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2024年9月21日土曜日

カラーミーショップの度重なる値上げと二つの日本経済

 私は、農産物のほとんどを自前のネットショップ「南薩の田舎暮らし」で売っている。

そのネットショップは「カラーミーショップ」というサービスを使っているのだが、今般このサービスの利用料が大幅値上げされた。

なんでも値上げされる世の中だから、多少の値上げはしょうがない。というか、私自身、農産物をけっこう値上げしてきた。例えば、今年はお米5㎏を3,200円で売ったが、2015年には2,000円だった。約10年で1.5倍くらいにしているわけだ。

ところが、カラーミーの値上げはこんなもんではない。↓これは、2013年以降の、私のカラーミーへの支払い履歴である。

私は、カラーミーの安価なプランである「エコノミープラン」で契約してきた。2013年にはこの利用料が年間10,500円。この価格が、消費増税の影響はあったが最近まで維持されてきた。

ところが、これが2022年に突如3倍の30,800円に値上げされた。料金を3倍にするというのは、価格改定としてはちょっと異常だ。例えば、ダンボールなんかも値上げされているが、上げ幅はせいぜい10%で、しかも営業マンがわざわざ説明に回ってきたりする。いきなり3倍には面食らった(ただし、この時の値上げはサービスの付加も伴っている。常時SSL、メルマガ機能など)。

ところが!! 今年はさらにこれが2倍になり、元値の約6倍の59,400円になったのである。使っている機能はほぼ変わらないにもかかわらずだ。

これは、「エコノミープラン」の提供が終了になり、これまでの中位プランだった「スタンダードプラン」に自動的に移行されたことによる。一片の通知で料金が3倍になったのも異常だが、そのたった2年後にプランの自動移行でさらに2倍に値上げするというのは、ちょっと普通の精神ではできないことだと思う。

「エコノミープラン」の提供を終了したのはなぜかというと、カラーミーの説明では、

昨今の円安に伴う諸経費高騰・インフラコストの上昇などにより、サービス提供のためのコスト増大が著しく、従来の価格を維持することが困難な状況が続いております。(2024年8月1日【重要】エコノミープラン・スモールプランの提供終了に関するご案内より)

となっている。 だが、これは本当か。カラーミーを運営しているGMOペパボの決算資料を見てみよう。2024年12月第1四半期の決算説明資料においては、カラーミーの最近の業績はこのようになっている(四半期ごとのグラフ)。

GMOペパボ2024年12月期 第1四半期 決算説明資料より

【参考】GMOペパボ2024年12月期 第1四半期 決算説明資料
https://pdf.pepabo.com/presentation/20240508p.pdf

これを見れば、先ほどの「サービス提供のためのコスト増大が著しく」という説明は疑わしい。費用はほとんど一定だし、カラーミーの営業利益率はずっと30~40%あるからだ。

普通、営業利益率は10%もあれば優秀だ。ちなみに、ハンドメイド系のフリマサービスである「minne(ミンネ)」も同社が運営しているが、この2024年第1四半期の営業利益率は8%。期間によっては0%の時もある。こっちが普通である。

インターネット関連事業では、営業利益率が20%くらいあることも珍しくはない。にしても、30~40%は高い。利益がちゃんと出ており、利益率が下がってもいない以上、「サービス提供のためのコスト増大が著しく」との説明は首肯しがたい。少なくとも「従来の価格を維持することが困難な状況」にはないと断言できる。

なお、この資料の右側上では顧客単価が2022年から24年までに2倍弱になっているが、これは先刻説明した3倍値上げのためであり、右側下の有料プラン契約件数が減少しているのは、値上げのために契約を解除した人が3割くらいいたということなのかもしれない。

ともかく、カラーミーはかなり高水準の利益がでている事業なのに、なぜ急に値上げされたのか。

実は2023年の第2四半期、GMOペパボは8.6億円の巨額損失を出している。この損失が何によってもたらされたかというと、同社の金融支援事業の失敗である。この事業は、主にフリーランスの人を対象とし、支払いを代行するものであったが(正確には請求書を買いとる形式)、これで大量の貸し倒れが発生し10億円以上の営業損失が出たのである。

GMOペパボ 2023年12月期 第2四半期 決算説明資料より

【参考】GMOペパボ 2023年12月期 第2四半期 決算説明資料
https://pdf.pepabo.com/presentation/20230809p.pdf

つまり、2024年に「エコノミープラン」の提供を終了し、強制的に「レギュラープラン」へ移行させたのは、この損失を取り戻すことが理由の一つだっただろう。

だがもっと本質的なのは、2023年時点でGMOペパボが東証プライムの上場基準を満たしていなかったことだったかもしれない。満たしていなかったのは「流通株式時価総額」で、要するにこれをクリアするためには株式の価格が上がる必要がある。よって、単純化すれば、投資家に優良株と思われる必要があり、そのためにより多くの配当を出せるようにすることが必要であった。

【参考】上場維持基準の適合に向けた計画書提出のお知らせ|GMOペパボ
https://pdf.pepabo.com/document/20230220d2.pdf

つまりこの(実質的な)値上げは、「サービス提供のためのコスト増大が著しく云々」ではなく、投資家へ増配するためだった可能性が高い。

値上げそのものが嫌なのは当然として、この値上げに「サービス提供のためのコスト増大が著しく、従来の価格を維持することが困難な状況が続いております」という、およそ真実とは言いがたい説明をしたことはもっと嫌な感じがする。

そもそも、値上げ直前の2024年第1四半期の決算説明資料の冒頭は、「ストックの好調と貸倒関連費用の減少により 大幅増益」という見出しになっている。

これのどこに「従来の価格を維持することが困難な状況」があるというのか。そもそも、「従来の価格」というが、それはたった2年前に3倍に値上げした価格だ。「従来の価格」とはふざけている。「2年前に3倍に値上げさせていただいたところですが…」と前置きするのが普通だろう。顧客心理を逆なでするとはこのことだ。これを書いた人間は、顧客のことを何も考えていない。

「そんなにGMOペパボが気に食わないなら、別のネットショップサービスを使えばいいんじゃないの?」と、ここまで読んだ人は思うだろう。その通りだ。実際、先述の通り、「エコノミープラン」の料金が3倍に値上げされて以降、カラーミーを解約する人はそれなりにいる。今はBASE(ベイス)とかSTORES(ストアーズ)といった基本料金無料で使えるサービスもある。

だが、(多くの利用者にとって)簡単にはカラーミーを解約できない理由がある。

第1に、カラーミーはかなりカスタマイズ性が高く、他のネットショップサービスでは手の届かない部分が造りこめる。私の場合は、商品の重量に応じて配送料金を設定できるという機能がそれにあたる。これはBASEとかでは対応不可である。

第2に、カラーミーはカスタマイズして運用するのが基本になっており(でなければ、BASEなどのサービスを使えば済むからだ)、カスタマイズにかなりのお金をかけていることが多い(場合によってはカスタマイズの費用の方が、サービス本体の利用料よりはるかに高い)。私の場合は自分でHTML/CSSを書いているからお金はかかっていないが、サイト構築の労力はかかっている。カラーミーを解約すると、それまでかけた労力が無駄になる(または再びコストをかけなくてはならない)。

よって、それなりの売り上げがあるネットショップは、サービスの利用料金が2倍3倍となっても、簡単には他のサービスに乗り換えられない。なお、GMOペパボの親会社(GMOインターネットグループ)の決算資料では、こういう、「一度サービスを導入したら、なかなか他のサービスに乗り換えづらく、継続課金が期待できる」という商材からの収益を「岩盤ストック収益」という用語で呼んでいる。

「岩盤」だと思っているから、料金をいきなり2倍、3倍にするというちょっと正気でない真似ができるわけである。投資家に対しては「岩盤ストック収益」が売りに出来ても、顧客としては「岩盤」と見なされているのは気持ちのよいものではない。

私の感じる気持ち悪さは、投資家に向けては「岩盤ストック収益」「大幅増益」とよい顔を見せながら、顧客には「従来の価格を維持することが困難」という真逆の顔を見せるという、ダブルスタンダードにある。GMOペパボはまるでヤヌス神(前と後に顔があるローマ神話の神)のように、二つの顔を使い分けているのだ。 

これはちょうど、日本の庶民が30年も続く不況で、上がらない給料やどんどん高くなる税金に呻吟しながら、同時に日経平均株価はバブル期以上の過去最高値を更新し、数億円する高級マンションがどんどん売れるという、正反対の状況が同時に起きていることを想起させる。

一言でいえば、これは社会の二極化のせいだろう。だが私は最近、これは二極化を超えて、二つの日本経済があるためではないかと思うようになった。二極化が進み、庶民の世界と投資家の世界の二つの日本経済が、別個に存在するようになってきたのである。

2013年から、日銀は「異次元の金融緩和」と言って資金を市場に大量に供給してきた。この結果、市場(投資家)には行き場を失った多くのお金が滞留した。つまり日経平均株価やマンションの価格が高騰しているのは、景気がいいというより、資金の供給過多でお金の価値が下がったからという要因の方が大きい。経済政策のイデオローグたちは、「トリクルダウン仮説」といって、社会の上流(大企業や投資家など)にお金を供給すれば、それが下流に流れていってみんなが潤うはずだと喧伝したが、そういうことは全く起こらず、投資的な資金だけが巨大に膨れ上がったのである。

それは、庶民の世界と投資家の世界という、二つの日本経済がもはや交わっていなかったためだ。同じ「円」というお金を使ってはいるが、この二つの日本経済はほとんど断絶している。それは、同じユーロを使いながら、EUの国々がそれなりに別の経済圏を作っているのと似たようなものかもしれない。

