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2025年2月15日土曜日

秋田県と鹿児島県の新体育館の計画を比較してみました

先日、こんな記事を書いた。

「年間365日賑わう」500億円の新体育館は必要なのか?|南薩日乗
https://inakaseikatsu.blogspot.com/2025/02/365500.html

「新体育館500億円」は、観測気球(=意図的に報道機関にリークして世間の反応をうかがうこと)じゃないかと思っていたのだが、実際のことだったらしい。新聞報道によれば、県は新体育館の予算を488億円で県議会に示したとのことだ。当初予算が245億円だったので、ほぼ倍である。

ところで、じつは今秋田県でも県立体育館を新築する計画が動いている。これが鹿児島の状況とたいへん似ていて面白い。当初予算は254億円。PFI方式で建設する方式まで含め、ほぼ一緒だった。ところが資材高騰のあおりを受けて、こちらでも入札が不調(応札者がいないこと)になった。そこで予算を110億円増額して、364億円で再入札しているところである。

鹿児島では245億では足りないということで313億円に増額して入札が実施されたが、不調だった。それで488億円にするというわけである。当初予算と展開はまるで同じなのだが、金額は364億円と488億円と差がついた(当初予算は秋田県の方がやや大きかったくらいなのに!)。どうしてこんなに開きが出たのか?

そう思って秋田県の新体育館の整備計画をつぶさに読んでみたところ、鹿児島と比べることができてなかなか面白い。秋田県の計画がいいものなのかどうか、地元民ではないので判断はできないが、両県の計画を比較してみよう。

【秋田県】新県立体育館整備基本計画を策定しました
https://www.pref.akita.lg.jp/pages/archive/77435

【鹿児島県】スポーツ・コンベンションセンター基本構想の策定について
https://www.pref.kagoshima.jp/ac12/supo-tukonnbensyonsenta-kihonkousousakutei.html

まず、似ている点から列挙すると次の通りである。

  • 現体育館の老朽化のための建て替え計画であること。
  • 全国大会だけでなくプロスポーツを誘致する計画であり、そのために多くの観客席を設けること。(秋田:6000席、鹿児島:8000席 ← 予算増額を受け7000席に縮小との報道)
  • メインアリーナとサブアリーナの2面構成であること。
  • 整備にPFI方式を用いること(→ 鹿児島では予算の関係で断念との報道)

次に、施設として異なる主な点を挙げると次のとおりである。

  • 秋田県の新体育館には、武道館が併設されない。
  • 秋田県の新体育館には、現在は別に設置されているスポーツ科学センターを包含する。
  • 秋田県は現県体育館のある運動公園内での建て替えである。

このように、細かい点では違いがあるが、ほぼ同じなのは一目瞭然である。何しろ、「全国大会の実施」「プロスポーツの誘致」という目指しているものがほぼ一緒だからだ。ただ、メインアリーナの構成は秋田県の方が観客席総数こそ少ないとはいえ、よりプロスポーツに適したものになっている(バスケコートで2面+すり鉢状の観客席。鹿児島の場合は4面)。

ちなみに、鹿児島の県体育館は予算を抑えるために観客席を8000席以上から7000席に減らすという報道があったが、プロスポーツを誘致するための重要な基準は観客席の数やその様態(背もたれがあるかなど)である。これが全国大会の場合と最も違うところである。全国大会は盤面はいるが観客席はそれほどいらない(2000席が基準)。ところがプロスポーツは盤面は中心の1面だけでいいが、観客席が多くなくてはいけない。鹿児島県が当初8000席以上としていたのは、バスケットボールの国際大会の基準を満たすためのものであった。なお、プロバスケリーグ(Bリーグ)の現在の座席基準は5000席以上なのだが、これが将来的には8000席に引き上げられるそうだ。

つまり、全国大会とプロスポーツは似ているが施設に求められる基準が全く異なり、この両方を満たすために施設が大型化して予算が膨れ上がるのである。秋田県の計画では、メインアリーナをバスケ2面のみに留めて観客席数を確保するとともに、バスケの国際大会の誘致は断念することでアリーナの大きさを抑えている。この観点からは、鹿児島の体育館が7000席に減らすというのはちょっと中途半端だ。ちなみに秋田の延べ床面積は1.7万㎡、鹿児島は3万㎡となっている。武道館の部分があるとはいえ、鹿児島の計画は過大ではないだろうか。正直、秋田県の体育館と同じ規模でいいような気がする。

それから、秋田県の計画では、冒頭に人口予測県の財政状況が述べられている。ちなみに秋田県の人口は鹿児島県の約2/3である(財政状況は単純には比べられない)。県大会などは人口減少すると規模が小さくなるが全国大会は単純には小さくならないので(出場数が変わらない)、人口減少が予測されるからといって小さい体育館で済むというわけではないのだが、それでも冒頭に人口予測や財政状況が述べられることは誠実さを感じた。

また、二つの施設のコンセプトの違いにも目が引かれた。秋田県の方にはスローガンのようなものはないが、基本方針の冒頭に掲げられているのが「「秋田の元気を創造する拠点」として、子供たちに夢を与え、選手と観客が躍動し、賑わいづくりにも貢献する施設とします」という言葉。「子供」「選手」「観客」「賑わい」という、よくも悪くも全方位に気を遣った言葉である。面白味はないが、手堅い「行政」を感じる。

一方、鹿児島県の新体育館はスローガンが乱立(!?)しており、当初は「アスリートファースト」が強調されたが、ドルフィンポート跡に場所が選定されてからは「年間365日賑わう拠点」が喧伝されている。ちなみに計画上では「スポーツ振興の拠点としての機能に加え、コンサート・イベントなど多目的利用による交流拠点機能があることが望ましい」とされ、これに応じて名称が「スポーツ・コンベンション・センター」となった。事実上、「アスリートファースト」から、「多目的利用」に舵が切られた格好だ。どことなくフワフワしている。

ちなみに、コンサートにはやはり観客席数が重要になるが、イベント(コンベンション)にはフロアの広さが重要である。このように性質が異なるものが並列されているのはなぜなのだろう。ただし、秋田県の体育館でも似たようなことが書かれており、コンセプトの字面はともかく、考えていることはほぼ同じのようである。

そして最後に立地だが、秋田の体育館は先述の通り現県体育館のある運動公園(八橋運動公園)の内での建て替えである。ここは県庁や市役所、県図書館や児童センターに隣接しており、秋田駅から3.3km、周辺には官有の駐車場だけで1000台以上あり、秋田駅西口-県立体育館前 で平日に約100本のバスがあるという。ここは都市公園のため、整備に国の交付金も受け取れる(21億円)。まず文句ない立地だろう。

一方、ドルフィンポート跡地は、鹿児島中央駅からの距離は約2㎞であるが、本港区こそ近いものの公共施設としては孤立しているので、新たに公共交通を整備する必要が大きい。そして駐車場は、住吉町15番街区に500台を整備し、全体で1000~900台分の駐車場を確保する計画としている。それが実現できたとしても、あの立地にそれだけの駐車場ができて、ただでさえひどい交通渋滞がさらに悪化すると思うとうんざりする。

隣の芝は青い、という言葉があるので、秋田の計画の方がいいとも言い切れないが(大同小異ではあると思う)、こうして比較してみると、どうも鹿児島県の体育館は全体的に過大だという感が否めない。それは、メインアリーナがバスケコートで4面(81m×41m=3321㎡)+観客席7000席という、プロスポーツと全国大会という似て非なるものの両方を大規模に実施するための規模となっているためだ。ちなみに秋田のメインアリーナはバスケコート2面(59m×45m)で、八角形なので面積が約2500㎡。鹿児島はフロアだけでも1.3倍の面積がある。

塩田知事はこれまでの報道機関への取材で、競技面積といった規模や機能の変更は「基本的に困難」としているが、秋田の体育館と比べてみると、むしろ規模縮小の余地が大きい計画のような気がしてならない。どうして「基本的に困難」なのか、踏み込んだ説明が必要だ。

これまで積み上げてきた議論は尊重すべきだと思うが、予算という大前提が崩れた今、秋田県を見習って、人口予測と県の財政状況から再度その規模を見直した方がいい。少なくとも、プロスポーツと全国大会の二兎を追うのをやめれば予算は縮小する。

そもそも県民利用が基本の県体育館でなぜプロスポーツの開催が求められているかというと、部活の大会だけだと利用料収入が少ないからという(減免措置があるからだろう)。だが、プロスポーツに対応するためには予算が大きくなる。

全国大会に求められる施設規模は一緒だから、同じような規模の秋田県体育館が364億円、鹿児島県の体育館が488億円ということは、鹿児島のプラス124億円はプロスポーツ対応費と見なせる。しかも秋田の体育館もプロスポーツの誘致は行われるのだ。124億円がペイするだけのプロスポーツ利用の料金収入と経済効果があるのか、全く不明という他ない。本末転倒にならないとよいが。

私は決してプロスポーツなど誘致しなくてよいといっているわけではない。ただ、それに見合った収入や経済効果が見込めるのかを示す責任が県にはあるということだ。

県議会での突っ込んだ議論を期待したい。

【追記】
記事を書いた後で、香川県の新体育館も建設中であることを知った。こちらもメインアリーナとサブアリーナがあり、メインの客席数は5000席超。武道館併設で延べ床面積は約3万㎡。着工は2022年で2024年度中に完成予定なので、資材高騰の影響がまだ小さい時期とはいえ、工事費は202億円だそうだ。やはり鹿児島の新体育館の予算が大きいのは間違いない。

2025年2月7日金曜日

「年間365日賑わう」500億円の新体育館は必要なのか?

先日の南日本新聞で、鹿児島県が建設しようとしている新体育館(スポーツ・コンベンションセンター)の予算が大幅に増え、500億円が見込まれることが報道された。

まず言っておくと、これまで私は、新体育館についてそれほど批判的ではなかった。建設予定地のドルフィンポート(DP)跡地にも特に思い入れはないし、それ以上に場所の決定が民主的な手続きで慎重に行われたと思っているからだ。それについてはかつて記事に書いたことがある。

【参考】後戻りできなくなる決定が、今この瞬間にも行われているのかもしれない
https://inakaseikatsu.blogspot.com/2023/10/blog-post.html

しかしこの500億円のニュースを聞いて、ちょっと立ち止まった方がいいと思うようになった。

なにしろ、500億円は当初の計画とあまりに差がありすぎる。313億円で入札が不調(入札者がいなかった)だったため予算を増やすということだったが、そもそも当初の計画では約205億円〜約245億円と見積もられていた。物価変動の影響といっても、2倍以上というのはさすがにおかしい。

民間企業だったら、立ち止まって考えてみる必要がある状況だと思われる。

県が、新体育館に必要な面積や設備を丁寧に積み上げてきたのは理解できる。実際、新体育館の場所や要件などを議論した「総合体育館基本構想検討委員会」の議論は、今見ても丁寧で緻密だ(令和2年10月~令和4年2月)。

【参考】総合体育館基本構想検討委員会|鹿児島県
https://www.pref.kagoshima.jp/ac12/sougoutaiikukannkihonnkousoukenntouiinnkai.html

だが、県の資料を見ていてちょっと引っかかるのが、場所がDP跡地に決まった後である。

もともと、DP跡地を含む⿅児島港本港区エリアには「グランドデザイン」という再開発のコンセプトがあった。そこで謳われていたのが「年間365日、賑わう観光拠点」であった。

そして新体育館の構想は、「本港区エリアまちづくりの検討の方向性とも合致している」とされた。この見解がどのように導かれたものだったのかがわからない。本港区に新体育館が作られたら、民間主導の再開発を目指すグランドデザインとは全く違う性格の場所になるのは明らかだが、なぜ方向性が合致していると言い切ったのか。結論ありきだったとしか思えない。「本港区エリアまちづくりのグランドデザインは白紙に戻します」という方がまだ理解できた。

DP跡に決定するまでのプロセスは極めて丁寧なのだが、決まった後は妙になし崩し的なのだ。

そして、元々の「年間365日、賑わう拠点」はいつの間にか新体育館のコンセプトになってしまった(ただし「スポーツ・コンベンションセンター基本構想」には明確には位置づけられていない!)。「総合体育館基本構想検討委員会」で議論してきた新体育館の構想はそのままに、それに「年間365日、賑わう拠点」とレッテルを張りなおしたのが現在のスポーツ・コンベンションセンターだ。あの丁寧な議論は一体なんだったのか。検討委員会では、「年間365日賑わう体育館」を作るためではなく、スポーツ大会を行うための体育館を実直に議論していたというのに(コンセプトは「アスリート・ファースト」だ)。

