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2026年1月8日木曜日

万之瀬川河口と大宰府——秋目の謎(その7)

(「「南島牌」とヤマト政権の南島政策」からのつづき)

図1 万之瀬川河口周辺の主な遺跡(筆者作成)

これまで文献によって鑑真が秋目に来た意味を考察してきた。

おさらいすると、まず『続日本紀』や『唐大和上東征伝』の記述に基づき、鑑真一行が秋目に来たのは漂着ではなく正常な航路によるものだったと結論づけた(その5)。

次に、鑑真一行が秋目に来着した直後に修理された「南島牌」について考察し、「南島牌」を735年に設置した「高橋連牛養(たかはしのむらじ・うしかい)」は古代阿多郡の豪族だったのではないかという仮説を提示した(その6)。

今回はこれに考古学的知見を加えて、鑑真が秋目に来た意味を歴史に位置づけてみたい。

「その6」でも述べたように、阿多郡は南九州における海上交通の要衝であった。

そのことが解明されるきっかけとなったのは、「持躰松(もったいまつ)遺跡」の発見である。ここは1993年に河川改修工事に伴って発見され、博多・大宰府以外では例を見ないほど多種多様な輸入陶磁器と、東海地方や近畿・瀬戸内地方のものと見られる国産陶器、カムィヤキ(徳之島の焼き物)等が出土した。このことから万之瀬川河口で中世に一大貿易が行われていたことが明らかになったのである。さらに、隣接する「渡畑遺跡」「芝原遺跡」が調査され、特に「芝原遺跡」では「持躰松遺跡」を超える17,000点もの厖大な輸入陶磁器・国内産陶器が発掘された(ただし、持躰松で一通り考察が行われていたので、それほど話題にならなかった)。 しかもコンテナ的な要素を持つ大型の甕・壺が大量に出土したのは、九州では博多以外で万之瀬川河口だけという。

また、中岳という近くの低山の山裾に「中岳山麓窯跡群」という窯跡があり、ここが2000年代に入ってから発掘調査された。ここは9世紀以降に100基を超える須恵器の窯があったというとんでもない場所である。なぜこれほどまでに大量の須恵器を製造する必要があったのかというと、地元で使っていたのではなく交易に使っていたからにほかならない。その証拠に、琉球諸島でも中岳山麓窯製の須恵器(焼き物の成分分析による)が出土している。

しかし、これらの遺跡の出土品のピークは中世であり、特に11世紀から13世紀の話である。では古代以前はどうだったのか。

これについては有名な「高橋貝塚」という遺跡がある。玉手神社という神社の裏手にある貝塚だ。この遺跡からはゴホウラ貝などの南海産(奄美諸島以南に棲息する)の貝殻とその加工品が見つかった。ゴホウラ貝というのは平たい貝で、この真ん中に穴を空けることで貝輪(腕輪など)になった。「高橋貝塚」の時代は弥生時代前期から中期である。

つまり、弥生時代の阿多の人は、ゴホウラ貝を奄美以南から仕入れていた。この貝交易を詳細に研究した木下尚子氏はこの交易を「南海貝交易」と名付け、その交易ルートを「貝の道」と表現している。その研究によれば、阿多の人々は沖縄から貝を仕入れて加工し西北九州(博多など)に輸出していたという。もともと、ゴホウラ貝の貝輪は弥生時代の北部九州で流行していたから、この需要を見込んでの交易だったのである。ところが、やがて沖縄で貝を加工することが行われるようになって中継交易としての阿多はスキップされるようになり、弥生時代中期には阿多での貝交易は廃絶した、というのが木下氏の見立てである。

また、こうした交易の傍証として、「中津野遺跡」で国内最古級の弥生時代前期の準構造船の舷側板が出土した。準構造船というのは、丸木舟に部材を付け加えて大きくした船のことである。阿多は、弥生時代前期に丸木舟以上の船を作り、さらには南島との交易を行っていた地域なのである。

この他にも、この地域には膨大な遺跡が見つかっていて、遺跡の発掘報告書をめくるだけで大変だ。これほど遺跡が集積している地域は鹿児島県内でも珍しく、河川改修や道路開通に伴う発掘調査は地域の風物詩である。周囲はほとんど田んぼで開発がされていないのにこの密度で遺跡が出てくるのは驚異的だ(遺跡は開発によって発見されるからだ)。しかも先史時代から近世にかけて遺跡が重層的になっていて、交易が主体となっているのがこの地域の著しい特徴である。

その中心は、いうまでもなく万之瀬川だ。万之瀬川河口には、先史時代から港が置かれたことがこれまでの発掘調査から明瞭である。物流の中核であったと見られる「芝原遺跡」は、現在の河口からは5kmほど遡った川が大きく蛇行したところにある。このあたりが万之瀬川の港だった。

ところで、どうして海ではなく川を遡ったところに港を作ったのかというと、これは船のメンテナンスと関係がある。

船はずっと海に浮かべているとフジツボなどが船底にびっしりついてしまい、水の抵抗が増してうまく進めなくなる。そこで定期的にフジツボなどを除去する必要があるが、大きな船だと陸揚げするのは大変だし、そもそもフジツボなどが着いた時点で船が傷む。ところが川に船を入港させれば、真水によって海棲動物が死ぬのでその除去の必要がない。これが、海棲動物の付着を防ぐ船底塗料がなかった近世以前において、港が川に設けられた一因である。もちろん、外海に面した場所では、海が荒れた時に施設や物品が損傷してしまうという単純な理由もある。

以上を踏まえれば、鑑真一行が「阿多郡秋妻屋(あきめや)浦」を目指した事情がより明らかになる。つまり、彼らの本当の目的地は万之瀬川河口の港だった可能性が高い。しかし河口の港は、潮が満ちていくタイミングでしか入港できないという弱点がある(もちろん入港に適した風向きも限られる)。そのため、入港の方向も条件も異なる秋目がその予備的な港だったのではなかろうか。鑑真一行は航行のタイミング・風向きなどの事情により、万之瀬川河口への入港を諦めたのだろう。これが、鑑真が秋目を目指した理由であると私は考える。

これで結論が出たようだが、実はまだ話は終わらない。

下の「表1 万之瀬川河口付近の主な遺跡」をじっと見ているとあることに気付かないだろうか。弥生中期までと9世紀以降は万之瀬川河口での交易は盛んなのに、古墳時代については交易が低調なのだ。中世において物流の中心であったと考えられる「芝原遺跡」において、古墳時代の遺構は大量に発見されているのにその時代の交易を示すものがほとんど見つかっていないのは象徴的だ。この表は周辺遺跡を網羅してはいないものの、主要な遺跡は掲載しているからその傾向は明らかだ。つまり、ちょうど鑑真が秋目に来た頃、万之瀬川河口での海上交易は低迷していた。この事情を考えてみないことには、「鑑真一行は海上交易が盛んだった万之瀬川河口の港を目指したのだ」という単純な結論に留まってしまう。古墳時代の万之瀬川河口はどんな場所だったのか。

表1 万之瀬川河口付近の主な遺跡
遺跡名 時代 主な時代 注目点 参考文献
栫ノ原遺跡 縄文時代草創期 縄文時代草創期 鹿児島県内では上野原遺跡に次ぐ最古の定住跡。
高橋貝塚 弥生 弥生時代前期 ゴホウラ貝の交易拠点があったことを窺わせ、沖縄諸島と西北九州とを中継したと考えられる。弥生時代中期以降は貝交易が途絶えた。 木下尚子「弥生貝交易の中継地―鹿児島県高橋貝塚のゴホウラ分析から」国立歴史民俗博物館研究報告第237集(2022)
『鹿児島県立埋蔵文化財センター発掘調査報告書』(229)「高橋貝塚2」>(2025)
下小路遺跡 弥生時代中期 弥生時代中期 九州南部には分布しない「甕棺墓」に埋葬されていた人物が、ゴホウラ貝装身具を身につけていた。
中津野遺跡 旧石器時代~近世 縄文〜弥生時代 縄文時代から中近世までの土器・農具・住居跡等が多数出土した。弥生時代前期から稲作が行われていた。日本最古級の弥生時代前期の舷側板が出土した。 『鹿児島県立埋蔵文化財センター発掘調査報告書』「中津野遺跡」「中津野遺跡 2」「中津野遺跡 3」(2022)
上水流遺跡 縄文時代中期~近世 縄文

大規模かつ長期間にわたる集落跡。縄文時代晩期の南島系土器が本土で初めて発見された。縄文時代に南島とのつながりがあったと見られる。
16~17世紀の海外の大量の陶磁器が出土。タイの無釉の短頸大壺(14~15 世紀)も出土した。

『鹿児島県立埋蔵文化財センター発掘調査報告書』「上水流遺跡 1」「上水流遺跡 2」「上水流遺跡 3」(2009)「上水流遺跡 4」(2010)
奥山古墳 古墳時代 古墳時代 4世紀の古墳。板石積石棺墓。天草地域からの石材・工法と考えられる。万之瀬川流域で唯一の古墳 橋本達也他『薩摩加世田 奥山古墳の研究』鹿児島大学総合研究博物館研究報告(2009)
白糸原遺跡 縄文時代~中世 古墳時代・中世 古墳時代の大量の高坏が出土。中世末から近世にかけての土坑が24基検出。中世の土壙墓には廃材と見られる夜光貝がまとまって出土。九州での出土例は枕崎「松尾野遺跡」と本例のみ。 『鹿児島県立埋蔵文化財センター発掘調査報告書』(86) 「白糸原遺跡」(2004)
中岳山麓窯跡群 古代 平安時代 9世紀中ごろ以降の窯跡が集積している。100基を超える須恵器窯があったと考えられている。交易に用いる壺・甕の製造を担ったと考えられ、成分分析によれば琉球諸島にも中岳山麓窯製の須恵器が出土している。 鹿児島大学埋蔵文化財調査センター『中岳山麓窯跡群の研究』(2015)
小中原遺跡 縄文時代・奈良~平安時代・鎌倉時代 平安時代 平安時代(9世紀)の掘立柱遺構が多数。「阿多」の文字が刻まれた土師器が出土した。阿多郡衙の可能性がある。9世紀の火葬人骨も出土。 『鹿児島県埋蔵文化財調査報告書』(57) 「小中原遺跡」(1991)
持躰松遺跡 縄文時代後期~近世 中世 多種多様な輸入陶磁器と、東海地方や近畿・瀬戸内地方の国産陶器、カムィヤキ等が出土。大型の掘立柱建物跡があり特殊な施設の可能性。
12世紀中頃~13世紀前半の白磁・青磁がピーク(この時期、大宰府の機能が衰退していることと関連が予見される)。近世にはほぼ耕地化。
『鹿児島県立埋蔵文化財センター発掘調査報告書』(120) 「持躰松遺跡」 (2007)
渡畑遺跡 縄文時代中期~近世 中世 縄文時代から中世にかけて生活跡が数多く残る。貿易拠点というより居住地が中心か。大量の成川式土器が出土。古墳時代に集落の最盛期を迎えた。ヘラ書き土器・墨書き土器が出土。
11世紀後半~12世紀がピーク。13世紀以降衰退。近世には景徳鎮製の椀が出土。これはヨーロッパからの注文品であった可能性が高いが、なぜ本遺跡にあるのか不明。中岳山麓窯産と思われる須恵器も出土している。
『鹿児島県立埋蔵文化財センター発掘調査報告書』(151)「渡畑遺跡」『鹿児島県立埋蔵文化財センター発掘調査報告書』(159)「渡畑遺跡2」(2010)
芝原遺跡 縄文時代中期~近世 中世 弥生時代には破鏡が出土。古墳時代には大量の土器。中・北部九州地域から搬入されたと考えられる土器があり、交易が予想される。古代には多量の土師器や須恵器が出土。
中世の輸入陶磁器や国内産陶器、合計17000点が出土しその量は周辺遺跡に比べ突出している。青磁・白磁等の輸入陶磁器も約7500点に上る。11世紀後半から12世紀がピーク。コンテナ的な要素を持つ大型甕・壺が大量に出土。中世全期を通じて、万之瀬川下流域の中心的役割を果たした場所であり物流の中心。中国瓦と畿内産瓦器が出土。中世後期からは国内産陶磁器がメインに。中岳山麓窯産と思われる須恵器も出土している。
『鹿児島県立埋蔵文化財センター発掘調査報告書』「芝原遺跡」(2010)、「芝原遺跡 2」(2011)「芝原遺跡 3」「芝原遺跡 4」(2013)
小園遺跡 縄文時代〜中世 中世 11世紀後半から13世紀の貿易陶磁、須恵器・常滑焼・畿内産和泉型瓦器椀・南島産のカムィヤキ・滑石製仏具等が出土。有力者の居館跡または宗教的拠点の可能性。

古墳時代では、古墳の築造がヤマト政権における秩序を表していたから、まずはこれを見てみるのが一番だ。南九州の墓制・古墳はどうなっていたかというと、これが面白い(図2(※1))。

図2 隼人の墓制と高塚古墳

なんとなんと、万之瀬川流域を含む薩摩半島中部は、見事なまでの空白地帯になっているのである。古代南九州の人は畿内型の古墳(図では「高塚古墳」と表現)をなかなか受け入れず、「地下式横穴墓」とか「地下式板石積石墓」というような独自の墓を作っていた。そんな中でも大隅半島ではやや早く古墳を受け入れ、たくさんの古墳が残っていることはよく知られる通りである。

しかし薩摩半島中部は「地下式横穴墓」のような古代南九州の墓制すらも不在で、大がかりな墓自体が作られなかったようなのだ。

万之瀬川流域には遺体を海に流すような特殊な墓制があったのかもしれないが、このことから古墳時代の万之瀬川流域について少なくとも2つの事が言える。第1に、この地域に大きな権力を持った指導者のいる社会はなかった。第2に、他地域との人の交流が大規模には行われていなかった。

もし、この地域で活発に人の交流が行われていれば、他の地域でこぞって古墳が作られているなか、墓で威信を示すことが行われていてもよさそうなものだ。それがないということは、社会が内向き・独自路線になっていたことが明らかである。なお、例外として万之瀬川河口近くに「奥山古墳」という古墳が一つだけある。これは天草の方から石材・工法が移入していると分析されている。土着の墓制ではなく、ヨソ者的な墓なのである。

また、社会が内向き・独自路線になっていたことの証左として「成川(なりかわ)式土器」も挙げられる。成川式土器とは、指宿の山川にある「成川遺跡」を標式遺跡とし、弥生時代終末期〜7・8世紀まで南九州全域で作られた土器である。これは長く弥生土器と思われていた地域色の強い独自の土器だが、こういう独自の土器がつくられた背景には、他地域との接触の少なさが一因とされる。先述の万之瀬川流域の遺跡でも古墳時代の層から成川式土器が大量に出土している。

古代南九州の人々、いわゆる隼人は、「まつろわぬ民」として表象されてきた。古墳の事情を見るかぎりそれは正しい。彼らは明らかに畿内的な秩序を受け入れていない。こういう敵対的な「異民族」とは、国家的な交易が安定的に行われたとは到底思えないのである。ともかく、考古学の知見からは、古墳時代の万之瀬川河口で交易が盛んだったとは言いづらい。

ここで改めて南島と南九州との関わりについて考えてみよう。

8世紀初頭という、南九州の人々がいまだ「まつろわぬ民」だった時期、南島人が朝貢するにあたって南島人は南九州を経由しただろうか。700年に起きた「覓国使剽劫事件」では覓国使が南九州で脅迫されているので、南島航路は南九州を経由していた。しかし、「隼人の大乱」の最中である720年に南島人232人が来朝して授位されているが、この時に彼らは南九州を経由しただろうか。そんなわけはないと私は思う。

そのことを考える上で重要なのが種子島・屋久島である。特に種子島はヤマト政権が一貫して重視していた地域である。ヤマト政権の南島政策は種・屋久からスタートした。史実かどうか不明瞭だが、『日本書紀』によれば早くも629年に田部連(たべのむらじ)某という人物が「掖玖(やく)」に遣わされている。そして679年には多禰嶋に使いが派遣され、681年に地図を提出させたという。この遣多禰嶋使は史実と思われ、ヤマト政権の南島政策が始まったことを示す。翌682年には多禰人・掖玖人・阿麻弥(アマミ)人に禄が与えられた。朝廷は早くから南島に大きな関心を寄せていたのである。ちなみに同年に「阿多と大隅の隼人が朝庭(みかど)に相撲する」という記事があるが、これが隼人の確実な初見記事である(※2)。ヤマト政権は隼人に先だって種子島との関係構築を図っているのである。

種子島の南部にある「広田遺跡」は当時の種子島の存在感を窺わせるものだ。ここは海岸に面した場所にある弥生時代後期から7世紀にかけての墓地遺跡で、157体の人骨、44,000点以上の貝製品が出土した。この遺跡では美しく加工されたゴホウラ貝の貝輪が大量に出土している。種子島にもゴホウラ貝は棲息していないから、これは交易によるものであることが明らかだ(※3)。弥生時代後期から7世紀という、ちょうど万之瀬川河口での交易が低迷していた時期に、種子島では南島交易が盛んに行われていたのである。ヤマト政権が南九州をすっとばして種子島に行くのも無理はない。

そして種子島からは、南九州を経由せずに瀬戸内・紀伊半島などにいく日本海流に乗って進む航路があったと思われる。 実際、鑑真一行のうち第3船は屋久島から出航したものの、漂流して紀伊半島の牟漏埼に着いているが、これは日本海流に乗れば紀伊半島まで直行できることを示している。安全性はともかく、この方が南島ー畿内の距離は近い。種子島こそが古墳時代の南島航路の中心だったので、種子島から瀬戸内・紀伊半島へ進む九州東回りルートがヤマト政権の公式航路となってもおかしくなかった。

だが、そうならなかった理由は明らかだろう。大宰府の存在である。

ヤマト政権が南島政策に本格的に乗り出した700年代は、大宰府が行政庁として発展していく時期にあたっていた。

そもそも大宰府は、白村江の戦いの敗戦後(663年)、朝鮮半島からの圧迫に備えるために軍事拠点として設けられた(それまでも「筑紫大宰」はあるが場所と役割が違う)。『続日本紀』の大宰府関係記事を確認してみると、7世紀末から8世紀頭には軍事関係記事ばかりである。ところが朝鮮半島との緊張状態が緩和されると、次第に西海道(九州)を所掌する行政官庁となっていった。

それを示す最初の記事は702年の「大宰府に所部の国の掾以下と郡司等の人事の選考を任せることを許した」というものである。ここで「所部の国」は明示されていないが、ともかく大宰府は「国」を所轄し、中級官人以下の人事が任されたのである。その後大宰府は天候不順による困窮をたびたび報告して「所部の国」の税の減免を訴えており、行政庁としての実体があったことが窺える。また706年には「所部の九国・三嶋が日照りや大風で作物に被害がでている」と報告しており、三嶋=壱岐・対馬・種子島なので、種子島まで所管していたことが明らかになる。

ところが、ヤマト政権の南島政策には不思議なほど大宰府の存在感がない。707年に「大宰府に使いをやり南島人に位階や下賜を与えた」という記事が一つあるだけで、これも使いの指示によって行われているので大宰府の主体性は窺えない。そしてその後の度重なる南島人の来朝や授位には大宰府が関与した記録がないのである(末尾の表2参照)。とすると、ヤマト政権の南島政策は直轄事業であり、大宰府が所轄していたのはあくまで種子島までだったと考えるのが自然である。その前提で南島人が畿内へ行く時の航路を考えると、わざわざ南九州ー大宰府を経由する必要はなく、やはり種子島から日本海流に乗って九州東回りルートを取る方が自然なのだ。