GMOペパボが顧客と投資家に対して二つの顔を使い分けているのは、まさにこのことを象徴しているように見える。二つの世界があるから、二つの顔が必要になるのである。

企業は、いわば二つの日本経済の間に立っている。彼らとても、顧客に対して無理な値上げはしたくないと思っている(と私は信じている)が、投資家に向けては潤沢に利潤があることを確約しなくてはならない、という板挟みの立場に置かれているのだ。さっきはずいぶんGMOペパボの批判を書いたが、彼らが二つの顔を使い分けているのはその強欲が理由ではないのである。

もちろん、板挟みの状況は彼らにとっても望ましくないので、やがては自社株買い・株式持ち合い・持ち株会社化(ホールディングス化)といった手法によって、経営の安定性を高めることになるだろう。 GMOペパボの場合は、GMOインターネットグループが持ち株会社化し、その子会社になる予定のようだ。

だがそうなったとしても、結局、資本の論理から逃れることはできない。程度の差こそあれ、ヤヌス神のように二つの顔を使い分け続けることになるだろう。であるにしても、どちらの顔が正面なのかだけは、忘れないようにしていただきたい。顧客に向き合って仕事をするのか、投資家に向いて仕事をするのか、どちらが本来の在り方なのかは、考えるまでもなくわかることだ。

2024年6月25日火曜日

鹿児島銀行が全代理店を廃止した話

今年の1月11日、私の住む大浦町の「鹿児島銀行 大浦代理店」が廃止された。

というか、鹿児島県内にある鹿児島銀行の全代理店(18店)が2024年2月までに廃止されたという。

冒頭の写真は、もう今は取り壊されて跡形も無くなっている大浦代理店の在りし日の姿である。

鹿児島銀行が全代理店を廃止したのは、第1には代理店の来店客数の減少による合理化であり、第2にはネットで手続きが完結する体制が充実してきたからであり、第3には代理店の意味が小さくなってきたことである。

第3の点に関し、鹿児島銀行の松山澄寛頭取(当時)は取材に応えて、「金利が高いときは預金を集めて貸せば確実に利ざやがあったが今はマイナス金利。代理店の歴史的な役割は終わった」と述べている。要するに「代理店なんて儲からない」という身も蓋もない話だ。

【参考】鹿児島銀行代理店を移転統合へ|朝日新聞(2023年9月1日)
https://www.asahi.com/articles/ASR8072X3R80TLTB003.html

田舎の代理店なんて昔から赤字だろう、というのは誤解らしく、田舎の人は貯金が好きなため(というより、田舎ではあまりお金を使う場所がないため)、この小さな代理店の見た目とは裏腹に、かなりのお金が集まったのだという。田舎では定期預金の比重が高く、都会とは桁が違うお金が集まったと銀行マンから聞いたことがある。

では、今はどうなのかというと、確かに利用者は少なくなり、定期預金を集める意味は全くない。2024年になってゼロ金利政策は終わりを告げたが、それでもお金は金融市場に滞留している状況で、「歴史的役割は終わった」と言われてもしょうがない。

一方、全代理店の閉鎖で削減されるコストは年間約5300万円だそうだ。5300万円というと大きいようでも、鹿児島銀行の親会社「九州フィナンシャルグループ」の2024年3月期決算短信を見てみると、営業利益が384億円ある。鹿児島銀行だけでも営業利益は120億円くらいのようだ。これに比べると、5300万円なんかは誤差の範囲といって差し支えない。削減の意味はあまりないコストではなかろうか。

そもそも鹿児島銀行の第9次中期経営計画(2024−26)では「接点・対話・課題解決 No.1」をコンセプトに掲げ、「お客様との接点を強化」とか「持続可能な地域社会の実現に貢献」といった言葉が並んでいる。

【参考】鹿児島銀行 第9次中期経営計画
https://www.kagin.co.jp/library/300_ir/pdf/keiei_plan/09_cyuki_keieiplan.pdf

この計画は全代理店廃止後のものだとはいえ、田舎の人間にとっては「たいしたコストじゃなかった代理店を廃止しておいて、接点・対話とか持続可能な地域社会云々なんてバカにしてるのか」と思ってしまう。

「そうはいっても、鹿児島銀行は営利企業なのだから、コストカットはやむを得ない。実際、田舎の代理店なんて一円の得にもならないんだし」と思う人もいるだろう。

それはそうだ。しかし意外なことに、営利企業の活動は、田舎への富の再配分に大きな役割を果たしてきた。例えば、Aコープ(鹿児島県経済連の子会社のスーパー)の商品の値段は、大浦町でも鹿児島市でも変わらない。たぶん県内一律ではないだろうか。JAのガソリンスタンドの値段は、それよりは一律ではないが、それでも価格差は大きくない。こうした企業では、店舗ごとの利益率が異なっても、できるだけ同一料金にする努力が払われている。

また、指宿枕崎線(の指宿−枕崎区間)は廃線が取り沙汰されているが、ここは年間3億円以上の赤字路線となっている。これをお金の流れから見ると、JR九州が都市部で稼いだお金を南薩につぎ込んでくれているとも言える。

ある程度大きな企業は、それ自体が公共的な意味を持っており、そのサービスが広い範囲で提供されることで、結果的に田舎への富の分配を担ってくれているのである。例えば、大浦町のJAのガソリンスタンドは、基本的にずっと赤字だという話だが、だからといって閉鎖の危機にあるかというとそうではない。JA南さつまにとっては、その店舗は赤字であっても、その赤字額が経営的に耐えられるものであれば、管内にあまねくサービスを提供することに意味があるからである。 

田舎では、過疎によってまたさらに過疎化が進む、という過疎化のスパイラルが起こっている。これは自然に起こっている面はあるが、その動きを助長しているのは他でもない行政だ。市町村合併によって、地域に役所(支所)が無くなり、学校が統合され、公共施設が閉鎖される。本来は、行政の施設は営利的なものではないのだから、そこに住民がいるかぎり維持されてもおかしくないのだが、平成不況以降、役場の方がコスト意識に厳しくなってしまった。

公共サービスは儲からなくて当たり前なのに、公共サービスに収益性を求めるのが最近の流れだ。指宿枕崎線を運行しているはJR九州は、ちゃんと利益が出ている企業なのですぐには廃線にはならないと思うが、これが肥薩おれんじ鉄道のように行政による運営になると、「経営状態が悪い」といってすぐに廃線の危機になってしまう。税金の無駄と見なされるからだ。民間の方が逆にお金に鷹揚な態度を示しているのは面白い。

それは、民間企業は度量が広いが、行政はせせこましい……というのではなく、民間企業は、全体として利益が出てさえいれば、細かいところで損失が出ていても気にしなくて済むからだ。それだからこそ、光通信は日本のかなりの面積をカバーし、携帯電話のアンテナは田舎にも立ち、Amazonの送料無料サービスはかなりの僻地でも対応している。それによって、田舎に住む人たちが、都会とさほど変わらない文明的生活を送れるのである。

もちろん島嶼部など、もうちょっと条件の厳しい人たちは、そうともいえないかもしれない。それでも、大企業の提供するサービスが田舎に住む者にとって心強い味方なのは変わらない。田舎の生活というと、今にも潰れそうな個人商店が支えている……というイメージがあるが、実際には、田舎こそ大企業の商業活動のおかげを蒙っている、というのが田舎に住む私の実感である。

そう考えてみると、鹿児島銀行が目先の5300万円を浮かすために、鹿児島県の僻地に存在していた代理店を廃止したことは、単なるコスト削減以上の意味があるように思われる。鹿児島銀行は鹿児島全体を対象とした大企業であることを諦めて、鹿児島市を中心とした都市部のみを対象とする存在になるのだろう。そもそも、ネットで取引ができるから代理店はいらない、というのなら地銀の存在意義自体がなく、メガバンクを頼った方がいい。

鹿児島県民にとっての鹿児島銀行の一番の存在意義は、「あちこちに鹿銀ATMがあること」。これに尽きるのではないか。コスト削減というのであれば、代理店廃止はやむを得ないとしても、せめてATMだけは残してほしかった。商売をしていると、現金売上を入金することができないのでとても困るのである。

全代理店廃止後、鹿児島銀行の頭取に就任した郡山明久さんは「地銀であることに徹底的にこだわりたい」とインタビューに答えていた。その真意はわからないが、それが「鹿児島」を大事にしたいということなのであれば、地方の大企業らしく、田舎にもあまねくサービスを展開してもらいたい。目先の利益のみに捕らわれない地銀になることを期待している。

2019年1月26日土曜日

かつ市の「本枯れ黄金だし」を全国に普及させるために

「本枯れ黄金だし」を知っているだろうか?

これ、枕崎のかつ市(中原水産)で売っているいわゆる「だしパック」。30パック入って2000円くらいの商品である。

【参考】本枯れ黄金だし|かつ市
http://www.katsu-ichi.com/ougon-honkare/

最近、うちではこの「本枯れ黄金だし」を切らしてしまって大変困っているのである。枕崎まで買いに行けばいいじゃないか、と言われれば全くその通りである。でも車で30分、往復1時間かかる。私は今柑橘のシーズン真っ最中なので忙しいのである。

しかし誇張ではなく、このだしパックに慣れてしまうと、ちょっと後戻りが出来ない。

私はほぼ毎日料理をしていて、ほとんど毎日味噌汁を作る。料理の中で味噌汁が一番好きなんじゃないかというくらいに味噌汁を作るのだが、どんなに時間がない時でもちゃんと出汁(だし)をとって味噌汁を作る。基本は昆布出汁で、さらにかつお節で取ることも多い(既に削ってあるやつを使うが)。

ところが、 この「本枯れ黄金だし」を使うようになってから、そうした伝統的な方法で出汁を取る習慣が廃れてしまった。それくらい、「本枯れ黄金だし」は次元が違う出汁が取れる。名前の通り黄金色をしていて見た目にも美しく、しかも出汁だけで十分旨い。料理に使うのがもったいないくらいの美味しさである。

「本枯れ黄金だし」がこのまま普及してしまったら、伝統的な手法で出汁を取る人は誰もいなくなってしまうのではないか、と思うほどである。

私が「本枯れ黄金だし」をこうして強力にオススメしているのはなぜかというと、これがもっと売れてもらって、どこででも(特に近所のAコープで)買えるようになってほしい、枕崎までいかなくても済むようになってほしい! と思うからである。

そんなことで、他人事ながら「本枯れ黄金だし」を全国に普及させていく方法を考えていたら、面白い方法を思いついた。

飛行機(特に国際線)の機内サービスドリンクに営業を掛けるというのはどうだろう?

