11月23日に「海の見える美術館で珈琲を飲む会」というイベントを行う。その時に、「南薩の田舎暮らし」のスコーンとかクッキー、そしてジャム類も少し販売する。というわけで、これから製造に入ろうというところである。
が、なんとここへきてバター不足! 業務用バターすらお一人様一つずつという購入制限が設けられているではないか。これは個人でやってるケーキ屋さんとか大変な状況である。今回、しょうがないので一部はバターの代替品で済ますことになったが、なぜバターは不足するのかご存じだろうか。
これについては時々新聞などでも解説されるが改めて問題を考えてみたい。
まず、バターが不足する最大にしてほぼ唯一の原因は、バターの輸入が国家管理されていて、自由に貿易できないからである(報道では天候不順で生乳量が不足し…とか言われるがそれは些末な問題。それならチーズも不足するはず)。
バターの輸入を独占しているのは独立行政法人 農畜産業振興機構、という機関。
民間業者がバターを輸入するためには、高い関税(1キログラムあたり約30%+179円)を払った上で農畜産業振興機構にバターを輸入してもらい、それを改めて買い入れる(しかも1キロあたり800円あまりのマージンも取られる!)必要がある。つまり、1キロ500円のバターを輸入したら、何もしなくても原価が1600円以上に跳ね上がる。これでは民間業者がバターを輸入することはほとんど無謀である。
であるから、結果として輸入バターは、機構が独占的に輸入したものを民間業者が入札して市場へ仲介する、という形で流通している。これは、名目的には国内畜産業者の保護のために行われている政策である。
バターが自由に輸入できるようになってしまうとバターの価格が下がり、タダでさえ厳しい酪農業者の経営が厳しくなってしまうということで、ウルグアイ・ラウンド(国際貿易の協定)で合意した数量のみに限り輸入するためにこのようなシステムになっているのである。
しかしながら、酪農業者の主要製品は生乳であり、バターなどの加工乳製品は補完的なものであるから、バターに厚い輸入障壁を設ける意味がよく分からない。畜産の保護は重要だとしても、経営的に中心でないバターに煩瑣な輸入障壁を設けるより、生乳の生産への補助金を上乗せした方が適正な市場が形成され、消費者・生産者ともに利益になるのではないだろうか。
例えば、同じ乳製品でもチーズの場合は市場の様子が全く違う。こちらも高い関税はかかっているが、輸入は自由化しているから、いろいろなチーズが店頭に並んでいるし、国産のチーズも様々なものがある。北海道に行けばチーズ工場が見学でき、お土産にチーズがたくさん買われている。いくら天候不順で生乳が不足気味になっても、チーズが店頭から切れることはない。要するに、チーズには豊かな国内市場があり、酪農業者の創意工夫の余地がある。もちろんビジネスとしての非情な競争もあるが、それは公正な競争だ。
一方バターはどうか。無定見に国内業者が保護された結果、バターを楽しむという文化は全く育っていない。外国に行くとチーズと同様いろんなバターがあって楽しいが、日本にあるのはホンの限られたものだけだ。輸入品が貧弱(なにしろ国家が一律に輸入しているので)な上に高価であるため、本来は廉価なバターが高級品となり、その代替品としてファストスプレッドが非常に普及してしまった(店頭にあるマーガリンみたいな商品はほとんどファストスプレッドです)。
ファストスプレッドとはマーガリンの一種で、本来は液体である植物油脂に水素を添加して固体化しているものである。最近、これら人工的な油脂が有害なトランス脂肪酸を多く含んでいるということで敬遠されつつあるが(世界的にも規制される方向にある)、私はそれよりも、バターに比べ風味が格段に落ち、味がよくないというのが最大の問題だと思う。
このファストスプレッドが普及している原因は、結局はバターの輸入が国家管理されているからなのだから、この一事のみ考えてみても、この輸入規制は酪農家を利しているのか甚だ疑問である。このヘンテコな輸入規制がなく、チーズと同様にバターを楽しむ文化と豊かな市場が形成されていれば、多くの人はファストスプレッドの代わりにバターを食べていたに違いないのである。
さらにバターの輸入が国家管理されているせいで、需給予測が外れてよくバターは不足したり逆に余ったりする。今回のバター不足も、予測では不足はないはずだった(当たり前)。このことだけ見ても、計画経済というのはうまくいきっこないと思う。バターの需要量はほぼ予測できるから問題は供給量だけであり、供給量も急に増えたり減ったりするものではないので、需給予測は簡単に見える。しかし実際には市場は動的であって、必要十分な量を予測するのは、ただバター単体のみでも難しいのである。
かつての社会主義経済の行き詰まりの原因はそれこそ星の数ほどあるが、仮に労働者が勤勉で経営が果断であっても、計画的に決められた量の生産を行うというスタイルであるかぎり、経済がうまく回るわけはなかったのである。
