こいつは、サツマゴキブリというやつである。家の外に死骸が落ちていた。このあたりで農作業をしていると、見ない日はないというほどよく見かける。
南薩の方では、一般的なゴキブリよりもこのサツマゴキブリをよく見る。サツマゴキブリは、九州南部、四国、南西諸島など暖地にしか棲息しないゴキブリであるが、近年は温暖化の影響か和歌山や静岡にも進出しているという。とはいえ、本州の人はほとんど見たことのないゴキブリであろう。
サツマゴキブリの著しい特徴は、羽が全く退化してしまって存在しないこと。また、生殖方法が特殊で、一度排出した卵鞘を体内のポケット状の器官に引き込んで体内保護し孵化させるということである(※1)。まるで有袋類のようで、いわば、ゴキブリ界のウォンバットである。
人家でも頻繁に見かけるが、もともとが森林に住んでいる種類ということで、一般的なゴキブリよりも素早くなく、攻撃性も低い。ゆったりと歩く姿に「愛らしい!」と感じる奇特な人もいて、ペットとしても飼われる。ネットを見ると、10匹1000円くらいが相場のようだ。「出来損ないの三葉虫みたいで、古代ロマンを感じる」というコメントも見られるが、実際は、羽がある普通のゴキブリの方が古い形態らしい。
また、サツマゴキブリの雌を乾燥させたものは、「䗪虫(シャチュウ※2)」という漢方薬になり、血液凝固抑制剤、すなわち血の巡りをよくする薬である。日本では医薬品としての許可が下りていないらしいが、ネットを検索すると普通に売っている。
ゴキブリは、害虫としては気持ち悪いが、非常に興味深い生物である。体内に特殊な細菌が共生していて、必要とする栄養素が極端に少ない。シロアリ(これは真社会性を獲得したゴキブリのこと)に至っては、多くの生物にとっては栄養にならない木質セルロースだけで生きられるという究極の省エネを成し遂げている。
私は、別にゴキブリは好きではないが、サツマゴキブリをよくみかけるので、俄然この生物に興味が湧いてきた。どうして羽が退化してしまったのか、どうして一度排出した卵鞘を改めて取り込むという特殊な繁殖形態を進化させたのか。気になるので、暇があればちょっと調べてみたい。
※1 これは、いわゆる「卵胎生」ではない。卵胎生は卵を体内で孵化させることであって、一度体外に排出することはないからだ。こんな繁殖方法を採る昆虫はゴキブリ以外にもいるのだろうか?
※2 「庶虫」という表記の方が一般的のようだが、正字は「䗪虫」である。
【3/8 追加】サツマゴキブリの生態および形態が、マダガスカルオオゴキブリと非常に似ていることに気づいた。マダガスカルオオゴキブリとサツマゴキブリの系統関係はどうなっているのだろうか。
2012年3月7日水曜日
かぼちゃの植え付けをしました
先日書いたように、かぼちゃを栽培してみることにした。甘い「加世田かぼちゃ」を目指したい。といっても、商品作物として作るのではなくて、まずは自家用ということで少量作ってみる。
というわけで、昨日かぼちゃの苗の定植(植え付け)を行った。苗とマルチング(土を覆うビニールシート)、ビニールトンネルなど資材の全ては、なんと近隣の農家Tさんからタダで分けてもらったもの。本当に有り難い。というか恐縮の至り…である。
畝は約25m。本来は40〜50cm間隔で植えるが、Tさんからのアドバイスで25cm間隔で植えることにしたので、苗の数は約100個である。ちなみに、「加世田かぼちゃ」という品種があるのではなく、植えるのは日本全国で一般的な品種である「えびす南瓜」である。「加世田かぼちゃ」とは、このえびす南瓜を完熟させて甘くしたかぼちゃなのだ。この地方の気候風土が、かぼちゃによく適しているためにブランド野菜となるような美味しいかぼちゃができるのである。
さて、「商品作物としてではなく、自家用で」という趣旨ではあるが、これでかぼちゃがどれくらい出来るかというと、やや少なめに出来たとしても百個程度ということになり、到底、自家用で消費できる数ではない。ではどうするか?
