(前回から引き続き『発展する地域 衰退する地域』について)
地域の経済発展の大きな原動力が「輸入置換」にある、というのは認めるにしても、多くの地方都市で行われている「工場誘致」もその原動力にならないのだろうか。
日本では(というより世界の多くの都市で)企業の工場を誘致することは重要な経済政策とされている。農村的な地域に工場が一つできるというのは地域経済にとっては随分大きなことで、数百人(または数千人)の雇用が生まれ、それによって人口が増える。また、工場が払う税金(地方法人税や固定資産税)は地方の財政を豊かにする。
特に工場が払う税金は地方政府にとって大きな魅力である。農村的な地域においては住民の住民税というのは微々たるものなので、独自財源の殆どが工場からの納税、というような地域もけっこう多いのではないかと思う。
だから、地方政府(県、市町村)は工場誘致に力を入れることが多い。広い道路に面した安い土地を用意して工業団地を作り、豊富な水や電気、そして教育された労働者(工業高校がありますとか)を売りにして企業を呼び込もうとするのである。そういう努力は、経済発展の原動力にはならないのだろうか?
だが著者は、工場誘致(著者の用語では「移植工場」という)には否定的である。いっときはよいかもしれないが、長い目で見ると経済発展には寄与しないという。
その理由は主に2つある。第1に他地域の資本によって運営される工場は、材料調達などを他地域に負っていることが多いため(要するに地域内に下請けを出さない)、地域内の生産物の多様化に寄与しないということ。第2に、好条件に惹かれて移入してきた工場は、よりよい条件のところが見つかればさっさと出て行ってしまうということ、の2つである。
重要なのはもちろん第1の方で、経済が発展するには地域内で多様な生産活動が行われなくてはならないのに、工場はそれにさほど寄与しない。例えばもしその工場が、系列内で完結した部品調達の仕組みを持っているとすれば、地域の人びとが行うのは組み立て作業に過ぎず、要するにその地域は単純労働者のベッドタウンになってしまう。
とすれば、地域内の人びとがインプロヴィゼーション(あり合わせのもので行う創意工夫)を行う余地はないわけだ。だから経済発展に寄与しないというのである。
しかしこれは、あまりに単純すぎるストーリーではなかろうか。仮にその地域が単純労働者のベッドタウンになるにしても、ある程度の人口が維持されるならそこにはそれなりにビジネスチャンスが生まれるであろう。焼き鳥屋ができたり、クリーニング店ができたりする。そういうものは、小さいながら「輸入置換」の一環であるし、地域住民の才覚を発揮する場にもなるのである。
だから、第1の理由は私にとってはあまり説得力がない。しかしながら、工場誘致は次善の策であるということもまた事実である。工場誘致のアピールポイントである、安い土地、豊富な水や電気、それに教育された労働者、そういうものが本当に地域にあるのなら、他の地域の誰かにそれを使ってもらうのではなく、他ならぬ自分たち自身で使う方がよいのである。
著者が何度も強調して述べているのは、経済発展のためには、「他地域のためだけでなく、自分たち自身のために豊かに多様に生産」することが必要だ、ということである。地域が発展していくということは、地域の人びとが自分たち自身のために生産し、消費し、投資していくという循環的プロセスがなくてはならない。どこかの活気ある都市に供給するだけの経済には限界がある。要するに、持てる力は自分たちのために使うべきなのである。
ついでに、第2の点にも反論したいことがある。著者は、好条件に惹かれてやってきた工場はすぐに移転してしまうというが、それは地域発祥の企業でも同じことではないだろうか。
いきなり話が地元の具体例になるが、加世田にかつてイケダパンというパン屋の工場があった。鹿児島の人はよく知っている企業だと思う。イケダパンは、加世田時代には随分郷土愛があって、地元の祭りやスポーツ大会に出場するなど、地域の活動にかなり貢献していたようである。しかし商売が大きくなるにつれ、僻地にあるデメリットが大きくなり、重富の方へ移転していった。こちらには高速道路も鉄道もあり、空港も近い。高速道路も鉄道なく空港からも遠い加世田は、大きな商売をするには適していないから、出て行ったのは当然だ。
商売が適地を求めて移動していくのは自然の摂理であって、地域の人のために生産する企業だったら移動していかない、というのは幻想に過ぎないと思う。
ただ、他所から好条件を求めてやってきた工場は、地元発祥の企業に比べて移動していきやすい、ということは言えるだろう。著者がこのことを問題にするのは、冒頭に述べたように工場誘致は農村経済にとって大きな影響があるため、それがどこかへ移っていってしまったあとの経済的空白もまた大きいからである。
そして一度都市的になった地域は、かりに都市的生産が衰退しても、元の農村的地域に戻ることはない。なぜなら、農村とはただ人家がまばらで自然が豊かな場所だということではなく、農村の文化がある場所だからである。一度失われた文化を再興するのは非常に困難なことで、百年単位の時間がかかる大仕事なのだ。そして衰退した都市的地域は、最悪の場合スラム化する。
であるから、工場誘致はリスキーだというわけである。
にしても、ケインズがいうように「長期的にみたら我々は全て死んでいる」のであり、衰退した後のことまで考えて経済発展を躊躇するのは深謀遠慮が過ぎる。せいぜい、工場による景気は一時的なものだから、経済が盛んなうちに地域の自生的な産業を育成しましょう、という教訓として受け取るのがよいと思う。
というわけで、著者は工場誘致に対して否定的で、地域の経済発展の原動力になりえないという立場を取るが、私はそれには懐疑的である。
ただ、工場誘致が次善の策であることも事実だし、それ以上に重要なことは、決して、望み通りのおあつらえ向きな工場が、都合よく来てくれるわけがないという非情なる現実である。いつまでも工場が移入してこないことを不満に思うくらいなら、持てる力を自分たちで使うべきだ。
日本各地に、入居者待ちの「工業団地」がある。定員一杯というのは稀だろう。広い区画が丸々空いていることも多い。そういう土地をいつまでも遊ばせておくより、それを地域の人びとで使うべきだ。資本がない、人材がいない、販路がない、ノウハウがない。商売を始めない理由なら山ほどある。しかし地域を発展させる根源的な力は、地域の人びとの中にしかない。工場誘致はそれが表出するきっかけを作るだけなのだ。
2014年12月11日木曜日
2014年12月9日火曜日
経済が発展する原動力(その1)
「地方創生」が話題になっている。
地方経済の発展というのは、もう何十年も前から「喫緊の課題」とされていて、それこそ「国土の均衡ある発展」(by田中角栄)とか、これまでも様々な面で唱導されてきた、ある意味で使い古された政策課題である。しかし落日の途(みち)にある日本にとっては、改めて重要な課題であることも間違いない。
私は、地方経済を発展させるには国家レベルではどうしたらよいか、ということに関してはある明解な考えを持っているが、それについては後日述べるとして、地方のレベルでどうしたらよいかについて最近読んだ本を紹介しつつ考えてみたいと思う。
それは、『発展する地域 衰退する地域』(ジェイン・ジェイコブス著)という本である。本書は、経済発展と衰退のダイナミズムを都市を単位として物語るもので、その内容については読書メモ(別ブログ)の方にも書いておいた(本稿と重なる部分もある。読書メモは自分のために書いているので)。
さて、いきなり本題に入るが、経済が発展する原動力はなんだろうか? もう少しイメージが湧くように述べれば、田んぼと僅かな人家しかなかったような村に、工場が建ち、商店が並び、鉄道が通るようになる、その根底にはどのような力が働いているのだろうか?
