明治5年、神祇行政を牛耳っていた津和野派が突如として教部省から排除された背景には、確かに薩摩閥の策動があった。
当時は岩倉使節団が外遊中であり、維新政府の首脳陣が不在になっていた時期である。特に薩摩閥の政治力が発揮しやすい状況でもあったのだろう。
しかし教部省に乗り込んできた薩摩藩出身者の一群は、突然現れた神祇行政の簒奪者だった、というわけではない。それどころか、表立っての活動が目立たなかっただけで、当初から薩摩藩は神祇行政に重要な役回りを演じてきたのである。
神祇官復興についても、岩倉具視は盟友の千種有文への書簡(慶応3年3月)で「神道復古神祇官出来候由、扨々(さてさて)恐悦の事に候 全く吉田家仕合に候 実は悉(ことごと)く薩人尽力の由に候」と述べている。岩倉によれば、神祇官復興は全て薩摩人の尽力のおかげだというのである。
神祇官復興にあたり、薩摩人が具体的にどういった「尽力」をしたのかは、岩倉の手紙には詳らかではない。ただ、岩倉の念頭には、薩摩出身の井上石見があっただろう。
井上石見は、岩倉と薩摩藩を繋ぐ重要な役割を担っていた。この謎に満ちた、興味深い人物は、薩摩藩と明治政府の神祇政策を考える上での一つの結節点であると思われる。その人生を少し振り返ってみよう。
井上石見(長秋)は、薩摩は福ヶ迫(現・鹿児島市長田町)の諏訪神社の社司の家に生まれた。諏訪神社は、歴代島津家の崇敬も篤かった神社である。石見の運命が大きく動いたのが嘉永朋党事件の時。兄、井上出雲(正徳)にも捕縛の危険が及んだのである。嘉永朋党事件で処分を受けたのは基本的に武士だ。形式的には士籍だったとはいえ神職であった出雲が斉彬派に加わっていたのは、それだけで注目に値する。どうやらこの兄弟には尊皇運動に身を投じる気質があり、神職に収まりきらない部分があったらしい。
というのは、井上兄弟の祖父に井上祐珍という人物がおり、この人は薩摩における闇斎学の重鎮であった。祐珍は山崎闇斎の弟子浅見絅斎(けいさい)の流れを汲み、文化3年には薩摩藩主島津斉宣から「神道の要領を述べよ」という命を受け『神道管窺』という本を書いて上程している。前に述べたように、闇斎学は国学と通ずる儒学の一派で、神道的な儒学とでも言うべきものだ。井上兄弟は闇斎学の立場から、志士的活動に身を投じることになったようである。
嘉永朋党事件での弾圧は苛烈であった。捕縛された者たちが反駁の機会も与えられず切腹に処される中、井上出雲と石見の兄弟は、同様に危険を感じていた3人、即ち幽閉所から脱走した木村仲之丞(後の松山村根)、竹内伴右衛門(後の葛城彦一)、岩崎仙吉(後の相良藤次)らと福岡藩に亡命したのだった。
この亡命者の一団が、歴史に果たすことになる役割には非常に興味深いものがあるが、それは本稿との関連が薄いので割愛する。ともかく、文久の頃にようやく彼らは罪を許されて、薩摩藩の政治活動に外郭的立場から関与していくのである。例えば葛城彦一は、島津家から近衛忠房へ嫁いだ貞姫の付き人となって近衛家に仕え、相良藤次と共に薩摩藩と近衛家の連携を担った。そして井上石見は山階宮(やましなのみや)に仕え、藤井良節と名を変えた兄出雲も、薩摩藩の命によって近衛家の家中(家来)となった模様である。
彼らは薩摩藩と公家の連絡係、もっと言えば薩摩藩の公家工作人員だったのであるが、ちょうど彼らが京都で活動をしていたとき、逃亡生活を送っていた岩倉具視と出会う。
岩倉の逃亡生活については先にも少し触れたが、そのきっかけは和宮降嫁の実現を図ったことだった。これにより岩倉は佐幕的と見なされ、逆臣・姦物とされて朝廷を追放される。しかしそれだけでは反対派が収まらず、「天誅」さえ予告された。そして文久2年10月、ついに岩倉は洛中からも追放され、彼は追っ手の目を避けながら「岩倉村」という京都郊外の村に潜伏していたのであった。これが岩倉にとっての大きな挫折の時期だった。なお、この朝廷からの追放には、藤井良節も一枚噛んでいる。藤井は近衛忠煕など公家たちに岩倉を排斥するよう工作していたのである。