和食がユネスコ世界無形文化遺産になったらしいが、日本を海外から訪れる観光客は、意識して体験しようとしない限り、滞在中に出汁そのものを味わうことはない。だが出汁は和食を特徴付けるものだから、ぜひ体験してもらいたいと思うし、観光客にとっても他ではできない経験になる。だから、機内サービスで「出汁スープ」が出てくればとても意義があるはずだ。もちろん「だしパック」も機内販売したらいい。

ちなみに、ソラシドエアでは既に機内サービスとして「アゴユズスープ」が提供されているらしい。これはあご出汁(とびうおの出汁)に柚子によって風味をつけたものとのこと。しかもソラシドエアの中では人気商品になっているそうである。機内サービスで出汁、というのは荒唐無稽な話ではなさそうだ。

本当に国際線で「本枯れ黄金だし」の「出汁スープ」が提供されるようになれば、観光客からの需要を喚起し、多くの観光地で「だしパック」は売られることになるだろう。そしてそれを起点として全国に広がっていくに違いない。そしたら、うちの近所のAコープでも売られることになるのである(笑)

そうなれば、もう往復1時間かけて「本枯れ黄金だし」を買いに行かずに済む。その上、海外からの観光客が出汁の素晴らしさを手軽に体験できて一石二鳥なのだ(笑)

【参考】
ちなみに、かつ市を率いている中原さんについて以前記事を書いたことがある。
枕崎「かつ市」の中原さん|南薩日乗
https://inakaseikatsu.blogspot.com/2017/04/blog-post.html 

2017年7月12日水曜日

イシイ、大浦町に2度目の孵卵場設立

昨年、南さつま市が大浦町への企業誘致に成功した。

株式会社イシイの新しい孵卵場(鶏の卵を孵してヒナにする工場)が、笠沙高校跡地にできたのである。しかもこの孵卵場、全国有数の規模らしく、九州では一番大きい工場だそうである。

どうしてこのような立派な工場が、僻地も僻地である我が大浦町に建ったのか、正直よくわからない。薩摩川内市も誘致に積極的であったと聞く。どうみてもあちらの方が流通に都合がよさそうなのに、わざわざ交通の便が悪いこちらに建てたのはなんでだろう。

でも元々、大浦町にはイシイの孵卵場があるから、その縁があってこそのことであるのは間違いない。系列の養鶏場もたくさんあるわけで。

企業誘致といっても、結局は「縁」である。全国どこででもできる事業であっても、実際に全国津々浦々の条件を比較考量して立地を決めるなんてことはなくて、縁があるようなところを中心に候補地を絞っていくものだ。

では、今回の企業誘致の縁になった、大浦町に元々あったイシイの孵卵場というのは、どうして設立されたものなんだろうか?


イシイが大浦町に孵卵場を設立したのは、昭和54年のことである。工場用地は、大浦町の平原(ひらばる)の、デンプン工場跡地だったところらしい。

大浦町では、その前年に県の補助を受けて、ブロイラー用種鶏団地造成事業を行っている(「種鶏(しゅけい)」というのは、ヒナにする卵を産ませるための鶏のこと)。この事業に参加したのは町内の7人。

この事業は大浦町と隣町の笠沙町の共同でやっていて、大浦町が3万羽、笠沙町が3万羽の計6万羽の飼養が計画されていた。

もちろんこの事業はイシイの孵卵場が建設されることを見越したもので、平原の孵卵場が落成するまでの期間は、種卵(ヒナを孵す卵)は大分県にあったイシイの工場までわざわざ出荷されていた。どうやら大浦町の養鶏は、当初からイシイ(当時は石井養鶏農協)と共に始まったようである。

では、なぜこの時期に大浦町に孵卵場が建設されたのかというと、一つにはその頃特産品として確立しつつあったポンカンが遠因となっている。ポンカン畑は山を切り開いて造成したから肥料を人力で運ぶのに難儀していた。鶏糞堆肥なら軽いからポンカンの肥料に最適だ、ということで養鶏が検討されたんだそうだ。

そしてもっと直接的な理由は、鹿児島県経済連が昭和50年に「知覧食鶏処理場」を建設したことだ。この知覧の食肉処理場へ鶏を出荷する農家向けに、ヒナの需要が高まったという背景があったようである。元々南薩は養鶏の盛んな地域で、鹿児島県内でも姶良、川内と並ぶ三大養鶏地域と言われていたそうだが、それまではヒナは地域で自給していなかったのかもしれない。

しかし、このヒナ需要に応えるために、どうしてわざわざ徳島のイシイを誘致したのかというと、そこがよく分からない。イシイ側で鹿児島進出を狙っていたのか、それとも大浦町の方でイシイに声を掛けたのか。ちなみに当時も鹿児島県には孵卵場自体はたくさんあったので、県内の企業・組合でヒナ需要をまかなうことも不可能ではなかったのではないかと思う。

さらにちょっとした疑問を言うと、視野を広げて当時の養鶏業界の趨勢を見てみると、この時期は必ずしも養鶏の生産をどんどん拡大していこうという時期でもなかったということがある。昭和40年代には鹿児島県では大規模かつ系列的な養鶏業界が成立し、ブロイラー(食肉)では全国1位、鶏卵でも全国2位の生産量を誇るようになった。

しかし急激な大規模化の結果として生産過剰となり、特に鶏卵については昭和45年に鶏卵価格の大暴落が起こった。それまで「卵は物価の優等生」などと呼ばれ、キロあたり二百円弱(年間平均)で推移していたところ、この年の夏に120円台まで暴落してしまったのである。当時の採算ラインというのがキロあたり160円というから、出荷すればするほど赤字になるという異常事態。この異常な相場は冬には是正され、逆に最高価格280円をたたき出すが、こうした価格の乱高下の背景として生産過剰があることを重く見た農林省(当時)は、昭和47年に「養鶏においては大規模な増産はさせない」という趣旨の3局長通達(経済局長、農政局長、畜産局長)を出した。

つまり、大浦町がブロイラー用種鶏団地をつくろうとしていた時、既に農水省は養鶏産業は飽和状態になっていたと見ていて、生産調整を行っていたのである。にも関わらず、実際には経済連は知覧に食肉処理場を新設させたわけだし、大浦町も種鶏団地を作ったわけだ。50年代に入ると生産調整も落ち着き増産基調になっていたんだろうか。このあたりがよくわからないところである。

このように、いざ調べてみると、せいぜい40年くらい前のことでもよくわからないことが多い。これに関しては、本気で調べたら関係者はまだたくさん残っているので分かるだろうが、あと30年もすると、なぜイシイの旧孵卵場が大浦町に建てられたのか本当に謎になってしまうかもしれない。

些末なこととはいえ、別段隠す必要もない、身近な歴史すらこうである。政治的に微妙なことなんかは、すぐに事実が分からなくなってしまう。

歴史というのは、必死で残していかないと、忘れられ、書き換えられていくものだ。

「本当の歴史」などというものはどこにもないが、今の不穏な政治経済情勢を見ているとウソがまかり通る世の中になるんじゃないかと心配になってくる。


【参考文献】
『鹿児島県養鶏史』1985年、鹿児島県養鶏史刊行委員会
『広報おおうら 第98号、第105号、第112号』

2017年6月11日日曜日

「六地蔵」というおまんじゅう

南さつま市加世田の、旧加世田駅の目の前に清月堂という和洋菓子の店がある。ここは「川口プリン」というプリンが有名で、店内にも「プリン美味しかった!」というようなサイン色紙がたくさん飾られている。このプリン、もちろんオススメである。

が、この店にはもう一つの隠れたオススメ商品があるので紹介したい。

それは、「六地蔵」というお菓子。「こしあんに、黒ゴマ・クルミ・ピーナッツ・レーズンを入れて焼き上げた香ばしいおまんじゅう」(店頭の説明より)である。

こしあんを使っているから和菓子に分類されるのだろうが、こしあんも重くなく、割合にサクサクっとしていて、洋風の焼き菓子にも近いようなおまんじゅうである。緑茶だけでなくコーヒーにもよく合う。

清月堂ではこれがたったの95円で売られていて、手土産にはもってこいだ。

「六地蔵」というのは、もちろん加世田の史跡「六地蔵塔」にちなんでいる。

【参考】六地蔵塔の思想

おまんじゅうの表面にあしらわれた図像は、多分竹田神社の鳥居(左側)と、「六地蔵」という文字(右側)。こういう、ちゃんと地元の名勝旧跡にちなんでデザイン・命名されたお菓子というのを好ましいと思うのは私だけではないはずだ。

この「六地蔵」、お店の人に伺ってみたら、少なくとも50年以上前からあるという。清月堂にはずっと昔に作られたままデザインが変わっていない包み紙があるが(電話番号の局番が一桁しかない)、この包み紙には「加世田銘菓 六地蔵」の文字とともに、史跡の「六地蔵塔」の写真が大きくプリントされている。おまんじゅう「六地蔵」は、数十年前はこの店の看板商品だったようである。

