2015年2月18日水曜日

露地栽培のしらぬいはなぜかもの凄く痛みやすい

「しらぬい(デコポンの登録商標で知られている柑橘)」に不思議なことがある。施設栽培だと数ヶ月保管できるのに、露地栽培だと3週間くらいで傷んでしまう! どうしてなんだろうか?

ちょっと調べてみても、その本質的な原因が分からない。一方、対策というのはそれなりに研究されていて、小さなキズにも弱いからキズ付けないように収穫しましょうとか、そういう細かいことも含めていろんなアドバイスがある。でも肝心の原因が茫洋としていて、露地栽培と施設栽培で決定的に違うことがなんなのかがよくわからない。果実表面の微生物の様相に問題があるんだろうが…。

それに、痛み方も少し変わっている。普通のミカン類は、表面のキズや何かから青カビが侵入してやがて腐っていくことが多いが、しらぬいの場合、青カビももちろんつくが皮の部分からボヨンボヨンになって弱っていく痛み方の方が多いような気がする。あと、樹上で腐ってしまう割合も多いと思う。これも原因がよくわからない。

ちなみに、皮の部分がボヨンボヨンになっても、果肉の方はまだ無事で意外にイケることも多い。でもそうなるともう数日でダメになってしまう。だから売り物にはならない。

しらぬいは皮がゴツくて頑丈な印象があるのに、実際はもの凄く痛みやすいのである。それが施設栽培になると、逆にかなり長持ちするようになるのが一層不思議なのである。こういう果物、ほかにあるんだろうか?

そして、もの凄く痛みやすいということは、なかなか売りにくいということでもある。在庫を抱えているとどんどん不良品が増えていくわけで、時限爆弾的な商品だ。だから、一度にドカッと売りたくなる。でもそうすると、新しいお客さんとの出会いは少ない。「南薩の田舎暮らし」でも、予約を取って販売した上、例によってA-Zかわなべにも卸したので、もはや在庫は10セットくらいしかない状況である。

販売期間はあと1週間もないかもしれない。この短い期間に、新しいお客さんと出会えたらいいなと思っている。

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「無農薬・無化学肥料のしらぬい」

2015年2月12日木曜日

「加世田かぼちゃ」の30年

今、ちょっとワケあって「加世田のかぼちゃ」の歴史を調べている。歴史といってもたかだが30年とちょっとのことだ。

それで、2012年が「かごしまブランド」に指定されてから20年ということで記念大会が開催されており、その冊子を貸してもらって見てみた。その冊子にはこれまでの歩みということで試作が始まった1976年からの主な出来事がまとめられており、大変参考になった。

その歴史を簡単に述べると、「栽培が始まった頃は天候にも恵まれ豊作が続き順調に生産量が拡大したが、次第に天候不良や疫病の発生に見舞われるようになり、近年では不作が常態化するようになった」とまとめられる。

ちょっと趣味的になるが、その様子を下のような表に整理してみた。「主な出来事」の欄を眺めているだけでもなんとなく風向きが悪くなってきている様子が感じられるが、よりわかりやすいのは「生産性」の欄である。

「生産性」は、便宜的に出荷量を作付面積で割ったものである。これは正確な単位面積当たりの収穫量とは異なる。なぜなら、作付面積も出荷量も、本来は春作と秋作それぞれの計算が必要だからである。しかし便宜的な合算でも、その年の雰囲気を摑むことはできるだろう。

そして「生産性」の欄には、これまた便宜的に、〜15:赤色、15〜20:黄色、20〜:水色、と色をつけてみた。年を経るにつれて赤色が多くなっていることが一目瞭然である。というか最近は赤色しかない。