その原動力を、著者は「輸入置換」という現象に見る。輸入置換とは、これまで他の都市から輸入されていた財を、自ら生産するようになること、つまり「輸入品を地場品で置換すること」である。
先ほど例で言えば、その村は文明的な生活を送るために必要な財を、都市部からの購入に頼っているのは確実だ。そのうちのただ一つ——例えば玄関マットやヤカンのような単純な品——だけでも、村で作るようになれば、それまでその購入に充てていた費用を節約して、他のモノの購入に振り向けることができるし、なにより玄関マットやヤカン製造のための雇用も生まれるというわけである。こうした自給できる物品が次々に増えていけば、そこは次第に都市的な地域へと変貌していくであろう。
しかし、「輸入置換」を成長の原動力と見るこの考えを、額面通りに受け取るわけにはいかない。なぜなら、マクロ経済学の基本的な考えの一つに「比較優位」というものがあって、要するに、相対的に容易に生産できるものに労働力を集中した方が経済は効率的になるからである。
先ほどの村に立ち返ると、玄関マットやヤカンといった、これまで全くノウハウも設備もないものの製造に手を出すより、村の特産品(例えばお米)の生産と販売に精を出す方が全体として儲かるというわけである。玄関マットやヤカンは都市から購入するにしても安価でよいものが手に入るのに、わざわざ村で自給しようとすれば逆に高くついてしまうことは容易に想像できる。
この考えは実際に農村の地域振興においてもよく見られる。特産品の生産に力を入れることで、集荷場や販売の体系が確立しその生産・販売活動も効率的になり、村の経済も全体として効率的になるのである。
しかし、この点に関して著者は強く異議申し立てするのである。もし、この特産品に注力する経済が効率的であるとすれば、第三世界の農村地域にあるモノカルチャー経済が最も効率的だということになる。ひたすらカカオ豆の生産だけをするような、コートジボアールの村が世界で一番効率的な経済体であるということになってしまわないか。
そういう経済がよしんば「効率的」だとしても、発展の展望はほとんどないのは明らかだ。要するにそういう経済は、短期的・近視眼的に「効率的」であるに過ぎない。
著者は力強く、「住民のそれぞれの技術、関心、創造力に応えるような様々の適切な場がないような経済は、効率的でない」と断定する。確かにそうだと思う。特産品の生産がいくら儲かる仕事だったとしても、ひたすら同じことを繰り返すだけの経済には、個人の才覚を活かす場がなく、そこには発展の余地がない。発展の余地を残すためには、生産物を多様化することが是非とも必要だ。
だから、発展を目指すためには、少々無様で非効率的であっても、玄関マットやヤカンを生産するという段階に入らなくてはならないのである。しかしそれは簡単ではない。先進都市には普通にあるような環境(下請け工場など)は村にはないし、設備や材料も手に入らないことがある。だから、あり合わせのもので工夫して製造していく必要がある。そういう即興的な工夫を、著者は「インプロヴィゼーション」と呼ぶ。
玄関マットやヤカンを物財の乏しい村で生産するとなれば、都市で作られるようなおしゃれで機能的な商品ではなく、村に豊富にあるような材料を使うなどして、普通のそれとは違う特徴を持った商品になるに違いない。あり合わせのものでなんとかする工夫が新しい商品を生む。つまり、不利な中で生産することそのものが、事業家の創造力を惹起する。
主流派経済学においても、経済成長の原動力は広い意味での「技術革新」にあるとされている。 「広い意味での」というのは、これまで縦に置いていたものを横に置く、というような工夫も含めて「技術革新」としているからである。経済学では経済の生産性のうち、資本と労働の生産性に帰すことが出来ない部分をひっくるめて「全要素生産性(TFP)」と呼んでいて、経済成長のためには(資本と労働の生産性はほとんど前提条件的で、かつ相補的な動きをするため)この全要素生産性を高めることが要諦なのだ。
換言すれば、経済成長というのは、大小様々な「技術革新」の積み重ねによって達成できるのである。しかし問題が一つある。どうやったら技術革新が次々生まれるように出来るのか、その処方箋の全体像は解明されていないのだ。
その処方箋の一つは教育だと考えられている。高度な教育を受けた人材が多い経済は、そうでないところに比べ技術革新が起きやすいであろう。規制緩和も処方箋の一つである。
著者のいう「輸入置換」も、そういう処方箋の一つに位置づけられるのかもしれない。不利な中で財を自給することそのものが、「インプロヴィゼーション」すなわち創意工夫を呼び起こすからである。
もちろん、このことも額面通りには受け取れない。地方的都市で自給する商品は、都市で生産されているそれに比べ、性能が劣ったり、価格が高かったり、見た目がよくなかったりする。生産過程でいくらインプロヴィゼーションがあったとしても、結果として都市の作る製品に比べ、競争力が劣っていることがままある。ということで、いくら頑張って作っても、売れなかったら事業は続かない。流通が不完全だった50年前だったらどうかわからないが、クリック一つで大概のものが買える現代においては、ここが大問題である。
この点に関して、著者は何も述べていない。試行錯誤がなければ成功はないのだから、ともかく試行錯誤が大事なのだ、ということなのかもしれない。しかし生産物を多様化するという目的を考えてみると、経済の自給率を高めるという「輸入置換」だけが発展の原動力でもなかろうと思う。
むしろ、最近の流行りで言えば、最初から販売ターゲットを都市にして、「都市住民に受ける商品」を開発する方が得になるのではなかろうか? ある種の農村にとっては、都市から安価で購入できるものを苦労して自給するより、都市に作れない、農村的な(しかもセンスがいい)ものを作る方が儲かるのは明らかだ。
これについても著者は何も述べていない。しかし、著者の論じる「地域」というのは、日本で言うと「鹿児島県」くらいのスコープを持つものである。確かに南さつま市くらいの狭い地域を考えると経済の自給率を高めるよりも、都会で売れる商品を作る方が経済発展に重要だ。だが鹿児島県全体で見た時、都会で売れるものだけを作っていては経済は発展しないだろう。
なぜなら、そういうやり方だけで発展が維持できるほど、鹿児島県は小さくないからである。そしてもっと重要なことに、巨大な需要を持った活気ある都市はほんの僅かしかないが、そこにものを売りたいという供給地域はものすごく多い。活気ある都市(たぶん日本では東京だろう)は、たくさんある供給地域からそれぞれ最良の商品だけを選ぶわけで、経済発展のフィールドがそれしかないとすれば、とんでもない競争になってしまい、そこに勝ち残るのはどの地域にとっても困難なことである。
だから、鹿児島県くらいのレベルで考えると、「輸入置換」は必要なのだ。つまり、(再三の説明にはなるが)経済が自給できるものを増やし、生産品を多様化させ、それによって人びとの創意工夫を呼び起こすことが重要なのである。そしてこの中で最も重要なことは、経済発展の根本には、「創意工夫」があるということである。ある意味ではその前段部分は「創意工夫」のためのお膳立てをしているに過ぎない。
翻って我々が考えなくてはならないのは、地方自治体や経済団体はその発展のために、どのような施策を行っているのだろうかということだ。人びとから創意工夫を引き出す取組をどれくらい行っているだろうか?