意外なのは、この構想を天文館の業界団体(鹿児島市商店街連盟、WeLove天文館協議会、鹿児島市商店街連盟、天文館商店街振興組合連合会)が歓迎していることだ。

DP跡が「観光拠点」ならば天文館との棲み分けができたと思う。しかし「年間365日、賑わう拠点」が仮にDP跡にできたとすると、天文館が寂れるのは必定だ。人出の絶対量が増えるわけではないし、人は簡単には回遊しないからだ。それは、天文館でも表通りから1本裏通りに入れば、10メートルと離れていないのに歩行者の量は10分の1以下になるのでわかると思う。DP跡と天文館で人が回遊するというのは、絵に描いた餅である。回遊どころか、表通りから10メートル離れたところに人を呼ぶことすら難しいのが現実だ。

そもそも、県の主導で「年間365日、賑わう拠点」が本当にできるのなら、最初から天文館を賑わわせた方がいい。そっちの方が喜ぶ人は多い。しかし私自身、客商売をしていて思うが、賑わう場所にするというのは本当に大変である。様々な創意工夫をして、しかもいろいろな偶然にも恵まれてようやくにぎわうのが普通である。それが県の公共事業で実現できるとは信じがたい。このような構想を天文館の業界団体が支持しているのはなぜなのか理解しかねるが、建設に伴う好況を期待しているのかもしれない。

それはともかく、元来は体育館とは全く無関係のコンセプトであった「年間365日、賑わう拠点」が新体育館に安易にスライドされたことで、計画全体が胡散臭いものになったような気がする。しかも、予算が当初見込みの2倍以上となったことは、さらに計画の妥当性を疑わせることとなった。

新体育館が不要だとは思わないが、多くの県民の生活に直結する施設でないのは誰しも同意するだろう。現在の県体育館では全国大会やプロスポーツの試合が開催できないことも、どれだけ不利益があるのかピンとこない(そもそも現体育館でも全国規模の大会はそれなりに開催されている)。子供の数が減り続けて運動部の部活動は下火になり、部活動は地域移行の方向で、大会規模は縮小が予想されている。そんな時に500億円もかけて立派な体育館を作る必要があるのか、はなはだ疑問だ。

むしろ新体育館は、予算を踏まえて必要最低限に縮小させた方がいいのではないか。新体育館の延べ床面積は、現体育館の約5倍にする計画だ。現体育館には狭隘であるという課題があり、これを拡大させるのはわかるものの、約5倍にしてプロスポーツや国際大会にまで対応させる意味はあるのか。

そして鹿児島県自身が「一等地」と位置付けるDP跡に、たいして経済活動が見込めない体育館を作る必要があるのか。むしろ郊外に建設し、そこまでの交通網を整備した方が安上がりになり、地域住民の足にもなるのではないか。もっと言うと、旧松元町体育館(あいハウジングアリーナ松元)や旧吉田町体育館(吉田文化体育センター)は現県体育館より大きいので、新設よりはこういう施設を改修して、市街地と結ぶ交通網を充実させた方がずっと暮らしに役立つと思う。

これまでの議論の積み重ねをひっくり返すようなことは、行政の運営においてはリスキーかもしれない。だが予算が2倍以上に膨れ上がるというのは、これまでの議論の前提が間違っていたということを意味する。こういう時に立ち止まれるかどうかが、知事の度量、あるいは議会の矜持を示すのではないか。

なし崩し的に予算を2倍にし、当初の議論にはなかった(それどころか現今の基本構想にも含まれていない)「年間365日、賑わう拠点」としての新体育館を天文館の振興のために建設することになれば、県政に汚点を残すことになるだろう。

ところで、急に話が変わるようだが、昨年夏の台風・大雨で、県道20号の大坂の峠が一車線崩落したままになっている。県道20号は、南さつまと鹿児島市内を結ぶ大動脈だ。そんな重要な道路が、半年も一車線崩落したままとはどういうことなのだろう。この状態で500億円の新体育館が必要だとは首肯しかねる。

何もないところを500億円かけて賑わわすより、現に人が生活しているところを大事にしてもらいたいものである。

2024年11月19日火曜日

法規制がかえってゴミの違法な処理を助長する問題について

夏の台風で柑橘の苗木が50本ほど倒れ、その復旧のために小型の運搬車で作業をしていたら、ゴムクローラーがちぎれてしまった。

微妙に傾斜しているところだったのでゴムクローラーの交換には苦労したが、なんとか交換できたので一安心である。

というわけで、今、手元には2本の廃ゴムクローラーがある。これを処分したいのだが、じつはゴムクローラーはなかなか処分ができなくなっている。

「埋め立てごみじゃないの?」と思うだろうが(実際、一昔前までは埋め立てごみとして簡単に処分していた)、これは今単純な埋め立てごみではないらしい。

というのは、現代では最終処分場を長持ちさせるため、埋め立て処分をする前に細かく砕く処理が必要になり、ゴムクローラーはこの処理に手間がかかる。中心にコマという金属の部品があって、これがあるためにシュレッダーでは砕けない(らしい)からだ。つまり埋め立てごみにするためにも、わざわざコマを取り除くという処理が必要で、処分費用がけっこうかかるのだ。1㎏いくらで処分費用がかかり、ゴムクローラーはかなりの重量物であるため、運搬費用もかかる。

そんなわけで、私の手元にある廃ゴムクローラーは、適正に処分するには1万円弱ほどかかるようである。新品が4万円弱だから、これはかなり高額な処分費用だ。

それでもまあ、1万円払って業者にお願いしたらいいのだが、こういう有り難くない廃棄物(処分に手間がかかるだけでクズ鉄のように市場性がない)は、業者も積極的に取り扱っていないらしく、そもそも処分してくれる業者が少ない。

だから廃ゴムクローラーは、とりあえず倉庫の隅や空き地にでも放置しておく、ということになりがちだ。実際、自分もそうしてしまっている。

このように、ゴミ処理の場合は、「適正処分を推進する取り組みが、逆に処分を阻害する。場合によっては違法投棄を助長する」ということはよくある。

わかりやすいのが、家電リサイクル法のいわゆる「対象4品目」。すなわち、テレビ・冷蔵庫・洗濯機・エアコンだ。これらは法律に則った処分が義務づけられており、その処分費用も決まっている。これは大量に廃棄される家電を適正に処分し、リサイクルを推進するための法律なのだが、現実は、そうなっていない。

田舎道を走っていると、こんな風に冷蔵庫や洗濯機が山と積まれた場所を時々見ないだろうか。

これは何かというと、廃棄物回収業者が違法に回収した家電製品の山なのである。

廃棄物回収業者は、「処分に困っている冷蔵庫などございましたらご相談ください」と言って軽トラで回る。そういう業者に回収を依頼すると「冷蔵庫の処分費用は法律で決まっていて、5000円です」などといって、法律に則った処分費用を請求する。もちろんここまでは何の問題もない(※)。

ところが法律に則っていないのは、「家電リサイクル券」というものを出さないことである。これは、適正処分のためのトレーサビリティのための書類なのだが、処分する側としてはこの書類があろうがなかろうが、冷蔵庫が処分できさえすればいいので、ちょっとは気にしたとしても業者を追求することはない。

ところがこうした業者は、回収した冷蔵庫を適正に処分する気はさらさらなく、野外に積んでおくだけだ。それで5000円が丸儲けになるわけだ。そうしてできた家電の山が、日本の田舎には大量に存在していると考えられる。経済産業省のWEBサイトでもこのように注意が促されている。


このように、経産省では無許可の業者を非難しているが、しかし真の問題は、「無許可で家電を回収すればもうかる」という状態をつくっていることなのではないかと思う。

そのために、家電リサイクル法が出来る前よりも家電の不正な処分・違法投棄はずっと増えているのではないだろうか。適正な処分・リサイクルを推進するための法律のせいで、不正な処分・違法投棄が増えるというのは、政策の失敗と言われてもしょうがない。

後知恵で言えば、廃棄の時に個人から処分費用を徴収するのではなくて、メーカーから徴収するか、あるいは税金の補填で適正処分をするようにすれば、このような問題は起こらなかった。

もうひとつ、廃棄物といば、悪法として名高い(!?)「容器包装リサイクル法」もある。これは市区町村のゴミ収集において、「容器包装」については分別回収しなくてはならない、という法律だ。

「容器包装」、特にプラスチックゴミは非常に種類が多く、ポリプロピレン・ポリエチレンなどが混在し、またシールが貼ってあったり汚れていたりする。これではリサイクルが難しく、市区町村ではこれを分別回収してはいるものの、原材料としてリサイクルしている場合はほとんど存在しないと思われる。ではどうしているかというと、廃プラゴミとして輸出して処分しているのである。このせいで、日本は世界第3位の廃プラ輸出大国であり、世界で取引される廃プラの一割程度を日本が占めているという。

「容器包装リサイクル法」のおかげで日本が世界第3位の廃プラ輸出大国になるとは皮肉が効いているではないか。

「容器包装リサイクル法」は、一見、分別回収を義務づけるしごく当然の内容だが、問題は(1)「容器包装」というくくりが存在し、合理的な分別回収(材質毎の回収など)をむしろ阻害していること、(2)その結果、せっかく分別回収しているにもかかわらず廃プラが結果的にリサイクルされずに輸出されたり燃料として燃やされたりしていること、(3)回収やリサイクルが市区町村まかせであるため、メーカーに容器包装を減らすインセンティブがあまりないこと、である(正確にはメーカーにはリサイクルのための費用の一部を払う義務があるが、徹底できていない)。

もちろん、こうした問題は環境省も認識してはいるのだが、どうも合理的な法体系に改正するには至っていないようである。

世界にはゴミの処分が適正にできていない国や地域が多いことを考えれば、日本は割合にゴミを適正処分している方だと思うし、住民の不法投棄(ポイ捨て)もそれほど多くないと思う。

しかし組織的な不法投棄や、違法な処分はそれなりに目に付くレベルであるのが日本のゴミ処理でもある。しかもそれを、抜け道だらけの法規制がむしろ助長しているように感じる。例えばゴムクローラーの場合は、ただ埋め立てゴミにしていた時代の方がずっと適正に処分されていたような気がして仕方がない。

環境省や経済産業省は、決してバカではない。だから、業界団体や自治体から情報は集まってきており、ゴミの処分に様々な問題があることは認識はしていると思う。でも、実際に廃ゴムクローラーの処分に困っている人がどんな状況なのか、正確には理解していないと思う。彼らの認識があくまで統計上のものだからだ。

今は政府にも地方自治体にも人がいないから、なんでも統計だけを見て政策を決めてしまう。政策を検討する上でもちろん統計は大事だが、個別の事例を追求していくのもそれと同時に大事なことだ。廃棄物処理の政策を担っている人には、ゴミ処理の現場がどうなっているか、足を運んで見てもらえたらと思っている。

水戸黄門・暴れん坊将軍・遠山の金さんには、「民の暮らしを直接見る為政者」という共通点がある。これはフィクションだが、かつての日本の「現場主義」がこれらの物語の骨格を支えていたと思う。それは「現場を視てみろ、書類の上とは全然違うんだから」という態度だ。

今の時代、こういうフィクションが見当たらないのは「現場主義」が衰退したからでないといいのだが…。まさか経産省や環境省は「現場を見なくてもSNSを見ればだいたい分かります」と思っていないですよね?