今でも、売れない商品というわけではなくて、固定客による根強い人気がある商品なのだと思う。だが、これに注目している人は、ほとんどいないみたいである。確かに、一昔前の地味な商品ではある。でも味の方は、先述の通り結構モダンで、時代遅れのおまんじゅうではない。「かるかん」なんかより、よっぽど若い人が好みそうである。

私は、こういう「忘れられた価値」を再発見することは、とても大事なことなんじゃないかと思っている。新商品を生みだすということはいいことだと思うし、古いものにしがみつくばかりでは面白くない。でも、新しい何かを始められなくても、「忘れられていた価値」を再発見するだけで、世の中をちょっと面白くすることはできると思う。

鹿児島県特産品協会は、毎年「かごしまの新特産品コンクール」というのを開催していて、これは鹿児島の最先端の特産品が一堂に会するものである。これはこれでいいとして、私は、これにあわせて「かごしまの特産品コンクール」をやったらいいと思っている。誰も注目していないもので、その価値に売っている本人すら気づいていないような商品を、勝手に表彰するコンクールだ(売っている本人にすら価値に気づいていないので、当然販売者からは応募されない)。これは審査員(というか推薦人)の目が試されるコンクールだ。新しいものを評価するのは容易であるが、旧いものを評価する(というより見つけてくる)のは、実は大変に難しいのである。

こういうコンクールでもない限り、「忘れられた価値」が再発見されないままに消えてゆくものはたくさんあるんじゃないだろうか。そういうものが人知れず世界から消えていくこと。それはかなりの損失なんじゃないかと私は思う。少なくとも、「六地蔵」がなくなってしまったら加世田にとって損失だろう。

ところで蛇足だが、この「六地蔵」には一つの謎がある。山梨の富沢町にある同名の「清月堂」という和菓子屋に、やはり同名の「六地蔵」というおまんじゅうがあって、しかもその内容は、「クルミ、ゴマ、干しブドウを練り込んだ風味豊かな餡を、六地蔵と富士山を纏った生地で包みこんだお饅頭です」となっていて瓜二つなのである!

【参考】山梨の清風堂の紹介ページ(南部町商工会)

ここまで似ていると、他人のそら似というわけではないと思う。師弟関係があったのか、それともかつては「六地蔵」がメジャーなお菓子だったのか。そのあたりの事情を、機会があればぜひ伺ってみたいものである。

2017年4月4日火曜日

枕崎「かつ市」の中原さん

隣町の枕崎市、そのシャッター街になりかけた目抜き通りの一角に、小さなかつお節屋が昨年ひっそりとオープンした。

このお店、「かつ市」という。

手がけたのは、地元企業の「中原水産」、その若社長の中原晋司さんである。

中原水産といえば、国道270号線を南下して枕崎へ入る、その出会い頭に当たる「平田潟」というところに、大きな工場があった。随分大きな商売をしていたそうである。しかしいつしか経営が悪化。この家業の危機をなんとかするため、地元に帰ってきたのが中原さんであった。

中原さんは、東京では外資系コンサルのマッキンゼーに勤め、華々しいビジネスの世界で生きてきた人である。「かつ市」は一見地味なかつお節屋であるが、最近は香港や台湾の人まで訪れる隠れた本格スポットになっているし、街としてもかつお節の輸出やフランスでのかつお節工場の設立など先鋭的なビジネス展開に目を引かれる。こういう僻地の零細企業としてはウルトラC級の実績が出てきているのも、中原さんの手腕に寄るところが大きいと想像される。

しかし、中原さんは、そういう華々しい世界でだけ活躍する派手な人ではない。(同じ大学卒ではないのだが)大学の同窓会繋がりで知遇を得て、直接お話しを聞く機会をいただいたのだが、そういう話は氷山の一角でしかない。

中原さんが帰郷して初めにやったことは、大リストラだそうだ。

赤字とはいえ主力だった製造部門を、断腸の思いで廃止した。大きな工場はガランドウになった。相当な決断である。そして販売のみに注力することにして、中原水産のビジネスを製造業から商社的なものに変えた。それで平田潟にあった広大な敷地が不要になって、事務・店舗機能のみの小さな社屋に変えることになった。そして出来たのが、「かつ市」である。

そう聞いて、驚いた。一見華々しく見える海外との取引や、「出汁の王国・鹿児島」といったプロジェクトの裏に、そんな苦しい内実があったのかと。そして、その苦しさを一歩一歩乗り越えながら、地味な仕事をクリアしていこうとする姿勢に頭が下がった。

枕崎は、言わずとしれた「かつお節の街」である。が、その展望は必ずしも明るくない。

何しろ、かつお節を削って出汁を取る、ということを普通の人はしなくなった。恥ずかしながら私もその「普通の人」の一人である。味噌汁をつくる時は必ず昆布で出汁を取るが、かつお節までは削らない。そもそもかつお節削り器が家にない。

だから、(削らない1本のままの)かつお節を売る、というのはもうビジネスとして厳しくなった。削ったかつお節であっても、出汁を取る人がどんどん少なくなってきているわけで、削って売ったらいいという問題でもない。

そこに対して、中原さんは「出汁の美味しさを改めてわかってもらう」というこれまた地味な活動をしている。お店に来て下さったお客さんにはもちろん取りたての出汁を味わってもらうし、出張では「出汁ライブ」という出汁をとるパフォーマンスをしている。「出汁男」という、ちょっと滑稽な自称を使って。

先日「かつ市」に行ったら、わざわざ私一人のために出汁を取ってくれた。想像とは違って、決して面倒な作業ではない。意外なほど時間もかからない。それで、料理の格がグンと上がる出汁が取れる。これを体験した人は、少なくとも「出汁を取る」という一手間をかける抵抗感がなくなる。

中原さんが「出汁男」になってやるのは、こういう具合に一人ひとりの考え方を変えていこう、という地味な活動なのである。

——「愚公移山」という言葉がある。

昔の中国で、愚公という老人が、生活の邪魔になっていた山をなくしてしまおうと、家族と共に少しずつ山を切り崩しモッコで土を運びだすという気の遠くなる仕事に乗りだした。人は、そんな無理なことを年老いてからするなんてバカなことだと嘲笑したが、愚公は「子々孫々の代までかかっても、少しずつ山を切り崩していけば山は増えることはないのだからいつか山はなくなる」と一切意に介さない。この様子を見ていた山の神はこの旨を天帝に報告し、天帝は愚行に感心して、邪魔になっていた山を別の場所に移してやったということである。

こうした故事から、「愚公移山」といえば壮大な計画でもコツコツと一歩ずつやっていけばいつかは事を為す、という意味の四字熟語となった。

中原さんの仕事を見ていると、この「愚公移山」という言葉を思い出さずにはいられない。枕崎の置かれた状況は決して楽観的なものではないが、こういう人がいる限り、なんとか進んでいくに違いないと思わされる。

鳴り物入りで騒がれる「まちおこし」の活動を見ていると、どうも「ここをこうすれば一発逆転」みたいな発想があるところが多い気がする。埋もれた地域資源を活用しよう、ということ自体はいいことだとしても、その価値はちょっとやそっと広告するだけでは認識されないし、原石を磨いて商品にしてパッケージに入れて流通に載せて、という一つひとつの作業を積み重ねて行く以外に売り込む方法はない。小さな工夫で大きな成果をあげたい、と思うのは人情だが、そういう気持ちだけでは成果は上げられない。結局、何かを変えるには、少しずつ山を切り崩していくような地味な仕事を誰かがしなくてはならない。

そういう仕事をやる人が一人でもいるかどうか、そういうことに、街の命運はかかっていると思う。

中原晋司さんは、まさにそんな人の一人である。

2016年5月29日日曜日

納屋をリノベーションします

実は、明日からうちの納屋のリノベーション工事が始まる。

このあたりの古い家には必ず納屋が附属しているもので、うちも本宅よりも立派な2階建ての納屋があった。でもいつかの台風で2階部分が壊れて改築し今は1階部分しか残っていない。

昔も今も、農業には倉庫が重要であることは言うまでもないが、特に昔は牛に犂(すき)を引かせていたから家に牛がいて、牛を飼うためには納屋が絶対必要だった。写真で分かるように、建物の下半分が石詰みによって作られているのはこのためで、木造だと牛の糞尿によってすぐに材が腐ってしまう。だからこのあたりの古い納屋の下半分(の、特に牛のためのスペース)は石詰みによって作られている。

さらに、牛の糞尿は肥料にしたので、牛のいた区画の下は傾斜がついていて屎尿排水の口があり、下には大きな肥だめの空間がある。ついでに納屋の外には人間用の便所もあって、人間と牛の屎尿はそれぞれ下の肥だめに集められるようになっていた。

化学肥料が使えなかった昭和の半ばまで、これは農業をやっていくための大事な仕組みだったが、牛がいなくなり、化学肥料になって人糞も集めなくなると、この肥だめシステムは無用の長物と化してしまった。それどころか、肥だめには雨水が溜まって(沁み出してきて?)湿気の温床となり、地下の空間は危険な落とし穴にもなった。野良猫がこの肥だめの中に落ちてしまい、それを救出するのに3時間くらいかかった、なんてこともある。

というわけで、この無用の肥だめをなくしてしまうことにした。これから、また肥だめをつかって肥料を作るような時代が来ないとも限らないが、私の考えでは、昔の屎尿肥料の作り方にも非効率なところがあり(※)、仮にそういう時代が来るとしても昔ながらの肥だめシステムを使う必要はないだろうと思う。