しかし「南島経営を南九州人に委託した」ことでヤマト政権の南島政策が終わりを告げたとすれば、南島の管轄は大宰府に移行したと考えられる。大宰府は南九州(薩摩・大隅)を所轄しているのだからそれが自然のなりゆきというものだろう。

ここでもう一度、735年に「南島牌」を設置したことを述べる「大宰大弐の従四位下小野朝臣老が、高橋連牛養を南島に派遣して、牌を立てさせた」という記事を見てみると、「南島牌」を「大宰府が」立てさせたということの意味が重大に思える。これは、それまで南島政策に関与していなかった大宰府が、主体的に南島経営に乗り出したことを示しているように思えてならない。そして大宰府が「南島牌」を設置する以上、南島から本土にゆく航路は九州東回りルートではありえない。南島からの船は大宰府にいく必要があるのだから、九州を西回りするルートでなくてはならないのである。そこで交易の拠点として息を吹き返すのが万之瀬川河口なのである。

そして、8世紀半ばにおいて九州西回りルートが確立していたことを示すのが、鑑真一行が秋目を目指して航行し、秋目に来着してからたった6日間で大宰府に到着している、という事実なのだ。鑑真の秋目来航は、「8世紀に南島からの航路が九州西回りルートへ変更された」ことを明証するパズルの1ピースなのである。

実際、九州東回りルートのおかげで繁栄していた種子島は9世紀には全く振るわなくなる。多褹国は824年に大隅国に編入されるが、この時の大宰大弐の上奏文(『本朝文粋』所収)が面白い。曰く、種子島は「損失ばかりで利益がない」とか「利益のない土地を守るために、有用な物資や人材を損なうことは、政治の根本に照らしても道理に合わない」などといい、「この島を(独立した行政単位から)停止し、辺境の弊害を省かれますように」と結ぶのである。かつて南島交易で栄えた種子島が、9世紀には「辺境の弊害(邊弊)」とまで言われているのである。

これに代わって殷賑を極めるのが万之瀬川河口であることはいうまでもない。9世紀に「中岳山麓古窯群」が興隆し、万之瀬川流域の遺跡では9世紀以降に交易が繁栄していることはそれを明証する。一方、南島の側で交易の拠点となったのが喜界島である。喜界島の「城久(ぐすく)遺跡群」は9〜15世紀の遺跡群で青磁などの輸入陶磁器を含む大量の陶磁器が出土しており、特に9〜10世紀には北部九州と繋がりが窺われる。9世紀以降の南島交易は明らかに大宰府の力を背景にしていた。

そう考えると、古代から中世に万之瀬川河口で交易が盛んに行われたのは、それが九州西回りルートにあたっていたからで、大宰府のおかげであるといっても過言ではない。そもそも交易は仕入れ先と売り先の両方が揃って初めて成立する。大宰府・博多という売り先があったからこそ万之瀬川河口の交易が興隆したのは明らかだ。その上大宰府は公的な後ろ盾でもある。「金峯山由来記」の「高橋殿」の伝説で、阿多郡の繁栄を築いたのが「勅使従三位兼太宰大弐蔵人頭高橋卿」という大宰府の高官だとしたのは現実を鋭く反映していたと思う。

この「高橋卿」について、知覧の歴史家・江平望さんは阿多忠景(あた・ただかげ)の「姿が投影されているようにみられる」としている(※4)。阿多忠景とは、薩摩平氏の棟梁で、大宰府と関係を持って交易に関与したと見られ、阿多郡司から「一国惣領」にまでのし上がった人物である。しかし彼は12世紀の人物だ。忠景の時代の阿多郡=万之瀬川河口はすでに大宰府との深い関係があったように思われる。私には、忠景が阿多郡と大宰府を繋いだのではなくて、もともとあった万之瀬川河口と大宰府の関係を忠景が利用したように思われるのである。

1138年、阿多忠景は金峰山中腹の観音寺に所領を寄進しているが、観音寺といえば大宰府が7世紀後半から造営した「観世音寺」が想起される。金峰山の観音寺は、近隣に「小薗遺跡」があることから交易のネットワークに関わる存在なのではと考えられているが、元来は大宰府による万之瀬川河口での貿易管理の出先機関だったのではないだろうか。この時代には末寺末社が荘園の現地管理に利用されていたのである。忠景はそこに所領を寄進することで大宰府との繋がりを強固にしたと考える方が筋が通る。

ちなみに『三国名勝図会』では、この観音寺(金峯山観音寺金蔵院)についてこう述べている。

推古天皇二年、日羅、金峯山権現を崇るや、當寺を阿多浦之名に建て、護持の精舎とし、自刻の十一面観音を安置す。(中略)保延四年、十一月、阿多郡司平忠景、阿多牟田上浦を寄附す。(後略)

保延4年は1138年であり、これは史実に正確だ(※5)。このように『三国名勝図会』の編者には阿多忠景について正確な知識があった。「金峯山由来記」に登場する「高橋卿」が阿多忠景であると考えられるならそう書いたはずだ。「高橋卿」は阿多忠景よりもずっと前の、万之瀬川河口交易を創始した人物なのである。

なお前回述べたように、中世では阿多郡は薩摩・大隅国において唯一の大宰府領であったが、これが大宰府に寄進された事情は詳らかでない。万之瀬川河口が9世紀という早い段階で交易で賑わうことを踏まえると、「荘園」という仕組みが確立する以前に、万之瀬川河口は大宰府の強い影響下にあったとするのが自然だ。事実、大宰府に属する軍事貴族が阿多忠景以前に盛んに南九州に進出している(※6)。

そう考えると、やはり阿多郡=万之瀬川河口の繁栄の始祖と呼べるのは、8世紀に大宰府の指示で「南島牌」を立てた「高橋連牛養」であるように思えてならないのである。

ところで、前回の記事を書いた後、「高橋連牛養が外から来た人物であるという可能性も捨てない方がいいのでは」というコメントが複数の人からあった。確かに「金峯山由来記」では「高橋連牛養」は大宰府から来た官人で、その居住地「高江崎」は彼の一族にちなんで「高橋」と呼ばれるようになったとしている。前回の記事では単純化して「高橋連牛養」を「南九州の豪族」だと書いたが、彼は「他所から来て南九州に土着した豪族」であったとした方が伝説に合致する。なにより「連(むらじ)」はヤマト政権に早い時期に帰順した畿内の豪族に与えられた姓(かばね)だから、薩摩国の豪族が称するのは不自然だ。

というわけで「高橋連牛養」の出身地について考えあぐねていたところ、X(Twitter)で「古墳時代史解題」さんから「越智氏の一族の可能性がある。この高橋は伊予国越智郡高橋郷の高橋ではないか」という趣旨のコメントをいただいた(今でも愛媛県今治市高橋として地名が残る)。越智氏といえば古代伊予国の豪族で、伊予国一宮であり式内社(しかも名神大社)であった大山祇神社と深い関係がある(『延喜式神名帳』の表記では「大山積神」)。これは瀬戸内海の大三島という島に建立されており、武具を中心とする多数の国宝を有していることで知られる。

大山祇神(おおやまつみのかみ)といえば、天孫降臨の神話で、天降りしてきたニニギノミコトが出会って結婚するコノハナサクヤ姫の父親が大山祇神である。そしてコノハナサクヤ姫のまたの名が「神吾田津姫(かむあたつひめ)」すなわち「阿多の姫神」なのである。というより『日本書紀』でも『古事記』でも、この姫神の名は「アタツヒメ」が基本で別名がコノハナサクヤ(木花咲耶)姫である。(※7)。 『日本書紀』は720年に完成しているが、これは「南島牌」が設置されるたった15年前だ。この神話は、大山祇神を媒介にして瀬戸内と阿多の人々に何らかのつながりがあったことを伝えている。

そして古墳時代の瀬戸内海は畿内と北部九州を結ぶ海上交通ルートであり、特に今治市が面する来島(くるしま)海峡は海上交通の要衝であった。中世では村上水軍など海賊が活躍している。今治市の高橋は、今治平野に注ぐ蒼社川(そうじゃがわ)の北側にある低標高地域で、阿多の高橋と自然条件がたいへんよく似ている。こういう自然環境におり海上交通との縁が深かった越智氏の一族なら、「南島牌」を立てることができたかもしれない。伊予国越智郡高橋郷にいた越智氏の分流に「高橋連」を名乗った家系があり、その一人「高橋連牛養」が大宰府の意向で南島を旅してから阿多に居着き、そこから阿多郡の高橋が名付けられたと考えると伝説と整合的だ。ちなみに今治市には野間神社(これも式内社・名神大社)もあり、笠沙町の野間岳にある野間神社と関係があるようにも思う。「持躰松遺跡」からは吉備系土器と見られる土師器が出土しており、北部九州を経由しない畿内・瀬戸内ルートがあったことが推測されている。中世以降も瀬戸内海と万之瀬川流域には関係があったのは間違いない。

いずれにせよ、万之瀬川河口における古代の交易が大宰府との関係で興隆したものであることは文献・考古学・伝説の全てが一致して物語っており、「高橋卿」にしろ「高橋連牛養」にしろ、そういう人物が古代に大宰府から遣わされたということは信じてもよい。

もう一度冒頭の「図1 万之瀬川河口付近の主な遺跡」の図を見てもらうと、中世以降の遺跡が万之瀬川の北側ばかりなのに気付くだろう。実は中世において、万之瀬川の北側は大宰府領だったが、万之瀬川の南側は島津領なのである(※8)。自然条件はほとんど違わないのに、万之瀬川の北側ばかりに交易の痕跡が色濃いのは、交易において大宰府がいかに大きな存在であったかを示唆している。島津氏の側から言えば、川の対岸では交易で莫大な富が動いているのが苦々しかったに違いない。そして正確な時期は不明ながら、阿多郡も島津庄に吸収され、島津氏も万之瀬川河口での貿易を手がけるようになるのである。

これまで、長々と考察を続けてきたが、それは『続日本紀』の二つの記事をどう読み解くかということににかかっていた。最後に原文で掲げよう。 

<天平勝宝六年正月>壬子、(中略)入唐副使従四位上大伴宿禰古麻呂来帰。唐僧鑑真・法進等八人、随而帰朝。 
<天平勝宝六年二月>丙戌、勅大宰府、去天平七年、故大弐従四位下小野朝臣老、遣高橋連牛養於南嶋樹牌。而其牌経年、今既朽壊。宜依旧修樹、毎牌、顕着嶋名并泊船処、有水処、及去就国行程、遥見嶋名、令漂著之船知所帰向。

たったこれだけの簡単な記述だが、二つの記事を有機的に連関させて読み解くことで古代の海上交通についていろいろと推測した。改めてまとめると、鑑真が秋目に来航したのは、単に高僧が来朝した第一歩であるばかりでなく、(1)南島航路が九州西回りルートとなったことと、(2)その航路が大宰府の管轄下にあったことを示し、(3)ひいては万之瀬川河口の交易の開始(中興)を暗示する徴証なのだ、ということが二つの記事から導けるのである。

ただし肝心の秋目が当時どんな場所であったかは、文献でも考古学でも全く不明というほかない。私の知る限り秋目は一度も埋蔵文化財の調査が行われていないようだ。秋目の発掘がなされれば、さらに面白い事実が解明されるのではないかと思う。どんどん過疎化し開発の見込みがない秋目では発掘調査が行われる可能性は低いが、将来ひょんなことから(崖崩れとかで)発掘が行われることを期待したい。

(終わり) 

※1 出典は熊田亮介「古代国家と蝦夷・隼人」(『岩波講座 日本通史 第4巻』1994) 

※2 『日本書紀』には、これ以前にも隼人の記載はいくつかあるが「蝦夷・隼人」とセットで書かれていることから後世の作為とされる。 

※3 広田遺跡では、ゴホウラ貝の腕輪などが使用されているので、交易といっても最終消費地の性格もある。 

※4 江平望「阿多忠景について」(『古代文化』第55巻第3号(2003)) 

※5 阿多忠景の寄進は、『二階堂文庫』保延四年十一月十五日「薩摩国阿多郡司平忠景解案』で跡づけられる(※4による)。『三国名勝図会』の編者はこの文書を利用したのかもしれない。 

※6 野口実『列島を翔ける平安武士—九州・京都・東国』(2017) 

※7 『日本書紀』本文では「鹿葦津姫(かしつひめ)<亦の名は神吾田津姫。亦の名は木花咲耶姫>」とある。第一の一書には登場せず。第二の一書では「神吾田津姫、亦の名は木花咲耶姫」。第三の一書では「神吾田津姫」。第四の一書には登場せず。第五の一書では「吾田鹿葦津姫」。『古事記』では「神阿多都比賣、亦の名は木花之佐久夜毘賣」。

※8 正確には、中世初期においては万之瀬川のすぐ南にある益山荘は弥勒寺(宇佐神宮の別当寺)の荘園であった。 

【参考文献】
文中および表中で挙げたものの他に、次の文献を参照した。

  • 『古代文化』55巻2-3号(特輯 11~15世紀における南九州の歴史的展開―万之瀬川下流域に見る交易・支配・宗教―)(2003)所収の次の論文
    • 永山修一「『11~15世紀における南九州の歴史的展開』に寄せて」
    • 柳原敏明「平安末~鎌倉期の万之瀬川下流域―研究の成果と課題―」
    • 大庭康時「博多遺跡群の発掘調査と持躰松遺跡」
    • 市村高男「11~15世紀の万之瀬川河口の性格と持躰松遺跡―津湊泊・海運の視点を中心とした考察―」
    • 宮下貴浩「山岳寺院と港湾都市の一類型―小薗遺跡と観音寺の調査を中心として―」
    • 中村和美・栗林文夫「持躰松遺跡(2次調査以降)・芝原遺跡・渡畑遺跡について」
    • 山本信夫「12世紀前後陶磁器から見た持躰松遺跡の評価―金峰町出土の焼き物から追及する南海地域の貿易・流通―」
    • 江平 望「阿多忠景について」(再掲)
  • 倉住靖彦『大宰府(教育社歴史新書<日本史25>)』 (1979)
  • 中村明蔵『隼人の古代史』(2001)
  • 鹿児島大学総合研究博物館編『成川式土器ってなんだ?—鹿大キャンパスの遺跡から出土する土器—』(2015)
  • 喜界町教育委員会『城久遺跡群—総括報告書—』(2015) 

【参考】表2 『続日本紀』の735年までの大宰府関係記事(人事除く)
和暦 西暦 事項
文武2年 698 大宰府に大野・基肄・鞠智の3城を修繕させた。
文武3年 699 大宰府に三野・稲積の2城を修繕させた。
大宝2年 702 歌斐国から献げられた梓弓500張が大宰府に納入された。
大宝2年 702 大宰府に所部の国の掾以下と郡司等の人事の選考を任せることを許した。
大宝3年 703 天候不順により京畿および大宰府管内諸国の調を半減し、庸を免除した。
大宝3年 703 大宰府の史生を10人増員した。
大宝3年 703 大宰府の「軍功(勲位)があって位階がないものも昇叙の対象とすべき」という申請を許可した。
慶雲元年 704 信濃国から献げられた弓1400張が大宰府に納入された。
慶雲元年 704 大宰府から「昨秋の台風で作物に被害が出た」と報告があった。
慶雲2年 705 大宰府に飛駅(ひやく)の鈴8口、伝符10枚を与えた。
慶雲3年 706 諸国の飢饉に際して7条の対策が定められた。うち第4条に「大宰府所部の国はすべて庸の収めを免除する」とした。
慶雲3年 706 大宰府から「所部の九国・三嶋が日照りや大風で作物に被害がでている」と報告があったことを受けて使いに見聞させ、調役を軽減した
慶雲7年 707 大宰府に使いをやり南島人に位階や下賜を与えた。
※735年以前において大宰府が南島政策に関与した唯一の記事。
和銅元年 708 大宰府帥・大弐(ほか略)らに傔杖(護衛)を与えた。
和銅2年 709 「筑紫の観世音寺は、天智天皇が発願されたが未だに完成しないので、大宰府はこれを考慮して人員を増員し速やかに完成させるべきである」との詔があった。
和銅2年 709 「大宰帥以下の官人につける事力(労働者)を半減する。ただし薩摩・多褹の国司と国師の僧は減じない」との命令があった。
和銅3年 710 大宰府から銅銭が献上された。
霊亀元年 715 (新羅使の)金元静が帰国するため、大宰府に綿5450斤と船一艘を与えるよう指示した
霊亀元年 715 大宰府の官人の家口(けく)(家族?)には課役を免除する制度とした。
霊亀2年 716 大宰府の佰姓に錫を売買する「鋳銭の悪党」がいるため、私蔵を禁じ見つかれば没収することを命じた。
霊亀2年 716 大宰府に弓5374張を納入した。
霊亀2年 716 大宰府が「帥以下につけられる事力(労働者)が半減され代わりに綿が給付されているが、労働力が足りず困窮しているので、綿の給付を辞めて労働者をつけてほしい」というのでこれを許した。
養老2年 718 三関と大宰・陸奥の国司の傔杖に白丁を取ることを禁じた。
養老2年 718 大宰所部の国の庸を諸国と同じくし、先に庸の減免を行ったのを旧に復した。
養老2年 718 大宰府から「遣唐使従四位下多治比真人が帰国した」と報告があった。
養老3年 719 大宰府に大型船2艘、独底船(小型の船か)10艘を納入した。
養老4年 720 大宰府が白鳩を奉った。
養老4年 720 大宰府が「隼人が反乱を起こした。大隅国守陽侯史麻呂が殺された」と報告があった。
養老5年 721 七道按察使および大宰府に寺を併合して減らすように命令が下った。
養老5年 721 新羅貢調使の大使一吉飡金乾安、副使の薩飡金弼らが筑紫に来朝したが、太上天皇の死去のため帰国させた。
養老6年 722 「大宰府管内の大隅・薩摩・多褹・壱伎・対馬らの司(役所)に欠員があれば、大宰府の官人を選んで権(かり)に任命してよい」とはじめて制定した。(隼人征討の直後)
養老7年 723 大宰府から「日向・大隅・薩摩の三国は隼人征討のために軍役が多く困窮しているので、3年間課役を免除してほしい」との申請がありこれを許した。
神亀3年 726 太政官は、新任の国司に給付する経費について規定し、大宰府およびその管内の国については特例を定めた。
天平元年 729 大宰府に調の綿11万斤を納めさせた。(大宰府貢綿の開始)
天平2年 730 大宰府から「大隅・薩摩では班田を実施していないが、班田をあえて行うと訴えが多く起こると思われるので、このまま実施せず自主的な耕作にまかせる」との報告があった。
天平3年 731 大宰府に壱伎・対馬の医師を補任させた。
天平4年 732 新羅使の奈麻金長孫らを大宰府に召喚した。
天平6年 734 大宰府から「新羅貢調使の級伐准飡らが来泊した」との報告があった。
天平7年 735 大宰府では疫病による死者が多数出ているため、神祇に奉幣し大宰府の大寺と管内諸国の諸寺で金剛般若経を読誦するとともに、救恤のため使節を発遣して、長門国からの諸国では斎戒し道饗祭を祀らせた。
天平7年 735 大宰府から「管内の諸国では疫瘡が流行しているので今年の調を停止してほしい」との申請がありこれを許した。

2026年1月2日金曜日

「南島牌」とヤマト政権の南島政策——秋目の謎(その6)


(「鑑真は秋目に漂着したのか」からの続き)

鑑真一行が秋目を目指したのはなぜなのか。

この謎は文献のみでは解決できない。「秋妻屋(あきめや)浦」という地名が出てくる古代の文献は『唐大和上東征伝』しかないためだ。そこで、秋目から少し視野を広くして、当時の南九州をめぐる状況から推測してみよう。

