2024年11月30日土曜日

「文芸誌」の時代

私が運営しているお店「books & cafe そらまど」では、このたび文芸誌『窻(まど)』を創刊した。

寄稿されたエッセイや短編小説による小冊子である。

【参考】文芸誌『窻』
https://sites.google.com/view/soramado/%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%A0/%E6%96%87%E8%8A%B8%E8%AA%8C%E7%AA%BB

↓ネットでも売っています。
https://books-soramado.stores.jp/items/67247cd7c3d7cd0af49372a4

今後、年に2回ずつ発行していく予定なので、ぜひ投稿していただけたらと思う。

ところで、文芸誌を作るというアイデアは、実はかなり前から抱いていた。それを最初に考えたのは、我が家(築100年以上の古民家である)の物置から、昔の文集を発掘した時だ。

そのほとんどは小学校の文集だが、他にもいろいろあった。例えば、冒頭の写真は昭和37年の『ふるさと』第15集という、「久保青年団」がつくっていた文集である。今から62年前のものだ。

これは、いわゆる「ガリ版文芸誌」である。昔は、こういうのをいろんなところで作っていた。だが青年団までが作っていたとは驚きである。しかも15集目! 1年に1冊作っていたようなので、単純計算では創刊が昭和22年ということになる。

その中に、私の伯母が書いた文章があった(青年団には女性も所属しているようだ)。こんな具合である。

職についてもうすぐ一年すぎようとしている自分自身を考えて見る あの学校を卒業した頃 職に就いてよしやるぞと思った頃のはりきった気持 あれはどこに行ってしまったのだろう だらけて若々しさがなくなり横着になって毎日をあきらめと惰性で過す日の多くなったこの頃 残念なものである。 

表現にはちょっと時代を感じるが、今の若い人がSNSで書いているようなことと、内容には大差がない。つまり普遍的だ。だから素晴らしい、というのではないが、こういう素直な文章は決して陳腐にはならない。「意外と、今読んでもおもしろいじゃん」というのが、この文集の第一印象である。

ところで、青年団の文集でタイトルが『ふるさと』なのが不思議だと思わないだろうか。ずっと地元にいる人が「ふるさと」という言葉を使うことはほぼないからだ。

実はこの文集、都会に出て行った人と地元に残っている人とのつながりを保つための機関紙だったようなのだ。つまり発行元の「久保青年団」には、都会に出て行った人も所属していて、この文集を通じて近況報告をしているのである。誰が在郷者で誰が在京者なのかはいちいち表示しておらず、文面からはわからない人もいるが、3分の1くらいは在京者が寄稿しているようである。

SNSやメールはおろか、電話もロクになかった頃(←電話加入権というのが高くて、なかなか電話を引くことができなかった)、個別の手紙のやりとりで近況報告するよりも、こういう文集を作ることはすごく意味があったと思う。

今の時代では、こんな文集はあまりにも手間がかかり迂遠でもある。が、SNSなんて見ているようで誰も見ていない。そしてSNSに発した声は、線香花火のようにすぐに消えてしまう。むしろこの『ふるさと』の方が、ずっと健全で、しかも後の世に残るものになっている。今の時代はなんでも軽薄短小になった…なんてことをいうと年寄りじみているが、こと言葉だけは、その重みがかつてないほど軽くなっていることは間違いない。

こちらは、『大浦の子特輯号 創立八十周年記念誌』。

これは、先ほどの『ふるさと』より4年前の1958年(昭和33年)に発行されたもの。この年が大浦小学校創立80周年であったことから、『大浦の子』の特別版として製作されたものである(前半は、80年の歴史を振り返っており文集ではない)。

『大浦の子』とは、毎年作られている大浦小学校の文集であるが(今でも作られている!)、この頃の児童数は1200人もいたので、全員の作文が載っているのではなく、かなり厳選されたラインナップである。実は、大浦小学校は当時ものすごく作文教育が盛んで、作文コンクールでの上位常連校だったらしい。