具体的な工事としては、肥だめを壊し、埋め、上からコンクリートで塗り固めてしまうというもの。でも工事というものは、マイナス(迷惑施設)だったものがゼロになる、というだけではなかなかやる気が出てこないものである。というわけで、せっかく工事をやるなら、納屋のリノベーションを行って、ここをステキな部屋にしてしまおうというわけである。

そもそもうち(本宅)は築百年の古民家で、間取り的に現代の生活スタイルに合っていないところがあり、子どもたちがもうちょっと大きくなったら一部屋足りなくなる見込みだ。この機会に一部屋作っておけば将来の子ども部屋問題も解決するし、それまでの間は事務所か書斎として使うこともできる。

同世代が次々に新築の家を建てる中、このきったない納屋を子ども部屋にしようというのは忸怩たるものがあるが、加世田のステキな工務店crafta(クラフタ)さんのセンスで、新築するよりステキな空間に生まれ変わる予定である! 私としては密かに南薩の「納屋リノベーション」の先駆事例になったらいいなと期待しているところだ(同じような納屋がこのあたりにはたくさんあるので)。

ところで、こちらに移住してきてから、かなりのお金が工務店さんの方にいっている。本宅のリフォームはさておき、その他にも食品加工所(そういえばこれまでブログに書いていなかったのに気づいたのでいずれ書きます)、農業用倉庫、そして今回の納屋リノベーション。生活や仕事の基盤を作っていくというのは、なによりもまずその「場」を作る事が重要だ。「場」=不動産よりもコンテンツにお金を掛けるべきという考えもあるが、私の場合はまず「場」をしつらえるのを優先するので、これはこれでよかったと思う。

でも農業ではなかなか生活が成り立って行かない中で、どうして納屋リノベーションの予算が出たのかというと、これは当然貯蓄を切り崩して捻出している。そしてこれで都会時代の貯蓄が全て無くなった感じになり、また今年後半から新規就農の補助金も終わるので、これでいよいよ裸一貫でやっていかないといけない。正直、ちょっと不安はあるが、農業でなんとかやっていけないことはない、という見通し(だけ)はある。

お金のない中で、そんなやってもやらなくても困らない工事なんかやめておけ、という人もいるだろうが、私としてはこれも「南薩の田舎暮らし」の重要な基盤の一つだと思っている。生活や仕事の基盤はそろそろ出来てきたので、これからはそれを活かして行く段階になってくる。…と書いていたらだんだんやる気が出てきた。

というわけで「納屋リノベーション」がステキにできあがるか楽しみである。


※ というのは、糞尿を肥料に変えるには発酵させなくてはならず、それにはたくさんの空気(酸素)を必要とする。昔の肥だめは尿も一緒に集めていたためドロドロ状態になっていて、それを別の場所にわざわざワラなどと重ねて入れ発酵させていたようだ。今だったら、ブロアで空気をいれて発酵させるかもしれない。でももっと簡単かつ効率的なのは、糞は糞だけを集めて水気のない状態で発酵させることである。なぜ昔はこうしなかったのかよくわからない。

2016年5月14日土曜日

ホヤ的な商売のススメ

先日、加世田に「ダイレックス」がオープンした。ディスカウントストアである。オープンセールは大賑わい。

私も歯医者のついでに寄ってみたら、原価割れ必至の激安価格ばかり(タマネギ1玉9円には、農家的に心の痛みを禁じ得なかった……)。こりゃあ、人が来るはずである。

都会に住む人は、こういう面白味のない量販店が田舎に進出することに寂しさを覚えるかもしれない。このディスカウントストアのせいで、味のある個人商店が潰れてしまわないかと。もっというと、地方都市の衰退に拍車をかけてしまわないかと。

しかし田舎に住むものの実感としては違う。やはり、こうした店の進出は、それなりに街を活気づかせると思う。確かに個人商店はこれに太刀打ちできないが、商店街は既にシャッター通り化しており、潰れるべき小さな商店ももはやあまり残っていない。こうした店と競争しなくてはならないのは、同じようなショッピングセンター(たとえばニシムタ)だ。

「ダイレックス」の隣には、つい先日「ケーズデンキ」ができたばかり。近くには「西松屋」や「すき屋」もできているし、最近の加世田は企業進出が相次いでいる。南さつま市全体では人口はずっと減り続けているが、加世田の中心部に限って言えば人口は増えているくらいで(どこを中心部と見なすかによってどうとでも言えそうだが)、旺盛な需要が維持されているように見える。

ところで、「不況」というのは、要するに需要が供給を下回ることで起きる。作ってもものが売れないというわけだ。なので、不況を解消するには、供給能力を切り下げる(そもそも作るのを辞める)か、需要を増やすかの2つしか方法がない。 供給能力を切り下げるというのは、社会全体でリストラをするということに他ならないから論外で(※)、不況を終わらせる唯一の方法は「需要を増やす」ことなのだ。しかし悲しいことに需要を増やす簡単な方法はない。

なぜなら究極的には、需要というのは誰かの「あれが欲しい」という欲望(とそれに伴う購買能力)に立脚しているからである。必要のないものをどうすれば欲しがってもらえるか、というのが産業革命以降のビジネスが直面してきた難問中の難問なのである。この需要不足、という難問に突き当たっているのが日本の不況だ。

だが、田舎で過ごしていると需要不足をあまり感じない。今流行りの「マイルドヤンキー」の話ではなく、むしろ供給不足の方を強く感じる。つまり、買いたくてもそれを売っている店が近場にないということだ。実際、田舎でのある種のビジネスは殿様商売のようなところがあり、「他に選択肢もないでしょ」みたいな横柄な(というのは言い過ぎにしても、愛想がない)態度を取られることがある。

じゃあ、田舎の企業は大儲けしているのか、というとそんなこともない。需要は不足していないのに大儲けしないのは、「大儲けするほどの需要」はないからだ。

しかし、大儲けするほどの需要がないために、商店自体が少なくなっていき、今となっては南さつまの人も買い物に鹿児島市まで出て行くという人も多いのではないだろうか。休日に谷山(鹿児島市)のイオンに行くと、南さつまの知り合いに会う確率が高い。

つまり、田舎にも需要は確実にあるが、それを満たす供給は少ないのである。ここに田舎でのビジネスチャンスがあると思う。少ない需要をアテにしたビジネスというのは、厳しいようでいて、競争があまりないというメリットもある。

例えば、田舎の食堂を考えてみて欲しい。激安ではないがそれなりにリーズナブルな価格、掃除の行き届いていない店内、大昔から張られっぱなしのポスター、のんびりとした給仕係、いつも同じ顔が座るカウンター、お客と世間話をする店主、といったようなものを。

都会では、同じクラスの店の競争は大変激しい。ファストフードがそれにあたるだろう。きびきび動くレジ打ち、マニュアルに沿って勧められる追加の一品、秒単位で待ち時間を気にする人たち、ピカピカの店内、昼食時のどこか殺気だった雰囲気——。同じような商売なのに、どうしてここまで違うのだろうか? それは、都会では巨大な需要を奪い合うために激烈な競争があり、田舎にはそれがないからだ。

譬えるなら、都会でのビジネスはサメとして生きるようなものだ。投資(生きるためのエネルギー)も大きいが利益も大きい。これはこれでやりがいがある。田舎でのビジネスは、 同じ海で生きるのでも、イソギンチャクとかホヤ(海鞘)として生きるのに似ている。省エネモードで生きていて、目の前に餌が流れてきたときだけ反応する。利益も少ないが投資も少ないので生きている。

投資家として世界を見ると、利益は大きい方がいいに決まっているが、労働者として世界を見ると、利益率が低くても投資が少なくて済むのも魅力的である。というのは、簡単に言うとそんなに働かなくてもいいからだ。言い方を変えると、経営するなら都会のファストフード店の方が魅力的かもしれないが、働くなら田舎の食堂の方が楽かもしれないということだ。もちろん、これは単純化した話なので、実際にはこうはいかないかもしれない。でも多くの人が、薄々思っている。「田舎での仕事は楽だが面白味はない」というように。

確かに、田舎の食堂で一生を終えるのは面白味がないかもしれない。 都会にバラ色の生活があるのなら。しかし、現在の日本ではそこが怪しくなってきている。かつて自由な生き方として称揚された「フリーター」は、今や資本家に買いたたかれる安物の労働者になってしまった。同じ働くなら、田舎の食堂の方が面白い、という世界になりつつあるのではないか

そして、企業を経営するにしても、都会の激しい競争の中で周りに伍していくより、田舎で少ない需要をアテにした「ホヤ的な商売」をする方が、実は面白いことができるような気がしている。確かに売り上げはさほど期待できない。でもなるだけ固定費を抑えて、あんまり売り上げが無くても生きていける、というようなスタイルの商売にすれば、かえって自由な発想でビジネスを組み立てられるのではないか。

固定費を抑えた商売というと、例えば露天商のようなものだ。普通の人は、露天商などマトモな人がやる仕事ではないと思っているだろうが、最近盛んになってきたマルシェとかフリーマーケットは露天商の集合といえる。「南薩の田舎暮らし」がイベントに出店するのも一種の露天商である。

もちろん、専業で身を立てている露天商(縁日に出てくるテキ屋さんのような)の暮らし向きがいいとは思えない。しかし、ブラック企業でボロボロにされるような働き方をするくらいなら、不安定な零細商売でやっていくのも悪くはない。

田舎への移住というと、すぐに「仕事がない」という反応がある。それは事実で、確かに「求人」は少ない(ただし介護関係を除く)。でも仕事がないわけではないと思う。田舎には満たされていない需要が意外とある。 「ダイレックス」が加世田に進出してくるくらいである。私はこうしたお店も肯定するが、でも個人の才気による小さなお店がこの街で生まれたらなお面白い。田舎には大きなチャンスはないかもしれない。でも小さなチャンスがたくさん転がっている。南さつまへ進出してくる、商売の新しい才能を待っています。


※と書いたものの、実は「供給能力の切り下げ」は真面目に検討すべき方策だと私は思っている。

2016年4月23日土曜日

ホンモノレトロな村田旅館がステキにリニューアル

以前ブログ記事で紹介した村田旅館。改装されたと聞いていたが、どうなっているのかずっと気になっていた。

【参考】ホンモノレトロな村田旅館が素晴らしい

改装で素晴らしい部分がなくなってしまって、機能的でオシャレだがどこにでもある施設になってしまわないかと心配していたのである。というわけで、先日、用事で村田旅館を訪れた折り、少しだけ改装箇所を確認してきた。

一番心配していたのは、冒頭写真の洗面所のタイルである。ここが残っていて本当によかった!