いや、地方に生きる我々一人ひとりが、「創造的な環境」を創り出す努力をしているだろうか? ということも考えなくてはならないのかもしれない。
(つづく)
地方経済の発展というのは、もう何十年も前から「喫緊の課題」とされていて、それこそ「国土の均衡ある発展」(by田中角栄)とか、これまでも様々な面で唱導されてきた、ある意味で使い古された政策課題である。しかし落日の途(みち)にある日本にとっては、改めて重要な課題であることも間違いない。
私は、地方経済を発展させるには国家レベルではどうしたらよいか、ということに関してはある明解な考えを持っているが、それについては後日述べるとして、地方のレベルでどうしたらよいかについて最近読んだ本を紹介しつつ考えてみたいと思う。
それは、『発展する地域 衰退する地域』(ジェイン・ジェイコブス著)という本である。本書は、経済発展と衰退のダイナミズムを都市を単位として物語るもので、その内容については読書メモ(別ブログ)の方にも書いておいた(本稿と重なる部分もある。読書メモは自分のために書いているので)。
さて、いきなり本題に入るが、経済が発展する原動力はなんだろうか? もう少しイメージが湧くように述べれば、田んぼと僅かな人家しかなかったような村に、工場が建ち、商店が並び、鉄道が通るようになる、その根底にはどのような力が働いているのだろうか?
その原動力を、著者は「輸入置換」という現象に見る。輸入置換とは、これまで他の都市から輸入されていた財を、自ら生産するようになること、つまり「輸入品を地場品で置換すること」である。
先ほど例で言えば、その村は文明的な生活を送るために必要な財を、都市部からの購入に頼っているのは確実だ。そのうちのただ一つ——例えば玄関マットやヤカンのような単純な品——だけでも、村で作るようになれば、それまでその購入に充てていた費用を節約して、他のモノの購入に振り向けることができるし、なにより玄関マットやヤカン製造のための雇用も生まれるというわけである。こうした自給できる物品が次々に増えていけば、そこは次第に都市的な地域へと変貌していくであろう。
しかし、「輸入置換」を成長の原動力と見るこの考えを、額面通りに受け取るわけにはいかない。なぜなら、マクロ経済学の基本的な考えの一つに「比較優位」というものがあって、要するに、相対的に容易に生産できるものに労働力を集中した方が経済は効率的になるからである。
先ほどの村に立ち返ると、玄関マットやヤカンといった、これまで全くノウハウも設備もないものの製造に手を出すより、村の特産品(例えばお米)の生産と販売に精を出す方が全体として儲かるというわけである。玄関マットやヤカンは都市から購入するにしても安価でよいものが手に入るのに、わざわざ村で自給しようとすれば逆に高くついてしまうことは容易に想像できる。
この考えは実際に農村の地域振興においてもよく見られる。特産品の生産に力を入れることで、集荷場や販売の体系が確立しその生産・販売活動も効率的になり、村の経済も全体として効率的になるのである。
しかし、この点に関して著者は強く異議申し立てするのである。もし、この特産品に注力する経済が効率的であるとすれば、第三世界の農村地域にあるモノカルチャー経済が最も効率的だということになる。ひたすらカカオ豆の生産だけをするような、コートジボアールの村が世界で一番効率的な経済体であるということになってしまわないか。
そういう経済がよしんば「効率的」だとしても、発展の展望はほとんどないのは明らかだ。要するにそういう経済は、短期的・近視眼的に「効率的」であるに過ぎない。
著者は力強く、「住民のそれぞれの技術、関心、創造力に応えるような様々の適切な場がないような経済は、効率的でない」と断定する。確かにそうだと思う。特産品の生産がいくら儲かる仕事だったとしても、ひたすら同じことを繰り返すだけの経済には、個人の才覚を活かす場がなく、そこには発展の余地がない。発展の余地を残すためには、生産物を多様化することが是非とも必要だ。
だから、発展を目指すためには、少々無様で非効率的であっても、玄関マットやヤカンを生産するという段階に入らなくてはならないのである。しかしそれは簡単ではない。先進都市には普通にあるような環境(下請け工場など)は村にはないし、設備や材料も手に入らないことがある。だから、あり合わせのもので工夫して製造していく必要がある。そういう即興的な工夫を、著者は「インプロヴィゼーション」と呼ぶ。
玄関マットやヤカンを物財の乏しい村で生産するとなれば、都市で作られるようなおしゃれで機能的な商品ではなく、村に豊富にあるような材料を使うなどして、普通のそれとは違う特徴を持った商品になるに違いない。あり合わせのものでなんとかする工夫が新しい商品を生む。つまり、不利な中で生産することそのものが、事業家の創造力を惹起する。
主流派経済学においても、経済成長の原動力は広い意味での「技術革新」にあるとされている。 「広い意味での」というのは、これまで縦に置いていたものを横に置く、というような工夫も含めて「技術革新」としているからである。経済学では経済の生産性のうち、資本と労働の生産性に帰すことが出来ない部分をひっくるめて「全要素生産性(TFP)」と呼んでいて、経済成長のためには(資本と労働の生産性はほとんど前提条件的で、かつ相補的な動きをするため)この全要素生産性を高めることが要諦なのだ。
換言すれば、経済成長というのは、大小様々な「技術革新」の積み重ねによって達成できるのである。しかし問題が一つある。どうやったら技術革新が次々生まれるように出来るのか、その処方箋の全体像は解明されていないのだ。
その処方箋の一つは教育だと考えられている。高度な教育を受けた人材が多い経済は、そうでないところに比べ技術革新が起きやすいであろう。規制緩和も処方箋の一つである。
著者のいう「輸入置換」も、そういう処方箋の一つに位置づけられるのかもしれない。不利な中で財を自給することそのものが、「インプロヴィゼーション」すなわち創意工夫を呼び起こすからである。