このように、バター不足の原因は、酪農家への歪んだ保護にあるのである。この制度はおそらく酪農家にも裨益する部分が少なく、存在理由がよくわからない。巷では、農水省OBの天下り先である農畜産業振興機構の収入確保のため(輸入独占しているので莫大な利益がある)と言われているが、本当にそれだけのことなのかも不明である。
農業は、全体的に補助金産業にならざるをえない。それは、完全に補助金なしで農産物が生産されてしまうと、(特に主食となる穀物類は)低所得者にとって高価になりすぎる可能性があるからである。要するに、誰にでも手に入りやすい価格で食物が生産されるためには、農業に補助を行わなくてはならない。それを逆から言えば、農業への補助は国民全体(特に低所得者)へのフードスタンプ(食費補助)みたいなものだとも見なせる。
しかし、時として産業への国家の補助・介入は、その産業が立脚する市場自体を歪ませる。 殊に煩瑣な輸入障壁はそうである。その介入がなければ花開いていたかもしれない市場を萎縮させ、社会主義的なつまらないものにしてしまう。例えば、小麦粉もバターとはまた違った仕組みで国家が輸入をほぼ独占しているが、店頭に並ぶ小麦粉の多様性のなさは制度の失敗を示唆している。本来は、小麦粉もお米のように、さまざまな品種とグレードがあるものだ。
農業への補助制度がどうなっているか、一般の人からの関心は薄い。だがその補助が、私たちの食生活を根底で規定しているというのは気持ちが悪い。畜産農家の保護という名目のために、バターは不足し、ファストスプレッドが氾濫する現状は何かおかしいと思う。この制度の廃止を訴える国会議員がいたら、すぐに支持するのだが、誰かいないものだろうか。
【参考文献】
『日本は世界5位の農業大国 大嘘だらけの食糧自給率』2010年、浅川芳裕
2014年11月15日土曜日
2014年11月10日月曜日
「都会と田舎の接点」としての葬式
我が町大浦の市街地(といえるほどの市街地はないのだが)を通ると、よく葬式の案内が出ている。
大浦は時代に取り残された高齢者が住んでいるような町だから、それはそれは頻繁にお葬式がある。もちろん単純に数で比較したら都市部の方が圧倒的にお葬式は多いが、こちらでは人口密度あたりの葬式数がすごい。
というように書き出すと、暗い話題のようだけれど、最近、これはこれで価値があることのように思えてきた。
なにしろ、お葬式には遠方から人が集まる。都会へ出て行った人たちがほんの僅かな期間でも地元に帰ってくる。この地にほとんど足を踏み入れたことがない親類もやってくる。南さつま市全体で考えてみても、年間に遠方からやってくる葬式の参列者は、ひょっとしたら観光客数よりも多いのではないだろうか。
ということは、葬式は都会と田舎の重要な接点でもあるような気がする。ここで私は、この都会からの参列者を観光客に見立てて地元の物産でも売りつけたらいいのでは、という提案をしたいわけではない。その人たちは、買い物や観光のために来ているのではないし、遠方から来る人は忙しい仕事の合間を縫って来るわけで、葬式を済ませたらすぐに帰らなくてはならない。
でも、せっかく遠い所からやってきて、葬式だけ済ませて帰って行くのも何か物寂しいものがある。私も経験があるが、お線香一本のためにここまで来たのかなあ、という気持ちを抱くときもあるだろう。もちろん、「お線香一本」の価値を軽んずるわけではない。でもせっかく交通費を出して来るのだから、何か前向きなこともあったらなおよい。
じゃあ葬式とどんなものが組み合わさっていたら、葬式という場が「都会と田舎の接点」としてもっと意義深いものになるだろうか。参列者の立場から言えば、「葬式のためとはいえ南薩に来てよかったなあ」と思えるのはどんなプラスアルファがある時だろうか。そこのところは私にも今アイデアがない。ものの売り買いでもなような気がするので、どちらかというと情報発信の一つの場みたいに捉えたらいいのかもしれない。
思えば、「南薩の田舎暮らし」で製作したポストカード「Nansatz Blue」も、一番コンスタントに捌けているのは、西福寺(近所のお寺です)に置かせてもらっている分である。
とすると、お寺が田舎の情報発信に取り組めばよいのだろうか。でもことはそう簡単ではない。何しろ、お寺はたくさんあるお葬式で忙しい。というか、葬式とか法事とかが不定期にあるので、なかなか落ちついて「これからのお寺は、どうしたら地域の発展に寄与できるか」とか考えるヒマもないと思う。今後、団塊の世代がドンドン鬼籍に入っていくのでお寺はさらに忙しくなる。多分、既に僧侶不足が顕在化しているのではないだろうか。
以前も書いたように、私はお寺は田舎の重要なインフラだと思っている。インフラということは、お寺はただ住職の経営物ということではなくて、地域社会(というのが大げさなら少なくとも檀家)が作っていくものだ。お寺のことをお寺任せにしていてはよくない。葬式の段取りを行うのは最近では葬儀社が普通なので、お寺がどうこうという問題でもないかもしれないが、葬式は宗教儀式である以上お寺(僧侶)を省くことはできない。