昔の手洗い場のタイルはこういうデザインが多かったが、今では全く絶えてしまった様式である。我が家も改装前、お風呂の手洗い場(お風呂の中に手洗い場があったのです)はこれ式のタイルだった。丸っこい小石みたいなのが敷き詰められた感じのこのタイル(と呼んでいいのか)、本当に好きだ。5分くらい眺めていても飽きない。

それから、メインの洗面所の流し台のタイルも残っていてなにより。

ここの流し台のデザインはとても瀟洒で、あか抜けている。昔はこういうデザインの流し台が流行ったんだろうか。寡聞にして知らない。質感もとてもよく、キレイに掃除するのが生きがいにでもなりそうな、そういう流し台である。

ちなみに、細かいことだがここの電灯のスイッチが昭和なやつなのもよかった。本当は、電灯がもっと薄暗かったらなお雰囲気が出ると思う(当日、ちゃんとしたカメラを持っていなかったので写真がイマイチですいません)。

私が水回りばかり気にしているのは、立派な梁とか階段の手すりのような構造・意匠はどこでも残りやすいのだが、水回りは真っ先に改装される部分であるためなかなかホンモノのレトロが残らないためである。水回りを昔ながらに残していくためには、丁寧なメンテナンスが求められる。つまり村田旅館の洗面所のタイルがちゃんと残っているのは、維持管理の丁寧さの現れだと思う。

といっても、女性にとっては「やっぱウォシュレットがあった方が…」とか「薄暗い洗面所だと化粧がしにくい」といった事情はあるだろう。

そういう声を考慮してか、村田旅館でもトイレはそれなりに改装されており(でもやっぱりタイルはそのままだった。立派)、特に手洗いの流しが変わっていたようだ(男性用だけしか見ていないので女性用はどのようになっているかわかりません)。

そして安心したのは、その前の鏡! 昔からある広告入りの鏡がちゃんとそこにあるではないか。「御菓子の小田屋」(地元の老舗和菓子店)の広告が入った鏡である。前も書いたが私はこういう広告入り鏡が好きで、改装後も見たところ広告入り鏡がほぼそのままになっていたのには安堵した(ただし、場所が変わっていたものがありました)。

ちなみに、なぜ昔の鏡には広告が入っていたのかというと、昔は鏡がかなりの高級品であったために、おいそれと鏡を購入するということができず、スポンサーを募って鏡を買っていたのの名残のようである(推測)。この「御菓子の小田屋」の鏡が設置された頃は既に鏡は高級品というほどでもなかったと思うが、鏡に広告を入れる文化がまだ残っていたのだろう。この頃(おそらく昭和50年代?)までは、店舗の新築・改装などの時に御祝いの品として鏡を送るという文化もあったように思われる。

なお、お風呂がどうなっているのかが気になるところだが、宿泊で行ったわけではないのでさすがに見に行くのが憚られ確認していない。ただし、かなり工事をしてキレイになったらしいということは聞いた。

改装は、全体として壁紙の張り替えや建具の入れ替えなど内装関係が中心で、構造的な部分にはほとんど手をつけていないようだ。入り口すぐにある2階への急な階段(この階段がまたすごくいい感じ)などもそのままになっており、これもよかったところである。

逆に言うと、各所の段差などもそのままであるため、バリアフリー対応の面では遅れていると言わざるを得ないが、バリアフリーだがつまらない旅館より、バリアフリーでなくても味のある旅館に泊まりたいという人はたくさんいるのだから、今後も無理にこの建築物の構造を変える必要はないと思う(※)。

客室の中はほとんど見ていないが、今回の改装は、改めるべきを改め、守るべきは守ったような気がしている。欲を言えばあまりキレイにならないようにしたらもっとよかったと思うが、ちょっと使い古された感がある方がよいというのは私の偏った好みで、普通はキレイな方が好まれるわけだから、お客さんの目線に立った改装だと思う。

ところで、今回は宴会利用で村田旅館を訪れたのだが、宴会料理も処理が丁寧で全て美味しくいただいた。宴会料理は大量に作るのでどうしても手抜きになりがちだが、ここはレトロ関係なく料理が本当に美味しい。たくさん余ったので包んでもらい、家でも美味しくいただいた。

というわけで、ホンモノレトロな村田旅館は健在である!


※バリアフリー法によって、旅館はバリアフリーに努めないといけないとされているが、あくまで努力義務である。

2015年1月15日木曜日

南薩の不夜城「A-Zかわなべ」でうちのポンカンを販売中

A-Z(エーゼット)というショッピングセンターをご存じだろうか?

これは鹿児島(阿久根、川辺、隼人の3箇所)にあって、店舗がやたらデカく車から仏壇まで何でも置いていて、しかも24時間営業という独特のお店である。この3箇所はどこもさしたる繁華街を持たないような田舎で、だからこそ商圏のニーズを独占している。こういうショッピングセンターはだいたい繁華街から少し離れた郊外に店を構えるものだが、敢えて競争相手のいない田舎に出店するというのが面白い。

しかも、私も詳しくは知らないのだが、仕入れの仕組みが変わっていて、現場担当者の裁量がとても大きいらしい。例えばニシムタ(鹿児島で有名なショッピングセンターです)なんかだと仕入れは全店共通だと思うが、A-Zの場合は売り場担当者がバイヤーとなって店舗で独自に仕入れるそうだ。いうまでもなく、仕入れは全店共通にするのが合理的だ。この一見非合理な、常識と逆のことをやるのがA-Zの面白いところである。

だから、A-Zには、近所のおばちゃんたち(組合)が作ったような漬物とか、ショッピングセンターらしからぬものが置いている。一見普通の大型ショッピングセンターだが、よく見てみると「常識とは逆の経営」をやっているのである。

A-Zがいかに独特な経営をしているかは、WEB上にもいろいろな記事が載っている(→例えばコレとかコレとか)のでその話はこのあたりにして、このたび、地元南薩のA-Zかわなべに「南薩の田舎暮らし」の「無農薬・無化学肥料のポンカン」を買ってもらえる(仕入れてもらえる)ことになった! (というか独特な経営をしているから、私などから仕入れてくれるのだろう)

私も正確な経緯はよくわからないものの、A-Zとして有機農産物などの取り扱いを強化していこうという動きがあり、それに載っからせてもらった形である。

もし、A-Zにポンカンを仕入れてもらえなければ、個人販売でチマチマ売りつつ、「腐れとの戦い」(というのは防腐剤を掛けていないので)をしなければならなかったので、本当に助かった。

しかも最初は、様子見程度の仕入れなのかなあと思っていたのだが、売り場担当はの方がPOPまで作って下さり、また私が手渡した小さなチラシもわざわざ多数印刷して頒布してくれているではないか。A-Zのご担当の方に、結構力を割いてもらっていると感じる。

こうして、せっかく仕入れてもらったこのポンカンが、無事売り切れて欲しいというのが私の切なる願いである。ここまでやっもらって腐るまで売れ残るということはないと思うが、なかなか売れないとなれば次の仕入れに繋がらない。そして売り場担当の方に申し訳ない感じがする。

というわけなので、南薩の皆さんはA-Zかわなべにお越しの際は、「無農薬・無肥料のポンカン」をよろしくお願いします。A-Zには基本的にチラシがないそうなので、口コミだけが頼りです。なお、一袋(たぶん1kgくらい)380円で売っていました。

2014年7月30日水曜日

ホンモノレトロな村田旅館が素晴らしい

先日、家内の高校の同級生がわざわざ埼玉からこちらへ遊びに来てくれたので、前々から行ってみたかった加世田 万世(ばんせい)の村田旅館で夜に会食した(もちろん、客人はそのまま泊まった)。

1800円のコースと3000円の懐石コースがあるというので、酒飲みではない私は懐石じゃなくてよかろうと1800円の方にすることにしたのだが、大変豪華な食事が出てきたので、みんなで「これ絶対1800円じゃないよね。旅館の人が間違えて3000円の方を出してるんじゃない?」と訝しみながら食べた。これがまた美味しくて、こういう旅館で出てくる「いかにも旅館的な手抜き(?)料理」じゃない、料亭のそれのようなしっかりしたコースだった。

いざ会計してみると旅館の人が間違っていたわけではなく、事実1800円の方でびっくり。飲み物代は別だが、このクオリティ・量で1800円というのは相当にお安い。それに、旅館の雰囲気もすごくよくて気持ちよく食べられた。

この村田旅館は創業約80年らしく、創業当時からの面影が随所に残っている。80年前というと昭和の初期で、まだ横書きは右から左へと書いていたころである。急な階段の手すりはしゃれた意匠が施されているし、洗面台は今となっては作ろうと思っても作れない洒脱なタイルで飾られている。その前には「森田酒店」みたいな地元の商店の広告が入った鏡が貼られていて、こういう広告入り鏡が大好きな私は嬉しくなってしまった。