「加世田のかぼちゃ」のあゆみ

主な出来事 作付面積(ha) 出荷量(t) 生産性
1976年 春かぼちゃ試作      
1977年 春かぼちゃ本格的栽培開始
秋かぼちゃ試作
3 75 25.0
1978年 秋かぼちゃ本格的栽培開始 9 153 17.0
1979年 台風による被害 14 184 13.1
1980年   30 487 16.2
1981年   50 1160 23.2
1982年 晩霜による大被害 84 1820 21.7
1983年 台風による被害、疫病大発生 88.8 1195 13.5
1984年   100.8 2220 22.0
1985年   92.5 2110 22.8
1986年   95.1 2300 24.2
1987年   103 2212 21.5
1988年   124.5 2498 20.1
1989年 安定生産 111.5 2277 20.4
1990年 台風による被害 107 1988 18.6
1991年 かごしまブランド産地指定
秋かぼちゃ台風被害により収穫皆無
116 1747 15.1
1992年 朝日農業賞受賞 93 2298 24.7
1993年 晩霜による被害
記録的長雨による2番果着果不良
MBC賞受賞
107.7 1915 17.8
1994年 春先の低温、日照不足で生育遅れ
輸入かぼちゃとの競合で価格低迷
105.3 2106 20.0
1995年   92.1 1564 17.0
1996年 かぼちゃサミットを開催 95.1 1818 19.1
1997年 天候不良による減収 104.2 1669 16.0
1998年 春かぼちゃ、天候不良による減収 102.2 1505 14.7
1999年 天候不良、台風による減収 79.1 1222 15.4
2000年 春かぼちゃ疫病が大発生 73.3 1092 14.9
2001年 単価安
産地指定10周年記念大会開催
70.8 1194 16.9
2002年 天候不良や疫病による減収 67.6 1097 16.2
2003年 天候不良や疫病による減収 75.2 1295 17.2
2004年 台風被害による大幅な減収 76.7 918 12.0
2005年 台風被害による大幅な減収 70.5 1068 15.1
2006年 春かぼちゃ天候不良による品質低下
秋かぼちゃ豊作
68.7 946 13.8
2007年 天候不良による減収 71.2 1025 14.4
2008年 天候不良による減収 70.6 795 11.3
2009年 天候不良による減収 72.5 964 13.3
2010年 天候不良や疫病による減収 74.7 801 10.7
2011年 天候不良による減収 72.9 724 9.9

このように見てみると「加世田のかぼちゃ」が次第に衰微しつつある様が見て取れ、生産者として薄ら寒い気持ちになるのだが、本当に危機感を抱くべきなのは不作が続いていることよりもむしろ、近年の「産地としての動きのなさ」かもしれない。

というのは、順調な栽培が続いた”青色の時代”を経て「かごしまブランド」の産地指定を受け、その後”黄色の時代”にも「朝日農業賞」「MBC賞」を受賞したり「かぼちゃサミット」を開催したりといった動きがあった。もしかしたら積極的に行ったものではないのかもしれないが、結果的にブランドの認知を挙げ、産地が一丸となる方向ができたのではないかと思う。

しかし、それに続く”赤色の時代“には、そういった動きが全くない。おそらく、天候不良に苦しんで思うように結果が出ないため萎縮し、積極的な手を打つことができなかったのだろう。 天候不良というのは如何ともしがたいので、生産量の低迷などはしょうがない。だがだからこそ、産地として埋没しないようにする努力をしなければジリ貧になっていくのではないだろうか。

私は「加世田かぼちゃ」の歴史を振り返るにあたり、「なんだかんだ言っても20年以上の積み重ねがあるわけだから、それなりにいろんな取り組みがあったのでは?」と思っていた。が、これまでの所、取り組みは栽培技術の面に限られているように見える。

栽培技術の進歩は重要だが、ブランドだってただ自称しているだけではその真価は発揮されない。実直に生産するだけでなくて、産地として前向きに動く姿勢を見せ、新たな市場を開拓していくきっかけづくりをしていく努力が必要だと思う。微力ながら、私も一生産者としてそれに取り組んでいきたい。

2015年2月6日金曜日

サワーポメロの不思議

この時期、近所の物産館では「サワーポメロ」がものすごく安売りされている。3個くらい入って150円とか、そういう激安値である。これはブンタンの仲間だから大きいのが3個入っていれば2キロ近くあるが、それが150円だから全然利益は出ない商売だ。

しかしサワーポメロ、といってもピンと来ない人が多いに違いない。サワーポメロは通称で、品種名は大橘(おおたちばな)という。熊本では「パール柑」と呼ばれている。といっても、やはりピンと来ない人が多いであろう。サワーポメロは、鹿児島・熊本のご当地柑橘ともいうべきものだ。

これが激安で売られているのはいろいろ理由があるが、基本的には市場性があまりないからだと思う。つまり、あまり市場では取り扱われていない。市場で流通しないから売りにくい。売りにくいから安くなる。ではどうして取り扱われていないのか、というと、多分生産量が少ないからだ。

ところが面白いことに、このあたりで柑橘類を生産している人の畑には、隅っこの方に必ずといってよいほどこのサワーポメロが1、2本植えられている。自家用で育てているのである。自家用だから元より出荷のことは考えていない。だがたった2本でも収穫は結構な量になるから、余った分を物産館に出しているのである。余ったものの処分だから150円くらいの激安に設定されているのだと思う。

しかしここに一つ不思議がある。ミカン農家自身が自家用に植えるくらいだから美味しい柑橘のはずなのに、なぜ生産量が少なく市場性があまりないのだろうか?