※本来、無許可でテレビ・冷蔵庫・洗濯機・エアコンを処分することはできないので、引き受けた時点で法に違反しているのかもしれない。

2024年7月22日月曜日

忘れられた民具のゆくえ

最近、奈良県立民俗文化博物館が休館するというニュースがTwitterで話題になった。

「維新は文化を大事にしない」という批判のコメントが多かったが、同博物館には、精査なく民具等を受け入れており、しかも整理が十分にできていなかったという反省もあるようだ。

実は、似たような問題が南さつま市にも存在する。これはあんまり知られていない話だ。

加世田の白亀(徳久整形外科をちょっと入ったところ)に、かつて県立果樹試験場南薩支場があった。柑橘類の試験栽培を行っていた場所である。平成4年にこれが廃止されて、土地建物は旧加世田市に移管された。今もこの建物は残っているのだが(冒頭写真)、じつは、この建物の中に大量の民具が保管されているのである。

どうしてこんなところに民具があるのかというと、こんな事情がある。加世田市では、景気が良かった頃に博物館をつくる計画があった。万世にある「天文潟砂丘」という場所に建設する予定だったと聞く。

当時は行政の予算が有り余っていたので、いわゆる「箱物(はこもの)行政」と言われるように、いろんな施設が建設された。その中の一つに博物館があったのだ。加世田市ではその準備のため、学芸員を採用して、民具の収集を行った。

なにしろこの頃、鹿児島では下野敏見さんや小野重朗さんといった民俗学者が活躍していて、民俗学が大きな盛り上がりを見せていた時期だったのである。全国的にも鹿児島の民俗学が一目置かれた時期だったのではないかと思う。

ところがその後、行政の懐事情は徐々に悪くなり、博物館の構想も凍結された。

そして、収集した大量の民具だけが残された。加世田には今も図書館の3階に「郷土資料館」があるが、ここに民具を展示するスペースはなく、収蔵庫のようなものもおそらくほとんどない。そんなわけで、空いていた県立果樹試験場南薩支場跡を「文化財センター」という名称にして、とりあえず行き場のない民具をここに保管することにした、ということのようだ。

しかし、その「とりあえず」 がもう20年以上も経過している。中の民具はどのような状態なのだろうか。防虫の処理などしているのだろうか。そもそも、何が保管されているか把握している人はいるのだろうか。加世田市が周辺自治体と合併して南さつま市になってからは、どのような扱いになっているのだろう。

こんなことは、南さつま市役所でも、ほとんど気にする人はいない。「民具? よくわからん」が市長はもちろん、行政職員の正直な気持ちではないだろうか。これらの民具は、すっかり忘れられたのである。鹿児島の民俗学も、すっかり下火になってしまった。

さて、今、なぜ私がこの民具についてここで書いているのかというと、南さつま市では今、箱物整備のタイミングになっているからだ。

きっかけは、加世田にある南薩地域振興局の南九州市への移転が決定されたことだ。本当は、その跡地に県が何らかの施設を作ってくれればいいのだが、県はそんなお金はないとしているので、南さつま市はその跡地を県から無償で譲ってもらうことにした。そして南さつま市の本坊市長はここに「南さつま交流プラザ(仮称)」を建設することを表明、令和6年度はその調査にかかる予算が計上された。

さらに、別の話ではあるが、加世田の「市民会館」(行政の教育部局と大ホールと市民センターがある建物)が老朽化しているため、大ホールが解体されることが決定されており(隣に「いししへホール」があるため)、教育部局の棟は建て替えする計画である。

また、図書館や郷土資料館が入っている建物も老朽化しているため、おそらく「南さつま交流プラザ(仮称)」にその機能が移管されるのではないかと思う。そして市民センターの機能のいくらかもこちらが担うことになるのだと思う。

となると、気になるのは郷土資料館の扱いである。

合併後、加世田市および旧4町の展示施設は、なんだか中途半端な扱いが続いてきた。合併前には、加世田市が「郷土資料館」、金峰町が「歴史交流館 金峰」、大浦町が「郷土資料室」、笠沙町が「郷土資料室」と「笠沙恵比寿の博物館」、坊津町が「輝津館(きしんかん)」という6つの施設があった。合併後も、施設自体が廃止された「笠沙恵比寿の博物館」を除いて、これらは一応存続してきた。ただ、大浦と笠沙の「郷土資料室」は、ほとんど有名無実化しているのが現状だ。

何が中途半端かというと、それぞれが惰性的かつ個別的に存続してきたことである。これでは、合併のメリットを活かしているとはいいがたい。

そんなわけで、この箱物整備のタイミングで、南さつま市の展示施設の在り方について改めて考えてみるべきだと思う。あわせて、塩漬けになっているあの民具についても、この機会に見直し、管理や調査研究、展示をしていってはどうか、というのが私の提案なのである。

展示施設について理想的なのは、全てを統合し一つの博物館を設立することであるが、「歴史交流館 金峰」と「輝津館」はそれぞれが南さつま市の規模からすると立派すぎる施設なので、廃止はもったいないし難しい。だが別個に存在するとしても、お互いに有機的な連携を図っていくべきだ。

せめて、大浦と笠沙の「郷土資料室」は、すでに有名無実化しているので加世田に統合したらよい。そして塩漬けになっている民具も含め、加世田に「南さつま市郷土資料館」を設立、そして「歴史交流館 金峰」と「輝津館」はその分館に位置づける、というのが一番自然な案である。場所は、現在の図書館がある建物を全部(1~3階)使うこととすればよい。1階の行政部署は市民会館の建て替え部分に、2階の図書館は「南さつま交流プラザ」に移転させればよいと思う。

この案の問題は、この建物自体が老朽化しつつあることだが、耐震工事などはしていたと思うのでまだしばらくは使えるのではないだろうか。

中には「まだあの建物が使えるなら、民具なんかを置くのではなくて、もっと役に立つ使い方をしたらいいんじゃない?」という人もいそうである。そもそも「そんなことにお金を使うより、生活困窮者や子育て世代への支援、高齢者福祉とか移住促進に使う方が有意義では?」という考えだってアリだ。

もちろん、南さつま市の財政がカツカツなら、私だって「残念だけど民具は後回しにしよう」と思うところだ。だが実際、「南さつま交流プラザ(仮称)」を建設したり、市民会館の一部を建て替えたりする余裕はあるわけだ。それに南さつま市では幸いなことにふるさと納税の成績がよい。人口減少が始まっている南さつま市にとって、今は、市民生活に直結しない展示施設をつくれる最後のチャンスというタイミングであると私は思う。今やらなかったら、忘れられた民具は、廃屋で朽ち果てる可能性が高い。

収集した民具はモノをいわない。たとえ放っておいても、奈良県立民俗文化博物館の場合とは違って誰も文句は言わなそうだ。そんなことになぜお金や労力をかけないといけないのか。声を挙げている人、困っている人はたくさんいるというのに。

だが、それを言ったら、困っていてもモノを言えない人は意外と多い。そういう人を放っておいても、たいていは何も問題は起こらない。そんな風にして、声なき弱者を切り捨て続けてきたのが、今の日本ではないか。

儲かるものや、役立つものや、権威ある人の後援を受けているものを大事にするのはバカでもできるが、儲からないもの、すぐに役立たないもの、誰の後ろ盾もないもの、そういうものを大事にするには、「見識」がいる。

実際、収集された民具が有効活用されないとしても、どれほどの文化的損失があるのか、私にはわからない(だいたい、その民具を見たこともない)。だが少なくとも、現在保管している民具の扱いを検討するくらいの「見識」がある町に、住みたいものである。

2024年6月20日木曜日

農地を利用されやすくする法改正で、逆に耕作放棄地を助長する「机上の空論」

ほとんど報道されないが、今、農業をする上での困った事態が起こっている。

簡単にいうと、ある種の農地が借りられなくなるのである。

これは今のところ誰も声を挙げていない大変な問題だと思うので解説したい。

さて、農家は自分の土地で作物を育てていると思っている人もいるかもしれない。「農家になるには農地を買わないと」と思っている新規就農者希望者も少なくない。だがそれは誤解で、多くの農家は農地を借りて農業をしている。少なくとも私の住む大浦町では農地を借りて農業をしている人の方が多数派だ。

それは、現代の農業は、もはや「先祖伝来の土地を守っていく」というようなものではないからだ。農業も、他の事業と同じだと思ったらよい。飲食店がテナントを借りるのが普通なのと理由は一緒なのだ。だから、農地の貸し借りがスムーズにできることは、現代の農業においてはきわめて重要である。

全国的にも、土地の貸し借りを通じて大規模農家へと農地を集積していくことが求められ、農水省は強力にそれを推進している。

その具体的な手段となっているのが、「地域計画」と呼ばれるものだ。

これは、その地域での農業の将来像と、農地一筆ごとの10年後の耕作者を示した地図(「目標地図」という)のセットで構成されるものである。その目的を一言でいえば、農地が利用されやすくなるようにすることだ(農用地の効率的かつ総合的な利用)と農水省は言っており、具体的にはバラバラにある農地を集積し、農業の効率を上げることである。

目標地図について。下のPDF資料より

この「地域計画」は、まさに「机上の空論」で、少なくとも大浦町の実態からして策定の意味は薄いと思う。というのは、効率的に利用できる集団化した農地は引く手あまたで、農業の大規模化に伴って自然と集約化していくが、狭い・不整形・孤立している・傾斜がきついなどの人気のない農地は、計画を作ったとしても耕作放棄地化していかざるをえないからである。「地域計画」のための農家同士の話し合いは決して無駄ではないと思うが、計画自体は作ろうが作られまいが、大浦町の農業の10年後の姿はほぼ変わらないと断言できる。

さて、2023年(令和5年)の「農業経営基盤強化促進法」という法律の改正で、この「地域計画」の策定が必要となったが、この法律では、「農用地の効率的かつ総合的な利用」のために、もう一つ重要な規定がある。それが「農地中間管理機構」に関する定めである。

【参考】農水省の資料(PDF)
農業経営基盤強化促進法等の一部を改正する法律について

「農地中間管理機構」は、一般的に「農地バンク」と呼ばれている。農水省の説明では、「農地バンクは、分散している農地をまとめて引き受けて、一団の形で受け手に再配分する機能を有する」ものだそうだ。これを聞くと、例えば田舎に活用していない農地を所有している人は「農地バンクに土地を引き受けてもらおう」と思うかもしれない。だが実は、「農地をまとめて引き受ける」という機能は実際にはなく、「農地バンク」の名称は有名無実である。

ではどういう仕組みかというと、こんな感じである。

「農地を借りたいAさんが、空いている農地を探して、その所有者Bさんに連絡し条件を伝え快諾してもらった。それを農業委員会に伝えると、農業委員会から農地バンクに連絡が行き、農地バンクを介してAさんはBさんの土地を借りる契約を行う。契約については農業委員会で審査・認定する」…とまあこんな風だ。

つまり「農地バンク」は、農地を借りたい人・借りたい人の斡旋をするのではなくて、あくまで話がまとまった後で契約を仲介する機能なのだ。

なお、農地バンクの仕組みができたのは比較的最近のことだが、それ以前から農地の貸し借りには農業委員会が仲介することになっていた。なお、わざわざ農業委員会が介在することは一見ややこしいが、例えば宅地の貸し借りにはもっとずっとややこしい手続きや不動産仲介業者が必要なことを考えると、比較的手間の少ない仕組みである。

ともかく「農地バンク」は、現場の人間にとっては必要ない仲介業者だという感じがする。「農地バンク」を通さないといけないおかげで、必要な書類も増え、手続きにかかる時間も倍くらいになった。国の統計だと、「農地バンク」の扱う農地がうなぎ登りになっていて、あたかも「農地バンク」の仕組みがうまくいっているように見えるが、これは既存の土地の貸し借りを「農地バンク」を通したものにわざわざ借り換えているからで、それ自体が一つの手間である。

このように、国は「農地バンク」が農地集積のツールだといわんばかりのことを言っているが、実際には単なる中間業者であって、それ自体に農地集積の機能があるわけではない。そもそも、「農地バンク」に農地集積の機能がないからこそ、「地域計画」を定めて、農地一筆ごとの10年後の耕作者まで決めようとしているわけである。

つまり、 「農業経営基盤強化促進法」の2つの柱である「地域計画」と「農地バンク」は、そのどちらもが地域の農業にとって有効なものではない、というのが農家である私の実感だ。私は農業委員の下働き的な役目である「農地利用最適化推進委員」という役をやっているが、農業委員や農地利用最適化推進委員の多くも、「また国がややこしい計画を作れと言ってきたなー。そんな形式ばっかりのことをやってる場合じゃないのに」と思っている。

しかしこれは、まだ冒頭に言った「大変な問題」ではない。実は、本当の問題はこれからである。

「農業経営基盤強化促進法」では、目立たないがもう一つ大きな改正点がある。それは、農地の貸し借りには必ず「農地バンク」を介さなければならなくなった、ということだ。

これは、「農地バンク」を通じて土地を集積していこうという政策の一環だろう。一見、それ自体には、面倒なだけで大きな問題はないように思える……が、実はそうではないのだ。

それは、「農地バンク」は都道府県単位で設置されており、県レベルの業務であることと関係がある。県は、市町村に比べて格段に融通が効かない。特に「農地バンク」は土地の名義にうるさいのだ。

田舎には、相続の登記がなされておらず、土地の名義が先代・先々代のままになっている土地が膨大に存在している。田舎では、相続登記に必要になるお金(司法書士への依頼料)に比べ、土地の評価額がものすごく低いため、「価値のない土地のために、司法書士にお金を払いたくない」ということで相続登記されていない土地が多いのである。

また、大浦町の場合は、「別にわざわざ登記なんてしなくてもいいよね」という風潮があったような気がする(例えば土地交換が登記なしで行われていたりする)。 

というわけで、大浦町には、土地の名義人がすでに死亡している農地がたくさんある。これまで、そうした農地を貸し借りするには、現にその土地を管理している人の同意を得さえすればよかった。それは大抵、その土地の固定資産税を払っている人と等しく、それほど難しい話ではなかったし、実際、管理人の同意がありさえすれば問題は起こらなかったのである。

ところが、「農地バンク」を介してそのような土地の貸し借りをする場合には、土地の相続権を持つ人の過半数の同意が必要だという。これはかなり難しい。まず現に土地を管理している人の協力を得て、相続人全員を探す必要があるからだ(実際に同意を得るのは過半数でいいが、全員を確定させないと、その過半数が何人になるのかがわからないため)。その上で、過半数に農地の貸し借りについて同意を得る必要がある。