もちろん、このことも額面通りには受け取れない。地方的都市で自給する商品は、都市で生産されているそれに比べ、性能が劣ったり、価格が高かったり、見た目がよくなかったりする。生産過程でいくらインプロヴィゼーションがあったとしても、結果として都市の作る製品に比べ、競争力が劣っていることがままある。ということで、いくら頑張って作っても、売れなかったら事業は続かない。流通が不完全だった50年前だったらどうかわからないが、クリック一つで大概のものが買える現代においては、ここが大問題である。
この点に関して、著者は何も述べていない。試行錯誤がなければ成功はないのだから、ともかく試行錯誤が大事なのだ、ということなのかもしれない。しかし生産物を多様化するという目的を考えてみると、経済の自給率を高めるという「輸入置換」だけが発展の原動力でもなかろうと思う。
むしろ、最近の流行りで言えば、最初から販売ターゲットを都市にして、「都市住民に受ける商品」を開発する方が得になるのではなかろうか? ある種の農村にとっては、都市から安価で購入できるものを苦労して自給するより、都市に作れない、農村的な(しかもセンスがいい)ものを作る方が儲かるのは明らかだ。
これについても著者は何も述べていない。しかし、著者の論じる「地域」というのは、日本で言うと「鹿児島県」くらいのスコープを持つものである。確かに南さつま市くらいの狭い地域を考えると経済の自給率を高めるよりも、都会で売れる商品を作る方が経済発展に重要だ。だが鹿児島県全体で見た時、都会で売れるものだけを作っていては経済は発展しないだろう。
なぜなら、そういうやり方だけで発展が維持できるほど、鹿児島県は小さくないからである。そしてもっと重要なことに、巨大な需要を持った活気ある都市はほんの僅かしかないが、そこにものを売りたいという供給地域はものすごく多い。活気ある都市(たぶん日本では東京だろう)は、たくさんある供給地域からそれぞれ最良の商品だけを選ぶわけで、経済発展のフィールドがそれしかないとすれば、とんでもない競争になってしまい、そこに勝ち残るのはどの地域にとっても困難なことである。
だから、鹿児島県くらいのレベルで考えると、「輸入置換」は必要なのだ。つまり、(再三の説明にはなるが)経済が自給できるものを増やし、生産品を多様化させ、それによって人びとの創意工夫を呼び起こすことが重要なのである。そしてこの中で最も重要なことは、経済発展の根本には、「創意工夫」があるということである。ある意味ではその前段部分は「創意工夫」のためのお膳立てをしているに過ぎない。
翻って我々が考えなくてはならないのは、地方自治体や経済団体はその発展のために、どのような施策を行っているのだろうかということだ。人びとから創意工夫を引き出す取組をどれくらい行っているだろうか?
いや、地方に生きる我々一人ひとりが、「創造的な環境」を創り出す努力をしているだろうか? ということも考えなくてはならないのかもしれない。
(つづく)
2014年12月1日月曜日
大正時代の本棚がうちに来ました
先日、大叔母の身辺整理を手伝った。身辺整理というか、「もう家財道具のほとんどはいらない、何か欲しいものがあったら持っていって」というので、ただもらいに行ったという方が正しい。
それで、なかなか味のある本棚をもらってきた!
話を聞いてみると、これは元々私の曾祖父が持っていたもので、それを大叔父が引き継ぎ、それをさらに大叔母がもらったものらしい。話が随分ややこしいが、要は私の曾祖父の遺品の一つである。
(もう随分前に死んだ人だから名前を出してもいいと思うが)この本棚の持ち主であった私の曾祖父は丹下 栄之丞(えいのじょう)という人で、名門に生まれながら生来の冒険心の赴くままに生きて随分家族に苦労させたそうである。
例えば、錫鉱山の開発をしようと錫山を購入したものの、結局錫が出なくて大損したとか(ちゃんと調査せずに買ったんだろうか?)。他にも新規事業に手を出して無一文になったこともあるらしい。無一文になった曾祖父は、ツテから口永良部島の島守(しまもり)の職について家族で島へ移住したそうだ。「島守」というのが具体的になんなのか分からないが、大叔母によれば町長の次席にあたるもので、他の親戚によると竹林造成に関係する職だったともいう。
そんなわけで私の祖母は、口永良部島(屋久島の少し西にある島です)で少女時代を過ごし、一日三食とも魚を食べて育ったそうである。
ところで丹下家というのがどういう家柄なのかイマイチよく分からないのだが、丹下栄之丞は第11代目にあたり、初代は文久2年(1862年)に死んだ丹下 仙左衛門という人。丹下家の分家には女性で初めて帝国大学を卒業した丹下 梅子もいる。それなりの家格がある武家だったようである。
私は、そういう家系図的なことはさほど関心がないけれども、昔話は好きである。その栄之丞という人が、好き勝手して身代を取りつぶした話なんかは面白い。冒険心はあったがお人好しですぐに騙されるような人だったらしく、事業家には全然向いていなかったそうだ。ついでに言うと、その奥さん(つまり私の曾祖母)の方が立派な人だったということで、大叔母などが生きているうちにもっと話を聞いておきたいと思う。
ともかく、この本棚はそういういわれでもらってきたものである。ざっと考えて、丹下栄之丞は今から90年くらい前の人になるから、この本棚は約100年前の大正時代のものと考えて差し支えないだろう。蔵書も込みでもらってきたが(というのは、蔵書も不要なため処分してほしいとのことで)明治20年代の万葉集の注解書があったので、これはもしかしたら栄之丞の蔵書だったのではないかと夢想した次第である。
約100年前の(一般的な感覚からは)ぼろい書棚といっても、作りが非常にしっかりしていてガタピシ感もないし、何より古民家の我が家にぴったりだ。ステキな本棚が手に入ったので、これから本が入っていくのが楽しみである。
それで、なかなか味のある本棚をもらってきた!