そのキーとなるのは、鑑真が都についた直後に出された次の指令である(『続日本紀』からの引用。なお、本稿では用字の検討は必要ないので現代語訳のみ掲載する。また年号も適宜省略した)。

<天平勝宝6年(754)2月20日条>大宰府に次の勅命が下った。「天平7年(735)、故・[大宰]大弐の従四位下小野朝臣老(おゆ)が、高橋連牛養(たかはしのむらじ・うしかい)を南島(=薩南諸島)に派遣して、牌(木の標識)を立てさせた。 その標識は年月が経ち、今すでに朽ち壊れているが、従来通り修復すべきである。各標識には、島の名前と船の停泊場所、水のある場所、および本土への行程を記し、遥かに見える島の名前がわかるようにして、漂着した船が帰る方向を知ることができるようにせよ」

この条で述べられている南島に立てられた木の標識を「南島牌」といい、これを立てる規定は後の『延喜式』にも継承された。鑑真到着の直後に「南島牌」の補修が命じられたのは、鑑真一行が島々に赴いた時に「南島牌」が朽ち果てていて、行程がわからず苦労したためであろう。

しかし朽ちていたとはいえ、「南島牌」の存在は黒潮に乗って南島を辿る航路が規定されていたことを示す。そして当然「南島牌」は本土のどこかを目指していたに違いない。それが秋目であるかどうかまでは分からないが、「南島牌」が設置されている以上、この時点で公式の「本土ー南島航路」が確立していたのである。

では、「本土ー南島航路」はなぜ設定されたのか。それは、696年から契丹が中国の河北を侵略して大乱が起き、朝鮮半島の情勢が不安定化していたことが遠因のようだ。この国際情勢の中で、「大宰府ー朝鮮ー唐」という航路の代わりになるものとして「本土ー南島ー唐」の航路が模索されたのである。だが、それは単なる代替航路の設定のみに留まらなかった。

ヤマト政権(※1)の南島にまつわる政策を具体的に見てみよう。まず、契丹侵攻の2年後の698年、武装した文忌寸(ふみのいみき)博士ら8人が南島に国覓(くにまぎ)のために遣わされた(=覓国使(べっこくし))。「国覓」というのは、「国を求める」という意味だが、この時はまだ薩摩国も大隅国も設置されていない(薩摩大隅を含む日向国はあったとされるが未詳)。どうやらヤマト政権は、南島を服属させ「国」とするつもりだったらしい。当時の日本は自らを中華になぞらえていたので、異民族を従えていることが威信のためにも必要だった。

そして翌699年、南島からの献納物が伊勢神宮・諸社に奉納された。これは、政権の目的が単なる航路開拓や国の設置だけでなく、南島の宝物にもあったことを窺わせる。南島には貴重な貝など、本土では手に入らない文物が産出したのである。こういう動向の中、翌700年に覓国使剽劫(ひょうごう)事件と呼ばれる事件が勃発した。

これは、文忌寸博士に同行した覓国使の刑部(おさかべ)真木らが脅迫(剽劫)された事件である。襲ったのは、「薩末比売(さつまのひめ)、久売(くめ)、波豆(はず)[←以上3人女性名?]、衣評督(えのこほりのかみ)の衣君県(えきみあがた)、助督衣(すけえ)君弖自美(てじみ)、肝衝難波(きもつきのなにわ)が肥人(くまひと)を従えて実行した」と『続日本紀』文武天皇4年6月3日条にある。ここに記載されている人名が他に見えないものであるため詳細は不明だが、薩摩・頴娃(=衣評(えのこほり))・大隅の土豪たちが覓国使を襲って脅迫したのである。特に頴娃の土豪は「衣評督」というれっきとした役人なのに反抗している。

なぜ彼らは覓国使を襲ったのか。おそらく、ヤマト政権が直接南島と交易することで自らの交易ルートが邪魔されることを嫌ったのであろう(※2)。鹿児島の人々は南島と交易することで大きな利益を得ていたからだ。

また、この時期の南九州には反ヤマト政権的な動きがある。702年には薩摩と多褹(種子島)が天皇の命令に逆らったため征討軍が派遣されている。はっきりとしないが、この頃に日向国に鹿児島が包摂されたらしい(※3)。とすれば征討軍の力によって南九州はヤマト政権に服属したわけだ。709年には188人の隼人が入京してそのまま滞在した。これは数百人の隼人が京に6年交替で滞在する「大替隼人」という、近世の参勤交代制度ようなものになった(801年まで続いた)。

だが南九州には、ヤマト政権に従わない人が多かったらしい。『続日本紀』714年3月15日条はそれを如実に示している。曰く「隼人は道理に暗く愚かで憲法に従わない。よって豊前国から200戸を移住させて教導させた」。1戸が7〜8人とすれば、豊前国から1500人もの人が移住させられて隼人の習俗の矯正にあたったことになる。これは誇張されているとしてもただ事ではない。そもそも南九州の人々も以前はヤマト政権に靡く「異民族」として表象されていたのだが(風俗の歌舞の披露などが求められた)、この時期にさらなる異民族である南島人が現れてくるので、今度は隼人の同化政策というものが浮上してくるのだと思われる。

事実、南九州の反抗的な様相とは対照的に、ヤマト政権は南島に接近していく。714年には南島から52人が朝廷に連れてこられ、翌715年には陸奥・出羽蝦夷と南島奄美・夜久・度感・信覚・球美等が来朝し貢納して、彼ら77人に授位されている。また720年には南島人232人に授位され(これは後述の「隼人の反乱」の真っ最中!)、727年にも132人に授位されている。政権は、南島人の歓心を引くため位階を大盤振る舞いしたのである。このように大量授位されたのは南島人と蝦夷だけだ。南島人が位階などもらって喜んだとは思えないが、実際に遠路はるばる朝廷まで来たのだから何らかの実利もあったのだろう。

こういう情勢の中、720年から翌年にかけて南九州では「隼人の反乱」と呼ばれる大乱が起きた。大隅国守の陽侯史麻呂(やこふひとまろ)が殺されたのがその口火となった。ちなみに、この時に政権から派遣されて鹿児島に来るのが大伴旅人である。この戦乱で、殺害および捕囚された隼人は1400人に及んだ(『続日本紀』721年7月7日条)。この反乱が、南九州における反ヤマト政権の最後の運動であり、その後は安定したと思われる。そしてヤマト政権は、あれだけ執心していた南島からなぜか手を引いたらしく、『続日本紀』は727年の授位の記事を最後に南島については一切沈黙するのである。

そしてその8年後の735年に「南島牌」が立てられた。そのきっかけはおそらく、前年の734年に遣唐使の多治比広成(たじひのひろなり)一行が帰国に際して多褹島(種子島もしくは屋久島)に来着したことである。『続日本紀』には詳細が書いていないが、南島を辿って種子島に来着したのかもしれない。だが多治比広成一行も南島の航路がよくわからなかったために「南島牌」を立てることになったのだろう。ということは、この時点でヤマト政権にとって南島が勢力圏内ではなかったことは明らかである。

以上の状況を整理すると次のようになる(末尾の表も参照)。

  • 698年から、ヤマト政権は急に南島を重視し始めた。
  • 700年に鹿児島の土豪の一部はそれに反発し「覓国使剽劫事件」を起こした。
  • ヤマト政権では鹿児島の馴化を図ったが、鹿児島これに反発し720年に反乱が起きた。
  • 同時にヤマト政権は南島人の慰撫に努めたが、727年の授位を最後に南島政策は終わった。
  • 735年に「南島牌」が立てられた。

要するに、この時期の南島政策は、契丹の侵攻による朝鮮半島情勢の不安定化のみならず、南九州(薩摩国・大隅国)との関係悪化に対応したものだったと見なせる。727年の南島人への授位を最後に政権の南島政策が終わったのは、南九州との関係が安定したことで、南九州人を通じて南島との連絡が図れる体制になったためだろう。もしくは、ヤマト政権が南島から手を引くことと引き換えに南九州の人々が矛を収めたのかもしれない。いずれにせよヤマト政権は南島経営を南九州人に委託したのである。

このことを前提として、もう一度「南島牌」について記載した『続日本紀』の記事を見てみよう。 「大宰大弐の従四位下小野朝臣老が、高橋連牛養を南島に派遣して、牌を立てさせた」とあるが、ヤマト政権にとって南島が縁遠くなっていた状況の中で、「南島牌」を立てた「高橋連牛養(たかはしのむらじ・うしかい)」とはいったい何者なのかという疑問が湧いてこないだろうか。

「高橋連牛養」について、「新日本古典文学大系」の注では「他に見えず。高橋連の高橋は万葉にも「石上布留の高橋」(2997)と見える大和国添上郡の地名(現在の奈良県天理市櫟本町付近)による。(後略)」とし、高橋は奈良の地名であるとするがこれは疑わしい。

なにしろ、「高橋連牛養」が奈良の高橋(現天理市)の人だったとすると、「南島牌」の設置はきわめて困難な事業だ。南島の地理はヤマト政権にとって未知だったし、おそらく南島人とは言葉も通じなかった(でなければ「南島牌」など立ずとも現地人に聞けばすむ)。政権の南島政策はすでに放棄されており、南島人との連絡関係もなくなっていたかもしれない。そんな中、南島の島々にどうやって標識を立てるというのか。ちょっと無理な話である。

ここで「南島経営を南九州人に委託した」ことでヤマト政権の南島政策が終わったと考えると、「南島牌」は南九州の人間に立てさせるのが自然だ。『続日本紀』の記事は、南九州の豪族「高橋連牛養」に、大宰府が「南島牌」を立てさせた、と理解するのがよいと思う。南島と交易があった南九州人なら、この仕事はたやすいことだっただろう。

では南九州の豪族の名前として「高橋」はありえるのか。実は、鹿児島には高橋という地名がある。万之瀬川の北側が「高橋」なのだ(近世では高橋村。現南さつま市金峰町高橋)。古代から近世にかけて阿多郡が置かれていた場所の一部である。

そして、幕末に編纂された薩摩藩領の地誌『三国名勝図会』には、この「高橋」について気になる記載がある。第29巻の阿多郡の「金峯山由来記」の項である。

金峯山由来記:夫れ金峯山は百済国沙門日羅聖者来朝し、薩州川邊郡坊之津に着岸す。爾後亦此の地に来たり、錫を此峯に駐て年を更、ここに推古二年、勅宣を奉じ更に和州吉野金剛蔵王を当金嶽に勧請す。時に勅使従三位兼太宰大弐蔵人頭高橋卿也、茲に於いて両国二島を領知す。阿多郡高江崎に住城して数代を経、其の居處を高橋と呼ぶ。今の高橋此なり。今俗に歌う事有り。高橋殿の御代ならば、金子の枡で米を計ると也。其の国政の豊功知るべし。(後略)

前段は、百済から来た日羅(にちら)という沙門が金峯山で修行し大和国から蔵王権現を勧請したという伝説を述べている。後段は、その時の勅使の話になる。彼は従三位の大宰大弐で蔵人頭(天皇の首席秘書官のような立場)の「高橋卿」である。唐突な感じがするが、この人は「両国二島」を領知して、阿多郡の「高江﨑」という所に住み、数代後に「高橋」と改称したという。省略したこの後には、この「高橋殿」のいた阿多郡が大変豊かであったという伝説が述べられている(文中に明示されていないが「高橋卿」の子孫が代々の「高橋殿」なのだろう)。

前段の「日羅伝説」は、南薩にはよくある寺院開基の潤色である。例えば坊津の一乗院も日羅の開基とされる。推古2年の勧請も時代が古すぎ、これは全く事実とはみなせない。よって、後段の「高橋卿」の伝説も眉唾ものではあるが、気になる点がある。まずは、彼が大宰大弐という大宰府の次官(※4)であったとされることである。

そして「高橋卿」は「両国二島」を領知した。この「両国二島」は薩摩国・大隅国と種子島・屋久島を指すと思われる。 つまり「高橋卿」は古代薩摩国・大隅国の国守であった(種子島と屋久島は、当初は多褹国だったが後に大隅国に合併された)。ここで、「両国」だけでなく、わざわざ「二島」と付け加えている点が引っ掛かる。

以上を踏まえると、なんとなく、この「高橋卿」と「高橋連牛養」に共通の性格が認められるように思われる。第1に、二人とも大宰府に深い関係がある古代の人物だ。「高橋卿」は自分自身が大宰大弐で、「高橋連牛養」は大宰大弐から「南島牌」の設置を依頼された。 第2に、二人とも支配者階級に属し、南島との関係を有する。「高橋連牛養」が南九州の人間であったとすると、大宰大弐の小野朝臣老(おゆ)が、彼を知っていたのは、「高橋連牛養」が南九州において高位の人物であったと考えるほかない。そもそも「連(むらじ)」は有力な豪族に与えられる姓(かばね)である。「高橋連牛養」は大宰府と深い関係を持ち、南九州の南島交易を支配していた人物だった可能性が高い。 

もちろん、たった2つの類似だけで2人が同一人物であるというつもりはない。それに『三国名称図会』は近世の編纂ものであるから、古代の伝説に信用はおけず、大宰大弐であった「高橋卿」なる人物が実在したとは到底認められない。だが、「高橋」を名乗る豪族が古代の阿多郡におり、その一族が「高橋殿」と表象されたとするのも無理な空想ではないだろう。その「高橋殿」の先祖に「高橋連牛養」がいると考えると一応筋は通る。とすれば、「高橋連牛養」は古代阿多郡の豪族だったということになる(※5)。

ここまで考えると、鑑真一行が到着したのが「阿多郡」の秋妻屋浦なのは無意味なこととは思えない。実は、阿多郡こそが南九州における南島交通の要衝であったことは、考古学的にも明証される。そして中世には全体が島津氏の荘園になってしまう鹿児島(薩摩国・大隅国)において、阿多郡は唯一大宰府領だった場所なのである。

(つづく) 

※1 律令施行前を「ヤマト政権」、施行後を「大和朝廷」などといって区別するが、本稿ではちょうどこの境の時期を扱っているので「ヤマト政権」で統一する。

※2 竹森友子「南島と隼人ー文武4年覓国使剽劫事件の歴史的背景ー」(『奈良女子大学大学院人間文化研究科年報』第22巻(2007))

※3 「薩摩国が設置された」との明確な記載は『続日本紀』にない。702年8月に「遂に戸を校え、吏を置く」とあって戸籍調査が行われて役人が置かれたこと、同年10月に薩摩隼人征討にあたっての祈願の文面に「唱更国司等〈今薩摩国也〉」と〈〉内の後世の付記により「薩摩国」の領域に国司が置かれていることなどから判断される。「薩摩国司」の初出は709年6月条である。

※4 大宰府の長官は「大宰帥(だざいのそち)」だが、これは徐々に名誉職化したので、院政期以降は次官にあたる大宰大弐が事実上の長官となった。「金峯山由来記」では、「高橋卿」は従三位・大宰大弐・蔵人頭という異常に高い官位が設定されており、「高橋卿」の威勢を窺わせる。

※5 江平望「阿多忠景について」(『古代文化』第55巻第3号(2003)では、「高橋殿には、忠景の姿が投影されているようにみられる」としている。「忠景」とは、12世紀に阿多郡司だった阿多忠景のことで、彼は南九州に一大勢力を築き、大宰府とも関係が深かったとされる。高橋殿=阿多忠景説では時代が中世になってしまうため従わなかったが、私が「金峯山由来記」に着目したのはこの論文の受け売りである。

【参考】表 南九州と南島にまつわる『続日本紀』の記事
和暦 西暦 事項
文武2年 698 文忌寸博士ら8人を覓国のために南島へ派遣。
文武3年 699 南島からの献納物を伊勢神宮・諸社に奉納。
文武3年 699 11月 南島より文忌寸博士ら帰る。
文武4年 700 覓国使剽劫事件
大宝2年 702 8月 薩摩と多褹(種子島)が命に逆らったため兵を派遣。「遂に戸を校え、吏を置く」
大宝2年 702 9月 薩摩隼人を征討したものに叙勲した。
大宝2年 702 薩摩国の設置はこのあたりか。
慶雲4年 707 南島人に授位や下賜が行われた。
和銅2年 709 薩摩隼人郡司以下188人が入朝(716年まで滞在)。
和銅6年 713 大隅国の設置
和銅7年 714 豊前国から200戸移住させて隼人の教化にあたらせた。
和銅7年 714 太朝臣遠建治らが南島から52人連れて帰朝した。
霊亀元年 715 1月 陸奥・出羽蝦夷と南嶋奄美・夜久・度感・信覚・球美等が来朝し貢納した。
霊亀元年 715 1月 蝦夷と南島人77人に授位。
霊亀2年 716 薩摩・大隅の隼人が滞在8年になったので滞在6年に変更した。
養老元年 717 大隅・薩摩二国隼人等が風俗の歌舞を披露し授位賜禄された。
養老4−5年 720 隼人の反乱(1年半ほど)
養老4年 720 11月 南島人232人に授位。
神亀4年 727 11月 南島人132人に授位。
天平6年 734 遣唐使多治比真人広成らが多褹島に来着した。
天平7年 735 南島牌が立てられた。
天平勝宝6年 754 鑑真来朝
天平勝宝6年 754 南島牌を立て直す指示が下った。

2025年12月26日金曜日

鑑真は秋目に漂着したのか――秋目の謎(その5)

2020年から21年にかけて、「秋目の謎」という4本のシリーズ記事を書いた。

【参考】
豪華すぎる墓石——秋目の謎(その1) 
https://inakaseikatsu.blogspot.com/2020/04/blog-post.html

隠さなければならない繁栄——秋目の謎(その2) 
https://inakaseikatsu.blogspot.com/2020/05/blog-post.html

秋目からルソンへ——秋目の謎(その3)
https://inakaseikatsu.blogspot.com/2020/06/blog-post.html

島津亀寿の戦い——秋目の謎(その4) 
https://inakaseikatsu.blogspot.com/2021/01/blog-post_10.html

この記事、(その4)で「つづく」となっていて、実は完結していなかった。というのは、秋目最大の謎、鑑真について書く予定だったのだ。というわけで、重い腰を上げて4年越しで続きを書いてみたい。

さて、秋目といえば鑑真が来たところとして知られている。秋目には「鑑真記念館」が建てられ、展示自体はささやかであるが、毎年12月には唐招提寺から高僧(執事)を招いて「鑑真大和上の遺徳を偲ぶ集い」が開催されている。

また鑑真記念館の前には、唐招提寺にある鑑真和上坐像(国宝)を模刻した石像も安置されている(冒頭写真)。この像、現地には説明がなかったと思うが、浜西良太郎さんという香川県で石材業を営む人が寄贈したものである。鑑真が艱難辛苦を乗り越えて日本に来てくれたことに感銘を受けて寄贈されたと聞いている。

近年、市役所が中心になって開催されている冬のウォーキングイベントも「鑑真の道歩き」という。これなどは鑑真とは直接の関係はないながら、鑑真が上陸したことが地域のアイデンティティとして扱われている一例だ。

このように、秋目にとって鑑真が来航したことは大きな誇りである。では、鑑真は秋目を目指して来たのだろうか。それとも鑑真が秋目に来たのは漂着で、たまたまだったのだろうか。これはどちらであるかによって来航の意味が全然違う。しかし、これまでこのことについて詳細に考証した人はいないようである。

例外として、古代隼人の研究者中村明蔵さんは、『鑑真幻影—薩摩坊津・遣唐使船・肥前鹿瀬津』(南方新社)で、鑑真来航にまつわる通説を批判的に検証してその実相を解き明かしているが、その中で「鑑真の秋妻屋浦(=秋目)寄港は、その前後の状況からして当初から意図したものではなく、漂着であったとみられる(p.144)」とされている。