中でも白眉なのは「アサヒビール」と「リボンシトロン」の広告が入った大きな鏡。この頃の鏡は銀鏡反応で作られているし(つまり銀が使われている)、平面の大きなガラスを作る技術が未熟だったこともあって高級品だった。この鏡のように大きな鏡があったということは、かなりハイクラスの宿だったように思われる。

村田旅館は今では廃線となった南薩鉄道万世駅の真正面に位置しており、往時は相当な賑わいを見せていただろう。南薩の凋落とともに、旅館も寂れてきたようであるが、その手入れは行き届いていて、古くても汚らしさは全くなく、清潔感がある。今流行りの「レトロ」という言葉を使ってしまっては安っぽい感じがするけども、ここはホンモノレトロな旅館である。

しかも、旅館の人は古いものを大切に使っているが、「レトロ」は全く売りにしていない。それどころか、「こんな素晴らしい旅館だから、宣伝したらもっとたくさんお客が来るんじゃないですか」と聞いてみたら「まだまだ自信がなくて宣伝できません」と言う。例えば、ここは本当に昔ながらの旅館なので、お風呂などもかなり古びていてしかも狭い。今の宿泊客には確かに不満な部分があろう。あと、タイル張りの床の、小学校のトイレのようなトイレも今の人には不評かもしれないと思った(小学校と違ってとても清潔感があったけど)。

そんなわけで、来月にちょっとした改装を予定しているらしい。改装箇所を詳らかには伺わなかったけれど、創業当時からの部分は残しつつも古びている箇所を直すというようなことはするらしいので(例えばお風呂は改装するようだ)、私が気に入った部分がなくなってしまわないかとヒヤヒヤしているところである。

朝食付で1泊5000円、夕食・朝食付で7000円でかなりお得に泊まれるし、ご飯は美味しいし、ホンモノレトロな雰囲気は在りし日の文豪でも泊まっていそうで、地元民であるにもかかわらず「定宿」にしたいとさえ思う。今度から遠方から人が来たら、迷うことなく村田旅館をオススメすることにしよう。

2013年9月6日金曜日

とも屋の「欧風銘菓 マドレーヌ」

南さつま市小湊(こみなと)に「とも屋」というお菓子屋さんがある。昔ながらのお菓子屋さんで、外観・内装などで目を引く店ではないが、そこのマドレーヌはパッケージデザインが秀逸である。他の商品はどうということもないのに、なぜかこのマドレーヌのデザインだけレトロかわいくて愛嬌がある。

トリコロール(赤・青・白)と「マドレ〜ヌ」の絶妙な書き文字。そして周りの唐草風模様。しかもこれらがシールなどではなく、アルミのマドレーヌ型に直接印刷されている。こういう風に焼き菓子の型が直接パッケージデザインとなっているのは最近珍しい(昔は結構あったようだ)。

そして、この丸形がいい。最近売っているマドレーヌはこういう丸形ではなくて、貝形をしているものが多い。もともとマドレーヌというのは貝形にアイデンティティがあって、本場フランスには丸形のマドレーヌはなく、丸形は日本独自のものという。だから、最近の貝形マドレーヌの方が「正しい」のであるが、日本では昔はマドレーヌといえば丸形だったわけで、何か「これぞ日本のマドレーヌ」と感じさせられる。

しかも、この日本風マドレーヌに「欧風銘菓」と銘打っているのがさらにいい。この「欧風」は、「日本人の憧れの中だけに存在していたヨオロッパ」なのだろう。そもそも、このマドレーヌ、シロップ(かリキュール)漬けのドライフルーツ(?)が入っていて、中はマドレーヌというよりパウンドケーキ風である。フランス菓子というよりも、田舎の茶飲み話に最適で、食べ応えのある落ちつく味である。

つまり、このマドレーヌは「欧風銘菓」を謳っているが、現実の欧州には存在していなかったもので、大げさに言えば、かつての日本人が「欧風」として思い描いたものなのだ。

そもそも、日本の海外文化の受容というものは、この約二千年間そういう調子だった。大陸の文化をそのまま受け入れるのではなく、断片的に入ってくるそれをなんとか繋ぎ合わせ、時に誤読し、時に深読みし、「理想化された海外」あるいは「きっとそうに違いない海外」をつくり上げてきた。

こうした営みを、稀代の編集者である松岡正剛氏は「日本という方法」という言葉で解説している。要は、コンテンツそのものよりもそのコンテンツをどう料理(編集)するかというところに日本らしさはあるんだよ、という話である。

日本らしければいい、というものでもないが、本場のものをそのままに受け入れずに、無意識的であれそれを我々の生活の間尺に合うようにアレンジするのは一つの創造的行為である。丸形マドレーヌが日本で生まれた理由も、単に貝の焼き型が手元になかったからという単純な理由によるのだろうが、そのお陰で日本でマドレーヌがこんなに普及したのではないだろうか。貝型にこだわっていたら、これほどは広まらなかったように思う。

こういう「かつての日本人が本場風として思い描いたもの」は、今ではもうめっきり少なくなって、本当に本場のもの(とされているもの)か、あるいは手軽な代用品ばかりになってしまったように感じる。とも屋のマドレーヌは、デザインの秀逸さもさることながら、なんだか手の届かないところに「本場」があった古き良き時代を伝えるものに思えるので、これからもずっとこの形で残っていって欲しい。
【情報】
とも屋菓子舗
〒897-1122 鹿児島県南さつま市加世田小湊7664
0993-53-9202

2013年9月1日日曜日

萬世酒造の「松鳴館」には万世の古い記憶が展示されています

吹上浜海浜公園の隣に、「松鳴館」と名付けられた萬世酒造の瀟洒な建物がある。ここには醸造の展示施設が併設されているのだが、実は絵画も展示されているらしいと聞いて見に行ってみた。

しかし、同社のWEBサイトにもほとんど情報がないこともあり、「どうせ焼酎ブームの頃に社長が趣味で買い集めた適当な絵が、脈絡なく飾ってあるんじゃないの? 瀟洒な建物は税金対策では?」などと不遜な考えで行ったのだが、これはとても真面目な展示である。

醸造の展示は今時珍しくもないが、感心したのは絵画だ。ここに展示されているのは、野崎耕二さんという方が万世の昔を描いた作品群。萬世酒造が吹上浜海浜公園の隣の旧自動車学校跡地に移転してきたのは2005年で、それまでは万世小学校の近くにあった。野崎さんは、この昔の萬世酒造の3軒となりの家に生まれたらしく、小さな頃は焼酎の量り売りを買いに行かされたという。

野崎さんは1937年生まれ。万世小学校、万世中学校を卒業し、薩南工業に進んだ。1957年に上京し、やがてイラストレータとして独立したが、1983年に筋ジストロフィーと診断されたことをきっかけに「一日一絵」を描き始め、30年近く続いている(現在も続いているのかは不明)。

この野崎さんは、現在は千葉に在住であるが、自分が小さい頃に過ごした万世を思い起こし、素朴なタッチで戦中戦後の日常生活を描いた作品を多く製作している。その作品群がこの萬世酒造に展示されているわけで、描かれているのは何気ない昔の風景に過ぎないが、逆に今では失われ忘れられたものであり、貴重な歴史の資料である。

また、絵に添えられた短文がいい味を出していて、素朴な絵をいっそう素朴な気持ちで見ることができる。万世出身のある年代以上の人がご覧になったら、きっと「ああ、こんな時代だったなあ」と懐かしがること必至である。今回はフラリと寄ったのでじっくりと見る時間がなかったが、いつか一枚一枚をちゃんと見てみたいと思う。

どうしてこういう展示施設を作ろうと思ったのかは分からないが、「万世(萬世)」の名を掲げる萬世酒造なだけに、地元の古い風景を大事にしようと思ったのだろうし、野崎さんの仕事をしっかりと残していこうという使命感のようなものを持ったのかもしれない。絵画の展示スペースは決して大きくないが、真摯さを感じる展示であった。

一方、瀟洒な建物の方は、なんだか大正ロマン風の贅沢な造りで、こちらは本当に税金対策で作られたものかもしれない。展示施設の案内の方に聞くと、「詳しい経緯は知らないが、萬世酒造は薩摩酒造の子会社なので、薩摩酒造の考えでこうした施設にしたのでは」とのことだった。言われてみると、枕崎の薩摩酒造のハデな建物(明治蔵)と相通じるものがあるような気もする。

ちなみに、この松鳴館でしか買えない焼酎があって、それは2006年秋季全国酒類コンクール本格焼酎部門総合1位を獲得した「萬世松鳴館」である。せっかくなので、私はアルコールは飲まないがこいつの原酒(アルコール度37度)を買って帰った。

ここはWEBにもパンフレット等にもその情報は少なく、なぜか萬世酒造自身があまり広報していないが、万世出身の方は何かの機会に寄ってみて損はないと思う。松籟(しょうらい)の響く地に、万世の古い記憶が静かに展示されている。

【情報】
薩摩萬世 松鳴館 
南さつま市加世田高橋1940-25

TEL: 0993(52)0648
見学/9時-16時(休館:第3日曜日、年末年始(12/30-1/2))
※見学は年中可能。ただし、焼酎製造の時期は9月中旬-12月初旬

2013年8月8日木曜日

桜井製菓の「ミルクキャンデー」から地産地消を考える

近所に馬場店(ばばみせ)と呼ばれているとってもレトロなお店がある。おじいちゃんとおばあちゃんが生活の傍らで営んでいるようなそんな店なのだが、そこにおいてある(というよりここ以外で見たことがない!)「ミルクキャンデー」が逸品だ。