ちなみに、農地の借地料は、このあたりでは10aあたり1万円以下が相場である。とすると、たったそれだけのために、このような面倒な仕事はしたくないのが人情だ。というわけで、行政からは、「相続登記がされていない土地は、事実上借りられなくなる」と説明されている。現在は、経過措置のためにまだ「農地バンク」を介さない農地の貸し借りが可能なのだが、この経過措置が令和7年(2025)3月で終了する。

つまり、2025年4月から、相続登記されていない農地が借りられなくなる。これが大問題なのである。

相続登記されていない土地が、ごく少数のことであれば、これはたいした問題ではない。しかし法務省によれば、日本の所有者不明土地(相続登記がなされていないことで、所有者がわからない土地)をあわせると九州全体の土地面積より広いという。このほとんどは山林であるとは思うが、農地についてもかなり多いことは想像に難くない。

このため、法務省は今年の5月から相続登記を義務化した。これで新たな所有者不明土地の発生は防げるのではないかと思われる。だが、これまでに発生した所有者不明土地に対しては、一応、登記を求めることにはなっているが、一朝一夕では解消しないのは明らかである。

では、現に今、相続登記されていない農地を借りて耕作している場合、2025年4月以降はどうしたらいいのか? 新たな契約が結べないだけで、今の貸借契約が否定されるわけではないので、しばらくは何も問題ない。ところがその契約期間(最長10年)が終えたら、その土地を借りることはできなくなる。正確に言えば、農業委員会を通した契約ができなくなる。ではどうするかというと、貸し手と借り手の相対契約によって借りるしかない。これを「闇小作」という。

かつて、農業委員会は「闇小作」を撲滅するように働いてきた。これはいろんな面でトラブルの元だったからだ。ところが、2025年4月以降は、現実的に「闇小作」でしか借りられない農地が存在するようになってしまう。農業委員会事務局も「大きな声ではいえないが、相続登記されていない農地については、もう「闇小作」でやってもらうしかないと思います」と匙を投げている。

皮肉なのは、この原因となった「農業経営基盤強化促進法」の「改正」が「農地が利用されやすくなるように」という目的で行われていることだ。それなのに、農地が利用されやすくなるどころか、逆に「闇小作」を推進することになるとは政策立案者もビックリではないだろうか。

では、「闇小作」で何が問題か。先ほど「トラブルの元」と書いたものの、実はそれよりもずっと重要なことがある。それは、農家の公的な経営面積は、あくまでも農業委員会を通して借りた農地の面積だということだ。「闇小作」では、いくらたくさん作っていても、経営面積として認められない。あくまで「闇」なのだ。

そして、この公的な経営面積に応じて、各種の補助金や優遇措置が受けられるのである。例えば、農家は免税軽油の購入が可能だが、これも経営面積に応じた割り当てを受ける。最近は肥料価格が高騰しているため、肥料への補助金があるが、これも経営面積に応じた上限がある。経営面積が補助金等の基盤となっているため、「闇小作」は農家としてはできるだけやりたくないのである。

こうなると、2025年4月以降、相続登記されていない農地は、できるだけ耕作しない方が得だ、ということになる。 

「農業経営基盤強化促進法」の「改正」の背景として、農水省は「農業者の減少や耕作放棄地の拡大がさらに加速化し、地域の農地が適切に利用されなくなる懸念」をあげている。にも関わらず、この「改正」によって、現に耕作している農地の放棄を助長していることを、農水省の担当者は理解しているのだろうか?

確言するが、彼らは絶対に理解していないと思う。それは、農水省が現場を見ずに机上の空論だけで農政をやっているからだ。これは、私だけでなく多くの農家が肌で感じていることだ。

相続登記されていない土地の貸し借りについては、せめて「相続登記の義務化」によって、大方の農地の相続がキチンとなされるまでは従前の通りとしてもらいたい。そうでなければ、法制間の整合性がとれないではないか。

どうせ「机上の空論」であるならば、せめて「机上の空論」としては辻褄を合わせていただきたいものだ。

2024年3月20日水曜日

鹿児島市は、スタジアムに血道を上げるのは大概にして、市民生活に向き合ってください

鹿児島市のスタジアムの建設予定地として、北埠頭案が棄却された。

北埠頭も、ドルフィンポートと同様に無理な案なのは最初からわかりきったことだったが、県から引導を渡される形で、ようやく否決された格好だ。

この、スタジアムをめぐる鹿児島市(下鶴市長)のやり方は、なんだか地に足が付いていない感じがして仕方がない。

今回は、それに関係があるような、ないような話である。

さて、私は、今の鹿児島市宮之浦町の出身である。合併前は吉田町と言った。実家は薩摩吉田インターの近くで、小学校は「宮小学校」だ。

私の両親は、今もそこに健在なのだが、そこで困っていることがあるという。

それは、校区コミュニティセンターの出入り口と駐車場の問題である。

鹿児島市では、公民館を小学校区毎に整備することとし、宮小学校の近くに「宮校区コミュニティセンター」が建設された。現在、ここでは放課後児童クラブ(いわゆる学童)が行われており、私の母もその事務を手伝っている。

鹿児島市が校区コミュニティセンターを作ってくれたのは有り難いが、問題は、ここが非常に使いづらい土地の形であることだ。

https://maps.app.goo.gl/YHgr5kWXnSsnFVBQ9

具体的には冒頭の地図を見ていただければと思うが(コミュニティセンターは灰色屋根の建物)、改修前の旧県道のカーブした部分が県有地として残されており(赤線で囲った部分)、土地が現県道と変な形で接続しているのである。しかもこの赤線部分は、周りから一段盛り上がる形になっていて、今はなんとか駐車場として使ってはいるものの、非常に出入りがしづらい構造である。

それに、知っている人はわかると思うが、県道16号(鹿児島吉田線)は、結構交通量が多く、しかもここは坂になっているので、下りはかなりのスピードを出す人がいる。しかもちょうどここが微妙にカーブしているため見通しが悪く、この使いづらい駐車場に出入りするのは危険である。特に、学童のお迎えの時間がラッシュ時なのでなおさらだ。

そこで、ここの利用者からは、赤線部分の県有地を市に購入してもらって、平坦な駐車場(というか車の旋回地)にしてほしいという要望が出されている。県としては、当然使い道のない土地なので、かなり低価格で市に売却したい意向があることも確認済みだ。

ところが! 鹿児島市は、ここを駐車場にするつもりはないという。「現在、鹿児島市としては新たに土地を購入することはしない方針」というのが理由だそうだ。

そんなまさか! 北埠頭の土地を何十億円かで購入することを検討していた市がいうセリフとはとても思えないではないか。

スタジアムが必要ないとは言わない。

しかし、こういうところこそ、市民生活に直結するもので、お金を使うべきだと私は思う。金額も、スタジアムに比べれば100分の1も必要ない。もちろん、ここの駐車場問題とスタジアムは無関係だ。だが私には、鹿児島市がこういう問題に向き合わないことと、スタジアムのようなパフォーマンス的ハコモノにばかり注力していることは、地に足が付いていないという点で共通の態度を感じる。

古代ローマでは、緊縮財政をとりながら、それに不満を抱く市民に娯楽を提供するために豪華なコロッセオが造られた。もしかしたら、鹿児島市のスタジアムもそれと同じなのではないだろうか。鹿児島市は、市民生活に向き合うのではなく、市民の目を誤魔化そうとしているのではないか。

こういう、地味な市民生活の問題を一つひとつ解決することで、スタジアムをどうすべきかも見えてくるのではないかと、そう思っている。

2024年2月4日日曜日

南さつま市3中学校の再編の進め方は詭弁だらけ

アンケート調査結果 より
 

1月31日の南日本新聞に、「3中学校の再編、中学生・保護者の5割は「やむを得ない」」という記事が報じられた。

現在南さつま市では、加世田中・万世中・大笠中の3校の再編について在り方検討委員会で議論しており、当該検討委員会で報告された地域住民・中学生・保護者へのアンケート結果を報じたものである。

記事内容は、

  • 委員会でアンケート結果が報告された。
  • 学校再編について、中学生・保護者は「現状でやむを得ない」50.0%、地域住民は「積極的に行うべき」43.9%がそれぞれ最も高かった。
  • 「現状でやむを得ない」と「積極的に行うべき」の数値を合わせて学校再編を許容する割合とすると、住民・中学生・保護者の多くが再編を許容していることになる。
  • ただし委員からは「現状でやむを得ない」を「許容」とみなすことに、慎重な取り扱いを求める意見があった。

とまとめられる。

【参考】3中学校の再編、生徒・保護者の5割は「やむを得ない」 南さつま|南日本新聞
https://373news.com/_news/storyid/189343/

しかしながら、このアンケート結果の分析は、学校再編を進めたい市教委の詭弁であり信頼に値しない。

なぜなら、市が行ったアンケートでは、この項目はこういう聞き方なのだ。

令和5年度に、望ましい学校規模に該当する学校は、加世田中学校の1校のみです。適正規模にするためには、学校再編を含めた適正配置について検討する必要があります。あなたは学校再編についてどう思いますか。

1.積極的に行うべき
2.現状でやむを得ない
3.できるだけ行わない方がよい
4.行うべきではない

これは、「現在の中学校は望ましい学校規模には達していないが学校再編をすべきか」という問いであり、これに対して「現状でやむを得ない」と答えた人は、「望ましい学校規模ではないと思うが現状維持でよい」という意味で回答したはずである。

にもかかわらず、報道を見る限りこれが「学校再編はやむをえない」と変換されており、明らかにアンケート結果を捻じ曲げている。記事でも「委員からは「現状でやむを得ない」を「許容」とみなすことに、慎重な取り扱いを求める意見があった」とされているが当然だ。

そもそも、このアンケート自体が、3校の学校再編についての意向を確認するものとしては機能していないと私は思う。

というのは、このアンケートの問いは、一般論として学校の望ましい規模がどうであるか、一般論として学校再編をすべきかを聞いたものであり、3校の合併について多少なりとも具体性を持って聞いているものではないからだ。

例えば、加世田中・万世中・大笠中の合併を行うとすると、通学時間を考慮すれば合併後の学校は学区の中心になる小湊あたりに建設するのが妥当である。だが「3校を合併して小湊に中学校を作ります」という案を示したとすれば、加世田中学区の人たちは大反対するに違いない。「なんでうちらが小湊まで通わないといけないだ!」となるに決まっている。

加世田中学区の人々が合併に賛成するのは、学校の立地は加世田しかないないと思っているからなのだ(実際にはそうなる可能性が99%だし)。ともかく、学校の立地だけでも、賛成反対は大きく異なるのが学校再編の常である。学校再編の姿を示さずに一般論だけで賛否を問うのにどれだけ意味があるか。

だいたい、一般論として「望ましい学校規模はどれくらいだと思いますか」と聞けば、大笠中なんか「小さすぎる」となるに決まっている。地域住民や保護者としても、「いつかは合併になるだろうな」とは思っている。しかし「自分たちの子どもや近所の子どもたちが卒業するまではなくなってほしくない。そんなに遠い話ではないんだし」というのが素直な気持ちだろう。アンケートでは、あくまでも一般論を聞いているため、こういう素直な気持ちがなかなか現れない。

それにこのアンケートは、やり方にも問題があったと思う。というのは、生徒・保護者向けのアンケートは、学校でプリントが配られ、そこからQRコードでフォームに飛ぶ形で行われたが、生徒用・保護者用のフォームがそれぞれあったのではなく、「保護者の方と一緒にお考えください」としていたのである。つまり回答の主体は保護者ではなく生徒なのである。

このアンケートの回答率は生徒・保護者向けでも回答率が35%ほどしかなく妙に低いが、それは回答の主体を生徒にしたことが原因だと思う。ついでに言えば、部活や勉強で忙しく思春期でもある中学生に「親と一緒に回答してください」とすれば、さらに回答率は低くなるのは明白だ。

私は、これは生徒用・保護者用に分けてアンケートすべきだったと思う。なぜなら、現に今中学校に通っている生徒にとって再編は切実な問題ではなく(実際の再編は卒業後の話になるから)、特に対象の多数派を占める加世田中の生徒にとってはたいした問題と感じられないからだ。適切な学校規模についても、自分の娘(中2)に聞いてみたところ「大笠中しか通ったことないんだから、これがちょうどいいと思っていたけど、改めて聞かれるとよくわからない」と言っていた。それが中学生の実感だと思う。