とはいえ、『鑑真幻影』の主な主張は、①坊津は遣唐使が発着する港であったというのは事実ではない、②鑑真が大宰府に行く前に肥前の鹿瀬津に寄港したことが近年史実として扱われ顕彰碑等が建立されているが史料の裏付けはない、という2点であり、秋目への鑑真来港が偶然であったかどうかはこれらの考証の副産物として簡単に書かれているに過ぎない。

他にも、岩波新書の東野治之『鑑真』では「[鑑真一行は]秋妻屋浦(いまの鹿児島県坊津町秋目浦)に漂着しました(p.69)」と断定している。他の鑑真研究本をつぶさに調べたわけではないが、鑑真が秋目に来港したのは漂着であるという理解が一般的だと思われ、地元の人もそう思っている人が多いと思う。なにしろ、秋目のような辺境の地をわざわざ目指してくるわけがないからだ。

しかし、鑑真来航を述べる史料を見てみると、そう簡単には言い切れない。

第1に、国家の正式な記録『続日本紀』では鑑真一行が漂着したとは書いていない。 第2に、鑑真来日を記録した『唐大和上東征伝』でも漂着とは明示されず、秋目に到着してからの旅がとてもスムーズである。

中村明蔵さんが肥前鹿瀬津への鑑真の寄港を「史料の裏付けはない」というのと同様、鑑真の秋目来航を漂着とすることも史料の裏付けはないのである。

というわけで具体的に見てみよう。まずは『続日本紀』の記述は次の通り(※1)。

<天平勝宝6年(754)1月16日条>(前略)入唐副使従四位上大伴宿禰古麻呂(こまろ)来帰す。唐僧鑑真・法進等八人、随ひて帰朝す。

鑑真がやってきた記事は、『続日本紀』ではたったこれだけのアッサリしたものである。「これでは漂着のことが省略されているだけではないか」と思うかもしれない。でもどうやらそうではないらしい。鑑真一行は遣唐使船4隻に分乗して日本に向かったのだが、鑑真が乗っていたのは第2船で、第3船と第4船は漂着したという記事が『続日本紀』に掲載されている。次の通りである。

<天平勝宝6年(754)1月17日条>大宰府奏すらく「入唐副使従四位上吉備朝臣真備が船、去年十二月七日を以て来たりて益久嶋(やくのしま=屋久島)に着きぬ」とまうす。是より後、益久嶋より進み発ちて漂蕩(ただよひ)て紀伊国牟漏埼(むろのさき)に着きぬ。(第3船)

<天平勝宝6年(754)4月18日条>大宰府言(もう)さく「入唐第四船判官正六位上布勢朝臣人主(ひとぬし)等、薩摩国石籬浦(いしがきうら)に来たりて泊(は)つ」ともうす。(第4船) 

この記事では、第3船が漂着したのは明らかである。第4船については「来泊」なので漂着とは書いていないが、目的地への到着ではなかったことは疑い得ない(なお引用は省略するが、遣唐使の正使である藤原清河が乗った第1船はベトナムに漂着し、結局帰国できなかった)。

このように鑑真一行が分乗した4つの船の書き方からは、鑑真の乗った第2船は漂着でなかったと判断できる。しかし疑り深い人は、他の来航の記述と比べてみないとわからないというかもしれない。そこで、『続日本紀』から、事故なく来航した記事と漂流・漂着した記事を探して比べてみた(一番下にある表1と表2を参照(※3))。

まず、文脈から判断して事故なく来航したと見られる記事は17件ある(表1)。うち7件は「来帰」と表現される。「来帰」は、現代の「帰国」と同じ意味らしく、「○○に来帰した」とは言わず単に「来帰す」という。鑑真の場合もこれにあたる。類似の表現として「帰朝」もある。具体的な場所に到着したことを表すのは「到る」「到泊」「着泊」「来着」などである。ただし、これらには必ずしも目的地に着いたのではない場合が含まれていると考えられる。

一方、漂流・漂着の場合だが、こちらの方が記事数が多く26件ある(表2)。問題なく来航した場合は特記されることがない一方で、漂流・漂着は事件なので記事になりがちだからだろう。最も多いのは「○○に漂着す」で10件、「〇〇に着く」が6件、他には「○○に到泊す」、「○○に来泊す」などだ。また、どこかへ着いたのではなく漂流するという表現が「漂蕩」・「船漂」・「漂流」・「風漂」である。

事故なく来航した場合と、漂着した場合で著しく違うのは、漂着の場合は必ず「○○に漂着した」と場所が明示されることである。これは考えてみれば当然だ。問題なく到着した場合は「帰国した」だけで済むが、漂着の場合は「どこそこに着いた」としなければ文意が通じない。

以上を踏まえると、鑑真らの分乗した3隻の記述ぶりは、第2船(鑑真乗船)=「来帰」、第3船=「漂蕩して○○に着く」、第4船=「○○に来泊す」だから、やはり第2船は正常な航路で秋目に到着したと判断してよさそうである。

次に、『唐大和上東征伝』(以下『東征伝』)での記述に移ろう。これは、鑑真の弟子で辛苦の航海をともにした思託(したく)が書いた『大唐伝戒師僧名記大和上鑑真伝』を元に、淡海三船(おうみの・みふね)が宝亀10年(779)に撰録したものである。これは鑑真没後まもなく作られているから信頼できる史料だ。また、淡海三船は『続日本紀』の該当箇所の執筆にも携わっているので、両書にはある程度共通の用字がなされていると期待できる。

『東征伝』では、鑑真一行が中国から出発した後を次のように述べられている(わかりやすいように日付毎に分かち書きした)。

11月15日 十五日壬子。四舟同じく発す。一の雉あり。第一舟の前を飛ぶ。仍りて矴(いかり)を下ろし留まる。
11月16日 十六日発す。
11月21日 廿一日戊午。第一・第二舟は同じく阿児奈波嶋(あこなは=沖縄)に到る。ここは多禰嶋(=種子島)の南西にあり。第三舟は昨夜すでに同処に泊す。
12月 6日 十二月六日、南風起きる。第一舟は石に著きて動かず。第二舟は多禰に向かい去る。
12月 7or13日 七日(にして)益救嶋(=屋久島)に至る。(※2)
12月18日 十八日、益救嶋を発す。
12月19日 十九日風雨大いに発(おこ)る。四方を知らず。午の時、浪の上に山頂を見る。
12月20日 廿日乙酉、午の時。第二舟は薩摩国阿多郡秋妻屋浦に着く。
12月26日 廿六日辛卯。延慶師、和上を引いて大宰府に入る。

まとめると、「11月15日に4隻は中国を出発し、第1・2・3船は沖縄に着いた。 第2船は種子島に向けて出発したが屋久島に到着。そして屋久島を出発してから風雨に遭ったが12月20日に薩摩国阿多郡秋妻屋(あきめや)浦に到着した」ということだ。なおこの「阿多郡秋妻屋浦」が現在の秋目であることは定説であり、他の候補地は見当たらない。 

この文章から漂流的な要素を探すと、まず「種子島に向けて出発したのに、着いたのは屋久島だった」という部分である。しかしこれは漂流したという感じはしない。遣唐使船は構造上正確な航路を進むことができないから、誤差の範囲だろう。問題はその後だ。屋久島を出発した後に「風雨大いに発(おこ)る」としている。これは暴風雨による漂流を意味しているのだろうか?

しかし『続日本紀』の場合では、漂流した場合は「漂蕩」・「船漂」・「風漂」などと書いていた。それらの単語がないということは、漂流していない可能性が高い。第2船は漂流したのではなく、「四方を知らず」つまり方向が分からなくなっただけと解せる。そして「浪の上に山頂が見えた(=水平線の向こうに山が見えた)」ので、正しい方向がわかり、秋妻屋浦に着くことができた、というのが素直な解釈であろう。

ここまでの記述ぶりからしても、秋目への寄港は漂着ではなかったと判断できるが、その後のスムーズさもそれを裏付ける。秋目からたったの6日で大宰府に到着しているのだ。山影が見えてから秋目に到着するまで丸一日もモタモタしていたのとは大違いである。

ただし、この航海は真冬に行われている。海上には強い北風が吹いていたに違いない。にもかかわらず北上するのだから、航海が難航するのは当然である。そして、そんな中で秋目ー大宰府間が6日間しかかかっていないのは、外洋ではなく沿岸航海だということを考えても異常にスムーズだ。秋目ー大宰府にはちゃんとしたルートが確立していたと考えるのが自然だ。

なお中村明蔵さんは、『鑑真幻影』で秋目ー大宰府の移動が陸路ではありえないことを論証し、秋目(またはその周辺)で機動性の高い船に乗り換えて大宰府に移動したのであろうと推察している。私もその見解に賛成である。

以上のように、『続日本紀』と『東征伝』の記述による限り、鑑真の秋目来航は漂流ではなかったと結論付けられる

ただし、秋目に至る航路が正式な遣唐使船の航路ではなかったこともまた明らかである。遣唐使は十数回派遣されているが、大宰府から朝鮮を通って大陸に渡るのが通常で、帰国の際にもそのルートが使われた。南西諸島を経由して帰国したのは鑑真らのみである。また、『東征伝』で「薩摩国阿多郡秋妻屋浦」という細かい地名が表示されているのも、秋目が正式ルートの港でなかったことを示唆する。実際、『東征伝』でも大宰府到着について「大宰府に入る」とだけあって、どこの港に到着したとは書いていない。正式ルートの場合はディテールを書く必要はないからだ。

このように、秋目は遣唐使船の通る正式ルートではなかったが、鑑真一行の秋目来航は漂流でもなかった。では、なぜ鑑真一行は秋目を目指したのだろうか。これが次なる謎である。

(つづく)

※1 『続日本紀』の引用は、岩波の「新日本古典文学大系」に基づく。引用にあたっては日付の干支は省略した。なお、『続日本紀』は伝統的に特殊な訓読を行う部分があるが、理解の便宜のために平明な訓読に改めた箇所がある。例えば「来帰す」ではなく、本来は「来帰(まうけ)り」と訓ずる。また通用の字体に改めた。鑒真→鑑真など。

※2 沖縄・屋久島間にたった1日しかかかっていないとすると不自然であることから、中村明蔵さんは「七日、益救嶋に至る」ではなく「七日にして益救嶋に至る」と解釈している。その場合、屋久島着が12月13日になる。

※3 以下の表1と表2は、『続日本紀』から、事故なく来航したと思われる記事、漂着・漂流の記事をそれぞれ抜き出したものである。ただし、これは筆写が目視によって抜き出して作成したものであるため、脱漏も多いと思われる。気になる方は本文に当たって確かめてほしい。なお、本記事を4年間も先延ばししたのは、この表の作成を億劫がっていたためだ。

表1 事故なく来航した『続日本紀』の記事
語句 文言 出典条
来帰 遣唐使従四位下多治比真人県守来帰 養老二年(七一八)十月庚辰【二十】
来帰 前年大使従五位上坂合部宿禰大分、亦随而来帰 養老二年(七一八)十二月甲戌【十五】
来帰 遣新羅使正五位下小野朝臣馬養等来帰 養老三年(七一九)二月己巳【十】
来帰 遣渤海使正六位上引田朝臣虫麻呂等来帰 天平二年(七三〇)八月辛亥【廿九】
到渤海界 天平十一年(七三九)十一月辛卯【己丑朔三】
来泊 新羅使船来泊長門国 天平十二年(七四〇)九月乙巳【廿一】
来帰 遣渤海郡使外従五位下大伴宿禰犬養等来帰 天平十二年(七四〇)十月戊午【甲寅朔五】
来帰 入唐副使従四位上大伴宿禰古麻呂来帰 天平勝宝六年(七五四)正月壬子【十六】
来着 来着益久嶋 天平勝宝六年(七五四)正月癸丑【十七】
帰朝 寄乗副使大伴宿禰古麻呂船帰朝 天平宝字七年巻(七六三)五月戊申【癸卯朔六】
遣唐使船到肥前国松浦郡合蚕田浦 宝亀七年(七七六)閏八月庚寅【乙酉朔六】
到肥前国松浦郡橘浦 宝亀九年(七七八)十月乙未【廿三】
到泊 知遣唐使判官滋野等乗船到泊 宝亀九年(七七八)十月庚子【廿八】
着泊 七月三日着泊揚州海陵県 宝亀九年(七七八)十一月乙卯【十三】
来帰 率遣唐判官海上真人三狩等来帰 宝亀十年(七七九)七月丁丑【十】
到泊 遣唐使第三船到泊肥前国松浦郡橘浦 宝亀九年(七七八)十月乙未【廿三】
来著 入唐大使従四位上多治比真人広成等来著多禰嶋 天平六年(七三四)十一月丁丑【戊午朔二十】

表2 漂着・漂流の『続日本紀』の記事
語句 文言 出典条
漂着 漂着崑崙国 天平十一年(七三九)十一月辛卯【己丑朔三】
到著 到著出羽国 天平十一年(七三九)十一月辛卯【己丑朔三】
遂着等保知駕嶋色都嶋矣 天平十二年(七四〇)十一月戊子【五】
比着我岸 宝亀八年(七七七)五月庚申【十】
漂蕩 漂蕩海中 天平宝字七年(七六三)八月壬午【十二】
漂流 漂流十余日 天平宝字七年(七六三)十月乙亥【六】
風漂 忽被風漂 宝亀八年(七七七)二月壬寅【二十】
船漂 船漂溺死 宝亀八年(七七七)五月庚申【十】
漂蕩 漂蕩着紀伊国牟漏埼 天平勝宝六年(七五四)正月癸丑【十七】
来泊 来泊薩摩国石籬浦 天平勝宝六年(七五四)四月癸未【十八】
漂著 漂著賊洲 天平宝字元年(七五七)十二月壬子【九】
漂着 漂着対馬 天平宝字三年(七五九)十月辛亥【十八】
漂着 漂着日南 天平宝字七年巻(七六三)五月戊申【癸卯朔六】
平安到国 天平宝字七年(七六三)八月壬午【十二】
着隠岐国 天平宝字七年(七六三)十月乙亥【六】
漂著 漂著能登国 宝亀三年(七七二)九月戊戌【廿一】
漂着 漂着越前国江沼加賀二郡 宝亀九年(七七八)四月丙午【三十】
船著沙上 宝亀九年(七七八)十月乙未【廿三】
来泊 遣唐第四船来泊薩摩国甑嶋郡 宝亀九年(七七八)十一月壬子【十】
到泊 第二船到泊薩摩国出水郡 宝亀九年(七七八)十一月乙卯【十三】
乗其艫而着甑嶋郡 宝亀九年(七七八)十一月乙卯【十三】
乗其舳而着肥後国天草郡 宝亀九年(七七八)十一月乙卯【十三】
漂着 以十三日亥時漂着肥後国天草郡西仲嶋 宝亀九年(七七八)十一月乙卯【十三】
漂着 聖朝之使高麗朝臣殿嗣等失路漂着遠夷之境 宝亀十年(七七九)正月丙午【五】
漂著 著唐国南辺驩州 宝亀十年(七七九)二月乙亥【四】
漂着 并種種器物漂着海浜 宝亀十一年(七八〇)三月戊辰【三】

2022年7月10日日曜日

山内多門「中国西国巡幸鹿児島著御」を巡って

拙著『明治維新と神代三陵—廃仏毀釈・薩摩藩・国家神道』が発売されて約1ヶ月。

売れ行きを出版社に聞いてみたところ、「小社ではなかなかの実績」とのことだった。それなりに売れているようである。

そして、読んだ方からはポツポツとご感想も寄せられている。「知らないことばかりでビックリ」「これまで神代三陵がなぜか閑却されてきたことに気付かされた」など肯定的に評価していただいた。

そんな中で、意外と多いのが「表紙の絵がかっこいい」という感想。

実はこの表紙の絵、私から出版社に「表紙はこの絵にしてほしい」とお願いしたものだ。意外とすんなりその要望を聞いてくれて、バッチリ表紙にあしらってくれた。なので表紙の絵が好評なのは私としても喜ばしい。

この絵は、山内多門という人が描いた「中国西国巡幸鹿児島著御(之図)」という作品。明治神宮外苑の聖徳記念絵画館に展示されているものだ。

聖徳記念絵画館には、この作品も含め、日本画40枚・洋画40枚の明治天皇・皇后の歴史にまつわる絵画が展示されている。これらは、明治天皇崩御をきっかけに、その顕彰のための壁画として(といっても壁に直接描くのでなく、和紙・キャンバス製で)製作されたもので、全ての絵画が奉納されたのは25年後の昭和11年。そしてその画題も、明治天皇の個人的な事績というよりは、国家の歴史と密接に関わったものが選ばれ、国使編纂事業(←これは拙著でも触れています)とも関連して制作された、まさに国家的大事業としての壁画制作であった。

大げさに言えば、これらの一連の壁画は「建国の神話」を表現したものであったといえる。

当然、この制作に関わった画家は、当時最高の技倆を持っていた人ばかりである。「中国西国巡幸鹿児島著御」を描いた山内多門もその一人だ。

山内多門(たもん)は、木村探元から続く南九州の狩野派の掉尾を飾る人物である。

山内多門は明治11年、宮崎県都城市に生まれ、少年の頃に郷里の狩野派絵師・中原南渓に入門。21歳までは小学校教師などをしていたが一念発起し周囲の反対を押し切り上京、川合玉堂に入門した。また玉堂の紹介で橋本雅邦(狩野派の絵師で川合玉堂の師でもある)に師事。そして発足間もない日本美術院に参加し、日本美術院の公募展に第2〜10回と連続で出品して華々しい成績を収めた。また帝展では2〜10回の審査委員をつとめるなど当時の日本画壇の中核的存在だった。

「中国西国巡幸鹿児島著御」は、そんな山内多門が絶頂期に制作した大作である。

島津氏の居城だった鶴丸城(今の黎明館があるところ)に天皇の一行が到着した、明治5年6月22日の様子を描いている。ちなみに明治天皇は、騎馬している人物の前から3番目である。

どうして明治天皇がわざわざ鹿児島まで来たのかというと、西国・九州の各地を回って人心を収攬するための一環だったが、特に鹿児島については当時政府と敵対していた島津久光の慰撫が念頭にあったとするのが通説である。

この鹿児島行幸の際、明治天皇は行在所(あんざいしょ)で神代三陵を遙拝(遠くから拝む)し、これが神代三陵の治定にあたって決定的な役割を果たすことになった。まさに、神代三陵の治定において象徴的な場面が描かれているのが、この作品なのだ。だからこそ私はこの絵を表紙にしたかったのである。

ところで、明治11年生まれの山内多門がどうやって明治5年の出来事を絵に描いたか?