話を聞いてみると、これは元々私の曾祖父が持っていたもので、それを大叔父が引き継ぎ、それをさらに大叔母がもらったものらしい。話が随分ややこしいが、要は私の曾祖父の遺品の一つである。
(もう随分前に死んだ人だから名前を出してもいいと思うが)この本棚の持ち主であった私の曾祖父は丹下 栄之丞(えいのじょう)という人で、名門に生まれながら生来の冒険心の赴くままに生きて随分家族に苦労させたそうである。
例えば、錫鉱山の開発をしようと錫山を購入したものの、結局錫が出なくて大損したとか(ちゃんと調査せずに買ったんだろうか?)。他にも新規事業に手を出して無一文になったこともあるらしい。無一文になった曾祖父は、ツテから口永良部島の島守(しまもり)の職について家族で島へ移住したそうだ。「島守」というのが具体的になんなのか分からないが、大叔母によれば町長の次席にあたるもので、他の親戚によると竹林造成に関係する職だったともいう。
そんなわけで私の祖母は、口永良部島(屋久島の少し西にある島です)で少女時代を過ごし、一日三食とも魚を食べて育ったそうである。
ところで丹下家というのがどういう家柄なのかイマイチよく分からないのだが、丹下栄之丞は第11代目にあたり、初代は文久2年(1862年)に死んだ丹下 仙左衛門という人。丹下家の分家には女性で初めて帝国大学を卒業した丹下 梅子もいる。それなりの家格がある武家だったようである。
私は、そういう家系図的なことはさほど関心がないけれども、昔話は好きである。その栄之丞という人が、好き勝手して身代を取りつぶした話なんかは面白い。冒険心はあったがお人好しですぐに騙されるような人だったらしく、事業家には全然向いていなかったそうだ。ついでに言うと、その奥さん(つまり私の曾祖母)の方が立派な人だったということで、大叔母などが生きているうちにもっと話を聞いておきたいと思う。
ともかく、この本棚はそういういわれでもらってきたものである。ざっと考えて、丹下栄之丞は今から90年くらい前の人になるから、この本棚は約100年前の大正時代のものと考えて差し支えないだろう。蔵書も込みでもらってきたが(というのは、蔵書も不要なため処分してほしいとのことで)明治20年代の万葉集の注解書があったので、これはもしかしたら栄之丞の蔵書だったのではないかと夢想した次第である。
約100年前の(一般的な感覚からは)ぼろい書棚といっても、作りが非常にしっかりしていてガタピシ感もないし、何より古民家の我が家にぴったりだ。ステキな本棚が手に入ったので、これから本が入っていくのが楽しみである。
2014年11月30日日曜日
農産物直売所の視察へ行って
先日、農産物直売所(物産館)の視察研修に行った。
地元の物産館「大浦ふるさとくじら館」を盛り上げるために、その出荷登録者会の研修として見聞を広めに行ったわけだ。
巡ったのは、鹿児島市吉野の「ごしょらん」、吉田の「輝楽里(きらり)よしだ館」、郡山の「八重の里」である。それぞれがどんなところだったかということはさておいて、これらを見た上で物産館の運営について思ったことを備忘のためにまとめておきたい。
その1:出荷者と店とのコミュニケーションは重要。物産館と普通の八百屋さんとの一番の違いは何かというと、仕入れるものを店側が選べない、ということである。物産館は委託販売なので、基本的に出荷者が持ってくるものがそのまま並んでいる。それだけでは足りなくて、店側が仕入れ品を置くこともあるが、それはあくまで例外的な対応である。
フリーマーケットなども含め少しでも小売の経験がある人は、何をどれくらい仕入れるかがいかに売り上げを左右するかを知っていると思う。だが物産館というのは、小売業では非常に大切な「仕入れ」の部分に自由がきかない。特に農産物の場合、収穫時は地域で大体一緒なのでモノがある時期は大量に存在し、ない時期は全然ない、ということが起こりうる。
ではそれをどうやって克服するかというと、出荷者と店とのコミュニケーションしかない。出荷時期をそれぞれの生産者でずらしてもらう、という対応が理想だがそうでないとしても、作付面積の把握をしてそれを一覧表にするだけで各生産者がいろいろと考えるだろうし、ただ「春のキャベツが毎年不足気味なんですよ〜」とか言ってもらうだけで生産者のモチベーションが変わってくると思う。
その2:店としての統一感は重要。物産館というのは多様性がある場所である。いろんな出荷者がめいめいに農産物を持ってくるわけだから、大根一つとってもいろんなものが存在しうる。それが八百屋さんと違うところであり、いいところでもある。だが一方で、それは陳列された商品に散漫さをももたらす。その「散漫さ」を排除してしまったら物産館のいいところが減ってしまうので、散漫なのは仕方がない。
でもやはり、店として統一感はあった方がいい。それは「うちはこんな店でありたい」という基本路線の表明だと思う。例えば、「かぼちゃ」とか「大根」とかのプレートの文字(フォント)一つとってもその表明の一部だ。POPなんかを生産者が自由に置いてよいというのはいいと思うが、ただでさえ物産館はバラバラの生産者が自由に商品を置いているわけだから、なんでもござれではなくて店としての雰囲気作りが重要だと思った。
その3:運営に十分なスペースを確保するのが必要。各地の物産館を見てみても、建物に不具合があることが多いように感じる。不必要に立派な吹き抜けとか、モニュメンタルな(記憶に残るような)正面の構えとか、そういうことに予算が使われていて、あまり運営のことを考えずに設計されたような建物が散見される。小売業のことをあまり知らない人が企画・設計しているのかもしれない。
特に、裏方となる管理スペースが狭すぎることが多い。私の感覚だと、売り場面積の1/3くらいの広さの管理スペース(事務所、倉庫、作業場など)は必須だと思うが、なかなかそういうスペースが準備されていない。このために、お客さんからすると少しみっともない部分までが表に出てきてしまっている状況があるのではないか。
我が「大浦ふるさとくじら館」も、店舗の動線が悪いとか、出荷者が農産物を持ち込んだりバーコードを張るスペースがないとか、いろいろ設計上の問題を抱えている。どこの物産館も似たようなものだ、と達観することなく、運営に必要なスペースを確保したり、設備の問題を解決したりする努力は続けて行かなければならないと感じた。
その4:「大浦ふるさとくじら館」にもいいところがある。これまでも「くじら館」について取り上げたことがあるが、あまりいいことを書いていなかった気がする。だが、他の物産館を見てみると「くじら館」の可能性も捨てたものではないと思う。一番可能性を感じるのは周辺に気持ちのよい芝生スペースがあることで、ここを利用して小規模なイベントをしたら随分面白いことができそうだ。普段の出荷者の枠を超えたフリーマーケットとかやってみたらどうか。
また、裏手に観光農園(あまり利用されていない)があるのも面白い。正直この立地で観光農園は厳しいし、土質があまりよくないと言われているが、しっかりとした管理者がいたら物産館と相乗効果を生む企画ができそうだ。
あと、そもそも「南さつま海道八景(景色がすばらしい国道226号線のエリア)」の入り口に立地しているというのも重要だ。今「くじら館」には観光案内所的な機能はほとんどないが、この立地を活かして観光と絡めた企画ができれば、(収益は別にして)観光客に喜ばれることになるだろう。例えば、「ふるさとくじら館」のFacebookページを立ち上げて観光客からの投稿写真を募り、写真をその場で投稿してくれた人にはオマケをあげるとかできたら面白い。そこまでしなくても、せめて観光パンフ類をきれいに陳列しておけばそれなりに利用されると思う。
ただ、ここで述べたこと全てについて言えることだが、積極的な企画を打っていくためにはそれなりのリーダーが必要である。今の「ふるさとくじら館」には店長が不在であり、何をするにしてもその点がネックになる。でも店長がいないから何もできない、と諦めていたら何も進まない。
私も、これまで物産館にはあまり農産物を出していなかったが、来年からは物産館用として少し野菜を作ってみたい。もちろん「南薩の田舎暮らし」の加工品ももう少し出荷を増やしていく(はず)。出荷者の立場から、何らかの貢献ができたらと思っている。