もちろん、農協へ出荷することも一案だが、「加世田かぼちゃ」は糖度などに基準があり、検査を合格したものだけしか出荷できない。それに、どうせ出荷する量としては少量なので、利益を考えないで捌きたいと思う。
となると、基本的には「お裾分け」ということになる。百個のかぼちゃをお裾分けで捌けるか分からないが、今はFacebookなどもあるので、昔とは違った形でお裾分けできるのではないかと思っている。
というわけで、昨日かぼちゃの苗の定植(植え付け)を行った。苗とマルチング(土を覆うビニールシート)、ビニールトンネルなど資材の全ては、なんと近隣の農家Tさんからタダで分けてもらったもの。本当に有り難い。というか恐縮の至り…である。
畝は約25m。本来は40〜50cm間隔で植えるが、Tさんからのアドバイスで25cm間隔で植えることにしたので、苗の数は約100個である。ちなみに、「加世田かぼちゃ」という品種があるのではなく、植えるのは日本全国で一般的な品種である「えびす南瓜」である。「加世田かぼちゃ」とは、このえびす南瓜を完熟させて甘くしたかぼちゃなのだ。この地方の気候風土が、かぼちゃによく適しているためにブランド野菜となるような美味しいかぼちゃができるのである。
さて、「商品作物としてではなく、自家用で」という趣旨ではあるが、これでかぼちゃがどれくらい出来るかというと、やや少なめに出来たとしても百個程度ということになり、到底、自家用で消費できる数ではない。ではどうするか?
もちろん、農協へ出荷することも一案だが、「加世田かぼちゃ」は糖度などに基準があり、検査を合格したものだけしか出荷できない。それに、どうせ出荷する量としては少量なので、利益を考えないで捌きたいと思う。
となると、基本的には「お裾分け」ということになる。百個のかぼちゃをお裾分けで捌けるか分からないが、今はFacebookなどもあるので、昔とは違った形でお裾分けできるのではないかと思っている。
2012年3月4日日曜日
「タダで貸すよ」では見向きされないものが、「タダであげる」では人気商品に
先日、南さつま市立図書館(加世田本館)で、廃棄本の無料配布イベントがあった。どこの自治体でもやっていると思うが、私はこの種のイベントに初めて参加した。
戦利品は写真の通り。かなり嬉しかったのは、河出書房新社からでている『生活の世界歴史』全10巻と、杉浦康平著『かたち誕生』である。
半分くらいの量がなくなった後の残り物から見つけたので、これが一番の掘り出し物であったのかどうかはよくわからないが、本当に満足した。感謝である。読むのが楽しみだ。
ところで、こういう無料配布イベントの雰囲気は、冊数制限があるかどうか、後で補給されるかどうかによっても違いがあると思うが、今回は、みなさんが必死に本を漁っているので驚いてしまった。
9時半の開始と同時に狭い開場に多くの人がなだれ込み、5分ちょっとで半分ほどの本がなくなってしまったのである! 奪い合う、というわけではないが、我先に多くの本を確保しようと多くの人が躍起になっていた。私は、ちょっとその熱狂に参加できずに、雰囲気が落ちつくまで待ち、それで見つけたのが先ほどの掘り出し物だったのである。
この必死さは、面白いなあと思った。廃棄するくらいの本なのだから、普通に貸し出ししていた時は、ほとんど見向きもされなかった本のはずである(※)。ものによっては、10年以上貸し出しがなかったような本かもしれない。そんな本が、「タダであげますよ」となった途端、争って求められるほどの人気商品になるのである。
タダなのがポイントなのではない。図書館で借りるのは元よりタダなのだから。「タダで貸すよ」といっても見向きもされないのに、「タダであげる」になるとみんなが欲しがるのだ。つまり、「所有できる」ということが重要だとしか考えられない。昨今、シェアがはやっているといわれているが、やはり、人間の所有欲というのは大きいと思う。
必要な時に必要なだけ、合理的に使うにはシェアは適している。しかし、合理的にものを使うだけでは、ちょっと物足りない時が人にはあると思う。別に必要はなくても、そばに置いておきたいとか、なんだかわからないけど欲しいとか、そういう非合理的な所有欲は、やっぱり強力なのではないか。