この絵には、鶴丸城の城門である御楼門(ごろうもん)が描かれているが、実は御楼門は巡幸の一年後の明治6年に火災で焼失している。なので山内多門が絵画を制作していた時は影も形もなかったし、当然見た事もなかった。設計図なども残っているわけもない。そもそも、鶴丸城自体が、明治10年の西南戦争で焼失しているのである。

そこでこの絵の重要な参考資料となったのが、明治5年の西国・九州巡幸の際に撮影された写真である。この巡幸には、長崎出身の写真師・内田九一(くいち)が同行していた(なお内田九一は最初の明治天皇の肖像写真を撮影した人物)。彼は各地で名所旧跡の写真を撮っており、そのうちの55点が確認されている。

そして幸いなことに、そこに鹿児島の御楼門の写真も入っていた。

この写真をよく見れば、山内多門の絵に描かれた石垣にせり出す松が、事実に基づいているものであることがわかる。

もちろん、この写真がなかったら御楼門の構造も詳細な点は不明だっただろう。

内田九一の写真のおかげで山内多門は「中国西国巡幸鹿児島著御」を史実に基づいて完成させることができたのである。

余談だが、鶴丸城の前が「城下」のイメージとは違うだだっ広い平野になっているのも興味深い。さらに、城郭の中もほとんど森のようである。鶴丸城には元々天守閣がなかったが、私たちがイメージする城郭とはかなり隔たった姿だったわけである。

さらに余談になるが、令和2年(2020)、御楼門は明治維新150年事業の一環で官民協力のもとに復元された。

その復元にあたって重要な資料となったのが内田九一の写真であったことはいうまでもない。出土品や江戸時代の補修時の史料などは残っていたが、全体的なフォルムについてはこの写真がなければ正確に復元するのは到底不可能であった。

だから、貴重な記録写真をもたらしたという意味でも、西国・九州巡幸には大きな意味があったと言えるだろう。明治維新では廃仏毀釈という破壊運動が起こり、多くの貴重な文化遺産が失われるという負の側面があったが、写真によって当時の社会が記録され、それが後の文化財の再建に繋がるという面もあったわけだ。

ところで、この大作「中国西国巡幸鹿児島著御」を完成させた後、山内多門は病気がちとなり、2年後には54歳で死去してしまった。弟子には宮之原譲、山下巌、野添草郷らがいるが多門が早死にしたこともあって、その後は大きな流れとはなっていない。

ちなみに、明治5年に御楼門の写真を撮った内田九一も、その3年後には31歳という若さで肺結核により死亡している。もし巡幸のタイミングがずれていたら御楼門の写真は残らなかっただろうし、また内田九一も生きていなかったということだ。同じことは山内多門にも言える。文化財というものは、様々な偶然や幸運に恵まれて生まれ、残されたものだということをつくづく感じる。

さらに蛇足だが、山内多門「中国西国巡幸鹿児島著御」の模写が黎明館に所蔵されている。元々山内多門の絵は、鹿児島市が依頼して製作したものだが、これを神宮外苑に奉納するにあたり、その模写を制作していたもののようだ。模写したのは石原紫山。入来町出身の画家である。これは時々展示されるようなので、機会があれば是非見ていただきたい(私自身も未見)。

御楼門が描かれた絵画を表紙にあしらったにのはもう一つ理由がある。元々、この本が自分の中での「明治維新150年事業」だったからでもある。

鹿児島県では2010年代後半、明治維新150年(2018年)に向けて大河ドラマ「西郷(せご)どん」や御楼門再建といった記念事業に官民挙げて取り組んでいた。もちろん明治維新の主役である西郷隆盛や大久保利通、小松帯刀といった人たちの顕彰はやるべきことだ。しかし明治維新には廃仏毀釈という負の面もある。私は、主流の人たちがやりづらい、負の面の明治維新150年事業を自分一人でやってみたかった。薩摩藩出身者たちが明治政府に残した、負の遺産を見直してみたかったのである。

その結果が、『明治維新と神代三陵』である。

明治維新には、その後の日本が破滅に進むことになった兆しが内包されていた。その一つが「神代三陵の治定」であると思う。これは一見、重箱の隅をつつくようなマニアックなテーマだが、これを通じて明治以降の150年を自分なりに見直すことができたと自負している。

というわけで、拙著のご高覧、よろしくお願いいたします。

【参考文献】
金子 隆一「内田九一の「西国・九州巡幸写真」の位置
※内田九一の写真は、同論文から転載しました。東京都写真美術館の収蔵品です。同作品は同美術館のデジタルアーカイブでは公開されていませんが、著作権は既に消滅しています。
都城市立図書館「山内多門 生誕130年展」パンフレット
みやこのじ南日本新聞社編『郷土人系』
※現在の御楼門の写真は県のWEBサイトより借用しました。

【2022.7.12追記】
御楼門復元にあたっては、別の「正面から撮った写真」があり、そちらの方も参考にしている…という情報をいただきました。ということで、内田九一の写真がなかったら御楼門も復元できなかったのでは、というのは私の早合点だったようです。こちらの写真も明治初期に撮影されたものらしいですが、誰の撮影なのかがわかりません。これも内田九一なのでしょうか…?


2022年5月29日日曜日

鹿児島の郷土作家、名越 護さん

拙著『明治維新と神代三陵——廃仏毀釈・薩摩藩・国家神道』が遂に手元に届いた。

公式の発売日は6月10日だが、直接には販売を開始している他、またネットショップ「南薩の田舎暮らし」でも取り扱いを始めた。「待ってました」という方も多いので、既に50冊くらい売れている。

【南薩の田舎暮らし】『明治維新と神代三陵:廃仏毀釈・薩摩藩・国家神道』(1870円(定価販売)、送料無料)

そしてこの度、拙著に名越 護(なごし・まもる)さんから推薦コメントをいただいた。

本書をすすめる

なぜ神代三陵が鹿児島県内に比定されたのか、天皇を中心とする明治政府は、国家神道をめざして廃仏毀釈を蛮行したが、なぜ鹿児島だけが率先して決定的な「寺こわし」を徹底したか。そして彼らが目指した「国家神道」で、なぜ各地の人々の身近にあった多くの産土神を、すべて記紀に記された神々と合祀していったか——。政治が宗教までも抹殺して庶民の心まで奪い、一方的に天皇制を強化していった姿を、史料類を詳細に調べて明治維新の“負の部分”を明らかにした好書である。
           名越 護(鹿児島民俗学会員)  

名越護さんは、鹿児島の徹底的な廃仏毀釈についてまとめた『鹿児島藩の廃仏毀釈』の著者で、存命中では、質・量ともに一番の郷土作家。鹿児島ではファンの多い名越さんに推薦コメントをいただけたことはとても心強い。

しかし名越さんは、あまり人前に出ていくタイプではないし、新聞やテレビでコメントするようなことも少ないので、鹿児島でも知らない人は多いかも知れない。まだ誰も「名越護」についてまとめた人がいないようなので、僭越ながら少し名越さんについて語ってみる。

名越さんは、昭和17年(1942)奄美大島宇検村生まれ。立命館大学法学部を卒業後、南日本新聞社に入社して記者になった。記者になって10年ほどたった昭和50年(1975)頃、鹿児島の民俗学者・小野重朗さんの『かごしま民俗散歩』を読んで民俗学に興味を持ち、民俗学を学んだ。

そのため、祭りや伝統行事を伝える新聞記事も、名越さんの手にかかると一種の民俗学のフィールドワークの面持ちがあり、今の新聞記事にはない深みがあった。

名越さんは、南日本新聞社加世田支局(現南さつま支局)に昭和50年代後半に赴任。そこで「ふるさと流域紀行 万之瀬川」というとんでもない連載記事を書いた。これは万之瀬川の流域(主に今の南さつま市、南九州市)の自然や文化、神話や伝説、産業や人々の暮らしについて地域の特色を描いたもので、昭和57年(1982)3月から7月までに60回に渡り連載された。1回の記事は1500字程度。綿密な取材を行った上で、地域の様々な事柄について自分なりに考察した部分も多く、民俗学的視点が発揮されている。

この連載記事は、内容もすごいがそれ以上に驚かされるのは、たった3ヶ月半程度の間に60回もの記事が発表されている、ということだ。記事は毎日あるいは1日おきくらいで掲載された。この濃密な連載をとんでもないスピードで書いていたことは驚愕以外の何物でもない。しかも、もちろんこの他に通常の記者としての記事も書いているのである。

この連載記事は、郷土を知るための恰好の地域誌となっており、今は失われた祭りや民俗の記録ともなっていて資料的価値も非常に高いため、南さつま市観光協会が2019年にまとめて翻刻している(非売品だが協会に行けばもらえる)。

この大仕事を終えて後、名越さんは南日本新聞社文化部に在籍。ここでは鹿児島県全域が取材対象となる。そこで連載「かごしま母と子の四季」を自ら企画し、昭和60年(1985)、週一回一年間連載した(53回)。これは県内各地を巡って、祭りや伝統行事を女性や子どもに注目して取材しまとめた「民俗ルポルタージュ」。祭りというと、どうしても男性がやる派手な所作などに注目が集まるが、この連載では団子を作る女性や、時として神の代わりとなる子どもたちを取り上げたことが新鮮だ。取材においては、小野重朗さんもいろいろと指導をしたらしい。

さらに翌61年(1986)には、週二回の年間連載「かごしま民俗ごよみ」を95回連載した。これは祭りや伝統行事だけでなく、民俗信仰まで含めて県内各地を取材し改めてまとめたもの。2年連続で手間のかかる企画連載記事を手がけたことは、この時期の名越さんの気力体力がいかに充実していたかを物語る。

そして、これらの記事を見ると、民俗学の視点や伝説や言い伝えの考察といった名越さんならではの深みは当然のことながら、取材の丁寧さや文字の多さだけ見ても今の新聞記事とは隔世の感がある。今の新聞の悪口を言ってもしょうがないが、昨今は写真ばかりが大きくなり(しかも記者本人が撮っているためおざなりなものが多い。当時の写真はカメラマンが同行し、ちゃんと現像した写真だ。写真にかける力が違う)、文章は必要以上に削られて、ほとんど紋切り型の説明しかできなくなっている。

だからきっと、今の南日本新聞にこれだけの力量がある記者がいたとしても、宝の持ち腐れになるだろう。昔の力作記事を見ると、どうしても今の新聞の凋落を感じてしまう。

それはともかく、名越さんは南日本新聞で精力的に記事を書いた。日々の取材の記事だけでなく、民俗学の視点から主体的に鹿児島を切り取っていった。そして2003年で定年退職し、執筆活動に入る。主要な作品を書き出してみると、こんな感じだ。

  • 『南島雑話の世界 : 名越左源太の見た幕末の奄美』(2002年、南日本新聞開発センター)
  • 『薩摩漂流奇譚』(2004年、南方新社)
  • 『奄美の債務奴隷ヤンチュ』(2006年、南方新社)
  • 『鹿児島藩の廃仏毀釈』(2011年、南方新社)
  • 『自由人西行』(2014年、南方新社)
  • 『田代安定 : 南島植物学、民俗学の泰斗』(2017年、南方新社)
    ※南日本出版文化賞受賞
  • 『クルーソーを超えた男たち』(2019年、南方新社) 
  • 『ふるさと流域紀行 万之瀬川』(2019年、(一社)南さつま市観光協会)
    ※私事ながら、本書の刊行には私自身も関わった。
  • 『鹿児島 野の民族誌——母と子の四季』(2020年、南方新社)
    南日本新聞社編となっているが、名越さんの原稿をまとめたもの。先述の連載「かごしま母と子の四季」
  • 『鹿児島民俗ごよみ』(2021年、南方新社)
    南日本新聞社編となっているが、名越さんの原稿をまとめたもの。先述の連載「かごしま民俗ごよみ」

さらにこうした作品を執筆する傍ら、鹿児島民俗学会会員として、学会誌『鹿児島民俗』に数々の論文も発表してきた。私自身はこれらのうち一部しか目を通していないが、書名だけを並べても、名越さんでなければ書けない、しかも誰かは書かなくてはならなかった重要なテーマにずっと取り組んできたことが明白である。

特に『奄美の債務奴隷ヤンチュ』は薩摩藩の植民地だった奄美において、黒糖製造業の犠牲となった債務奴隷ヤンチュの実態を明らかにした名著であり価値が高い。

そして徹底的に行われた鹿児島の廃仏毀釈を、各市町村郷土史をベースに現地取材して描いた『鹿児島藩の廃仏毀釈』は、「南方新社史上、最も売れた本」と言われている名作である。もちろん、拙著『明治維新と神代三陵—廃仏毀釈・薩摩藩・国家神道』の執筆においても大いに参考にさせてもらった。

そんな名越さんは、2022年5月、自身「最後の著作」と位置づける『新南島雑話の世界』を南方新社から上梓された。 15冊目の本だそうである。これは、幕末に奄美に島流しにされながらも、奄美の文化や自然について克明な記録を残した名越左源太(なごや・さげんた)の「南島雑話」を読み解くものである。旧作『南島雑話の世界 : 名越左源太の見た幕末の奄美』が祭事を中心としていたのに対し、本書は、生業、民俗、動植物を中心に現在の奄美の情報も付け加えたもの。奄美生まれの名越さんの「奄美愛」が詰め込まれているように思う。

このように名越さんは、新聞記者時代には生きた鹿児島の民俗を記録し、退職後は独自の視点で郷土史研究を行い、これまたとんでもないペースで本を書いてきた。名越さんが第一級の郷土作家であることが、これでおわかりいただけたと思う。

そして私事ながら、名越さんには著作の上で多くの示唆を受けただけでなく、直接にもいろいろとお世話になっている。すごい人なのに、いつも控えめでにこやかに微笑んで下さる方である。この度拙著への推薦コメントも、お願いしたら快く引き受けて下さり、数日後にはコメントを手紙で受け取った。

名越さん、いつもありがとうございます!!


2022年4月26日火曜日

初の著書『明治維新と神代三陵——廃仏毀釈・薩摩藩・国家神道』

初めての本が、この6月に出版の運びとなった。

『明治維新と神代三陵——廃仏毀釈・薩摩藩・国家神道』というタイトルだ。

管見の限り、「神代三陵」をテーマにした本は史上初ではないかと思う。神代三陵を知っている人自体が少なく、「何それ?」という状態なのを考えると、これまで神代三陵についての本がなかったのも当然かもしれない。

しかし、神代三陵という存在は、なかなかに面白い。

神代三陵とは、日本の神話に登場する天皇家の祖先、天孫ニニギノミコト、その子のホホデミノミコト、その子ウガヤフキアエズノミコトの陵墓である。ちなみにウガヤフキアエズの子どもが神武天皇だ。

この3柱の神々の陵墓は
可愛(えの)山陵」=薩摩川内市
高屋(たかや)山上陵」=霧島市
吾平(あいら)山上陵」=鹿屋市
と全てが鹿児島県に確定されており、宮内庁が管理している。

もちろん、「神」の墓、などというものを額面通りに受け取るわけにはいかない。そもそも神自体がいたかどうかもわからない。というより、神々が実在したとは、科学的に考えてありえないのである。しかし実在しないものの墓があるわけがないのだから、日本政府の公式見解としては、ニニギノミコト以下の神々は確かに存在したのだ、ということになる。

ではなぜ、四角四面で頭の堅い日本政府が、神々を現実のものとして扱っているのだろうか。それは、明治維新からの国家運営において、国家が神話を現実化しようと試みたからなのだ。日本は世界に冠たる「神の国」であるとしつらえるために必要だったことの一つが、神代三陵だったのである。

戦後にはそうした狂気じみた政策は是正されたが、神代三陵は引き続き宮内庁が管理しており、未だに国家公認の「神」の墓としての性格を失っていない。これは、宮内庁が積極的に残したというよりも、おそらくはさしたる議論もなく戦前からの管理が続いてきただけなのだろう。しかし、科学的な世界観が浸透した現代において、明治時代の置き土産である神代三陵が変わらず鹿児島にあり続けていることに、興味を覚えるのは私だけではないだろう。

そして、ニニギノミコトの天孫降臨を中心とする神話を「日向(ひむか)神話」というが、これの舞台は日向国、今の宮崎県であるから、神代三陵が全て鹿児島にあることには奇異な感じがする。宮崎県には西都原古墳群など立派な古墳がたくさんあり、逆に鹿児島にはあまり大規模な古墳はない。にも関わらず、なぜ明治政府は神代三陵を全て鹿児島に宛てたのであろうか。

これまで、「神代三陵が全て鹿児島に確定されたのは、薩摩閥の政治力のためだ」といわれてきた。誰しもそう思うに違いない。私が神代三陵について調べ始めたのも、薩摩閥の影響が具体的にどのようなものだったのかを検証しようとしたことが発端だ。結論を言えば、確かに薩摩閥の影響は大きかった。しかし不思議なことに、鹿児島の側から神代三陵を求めた形跡は一切ない。明治政府の宗教政策全体にわたって薩摩閥の影響は大きく、神道の国教化を進めたのは薩摩閥であるといっても過言ではない。それでも神代三陵については、鹿児島からの要望ではなく、むしろ国家の都合によって決定したものなのだ。

これまでも、歴代天皇陵の創出については多くの研究の蓄積がある。幕末明治の政権において天皇陵がどのような役割を負わされてきたか、そしてそれがどのように改変されてきたを辿れば、それが”国家”の創出に一役買ってきたことが理解できる。

幕末に至るまで、歴代の天皇陵は崇敬されることもなく、あるいは耕作され、あるいは山となり、日常の風景に溶け込んできた。それを讃仰すべき存在に替えたのは、「文久の修陵」と呼ばれる宇都宮藩の建白によって始まった事業だ。この事業では田んぼの中のたった2尺の塚だったところが神武天皇の陵墓に造成された。以来、多くの天皇陵が矢継ぎ早に確定され、整備されてきたのである。日本を急ごしらえの”近代国家”にするために。

言うまでもなく、神代三陵の創出も、こうした天皇陵の造成事業の一環である。だがそれが特殊なのは、歴代天皇陵については、一応、歴史的な存在と見なせたのに、神代三陵については、確定するのが神話の世界を現実化するもの以外ではありえなかった点だ。どうしてそんな無茶が可能になったのだろうか。そこには確かに薩摩閥の動向が大きく関わっていたのである。

本書はこうした観点から神代三陵という存在を考察し、神代三陵を明治維新史に位置づけたものである。

なお、本書は本ブログで「なぜ鹿児島に神代三陵が全てあるのか」と題して連載した記事を元にしており、それに2割くらい加筆修正した感じである。ブログ記事を書いている頃は、出版するとまでは思っていなかったので、今から考えると書き方に甘い点(特に先行研究への言及)も見受けられるが、今の自分の力量だと思ってそのままにした。

版元は、京都の法藏館。仏教書専門の出版社であり、創業400年を超える日本最古の出版社である。仏教書だけでなく、『黒田俊雄著作集』など歴史と宗教の研究書を数々出版してきた老舗だ。ただし、本書は専門書でも論文でもなく、一般向けの読み物である。

【参考】法藏館
https://pub.hozokan.co.jp/

どうしてこんな立派な出版社から、私のような無名・在野・しかも農家(!)、という売れそうな要素が一つもない著者の本が出るのか。当然こちらから持ち込んだからだが、コネもなく、私自身断られるとばかり思っていた。ところが法藏館さんは、著者の属性は度外視し、あくまでも内容を見て出版することを決定してくださったのである。変な言い方だが「さすが老舗は違う」と感心してしまった。

また、帯に掲載する文については、松岡正剛さんからいただいた。読書界では知らぬ人のない知の巨人であり、 私自身、学生時代からずっと尊敬し憧れてきた人である。これももちろん、ダメもとで法藏館さんにお願いしてもらったものだ。断られて当然と思っていたものの、ご快諾いただいて「で、我々は、神々をどうしたいのか。」というコピーをいただいた。歴史を俯瞰した、核心を突くコピーを書いてくださったことに感謝である。このコピーに惹かれて手にとってくれる方も多いに違いない。

(なお、法藏館さんが松岡正剛事務所に依頼したので、どうして松岡正剛さんが快諾して下さったのか詳しくはわからない。内容を評価してくださったのは間違いないと思うが…。)