というわけで、私は別に信心深い方ではなく、むしろ不熱心なほうだが、「都会と田舎の接点」としての葬式(に伴う南薩への来訪)がより意義深くなるような工夫を考えてみたい。読者のみなさんもお葬式にはいろいろ思うことがあると思うので、グッドアイデアをお寄せいただければ幸甚である(でもお寺に直接言ったらなおよいと思う)。
大浦は時代に取り残された高齢者が住んでいるような町だから、それはそれは頻繁にお葬式がある。もちろん単純に数で比較したら都市部の方が圧倒的にお葬式は多いが、こちらでは人口密度あたりの葬式数がすごい。
というように書き出すと、暗い話題のようだけれど、最近、これはこれで価値があることのように思えてきた。
なにしろ、お葬式には遠方から人が集まる。都会へ出て行った人たちがほんの僅かな期間でも地元に帰ってくる。この地にほとんど足を踏み入れたことがない親類もやってくる。南さつま市全体で考えてみても、年間に遠方からやってくる葬式の参列者は、ひょっとしたら観光客数よりも多いのではないだろうか。
ということは、葬式は都会と田舎の重要な接点でもあるような気がする。ここで私は、この都会からの参列者を観光客に見立てて地元の物産でも売りつけたらいいのでは、という提案をしたいわけではない。その人たちは、買い物や観光のために来ているのではないし、遠方から来る人は忙しい仕事の合間を縫って来るわけで、葬式を済ませたらすぐに帰らなくてはならない。
でも、せっかく遠い所からやってきて、葬式だけ済ませて帰って行くのも何か物寂しいものがある。私も経験があるが、お線香一本のためにここまで来たのかなあ、という気持ちを抱くときもあるだろう。もちろん、「お線香一本」の価値を軽んずるわけではない。でもせっかく交通費を出して来るのだから、何か前向きなこともあったらなおよい。
じゃあ葬式とどんなものが組み合わさっていたら、葬式という場が「都会と田舎の接点」としてもっと意義深いものになるだろうか。参列者の立場から言えば、「葬式のためとはいえ南薩に来てよかったなあ」と思えるのはどんなプラスアルファがある時だろうか。そこのところは私にも今アイデアがない。ものの売り買いでもなような気がするので、どちらかというと情報発信の一つの場みたいに捉えたらいいのかもしれない。
思えば、「南薩の田舎暮らし」で製作したポストカード「Nansatz Blue」も、一番コンスタントに捌けているのは、西福寺(近所のお寺です)に置かせてもらっている分である。
とすると、お寺が田舎の情報発信に取り組めばよいのだろうか。でもことはそう簡単ではない。何しろ、お寺はたくさんあるお葬式で忙しい。というか、葬式とか法事とかが不定期にあるので、なかなか落ちついて「これからのお寺は、どうしたら地域の発展に寄与できるか」とか考えるヒマもないと思う。今後、団塊の世代がドンドン鬼籍に入っていくのでお寺はさらに忙しくなる。多分、既に僧侶不足が顕在化しているのではないだろうか。
以前も書いたように、私はお寺は田舎の重要なインフラだと思っている。インフラということは、お寺はただ住職の経営物ということではなくて、地域社会(というのが大げさなら少なくとも檀家)が作っていくものだ。お寺のことをお寺任せにしていてはよくない。葬式の段取りを行うのは最近では葬儀社が普通なので、お寺がどうこうという問題でもないかもしれないが、葬式は宗教儀式である以上お寺(僧侶)を省くことはできない。
というわけで、私は別に信心深い方ではなく、むしろ不熱心なほうだが、「都会と田舎の接点」としての葬式(に伴う南薩への来訪)がより意義深くなるような工夫を考えてみたい。読者のみなさんもお葬式にはいろいろ思うことがあると思うので、グッドアイデアをお寄せいただければ幸甚である(でもお寺に直接言ったらなおよいと思う)。
2014年10月23日木曜日
ORECのウイングモアー
先日、満を持して「ウイングモアー(畦草払い機)」の新品を購入した。
これは下で2枚の刃がぐるぐる回り草を刈っていくという、いわば農業用の芝刈り機なのだが、本当にとんでもなく便利で、 一度これを使い始めるともはやコレ無しの草払いには戻れない、という麻薬みたいな機械である。
何しろ、南九州は雑草の伸びが激烈である。おそらく、山陰山陽あたりと比べても相当差があるのではないかと思われるが、関東以北の人からすれば異次元の雑草の伸びだろう。日当たりのよいところであれば、「きれいにしていますね」と言われるくらいに雑草を抑制しようと思えば夏期は3週間に1回くらいの草払いが必要だ。別に他の人にどう思われようと知ったこっちゃない場所でも、1月半に1回は草を刈らなければ雑草が高くなって大変なことになる。
だから果樹栽培をやっていると、夏期は草払いばかりしなくてはならないのだが、クソ暑い中刈草払い機でブイーンブイーン雑草を刈るのは結構な重労働だ。ところが、この機械を使えば、その手間が1/3くらいになるのである! 「楽」とまではいかないが、少なくとも時間はかなり短縮する。要するに、労働生産性がかなりアップする!