(※)人気がある本でも、傷んだり古くなったりといった理由で買い換えて廃棄(除籍)になる時はある。だから、廃棄本だからといって、必ずしも貸し出しのない不人気の本だというわけではない。しかし、今回、ほとんどの本は古くなって貸し出しされていなかったことが一目瞭然であった。
戦利品は写真の通り。かなり嬉しかったのは、河出書房新社からでている『生活の世界歴史』全10巻と、杉浦康平著『かたち誕生』である。
半分くらいの量がなくなった後の残り物から見つけたので、これが一番の掘り出し物であったのかどうかはよくわからないが、本当に満足した。感謝である。読むのが楽しみだ。
ところで、こういう無料配布イベントの雰囲気は、冊数制限があるかどうか、後で補給されるかどうかによっても違いがあると思うが、今回は、みなさんが必死に本を漁っているので驚いてしまった。
9時半の開始と同時に狭い開場に多くの人がなだれ込み、5分ちょっとで半分ほどの本がなくなってしまったのである! 奪い合う、というわけではないが、我先に多くの本を確保しようと多くの人が躍起になっていた。私は、ちょっとその熱狂に参加できずに、雰囲気が落ちつくまで待ち、それで見つけたのが先ほどの掘り出し物だったのである。
この必死さは、面白いなあと思った。廃棄するくらいの本なのだから、普通に貸し出ししていた時は、ほとんど見向きもされなかった本のはずである(※)。ものによっては、10年以上貸し出しがなかったような本かもしれない。そんな本が、「タダであげますよ」となった途端、争って求められるほどの人気商品になるのである。
タダなのがポイントなのではない。図書館で借りるのは元よりタダなのだから。「タダで貸すよ」といっても見向きもされないのに、「タダであげる」になるとみんなが欲しがるのだ。つまり、「所有できる」ということが重要だとしか考えられない。昨今、シェアがはやっているといわれているが、やはり、人間の所有欲というのは大きいと思う。
必要な時に必要なだけ、合理的に使うにはシェアは適している。しかし、合理的にものを使うだけでは、ちょっと物足りない時が人にはあると思う。別に必要はなくても、そばに置いておきたいとか、なんだかわからないけど欲しいとか、そういう非合理的な所有欲は、やっぱり強力なのではないか。
(※)人気がある本でも、傷んだり古くなったりといった理由で買い換えて廃棄(除籍)になる時はある。だから、廃棄本だからといって、必ずしも貸し出しのない不人気の本だというわけではない。しかし、今回、ほとんどの本は古くなって貸し出しされていなかったことが一目瞭然であった。
2012年3月3日土曜日
画家が創った老人ホームと美術館——吉井淳二美術館
今日は桃の節句ということで、「おひな様と懐かしい着物展~子供の着物について~」という企画展をやっていた吉井淳二美術館に家族で出かけた。
吉井淳二美術館は、加世田市街近郊の山中、緑に囲まれた小さな美術館である。この美術館、全国的にも珍しい沿革を持っているのでちょっと紹介したい。
発端は、昭和63(1988)年、洋画家の吉井淳二氏が、社会福祉法人「野の花会」を設立し、特別養護老人ホーム「加世田アルテンハイム」をオープンさせたことに遡る。この加世田アルテンハイムは、「福祉に文化を」を理念に創られた「絵と彫刻のある憩いの園」であり、芸術文化に囲まれた介護老人福祉施設である。
老人ホームというと、いかにも収容所然とした、陰鬱な施設が多いのであるが、加世田アルテンハイムは開放的な雰囲気があり、広い敷地内には芸術作品が所々に配されるとともに、よく管理された庭木や花がたくさん植えられている(入ったことはないのだが、外から見るとこんな感じ)。こんなところなら、いずれ入ってもいいかも、と思う。
また、全国的にも少ない「日中おむつゼロ」を近年達成するなど、介護面でも先進的な取組をしておられ、2002年には、第1回「癒しと安らぎの環境賞」最優秀賞受賞など、多数の表彰も受けている。
吉井淳二氏は、高校時代は羽仁もと子(自由学園創設者)の教育を受け、晩年に至るまでその教えを実践していたようだ。想像するに、加世田アルテンハイムは、自由学園と同様の理念で運営される老人ホーム、ということだったのかもしれない。