実際、「柑橘類の中でサワーポメロが一番好き!」とか「柑橘類はサワーポメロ以外は食べない」という人もいるくらいなのだ。ちょっと好き嫌いは分かれる果物で(というのは皮が剝きにくいのが一番嫌われる点)、みんなに好かれるというものではないが、はまる人にははまる味だ。

どんな味かというと、ブンタンのぷちぷち感はそのままにすごくジューシーにして甘酸っぱくした感じである(サワー(酸っぱい)が冠されているがそれほど酸味は強くない)。それから香りがすごく爽やかなのも特徴である。剝きにくい皮のことを考えなければ、もっと市場で取引されてもおかしくない。

しかも、生産量の少なさは栽培が難しいのが理由ではない。というか、柑橘類の中では栽培はどちらかというと容易な方ではないかと思う。ではなぜ生産量が少なく市場性があまりないのか?

私の推測だが、それはこのあたりの人びとが「サワーポメロは自家用の果物」「サワーポメロは高く売れるはずがない」と思い込んでいるせいではないかと思う。つまりサワーポメロに将来性を感じていない。柑橘のように「一度植えたら簡単に植え替えはできない」というような作物の場合、定植の際は最も有望そうな品種を選ぶのが当然である。その結果、生産量が少なくなって市場にあまり流通しないため、さらに有望に見えなくなる。そういう負のフィードバックの結果、サワーポメロは自家用に1、2本植える程度のご当地柑橘に甘んじているのではないだろうか。

だとすれば、サワーポメロの価値は過小評価されているということになる。もしかしたら、これを真面目に売ろうとすればそれなりに結果がでるのではないか?といっても、私自身はサワーポメロはやはり2本しか栽培していないし、これから増やしていこうという気もないが…(あ、やはり将来性を自分も感じていなかったのかもしれません(笑))。

2015年2月4日水曜日

近所の中学校で講演させてもらいました

先日、近所の大笠(だいりゅう)中学校で講演をしてきた。名目としては「立志記念講演」ということで、中学2年生を対象としたもの。

立志式というのは、どうも全国的な風習ではないようだが、要は立志の時(15歳)を迎えたことを祝い、大人になる自覚を深める行事である。最近は「式」のようなことはしないことも多いのだということで、「式」の代わりに講演が行われ、それに呼ばれていったというわけである。

どうして私などに講演を依頼してきたのかはよく分からないが(町内で頑張っている人に話を聞こう、というような趣旨らしい)、「こういう話をしてほしい!」というような明確な要望もなかったので、普段の授業では聞くことがないであろう刺激的な話をしようということにした。

その内容と言えば、「これからの時代を生き抜くための教養講座」と題して、「君たちが大人になる頃は日本にとって大変厳しい時代になっていて、ぼやぼやしているとどうしようもない人生が待っている。しかも田舎モノには大変なハンデがあるのだから、危機感を抱くべきだ。これからの時代を生き抜くため、英語、インターネット、デジタルツールを使いこなそう!」というような感じである。

このメッセージがどれくらい中学生に実感をもって伝わったのか、正直心許ない。なにしろ、与えられた70分という時間の中で、約100ページ(!)ものスライドを使用し、まくし立てるように発表した。今流行りのスティーブ・ジョブズ流のエレガントなプレゼンテーションとは真逆の講演だったと思う。

だが、聴講してくれた中学生(30人くらい?)の一人でも、何か感じとり、これからの人生を歩む参考にしてくれたら望外の喜びである。そして、中学生にとっては内容がぎゅっと詰まった講演だったと思うが、最後まで真面目に聴講してくれたみなさんに感謝である。自分にとってもいい経験になりました。

2015年1月26日月曜日

突然の訃報に接して

新聞にも出たが、同じ集落の大いなる先輩である窪 俊夫おじさんが先日不慮の事故で亡くなった。

農業の傍ら、教育委員長や森林組合長といった要職を歴任され、勲五等瑞宝章まで受章していたが、全く尊大な感じはなく、誰に対しても気さくな方だった。

それに経歴もさることながら、90歳を超えても未来へ向けた夢を描いているようなところがあって、しかもただ夢を描くだけでなく、老齢にしてそれを少しでも実現しようとする行動力があった。その生きる姿勢にはいつも頭が下がるような思いがしていたところである。