少なくとも、今回のアンケートで保護者の考えが明確になったということはなく、わかったのは「中学生の考える一般論」くらいのことだと私は思う。

また、今回のアンケートで私が一番気になったのは、最後の「ご意見ありましたら自由にお書きください。」という自由記述欄である。私はここにいろいろ意見を書きたかったのだが、なんとフォームでの字数制限がたったの100字しかなかったのである! 100字って…Twitterより少ないわけで、これでは「意見はできるだけ聞きたくない」と言っているに等しい。これで「自由にご意見を」と言ったり、「みなさまの意見を聞いて進めます」と言ったりするのは、本当に詭弁だ。

南さつま市では数年前、金峰学園の設立(金峰中学校、阿多小学校、田布施小学校の合併により生まれた)にあたってずいぶんゴタゴタがあったのは記憶に新しい。

記憶に新しいどころか、金峰町には「市教委のウソにだまされて地域の宝阿多小を失った」とか「ウソから始まった金峰学園」などと書かれた抗議の看板が今でも建てられている。私自身は、こうした看板は金峰学園に通う生徒から見るとあまり気持ちの良いものではないとは思うが、地域住民との対話を置き去りにして強引に合併を進めた結果であり、こういう看板を立てたくなる気持ちはよくわかる。

市教委はこうした結果を招いたことを真摯に反省し、まずは学校再編によらずに現在の学校体系で子どもたちに好適な教育環境を提供することを工夫すべきだ。そしてそれがどうしてもままならない場合に学校再編を検討し、仮に学校再編をするとしても、強引な手法ではなく、児童生徒・保護者・地域住民との対話を主体として進めてほしい。当然ながら、市教委が定めたスケジュールに沿って進めるような結論ありきのやり方は絶対にしてはならない。

以前も書いたことがあるが、私は中学校の再編自体には絶対反対ではない。なぜなら、中学生くらいからは競い合いや多様性が成長には重要だと思っているからである。小規模校では、ライバルも不足しがちで、気の合う友達がみつからないことも多い。やっぱり中学校は1校あたり90人くらいはいた方がいい。

だが、子どもたちに好適な教育環境を提供しようという話でなく、財政論や機械的な学校規模の話で学校再編をしようというのは反対である。こういう場合は、ただ学校規模が変わるだけで、教育環境の向上につながらないことがほとんどだし、そもそも最初から結論が決まっているから(=地域住民は置き去り)、というのも反対の理由の一つである。

実際、今回の「在り方検討委員会」でも、会議の初回に示されたスケジュールで、すでに結論を出す時期や地域住民の意向を確認する時期などが示されていた。こういうのを腹案として持つのはよいが、対話をしようという気があれば出さない資料である。

資料1 第1回南さつま市中学校在り方検討委員会会議資料 より

 加世田中・万世中・大笠中の再編が、金峰学園の二の舞にならないように、市教委には一度立ち止まり、今の進め方が適切なのか反省していただきたい。

【参考】大笠中学校の統廃合には絶対に反対 |南薩日乗
https://inakaseikatsu.blogspot.com/2023/09/blog-post.html

2023年10月29日日曜日

敗北の日

10月26日、鹿児島県議会(臨時会)は、県民投票条例案を否決した。

条例案の否決後、各会派への挨拶回りを行った塩田知事は、自民党議員とグータッチした。自民党と共同して条例案を否決できたことに安堵したグータッチだっただろう。今回の勝者は、塩田知事と自民党だった。

また、決められた手続きに沿って審査中の川内原発は、20年の運転延長が決定される見込である。反原発の市民運動は、またしても敗北した。

こう書くと、私も反原発の立場だと思う人がいるだろうが、このブログでは度々書いてきたように、私は原発絶対反対ではない。長期的には脱原発すべきだと思うが、「原発をいますぐ停止しろ」とは思わないし、20年運転延長も、絶対反対というよりは、むしろ「20年延長するくらいなら原発を新設した方が安全では?」と思っていたりして、条例制定を求めた市民グループの方とはだいぶ考えに開きがある。ただ、日本人は原発からは足を洗った方がいいとは思っている。

県議会では、知事も自民党も「県民投票では多様な意見を反映するのは難しい」と難色を示していたが(県民投票はそもそも知事が言い出したことなのだが、それは置いといて)、確かに原発には多様な意見がある。だが、これまでの県政でそういう「多様な意見」を県民に聞くことがあったか。運転延長に対する私の意見は、○×だけじゃない「多様な意見」にあたると思うので、聞きたければ言ってあげるのだが。

また、「多様な意見が反映できないから県民投票はよくない」という論理もよくわからない。いくら多様な意見があっても、結局は20年運転延長するのかどうか、という二択ではないのか。多様な意見を聞こうともせずに、二択を否定したのは論理破綻だ。これはほんの一例で、全体的に県の答弁は、その場しのぎの詭弁ばかりで、4万6112筆の市民の署名に誠実に向き合ったものとは言えなかった。

そもそも、これは反原発の署名ではない。もちろん、これを集めた団体は反原発のために行ったのだが、署名の性質はそうではない。この署名は「大事なことを決めるのに、市民の意見も聞いて下さい」というものだった。私自身、署名をちょっとだけ集めたが、その際には「これは反原発じゃないんですよ。県民の声も聞いてね、っていう署名なんですよ」と説明した。 だからこそ、これまでの反原発活動ではなかったような、大きな広がりがあり、多くの署名が集まったのだと私は思っている。

実際、県議会でも原発の安全性などについては質問しないように、ということになっていた。県議会で審議したのは、反原発なのか、原発推進なのか、ということではなくて、4万6112筆の市民の署名にどう応えるか、ということだったはずだ。

だが、民会派の山田国治委員は「原子力政策は国策。国が責任を持って判断すべきだ」と延べ、県側も「国策」を強調した。「国策だから県民の意見を聞く必要はない」だなんて、ずいぶん乱暴な話で、「国策だったら、県民どころじゃなく国民の意見を聞く必要があるんじゃないの?」と私は思う。どうやら県や自民党は、「国」というものを、国民を統治する王様か何かのように思っているらしいが、実は日本は一応「国民主権」ということになっていて、我々の方が主権者なのである。

それなのに、塩田知事は臨時会冒頭、県民投票は「慎重に判断すべきだ」と述べている。これなどは、意味がわからない。川内原発20年運転延長を「慎重に判断すべき」だから県民投票をしよう、ならわかるが、どうして県民の意見を聞くのに慎重でなければならないのか。「国民主権」「県民主権」なのだから、むしろ県民の意見を聞かないと先へ進めないくらいだと私は思う。

そもそも、塩田知事は県知事選で勝利したからこそ県政を担っているのだから、県民の意思は塩田知事の権力の源泉である。塩田知事は国に知事にしてもらったのではなく、県民に知事にしてもらったのである。

にもかかわらず、今回、塩田知事は県民の方を向かず、常に「国」の方を向いていたように見えた。「国策」である原発政策に異議申し立てをしては、自分のキャリアの汚点になるとでも思ったのだろうか。 

だいたい、塩田知事自身も言っていたが、原発の運転延長を止める権利は県知事にはない。仮に県民投票をして運転延長にノーが突きつけられたとしても、「県民の意思はこうです」と国や九電に述べるだけで、それに応じて相手(国・九電)がどう対応するかは県のあずかり知らぬところである。つまりある意味、原発政策に対しては県は責任を負わなくてよい、という立場にある。塩田知事は、県民の側に立てたはずだ。

にも関わらず、塩田知事は、民意が示されることを怖れていたように見える。「もし、県民投票を実施して、運転延長が反対多数になったらどうしよう」と不安に駆られていたのではないか。 賛成多数を予想していたとしたら、投票を行うことに何の躊躇もないからだ(あるとすれば、運転延長のスケジュールがずれることと県民投票の費用くらい)。

臨時会閉会後のグータッチは、民意が示されることを阻止したグータッチでもあった。でも、一応民主主義を掲げているこの国で、民意が示されることを阻止したことを喜ぶとは、いったいどういうことなのだろう。4万6112筆もの市民の署名によって請求したことを棄却したことに、一切の遺憾の意も表明されないとは、いったいどういうことなのだろう。

実は、私が「日本人は原発からは足を洗った方がいい」と思うのは、原発にはこういうところがあるからなのだ。日本の民主制は、原発のような難しい問題を扱えるほどは成熟していない、というのが私の実感である。原発の技術的な困難(災害への弱さや廃棄物の処理)は、技術的に克服することが可能だ、と元来は工学系の私は信じている。しかし原発という巨大な利害が対立するプロジェクトを真に民主的に運営していくことは、今の日本人には不可能だと感じる。一言でいって、「原発は日本人にはまだ早い」のだ。

今回の県民投票条例の否決は、まさにその一例になった。「大事なことを決めるのに、市民の意見も聞いて下さい」という、民主社会ではごく当然の要求を突っぱねなければ進められないのが原発なのだとしたら、そんなものはいらないのだ

だが同時に、今回の否決は、ある意味では民意というものの強力さをまざまざと見せつける結果にもなった。塩田知事も自民党も、「もし民意が示されたらどうしよう」という怖れを抱いていた。彼らは、国策とは違う民意が示された場合に、自分たちの立場がどうしようもなくなることをわかっていたのだ。彼らは、自分たちが民意に反しているかもしれないことを、図らずも露呈していた。まだ示されてもいない民意に、怯えていた。

そういう意味では、民意というものに、対峙する前から敗北していたのは塩田知事であり、自民党であった。彼らは、民意を味方につけるのではなく、無視することを選び、だからこそ民意を怖れた。

まだ示されていない民意でも、これだけの力がある。

もし、民意というものが、はっきり示されたら、どれだけの力があるのだろう。脱原発なんて簡単かもしれない。

とはいえ、今の鹿児島県の民意が脱原発にあるとは、私は全然思わない。それどころか、無関心による消極的支持も含め、私の肌感覚では6割の県民は原発を支持している。はっきりと反原発の考えを持っている人は1割以下、5%程度だと私は思う。実際、天文館で反原発を主張してきた市民グループは、以前は残念ながら多くの人に無視されていた(と思う)が、そんな中でも粘り強く民意の形成に取り組んできたことが今回の結果に繋がった。

つまり、消極的であれ多数派が原発を支持している状況でも、塩田知事は民意を怖れたのである。民意は、とてつもなく強大だ。鹿児島県民が、その強大な力をいつかはっきりと示す日が、きっと来ると信じている。

2023年9月21日木曜日

指宿枕崎線の「悪あがき」

「JR指宿枕崎線を活かしたまちづくりプロジェクト」というものに参加することになった。

これは、「指宿枕崎線を活用してなんか面白いことをやろう」という企画である(南薩地域振興局からの委託事業で中原水産(株)が実施する)。

なお、「指宿枕崎線」は鹿児島中央駅から枕崎駅までの路線だが、これは特に「指宿〜枕崎間」を活かそうという話である。

それで、先日開催された第1回の会議に参加してきた。第1回は基調講演の後に顔合わせがある程度だったが、面白かったのは会議後の懇親会。ここでは書けない鹿児島の公共交通にまつわるタブー(?)が次々と俎上に載せられていて、「これを会議でやればよかったのに」と思った次第である。このプロジェクト、実は内心「アホか」と思っていたのだが、そうではなかったようだ(←関係者のみなさん、すみません)。

というのは、「JR指宿枕崎線を活かしたまちづくり」という概念が、まずちょっとおかしい。普通、鉄道はまちづくりそのもので、鉄道の駅を基点として街が形成されていくのが普通だ。「まちづくり」に鉄道を活かすならわかるが、「鉄道」をまちづくりに活かすとはどういうことなのだろう。これは要するに、「指宿枕崎線は街の役に立っていないから、街の方で指宿枕崎線を活かそう」という倒錯した考えなのである。

このような倒錯が生じているのは、指宿枕崎線(の指宿〜枕崎間)が非常に不幸な路線であるからだ。実は、これは需要に応じて開通した路線ではないのである。詳しいことは聞けなかったが、どうやら当時の政治家が「鉄道をひっぱてきた」という実績をつくりたいために無理に鉄道を枕崎まで延伸させたものらしい。

その時の大義名分は、「薩摩半島に環状線を!」ということだったとか。当時はまだ南薩線(伊集院〜枕崎)があったから、指宿〜枕崎が開通すれば、薩摩半島を鉄道で一周できるようになる、ということだったらしい。しかし指宿と枕崎は相互に交通する意味があまりない地域で、人口も少ない。沿線上はさらに少ない。環状線の意味は大都市の周りを回ることにあり、薩摩半島を一周する人は誰もいないのである。だから開通してたった5年で(!)、廃止の検討がスタートした。鉄道だけにすごいスピードだ(笑)

そのうち南薩線が廃止になって(昭和58年)、環状線でもなくなった。今年は指宿枕崎線全面開通60周年、という記念の年であるが、そのうちの55年が廃線の危機にあったという、ベテランの赤字路線が指宿〜枕崎区間なのである。