ところで、この機械を作っている農機具メーカーのOREC(オーレック)社の方と知遇を得て、昨年研修旅行(?)に同席する機会を得たり、いろいろと目をかけていただいたりしている。そんな恩を蒙りながら、これまでOREC社の新品の機械を持っていなかったので疚しく思っていたところ、ようやく新品ウイングモアーを購入することが出来てちょっとホッとした気持ちもある。
その研修旅行の際に感じたのは、このORECという会社の人たちが和気藹々として楽しそうだということだ。メンバーは開発部中心だったかと思うので(営業とかのストレスがないから)雰囲気がよかったのかもしれないが、農機具メーカーであるということも大きいのかもしれないと思う。
なにしろ、農機具の開発というのは面白そうである。いや、別に自動車とか家電の開発がつまらないというつもりはないし、農機具の開発が楽だということもないと思う。でも自動車のエンジンの燃費を1%でも向上させるのは難題だし、それに仮に5%向上させてもユーザーが大喜びするわけではない。そもそも自動車は機械というより、この頃は精密機器・電子機器の部分が多く機械的な開発は中心でない。そして自動走行など新しい技術も出てきているが、基本的に車や白物家電は既にコモディティ化(どこにでもあるもの化)していて、要は形態が完成してしまっている。
一方、農機具の世界にはまだまだ開発の沃野が広がっている。今後の日本の農業は高齢の零細・兼業農家がバンバン引退するのが既定路線だが、ということは(新規零細農家がたくさん生まれるのでなければ)経営の大型化になって行かざるを得ない。そのためにはこれまであまり機械化されていなかったところまで機械化・合理化していく必要があるし、これまでの機械の効率ももっと上げていかなくてはならない。
しかもうまいことに、農業機械はまだまだ完成していないものが多い。極端に言えば、ギアボックスの位置一つとってみても、ちょっとずらすだけで生産性が上がる場合がある。いうなれば、まだ農業機械は高専ロボコンみたいな部分があって、アイデア次第で機能性が格段に上がる可能性を秘めている。しかも、機能性が上がることはそのまま農家の生産性のアップにつながるわけなので、ユーザーの幸せにも繋がるわけだ。
その上、農業機械はグローバル化しつつある。ヤンマーがマンチェスター・ユナイテッドのグローバルパートナーになったのが2013年(3年契約)。その思惑は詳しくは知らないが、要は世界的な知名度を上げて、販路を広げていこうということなのだろう。何しろ東アジアの稲作地帯には、まだまだ機械化されていない米作りの地域が多い。日本メーカーお得意の米作専用機械をドンドン売っていける可能性がある。もしかしたら、この畦草払い機もインドネシアとかフィリピンとかの高地稲作地帯(要は平野じゃなくて棚田のように高低差のある地形で米作りしているところ)で需要があるかもしれない。
そんなわけで、今、農業機械メーカーは躍進の時代だと、勝手に思っている。ロボコンに熱中するような学生さんには最適の職場ではないか。でも、自動車メーカーだって面白いでしょ、というかもしれない。それはそうだと思う。なにしろ革新的な自動車を開発できれば社会そのものを変えるようなイノベーションになる。一方農機具メーカーは、どんなにスゴい農機具を開発しても多分社会までは変わらない(少なくともすぐには)。でも一人の農家の経営が変わる。そういう、生産の現場とダイレクトに繋がる楽しさが農機具メーカーにはありそうな気がする。
これは下で2枚の刃がぐるぐる回り草を刈っていくという、いわば農業用の芝刈り機なのだが、本当にとんでもなく便利で、 一度これを使い始めるともはやコレ無しの草払いには戻れない、という麻薬みたいな機械である。
何しろ、南九州は雑草の伸びが激烈である。おそらく、山陰山陽あたりと比べても相当差があるのではないかと思われるが、関東以北の人からすれば異次元の雑草の伸びだろう。日当たりのよいところであれば、「きれいにしていますね」と言われるくらいに雑草を抑制しようと思えば夏期は3週間に1回くらいの草払いが必要だ。別に他の人にどう思われようと知ったこっちゃない場所でも、1月半に1回は草を刈らなければ雑草が高くなって大変なことになる。
だから果樹栽培をやっていると、夏期は草払いばかりしなくてはならないのだが、クソ暑い中刈草払い機でブイーンブイーン雑草を刈るのは結構な重労働だ。ところが、この機械を使えば、その手間が1/3くらいになるのである! 「楽」とまではいかないが、少なくとも時間はかなり短縮する。要するに、労働生産性がかなりアップする!
ところで、この機械を作っている農機具メーカーのOREC(オーレック)社の方と知遇を得て、昨年研修旅行(?)に同席する機会を得たり、いろいろと目をかけていただいたりしている。そんな恩を蒙りながら、これまでOREC社の新品の機械を持っていなかったので疚しく思っていたところ、ようやく新品ウイングモアーを購入することが出来てちょっとホッとした気持ちもある。
その研修旅行の際に感じたのは、このORECという会社の人たちが和気藹々として楽しそうだということだ。メンバーは開発部中心だったかと思うので(営業とかのストレスがないから)雰囲気がよかったのかもしれないが、農機具メーカーであるということも大きいのかもしれないと思う。
なにしろ、農機具の開発というのは面白そうである。いや、別に自動車とか家電の開発がつまらないというつもりはないし、農機具の開発が楽だということもないと思う。でも自動車のエンジンの燃費を1%でも向上させるのは難題だし、それに仮に5%向上させてもユーザーが大喜びするわけではない。そもそも自動車は機械というより、この頃は精密機器・電子機器の部分が多く機械的な開発は中心でない。そして自動走行など新しい技術も出てきているが、基本的に車や白物家電は既にコモディティ化(どこにでもあるもの化)していて、要は形態が完成してしまっている。