そもそも、大浦小学校ならずとも当時は作文教育が盛んだった。当時、「綴方教育」(または「綴方生活運動」「綴方教室」)というものが盛んに行われており、その影響は『大浦の子』にも色濃く感じられる。「綴方(つづりかた)教育」とは、「現実をありのままに書くことで生活を見つめなおす」というような、作文と生活改善運動が一体になったような作文指導運動である。

当時の作文指導要領などを読んでいると、(1)それまでの文芸では顧みられていなかった、庶民の生活をありのままに書くというスタイルが強調されており、(2)特に仕事や生活の具体的かつ詳細な記述を旨とし、(3)文飾や文学的な表現よりも、正確な表現が好まれ(「ほんとうのことを書く」とわざわざ書いていたりする)、(4)一般的な作文でなく、観察記録のようなものに取り組むことも勧められている、といった特徴がある。これこそまさに「綴方教育」の指導である。

この頃の学校の作文指導や地域の作文コンクールでは「綴方教育」的な評価が支配的なのだが、面白いのは、一方でこれに反発していたらしき国語の先生も一定程度いたことだ。彼らは「ありのまま」や「正確な表現」に物足りなさを感じていたようだ。そして、「綴方教育」が生活改善運動を志向していたことの帰結として、作文の最後は「私も頑張って偉い人になります」とか「次はもっと上手にできるように工夫します」とか「これからも勉強をがんばりたい」のような、前向きではあるが妙に優等生的な紋切り型になりがちだったことにも、不満を抱いていたらしき形跡がある(ちなみに、この影響は今の作文にも色濃い)。

そこで彼らは、敢えて最後までダメな人間を描いたり、教訓的なことをわざと避けていたようである。要するに、彼らは文学の保守派であり、作文に「文芸」を求めていたのだろう。そういう先生は、自ら俳句や詩をつくったり、創作童話を書いたりし、児童生徒にもそれを勧めていたようだ。

このように、「綴方教育」の流れに「文芸」派がささやかな抵抗をしていたのが、当時の作文指導の世界だったと思う。作文指導法にそういう派閥(?)があったというだけで、いかに当時は作文が盛んに書かれたかがわかると思う。

なにしろ、昭和30年代の農村というのは、本当にモノがない。当時は県費負担教職員の制度もなく(当時の教員は県職員ではなく市町村職員!)、講堂や体育館すらない時代である。教室だって足りない。当然、ロクな教材があるはずもない。結果として、作文くらいしか力を入れることができないし、子供の方としても、画材もなければ楽器もないので、自己表現をしたいと思ったら紙と鉛筆だけでできる作文しかないのだ。

つまり、こういうと身も蓋もないが、昭和30~40年代の作文・文集・文芸誌ブームというのは、それくらいしかできなかったから盛んになった、という面が非常に大きいのだろう。

翻って現代を見ると、自己表現の機会や方法が溢れており、インターネットのおかげで、その発表の場も、人と繋がれる場も掃いて捨てるほどある。いまさら文芸誌なんて流行らない。実際、かつては市役所や公共図書館が「市民文芸誌」を盛んに作っていたが、今ではどれだけ残っているだろう。民間で作られていた文芸誌も廃刊・休刊ばかりである。

だが、SNSに象徴されるように、なんでもすごいスピードで過ぎ去り、そこに虚しさを感じる世の中だからこそ、「文芸誌」という時代遅れのメディアが今かえって心地良いように思う。「文芸誌」で発表するとか、「文芸誌」でつながるなんて、一昔前の「生涯学習講座」みたいでなんともしみったれているようだが、文章を持ち寄って印刷し本の形にするという形態は普遍的なものに違いない。

ちなみに、先ほど引用した伯母の文章は、このように終わっている。

あゝとにかく最初の頃思った純な気持を失わないようにしよう「どんな苦労苦難でもどんと来い」

これはまさに「綴方教育」的な締め方である。でもだからといってこれがうわべだけの言葉であるとは限らない。その後の伯母の人生を思うと、この言葉には本当に決意が秘められているように見える。

でも、その内容がよいとか悪いとか、そういうことはもはやどうでもよい。それより大事なのは、確かにここに伯母の人生がごく一部でも切り取られ、それが今に残っていることなのだ。これが、どんどん失われていくインターネット上の情報との最大の違いである。