さて、加世田アルテンハイムでは、日常的に芸術に触れる工夫が施されているのであるが、その1つとして、吉井氏自身の作品を中心に展示するギャラリーが設けられていた。その来場者が多かったことから、平成4(1992)年、ギャラリーを増築し独立させたのが「財団法人吉井淳二美術館」である。
法人として独立はしたものの、吉井淳二美術館では、福祉施設の一貫としての美術館という立場から、今でも年に一度は福祉関係の企画展(例えば、児童養護施設の子供たちの作品展など)を行っている。
なお、吉井氏の画風は、人物画を中心に素朴で落ち着きのあるもので、良くも悪くも「公共施設のロビーを飾るにふさわしい」感じだ。よい絵であると思うが、刺激的なものや高遠なものを求める人には物足りないところもあるかもしれない。といっても、吉井氏は文化勲章受章者であり、文化功労者、日本芸術院会員、二科会名誉理事など華々しい肩書きをお持ちの方だったので、美術品としての市場評価は高いに違いない。
また、美術館を含めて加世田アルテンハイムの一連の建物は、英国で活躍する建築家・彫刻家の川上喜三郎氏の設計による(丸ビルのロビーにある作品の方)。開放的で、清潔感があり、古びても陰鬱にならない英国風デザイン。正直なところ、展示されている作品よりも、その建物と雰囲気の方が私は気に入ったのであった。
それにしても、画家が老人ホームを設立する、ということが極めて異例なことのように思われる。吉井氏の外に、そのような人がおられるだろうか…? たぶん、そんな人は日本で一人だと思うが、どうだろうか。
【情報】
第108回企画展「おひな様と懐かしい子供のきもの展」は2012年3月1日〜4月3日まで開催。入館無料。なお、吉井淳二美術館は、元旦以外休館日がないという、ほぼ年中無休の美術館である。
【蛇足】
社会福祉法人「野の花会」の命名について、公式サイトでは
吉井淳二美術館は、加世田市街近郊の山中、緑に囲まれた小さな美術館である。この美術館、全国的にも珍しい沿革を持っているのでちょっと紹介したい。
発端は、昭和63(1988)年、洋画家の吉井淳二氏が、社会福祉法人「野の花会」を設立し、特別養護老人ホーム「加世田アルテンハイム」をオープンさせたことに遡る。この加世田アルテンハイムは、「福祉に文化を」を理念に創られた「絵と彫刻のある憩いの園」であり、芸術文化に囲まれた介護老人福祉施設である。
老人ホームというと、いかにも収容所然とした、陰鬱な施設が多いのであるが、加世田アルテンハイムは開放的な雰囲気があり、広い敷地内には芸術作品が所々に配されるとともに、よく管理された庭木や花がたくさん植えられている(入ったことはないのだが、外から見るとこんな感じ)。こんなところなら、いずれ入ってもいいかも、と思う。
また、全国的にも少ない「日中おむつゼロ」を近年達成するなど、介護面でも先進的な取組をしておられ、2002年には、第1回「癒しと安らぎの環境賞」最優秀賞受賞など、多数の表彰も受けている。
吉井淳二氏は、高校時代は羽仁もと子(自由学園創設者)の教育を受け、晩年に至るまでその教えを実践していたようだ。想像するに、加世田アルテンハイムは、自由学園と同様の理念で運営される老人ホーム、ということだったのかもしれない。
さて、加世田アルテンハイムでは、日常的に芸術に触れる工夫が施されているのであるが、その1つとして、吉井氏自身の作品を中心に展示するギャラリーが設けられていた。その来場者が多かったことから、平成4(1992)年、ギャラリーを増築し独立させたのが「財団法人吉井淳二美術館」である。
法人として独立はしたものの、吉井淳二美術館では、福祉施設の一貫としての美術館という立場から、今でも年に一度は福祉関係の企画展(例えば、児童養護施設の子供たちの作品展など)を行っている。
なお、吉井氏の画風は、人物画を中心に素朴で落ち着きのあるもので、良くも悪くも「公共施設のロビーを飾るにふさわしい」感じだ。よい絵であると思うが、刺激的なものや高遠なものを求める人には物足りないところもあるかもしれない。といっても、吉井氏は文化勲章受章者であり、文化功労者、日本芸術院会員、二科会名誉理事など華々しい肩書きをお持ちの方だったので、美術品としての市場評価は高いに違いない。