一方、農機具の世界にはまだまだ開発の沃野が広がっている。今後の日本の農業は高齢の零細・兼業農家がバンバン引退するのが既定路線だが、ということは(新規零細農家がたくさん生まれるのでなければ)経営の大型化になって行かざるを得ない。そのためにはこれまであまり機械化されていなかったところまで機械化・合理化していく必要があるし、これまでの機械の効率ももっと上げていかなくてはならない。
しかもうまいことに、農業機械はまだまだ完成していないものが多い。極端に言えば、ギアボックスの位置一つとってみても、ちょっとずらすだけで生産性が上がる場合がある。いうなれば、まだ農業機械は高専ロボコンみたいな部分があって、アイデア次第で機能性が格段に上がる可能性を秘めている。しかも、機能性が上がることはそのまま農家の生産性のアップにつながるわけなので、ユーザーの幸せにも繋がるわけだ。
その上、農業機械はグローバル化しつつある。ヤンマーがマンチェスター・ユナイテッドのグローバルパートナーになったのが2013年(3年契約)。その思惑は詳しくは知らないが、要は世界的な知名度を上げて、販路を広げていこうということなのだろう。何しろ東アジアの稲作地帯には、まだまだ機械化されていない米作りの地域が多い。日本メーカーお得意の米作専用機械をドンドン売っていける可能性がある。もしかしたら、この畦草払い機もインドネシアとかフィリピンとかの高地稲作地帯(要は平野じゃなくて棚田のように高低差のある地形で米作りしているところ)で需要があるかもしれない。
そんなわけで、今、農業機械メーカーは躍進の時代だと、勝手に思っている。ロボコンに熱中するような学生さんには最適の職場ではないか。でも、自動車メーカーだって面白いでしょ、というかもしれない。それはそうだと思う。なにしろ革新的な自動車を開発できれば社会そのものを変えるようなイノベーションになる。一方農機具メーカーは、どんなにスゴい農機具を開発しても多分社会までは変わらない(少なくともすぐには)。でも一人の農家の経営が変わる。そういう、生産の現場とダイレクトに繋がる楽しさが農機具メーカーにはありそうな気がする。
2014年10月17日金曜日
アラブの農業革命——柑橘の世界史(7)
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ヒシャーム宮殿のモザイク「生命の樹」 |
アラビア半島の片隅で生まれたイスラームの共同体は、もの凄い勢いで周囲を飲み込んでいった。既にササン朝ペルシアやビザンツ帝国は老いた国となり往時の面影はなく、中東では、新たな秩序が求められていたといってもよいかもしれない。そこにうまい具合に現れたのが、イスラームという清冽で簡素な教えだった。
イスラーム勢力が、どのように地中海世界の覇者となっていったかを詳しく述べるのはやめにする。ひとたび広大な版図を支配したイスラーム帝国が分裂し、地方王朝が乱立していく経緯も、柑橘の世界史の観点からはさほど重要ではない。ここでは、西アジアから北アフリカ、スペインに至るまでの領域がイスラーム文明によって共通の基盤を与えられ、一つに繋がったということが重要である。8世紀から15世紀ごろまで、地中海の南側はイスラーム世界だった。
そしてこのイスラーム世界において、アラブ人たちが愛した果物がレモンである。 といっても、付け加えなければならないのは、アラブ人たちがその血として肉として愛した果樹というのは、なんといってもオリーブとナツメヤシだ。アラブ人たちは、オリーブとナツメヤシの育たない地域には、ついに国家を作ることがなかった。つまり、いわばこれらの果物が主食として愛された果物であるとするなら、レモンは嗜好品として愛された果物だった。
どうしてアラブ人たちはレモンを気に入ったのだろうか? その理由はよくわからない。というより、別にアラブ人たちはことさらにレモンだけに執心していたわけでもなさそうだ。なにしろアラブ人たちは果物に目がなくて、レモンだけでなくザクロ、ブドウ、バナナ、イチジク、メロン、サワーオレンジ、マルメロ、ナシ、リンゴなどたくさんの果物を楽しんでいた。とはいってもイスラーム世界において、レモンの栽培が広範囲に伝播し、その利用も様々に工夫されたこともまた事実である。なにしろ、レモンは『クルアーン(コーラン)』に出てくる「楽園」にある樹木と見なされることさえあった。
もちろん、栽培や利用の技術が発達・伝播したのもレモンだけではない。8世紀から11世紀は、イスラーム世界で農業技術が長足の進歩をなし、また様々な栽培植物が各地に伝播していった。この時代の農業生産性の向上を「アラブの農業革命」と呼ぶ人もいる。
例えばアラブ人たちが地中海世界に伝えた重要な作物だけを挙げても、稲、硬質小麦(強力粉を作るコムギ)、サトウキビ、棉、ソルガム、バナナ、ココナッツ、メロン、マンゴー、ほうれん草、タロイモ、アーティチョーク、ナスといったものがある。インドやアジアにあった作物を、貪欲に取り入れて各地に伝播していったことはイスラーム文明の大きな功績である。
これはもちろん、地中海南岸から中東、西アジアという広大な領域がイスラームという共通の文明に支配され、人や物の流通が盛んになったことによる。その上ムスリム(イスラームの信徒)には、一生に一度はメッカに巡礼することが推奨されており、まさにこのために人の行き来が盛んになった。以前も書いたように、作物の伝播にはただ種や苗が運ばれていくだけでなく、人の移動が不可欠である。巡礼をきっかけにした旅が新たな作物の伝播に寄与していたのではないかと思う。
また、農業技術や理論の面の進歩も著しかった。土壌論、土壌の改良、水利・水質論、肥料論、病害虫の防除といった現代の農学と同様の体系が構築された。栽培技術においては、特に商品作物となる園芸野菜と果樹について集約的な管理方法が開発された。こと果樹に関しては、植え付け、接ぎ木・挿し木、剪定、灌漑など現代の果樹管理と変わらない技術が既に用いられており、10世紀においておそらく世界最高峰の水準に達した。