出版までの作業は多くの方とのご縁があり、ダメもとだったはずの本の出版が、これ以上ない形で実現したことに自分自身ビックリである。

だが、ある意味では本を出すだけなら誰でも出来る(お金さえ出せば(笑))。大事なことは、それがちゃんと売れて読者に届き、あわよくば次の展開へと繋がっていくことである。著者割り当てもかなりの部数あるので、それを売らなければならないという現実的問題もあるが、ここだけの話、今回は初版の印税は著者に入らないので、自分の利益のために売りたいわけではない。

神代三陵を多くの人に知ってもらい、明治政府の宗教行政史を再考する機会となることが本書の目的である。そして今、右傾化しつつある日本において、神話を現実化するという、明治政府の間違いが再び繰り返されないように釘を刺すことができれば、望外の喜びである。

どうぞよろしくお願いします。 

【プロフィール】窪 壮一朗

1982年鹿児島生まれ。東京工業大学理学部数学科卒。2004年文部科学省入省、2008年退職。鹿児島県南さつま市大浦町に移住し、「南薩の田舎暮らし」の屋号で柑橘栽培を中心とする農業・食品加工業・ブックカフェ営業を手がける傍ら、郷土史や幕末以降の宗教行政史を研究。著作に『鹿児島西本願寺の草創期—なぜ鹿児島には浄土真宗が多いのか—』(私家版)がある。ブログ「南薩日乗」運営。

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2022年3月30日水曜日

はじめに——もうひとつの廃仏毀釈(その1)

明治初年に、全国各地で廃仏毀釈が起こった。

寺院や神社から仏像が撤去されて無造作に打ち捨てられ、あるいは打ち砕かれた。寺院は取り壊されたり、その建物が別の目的に転用された。僧侶たちは還俗させられ、盂蘭盆会のような行事までもが仏教的だからと取りやめさせられた。追って、葬儀も仏式で行ってはいけないとされ神式の葬儀(神葬祭)を行うよう指導された。千年以上にわたって日本文化に根付いてきた仏教が急に否定されたのである。

しかし、これは明治政府の政策ではなかった。明治政府の目的は廃仏毀釈ではなく「神仏分離」であった。それまで神道と仏教は分かちがたく結びついており、例えば神社のご神体が仏像であったり、神社への祈願にお経を奉納することもあった。逆に仏教でも神々が仏法を守護するという考えで神社への信仰が位置づけられ、いわば仏教と神道は地続きのものであった。神社の境内には寺が建てられ(神宮寺)、寺院の中に鎮守が置かれることも多かった。そういった、神道と仏教が混じり合っている状態を「神仏習合」という。

明治政府が問題視したのはこの状況だ。

明治政府は「復古」を旗印にして出発した。明治政府は江戸幕府を打倒して政権を樹立することの正統性を神話的な古代に求め、将軍ではなく天皇が日本を治める状態があるべき姿なのだとした。明治政府の実質的な出発点となった「王政復古の大号令」では、「諸事 神武創業之始ニ原(もとづ)キ」と宣言し、神武天皇の治世を今の世に再現することを高らかに謳った。それが「復古」だった。

この「復古」という考えに沿えば、仏教は元来の日本にはなかったものであるから、仏教を取り除いた状態に戻さなくてはならないということになる。また神道も仏教と入り交じった状態になっているから、仏教が伝来する前の状態へと純化しなくてはならない。国学者たちはそういう純化した神道を「復古神道」——古代にそうであったはずの神道——として構想した。彼らの構想はそのまま実現したわけではないし、実際にはそう単純に仏教を排除しようとしたのでもないが、少なくとも神社や神道から仏教的な要素を取り除く、という神仏分離政策は実行に移された。慶応4年(1868)、明治政府の出発直後のことである。

後に「神仏分離令」と呼ばれることになる一連の布告は、全国で様々に解釈された。ある場所では寺院の全面的な破壊を意味するものと曲解され、別の場所ではそれほどの破壊は起こらなかった。また破壊が起こった場所でも、地方政府の主導によって粛々と寺院の整理が実行された場所もあれば、路傍の石仏までたたき壊されるなど民衆的な暴動へと発展したところもある。そうした仏教・寺院の破壊運動を「廃仏毀釈」と呼んでいる。

しかし明治政府の意図は、あくまでも神社から仏教的な要素を取り除くということにあり、廃仏毀釈は意図するところではなかった。明治政府は総じて、そうした破壊活動をたしなめ、強引な廃仏を行わないように指導した。とはいえ、明治政府があからさまに神道を優遇し、仏教を冷遇する傾向を有していたのは否定し得ない。 政権の中枢には国学者たちが入り込み、首脳陣にも国学的な素養を有していたものが多かった。政権の基本コンセプト「復古」は、神道を国教化することを求めていた。神話の時代の日本を再現するのが「復古」だったからである。

当然、こうした明治政府の動きには仏教界は反発した。彼らは最初のうちは政府に従ったが、徐々に政府のやり方に釘を刺すようになっていく。そして政府の方としても、仏教界を敵に回すよりは、彼らの協力を得て政権を運営する方がずっと効果的だと考えるようになった。また国学者たちの構想した神道国教化政策は、実際にはあまりうまくいかなかった。仏教は日本社会の基層をなすほど人々の生活に浸透していたし、仏教の代わりとなるはずの新しい神道の教えは急ごしらえ過ぎた。

そうしたことから、神道国教化政策は明治5年3月に終わりを告げる。政府は神道を国教化することを諦め、神道と仏教が共同して国民強化に邁進する体制(教部省・大教院体制)へと移行したのである。政府はもはや仏教を一方的に排斥することはなくなった。全国的には、明治5年以降にも廃仏毀釈が続いた地域はある。しかしそれはあくまでも地方政府や神官、あるいは住民の暴走であったといえる。大まかに言えば、廃仏毀釈は明治5年3月までで終了したのである。

ところが、明治5年に前後して、それまでとは全く異質の廃仏毀釈が動き出していた。 それまでの廃仏毀釈は、政府の「神仏分離令」に触発されてはいたものの、政府の政策そのものとは見なせない。ところがこの廃仏毀釈は、厳然たる政府の政策として行われたものだったのである。

具体的には、明治4年10月に「六十六部廻国聖」と「普化宗」を明治政府は禁止した。また明治5年9月には「修験宗」を廃止する。その他、僧侶の身分を解体するような諸政策が矢継ぎ早に打たれるのである。一般には「六十六部廻国聖」や「普化宗」はあまり馴染みのないものであろうし、当時であってもこれらは比較的小集団であり社会的な影響は大きくなかった。しかしながら、実はこうした宗派の禁止は日本の仏教が受けた被害のほんの一部で、その裏では仏教の在り方を変えてしまうような変革があったのである。

従来、これらの遅れて行われた廃仏毀釈はさほど注目されず、研究書において語られる場合も神仏分離政策の延長線上として理解され、その余波とされることが多かった。しかし2000年代に入ってから、この「もうひとつの廃仏毀釈」は必ずしも神仏分離政策の結果ではなく、それとは異なる原理によって行われたものであることを明らかにする研究が発表されるようになった。

そうした研究結果は、未だ広く知られているとは言えない。それどころか、この「もうひとつの廃仏毀釈」自体がほとんど認識されておらず、それを統一的に記述した本もまだ出版されていないのが現状である。

そこで私なりに、この「もうひとつの廃仏毀釈」を語ってみたいと思う。

(つづく)

2022年2月24日木曜日

幽閉寺としての宝福寺——宝福寺の歴史と茶栽培(その4)

(「元寺と今寺、宝福寺の拡大」の続き)

近世末期に編纂された『本藩人物誌』という史料がある。戦国時代を中心に、15世紀半より17世紀までの約二世紀にわたって活躍した島津氏の一門・家中の諸士のいろは順による略伝集であるが、この史料にいくつか宝福寺が登場する記事があるので管見の限りで抜粋してみよう。

【史料五】『本藩人物誌』({}内は原文では割注)
(一)「新納二右衛門久親{初宮内少輔}(中略)正保三年島津大和守久章川辺宝福寺ヘ寺領ニテ遠島被仰付候得共元来無道人之故御家老衆下知ニ可被致背違モ難計トテ久親并市来備後家尚ヲ宝福寺ヘ差越久章無異議御下知ニ可被相附旨得ト申合候処初ハ承引無之候得共漸ニ屈シ納得ニテ伊東仁右衛門祐昌高崎宗右衛門能延御使ニテ遠島被仰付候旨被仰渡候ニ付久章出寺清泉寺江被差越一宿ニテ候然処久章家来ニ三次ト申者宝福寺ニ罷在候ニ付久親三次ヲ召列清泉寺ヘ差越候於途中三次ヨリ久親ヘ切付候顧帰リ三次ヲ打果シ早速致帰宅候トモ同廿四日右之疵相破レ死ス于時四十四歳也(後略)」(巻之二)
(二)「大野駿河守忠宗{三郎次郎治部大輔}(中略)竜伯公初テ御上洛ノ御供天正十九年四月廿七日於川辺堂尾被誅{川辺宝福寺門前市之瀬トイフ処ニ観音堂アリ忠宗被誅シ地ナリ被誅訳追テ可糺ナリ}」(巻之四)
(三)「荒尾嘉兵衛 但馬カ叔父也但馬ニ与党シテ川辺市ノ瀬ニテ誅セラル」(巻之十三)
(四)「比志島宮内少輔国隆(中略)寛永四年国隆罪科ノ条々被仰出御家老職御免ニテ河辺保福寺ヘ寺領被仰付所領家財没収被仰付同六年種子島へ配流其後切腹被仰付候」(後略)(巻之十三)
【史料五】(一)では、正保3年(1646)に島津久章(新城島津家の当主で島津家久の娘婿)が宝福寺に幽閉されている。なおここでいう「寺領」とは、寺の領地のことではなく寺に幽閉する刑罰の名前らしい。幽閉中の久章は遠島(島流し)を申しつけられたが納得せず、その説得にあたった新納久親らは久章をなんとか清泉寺(谷山にあった宝福寺の末寺)に護送したが、そこで宝福寺にいた久章の家来三次が切り付けてきて、その傷が元で久親は死亡している。

【史料五】(二)では、天正19年(1591)に大野忠宗が川辺の「堂尾」という場所で誅殺されており、割注でそこは宝福寺門前の市之瀬の観音堂がある場所だとしている。なお大野忠宗は川辺の山田2297石を知行する家臣であった。この記事では、大野忠宗は宝福寺に幽閉されていたとか、護送中であったとは書いていないので、宝福寺と大野忠宗の関係は不明であり、また誅殺された理由についても「追って糺(ただ)すべきなり」(=今はわからない)とのことである。

【史料五】(三)に登場する荒尾嘉兵衛は、田尻荒兵衛(但馬)の叔父である。田尻荒兵衛は元百姓であったが武勇に秀でて取り立てられた人物。文禄元年(1592)、梅北国兼が起こした一揆(梅北一揆)に参加して誅殺された。その叔父もこの一揆に参加しており、川辺の市之瀬で誅殺されたのである。本記事でも宝福寺と荒尾嘉兵衛の関係は不明であるが、市之瀬というのはかなり山深いところであり、誅殺の際に偶然にいる場所ではない。【史料五】(二)(三)は、やはり宝福寺と何らかの関係があるものと思われる。

【史料五】(四)では、寛永4年(1627)薩摩藩の家老であった比志島国隆が何らかの罪によって、家老の罷免、「河辺保福寺」(おそらく「川辺宝福寺」の誤記)に「寺領」(幽閉)、家財没収の処分を受けている。さらに2年後には種子島へ配流され切腹を申しつけられている。この記事に依れば、少なくとも1627年には宝福寺は「寺領」を申しつける拘置所・刑務所のような機能を果たしていた。とすれば、その36年前にあたる大野忠宗の誅殺とその一年後の梅北一揆参加者の誅殺も、宝福寺へ幽閉するまでの護送中に行われたと考えるのが自然ではないだろうか。とすると、16世紀末には、宝福寺は「罪人を拘置し、幽閉する寺」とされていたということになる。

宝福寺は二つの点でこうした機能を果たすに適した場所であった。まず、宝福寺は急峻な山中にあり脱走が困難であったということ。そしてより重要なことに、宝福寺は特定の家との関係がないフリーな立場の寺だったということである。この時代の大寺院というものは、広大な領地を持つか、特定の家の菩提寺であるか、その両方であることが多かった。島津本宗家およびその分家、上級家臣などはそれぞれ菩提寺を持って先祖の法要を行い、その見返りとして土地を中心として様々なものを菩提寺に寄進しており、それが寺院の経済を支えていた。そうでない場合も、何らかの経済基盤を持たなければ大寺院を維持していくことができなかったのは言うまでもない。例えば坊津の一乗院は特定の家の菩提寺ではなかったが、島津氏の庇護を受け貿易の後援を行っていたと見られる。しかも広大な寺領を持ち、『三国名勝図会』によれば最盛期には1500石、減じても350石を給与されていたという。一方宝福寺は、『川邊名勝誌』によればわずか59石である。そんな宝福寺が、かつては「薩州三ヶ寺」として知られた大寺院だったというのは奇異な感じがする(他の二つは勝目の「善積寺」、鹿屋市吾平町の「含粒寺」)。

そこで考えたいのは、「罪人を拘置し、幽閉する寺」=幽閉寺にされたことは宝福寺にとってどのようなことだったか、ということである。素直に考えれば、罪人の幽閉場所となることは宝福寺にとっては負担が大きかったと思われる。罪人を監視し面倒を見なくてはならないし、場合によっては門前で切り捨てられることもあったとすれば大迷惑である。であるから、政権側からはそのための相応の見返りをもらっていたに違いない。それが宝福寺の寺院経済を支えていたのであろう。ここではそれが何なのか明らかにすることは出来ないが、もしかしたら茶の栽培も見返りの一つだったのかもしれない。

先にも少し触れたように、藩政時代には茶には高額の税金が課せられていた。伏見の宝福寺が開基される五年前にあたる文禄3年(1594)に、石田三成から薩州奉行にあてた検地書に「茶えん之事、年貢もり申間敷候」とある。これは「茶園への年貢を漏らさないように」との注意であり、既に茶には年貢が課されていたことが知られる。しかも国家権力によって茶への課税は義務づけられていたわけである。この頃の茶への税率がいかばかりであったかは不明だが、慶長年間(1596〜1614)には茶一斤につき籾2升5合の割合で年貢が設定されていたようだ。近代以前の茶産業では、今のような整然とした茶園の仕立てではなく現在の数分の一の生産性しかなかったと考えられている。茶一斤(250匁=約1kg。おそらく荒茶の重さ)の生産にどのくらいの労力がかかったのか分からないが、これにかかる年貢が米2升5合(約4.5kg)ということは、茶も米も今よりもずっと価値が高かったことを考えると大きな負担であったことは間違いない。寛永年間(1624〜43)になるとさらに年貢の割合が上がり、茶一斤につき米3升5合になっている(以上『鹿児島県茶業史』による)。

こうしたことを考えると、宝福寺は幽閉寺になったことの引き換えとして、茶の栽培を無税で行うことが認められていたのかも知れない。『川邊名勝誌』によれば、宝福寺には寺領高59石余りの他に「寺地御免地」が4反9畦9歩、「門前屋敷御免地」が1町7段2畝10歩ある。「御免地」とは免税の土地のことであり、この中で茶の栽培が行われていたとは考えられないだろうか。

しかも織豊政権下においては、茶は単なる嗜好品ではなく非常に重要な役割を負わされていた。茶の湯が外交の舞台となり、また茶器の贈答が政治的な性質を帯びるようになったからである。最高級の茶器は一国の命運を左右するほどの価値を持っていた。茶そのものは消費財であることもあり、それほどの重要性はなかったが、この頃に茶の需要が増したことも確かである。それでは、川辺の宝福寺は、伏見の宝福寺を通じて宇治から茶の種や苗を仕入れて茶栽培を開始したのだろうか。先述のとおり伏見の宝福寺は現存しているため、思い切って薩摩藩や茶栽培との関係を問い合わせてみたところ、ご住職と思われる方から次の回答をいただいた。
「元は真言宗の寺でしたが、本寺宝福寺の住職?が開山となり曹洞宗寺院となったようです。豊臣秀吉の祈願寺として、当時の住職が伏見城内金毘羅堂で祈祷したようです。付近には薩摩藩屋敷跡もありますが、関わる資料は皆無です。当寺は、一代補住ばかりですので資料保存もほとんどありません。」「「茶」に関しては、資料は皆無です。」

このように、推測を裏付ける回答はなかったものの、同時に「現在の本寺跡の写真を見て、一度は拝登したいものだと思っております。」とのコメントをいただき、本末関係が途絶して約150年経過しているにも関わらず川辺の宝福寺に関心を寄せて下さっていることに感激した次第である。なお「豊臣秀吉の祈願寺として」云々については、伏見の宝福寺の開基は秀吉死後であるため、真言宗時代のことと思われる。

以上の通り、伏見の宝福寺から川辺に茶がもたらされたとする仮説は、それを裏付ける史料や遺物が存在せず、空想の域を出ないと言わざるを得ない。しかしながら、宝福寺での茶栽培は江戸時代の初期(17世紀前半)には始まっていたと考えられ、既に考察したように16世紀前半までに始まっていた可能性は低いので、伏見の宝福寺が茶栽培において何らかの役割を果たした可能性はあると考えられる。

<おわりに>

本稿では、宝福寺での茶生産がどのように始まったのかを推測することが目的であったが、その時期についてはある程度絞り込めたものの、それ以外についてはやはり不明であるということが結論である。

とはいえ、茶の伝来については、DNA分析を行えば明らかにすることができるかもしれない。冒頭に述べたように、宝福寺のチャノキは中国から渡ってきた原種の形質を保っていると言われるが、その遺伝子がどの地方のどのチャノキに由来するのかが分析できれば、少なくともどこから伝来したのかは解き明かすことが出来るはずだ。

宝福寺の茶栽培は、現在南九州市で行われている大規模な茶業の直接の祖ではないが、この地域で古くから茶が栽培され、しかもそれが薩摩藩内における最高級品として扱われていたことは注目すべき歴史的事実である。宝福寺の茶栽培の起源を明らかにすることは「知覧茶」の推進にも役立つかも知れない。今後は、文献史学からだけではなく、科学的手法による研究の進展も期待したい。

また本稿を作成するにあたり、『川邊名勝誌』や「覚卍伝」、『本藩人物誌』を読みなおしてみて、字堂覚卍という傑出した僧侶の人生に改めて興味が湧くとともに、宝福寺には茶栽培以外にもまだまだ解くべき謎が残っているということをつくづく感じた。特に伏見の宝福寺の存在は大きな謎である。なぜ豊臣秀吉の死後、政治的に不安定になっていた時期に島津義弘の屋敷の目と鼻の先に宝福寺が開基されたのか、深い理由がありそうである。

2022年、宝福寺は開基600年を迎えたことになる。これを機に多くの人が宝福寺に関心を抱き、宝福寺研究がさらに進展することを期待したい。本稿がその一助となれば望外の喜びである。

最後に、本稿をまとめるにあたり南九州市役所文化財課の新地浩一郎学芸員(役職要確認)に多大なる協力をいただいた。また問合せに快く回答してくださった伏見の宝福寺のご住職にもこの場を借りて改めて感謝の意を表したい。

【参考文献】
足立東平「島津藩政時代の茶の歴史 (I)(II)(III)」
鹿児島県茶業振興連絡協議会編『鹿児島県茶業史』

2021年12月31日金曜日

元寺と今寺、宝福寺の拡大——宝福寺の歴史と茶栽培(その3)


前回からのつづき)

覚卍が無一物の暮らしを貫いていたとすれば、宝福寺での衣食住はどうまかなわれていたのだろうか。覚卍自身は「寒暑を避けず、草を編み衣となし、飢えれば則ち菓蓏を食べる」という自然と一体化した生活が出来たとしても、その頃の宝福寺には覚卍を慕ってきた人々が三渓を為すほど多く、しかも彼らは覚卍と同様の頭陀行に徹していた。