また、美術館を含めて加世田アルテンハイムの一連の建物は、英国で活躍する建築家・彫刻家の川上喜三郎氏の設計による(丸ビルのロビーにある作品の方)。開放的で、清潔感があり、古びても陰鬱にならない英国風デザイン。正直なところ、展示されている作品よりも、その建物と雰囲気の方が私は気に入ったのであった。
それにしても、画家が老人ホームを設立する、ということが極めて異例なことのように思われる。吉井氏の外に、そのような人がおられるだろうか…? たぶん、そんな人は日本で一人だと思うが、どうだろうか。
【情報】
第108回企画展「おひな様と懐かしい子供のきもの展」は2012年3月1日〜4月3日まで開催。入館無料。なお、吉井淳二美術館は、元旦以外休館日がないという、ほぼ年中無休の美術館である。
【蛇足】
社会福祉法人「野の花会」の命名について、公式サイトでは
この地で荒野にゆれる小さい野の花に心ひかれ「野の花会」と名づけ…と説明されているが、自由学園の教えを終生実践した吉井氏のことを考えると、羽仁もと子の自宅「野の花庵」にかこつけているような気がしてならない。自由学園では聖書の教えに基づき、野の花のように生きる、というようなことを教えており、羽仁自身の作詞による「野の花の姿」という歌が公式行事で歌われたりする。実際の由来はどこにあるのだろう。
2012年3月2日金曜日
籾播きの手伝い—無農薬育苗と物質循環
昨日と今日(3/1と3/2)、お世話になっている農家(2組)の籾播きのお手伝いに行った。手伝いといっても、むしろこちらが勉強させてもらうというものであって、研修みたいなものである。私は、今のところ水稲を商品作物として作っていくつもりはないが、やはり勉強しておくに越したことはない。
籾播き(モミマキ。種まき、播種などいろいろな名前で呼ばれる)は、田植えに使う稲の苗を準備する作業である。工程は以下の通り。
(1)種籾を予め水に浸し、発芽を促しておく。(なお、このあたりでは富山県から籾を仕入れている農家が多いらしい。温度差があるために発芽がいいということだ。)
(2)田植機にセットするケース「苗箱」(30 cm × 60 cm)に土を入れる(床土という)。
(3)床土を入れた苗箱に種籾を播き、さらにその上に土(覆土という)及び水をかける。
(4)それをビニールハウスにきっちりと並べ(これが力仕事…)、ラブシートと呼ばれる不織布+ビニールシートを掛ける。これは遮光及び保温のため。
上記の工程のうち、今回は2組とも(2)及び (3)の工程は機械化されている。ただし、それぞれの農家で機械化に対する考え方は違う。準備する苗箱の数の違いもあるが、一方は4人で、一方は9人での作業だった。それは、主に(2)及び(3)の機械化の度合いの違いで必要人員が違ったのであった。
大まかに違いを言えば、ベルトコンベアー式に流れる機械(これは基本的に2組同じ)の相手をする人員の差であって、例えば、土が均一にかかっているかチェック・仕上げをする係の有無であったり、土の補給方法を人力でやるか、機械でやるかの違いだったりする。
どちらの方法が効率的であるかということは、一概には言えない。人員を集められるかどうか、機械を揃えられるかどうかは、単純に投入資本によるのではなく、農家の置かれた状況にもよる。機械を購入したとして、一年に一度しか使わない機械の保管費用も農家によって違うだろう。それに、籾播きを近隣の方々に手伝ってもらいながら、いわばイベント的・年中行事的にやる、というのも、それはそれで別の意味があるような気がする。
しかし、今回2組の籾播きを体験して、明らかに違っていることがあった。それは、農薬の有無である。一方では、無農薬で苗箱を作っていた。一方では、農薬を入れていた。この違いは何に起因するのかというと、使っている土である。無農薬の方は、高温殺菌されて作られた土を使っていたのである(これは、自家製ではなくて他県の業者から仕入れたもの)。
農薬を使わないからいいとか、使うからダメということはない。何が正しい手法かということは、目的とする生産物がどのようなものかということで決まる。無農薬のお米を作ろうと思ったら当然無農薬で育苗しなくてはならないが、そうでない場合、基準を守って農薬を使うのは、(少なくとも農家個人のレベルでは)何ら悪いことではない。