今のデザイン事務所には不可能なバランスが絶妙に崩れた文字にまず惹かれる。そして食べてみて分かったがアイスの棒にはなんと割り箸が使われている。パッケージから何から手作り感満載だ。

味は「昔なつかし」が謳い文句だが、私にとってはあまり懐かしさを感じない。たぶんこの「ミルクキャンデー」がなつかしの対象としているのは、私が産まれるよりもずっと前、「三丁目の夕日」みたいな頃なのかもしれない。

ちなみにこの「ミルクキャンデー」を作っているのは、金峰町にある桜井製菓というところだが、WEBサイトにもこれの紹介がないようなのが不思議だ。姉妹商品に「ソーダキャンデー」とか「パインキャンデー」とかこれまたレトロなアイスキャンデーがあるので、気になる人はうちの近所のレトロな馬場店まで来て欲しい。

ところで話は変わるが、役所の人に勧められて鹿児島県がやっている「地産地消推進サポーター」なるものになった。 これは、要は「鹿児島県の美味しいものの情報発信をしましょう」というボランティア活動である。

このサポーターに登録したお陰で、鹿児島の農産物に関する資料が送られてきたが、どうも鹿児島の特産品を地産地消しましょうみたいな感じがあり、何か違和感がある。

そもそも地産地消は何のために推進するのだろうか。健康のために身の回りで穫れた野菜をたくさん食べましょう、というのは当然として、より重要なことは、高度経済成長期に農村が急速に市場経済化したことの副作用である。高度経済成長期以前には、農村経済が自給自足的であったために現金収入が少なく、そのために各地の自治体は「一村一品運動」などを行って農村の現金収入を向上させる施策を実施した。「一村一品運動」というのは、村に一つは特産品を作って、それを外に売りましょう! という運動だ。

こうしたことから、農村経済も次第に市場経済に組み込まれていったわけだが、1980年代に至って、地域農産物の多くが市場出荷されてしまい、ダイコンのようなありふれた野菜ですら地域外から仕入れた品に置き換わってしまうという現象が生じた。もちろん経済的な合理性からそうなったわけで、それ自体は悪いことではない。だが、ありふれたものまで外から買い入れていては、ただでさえ少ない農村の現金収入を費消することになってしまう。要は、地域の中でお金が回らない

例えば、同じアイスを買うのでも、「ガリガリ君」では地域に還元される部分は少ないが、桜井製菓の「ミルクキャンデー」を買えば、地域の中でお金が回るわけだ。これも地産地消の重要な目的ではないだろうか。一方で、特産品に関しては、そもそも外に売って現金収入を得るということが目的なのだから、地産地消というよりは、積極的に対外販売に力を入れていくべきだ。

だから、私の考えでは、地産地消推進サポーターの役割は、とても美味しい特産品の情報を発信するというより、大企業の商品と代替可能な「地域のありふれた品」を紹介することだ。桜井製菓の「ミルクキャンデー」のような、他の地域に積極的に売っていく品ではないけれど、なんだか楽しい、地元の何気ないものを紹介できたらいいと思っている。

2013年2月14日木曜日

イケダパンの地元愛に感謝! OUTLET BREAD

イケダパン、といえば南九州では有名なパンメーカーである。多角経営に失敗し、1986年に経営破綻して山崎製パンのグループになったが、地元でのブランド力があったためか、その屋号を残して今もイケダパンとして製造を続けている。

このイケダパンは、南さつま市の加世田に発祥した企業で、今でも登記上の本店は加世田にある。ところが工場や本店機能は2002年に加世田から撤退しており、約60km離れた姶良市(重富)に移転している。南さつま市は高速道路も鉄道もなく、流通上不利なための経営判断と思われる。姶良市には高速道路も鉄道もあり、空港にも近い。

このイケダパンの工場直売所である「OUTLET BREAD」という店が、2012年4月に加世田に出来た。この店、製造過程で生じる少々見た目が悪い品などを重富工場から直送し破格で提供する店で、文字通りパンのアウトレットショップである。

菓子パンなども安いが(私自身はあまり菓子パンは食べないこともあり)食パンやパンの耳が安くてしかも美味しい。もちろん、元の商品名はわからないのだが、按ずるに、少し高級な食パンの規格外品が使われているのだと思う。特にパンの耳は量が多く、お買い得だ。

同様の店は重富工場にも附設されており、そこでは製造に伴って生じる規格外品が逐次補給される。しかしこの店の場合、工場からは遠く朝にしか入荷がないため、売り切れればおしまいになる。こうした店は製造地にあって手間がかからないからこそ経営的な意味があり、わざわざ遠方に運んで破格の商品を提供しては割に合わないように見える。

事実、9枚入りの角食(食パン)を100円で売っていては、とても利益は出ていないだろう。私が経営者なら、とても作れない店だ。こんな店をなぜ南さつまに作ったのか、その経緯は知らないが、きっと加世田への地元愛のなせる業ではないだろうか。

登記上の本社は加世田にあるとはいえ、工場の撤退以後は事実上加世田との繋がりはなくなっていた。だが元は地域密着の企業であり、地域のお祭りなどにも積極的に参加していたと聞く。そういうことを考えると、イケダパンを育ててくれた加世田への恩返しをするために、敢えて損をするような店を作ったとしか思えないのである。

イケダパンはもはや加世田の企業とは言えないが、もし上に書いた推測が正しいならば、南さつま市の人は少しはイケダパンを贔屓してもいいだろう。末永く続いて欲しい。

【情報】
OUTLET BREAD イケダパン工場直売所 加世田店
南さつま市武田15417-3

【2013年12月30日追記】
本店、今冬に閉店していた。経営的に無理がある店だとは思っていたが、閉店したのは大変残念である。最初から利益を度外視するのであれば、もう少し公共的な意味合い(例えば、小学校の給食に提供するとか)を持たせた事業を行って、CSR(この言葉はキライだが)の一環としてやった方が株主への説明もできてよかったと思う。

2013年2月13日水曜日

丁子屋:廻船問屋が醤油屋になったわけ

南さつま市加世田のはずれ、万世(ばんせい)という町に、鹿児島では有名な醤油屋さんである丁子屋がある。この前「白だし」を買ってみたら、評判通りの美味しさだった。

丁子屋の創業は享保20(1735)年。300年弱の歴史があり、県内では3番目の長寿企業らしい。しかし、藩政時代から醤油屋さんであったわけではない。

では何をしていたかというと、藩政時代を通じて丁子屋は廻船問屋だった。廻船問屋というのは、今風に言えば総合商社のようなもので、舟で日本全国を巡りながら安いところで商品を仕入れ高いところで売る、という商売である。

丁子屋という屋号はもちろん香辛料の丁子=クローブ に由来し、南方産の丁子油を扱ったことによる。江戸時代、丁子油と椿油を混ぜたものが刀の錆止めに使われていたのだそうだ。このほか、丁子屋は当地で干しトビウオや鰹節(※)を仕入れて大坂で売り、塩や素麺を買い入れる貿易をしていたという。

万世は万之瀬川の河口に位置したため、中世以来天然の良港として栄えた。蛇足だが、船が常に海にあると海洋付着生物がびっしりと船底に固着して使い物にならなくなるため、船底塗料の登場前はわざわざ河を遡って真水に船を繋留する必要があった。このため古来より港というものは多くが河口近くに位置したのである。

丁子屋はこの地の利を活かし、藩からの特認の下で(幕府からは禁じられていた)琉球との交易も行い、相当に稼いだという。最終的には3隻の千石船を所有したらしい。

ところが、創業して70年ほど経った1802年、この地に激変が訪れる。万之瀬川が氾濫によってその流れを変え、河口が北にずれて突如として万世から港がなくなったのだった。もちろん丁子屋は新たな河口に対応して拠点を設けたが、新しい河口は川底が浅く、大きな舟が出入りできなかった。そのため商売が小口にならざるを得なかったと思われる。

そんな中、幕末に至って醤油醸造が始まる。これは推測だが、港から遠くなって使い勝手が悪くなった万世の倉庫を有効利用するための事業だったのかも知れない。丁子屋は元々、肥後から小麦と大豆を仕入れて琉球に売るという商売をしていたらしいが、この商材と万之瀬川の清流を利用して出来る醤油という商品を思いついたのだろう。

こうして、河の流れが変わっても、万世と丁子屋は海運と先進的な商品の取り扱いで繁栄を続けたが、明治後半から大正初期が隆盛の掉尾だった。交通が鉄道の時代になり、大正3年に加世田から枕崎に抜ける南薩鉄道が開通すると、鉄道網からはずれた万世は凋落を始めたのである。遅れて加世田から万世にも支線が延びたが、海運の利を失った万世に流通上の価値はもはやなかった。

丁子屋が廻船問屋から醤油屋へと変遷した理由としては、万之瀬川の流れの変化と海運の時代の終わりという二つが挙げられる。どんなに堅牢な商売をやっていても、それを存立させている基盤が崩れれば商売の形は変わらざるを得ない。だが、その変化を捉えて先を読んできた経営があったからこそ、丁子屋は300年弱も続いている。幕末、明治維新、日清・日露戦争、太平洋戦争という激動の時代を生き抜いてきたことを思うと、歴代の店主に非常な商才があったのは間違いない。オオイタビに覆われた大正時代の石蔵は、未だ活躍の機会を虎視眈々と窺っているようにも見えた。

※ 鰹節というと枕崎が有名だが、枕崎で燻製したものを万世に運び、丁子屋で鰹カビをまぶして本枯れの鰹節にしたのだそうだ。このカビを扱った経験が、後の醤油醸造に活きているのだと思う。

【参考文献】
万世歴史散策』2012年、窪田 巧

【補足】2014/02/04 アップデート
「丁子屋」を「丁字屋」と書く致命的な誤字をしていたので改めました。