイモヤマノイモ(自然薯)、ダイジョの4種類があるためだ。

この中で最も生産量が多く、普通に山芋と認識されているのがナガイモである。大きさが揃っていて流通に有利なためと思われる。これは北海道や青森が産地(というか、この2県の寡占状態)。

その他の生産量は未詳だが、あまり多くはないと思う。関西ではツクネイモのことを山芋と呼ぶらしい。自然薯はご存じのとおり山芋の中でも最も貴重で美味な高級食材。で、話題にしたいのは最後のダイジョ(大薯)である。

このダイジョ、原産地は東南アジアと見られており暖地でなくては育たず、日本では沖縄・奄美・九州南部で産する。食味は自然薯には劣るがナガイモやツクネイモより優れていて、粘りも強く、また上品でもある。すり下ろして出汁を混ぜただけのダイジョの旨さは格別だ。だが、イモの大きさがまちまちであることや、ローカル食材であるためにあまり流通しておらず、都市部で見かけることはまずない(あと、離島からの移入には植物検疫の関係があるようだ)。

しかしこのダイジョ、暖地であれば育てやすく、また山芋類にしては収穫も容易である。さらに、流通量が少ないためか、今のところ単価も高い。食材としての短所は、大きさがまちまちなので規格化・流通しづらいことかと思うが、まだまだ可能性がある作物だと感じさせる。

私は就農にあたって、実はこのダイジョの栽培が一つの目的でもあった。ただ、このあたりには自然薯の栽培組合はあってもダイジョの組合はなく、流通が未整備のようだったので手をつけられなかったのだが、自分でネットショップも開業したことでもあるし、今年はこのダイジョの栽培を少し広げてみたいと思う。

ちなみに、鹿児島銘菓「かるかん」の原料は自然薯と言われているが、実はこのダイジョであることも多いそうだ。自然薯の代わりになるくらい美味い、という一つの証拠でもあるだろう。

2013年1月27日日曜日

ようやく、ショップサイトを開設しました。

ようやく、ついに、農産物等の販売サイトをオープンする運びとなった。

サイト名は、つい数日前まで本ブログのタイトルであった「南薩の田舎暮らし」。

ネーミングについてはいろいろ検討したが、良案が浮かばなかったこともあり、ある程度イメージに近いこの名前を流用することにした。いろいろアドバイスをもらっている方から、「タイトルは超重要。3年掛けて考えるくらいでよい」という言葉もあったので、とりあえずこの名称でいってみたい。

ただ、私が農産物の販路を開拓していきたいターゲットである若い(小さな子どもがいる)女性のことを考えると、「南薩の田舎暮らし」だけだとハナがないため、”Live Natural, Meet Local"(自然を生きる、地域と出会う)というキャッチコピーを添えた。英語を添えるだけで、なんとなく雰囲気が明るくなるからすごい。これもくだんの「ある方」からのアドバイスである。

ちなみに、文法的には”Live Naturally"の方が正しいが、キャッチコピーというのは若干文法から逸脱しているくらいの方がいい、と思う。

本サイトのデザインは、基本的な部分は私がやっているが、ロゴやタイトルなど重要な部分は家内が消しゴムハンコで作り、それを私が加工した。若い女性に受け入れられることを考えると、やはり同じ女性がデザインした方が共感を得られると思うし、何よりオヤジのデザインよりかわいい。家内との共同作業の結果、全部一人で作るよりよほどいいものが出来たと感謝している。

サイトのデザインはできたものの、実は中身の方が大変で、受注管理や顧客管理は実はまだほぼ空っぽの状態。デザインは極論を言えばテキストのみでもいいが、裏方はしっかりしていないと商売が成り立たない。目に見えない所の方が大変なんだなあとしみじみ感じる。最初のうちはいろいろ不手際もあるかもしれないが、暖かく見守っていただければ幸いである。

ついでにショップブログもオープンしているので、今後はそちらもどうぞ。