私が感じたのは、無農薬栽培を実現するために、他県から土を仕入れなければならないのは大変だなあ、ということだった。無農薬栽培というと、「地域の環境を生かして…」とつい無意識に思ってしまうのであるが、実際には、無農薬栽培には非常に難しい部分もあるために地域の中だけで物質循環を完結させられないことも多いのである。
私も、もちろん、有機・無農薬栽培というものに関心がある。しかしそれ以上に、物質循環というものに強い関心がある。物質循環についてはまたいずれ書きたいが、無農薬栽培をするために他県から土を仕入れる、ということは、全ての農家ができることではないし、また、すべきでもない。やはり、全体としては、土は地域本来のものを営々と育てていくべきものであって、そのために山や川が物質循環を担っているのである。
私は、無農薬栽培のために高温殺菌された土を使うというのは大変すばらしい工夫だと思ったし、苗箱に使う土は全体からすればごく少量なので、物質循環云々の問題は惹起しないのであるが、改めて、無農薬栽培の難しさを思い知らされた次第である。
【補足】
写真は工程(4)の並べた苗箱の様子。苗箱を重ねた際に下側の模様が土に写っており、こうして並べるとなかなかにきれいである。
籾播き(モミマキ。種まき、播種などいろいろな名前で呼ばれる)は、田植えに使う稲の苗を準備する作業である。工程は以下の通り。
(1)種籾を予め水に浸し、発芽を促しておく。(なお、このあたりでは富山県から籾を仕入れている農家が多いらしい。温度差があるために発芽がいいということだ。)
(2)田植機にセットするケース「苗箱」(30 cm × 60 cm)に土を入れる(床土という)。
(3)床土を入れた苗箱に種籾を播き、さらにその上に土(覆土という)及び水をかける。
(4)それをビニールハウスにきっちりと並べ(これが力仕事…)、ラブシートと呼ばれる不織布+ビニールシートを掛ける。これは遮光及び保温のため。
上記の工程のうち、今回は2組とも(2)及び (3)の工程は機械化されている。ただし、それぞれの農家で機械化に対する考え方は違う。準備する苗箱の数の違いもあるが、一方は4人で、一方は9人での作業だった。それは、主に(2)及び(3)の機械化の度合いの違いで必要人員が違ったのであった。
大まかに違いを言えば、ベルトコンベアー式に流れる機械(これは基本的に2組同じ)の相手をする人員の差であって、例えば、土が均一にかかっているかチェック・仕上げをする係の有無であったり、土の補給方法を人力でやるか、機械でやるかの違いだったりする。
どちらの方法が効率的であるかということは、一概には言えない。人員を集められるかどうか、機械を揃えられるかどうかは、単純に投入資本によるのではなく、農家の置かれた状況にもよる。機械を購入したとして、一年に一度しか使わない機械の保管費用も農家によって違うだろう。それに、籾播きを近隣の方々に手伝ってもらいながら、いわばイベント的・年中行事的にやる、というのも、それはそれで別の意味があるような気がする。
しかし、今回2組の籾播きを体験して、明らかに違っていることがあった。それは、農薬の有無である。一方では、無農薬で苗箱を作っていた。一方では、農薬を入れていた。この違いは何に起因するのかというと、使っている土である。無農薬の方は、高温殺菌されて作られた土を使っていたのである(これは、自家製ではなくて他県の業者から仕入れたもの)。
農薬を使わないからいいとか、使うからダメということはない。何が正しい手法かということは、目的とする生産物がどのようなものかということで決まる。無農薬のお米を作ろうと思ったら当然無農薬で育苗しなくてはならないが、そうでない場合、基準を守って農薬を使うのは、(少なくとも農家個人のレベルでは)何ら悪いことではない。
私が感じたのは、無農薬栽培を実現するために、他県から土を仕入れなければならないのは大変だなあ、ということだった。無農薬栽培というと、「地域の環境を生かして…」とつい無意識に思ってしまうのであるが、実際には、無農薬栽培には非常に難しい部分もあるために地域の中だけで物質循環を完結させられないことも多いのである。
私も、もちろん、有機・無農薬栽培というものに関心がある。しかしそれ以上に、物質循環というものに強い関心がある。物質循環についてはまたいずれ書きたいが、無農薬栽培をするために他県から土を仕入れる、ということは、全ての農家ができることではないし、また、すべきでもない。やはり、全体としては、土は地域本来のものを営々と育てていくべきものであって、そのために山や川が物質循環を担っているのである。