地元の物産館「大浦ふるさとくじら館」を盛り上げるために、その出荷登録者会の研修として見聞を広めに行ったわけだ。
巡ったのは、鹿児島市吉野の「ごしょらん」、吉田の「輝楽里(きらり)よしだ館」、郡山の「八重の里」である。それぞれがどんなところだったかということはさておいて、これらを見た上で物産館の運営について思ったことを備忘のためにまとめておきたい。
その1:出荷者と店とのコミュニケーションは重要。物産館と普通の八百屋さんとの一番の違いは何かというと、仕入れるものを店側が選べない、ということである。物産館は委託販売なので、基本的に出荷者が持ってくるものがそのまま並んでいる。それだけでは足りなくて、店側が仕入れ品を置くこともあるが、それはあくまで例外的な対応である。
フリーマーケットなども含め少しでも小売の経験がある人は、何をどれくらい仕入れるかがいかに売り上げを左右するかを知っていると思う。だが物産館というのは、小売業では非常に大切な「仕入れ」の部分に自由がきかない。特に農産物の場合、収穫時は地域で大体一緒なのでモノがある時期は大量に存在し、ない時期は全然ない、ということが起こりうる。
ではそれをどうやって克服するかというと、出荷者と店とのコミュニケーションしかない。出荷時期をそれぞれの生産者でずらしてもらう、という対応が理想だがそうでないとしても、作付面積の把握をしてそれを一覧表にするだけで各生産者がいろいろと考えるだろうし、ただ「春のキャベツが毎年不足気味なんですよ〜」とか言ってもらうだけで生産者のモチベーションが変わってくると思う。
その2:店としての統一感は重要。物産館というのは多様性がある場所である。いろんな出荷者がめいめいに農産物を持ってくるわけだから、大根一つとってもいろんなものが存在しうる。それが八百屋さんと違うところであり、いいところでもある。だが一方で、それは陳列された商品に散漫さをももたらす。その「散漫さ」を排除してしまったら物産館のいいところが減ってしまうので、散漫なのは仕方がない。
でもやはり、店として統一感はあった方がいい。それは「うちはこんな店でありたい」という基本路線の表明だと思う。例えば、「かぼちゃ」とか「大根」とかのプレートの文字(フォント)一つとってもその表明の一部だ。POPなんかを生産者が自由に置いてよいというのはいいと思うが、ただでさえ物産館はバラバラの生産者が自由に商品を置いているわけだから、なんでもござれではなくて店としての雰囲気作りが重要だと思った。
その3:運営に十分なスペースを確保するのが必要。各地の物産館を見てみても、建物に不具合があることが多いように感じる。不必要に立派な吹き抜けとか、モニュメンタルな(記憶に残るような)正面の構えとか、そういうことに予算が使われていて、あまり運営のことを考えずに設計されたような建物が散見される。小売業のことをあまり知らない人が企画・設計しているのかもしれない。
特に、裏方となる管理スペースが狭すぎることが多い。私の感覚だと、売り場面積の1/3くらいの広さの管理スペース(事務所、倉庫、作業場など)は必須だと思うが、なかなかそういうスペースが準備されていない。このために、お客さんからすると少しみっともない部分までが表に出てきてしまっている状況があるのではないか。
我が「大浦ふるさとくじら館」も、店舗の動線が悪いとか、出荷者が農産物を持ち込んだりバーコードを張るスペースがないとか、いろいろ設計上の問題を抱えている。どこの物産館も似たようなものだ、と達観することなく、運営に必要なスペースを確保したり、設備の問題を解決したりする努力は続けて行かなければならないと感じた。
その4:「大浦ふるさとくじら館」にもいいところがある。これまでも「くじら館」について取り上げたことがあるが、あまりいいことを書いていなかった気がする。だが、他の物産館を見てみると「くじら館」の可能性も捨てたものではないと思う。一番可能性を感じるのは周辺に気持ちのよい芝生スペースがあることで、ここを利用して小規模なイベントをしたら随分面白いことができそうだ。普段の出荷者の枠を超えたフリーマーケットとかやってみたらどうか。
また、裏手に観光農園(あまり利用されていない)があるのも面白い。正直この立地で観光農園は厳しいし、土質があまりよくないと言われているが、しっかりとした管理者がいたら物産館と相乗効果を生む企画ができそうだ。
あと、そもそも「南さつま海道八景(景色がすばらしい国道226号線のエリア)」の入り口に立地しているというのも重要だ。今「くじら館」には観光案内所的な機能はほとんどないが、この立地を活かして観光と絡めた企画ができれば、(収益は別にして)観光客に喜ばれることになるだろう。例えば、「ふるさとくじら館」のFacebookページを立ち上げて観光客からの投稿写真を募り、写真をその場で投稿してくれた人にはオマケをあげるとかできたら面白い。そこまでしなくても、せめて観光パンフ類をきれいに陳列しておけばそれなりに利用されると思う。
ただ、ここで述べたこと全てについて言えることだが、積極的な企画を打っていくためにはそれなりのリーダーが必要である。今の「ふるさとくじら館」には店長が不在であり、何をするにしてもその点がネックになる。でも店長がいないから何もできない、と諦めていたら何も進まない。
私も、これまで物産館にはあまり農産物を出していなかったが、来年からは物産館用として少し野菜を作ってみたい。もちろん「南薩の田舎暮らし」の加工品ももう少し出荷を増やしていく(はず)。出荷者の立場から、何らかの貢献ができたらと思っている。
2014年11月26日水曜日
1杯20円でコーヒーが飲める"Ura Cafe"が大浦にオープンしています
ひっそりと、我が大浦町にカフェがオープンしているのをご存じだろうか。
それは、役場(南さつま市役所大浦支所)の1階トイレの隣にある、給湯室の一角にある。その名も"Ura Cafe"。「おおうら」にあるからウラカフェ。ロゴもなかなかおしゃれ。
一見、これは役場の福利厚生の一部で職員のためのコーヒーサーバーみたいに見えるのだが、実は誰でもたったの20円払えばコーヒーを飲むことができる歴(レッキ)としたカフェなのだ!
実は、ここの役場がネスカフェアンバサダーになっていてこの機械が置いてあるのである。ネスカフェアンバサダーというのは、簡単に言うとこの機械(バリスタという)をタダで設置させてもらい、職場などにコーヒーを提供する仕組みのことである。
で、全国には何千とこの機械が置いてある職場があるのだと思うが、ネスカフェでは「ネスカフェアンバサダー投稿コミュニティ」というのを運営していて、まあ要は「アンバサダーになるとこんなステキなコーヒーライフが待ってます!」というアピールをしている。そしてなんとその「担当者がえらんだナイス投稿」のトップに、このUra Cafeが絶賛掲載中である!(2014年11月26日現在:スクリーンショットはこちら)
この、トイレの隣にひっそりと存在していて、大浦町民にもほとんど知られていないであろうUra Cafeが、ネスカフェのWEBサイトに堂々と表示されているのはなんだか不思議な気分である。こういうことがあるからインターネットの発信というのは面白い。
というわけで、南さつま市役所大浦支所に用事があった時は、このUra Cafeでコーヒーを飲むのがオススメである。何しろ、繰り返すがたったの一杯20円!近くにある自販機の設置者から苦情が来るレベルである。かくいう私も役場に行くときはなんだかバタバタしている時が多く、実はまだUra Cafeを利用したことがないのだが(…)役場に行く楽しみが増えた。
それは、役場(南さつま市役所大浦支所)の1階トイレの隣にある、給湯室の一角にある。その名も"Ura Cafe"。「おおうら」にあるからウラカフェ。ロゴもなかなかおしゃれ。
一見、これは役場の福利厚生の一部で職員のためのコーヒーサーバーみたいに見えるのだが、実は誰でもたったの20円払えばコーヒーを飲むことができる歴(レッキ)としたカフェなのだ!