イスラーム世界の中心である中東や北アフリカは半乾燥地域が多かったために、灌漑技術はことさら優れていた。古代イラン文化から引き継いだカナート(灌漑用のトンネル)やメソポタミアの水利技術を踏まえ、運河・隧道を開削し灌漑システムを作り、植物栽培における水管理を徹底した。これはまさに、年間を通して適切な降雨を必要とする柑橘類の栽培にはうってつけのものであった。
ところで、こうしためざましい成果を上げた園芸農業・果樹産業と違い、小麦や大麦など穀物の生産性はそれほどでもなかった。広大な農地に灌漑を行うことは無理であり、イスラーム世界の穀物栽培は天水(雨)に依存するものであった。地中海では冬にある程度の雨が降るが、穀物はその降雨に頼った栽培であったので、たまたま雨の少なかった年には収穫が激減する時があったようだ。であるからこそ余計に、都市近郊の集約的な園芸農業・果樹産業に力が入ったに違いない。博打的な穀物生産と、集約的で安定した園芸・果樹の2本立てがイスラーム世界の農業だった。
このイスラーム世界で、レモンを中心とした柑橘類はそれまでと違った歴史を歩むことになる。地中海世界では、それまで珍奇な香料や薬品でしかなかった柑橘が、食生活の中心に躍り出たのである。
【参考文献】
『イスラーム世界の興隆(世界の歴史6)』2008年、佐藤次高著
『イスラーム農書の世界』2007年、清水宏祐著
"Lemon: A Global History" 2012, Toby Sonneman
2014年10月12日日曜日
「海の見える美術館で珈琲を飲む会」チラシできました!
先日お知らせした「コーヒーを飲む会」の続報。
イベントのチラシを作成したのでここで発表します!
http://nansatz.html.xdomain.jp//archive/museum-cafe-kasasa.pdf
(内容は下の画像と同じもの)
決定事項としては、
ちなみに、本日(10月12日)MBCラジオでやっている「じゃっど! すっど! きばっど! 南さつま!」(”!”マークが多い…)という番組に出演させてもらい、元々の目的である大浦まつり(10月19日)の広報のついでに本イベントもお知らせしたのだが、なんと日程を「12月23日」と間違って告知してしまった模様…。正しくは11月23日(勤労感謝の日)です。
Facebookでも「海の見える美術館で珈琲を飲む会」イベントページを作成しているので、Facebookを利用される方は「参加」ボタンを押していただければ幸甚です。
イベントのチラシを作成したのでここで発表します!
http://nansatz.html.xdomain.jp//archive/museum-cafe-kasasa.pdf
(内容は下の画像と同じもの)
決定事項としては、
- イベント名称を「海の見える美術館で珈琲を飲む会」に決定(長いですが)。
- 入館料を200円徴収することに(なにしろコーヒーが無料なので)。
- 「ダイビングステーション 海来館」さんの協力を得た写真展「生命あふれる 南さつまの海!」を同時開催。
ちなみに、本日(10月12日)MBCラジオでやっている「じゃっど! すっど! きばっど! 南さつま!」(”!”マークが多い…)という番組に出演させてもらい、元々の目的である大浦まつり(10月19日)の広報のついでに本イベントもお知らせしたのだが、なんと日程を「12月23日」と間違って告知してしまった模様…。正しくは11月23日(勤労感謝の日)です。
Facebookでも「海の見える美術館で珈琲を飲む会」イベントページを作成しているので、Facebookを利用される方は「参加」ボタンを押していただければ幸甚です。
2014年10月8日水曜日
人と人との新しいつながりを増やす、素朴なアイデア
以前、かなり否定的な紹介をした「百寿委員会」の続報である。
細かいことはともかく、今どんな検討をしているのかというと、WG毎にいくつかやることを決めて、それの具体的な計画を作っているところである。例えば、ラジオ体操をもっと広めようとか、人材バンクを作ろうとか(活躍の場を増やす)、マップづくりをしよう(交流のきっかけにする)といったことを検討している。
私の所属するWGは、健康づくりのための活動というよりは、その前段階となる、人と人とのつながりに関わる活動がメインターゲットである。
人と人とのつながりというと、交流の機会を設けることが必要となるが、既に自治会単位、校区単位で老人会的なサロンのようなものは行われているわけで、そういったものを活かしていこう、というのが基本的な方向性になる。
本委員会の性格を考えると、それは妥当な方向性だと思う。でも私は、自治会単位とか校区単位でない交流の方が自由で好きだし、それに趣味の集まりのような交流と同じくらい、経済活動の一環としての交流も重要だと思っている。つまり、ものを売ったり買ったりすることも交流の一種なのだから、「非営利的な交流」だけを考える必要もないと思う。
それで、私自身、今「笠沙美術館でコーヒーを飲む会」というイベントを計画していて我田引水ではあるのだが、「イベントの中身は問わないで、○○人以上の人が集まるようなイベントには一律5000円くらいの補助金を出すのはどうだろう?」と提案してみた。この提案は「それもいいかもね」程度で流れてしまったのだけど(そもそも役所の予算を審議する委員会ではないし)、改めて考えてみてグッドアイデアな気がするので備忘のために書き留めておく。
言い添えておくと、南さつま市には「市民活動応援事業」というものがあって、イベントの開催などに補助が出る。NPO等が使える30万円までの事業(補助率1/2)と、5人以上の団体が使える10万円(全額補助)の2種類のメニューがあり、それなりにいい事業だと思う。