しかし岩倉具視は、こうして失脚させられ、表舞台から退場させられても新国家建設の夢を諦めなかった。幽閉にも等しい生活を送りながら、新しい国家の構想を練り続けるのである。そして地下活動に甘んじるしかない中でその構想によって不思議と人を魅了して、慶応元年頃から次第に岩倉の手となり足となるグループを形成していった。そのグループを、「柳の図子党」という。
そしてこの「柳の図子党」に、どういうわけか藤井良節と井上石見の兄弟が加わるようになったのである。藤井は、元々岩倉を排斥した一人であり、岩倉とは目指すものが違ったのではないかと思うが、そういう藤井をも味方につけたところは、岩倉の組織力、人間的な魅力を見る思いがする。
新国家構想、即ち「王政復古」を実現するにあたり、どうしても薩摩藩の手を借りたい岩倉は、藤井と井上の兄弟を片腕として使うようになる。そしてこの二人は岩倉の期待によく応えた。やがて政権奪取にあたって朝廷の裏工作が必要になってきた薩摩藩は、藤井・井上兄弟を通じて岩倉と手を結ぶのである。
こうした功績から、慶応3年に明治新政府の成立にあたって三職(総裁、議定、参与)が設けられると、井上石見は参与に就任した。参与は下級廷臣と各藩の代表等で構成されるもので、薩摩藩からは西郷隆盛、大久保利通、小松帯刀等錚々たる9人が任命されている。その中で井上石見は、薩摩藩の中では何の役職も与えられておらず、それどころか実質的には武士としての地位すらなかったのであり、この人事は異例と呼べるものだった。この人事には岩倉の強い意向があったとしか思えず、井上に対する岩倉の信頼がいかに大きかったかを物語る。
また、慶応4年に官制の改革があり八局が置かれると、井上は大久保利通や平田銕胤らと共に内国事務局判事に任命された。明治政府出発の時点で、井上が最重要人物であったことは、人事を見るだけでも明らかなことである。
そして井上石見は、岩倉具視と薩摩藩との連絡役としての働きと同じくらい、国学を政策立案に具現化する上で大きな役割を果たしている。慶応3年3月、井上は岩倉に宛てた書簡で「神道復古と迄至り兼候得共 追々祭政一致之処に不参候而は無詮事と存候 神祇官を被置諸官上之儀に候得は此事よりして、朝政御改革も可被為在と乍不及奉存候(神道の復古とまではなりましたが、追々「祭政一致」までいかなければ無益なことと思います。神祇官を諸官の上に特立させれば、このことから朝政の改革が進むのではないかと思っております)」と言っている。平田派も津和野派も追い求めていた「祭政一致体制」や「神祇官特立」は、井上石見によっても岩倉に主張されているのである。
実は岩倉は、井上石見宛の書簡で、井上のことを「硯大人」と呼んでいる。「硯」は言うまでもなく「石見」の合字であり、「大人(うし)」とは国学者に対する尊称である。岩倉は、井上を尊敬すべき国学者として扱ったようだ。井上自身は、国学者に入門し体系的に勉強したことはなかったが、平田篤胤の直弟子である葛城彦一と行動を共にしたことや、「柳の図子党」に国学者が出入りしていたことなどで次第に国学的な思想に染まっていったのだと思われる。
国学思想を岩倉に鼓吹したのは、既に述べたように国学者の玉松操であったが、実際に国学に基づく政治体制を作っていこうと思えば、公家や諸藩に対して種々の調整が必要になる。しかし玉松にはそうした調整をする能力はなかった。というのは、玉松には藩という後ろ盾がほとんどなかったからである。玉松だけではない。平田派国学者は全国に門人のネットワークがあり、それは諜報や情報収集の点では力を発揮したものの、藩の後ろ盾を持っていなかったために政治的には無力に等しかった。
一方、井上石見は、外郭的立場だったとはいえ薩摩藩がバックについている。彼は大久保利通や小松帯刀を通じ、政策を現実化していく基盤があった。国学に親和的であった井上石見が薩摩藩と岩倉の間の連絡役を務めたことは、明治初年の神祇政策に大きな影響を与えたと思う。