実際、先日(9月6日)、JR九州が線区別の利用状況を公表しており、指宿〜枕崎区間の平均通過人員(輸送密度=1kmあたりの1日の平均利用者数)は220人で、九州全体ではワースト3の少なさである。赤字額は3億3700万円/年で、九州全体でみれば中堅程度(!?)の赤字額だが、平均通過人員あたりの赤字額でいうと九州でワースト2である。

【参考】線区別ご利用状況(2022年度)
https://www.jrkyushu.co.jp/company/info/data/senkubetsu.html

公共の交通機関は赤字が常態化しているため、3億3700万円の赤字というのがピンと来ないかもしれないが、この状態が10年続けば合計33億7000万円。これだけのお金がJR九州から南薩に投下されることになる。有り難いといえば有り難いが、このお金をもっと有効な事業に振り分ければ、そっちの方が沿線住民にとっても嬉しいかもしれない。

というのは、このような赤字が続いているのは、当然利用が低迷しているからで、先ほども書いたように指宿と枕崎は相互に交通する意味があまりなく、わずかな高校生の通学需要があるに過ぎない。なんと通勤定期は1名しか購入していないそうである。指宿〜枕崎間は、生活路線としては不要というのが残念ながら明白である。

そういうわけで、私としては「地域住民の利用が増加することがありえない以上、廃止はやむを得ない」という立場である。むしろズルズル延命するよりも、JR九州にも地域にも余力があるうちに廃止した方がいいような気さえする。今なら、廃止にあたってJR九州からいろいろ引き出せるかもしれない。長い目で見れば何十億円ものお金が浮くわけだから、少しくらいサービスしてもらえそうである。

ということで、私はハナから指宿枕崎線(の指宿〜枕崎区間)には価値はない、と思いこんでいたのであるが、やはり詳しい人の話をじっくり聞いてみると、そうでもないことがわかってきた。

先述の通り、鉄道はまちづくりそのもので、その存在には地域住民の人生と財産が関わっている。例えば、東京である路線が廃止になったとすると、その沿線に住んでいた人の多くが通勤難民になり、また不動産価格がガタ落ちになって大混乱になるだろう。当然、鉄道が新しくできるとなればその逆のことが起こり、人々の生活や財産は一変する。よって鉄道は政治家の活動と密接に関わっており、「鉄道と政治」はこれまで華々しい(?)話題を提供してきた。

これは廃線の危機にあるような路線でも同じで、とっくに誰も使わなくなったような路線すらも「廃線絶対反対!」の運動が行われるのは、住民の自発的運動というよりは、路線存続を政治的手柄としたい政治家の策動の結果ということは珍しくないのである。 

ところが! 指宿〜枕崎区間の場合、こういうややこしい「政治」は一切無いらしい。指宿〜枕崎区間はあまりに寂れているため票田にならないからか、それとも廃線の危機が55年も続いたおかげ(?)だろうか。もちろん、住民からの関心も薄い。こういうことは、普通ならば弱みなのかもしれない。だが、廃線間近で「悪あがき」したい、というこのプロジェクトにとってはこの上ない強みだろう。

というのも、指宿〜枕崎区間で、どんな「悪あがき」のみっともない活動をしても、結果うまくいかなくて廃線になってしまっても、それほど大きな問題にならないからだ。それどころか、変な「政治」が登場しないことは、廃線すらもスマートに進められる可能性がある。経営が行き詰まってやむなく廃線にするのではなく、日本の廃線のモデルとなるような、「先進的な廃線」がここで実現できるかもしれない。こういう夢想ができるというだけでも、指宿〜枕崎区間は面白い路線ではないだろうか。

「JR指宿枕崎線を活かしたまちづくりプロジェクト」は、来年の1月までに4回会議をして、何をやるかをまとめるそうである。私が考えていることは主催者側とはちょっとズレているかもしれないが、俄然楽しみになってきたところである。

2023年9月9日土曜日

大笠中学校の統廃合には絶対に反対

今年の6月に行われた南さつま市議会(令和5年度第2回定例会)で、本坊市長が大笠中学校(大浦町の中学校。学区は大浦と笠沙)を含めた再編について言及した。

大原俊博議員の一般質問「加世田中学校については大規模改造か建て替えかということで(中略)早い時点での取組を要望いたします」という発言に応えたもの。本坊市長の発言を抜粋すると、

「早ければ年内、何とか年内に加世田中学校、それから万世中学校の施設整備を併せて、加世田中学校、万世中学校、そしてもう一つ、大笠中学校43名です。大笠中学校を併せて、在り方検討委員会を、今後、この中学校の在り方はどうあるべきなのかということを、スピード感を持って考えていかなければならない。その時期に来ているのではと思っております。」

ということである。

【参考】令和5年第2回定例会 会議録(発言は6月20日)
https://www.city.minamisatsuma.lg.jp/shigikai/kaigiroku/kaigiroku-r5/e028607.html

どういう文脈での発言かというと、まず加世田中学校の校舎の老朽化がある。加世田中学校の校舎(の一部)は昭和44年建築ということで50年以上経過しており、大規模改修か建て替えが必要だという。また隣の万世中学校の校舎(の大部分)も昭和46~47年に建築されていて、すでに雨漏り等も起こっている。

よって、加世田中学校と万世中学校の両方が、近いうちに建て替えが必要ではないか? という状況にある。この施設整備を進めなくてはならないというのは、理解できる答弁だ。だが、どうして大笠中学校の在り方まで「スピード感を持って考えていかなければならない」というのか。こちらの方は、ずいぶん藪から棒だ。

大笠中学校の校舎は平成14年に建築したばかりでまだまだ新しく、今年度はエレベーターの設置工事も進んでいる。生徒数は確かに少ないが、今後数年間で急激な減少は予想されていないからだ。

もちろん長い目で見ると、いずれ万世中への統合はありうるかもしれない。しかし統合するからといって万世中に新しい校舎を増築する必要はなく、近々万世中を大改修するとしても、大笠中の合併を見据える必要はないだろう(統合しても学級数が増えない可能性が高い)。

ではなぜ加世田中・万世中の改修と大笠中の再編(統合)が絡んでくるのか。この答弁は唐突なもので、関係者も驚きだったらしい。実際、市長もこのように発言している。

「このことは今日、市民の皆様方も初めてお聞きを、もちろん議会の皆様方にも丁寧な説明なく、前触れなく、大変申し訳ないと思いますが、これから協議を始めたいと思います(後略)」

よって、詳しい事情が不明であるが、ちょっとこの発言の背景を考えてみたいと思う。

まず、加世田中・万世中を改築する場合、それぞれ15~20億円必要と考えられる。公立の義務教育学校は半額の国庫補助があるので、市の負担はそれぞれ7.5~10億円。また、南さつま市では今市民会館の老朽化に伴う建て替えも検討されており、それら3つを建て替えすることになると、今後数年で30億円くらい必要になる。弱小自治体の南さつま市にとっては大きな出費である。

仮に加世田中・万世中・大笠中の3つを合併して新しい中学校をつくれば財政負担がかなり減るから、少しでもお金を浮かせたい市にとってはそっちの方が望ましいに決まっている。さらに、加世田中は川沿いの水害を受けやすい立地にあって移転が必要ではという声があり、その問題も同時に解決できる。

ところで、加世田中近くの県立常潤高校(旧加世田農高)は生徒数の減少が続いており、存続が危ぶまれている。しかも農高なので敷地は広大で、感覚的には敷地の半分くらいが遊んでいるような状態だ。仮に常潤高校が廃校にならないとしても、その空きスペースに中学校が建てられそうだ。だから、財政面のみを考えた場合、加世田中・万世中・大笠中を統合して常潤高校の敷地に新中学を作るのが一番お得である。水害も受けない。

しかも、小中学校を「適正な規模にするため」の統合に伴う施設整備は、国庫補助が10%増しになる。万世中はまだそれなりに生徒数がいるので地元が合併に同意するとは思えないが、大笠中は将来的には存続が難しいことは明らかで、「適正な規模にするため」の統合になるから国庫補助が増える。藪から棒に大笠中が持ち出されてきたのはこのためではないだろうか。

つまり、大笠中の在り方を「スピード感を持って考えていかなければならない」というのは、財政の事情、しかも加世田中・万世中の建て替えを安くするためだけのことなのだ。私は中学校はそれなりの規模があった方がよいと思っており、統廃合絶対反対論者ではないが、こういう事情で拙速に「あり方を検討」ということだと絶対に反対である。

それに、そもそも加世田中・万世中の建て替えは本当に必要なのだろうか? 

実は、南さつま市では「南さつま市学校施設長寿命化計画」というものを策定している(WEB上に情報がないが、おそらく令和元年か2年策定)。これはどういうものかというと、「従来コンクリート校舎は40~50年で建て替えていたが、メンテナンスをしっかりやることで学校施設は70~80年使っていきましょう」というものだ。

今、手元に計画そのものはないが、パブコメされた案(の57頁)によれば、

学校施設の目標使用年数は、公共建築物長寿命化指針で示される70~80年を基本として設定します。

とはっきり書いている。

【参考】パブリックコメント「南さつま市学校施設長寿命化計画(案)」募集終了
https://www.city.minamisatsuma.lg.jp/shisei/gyosei/publiccomment/pabubosyusyuryou/e021853.html

つまり、この計画に基づけば加世田中も万世中もまだまだ建て替えタイミングにはないのである。にもかかわらず、なぜ問われていもない万世中の建て替えまで言及したのか、邪推すれば、常潤高校の廃校が内々に本坊市長には打診されている、ということなのかもしれない(本坊市長は常潤高校の同窓会会長でもある)。

それはともかく、市には焦って校舎の建て替えをするのではなく、この計画に基づいて、まず校舎の長寿命化を図ることを要望したい。それでなくては、この計画は無意味である。

また、学校再編だけではないが、南さつま市の場合、加世田への一極集中が進んでいることも憂慮される。

加世田小学校は児童数が600人以上あり、加世田中学校の生徒数も300人以上である。大浦小学校が約50人、大笠中学校が約40人であることを考えると、これを整理していこうとするのは財政の論理としては仕方ない。小中学校の建物の維持管理費は規模によらずだいたい年間700万円くらいだから、大浦のような過疎地に学校があるのは割に合わないのは確かだ。

しかし、である。だからといって加世田になんでもかんでも集中させてよいのか? ということだ。この何十年も、東京一極集中の弊害が叫ばれてきた。過密した部分と、過疎の部分のそれぞれに問題が起こり、人口は適度に分散してこそ快適な生活が送れるのだ、と諭されてきた。それでも一極集中の傾向は止まっていない。人々は結局、大学進学や就職のために都会に出て行かざるを得ないからだ。

いまさら、田舎の価値とか、自然豊かな暮らしとか、リモートワークで田舎でも生きていけます、みたいなことをいうつもりはない。大浦町も、いずれ人々がまとまって暮らす地域ではなくなってしまうかもしれない、ということは覚悟している。

だが、そういう過疎の動きを、行政が加速させていいのだろうか? ということだ。

加世田中・万世中の建て替えは「南さつま市学校施設長寿命化計画」に反するものだし、大笠中はさしあたり合併の必要はない。「スピード感を持って考えていかなければならない」時期ではないのである。

2023年6月16日金曜日

川内原発20年延長の県民投票は、やるやらないをちゃんと検討すべき

現在、市民団体が川内原発の運転期間延長についての県民投票の実施を求めた署名活動をしている。

【参考】川内原発20年延長を問う県民投票の会
https://sendai20tohyo.com/

この署名活動が行われる経緯において、キーになっているのが塩田知事が2020年の知事選で掲げたマニフェストの一節。塩田知事はマニフェストに「1号機・2号機の20年延長については、必要に応じて県民の意向を把握するため、県民投票を実施します。」と書いていたのである。

【参考】塩田知事のマニフェスト
http://www.pref.kagoshima.jp/chiji/manifest2/index.html

川内原発にもともと明確な耐用年数はなかったが、東日本大震災後に法律が定められて40年ということに決まっていた。しかし技術的な点検を行い、規制委員会の認可を受ければ、さらに20年運転を延長できるように法律が変わった(つい先日、運転停止期間の除外ができるという法律の改定があり、20年より長く延長できるようになった)。

この点検は設置者である九電が行うのだが、県としてはこの点検(とその評価)が適正なものか検証するため、鹿児島県原子力安全・避難計画等防災専門委員会に「科学的・技術的な検証」を依頼し、先日その結果が報告されたところである。

その報告書は、私も内容をちゃんと読んでいないが「留意すべき点はあるが、おおむね適正」というものだそうである。委員会(正確にはその下に設置された分科会)の議事内容は公開されているので私もちょっと見たのだが、非常に専門的なことばかりで、素人にはほぼ理解不可能である。ただ、議事録を読んでの雰囲気だけでいうと、意外と「お手盛り委員会」ではなく、結構真面目に議論・検証したように見える。