今から62年後、きっとこのブログは失われているだろう。20年後でもかなり怪しい。だが、『窻』はもしかしたらどこかで残っているかもしれない。残す意味があるのかって? 残っていなくては、意味があるのかどうかも判断できないではないか。ずっと残る可能性があるということそのものが、なんでもすごいスピードで「消費」されていく世の中への、ちょっとした異議申し立てなのだ。

2024年11月19日火曜日

法規制がかえってゴミの違法な処理を助長する問題について

夏の台風で柑橘の苗木が50本ほど倒れ、その復旧のために小型の運搬車で作業をしていたら、ゴムクローラーがちぎれてしまった。

微妙に傾斜しているところだったのでゴムクローラーの交換には苦労したが、なんとか交換できたので一安心である。

というわけで、今、手元には2本の廃ゴムクローラーがある。これを処分したいのだが、じつはゴムクローラーはなかなか処分ができなくなっている。

「埋め立てごみじゃないの?」と思うだろうが(実際、一昔前までは埋め立てごみとして簡単に処分していた)、これは今単純な埋め立てごみではないらしい。

というのは、現代では最終処分場を長持ちさせるため、埋め立て処分をする前に細かく砕く処理が必要になり、ゴムクローラーはこの処理に手間がかかる。中心にコマという金属の部品があって、これがあるためにシュレッダーでは砕けない(らしい)からだ。つまり埋め立てごみにするためにも、わざわざコマを取り除くという処理が必要で、処分費用がけっこうかかるのだ。1㎏いくらで処分費用がかかり、ゴムクローラーはかなりの重量物であるため、運搬費用もかかる。

そんなわけで、私の手元にある廃ゴムクローラーは、適正に処分するには1万円弱ほどかかるようである。新品が4万円弱だから、これはかなり高額な処分費用だ。

それでもまあ、1万円払って業者にお願いしたらいいのだが、こういう有り難くない廃棄物(処分に手間がかかるだけでクズ鉄のように市場性がない)は、業者も積極的に取り扱っていないらしく、そもそも処分してくれる業者が少ない。

だから廃ゴムクローラーは、とりあえず倉庫の隅や空き地にでも放置しておく、ということになりがちだ。実際、自分もそうしてしまっている。

このように、ゴミ処理の場合は、「適正処分を推進する取り組みが、逆に処分を阻害する。場合によっては違法投棄を助長する」ということはよくある。

わかりやすいのが、家電リサイクル法のいわゆる「対象4品目」。すなわち、テレビ・冷蔵庫・洗濯機・エアコンだ。これらは法律に則った処分が義務づけられており、その処分費用も決まっている。これは大量に廃棄される家電を適正に処分し、リサイクルを推進するための法律なのだが、現実は、そうなっていない。

田舎道を走っていると、こんな風に冷蔵庫や洗濯機が山と積まれた場所を時々見ないだろうか。

これは何かというと、廃棄物回収業者が違法に回収した家電製品の山なのである。

廃棄物回収業者は、「処分に困っている冷蔵庫などございましたらご相談ください」と言って軽トラで回る。そういう業者に回収を依頼すると「冷蔵庫の処分費用は法律で決まっていて、5000円です」などといって、法律に則った処分費用を請求する。もちろんここまでは何の問題もない(※)。

ところが法律に則っていないのは、「家電リサイクル券」というものを出さないことである。これは、適正処分のためのトレーサビリティのための書類なのだが、処分する側としてはこの書類があろうがなかろうが、冷蔵庫が処分できさえすればいいので、ちょっとは気にしたとしても業者を追求することはない。

ところがこうした業者は、回収した冷蔵庫を適正に処分する気はさらさらなく、野外に積んでおくだけだ。それで5000円が丸儲けになるわけだ。そうしてできた家電の山が、日本の田舎には大量に存在していると考えられる。経済産業省のWEBサイトでもこのように注意が促されている。