しかし覚卍的な自然からの採集生活ができるのは深山幽谷にあってもせいぜい十人程度のものであろう。普通、「頭陀行」と言えば普通は托鉢を示すが、険阻な山奥にある宝福寺から街へ托鉢に出るのは毎日できることではなかったように思われるし、毎日街へ托鉢に行くとすれば山奥で修行する意味も薄い。そう考えると、覚卍の魅力に引かれ多くの人が宝福寺を訪れたことは事実だろうが、覚卍が健在な時にはその滞在は一時的なものであったのだろう。おそらく当時の宝福寺には立派な伽藍もなく、山岳寺院本来の自然と一体化した暮らしが行われていたのではないかと思われる。

だが覚卍という偉大なカリスマの死後、宝福寺はこのような在り方で存続していくことはできなかった。宝福寺は、覚卍の理想とは違う、立派な七堂伽藍を備えた大寺院として発展していくのである。

それを象徴するのが、寺院の移転である。宝福寺には覚卍が開いた「元寺」跡と、移転後の「今寺」跡という二箇所の遺構が残されている。「元寺」にも立派な石積みなどが残されているが、急峻な山に囲まれているところで、大規模な寺院建築には適さず、あまり多くの人が暮らせそうな場所はない。一方「今寺」の方は、同じく山中にあるものの割と平坦な土地が広がっていて、寺院の建設にはずっと適している。宝福寺の経営規模が拡大したため、よりその経営に適した土地に移転したというのが「今寺」の建設であったと考えられる。

とはいえ、それは覚卍の理想を忘れて堕落した結果だということはできない。というのは、宝福寺には覚卍の遺徳を慕って多くの人が訪れていたに違いない。そうした人々全員が覚卍風の頭陀行を行うことは現実的でない以上、覚卍を嗣いだ住持にとっては、集まってくる人々を養っていく手立てを講じる必要があっただろうからだ。覚卍たった一人ならば無一物の暮らしは理想的であったのだろうが、多くの人がその教えを学ぼうとする以上、宝福寺は組織的な経営を行わざるをえなかったのである。

「本寺」から「今寺」への移転は、『川邊名勝誌』や『三国名勝図会』には詳細な記載がないが、『川辺町郷土誌』によれば六代雲岳和尚(天文16年(1547)示寂)の時とされており、経営方針転換後の宝福寺はその規模をさらに拡大させたようである。今の企業と同様に、規模が拡大することでさらに強固な経営基盤が必要となっていくからだ。

こうしてこの時代、宝福寺には急に寄進が続いている。特に七代南室和尚は、日新公(島津忠良)により重んじられたらしく、加世田村小湊の田(10石5合2勺1分)と「中之塩屋一間」、「御分国勧進」(の権利)が寄進されている。特に注目されるのは加世田小湊の塩田「中之塩屋一間」が寄進されていることだ(だだし「一間」がどのくらいの広さ・単位を表すのか不明)。

赤穂の塩田が東大寺の庄園だったように、製塩業と寺院とは古代から深いつながりがある。『川邊名勝誌』に掲載された伝説では、宝福寺が山深い場所にあって塩の入手に苦労しているため日新公は塩田を寄進した、となっているが、そもそも宝福寺と小湊ではかなり距離がある。ほかの寺領が清水にあって宝福寺の近くにあるのに、なぜ宝福寺に小湊の土地を寄進したか。それは宝福寺の経営が拡大し、すでに多くの場所に拠点があったからであろう。そして塩の販売による現金収入が必要だったからではないかと思われる。そしてこうした経営の拡大に伴って宝福寺は各地に末寺を増やしていったのだろう。小湊の「中之塩屋」が寄進されたのが天文21年(1552)。どうやら宝福寺の拡大時期は1500年代半ばからということのようである。

そうして増えていった末寺の一つに、京都伏見の宝福寺がある。これは宝福寺と茶の繋がりを考える上で看過できないことである。伝説的な部分が多いとはいえ、藩政時代における鹿児島の茶産地は全て宇治から茶栽培が伝わったとされているからである。宇治と伏見は目と鼻の先にある。宝福寺には、伏見にあった末寺を通じて茶の栽培が導入されたのではないだろうか。

『川邊名勝誌』によれば、「伏見 宝福寺」は末寺の筆頭に掲げられ、「右開山覚卍禅師開基之寺ニ而御座候」とされている。同誌にはそれ以外の情報はなく、どういった経緯で宝福寺が同名の末寺を伏見に持つに至ったのか不明というほかない。しかしながら、その情報にしても、覚卍が伏見に宝福寺を開くことはまずあり得ない。確かに覚卍は南禅寺時代には京都にいた。しかし転宗して薩摩に帰郷してからは京都に出向いたという記録はなく、また覚卍のライフスタイルから推して考えても京都に出張していくことはないだろう。

実はこの宝福寺は現在でも「久祥山寶福寺(曹洞宗)」として京都市伏見区西大文字町に存続している。この「伏見の宝福寺」に伝わる開基の由来はこうなっている。

【史料四】久祥山寶福寺の「歴史や由緒」(抜粋)
「当寺は、元「瑞応院」と号し、「伏見九郷森村」にあったが、応仁の乱(1467~77)によって兵火に遭い、末寺に寺号を移した。永禄2年(正親町天皇御宇=1559)に、出雲国野﨑浦城主・野﨑従五位備前守(久祥院殿太雄覺山大居士)が国を譲り、当地に閑居して開基となり、「久祥院」と改名し真言宗・冨明法印を開創開山とした。その後、豊臣秀吉公が「伏見九郷」を開拓して文禄3年(1594)に伏見城を築城し、慶長4年(1599)に薩摩国川邉郷曹洞宗寶福寺11代目住職・日孝芳旭大和尚を特請し、曹洞宗開山となり「久祥山寶福禅寺」と改名し、大本山永平寺(福井県・道元禅師開山)と大本山總持寺(神奈川県・瑩山禅師開山)の両本山とする曹洞宗の法脈・法燈を現在も継承している。」

(※久祥山寶福寺WEBサイトより、2021年10月取得 
https://sotozen-navi.com/detail/article_260049_1.html#art1

これによれば、伏見の宝福寺は、元来は瑞応院という真言宗の寺院だったが、慶長4年(1599)に川辺の宝福寺の11代日孝芳旭大和尚により曹洞宗開山となり宝福寺と改称した、ということである。この1599年という年代は、先ほど考察したように川辺の宝福寺の拡大期とも合致している。

ところが川辺に伝わる伝承と食い違うのは、第一に伏見の宝福寺を開基したのが覚卍ではなく「 11代日孝芳旭」という人物になっていること(すなわち開基の年代が大きく異なる)、第二に川辺での伝承では11代は「海雲(または「海雲呑」)という人物であるということだ。これはどのように考えればいいのか。なお11代だけでなくその前後にも「日孝芳旭」という住持は川辺側の記録には存在していないようだ(『川邊名勝誌』および『川辺町郷土誌』に引用された「万延元年寺院由来書上帳」による)。

しかしながら、伏見の宝福寺は現在まで存続しており伝承が連続していると考えられること、開山の人物を間違える可能性は小さいということから、ここでは伏見の宝福寺の伝承の方が正しそうだとしておきたい。日孝芳旭は伏見の宝福寺に移籍したため、川辺の宝福寺の法統から除外されたのかも知れない。

それでは、伏見の宝福寺が曹洞宗として開山した1599年とはどのような時期だったのか、再び茶からは逸れる部分もあるが概観してみることとする。

文禄2年(1593)、天下人・豊臣秀吉は本拠地である大阪城を秀次に譲り、自身は築城中の伏見城(指月伏見城)へ隠居した。しかし同時期、秀吉にとっても思わぬことであったが実子秀頼が誕生したため、伏見城はやがて隠居所の性格が薄れていくこととなる。秀吉は一度は隠居したものの、権力を秀頼に継承させるべく引き続き政務の実権を保持し続けることになったからである。文禄4年(1595)には関白秀次が失脚し一族もろとも処刑され、権力は再び秀吉の一極集中となっていく。

文禄5年(1596)には指月伏見城が同年の慶長大地震で倒壊してしまい、伏見城は北東に1㎞ほど離れた木場山へ全国の大名を動員して再建された。慶長2年(1597)に天主が完成し秀吉が移徙(いし=引っ越し)。この間、伏見には全国の大名屋敷が建築され政治的中心となった。「西尾市岩瀬文庫」収蔵の「伏見図」(慶長年間に製作されたと思われる)によると、伏見城を取り囲むように諸大名の屋敷が配置されているが、このような都市がたった数年という短い期間に造成されたことに驚きを禁じ得ない。秀次失脚の以前は、大名屋敷は秀次の居館である聚楽城の周辺に造営されていたのであるが、秀次失脚の後に聚楽城は派却されてその一部が伏見に移転された。おそらくそれと同時期に大名屋敷も伏見に建築されたのだろう。このようにして、一時期ではあったが伏見は日本の政治的中心になったのである。

慶長3年(1598)、豊臣秀吉が死亡すると伏見城は五大老の筆頭であった徳川家康に引き継がれる。しばらくは豊臣政権は存続の構えを見せたものの、絶対権力者であった秀吉が死亡したことは全国の大名に動揺を与え、島津家でも新たな権力闘争の動きに入っていくことになる。事実、翌1599年には島津家の家老伊集院忠棟が島津忠恒(後の第19代当主島津家久)によって伏見において誅殺されている。伊集院忠棟は島津家の家臣であるとともに、秀吉から直接知行を安堵された「御朱印衆」(つまり秀吉の家臣)でもあり、島津家領国における太閤検地を石田三成とともに推進した人物である。伊集院忠棟を誅殺したことは、島津家として豊臣政権から距離を置こうとしていることの表れといえよう。やや長くなったが伏見の宝福寺が曹洞宗開基となった1599年はこのような時期であった。

先述の「伏見図」では、島津関係として「嶋津但馬守」「嶋津右馬守」「嶋津右馬頭」「嶋津兵庫」の四つの屋敷が掲載されており、宝福寺も「嶋津兵庫(島津義弘)」の屋敷のそばに「禅 寶福寺」としてしっかり書かれている。

この図を見てすぐに理解できることは、秀吉の意向によって急ごしらえで作られた政治都市伏見において寺院の新設が自然発生的に行われるはずもなく、宝福寺の末寺開基にも政策的必要性があったに違いないということだ。ではどのような必要性だったのかということについては残念ながら史料からは明らかでない。

ところで以前から、宝福寺は琉球とのパイプを持っていたらしき形跡がある。「覚卍伝」において宝福寺には「琉球」「筑前」「豊後」の三渓があったとされているが、琉球から多くの人が訪れていたのである。また琉球禅林の祖であり首里円覚寺の開山である芥隠承琥(かいいん・じょうこ)は、琉球渡海前に宝福寺に滞在し覚卍に師事したとされている。16世紀末、文禄・慶長の役後の明との国交回復のために琉球国との外交が非常に重要になっており、そのために伏見の宝福寺が開基されたのかもしれない。しかも、宝福寺はそれ以前からも島津氏によって政治的に利用されていたフシがある。

宝福寺は罪人が幽閉される寺だったようなのである。

(つづく) 

※画像(伏見図)は西尾市岩瀬文庫/古典籍書誌データベースより。注釈は著者が挿入。原図では東が上になっているが、北が上になるよう改変している。

【参考文献】
『「不屈の両殿」島津義久・義弘—関ヶ原後も生き抜いた才智と武勇』新名 一仁 著

2021年11月30日火曜日

字堂覚卍は茶をもたらしたか——宝福寺の歴史と茶栽培(その2)

前回からの続き)

宝福寺ではいつ頃、どのようにして茶の栽培が始まったのだろうか。

それを示す直接的な史料は今のところ見出すことができないため、いくつかあり得そうな道筋を考察してみたい。まずは、宝福寺の開基である字堂覚卍(じどう・かくまん)について考えてみる。

字堂覚卍については、『三国名勝図会』(巻之十一)の樋脇の「永禎山玄豊寺」の項に詳細な伝記(以下「覚卍伝」という)が掲載されている。『川邊名勝誌』、『本朝高僧伝』、『延宝伝灯録』にも覚卍の伝記が掲載されているが、これらは全て「覚卍伝」に基づいているようだ。

以下、「覚卍伝」に従って字堂覚卍の生涯を簡単に紹介する(なお「覚卍伝」は、貞享三年(1686)に玄豊寺に建立された石碑に刻まれているもので、覚卍死後約250年を経たものであるから伝説的な要素を割り引いて考える必要がある)。

字堂覚卍は鹿児島に生まれ、幼い頃から大変な俊英だったらしく、京都の南禅寺(臨済宗)で椿庭海寿(ちんてい・かいじゅ)に二十余年学び、応永9年(1402)帰郷した。覚卍は「日置郡藤氏」の家系らしいがその父母の名は明らかでない。家格的な後ろ盾がないにもかかわらず臨済宗における最高の寺である南禅寺(五山十刹制度における「五山之上」。足利義満以前は「五山第一」)に入ったということは、覚卍その人の力量が抜きんでたものだったのだろう。

ところが、帰郷した覚卍はエリートコースを捨てる。臨済宗の教えは覚卍を満足させることはできなかった。覚卍は「破鞋(はあい)庵」—破れわらじ—という庵を結んで世捨て人同然の暮らしをした。その時の偈にはこうある。「人有り、若し意の何如んと問えば、推し出す秦時の轆轢鑽(たくらくさん)。」これは、「どうしてあなたほどの人がそんなところにいるんですか? と問う人がいたら、無用の長物が押し出されただけだよと答えよう」というような意味である(秦時の轆轢鑽=役に立たない品を意味する禅語)。「破鞋庵」の楣(まぐさ)(出入り口の上部に取り付けた横木)にも、「秦鑽」(「秦時の轆轢鑽」を約めた言葉)と書いていた。南禅寺で二十余年修行して禅を究めたはずの覚卍は、自分を役立たずだと言っていたのである。この偈を不審に思った竹居正猷(ちくご・しょうゆう)(妙円寺・福昌寺第二世)がその意を尋ねたところ、覚卍は「私は道を理解せず、禅を理解せず、いたずらに“馬の角と亀の毛”(=存在しないものの譬え)を論じるだけの人間になってしまった」と答えたという。この頃の覚卍は生きる道を見失い、自嘲気味になっていたようである。

その後、覚卍は樋脇に移り玄豊寺を開く。なぜ世捨て人となった覚卍が寺を開基したのかは詳らかでない。その後、覚卍の人生は再び動き出す。加賀(石川県)の瑞川寺(曹洞宗)に行き竹窓智厳(ちくそう・ちごん)に学んだのである。南禅寺で臨済禅を学び、かえって道を見失った覚卍は、今度は曹洞禅を学んだ。同じ禅宗でも臨済宗は体制派的であり、曹洞宗は在野的である。この転宗によって覚卍は何かを摑んだように見える。そして応永21年(1414)、竹窓智厳の法を嗣いで帰郷した。覚卍は58歳になっていた。

帰郷した覚卍は烏帽子岳に住んでまたしても世捨て人的な生活をし、毎夜漁り火が見えるのを嫌って、より山奥の川辺の熊ヶ嶽に移ってきた、熊ヶ嶽でも「寒暑を避けず、草を編み衣となし、飢えれば則ち菓蓏(から)(木の実と草の実)を食べる」という生活をしたが、通りがかった猟人藤田氏が覚卍の行いに感銘を受け、覚卍のために庵を建てたのが宝福寺の始まりとなった。『川邊名勝誌』では応永29年(1422)が開基の年ということになっている。

その後、覚卍の声望はつとに高まり、非常に多くの人が覚卍を慕ってやってきた。宝福寺には「琉球」「筑前」「豊後」と名付けられた谷(三渓)があって、そこにはそれぞれの出身者がまとまって住んでいたということである。福昌寺第三世住持の仲翁守邦(ちゅうおう・しゅほう)もその徳を聞いて話を聞きにやってきた。先ほどの竹居正猷もそうだが、仲翁守邦も当時の薩摩における曹洞宗の最高権威である。わざわざ覚卍の話を聞きに熊ヶ嶽までやってくるというのは、覚卍の声望が非常に高かったことを物語る。それに対し、覚卍は次の偈を以て応えた。

玉龍は奮迅として烟霞に出ず、下りて訪う南山の瞥(ママ)鼻蛇。
碧漢は霈然(はいぜん)として法雨を傾け、寒林枯木、盡(ことごと)く花開く

この偈は当時の覚卍の心境を伝える数少ないものであるから、少し意味を繙いてみたい。現代語に翻訳すれば次のようになる。「玉龍が勢いよく、もうもうとした霞の中から出てきて、天から下り“南山の鼈鼻蛇(べっびだ)”を訪ねてきました。天(碧漢)はざあざあと法の雨を降らし、冬枯れの寒林枯木が悉く花開いております。」

「玉龍」とは言うまでもなく玉龍山福昌寺の仲翁守邦のこと。「南山の鼈鼻蛇」とは、『碧巌録』第二十二則に出てくる言葉で、スッポンのように鼻がつぶれた毒蛇(コブラ?)のことらしい。「鼈鼻蛇」が何の比喩なのかはいろいろな考えがあるが、要するに自らの中にいる怪物、迷いに覆われた「真実の自己」、といったようなものであると考えられている。覚卍は自分を「南山の鼈鼻蛇」に譬えた。「この迷妄の怪物のところへ、よく訪ねてきてくださいました」というところか。かつて自分を「秦時の轆轢鑽」に譬えた覚卍は、今度は自分を「毒蛇」と言っているのである。そして次の行の「寒林枯木」も覚卍が自身を重ねた言葉かもしれない。「大自然の中で仏の慈悲に包まれ、“寒林枯木”にも花が咲きました」という。同じ無一物の世捨て人的な暮らしであっても、破鞋庵時代とはちょっと雰囲気が違う。かつての自嘲気味な態度は消えてなくなり、自分が「鼈鼻蛇」「寒林枯木」であることを楽しんでいる様子すら感じられる。

こうして覚卍は永享9年(1437)に81歳で死亡した。そこから逆算すると、覚卍の生没年は1358〜1437年ということになる。

なお、瑞川寺が開かれたのは応永20年(1413)であるが、覚卍が法を嗣いだ58歳の時は1414年頃だから、創建間もない瑞川寺に行って一年しか修行せず法を嗣いだということになる。南禅寺で二十数年修行したのに比べると随分短い修行期間のような気がする。

ちなみに、瑞川寺を開いたのは竹窓智厳の師匠にあたる了堂真覚(りょうどう・しんがく)であるが、『三国名勝図会』によれば、了堂真覚は市来氏に招かれ永和3年(1377)に市来の大里に萬年山金鐘寺(曹洞宗)を開基している。この金鐘寺は能登の総持寺の直末であったという。そして金鐘寺の二世となったのが竹窓智厳であり、加賀の瑞川寺はこの金鐘寺の末寺だったということである。なお宝福寺ははじめ瑞川寺の末寺であり、瑞川寺が破壊された後は金鐘寺の末寺となったという。

これらの事実関係は『三国名勝図会』以外の資料で跡づけることができないが、それを信頼するとすれば、覚卍は市来の金鐘寺で竹窓智厳や了堂真覚と出会い、臨済宗から曹洞宗に転宗して、瑞川寺の創建に伴って竹窓智厳と共に加賀へゆき、法を嗣いで帰郷したと考えるのが自然である。そうすれば瑞川寺での異常に短い修行期間も説明がつく。