実は昨年、俊夫おじさんに「これまでの人生の話を聞かせてください」と頼んで話を聞かせてもらい、それを筆記して「聞き書きによる自分史」を作ろうと企てていた。しかしこの突然の訃報に接し、あえなくその計画は頓挫した。もちろん、話を聞く時間は作ろうと思えば作れたはずだ。私に少し積極性が足りなかった。でも俊夫おじさんも90歳を超えてもまだまだお元気だし、急ぐこともないだろう、と思っていたのだ。

だから、作りかけの「自分史」は中途半端なところで唐突に打ち切られることになった。本当に残念なことで、生前もっと話を聞いておけばよかったという後悔に堪えない。

しかし作りかけの部分は、既に公表は差し支えないということで確認してもらっていたし、これを公表することが私なりの弔いだと思うので、ここに公表することにする。

これは俊夫おじさんが生まれてから昭和40年くらいまでの人生を語ったもので、特に何かの役に立つものでもない。歴史的に重要な事実が含まれているわけでもない。しかし戦前を生きた人たちが、どんな風に人生を歩んできたのか、ということを考える時、その一例として何かの参考になるのではないかという思いで書き留めたものである。

↓リンクをクリックしてご覧ください(PDF)
『聞き書きによる「俊夫おじさん」の自分史』

2015年1月23日金曜日

大浦川の改修工事にこと寄せて

うちの近くに大浦川という川があって、宮園という集落あたりで大きく湾曲している。

川としてはかなり急カーブを描いていることもあり、大雨の時にはけっこうな高さまで水位が上がってくる。そんなわけで、昨年、大規模な川べりの改修工事が行われて(まだ工事は途中だと思う)、かなり広い河川敷が出現した。

この工事による費用対効果はともかく、増水の危険性があったことは事実なので、この公共工事自体に対する異論はない。が、一つ感じることがあった。

それは、このあたりの風景がガラッと変わってしまったにもかかわらず、それについての事前説明などが一切なかったらしいことである(もしかしたら私が移住してくる前に話がついていたのかもしれませんが)。

この川の淵には、幽邃とまではいかないが鬱蒼とした杉林があって、それなりに存在感のある場所だったと思う。それが、この工事によってすっかり切り払われ、のっぺらとした場所になってしまった。その杉林を愛でていた人というのもいないだろうから、さしたる問題ではないのかもしれないが、やはり風景を大きく変えてしまうような工事は事前に地域住民へと説明が必要ではないか。

というのは、風景というのは単にそこにあるものではなく、地域に住む人の「公共財」だと思うからである。それをなくしても誰か損するわけではないが、そこに住む人のアイデンティティを形成したり、毎日の行動の規範(散歩コースになるなど)になったり、風景は思っている以上に生活に影響しているものだ。

そして、公共財である以上、それを維持していく責任も(行政ではなく)地域住民にある。ゴミをポイ捨てしないとか基本的なことはもちろん、自らがその風景の一部となって暮らして行かなくてはならない。これは景観面での個人主義が徹底している日本ではあまり意識されないが、欧米の諸都市では景観と自らの生活を調和させることは公共の重要なマナーとされている。例えば、ヨーロッパの古都では個人住宅の屋根や壁の色が事細かく条例で規定され、街並み全体が住民の協力によって調和したものになるよう努力されている。

そしてそのような努力を行う以上、街並みの変更を伴う公共事業では地域住民への説明が丁寧に行われるのが普通である。それ以上に、そもそもの計画で、なるだけ周囲の環境と違和感がないものになるように考えられる。もちろんそれでも珍奇な構造物ができないわけではない。景観がらみの訴訟もけっこうあるらしい。

しかし翻って日本ではどうか。公共事業自体の是非はさておき、まちづくりの俯瞰的なビジョンなくして予算の流れるままに公共事業が行われた結果、街の景観はとてもいびつなことになっている場合が多い。にもかかわらず、それに対する不満もあまり顕在化していない。

これは、街の景観は自分たちのものだという意識が薄いからだと思う。おそらく、行政が公共事業に先立って説明会をやれば、声が大きくやたらと尊大で、内容のない反対意見を述べる人が湧いてきて、建設的意見を述べるはずのマジョリティが沈黙する、と言う光景が出現するであろう。これは、自分たちは行政サービスの受益者だという権利意識ばかりあって、行政は自分たちで作っていくものだという責任感がないからではないかと思う。