さらに、薩摩藩と国学者たちの繋がりを考える上で、誠忠組の頭だった岩下方平(みちひら)の存在も欠かせない。岩下は平田篤胤の没後門人でもあり、薩摩藩家老として平田系国学者に様々な便宜を与えたようである。例えば岩下は京都留守居の職にあるとき、幕府から追われ逃亡生活を送っていた平田派国学者の角田忠行を保護し薩摩藩の客分として遇している。
また矢野玄道(はるみち)を吉田家に紹介して、当時吉田家が設立しつつあった学館の学頭へと斡旋したのも薩摩藩だった。矢野玄道は薩摩藩の後見を得て、幕末の京都政局へとデビューしていくのである。薩摩藩がこうした行動ができたのも、家老に国学の理解が深い岩下方平がいたからこそであっただろう。ちなみに、薩摩藩は幕末に吉田家と深い関係があったようである。当時、薩摩藩は廃仏毀釈運動を進めていた関係から、神道理論の面で吉田家を頼りにしていたらしい。
そもそも薩摩藩が明治初期の神祇政策をバックアップしていたのは、その廃仏毀釈運動を貫徹させるためでもあったのだろう。こうしたことから、薩摩藩は政治的に無力に近かった平田派国学者の後見役を買って出て、「平田派」が新政府内で一つの勢力となるための踏み台の役割を果たした。
要するに、薩摩藩は、平田派国学が政策として具現化するための産婆役だったのだ。
では、なぜ明治初年の神祇行政において薩摩藩の存在感はほとんどないのだろうか。
その理由として第1に、明治初年の薩摩藩は、神祇政策に深入りする余裕がなかったという単純な事情がある。もっと本質的な、国家の根幹に関わる部分の仕事がたくさんあり、大久保や西郷はもちろん岩下方平も神祇行政に与っている暇はなかったのである。
第2に、明治元年に井上石見が死んでしまったということもある。井上は蝦夷地(北海道)開拓にも熱心であったが、択捉島視察の途上で遭難して事故死したのであった。井上が国学勢力と薩摩藩とを結んでいたのは、かなり属人的な部分があったのではないかと思われ、その後平田派が薩摩藩の後見を十分に得られず津和野派との権力闘争に負けたのも、井上がいなかったことが遠因かもしれない。
そして第3に、薩摩藩内における国学者たちは、藩内の廃仏毀釈・神道国教化政策を進めるのに忙しく、明治政府にあまり出仕していなかったということがある。田中頼庸もその一人である。彼らがようやく中央に進出する気配となるのは、廃仏毀釈が完成し、また廃藩置県によって藩から解雇される明治4年以降になのだ。
こうして考えてみると、明治5年に田中頼庸たち薩摩藩の一群が、大挙して教部省に乗り込んできたのは、決して異とするに当たらない。明治政府の神祇行政には、当初から薩摩藩の意向が反映されていたし、一時は神祇行政の主役を勤めた平田派を後見していたのも薩摩藩だった。
また、平田派没落のタイミングで薩摩藩が津和野派を追い落として教部省の権力を奪取したのは、別段平田派の仇討ちという気はなかったのだろうが、津和野派への反発が含まれていたとしてもおかしくない。大教宣布運動の挫折など、津和野派の構想も限界を露呈していたわけであり、津和野派の退場もそれほど強引なものではなかったのだろう。
こうして教部省にやってきた薩摩藩出身者の一群を、 以後仮に「薩摩派」と呼ぶことにしよう(ただし、後醍院真柱については元々政府に出仕していたし、他の平田派国学者と行動を共にしているから薩摩派からは除くことにする)。
もちろん薩摩派の思想的リーダーが、田中頼庸である。
(つづく)
【参考文献】
『島津斉彬公伝』1994年、池田俊彦
『明治維新と国学者』1993年、阪本是丸
『岩倉具視—維新前夜の群像〈7〉』1973年、大久保利謙
『薩藩勤王思想発達史』1924年、坂田長愛(講演記録)
『明治神道史の横顔—思想・制度・人物でたどる近代の神道』2016年、阪本健一
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