また、了堂真覚と字堂覚卍という名前の類似を考えると、覚卍が禅への不信を乗り越え、再び禅の道に入ったきっかけはむしろ了堂真覚にあったように想像したくなる。「字堂」という法号は(ひょっとすると覚卍という諱も)了堂真覚によって与えられたものではないだろうか。覚卍は南禅寺時代と名前が変わっている可能性がある。

話がやや脇道に逸れたが、ともかく川辺の宝福寺を開基した字堂覚卍は、室町時代初期を生きた人物で、臨済宗から曹洞宗に転宗した僧侶、ということである。

覚卍が生きた時代、京都の寺院では闘茶といって茶の銘柄を当てる賭け事が流行していた。そしてこの頃、茶の栽培はほとんど寺院か寺院領の庄園で行われていたと考えられている。このことを踏まえると、覚卍は南禅寺時代に喫茶および茶栽培を知り、それを川辺の宝福寺にもたらしたと考えることはできないだろうか。

しかしそのようには考えられない理由がいくつかある。

第一に、その行状を見る限り、覚卍は賭け事の闘茶にうつつを抜かすような人物には思えないということである。南禅寺での修行を終えて破鞋庵を結んだ時も、川辺に来てからも、無一物を貫く清貧な暮らしをしており、むしろ闘茶のような遊興を嫌っていたと考えるのが自然だろう。

第二に、覚卍は徹底して「頭陀(ずだ)行(=托鉢行)」を実践しており、茶であれほかの農産物であれ、自ら生産などを行うことは考えられないということだ。「覚卍伝」によれば、八代当主島津久豊とその子忠国は覚卍に帰依し、宝福寺に「腴田(ひでん)(肥沃な田)を寄進したい」と申し出たものの、覚卍はこれを固辞し、「仏勅に遵い、頭陀を行う、以て其の身を終えん」と答えたそうである。そしてそれは覚卍のみならず、宝福寺の寺衆は皆それに倣っているということだ。中世においては、寺は寺地や庄園を持って生産活動を行い、一般よりも進んだ経済を営んでいたのであるが、宝福寺ではそのような生産活動は一切否定され、無一物を理想とする仏道修行が行われていた。それを考えると、嗜好品である茶の栽培を手がけるということは覚卍にはありえそうもないことだ。

そして第三に、もし覚卍が茶栽培をもたらしたとすれば、「覚卍伝」にそのことが書いていないのは不自然だということである。「覚卍伝」には多分に伝説的な事項を含めその生涯が述べられている。仮に覚卍が茶の栽培をもたらしていないとしても、そうした伝説を覚卍に付託してもおかしくないほどである。そう考えると、宝福寺での茶栽培は「覚卍伝」の撰述(=1686)の近過去に始まったことと認識されていて、とても覚卍まで遡らせることはできなかったのではないだろうか。

以上をまとめると、覚卍が宝福寺に茶栽培をもたらした可能性はほとんどないと結論づけることができる。

(つづく)

【参考文献】
伊吹敦『禅の歴史』
※冒頭の法統系図は『禅の歴史』所収の系図より抜粋し、覚卍関係を著者が追記して作成しました。

2021年11月26日金曜日

宝福寺での茶栽培の記録——宝福寺の歴史と茶栽培(その1)

南九州市川辺町清水には、かつて忠徳山宝福寺(曹洞宗)という寺があった。

宝福寺は「山ん寺」として知られた大きな寺院で、往時はお茶が栽培されていたという。その廃寺跡(今寺跡)には、その頃の名残と見られるチャノキが今でも自生しており、このチャノキは中国から渡ってきた原種の形質を保っていると言われている。しかしながら、宝福寺での茶の生産は記録が残っていないためよくわからないことが多い。そこで、既出の情報を整理し、宝福寺の歴史を振り返ってその茶生産がどのように始まったのかを推測してみたい。

まず、藩政時代(またはそれ以前)に宝福寺で茶栽培がされていたことを示す一次史料を見つけることはできなかった。編纂ものとしても、例えば江戸時代後期に編纂された『三国名勝図会』には宝福寺の項目があるが、茶が栽培されていたとは一言も書いていない。その記載の出典である『川邊名勝誌』も同様である。宝福寺跡にチャノキが自生している以上、かつての宝福寺で茶が栽培されていたことは確実と思われるが、名勝誌等になぜ記載がないのかは謎である。

次の二つの史料は、近現代の編纂ものだが宝福寺(または川辺)での茶の生産・流通について触れている。なお文章番号は便宜的につけた(以後同じ)。

【史料一】『川邊村郷土誌』
(一)「延享年間(二四〇四※)煎茶蒸茶各々少し宛(ずつ)江戸御用として買入度に付風味茶として差出べき様寶福寺に申付けらる」
(二)「寛政九年(二四五七)二月十五日茶園仕立方被仰渡候に付苗木二千三百八十株を新に植附其旨届出たり」
(三)「文久三年(二五二二)正月町名子源右衛門の子與八へ茶、卵一手買ひ纏め方差許され錢四十二貫文宛上納することを許可せらる」
(※原文ママ。皇紀による換算。以下同様。西暦換算では、延享年間=1744〜47年、寛政九年=1797年、文久三年=1863年。)
【史料二】『川辺町郷土誌』
(一)「熊ヶ岳の宝福寺では茶を毎年藩に上納して銭一貫文ずつを賜ったという」

これらの記載は、郷土誌編纂の際に何かの史料から抜き出したものと考えられるが、その原典を探し出すことが出来なかった。『旧記雑録』ではないかと考え、該当の年代を一ページずつめくりながら確認してみたがこれらの記事は存在していないようだ。原典史料をご存じの方は御高教いただけると有り難い。

原典史料が不明であるため、本来はこれらの記述はいくらか留保して考えなければならない。正確に原典を転記していないかもしれないし、原典史料の信頼性が低いかもしれない。しかし郷土誌編纂時には多くの人がチェックしたはずであり、ある程度確かなものとみなせると思う。

またこの他、【史料二】には、直接宝福寺に言及したものではないが次の記述がある。

【史料二】『川辺町郷土誌』
(二)「万治元年(一六五八)の検地では、田部田村に茶一斤二百三十匁が記録され、享保九年(一七二四)の内検では両添村に茶九十匁を生産したことになっている」
これらの記述から宝福寺での茶栽培について読み取れることを少し考えてみたい。

まず【史料一】(一)では、延享年間(1744〜47)に「煎茶蒸茶」を「江戸御用」として買い上げたいので「風味茶」を宝福寺に差し出すよう申しつけている。「江戸御用」が、江戸の藩邸における藩主の「御用茶」なのか、将軍に献上する「将軍家御用茶」なのか判然としないが、いずれにしても最高級品の茶が求められることは間違いない。当時の宝福寺では、薩摩藩内において最高級品の茶が生産されていたということになる。ちなみに、鹿児島県内で同じく茶が栽培されていた寺院として吉松の般若寺(真言宗)が知られている。『三国名勝図会』の「吉松」の項(巻之四十一)には次の記載がある。

【史料三】『三国名勝図会』(巻之四十一)
(一)[物産]「茶 當郷諸村の内に多く産す、名品種々あり、本藩の内、茶の名品は吉松、都城、阿久根を以て、上品とす、其の内にても吉松の産は、往古より特に久しく名品を出す、凡そ當郷の地は、茶性に相愜(かな)ひ、茶種を蒔ざれども、山林の間、天然に生じ易し、その名産ある推て知るべし」
(二)[般若寺]「茶園 當寺の境内に多し、名品にして、世に是を賞美す、名を朝日の森と呼へり」

『三国名勝図会』編纂の時点(天保期(1831〜45))では、既に宝福寺の茶は名品ではなくなっていたということなのか、または地域の特産品と呼べるものではなかったからなのか、宝福寺の茶についてはこの記事では触れていない。

なお【史料一】(一)の「煎茶」と「蒸茶」の違いはよくわからないが、少なくともこの頃の宝福寺のお茶は抹茶ではなかったようである(全国的な趨勢としても江戸時代には煎茶が一般的になっていた)。

次に【史料一】(二)を見ると、寛政九年(1797)に茶園の仕立て方について藩から申し渡しがあり、苗木2380株を新に植え付けた旨を届け出ている。これは宝福寺の茶栽培が実質的には藩の支配下にあることを示している。実際、それから数年後の文化期(1804〜18)には、薩摩藩は茶を藩の専売事業に位置づけ、この頃から藩の強力な奨励がなされている。しかしながらこれは逆にいえば自由な取引を禁じることでもあったので、あまりうまくいかなかったと言われている(以上『鹿児島県茶業史』による)。

また茶の苗木を2380株植え付けたということについては、当時は今のような密植が行われることはなかったと考えられるし、現代の茶園の標準的な植え付け本数が反当たり1500〜2000株であることを踏まえると、2反(20a)ほども増産したように見受けられる。機械化が進んだ現代ではこの程度の増産は容易だが、当時は全てが手作業であるためかなり力を入れた新植だったと思われる。

次に【史料一】(三)では、文久三年(1863)に町人と見られる与八が茶・卵の「一手買い」、つまり独占的な買い占めの権利を得て、その許可料が年銭42貫文だったとしている。これは宝福寺の茶とは書いていないので、ここで与八が「一手買い」を許された茶がどこで生産されたものだったのかは明確ではない。しかしながら、薩摩藩では茶を専売品にする以前から、茶には高額な税金がかけられていたので、民間の換金作物としてはあまり生産されていなかったと考えられる。また薩摩藩では、この記事の三年前である万延元年(1860)に茶の専売制度を解いて自由販売品にしている(『鹿児島県茶業史』)。そうした状況証拠からすれば、この記事は町人の与八が宝福寺の茶の卸売りの権利を得たというように読めると思う。

ところで【史料二】(一)では、年代不明ながら宝福寺では毎年藩に茶を上納し「銭一貫文」を賜ったというが、銭一貫文とは銭貨1000文のことで、現代の貨幣価値にするとだいたい1万円強になる。江戸時代のどのあたりを換算の基準にするかにより上下するるにしても、たいした金額ではない。文久三年(1863)に与八が茶の一手買いの権利を年額42貫文で手に入れたのを見ても、藩から下賜される金額としてはいかにも小さい。これは史料の誤記ではないかと考えられる。

最後に【史料二】(二)では、これらの資料中で最も古い年代である万治元年(1658)に、田部田村では茶が一斤230匁=約1.5kgが生産されていたと述べている。田部田村の検地結果であり宝福寺の茶生産ではないが、近世以前において茶の栽培が寺院を中心に行われていたことを考えると、宝福寺での茶栽培はこれに先駆けることは間違いないように思われる。

これまでの史料をまとめると次のように言うことができる。即ち「宝福寺の茶は少なくとも江戸時代の初期には栽培されており、江戸時代半ばには藩内における最高級品であった。しかしやがて『三国名勝図会』等でも特筆されるものではなくなっていき、十八世紀末には藩の強い統制を受けて増産するものの、やがて販売自由化された」ということになろう。そして明治初期の廃仏毀釈によって宝福寺が廃寺になることによって茶栽培も終了したのである。

(つづく)

【参考文献】
『鹿児島県茶業史』1986年、鹿児島県茶業振興連絡協議会編

 ※冒頭写真は宝福寺跡に今も自生するチャノキ

2021年1月10日日曜日

島津亀寿の戦い——秋目の謎(その4)

(「秋目からルソンへ」からの続き)

薩摩藩から独立した立場を築いていたらしき貿易港、秋目を私領地としていた持明夫人こと島津亀寿(かめじゅ)とは何者だったのだろうか(以後、表記を「亀寿」で統一する)。

島津亀寿は、元亀2年(1571)島津氏第16代当主・島津義久の三女として誕生した。亀寿が生まれた頃の島津家は、島津義久・義弘の兄弟が中心となって九州最強の勢力を誇っていた時代である。しかし亀寿が17歳の時には、島津はへ豊臣秀吉の九州征伐に敗北。島津家としては難しいかじ取りが求められるようになる。

亀寿は三女とは言っても正室の娘としては長女であり、義久には男子が誕生しなかったため、亀寿は島津本家を受け継ぐ存在となった。彼女の夫となるものは、島津家の当主となるべき人だったのである。

それであるだけに亀寿の生涯は不遇であったといえる。亀寿はいとこ(義弘の子)の島津久保(ひさやす)と結婚する。久保は次期島津家当主になるべく亀寿と結婚したが、これは政略結婚とはいえ、二人は仲むつまじい関係だったようだ。ところが秀吉の朝鮮の役のため久保は朝鮮に渡り客死。結婚生活は5年未満と見られる。

その後、亀寿は秀吉の命によって島津忠恒(ただつね)と強制的に再婚させられた。忠恒は久保の弟である。この婚姻は島津家当主にすら相談なく決められたものらしい。

亀寿は久保と夫婦の時も、忠恒と再婚してからも、秀吉への人質として京都に送られた。亀寿はこうして20代のほとんどを人質として過ごさなくてはならなかった。この人質に対する褒賞として、亀寿は1万石の領地が無公役(無税)で贈られるのである。史料上は不明確だが、この中に秋目も入っていたのだと思われる。

ところで、亀寿と忠恒との夫婦仲は非常に悪かった。島津氏の歴史で、最悪といってもいい。忠恒は亀寿に対してひとかけらの愛情もなかったようである。亀寿は醜女(しこめ)であったと伝えられるが、それが事実だとしても、世継ぎを産むのが女性の重要な役目であったこの時代において、忠恒は正室である亀寿と子作りをしようとしなかったらしいことは異常である。

関ヶ原の戦いが勃発すると亀寿は京都を脱出し鹿児島に帰還。それから10年間は、父義久の後見もあって、忠恒との対立は続きながらも亀寿は島津本家の家督相続決定権者として重きをなしたように見える。

彼女は島津家当主が引き継ぐべき歴代宝物を所有し、それを決して夫忠恒には渡さなかった。島津家にとってのレガリア(それを持つことによって正統な王、君主であると認めさせる象徴となる物)の家宝だったからだ。亀寿は、忠恒を正当な島津家当主とは認めたくなかったのだ。

しかし慶長16年(1611)、義久が死去すると、忠恒(家康から「家」の字(遍諱)を受けて「家久」に改名。以後「家久」と表記)は亀寿を鹿児島から追い出し、義弘の居城だった国分の国分城へ追いやった。そしてそれまで亀寿とは子どもをもうけていなかったのに、家久は当てつけのように8人の側室を置いて、33人もの子どもをもうけた。

さて、秋目からルソンへ貿易船が出航した時期は、亀寿が父義久の後見の下でそれなりに地位が安定していた10年間に含まれる。

こう考えてゆくと、秋目は、亀寿が家久に対抗していくために私的に保護した貿易港であったように思われてならない。秋目を拠点に貿易を行なっていた商人たちは、誰の後援もなく幕府から「朱印状」を取得するのは難しかっただろうからだ。亀寿は公式ルートとは別の筋で(おそらくは公家ルートで)幕府との交流や要人との連携があったのではないだろうか。

史料上で裏付けされない、こういう空想を人は妄想として退けるかもしれない。まあ「歴史ロマン」の類である。ところが、先日「しいまんづ雑記旧録」というブログを見ていたら、この空想を傍証してくれるような「『中山世譜』の島津亀寿」という記事を見つけた。

【参考】しいまんづ雑記旧録
http://sheemandzu.blog.shinobi.jp/

この記事によれば、琉球の歴史書『中山世譜』に、まだ亀寿が亡くなっていない1620年、亀寿が亡くなったことになっていて、その葬いのために琉球王からの使者が鹿児島を訪れた、という記録があるのである。

どうして亀寿は死んだことにされたのだろうか。この記事に続く「『中山世譜』の島津亀寿 続」でそれが考察され、亀寿を庇っていたらしい島津義弘が前年1619年に死亡したことを受け、「家久(忠恒)にとっては亀寿を徹底的に排除できるチャンスが訪れたと言うことになる。そこで家久(忠恒)が最初に行ったことこそが上記に書いた「琉球など対外的に亀寿を死んだことにする」事ではなかったのではないだろうか」と推測されている。

それでは、なぜ家久はこと琉球に対して亀寿を死んだことにしたかったのだろうか。もし亀寿が秋目を私的な貿易港として保護していたなら、その理由は明白である。亀寿は、島津本家とは別に、琉球交易に対して何らかの権益を持っていたのである。

もし1620年の段階で、亀寿が無力な女城主として国分に寂しく暮らしていただけであれば、島津本家はわざわざ琉球に亀寿死亡の嘘情報を流すわけがない。この時期にも、亀寿は家久に対抗しうる力を持っていた。だからこそ家久はこのような奸計を以って亀寿を排除しようとしたのである。

事実、このころまだ亀寿は島津家の歴代家宝を所有している。依然として、正統な島津家の継承者(少なくても継承者の決定権者)は島津亀寿のままである。

だが、亀寿の命脈が風前の灯火であったのもまた事実だった。「隠さなければならない繁栄」でも既に述べた通り、家久は、慶長14年(1609)、琉球へ侵攻を行って琉球を属国にしていた。そして琉球を通じて明との貿易を行うという、藩営の密貿易体制を構築していたのである。仮に亀寿が海外貿易に何らかの権益を有していたにしても、このような国際関係の前では従前のように秋目を通じた海外交易はできないだろう。ひょっとすると、琉球侵攻という暴挙は、亀寿に対抗する意味合いも含まれていたのかもしれない。

しかも徳川幕府は元和2年(1616年)に明船以外の入港を長崎・平戸に限定するという鎖国体制の一歩を進めていた。もはや日本にとっての大航海時代は、終わりを迎えていた。

貿易を私的に保護することで家久に対抗するという、島津亀寿の戦いはこうして終わりを告げた。死んだことにされた年の二年後、元和8年(1622)、亀寿は家久の次男・虎寿丸を養子にし、私領1万石と島津家歴代宝物を相続することに決定した。後の島津光久である。ここで、亀寿は宝物を家久に渡すのではなく、その息子を自分の養子にして相続させたということは、重要な意味を持っているだろう。亀寿は、義久から引き継いだレガリアを、自分を通じて養子の光久へ受け渡した。彼女にとって、家久は遂に正統な島津家当主になることはなかった。

寛永7年(1630)、島津亀寿は国分で死去した。法名は「持明彭窓庵主興国寺殿」。ここから「持明様」=「ジメサア」と呼ばれるようになる。ちなみに家久は亀寿の墓を建立することもなかった(のちに光久が慌てて建立)。つくづく酷い夫である。

私は、島津家久と亀寿は、単に夫婦仲が悪いというだけでなく、貿易に関して何らかの権益を争った競争者であったと思う。家久には認められなかったルソン交易が、なぜか秋目出港の船に認められていたという事実がそれを示唆する。

だが、女性一人がたった一万石の私領で向こうを張るには、島津家久は強大で、冷酷すぎた。それでも、そのわずかな所領の中、秋目という僻遠の地に独自の貿易港を築いて、対外関係に不思議な存在感を示したことは、彼女の戦いが決して一方的な負け戦ではなかったことを示している。

秋目に残る「持明夫人公館跡」は、そういう島津亀寿の戦いの跡であると思う。ここで島津亀寿は遥かなルソンを臨み、その貿易を基盤として家久とは違う「正統」を保っていこうとした。本当の島津家を継承していくために。

(つづく)

【参考文献】
戦国島津女系図」の「島津亀寿のページ」
http://shimadzuwomen.sengoku-jidai.com/shi/shimadzu-kameju.htm

※本文中にあげた「しいまんづ雑記旧録」の本体WEBサイトで、亀寿の生涯についての情報はほとんどこのページを参照させてもらいました。