私は、無農薬栽培のために高温殺菌された土を使うというのは大変すばらしい工夫だと思ったし、苗箱に使う土は全体からすればごく少量なので、物質循環云々の問題は惹起しないのであるが、改めて、無農薬栽培の難しさを思い知らされた次第である。
【補足】
写真は工程(4)の並べた苗箱の様子。苗箱を重ねた際に下側の模様が土に写っており、こうして並べるとなかなかにきれいである。
2012年3月1日木曜日
林業と農業のコスト意識の差
先日、「林業就業支援講習」に参加したのだが、研修を受ける中で林業に携わっている方々の話を聞くことができた。そこで、林業と農業のコスト意識の差について感じるところがあったので、少しメモしておこうと思う。
さて、業種にもよるだろうがサラリーマンをしていると、プロジェクトの損益分岐とか、部署毎の利益率とかには敏感になるのだが、作業単位でコストを意識することは少ない。ましてや公務員に至っては、作業単位でのコストパフォーマンスを考えることなど皆無に等しく、バイトにでもできる雑務を(人手がないために)キャリア官僚がやっていたり、逆に高級取りの幹部が閑職にいたりして、コストを意識した経営がされているとは言い難い。
では、第一次産業ではどうだろうか? 意外かも知れないが、一般には、農林水産業に従事されている方のコスト意識は、普通のサラリーマンよりも高い。もちろん、趣味的に農業をしている方などはこの限りではないが、専業でやっている方のコスト意識は総じて高い。
なぜなら、第一次産業従事者の多く、特に専業農家のほとんどは独立経営者だからである。何か資本を投入する時は、自らの身銭を切らなくてはならない。「会社の経費」などないのだ。
一方で、ほとんどの林業作業員は経営者ではない。「一人親方」といって、個人で仕事を請け負っている方もいるが、多くは森林組合などに雇用されている存在だ。しかし、彼らのコスト意識は、専業農家よりも敏感である。なぜなら、ほとんどの森林組合では、歩合制や能力給を採用しており、作業の成果に応じて給金が支払われることが一般的だからである。
これは、林業の特殊性による。それは、作業の成果が非常にわかりやすいということだ。何本伐倒したか、何本集材したか、何本植樹したか。全て明確に分かる(本当は、何本という単位では成果を測らない。立方メートルに換算する)。成果に応じて給金されるから、その作業に投入した資本(時間・機械・燃料)が適当だったかどうだったかも明確である。ゆえに、林業作業員のコスト意識は非常に高いのである。
では、専業農家ではどうだろうか? 成果が非常にわかりやすいのは同様である。売り上げがいくらかは明確だし、投入した資本(時間・肥料・設備・機械・燃料)もある程度明確である。しかし、農業におけるコスト意識は、林業におけるそれほどは徹底されてはいない。
それは、農業では、天候という予測不可能要素があるためである。投入した資本の量は同じでも、天候次第で豊作にもなれば不作にもなる。また、農作物は木材に比べ価格変動が大きく、同じ収穫量でも市場の相場によって売り上げが大きく異なる場合もある。だから、細かいコスト計算をしてもあまり意味がない。つまり、農業はある意味では、バクチなのだ。
コストを少し削っても、結局天候や市場の相場に大きく影響されるなら、多少の(例えば1%の)コスト削減にあまり意味はない。それよりも、高付加価値の作物を作ったり、高性能機械を導入して作付面積を広げたりする方が、利益率を高めることになる。
しかし、今後の農業のメインストリームは、企業経営的になっていくと思われる。その時に、農作業のコスト意識はどう変わっていくのだろうか。
さて、業種にもよるだろうがサラリーマンをしていると、プロジェクトの損益分岐とか、部署毎の利益率とかには敏感になるのだが、作業単位でコストを意識することは少ない。ましてや公務員に至っては、作業単位でのコストパフォーマンスを考えることなど皆無に等しく、バイトにでもできる雑務を(人手がないために)キャリア官僚がやっていたり、逆に高級取りの幹部が閑職にいたりして、コストを意識した経営がされているとは言い難い。