でもこの「市民活動応援事業」は年度初めに申請しなくてはならないので、年度の途中で企画されたイベントには使えない。それに、小規模のイベントを行う場合にはちょっと敷居が高い。そこで、年度途中でもいつでも申請できる代わり補助金額は5000円で一律にしたメニューを作ってはどうかというわけだ。
「イベントの中身は問わないで」といっても、スーパーの特売がイベントに当たるかというとそれはないと思うし、営利的な交流がOKといってもやはり普段の販売と違う要素がないとだめだとは思う。でも逆に、普段の販売と違う要素さえあれば、お店で行うイベントだって対象にしてかまわない。経済活動が盛んになり、交流も盛んになれば一石二鳥だ。
ちなみに「コーヒーを飲む会」は今のところ収支はトントンか赤字の見込み(!)であるが、赤字ではイベントは続けられない。やはり僅かでも収益があってこそ継続性が見込めるわけで、そこに5000円でも補助があったらものすごく嬉しいというのが実感である。こういうことを言うと、随分小さな金額の話でしみったれてるなあと思うかもしれない。でもそういう草の根の小さな交流の機会がたくさん増えたら、新しい活動のきっかけも増えるし、新しい友人も増える。ひいては街の活性化に繋がる。5000円の補助を100件のイベントが受けてもたったの50万円。
街の予算を50万円使うだけで、人と人が出会う機会が100回も増えたら、ステキなことではないか? もちろん、こういう制度があったらそれを悪用(?)する人もいるだろう。不特定多数が来るのではない、内輪の集まり(何かの定例会とか)をそれらしく見せて申請したりする人もいるかもしれない。でもそういう事例がいくつか出てきたら、事後の監査をしっかりとして制度を改善していけばいいだけの話である。
「百寿委員会」ではこのアイデアはあえなくボツになったようだが、また機会あるときに役所の人に提案してみたい。
細かいことはともかく、今どんな検討をしているのかというと、WG毎にいくつかやることを決めて、それの具体的な計画を作っているところである。例えば、ラジオ体操をもっと広めようとか、人材バンクを作ろうとか(活躍の場を増やす)、マップづくりをしよう(交流のきっかけにする)といったことを検討している。
私の所属するWGは、健康づくりのための活動というよりは、その前段階となる、人と人とのつながりに関わる活動がメインターゲットである。
人と人とのつながりというと、交流の機会を設けることが必要となるが、既に自治会単位、校区単位で老人会的なサロンのようなものは行われているわけで、そういったものを活かしていこう、というのが基本的な方向性になる。
本委員会の性格を考えると、それは妥当な方向性だと思う。でも私は、自治会単位とか校区単位でない交流の方が自由で好きだし、それに趣味の集まりのような交流と同じくらい、経済活動の一環としての交流も重要だと思っている。つまり、ものを売ったり買ったりすることも交流の一種なのだから、「非営利的な交流」だけを考える必要もないと思う。
それで、私自身、今「笠沙美術館でコーヒーを飲む会」というイベントを計画していて我田引水ではあるのだが、「イベントの中身は問わないで、○○人以上の人が集まるようなイベントには一律5000円くらいの補助金を出すのはどうだろう?」と提案してみた。この提案は「それもいいかもね」程度で流れてしまったのだけど(そもそも役所の予算を審議する委員会ではないし)、改めて考えてみてグッドアイデアな気がするので備忘のために書き留めておく。
言い添えておくと、南さつま市には「市民活動応援事業」というものがあって、イベントの開催などに補助が出る。NPO等が使える30万円までの事業(補助率1/2)と、5人以上の団体が使える10万円(全額補助)の2種類のメニューがあり、それなりにいい事業だと思う。
でもこの「市民活動応援事業」は年度初めに申請しなくてはならないので、年度の途中で企画されたイベントには使えない。それに、小規模のイベントを行う場合にはちょっと敷居が高い。そこで、年度途中でもいつでも申請できる代わり補助金額は5000円で一律にしたメニューを作ってはどうかというわけだ。
「イベントの中身は問わないで」といっても、スーパーの特売がイベントに当たるかというとそれはないと思うし、営利的な交流がOKといってもやはり普段の販売と違う要素がないとだめだとは思う。でも逆に、普段の販売と違う要素さえあれば、お店で行うイベントだって対象にしてかまわない。経済活動が盛んになり、交流も盛んになれば一石二鳥だ。
ちなみに「コーヒーを飲む会」は今のところ収支はトントンか赤字の見込み(!)であるが、赤字ではイベントは続けられない。やはり僅かでも収益があってこそ継続性が見込めるわけで、そこに5000円でも補助があったらものすごく嬉しいというのが実感である。こういうことを言うと、随分小さな金額の話でしみったれてるなあと思うかもしれない。でもそういう草の根の小さな交流の機会がたくさん増えたら、新しい活動のきっかけも増えるし、新しい友人も増える。ひいては街の活性化に繋がる。5000円の補助を100件のイベントが受けてもたったの50万円。
街の予算を50万円使うだけで、人と人が出会う機会が100回も増えたら、ステキなことではないか? もちろん、こういう制度があったらそれを悪用(?)する人もいるだろう。不特定多数が来るのではない、内輪の集まり(何かの定例会とか)をそれらしく見せて申請したりする人もいるかもしれない。でもそういう事例がいくつか出てきたら、事後の監査をしっかりとして制度を改善していけばいいだけの話である。
「百寿委員会」ではこのアイデアはあえなくボツになったようだが、また機会あるときに役所の人に提案してみたい。
2014年10月2日木曜日
【告知】「笠沙美術館でコーヒーを飲む会(仮)」を開催します!