そしてこの報告書に基づいて、県は原子力規制員会と九電に要請書を提出することとしており、その要請書案について、昨日、県が意見募集を開始した(6月15~7月14日)。

【参考】川内原子力発電所に関する要請書(案)に対する意見を募集しています
https://www.pref.kagoshima.jp/ac06/youse-ikenboshu.html

一方、マニフェストに掲げていた川内原発の運転延長の県民投票について、塩田知事は5月26日に先ほどの報告書を受け取った際、報道陣の取材に答える形で行わない方針を示し、「おおむね委員会の意見は集約されたと考えている。県民投票で○×を聞くよりは、県民の意見を具体的にしっかり聞いた方がいい」と説明した。

【参考】川内原発の運転延長「県民投票は実施せず」 鹿児島県知事が表明、意見募集へ 専門委から最終報告書、6月に住民説明会|南日本新聞
https://373news.com/_news/storyid/175797/

塩田知事は県民投票に関して「専門委の意見が集約されない場合に県民の意向を把握する手段として、最も適切と判断した場合に実施する」との見解を示しており、「専門委の意見がおおむね集約されたから県民投票は不要」と判断したわけだ。

しかし、私はこの説明には大きな違和感を抱く。

というのは、専門委は、川内原発1号機・2号機を延長するのが適当かどうかという判断をするのではなくて、九電の点検・評価が適正かどうか「科学的・技術的検証」を行うのが役割なのだ。もし、専門委の意見が集約されないということがあったら、それは九電の点検・評価が適正でないということなのだから、そんな状態で県民の意向を聞く必要はなく、運転延長不可なのが当然だと思う。

つまり、県民投票は「専門委の意見が集約されない場合に(中略)実施する」という知事の見解自体がナンセンスなものだったのだ。技術的な検証(専門委の意見)と、県民の意向は直結するものではないのに、あたかもそれを直結するもののように説明したのは詭弁だ。

とはいえ、「県民投票で○×を聞くよりは、県民の意見を具体的にしっかり聞いた方がいい」という説明はわからなくもない。実際、私も、川内原発を延長すべきか〇×で聞くのがいいのかどうか、正直よくわからない。今の経済状況や、薩摩川内市の在り方を考えると、〇×で県民投票したら運転延長反対が多数派になるかどうか不明だ。逆に原発推進のお墨付きを与える結果になるような気さえする。

だが賛成派ですらも、「鹿児島に原発があるのは賛成だけど…」と「だけど…」が続くこともまた多いのではないか。この「だけど…」以下を聞くというのが、「県民の意見を具体的にしっかり聞く」ということだと私は思う。

しかるに、今回の意見募集の対象である要望書は、先ほど述べたような極めて専門性の高い事項の検証に基づいており、科学的・技術的観点のみでまとめられたものであるので、とてもじゃないが、この「だけど…」以下を聞くようなものではない。

これに対して、「原発反対! だけでも意見を出したらいい」という人もいるが、そういうわかりやすい主張の人はともかくとして、「だけど…」タイプの人にはちょっと難しい。私もその一人である。

少なくとも、この要望書への意見募集は「県民の意見を具体的にしっかり聞く」とはほど遠いものであるのは衆目の一致するところであろう。ふざけるなと言いたい。

ところで、先だっての県議会で、「鹿児島県公文書管理条例」が制定された。これは、保存期間が過ぎた公文書の処理について定めるのが主な目的であるが、その第4条はこうなっている。

第4条 実施機関の職員は,第1条の目的の達成に資するため,当該実施機関における経緯も含めた意思決定に至る過程並びに当該実施機関の事務及び事業の実績を合理的に跡付け,又は検証することができるよう,処理に係る事案が軽微なものである場合を除き,文書を作成しなければならない。

これによると、行政機関は「意志決定の過程」を「検証することができるよう」「文書を作成しなければならない」とされている。では今回の「県民投票見送り」については、どうだろうか。県民投票は、知事自らがマニフェストに記載していたことであり、またこれを求めて署名活動が行われているくらいなので、「処理に係る事案が軽微なもの」とは到底見なせない。

先ほども述べたように、私は原発について○×で県民投票を行うべきとまでは思わないが、こういう重要な意志決定が一枚の文書も作成されることなく、「知事としての総合的な判断」ような形でなされるとしたら非常に問題だと思う。

そういえば、NHKの報道によれば、馬毛島への基地容認においても文書が作成されずに知事が総合的に判断したそうだが、こんな重要な件を口頭のみで決定するとは、行政の文書主義に反する。窓口ではバカみたいに文書を求めるくせに…。

【参考】徹底解説!公文書管理条例の意義と課題|NHK かごしまWEB特集
https://www.nhk.or.jp/kagoshima/lreport/article/001/98/
(抜粋)「県によりますと、この考えの表明までに、知事と担当部署の職員が複数回打ち合わせをして意思決定をしたとしていますが、この打ち合わせで知事や各職員がどういう発言や議論をしたかを記録した公文書が作られていないことがNHKの取材でわかりました。」

というよりも、これについては、むしろ重要な件だからこそ文書を敢えて作らなかったのではないか、とすら疑ってしまう。馬毛島への基地建設については、歴史的な意義を有する可能性があるが、それを後に振り返った時に知事がどう考えて容認したのか、現状では「合理的に跡付け,又は検証することができる」とはとても思えないのである。(ただしこれは条例制定前の件である。)

とはいえ、これまで県政に対し批判的に書いてきたが、私自身は塩田知事を好意的に見ており、最近の歴代知事に比べたら、相当「話が通じる」と思っている(上から目線の評価ですみません)。

ドルフィンポート跡問題では「塩田知事がこれがやりたいというものが見えない」「知事の熱意が感じられない」という人もいるが、下からの意見を重視し、私心を交えずに判断していると見た方がよいのではないか。これまでの知事が「俺が決める」という人だったので物足りない人はいるだろうが、自分のやりたいことよりも、ボトムアップの手続きを重視しているのはよいと思う。

しかしながら、であればこそ、意志決定を丁寧に文書化すべきだし、検討経緯を残さなければならない。県民投票を行うにはどのくらい予算が必要なのか、それに見合った意味のある結果が得られるのか、そんなことを検討して決めたならそれを文書で残し堂々と発表すべきだ。それなら理解できる。逆にそういう検討もせずに、舌先三寸で「県民投票見送り」を決めたのなら、それこそが問題だ。

実は、塩田知事のマニフェストは「進捗・取り組み状況」が公表されている。こういうことをしっかりするのも塩田知事の美点である。

【参考】マニフェストの進捗・取組状況(知事就任後2年間)
http://www.pref.kagoshima.jp/ac11/chiji/manifest2/shinchoku_r04jisseki.html

そしてこれを見てみると、66項目ある中で、「進捗・取組状況等」が空欄なのは、県民投票の項目のみなのだ。これでは、県民投票を真面目に検討したかどうかすら怪しいではないか。

「川内原発20年延長を問う県民投票の会」においては、知事が県民投票を実施しないこととした検討経緯の公文書を情報公開請求してはどうだろうか。どんなことが書いてあるのか、というよりも、そんな公文書がそもそも作成されたのかどうか。見ものである。

↓ マニフェストの進捗・取組状況(知事就任後2年間)より抜粋





2023年3月17日金曜日

パブコメは事実上黙殺。鹿児島県公文書管理条例の最大の問題は…

今度の鹿児島県議会で「鹿児島県公文書管理条例」が制定された。

このブログでは昨年10月、この条例の骨子案のパブリックコメント(パブコメ)が行われたときに記事を書いた。

【参考】「鹿児島県公文書等管理条例(仮称)」に熱意はあるのか?(意見募集中)
https://inakaseikatsu.blogspot.com/2022/10/blog-post_27.html

この記事では、この骨子案に「公文書館」の設置が含まれていないこと、「県民に対して政策形成過程のより一層の透明化を図る」ことを条例制定の趣旨としているにもかかわらず骨子案の政策形成過程が一切説明されていないこと、これまでの公文書管理に対する課題や反省が見られないことなどを指摘した。

この骨子案は素人の私が問題を感じるくらいだったので、専門家から見ると不足な点が多かったらしく、このパブコメには複数の専門家から厳しい意見が寄せられた。

なんでそんなことを知っているのかというと、私がいつもお世話になっている九大名誉教授の折田悦郎先生(川辺在住)が、本件について積極的に情報収集していて、折田先生の知る範囲での専門家の意見提出状況について教えてくださったのである。

ともかく、私が言っているだけではなく、この骨子案は専門家から見て不十分なものだったのは間違いない。では、この度の県議会に提出された「鹿児島県公文書管理条例」には、パブコメの意見がどのように反映されているのか?

【参考】鹿児島県公文書管理条例(鹿児島県公文書等の管理に関する条例)
https://www.pref.kagoshima.jp/ha01/gikai/teireikai/tyokkinn/r5_1kai/documents/104285_20230215113503-1.pdf

条例案を見たところ、少なくとも私の出した意見は反映されていない。そして専門家から提出された意見も、ほとんど容れられていないことは確実だ。なぜなら内容が基本的に骨子案から変更されていないからである。

はっきり言って、これではパブコメは黙殺されたに等しい。私の知る限り、専門家から出た意見は、至極まっとうで拒否する理由を考えるのが難しいようなものばかりだ。にも拘わらず県はそれをほとんど採用しなかった。なぜか。それはあのパブコメが形ばかりのもので、最初から県民の意見を聞く気はなかったからだろう。

そして、パブコメの結果を公表しないままに今回の県議会へ条例案を提出したのが一番失望した点である。本来なら、パブコメの結果をもって県議会への条例案提出に至るはずだ。県議としても、どのような意見が寄せられたかを知ることは審議にあたって重要な情報のはずである。ところが、パブコメで寄せられた意見が黙殺されただけでなく、それが県議会での審議にも生かされないまま、採決が行われてしまった。これでは何のためのパブコメだったのかと思わざるを得ない。

とはいえ、県としては次のような言い訳があるかもしれない。鹿児島県のパブリック・コメント制度では、「提出された意見の概要、提出された意見に対する県の考え方」を「計画等の決定後」に公表する、となっているのだから、条例が公布されてからパブコメ結果を公表するのが当然なのだ、と。

【参考】鹿児島県パブリック・コメント制度の概要
https://www.pref.kagoshima.jp/ab02/kohokocho/public/gaiyo/gaiyouindex.html

しかしそれは、パブコメにかけたものを議会に提出することを想定していない規定であり、その本質は「パブコメの結果を公表し、意見を不採用とした場合はその理由を説明すること」だと思う。本来なら県議会に条例案を提出するにあたって、「提出された意見の概要、提出された意見に対する県の考え方」が公表されることが至当だろう。

それはともかく、県が公文書管理条例に対するパブコメ結果を軽視したことだけは間違いない。パブコメで寄せられた意見を仮に全く受け入れなかったとしても、「これこれこういうわけでご意見は採用できませんでした」という説明が公表され、その上で県議会に条例案が提出されればずいぶんと印象は違ったと思う。それだったら、少なくともちゃんと言葉のキャッチボールが成立しているからだ。

今回はそういうやり取り自体が成立しなかった。これは意見が通らなかった以前の問題だ。鹿児島県は、「県民に対して政策形成過程のより一層の透明化を図る」つもりは本当にあるのだろうか。

そもそも、この条例の制定目的は第1条にこう書いてある。「(前略)県の有するその諸活動を現在及び将来の県民に説明する責務が全うされるようにすることを目的とする。」だそうだ。だが、パブコメで提出された意見への対応すらマトモに説明しようともしないのに、将来の県民に説明する気があるようにはとても思えない。

私はパブコメの際には、この条例案の最大の問題は「公文書館」の設置が規定されていないことだと認識していた。しかし今は、「県民に対して政策形成過程のより一層の透明化を図る」とか「現在及び将来の県民に説明する責務が全うされるように」とか言葉では謳いながら、それをちっともやる気のない人が制定していることが最大の問題だと思えてならない。

鹿児島県庁には、県民との意思疎通を図りながら政策形成を行うという当然のことが行われる場所になってもらいたい。

【参考】徹底解説!公文書管理条例の意義と課題は?|NHK 鹿児島 WEB NEWS
https://www3.nhk.or.jp/lnews/kagoshima/20230316/5050022348.html

2023年1月6日金曜日

耕作放棄地の増加は、それ自体は何の問題もない。真の問題は…

以前も書いたことがあるが、私は「農地利用最適化推進委員」というのをしている。農業委員会の下請けのような仕事である。

【参考記事】「農地利用最適化推進委員」になりました
https://inakaseikatsu.blogspot.com/2021/01/blog-post_18.html