では、第一次産業ではどうだろうか? 意外かも知れないが、一般には、農林水産業に従事されている方のコスト意識は、普通のサラリーマンよりも高い。もちろん、趣味的に農業をしている方などはこの限りではないが、専業でやっている方のコスト意識は総じて高い。
なぜなら、第一次産業従事者の多く、特に専業農家のほとんどは独立経営者だからである。何か資本を投入する時は、自らの身銭を切らなくてはならない。「会社の経費」などないのだ。
一方で、ほとんどの林業作業員は経営者ではない。「一人親方」といって、個人で仕事を請け負っている方もいるが、多くは森林組合などに雇用されている存在だ。しかし、彼らのコスト意識は、専業農家よりも敏感である。なぜなら、ほとんどの森林組合では、歩合制や能力給を採用しており、作業の成果に応じて給金が支払われることが一般的だからである。
これは、林業の特殊性による。それは、作業の成果が非常にわかりやすいということだ。何本伐倒したか、何本集材したか、何本植樹したか。全て明確に分かる(本当は、何本という単位では成果を測らない。立方メートルに換算する)。成果に応じて給金されるから、その作業に投入した資本(時間・機械・燃料)が適当だったかどうだったかも明確である。ゆえに、林業作業員のコスト意識は非常に高いのである。
では、専業農家ではどうだろうか? 成果が非常にわかりやすいのは同様である。売り上げがいくらかは明確だし、投入した資本(時間・肥料・設備・機械・燃料)もある程度明確である。しかし、農業におけるコスト意識は、林業におけるそれほどは徹底されてはいない。
それは、農業では、天候という予測不可能要素があるためである。投入した資本の量は同じでも、天候次第で豊作にもなれば不作にもなる。また、農作物は木材に比べ価格変動が大きく、同じ収穫量でも市場の相場によって売り上げが大きく異なる場合もある。だから、細かいコスト計算をしてもあまり意味がない。つまり、農業はある意味では、バクチなのだ。
コストを少し削っても、結局天候や市場の相場に大きく影響されるなら、多少の(例えば1%の)コスト削減にあまり意味はない。それよりも、高付加価値の作物を作ったり、高性能機械を導入して作付面積を広げたりする方が、利益率を高めることになる。
しかし、今後の農業のメインストリームは、企業経営的になっていくと思われる。その時に、農作業のコスト意識はどう変わっていくのだろうか。
絶品! 加世田かぼちゃプリン

これが、絶品。自然かつ素朴でありながら濃厚な甘み。代官山あたりのおしゃれなパティスリーで売っていてもおかしくないようなおいしさである。
加世田かぼちゃは高級な野菜として大都市圏を中心として出荷されており、1kgあたり600〜800円で小売りされる。かぼちゃ1個が2kgとすれば、1個あたり1000円以上するという高級品である。それをプリンにしたのだから、美味いのは当然だ。
ちなみに、加世田かぼちゃは、鹿児島県が指定する「かごしまブランド」の第1号(平成3年5月指定)でもある。「黒豚」や「桜島小みかん」よりも先に、最初に指定されたのが加世田かぼちゃなのだ。「かごしまブランド」とは、高品質で安心・安全な特産品を生み出す産地作りを進め、市場からの信頼を得るために鹿児島県が進めている取り組みで、16品目24産地が指定されている(平成23年5月末現在。なお、正確には「かごしまブランド産地」といい、「加世田のかぼちゃ」である)。
加世田かぼちゃはかごしまブランドとして、糖度や色づきなどの基準を満たしたものしか出荷されない。通常より収穫までを長くし、完熟させることにより高い糖度を実現しているのである。
「加世田かぼちゃ」が鹿児島県ではブランドとして指定されているといっても、一般的には無名の存在である。現在はほぼ青果のみの出荷であるが、非常に美味なかぼちゃなので、贈答用や高級菓子の素材としてさらに普及させるという方策もあるのではないだろうか。
ちなみに、私自身も加世田かぼちゃ作りに挑戦してみることにした。商品作物ではなく、最初は自家用としての栽培であるが、おいしくできたらその利用法や販路についてもっと考えてみたい。
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