重要な告知(!)。
来る2014年11月23日(日)、勤労感謝の日に「笠沙美術館でコーヒーを飲む会(仮)」を開催します!
この笠沙美術館は沖秋目島(ビロウ島)を望む絶景の地にあり、そこにある景色自体が一つの芸術品のような美術館である。
コーヒー党の私としては、以前から、ここでコーヒーを飲めたら最高だなあ! と思っていた。先般この施設の指定管理者の公募があって、うまくいけばミュージアムカフェのようになる可能性もあったのだが、条件の折り合いがつかなかったのか応募者がなかったそうである。
というわけで、どうも待っていても笠沙美術館でコーヒーを飲みたいという夢が叶わなそうなので、だったら自分でコーヒーを淹れてしまおうということになった。さらに、せっかくならコーヒー党(?)のみなさんにも呼びかけて「コーヒーを飲む会」にしようというわけである。
さらに、その日は一日美術館全体を借り切って、様々な企画も合わせて開催する予定である。例えば、場所がせっかく美術館なので写真の展示も行う(その内容はまだ秘密。お楽しみに)。それから、ミニマルシェも設ける予定である。「南薩の田舎暮らし」はもちろん出店するし、その他出店者を検討中である(このブログ記事を読んで、是非出店したいという方がいらっしゃったらお気軽にご連絡ください。コメント欄にでも)。
もちろん、コーヒー豆もそれなりにいろいろ準備する予定。ただ、一日だけのイベントでも販売には保健所から営業許可を取得する必要があって、その認可費用がかかるので、今回は販売ではなくコーヒー自体は無料(!)にしてカンパ制にしようと思っている。なのでコーヒー豆の持ち込みも歓迎である。いやこの際、サイフォンだってなんだってマイコーヒー器具を持ってきていただいてかまわない(はず)。ちなみにこちらで準備するのはごく標準的なペーパードリップの器具のみである。
こういうイベントを開催するのは、もちろん自分がコーヒーを飲みたいということも第一だし、それと同じくらい、笠沙美術館に秘められたポテンシャルを発揮させたいという気持ちもある。南さつま市の持つ素晴らしい財産が、今はなんだか死蔵されているような感があってもったいない。そのポテンシャルを活かして、笠沙美術館を若い人たちが面白い企画を実現できる場にしていけないだろうか?
まあそれは大げさでも、この機会にたくさんの人にここに来ていただき、素晴らしい景色を見ながらコーヒーを飲んでいただけたら幸甚である。
詳細はまた後日お知らせします。
来る2014年11月23日(日)、勤労感謝の日に「笠沙美術館でコーヒーを飲む会(仮)」を開催します!
この笠沙美術館は沖秋目島(ビロウ島)を望む絶景の地にあり、そこにある景色自体が一つの芸術品のような美術館である。
コーヒー党の私としては、以前から、ここでコーヒーを飲めたら最高だなあ! と思っていた。先般この施設の指定管理者の公募があって、うまくいけばミュージアムカフェのようになる可能性もあったのだが、条件の折り合いがつかなかったのか応募者がなかったそうである。
というわけで、どうも待っていても笠沙美術館でコーヒーを飲みたいという夢が叶わなそうなので、だったら自分でコーヒーを淹れてしまおうということになった。さらに、せっかくならコーヒー党(?)のみなさんにも呼びかけて「コーヒーを飲む会」にしようというわけである。
さらに、その日は一日美術館全体を借り切って、様々な企画も合わせて開催する予定である。例えば、場所がせっかく美術館なので写真の展示も行う(その内容はまだ秘密。お楽しみに)。それから、ミニマルシェも設ける予定である。「南薩の田舎暮らし」はもちろん出店するし、その他出店者を検討中である(このブログ記事を読んで、是非出店したいという方がいらっしゃったらお気軽にご連絡ください。コメント欄にでも)。
もちろん、コーヒー豆もそれなりにいろいろ準備する予定。ただ、一日だけのイベントでも販売には保健所から営業許可を取得する必要があって、その認可費用がかかるので、今回は販売ではなくコーヒー自体は無料(!)にしてカンパ制にしようと思っている。なのでコーヒー豆の持ち込みも歓迎である。いやこの際、サイフォンだってなんだってマイコーヒー器具を持ってきていただいてかまわない(はず)。ちなみにこちらで準備するのはごく標準的なペーパードリップの器具のみである。
こういうイベントを開催するのは、もちろん自分がコーヒーを飲みたいということも第一だし、それと同じくらい、笠沙美術館に秘められたポテンシャルを発揮させたいという気持ちもある。南さつま市の持つ素晴らしい財産が、今はなんだか死蔵されているような感があってもったいない。そのポテンシャルを活かして、笠沙美術館を若い人たちが面白い企画を実現できる場にしていけないだろうか?
まあそれは大げさでも、この機会にたくさんの人にここに来ていただき、素晴らしい景色を見ながらコーヒーを飲んでいただけたら幸甚である。
詳細はまた後日お知らせします。
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