このように、経産省では無許可の業者を非難しているが、しかし真の問題は、「無許可で家電を回収すればもうかる」という状態をつくっていることなのではないかと思う。

そのために、家電リサイクル法が出来る前よりも家電の不正な処分・違法投棄はずっと増えているのではないだろうか。適正な処分・リサイクルを推進するための法律のせいで、不正な処分・違法投棄が増えるというのは、政策の失敗と言われてもしょうがない。

後知恵で言えば、廃棄の時に個人から処分費用を徴収するのではなくて、メーカーから徴収するか、あるいは税金の補填で適正処分をするようにすれば、このような問題は起こらなかった。

もうひとつ、廃棄物といば、悪法として名高い(!?)「容器包装リサイクル法」もある。これは市区町村のゴミ収集において、「容器包装」については分別回収しなくてはならない、という法律だ。

「容器包装」、特にプラスチックゴミは非常に種類が多く、ポリプロピレン・ポリエチレンなどが混在し、またシールが貼ってあったり汚れていたりする。これではリサイクルが難しく、市区町村ではこれを分別回収してはいるものの、原材料としてリサイクルしている場合はほとんど存在しないと思われる。ではどうしているかというと、廃プラゴミとして輸出して処分しているのである。このせいで、日本は世界第3位の廃プラ輸出大国であり、世界で取引される廃プラの一割程度を日本が占めているという。

「容器包装リサイクル法」のおかげで日本が世界第3位の廃プラ輸出大国になるとは皮肉が効いているではないか。

「容器包装リサイクル法」は、一見、分別回収を義務づけるしごく当然の内容だが、問題は(1)「容器包装」というくくりが存在し、合理的な分別回収(材質毎の回収など)をむしろ阻害していること、(2)その結果、せっかく分別回収しているにもかかわらず廃プラが結果的にリサイクルされずに輸出されたり燃料として燃やされたりしていること、(3)回収やリサイクルが市区町村まかせであるため、メーカーに容器包装を減らすインセンティブがあまりないこと、である(正確にはメーカーにはリサイクルのための費用の一部を払う義務があるが、徹底できていない)。

もちろん、こうした問題は環境省も認識してはいるのだが、どうも合理的な法体系に改正するには至っていないようである。

世界にはゴミの処分が適正にできていない国や地域が多いことを考えれば、日本は割合にゴミを適正処分している方だと思うし、住民の不法投棄(ポイ捨て)もそれほど多くないと思う。

しかし組織的な不法投棄や、違法な処分はそれなりに目に付くレベルであるのが日本のゴミ処理でもある。しかもそれを、抜け道だらけの法規制がむしろ助長しているように感じる。例えばゴムクローラーの場合は、ただ埋め立てゴミにしていた時代の方がずっと適正に処分されていたような気がして仕方がない。

環境省や経済産業省は、決してバカではない。だから、業界団体や自治体から情報は集まってきており、ゴミの処分に様々な問題があることは認識はしていると思う。でも、実際に廃ゴムクローラーの処分に困っている人がどんな状況なのか、正確には理解していないと思う。彼らの認識があくまで統計上のものだからだ。

今は政府にも地方自治体にも人がいないから、なんでも統計だけを見て政策を決めてしまう。政策を検討する上でもちろん統計は大事だが、個別の事例を追求していくのもそれと同時に大事なことだ。廃棄物処理の政策を担っている人には、ゴミ処理の現場がどうなっているか、足を運んで見てもらえたらと思っている。

水戸黄門・暴れん坊将軍・遠山の金さんには、「民の暮らしを直接見る為政者」という共通点がある。これはフィクションだが、かつての日本の「現場主義」がこれらの物語の骨格を支えていたと思う。それは「現場を視てみろ、書類の上とは全然違うんだから」という態度だ。

今の時代、こういうフィクションが見当たらないのは「現場主義」が衰退したからでないといいのだが…。まさか経産省や環境省は「現場を見なくてもSNSを見ればだいたい分かります」と思っていないですよね?

※本来、無許可でテレビ・冷蔵庫・洗濯機・エアコンを処分することはできないので、引き受けた時点で法に違反しているのかもしれない。