実は、ここの役場がネスカフェアンバサダーになっていてこの機械が置いてあるのである。ネスカフェアンバサダーというのは、簡単に言うとこの機械(バリスタという)をタダで設置させてもらい、職場などにコーヒーを提供する仕組みのことである。
で、全国には何千とこの機械が置いてある職場があるのだと思うが、ネスカフェでは「ネスカフェアンバサダー投稿コミュニティ」というのを運営していて、まあ要は「アンバサダーになるとこんなステキなコーヒーライフが待ってます!」というアピールをしている。そしてなんとその「担当者がえらんだナイス投稿」のトップに、このUra Cafeが絶賛掲載中である!(2014年11月26日現在:スクリーンショットはこちら)
この、トイレの隣にひっそりと存在していて、大浦町民にもほとんど知られていないであろうUra Cafeが、ネスカフェのWEBサイトに堂々と表示されているのはなんだか不思議な気分である。こういうことがあるからインターネットの発信というのは面白い。
というわけで、南さつま市役所大浦支所に用事があった時は、このUra Cafeでコーヒーを飲むのがオススメである。何しろ、繰り返すがたったの一杯20円!近くにある自販機の設置者から苦情が来るレベルである。かくいう私も役場に行くときはなんだかバタバタしている時が多く、実はまだUra Cafeを利用したことがないのだが(…)役場に行く楽しみが増えた。
2014年11月25日火曜日
「海の見える美術館で珈琲を飲む会」みなさんありがとうございました!
11月23日、無事「海の見える美術館で珈琲を飲む会」を盛会の裡に終了することができました!
当日は、午後は少し雲も出てきて夕日が見られなかったのが憾みではあるものの、割合に天気にも恵まれた。正確にカウントしていないが、多分120人くらいの来館者があったと思う。子どもも入れると140人くらいになるだろうか。
この場を借りて、来館した方、開催に当たってご協力いただいた方、告知にご協力いただいた方など関わりがあった全ての方にお礼を申し上げます。ありがとうございました!
また、会を通じてご縁をいただいた方もたくさんいて本当に嬉しかった。Twitterだけでの知り合いに実際に会えたり(しかも2人も!)、地元にいながらお互いに知らなかった人と知り合えたりもした。特に、地元の全く知らない若い女性3人組が来てくれたのは心に残った。地元の暮らしを楽しくしたいという思いがあってやっていることなので、地元の人が喜んでくれるのはとてもありがたい。
もちろん、鹿児島市内からわざわざ来てくれたお客さんはもっとありがたい。初めて笠沙の景観に触れた人もけっこういたのではないかと思うが、いかがだっただろうか? これを機に、南薩の素晴らしい景色のファンになってくれたら望外の喜びである。
それから、当日はカンパ制ということでカンパボックスを設置させてもらったが(なにしろ参加費200円だけだと少し赤字になるので)、たくさんのカンパをいただき、写真展を担当してくれた海来館さんにも少しだが経費を渡すことができた(でも海来館さんはだいぶ赤字になってしまったのではないかと心配)。カンパをいただいた皆さん、本当にありがとうございました!
でも次回(次回もやりますよ!)もカンパ制というわけにもいかないので、カンパをいただかなくてもペイするように工夫がいると思う。イベント事というのは赤字だと続けることが難しい。タダみたいな費用で参加できるという基本は踏襲しつつ、どこか別の点で収益を生むような形を考えたい(コーヒーを1杯500円にするとかはあまりやりたくない。そもそもコーヒー屋ではないので)。やっぱり特産品の販売なんだろうか? 参加された方の意見を聞きたいものである。
ところで、少し反省点もある。それは、わざわざ来てくれたお客さんに、ちゃんと応対ができなかったことである。遠方から来て下さった方も多いので、反省と言うより後悔が近い。本当にもうしわけありませんでした…。
それというのも、自分がひたすらコーヒーを淹れ続けなければならない、という事態に陥ったためである。見込みでは来場者数は70人となっていて、来館者との会話を楽しむことができるはずだった。だがその約2倍の来館者があったので、私にとっては本当にコーヒーを淹れるだけの日になってしまった。嬉しい誤算ではあるのだが…。
そのために、ほとんど写真を撮ることもできなかった! 特に午前中は天候がよく、海もべた凪で絶好の写真日和でもあったのに、風景写真はおろか会場の様子の写真すら一枚もないという有様…。お客さんが途切れた16時頃にようやく写真を撮ったが時既に遅しという感じであった。
こういうイベントをするときは、主催者はやることがなくてヒマ、というくらいでなくてはならないと思う。次回やるときは何らかの手はずを整えて、お客さんとゆっくり話ができるようにするのでよろしくお願いします。
当日は、午後は少し雲も出てきて夕日が見られなかったのが憾みではあるものの、割合に天気にも恵まれた。正確にカウントしていないが、多分120人くらいの来館者があったと思う。子どもも入れると140人くらいになるだろうか。
この場を借りて、来館した方、開催に当たってご協力いただいた方、告知にご協力いただいた方など関わりがあった全ての方にお礼を申し上げます。ありがとうございました!
また、会を通じてご縁をいただいた方もたくさんいて本当に嬉しかった。Twitterだけでの知り合いに実際に会えたり(しかも2人も!)、地元にいながらお互いに知らなかった人と知り合えたりもした。特に、地元の全く知らない若い女性3人組が来てくれたのは心に残った。地元の暮らしを楽しくしたいという思いがあってやっていることなので、地元の人が喜んでくれるのはとてもありがたい。
もちろん、鹿児島市内からわざわざ来てくれたお客さんはもっとありがたい。初めて笠沙の景観に触れた人もけっこういたのではないかと思うが、いかがだっただろうか? これを機に、南薩の素晴らしい景色のファンになってくれたら望外の喜びである。
それから、当日はカンパ制ということでカンパボックスを設置させてもらったが(なにしろ参加費200円だけだと少し赤字になるので)、たくさんのカンパをいただき、写真展を担当してくれた海来館さんにも少しだが経費を渡すことができた(でも海来館さんはだいぶ赤字になってしまったのではないかと心配)。カンパをいただいた皆さん、本当にありがとうございました!
