2011年のクリスマス、神奈川県から鹿児島県南さつま市大浦町の古民家へ家族で移住。 大浦町は、父方の故地ではあるもののいわゆるIターン。 田舎暮らしのありさまや感じたこと、考えたことのメモ。
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読書メモ(書物周游)
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2022年7月10日日曜日
山内多門「中国西国巡幸鹿児島著御」を巡って
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拙著『明治維新と神代三陵—廃仏毀釈・薩摩藩・国家神道』が発売されて約1ヶ月。 売れ行きを出版社に聞いてみたところ、「小社ではなかなかの実績」とのことだった。それなりに売れているようである。 そして、読んだ方からはポツポツとご感想も寄せられている。「知らないことばかりでビックリ」「...
2022年5月29日日曜日
鹿児島の郷土作家、名越 護さん
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拙著『 明治維新と神代三陵——廃仏毀釈・薩摩藩・国家神道 』が遂に手元に届いた。 公式の発売日は6月10日だが、直接には販売を開始している他、またネットショップ「南薩の田舎暮らし」でも取り扱いを始めた。「待ってました」という方も多いので、既に50冊くらい売れている。 【南薩の田舎...
2022年4月26日火曜日
初の著書『明治維新と神代三陵——廃仏毀釈・薩摩藩・国家神道』
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初めての本が、この6月に出版の運びとなった。 『明治維新と神代三陵——廃仏毀釈・薩摩藩・国家神道』というタイトルだ。 管見の限り、「 神代三陵 」をテーマにした本は史上初ではないかと思う。神代三陵を知っている人自体が少なく、「何それ?」という状態なのを考えると、これまで神代三陵に...
2022年3月30日水曜日
はじめに——もうひとつの廃仏毀釈(その1)
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明治初年に、全国各地で廃仏毀釈が起こった。 寺院や神社から仏像が撤去されて無造作に打ち捨てられ、あるいは打ち砕かれた。寺院は取り壊されたり、その建物が別の目的に転用された。僧侶たちは還俗させられ、盂蘭盆会のような行事までもが仏教的だからと取りやめさせられた。追って、葬儀も仏式で行...
2022年2月24日木曜日
幽閉寺としての宝福寺——宝福寺の歴史と茶栽培(その4)
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(「 元寺と今寺、宝福寺の拡大 」の続き) 近世末期に編纂された『本藩人物誌』という史料がある。戦国時代を中心に、15世紀半より17世紀までの約二世紀にわたって活躍した島津氏の一門・家中の諸士のいろは順による略伝集であるが、この史料にいくつか宝福寺が登場する記事があるので管見の限...
2021年12月31日金曜日
元寺と今寺、宝福寺の拡大——宝福寺の歴史と茶栽培(その3)
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( 前回 からのつづき) 覚卍が無一物の暮らしを貫いていたとすれば、宝福寺での衣食住はどうまかなわれていたのだろうか。覚卍自身は「寒暑を避けず、草を編み衣となし、飢えれば則ち菓蓏を食べる」という自然と一体化した生活が出来たとしても、その頃の宝福寺には覚卍を慕ってきた人々が三渓を為...
2021年11月30日火曜日
字堂覚卍は茶をもたらしたか——宝福寺の歴史と茶栽培(その2)
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( 前回 からの続き) 宝福寺ではいつ頃、どのようにして茶の栽培が始まったのだろうか。 それを示す直接的な史料は今のところ見出すことができないため、いくつかあり得そうな道筋を考察してみたい。まずは、宝福寺の開基である字堂覚卍(じどう・かくまん)について考えてみる。 字堂覚卍につい...
2021年11月26日金曜日
宝福寺での茶栽培の記録——宝福寺の歴史と茶栽培(その1)
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南九州市川辺町清水には、かつて忠徳山宝福寺(曹洞宗)という寺があった。 宝福寺は「山ん寺」として知られた大きな寺院で、往時はお茶が栽培されていたという。その廃寺跡(今寺跡)には、その頃の名残と見られるチャノキが今でも自生しており、このチャノキは中国から渡ってきた原種の形質を保って...