しかし本来は、行政と住民は対立するものではなく、住民自らが行政を形作っていくはずで、それが民主主義である。理想的には、行政が地域住民に対して知恵と協力を期待して公共事業に対する説明会を開催できるようになってほしい。ガス抜きのための説明会ほど虚しいものはない。

大浦川の改修工事においても、こんなに広い河川敷を作るのなら、そこで何らかのことができたかもしれないわけで、地域住民に幅広く説明すべきだった。サッカーコートとかテニスコートとかを作るほどの余裕はなさそうだが、最初から何もできなさそうと諦めては話が終わる。今からでも遅くはない。この空間を有効利用する知恵を出し合うことができないものか。

田舎の経済というのは、公共事業に依っている部分が大きい。だからこそ、公共事業のやり方をもっとスマートなものにしていかなくてはならないと感じる。行政側が住民への説明を丁寧にやるのはもちろん、住民の方も、それは行政の仕事だ、と突き放すのではなく、当事者意識と責任感を以て携わり、少しでも地域がよくなるように工夫していくべきである。そして、少ない予算で大きな効果を上げる公共事業にしていかなくてはならない。

そして田舎では行政と地域住民との距離が近い。都会ではできないようなコミュニケーションが役場と地域住民で可能である。公共事業の変革は田舎でこそ可能だと思う。こうした工事はなかなか文字にできないような難しい事情が潜んでいることも多く、青臭い意見だとは承知の上だが、うやむやの中で難しいことを処理する行政はもう辞めて、全てを白日の下に晒しつつ、妙案をみんなで探っていく行政へと変わってくべき時が来ていると思う。

2015年1月15日木曜日

南薩の不夜城「A-Zかわなべ」でうちのポンカンを販売中

A-Z(エーゼット)というショッピングセンターをご存じだろうか?

これは鹿児島(阿久根、川辺、隼人の3箇所)にあって、店舗がやたらデカく車から仏壇まで何でも置いていて、しかも24時間営業という独特のお店である。この3箇所はどこもさしたる繁華街を持たないような田舎で、だからこそ商圏のニーズを独占している。こういうショッピングセンターはだいたい繁華街から少し離れた郊外に店を構えるものだが、敢えて競争相手のいない田舎に出店するというのが面白い。

しかも、私も詳しくは知らないのだが、仕入れの仕組みが変わっていて、現場担当者の裁量がとても大きいらしい。例えばニシムタ(鹿児島で有名なショッピングセンターです)なんかだと仕入れは全店共通だと思うが、A-Zの場合は売り場担当者がバイヤーとなって店舗で独自に仕入れるそうだ。いうまでもなく、仕入れは全店共通にするのが合理的だ。この一見非合理な、常識と逆のことをやるのがA-Zの面白いところである。

だから、A-Zには、近所のおばちゃんたち(組合)が作ったような漬物とか、ショッピングセンターらしからぬものが置いている。一見普通の大型ショッピングセンターだが、よく見てみると「常識とは逆の経営」をやっているのである。

A-Zがいかに独特な経営をしているかは、WEB上にもいろいろな記事が載っている(→例えばコレとかコレとか)のでその話はこのあたりにして、このたび、地元南薩のA-Zかわなべに「南薩の田舎暮らし」の「無農薬・無化学肥料のポンカン」を買ってもらえる(仕入れてもらえる)ことになった! (というか独特な経営をしているから、私などから仕入れてくれるのだろう)

私も正確な経緯はよくわからないものの、A-Zとして有機農産物などの取り扱いを強化していこうという動きがあり、それに載っからせてもらった形である。

もし、A-Zにポンカンを仕入れてもらえなければ、個人販売でチマチマ売りつつ、「腐れとの戦い」(というのは防腐剤を掛けていないので)をしなければならなかったので、本当に助かった。

しかも最初は、様子見程度の仕入れなのかなあと思っていたのだが、売り場担当はの方がPOPまで作って下さり、また私が手渡した小さなチラシもわざわざ多数印刷して頒布してくれているではないか。A-Zのご担当の方に、結構力を割いてもらっていると感じる。

こうして、せっかく仕入れてもらったこのポンカンが、無事売り切れて欲しいというのが私の切なる願いである。ここまでやっもらって腐るまで売れ残るということはないと思うが、なかなか売れないとなれば次の仕入れに繋がらない。そして売り場担当の方に申し訳ない感じがする。

というわけなので、南薩の皆さんはA-Zかわなべにお越しの際は、「無農薬・無肥料のポンカン」をよろしくお願いします。A-Zには基本的にチラシがないそうなので、口コミだけが頼りです。なお、一袋(たぶん1kgくらい)380円で売っていました。