でも次回(次回もやりますよ!)もカンパ制というわけにもいかないので、カンパをいただかなくてもペイするように工夫がいると思う。イベント事というのは赤字だと続けることが難しい。タダみたいな費用で参加できるという基本は踏襲しつつ、どこか別の点で収益を生むような形を考えたい(コーヒーを1杯500円にするとかはあまりやりたくない。そもそもコーヒー屋ではないので)。やっぱり特産品の販売なんだろうか? 参加された方の意見を聞きたいものである。
ところで、少し反省点もある。それは、わざわざ来てくれたお客さんに、ちゃんと応対ができなかったことである。遠方から来て下さった方も多いので、反省と言うより後悔が近い。本当にもうしわけありませんでした…。
それというのも、自分がひたすらコーヒーを淹れ続けなければならない、という事態に陥ったためである。見込みでは来場者数は70人となっていて、来館者との会話を楽しむことができるはずだった。だがその約2倍の来館者があったので、私にとっては本当にコーヒーを淹れるだけの日になってしまった。嬉しい誤算ではあるのだが…。
そのために、ほとんど写真を撮ることもできなかった! 特に午前中は天候がよく、海もべた凪で絶好の写真日和でもあったのに、風景写真はおろか会場の様子の写真すら一枚もないという有様…。お客さんが途切れた16時頃にようやく写真を撮ったが時既に遅しという感じであった。
こういうイベントをするときは、主催者はやることがなくてヒマ、というくらいでなくてはならないと思う。次回やるときは何らかの手はずを整えて、お客さんとゆっくり話ができるようにするのでよろしくお願いします。
2014年11月18日火曜日
Citrus meets Sugar——柑橘の世界史(8)
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エジプトのサトウキビ畑 |
それは、サトウキビである。
サトウキビの栽培には豊富な水を必要とする。だから、半乾燥地帯である中東ではその栽培適地は限られた。最初は水の豊富なイランの低地、そしてシリアの海岸地帯、次いでエジプトのデルタ地帯と、栽培適地を求めるようにサトウキビの栽培は伝播していった。10〜11世紀にはキプロス島、クレタ島、シチリア島へ伝播し、12世紀頃には北アフリカ、マグリブ、イベリア半島へと広がっていった。
しかも、サトウキビ栽培には集約的な労働を必要とする。水管理だけでなく、かなりの肥料も要するし、それになにより砂糖の精製は工業的といえるほどの資本や労力がいる。そういうわけで、サトウキビ栽培は農民が自然発生的に取り組んだと言うより、貿易で財をなした富裕者や私領地(ダイア)を経営する政府高官が、高収益を見越した「事業」として組織的に取り組み、広まっていったのである。
それによって、イスラーム世界は世界史上で初めて、砂糖が豊富に存在する社会となった。もちろん砂糖はかなり高価な品であった。スルタン(君主)はラマダーン(断食月)になると臣下に砂糖を下賜したそうだし、宮廷では砂糖で作られた菓子(干菓子のようなもの)が見せびらかしのために作られた。しかし、それはほんの少ししか自然界に存在しない、ダイヤモンドのような貴重品ではなくて、お金さえ出せばいくらでも手に入る貴重品だったともいえる。
一方、庶民がどれくらい砂糖を手にできたかは地域によっても時代によっても違うようだ。だが12世紀以降になると、地中海南岸では庶民にとってもちょっとした贅沢をすれば手に入るものになっていたように思われる。
この、豊富に存在する砂糖が柑橘の世界史を動かした。酸っぱいレモンと、甘い砂糖、この組み合わせが、最強のレシピになったのである。
サトウキビ以前の社会では、甘いことは掛け値なしに最高の価値があった。甘い食べ物はそれだけで贅沢品で、滅多に食べられるものではなかった。だがひとたびサトウキビによる砂糖が登場すると、甘くしたいなら、砂糖を振りかけさえすれば実現できるようになった。
もちろんサトウキビ以前にもそれなりに甘味料はあった。伝統的な甘味料といえばまず蜂蜜、それから果物の果汁からつくる糖蜜(ジュラーブ)など。でもこれらは良くも悪くも甘みだけでない味わいがあるし、大量に穫れるものではなく、いつでもあるものでもなかった。しかし砂糖ならば、甘みだけをいつでも自由に足すことができた。
そうして、甘みそのものというよりも、甘みを引き立たせる苦さや酸っぱさに注目が移っていったのではないかと思う。そこにあったのが、苦いシトロンであり、酸っぱいレモンだった。
こうしてアラブ人は、レモンでジャムを作ることを考え出した(※インドから伝来した可能性もある)。
ジャムの歴史を繙くと、紀元前には既にジャムらしきものがあったらしい。しかしそれは例外的な存在で、砂糖と共に果実を煮てドロドロにするという、今のようなジャム(ムラーバmurrabaと呼ばれる)が普及したのは、まさにこのイスラーム時代なのだ。
ただし当時のジャムは、今のジャムのような長期保存食品ではなかった。そもそも密閉できる容器も僅かだったから、脱気(容器内から酸素を抜くこと)もできなかったと思う。どうやら当時のジャムの「賞味期限」は2〜3週間であったようだ。レモンなどはただ置いていても1ヶ月くらいは持つわけだから、長期保存したくてジャムにしたのではなく、ジャムにするのが美味しい食べ方だったからそうしていたに違いない。
当時の農業生産と人びとの暮らしを伝える『コルドバ歳時記』(または『コルドバ暦』)という10世紀の本がある。これは一種の農書と占いと年中行事のマニュアルであり、要するに各月に何をなすべきかということが書かれた本であるが、その1月の項目にも、レモンのジャムを作ることと、シトロンのシロップを作ることが厳選されたリストに挙げられている。
それだけでなく、季節季節の果実のジャムやシロップを作ることがこの本では奨励されていて、このころのイベリア半島では砂糖を単なる珍奇な贅沢品として扱うのではなく、果実の味をどう砂糖でアレンジするかという段階に入っていたことが窺える。
ところで現代のジャムも、糖度が50%くらいはあって、水分と砂糖だけで成分の90%くらいになる。つまりその他の成分はほんの数%しかなく、酸っぱさ成分などはさらにその一部でしかない。ということは、どの果実のジャムを食べてもその内実はほとんど砂糖水を固めたものであり、成分的な違いは5%とかそれくらいしかない。しかしこれを逆に考えると、ジャムの味はその数%、いや小数点以下%が支配しているのであり、いかに元の素材の味が重要かが分かる。
そう考えると、レモンはジャムの素材としてはなかなかに優秀だ。強い酸味があってジャムにすると甘酸っぱく、(おそらく果皮も入れていたと思うので)ジャムを作るのに不可欠なペクチンも豊富である。また、柑橘の爽やかな芳香はジャムに最適だ。
思えば、柑橘の先進国であった中国では、早い段階でスイートオレンジが発現したこともあって甘みの強い柑橘を求める品種改良がなされたが、イスラーム世界では甘みを求めた品種改良が柑橘に施されることはなかったようだ。それは、おそらく柑橘が常に砂糖とセットで扱われ、柑橘自体に甘みを求める必要がなかったからに違いない。
甘いオレンジを生みだした中国と、酸っぱいレモンを育てたイスラーム世界が、ここで面白い対照を見せるのである。
※冒頭画像はこちらのブログからお借りしました。
【参考文献】
『イスラームの生活と技術』1999年、佐藤次高
『イスラムの蔭に(生活の世界歴史7)』1975年、前嶋信次
"Food and Foodways of Medieval Cairenes: Aspects of Life in an Islamic Metropolis of the Eastern Mediterranean" 2011, Paulina Lewicka
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