2021年1月10日日曜日
島津亀寿の戦い——秋目の謎(その4)
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(「 秋目からルソンへ 」からの続き) 薩摩藩から独立した立場を築いていたらしき貿易港、秋目を私領地としていた持明夫人こと島津亀寿(かめじゅ)とは何者だったのだろうか(以後、表記を「亀寿」で統一する)。 島津亀寿は、元亀2年(1571)島津氏第16代当主・島津義久の三女として誕...
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秋目からルソンへ——秋目の謎(その3)
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(「 隠さなければならない繁栄 」からの続き) 前回、秋目は「貧乏で疲れた郷」を自称しながら、少なくとも享保年間以降のしばらくの間はかなり豊かだった、と述べた。 では、その前はどうだったのだろう。陸の孤島である秋目は、今と同じ、寂しい港町だったのだろうか。 そのことを考...
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2021年1月7日木曜日
「柿本地蔵」と「柿本寺」の謎
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加世田の郷土資料館に、「木造地蔵菩薩立像」(将軍地蔵像)が展示されている。 地元では、俗に「柿本地蔵」と呼ばれているものだ。江戸時代の作と見られ、なかなか繊細優美で、鹿児島に残る仏像の中では優品に属する。 この地蔵像は、どういうものだろうか。どういう故事来歴で郷土資料館に展示され...
2020年6月17日水曜日
「鹿児島磨崖仏巡礼」もやっています
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6月13日(土)、鹿児島市のレトロフトで「鹿児島磨崖仏巡礼vol.1」というイベントを開催した。畏友の川田達也さんとのコラボイベントである。 【参考】薩摩旧跡巡礼 ← 川田さんがやっているブログ http://nicool0813.blog.fc2.com/ 「鹿児島磨崖仏...
2020年5月8日金曜日
隠さなければならない繁栄——秋目の謎(その2)
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坂本家正面玄関 (「 豪華すぎる墓石——秋目の謎(その1) 」からの続き) 秋目は、かつては貿易で栄えた港町だった、と地元の人は誇る。 いくら史料の中で「秋目は貧乏で疲れた郷だ」と言われていても、秋目に残る遺物を見れば、それを額面通り受け取っていけないことが分かる...
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2020年1月23日木曜日
共鳴する加速関係——大浦町の人口減少(その4)
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(「 いかにして大浦町が農業の機械化先進地となったか 」からの続き) 大浦のメインストリートを、木連口(きれんくち)通りという。 南北に延びる、700mほどの通りである。今でも、役場、銀行、役場、郵便局、スーパー、農協、ガソリンスタンドなどが並びメインストリートとして...
2020年1月17日金曜日
いかにして大浦町が農業の機械化先進地となったか——大浦町の人口減少(その3)
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大浦からよその地域の農業を見てみると、機械化の遅れに驚くことがある。 例えば、鹿児島市内の近郊でも、未だに結構お米の天日干しがされている。そして田んぼの形は山の地形に沿ってぐにゃりと曲がっていたりする。そういうところの農業は傍目にはのどかで美しいが、実際にやるのは大変で、...
2019年12月6日金曜日
大浦干拓という大事業——大浦町の人口減少(その2)
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(「 大浦町とコルビュジェの理想の農村 」からのつづき) 大浦町は、干拓の町である。 国道226号線を加世田から走ってくると、越路浜を過ぎて田園の中を突っ切る真っ直ぐな道路になり、そこの何もない交差点を南に曲がるとこれまた1.6kmもの一直線の道になる。両側は真っ平...
2019年8月10日土曜日
大浦町とコルビュジェの理想の農村——大浦町の人口減少(その1)
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ここに、農村の地域計画の理想図がある。巨匠ル・コルビュジェが構想したものだ。 この農村のどこが理想的なのかというと、図の左端「1 国道または県道」が農村の中心部から遠く隔たっている、ということだ。 コルビュジェは、建築家としてのキャリアをスタートさせた当初から交通の問...
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