その仕事の中に、農地の利用調査がある。これはなかなか大変な調査で、年に一度、担当地区内の全農地を一筆ごとに実見し、農地が利用されているか、それとも耕作放棄地になっているかを調査するものである。もちろん、この調査は全国で行われている。一筆ごとに日本の全農地の現況を調査するなんて大変なことだ。

しかしながら、この調査には何の意味もないと思う。

政策の基礎として統計データが重要なのは言うをまたない。それは確かだ。だが、農地の現況、特に耕作放棄の状況という情報にどんな意味があるのか、ということである。

「耕作放棄地の増加は日本の農業の大問題じゃないか!」という人もいるかもしれない。そんな人にとって、耕作放棄の現況は確かに知りたい情報だろう。

ところが、田畑が耕作放棄地になること自体は、全然問題でもなんでもないのである。

というのは、農地が放棄されて荒れてしまうのには、相応の理由があるからだ。うちの地域だとその理由は、(1)山奥にある・孤立している・傾斜が激しい(2)狭小・不整形・道路に面していない(3)湿地・排水が悪い・石がごろごろしている(4)土地の名義人が地元にいない・持ち主がわからない、といったところだ。

このうち、(4)はともかくとして、(1)~(3)のような農地は、今の時代はもはや耕作しない方が合理的なのだ。これは私の意見ではなくて、当の農水省の方針である。農水省は、日本の農業を大規模化・機械化・効率化したものに変えようと何十年も取り組んできた。それは、(1)~(3)のような効率の悪い農地ではなく、アクセスがよく、広大で真四角の、土壌改良された農地で農業をやるように誘導することに他ならなかった。

なにしろ、(1)~(3)のような農地は、人手がかかる割には生産性は低く、補助金を投入してもまともな利潤が生まれない。結局そういう場所は専業農家にとって足手まといであり、高度成長期には「3ちゃん農業(じいちゃん、ばあちゃん、かあちゃんによって行われる農業)」で維持されたものの、平成に入るくらいで徐々に放棄された。(2)(3)のような場所は、基盤整備事業によって広く四角く排水がちゃんとした農地に造成できるためある程度生まれ変わったが、(1)の土地はほとんど放棄されたと考えていい。もちろんそれは耕作放棄地の増加をもたらしたが、日本の農業全体としてみれば、確かに生産効率は上昇したのである。

こうしたことは何も農業に限らず商売でも同じことだ。例えば駅前やバスターミナルの前は商店街の一等地であったが、車社会になるとそうした場所はシャッター街となり、バイパス沿いの駐車場の広い店が繁盛するようになった。あるいは住宅街の中の小さな精肉店や八百屋はいつの間にかなくなって、大きなディスカウントスーパーが幅を利かせるようになった。もちろん、駅前がシャッター街になったり、個人商店が消えてしまったのは寂しいことではある。だが商売の適地や効率的な規模が変わってしまったのだからしょうがない。商売をやめてしまった人たちも、やっていけないから辞めただけのことなのだ。

これと同じように、農地にも時代ごとに適地や適正規模がある。農地は何が何でも維持すべきものではなく、移ろってよいものである。だいたい、今の日本の基幹産業は農業ではない。

だが農水省は、耕作放棄地=遊休農地(利用されていない農地)・荒廃農地(荒れた農地)の調査をかなりのコストをかけて実施してきた。それは、耕作放棄地が増えるのは問題であるという意識の下、耕作放棄率を減らす政策を行ってきたからである。

その結果どうなったか。

実は、耕作放棄率が減るような、登記上の手続きが行われるようになった。

具体的には、我々が行う農地の利用調査で耕作放棄地だと明らかになった場所の地目(土地の種類)を、「農地(田・畑)」から「山林」などに変更するという手続きが取られるようになったのである。

土地というのは、地目によって利用形態が決まっている。「田」「畑」「宅地」「山林」などだ。耕作放棄地というのは、このうち「田」「畑」など農地であるにもかかわらず、農地として利用されていない土地のことである。ということは、その土地の地目を例えば「山林」に変えてしまえば、現状を一切変更することなく、耕作放棄地が一筆減る、というわけなのだ。そこはもう、登記上は「農地」ではないのだから。

この方法を使って、利用されていない農地を全部「山林」に変えてしまえば、耕作放棄地は全国から一つもなくなってしまう。もちろん農地の除外はそんなに簡単ではなく、また実際にはそこまでのことはできない。しかしながら、実際に現場ではそのようなことが行われている。とはいっても、ここで農地から除外される土地は、少なくとも(1)〜(3)のような場所なので耕作したい人もおらず、この操作によって実態として農地が減るわけではない。つまり現に農地として扱われていないところを実態にあわせて除外しているだけだから、むしろ望ましいとさえいえる。

問題は、だったら、農地の利用調査には何の意味があるのか? ということだ。

農地の実態を知るのには確かに役立つ。でも知ってどうするのか? 地目を変えるだけならば、5年おきくらいにすれば十分なことだ。毎年やる必要はない。耕作放棄地があることを認識しても、そこを農地から除外するくらいしか打つ手立てがないなら、現況を知ってもしょうがないのだ。

しかし、これから耕作放棄地はもっとずっと増えると予想される。それは、いよいよ農家の数が少なくなってくるからで、きっと今後は(1)〜(4)ではなく、優良な農地なのにもかかわらず利用されない、という真の耕作放棄地が増えてくる。その時にどうするか。今のところ全く打つ手はない。農水省も新規就農者を増やそうとはしているが、その対策は焼け石に水のような規模だ。

農水省は、農家が法人化して大規模化し、土地を集約して機械化・合理化を進めれば農地の利用が可能であるかのようなことを言っているが(「人・農地プラン」→「地域計画」をつくれとの指示)、ものには限度というものがある。アメリカのように広大な土地があるわけではないのだから、新規就農者の増加が絶対的に必要だ、と現場の人間として思う。

もし田畑が耕作放棄地になることが問題だとしたら、それが耕作者の減少・担い手の不足を表しているからであり、真の問題は結局「後継者問題」なのである。

しかし農地調査には熱心だが、そういう真の対策には及び腰なのが、今の農政である。調査をやるなとはいわないが、やるならしっかりとした対策とセットでやるべきだ。

これは何も、私が言っているだけではない。少なくとも南さつま市の農業委員や農地最適化推進委員は、全員思っていることだと思う。

2022年12月11日日曜日

南さつま市民会館を建て替えるなら、薩南病院跡地の利用と絡めては?

今、加世田にある「南さつま市民会館」を建て替える動きがあるのだという。

これは市役所周辺にある公共施設のひとつで、大きな講堂といくつかの研修室・展示スペース等で構成され、2階には教育委員会事務局が入っている。

建設された正確な年はわからないが、見た目でもわかるほど経年劣化しているため、建て替えが検討されているものと思われる。

施設の建て替えはまちづくりには大きなチャンスである。市民会館周辺を見回してみると、今けっこう問題がある。これを解決する建て替えになってもらいたいものである。

第一の問題は、駐車場が絶対的に不足していることである。市民会館の駐車場は、昔加世田川だったところを埋め立てて作った駐車場があるが、これがキャパ不足で、イベントの時などは横の車道に縦列駐車が並ぶ。市民会館の向かいには「ふれあいかせだ」があるが、こちらも駐車場は少ししかないので、両方の施設でイベントがある時は全然車が駐められない。

なにしろ南さつま市は公共交通機関が脆弱であるため、これらの施設を利用する場合はほとんど自家用車が必要だ。両施設の収容人数を考えると駐車場は今の倍くらい必要である。なお、大きなイベントの時には近くの加世田小学校横の駐車場も開放されるが、こちらは施設から600mほど離れている上、小学校の前の細い道路を通っていくため登下校時には危なくて使えない。やはり駐車場の増設は必要だ。

第二の問題は、市民会館と「ふれあいかせだ」という似たような施設が並んでいることだ。市民会館の講堂はフラットで、「ふれあいかせだ」にある「いにしへホール」はフラット+立体座席になっているという違いこそあれ、収容人数も似たようなものだし、市民会館がなくても困らないのではないかと思う。となると建て替え自体が無駄である。

この二点を考えると、市民会館は建て替えるのではなく、つぶして駐車場にするのが合理的だ、ということになる。

だがもうちょっと視野を広げてみると、別の考えが浮かぶ。というのは、今の南さつま市には薩南病院跡地の利用をどうするか、という懸案があるからだ。

県立薩南病院は、今は加世田から車で5分ちょっとの万世にある。それが老朽化のために加世田市街地に移転することになった。新薩南病院の稼働は2024年を予定しているそうだ。これで加世田中心部はさらに賑わうことになるだろう。

それはいいとして、万世の薩南病院跡はどうなるのか。南さつま市ではただでさえ加世田中心地への一極集中が進み、周辺がどんどん寂れてきている。県としてもまだ跡地利用については検討していないそうだが、昨今の県政の縮小傾向を考えると、跡地に新たな施設を県が建設することはまず考えられない。南さつま市が主体的に活用を考えていかないかぎり更地にして終わりであろう(隣接する海浜公園への編入が想定される)。

よって、市民会館を建て替えるのではなく、むしろ薩南病院跡地にそれに代わる施設を(できれば県と協力して)新たに建設する方がずっと意味があると思う。

ではどんな施設を建設するのがいいかというと、私は図書館を中心とした複合型コミュニティスペースがよいと思う。

というのは、南さつま市の図書館事情は貧弱なのだ。特に市民会館の隣にある加世田の図書館(南さつま市立図書館中央図書館)は、建物が小さすぎるという致命的な欠点がある。開架スペースと閲覧室が小さく、蔵書数は約7万5000冊しかない。これは、例えばお隣の日置市の中央図書館(伊集院)が約8万3000冊あるのと比べると見劣りする。そんなに大きな差ではないと思うかも知れないが、市全体で比べると、南さつま市は加世田以外には大きな図書館がないため総蔵書数が約13万冊なのに対し、日置市では約21万冊。総蔵書数では倍近い開きがあるのだ。ちなみに人口は日置市の方が1万人くらい多い。

しかし実際には、両市の図書館利用についてはこれ以上の差がある。なんと日置市民は、鹿児島市立図書館の本も借りることができるのである(鹿児島市が隣接自治体に図書館の広域利用を許可しているため)。鹿児島市立図書館の蔵書数は約146万冊。日置市民はこの大量の蔵書にアクセスできるのだ。南さつま市民がいかに図書館に恵まれていないかわかる。

また、最近は地方行政において図書館を中核としたまちづくりが注目されている。あの話題になったツタヤ図書館こと佐賀県武雄市の図書館は賛否両論あったが(個人的には邪道な図書館だと思う)まちづくりとしては成功事例に属する。その武雄市の人口が、日置市とほぼ同じの4万8000人だから、南さつま市にとっても参考になるだろう。

ともかく、図書館を中心として、市民がイベントやマルシェに活用できるスペースを設けた複合施設を作れば、南さつま市に新しい人の流れや活躍・挑戦の場ができるのではないかと思う。

ついでに言えば、鹿児島県としても南薩地区の施設に課題がないわけではない。まずは、加世田にある南薩地域振興局の合同庁舎が老朽化していることである。数年前の耐震化工事の実施により延命されているが、裏手にはプレハブの庁舎が存在している。さらに加世田保健所、南薩教育事務所も老朽化しており、特に加世田保健所は建物の構造上使い勝手がとても悪い(駐車場の立地など)。こうした施設のいくつかは、万世に集約させた方が維持管理コストも減り、鹿児島市から通勤してくる職員にとっては交通の便もよい。複合型施設の一部は県の庁舎にするのが一案である。

…と、いろいろ勝手なことを書いたが、実のところ市民会館の建て替えがどのような形になろうとも、ある一つの条件さえクリアすればいいと思っている。その条件とは「市民の声を聞いて決めること」である。何しろ”市民”会館である。他の行政施設だって市民の声を聞いて作って欲しいが、市民会館をどうするかについては、市民が主役であるべきだ。

市民会館の建て替えは、おそらくはまだ具体的な議論になってはいない。だが建物の老朽化を考えると早晩その必要はやってくる。さらには2024年には薩南病院移転が控えており、そのタイミングで県に有効な提案を持っていきたいものである。

南さつま市役所の腕の見せどころであろう。

【2022.12.12 追記】
上の書き方だと加世田の図書館を廃止するような印象になるが、加世田図書館は特に学習室利用を中心に需要があるので、それは残して分館にし、新たに本館を万世に建設する、という考えである。

2022年10月27日木曜日

「鹿児島県公文書等管理条例(仮称)」に熱意はあるのか?(意見募集中)

現在、「鹿児島県公文書等管理条例(仮称)の骨子案」に対するパブリックコメントが行われている。

【参考】鹿児島県公文書等管理条例(仮称)の骨子案に対する御意見を募集します
https://www.pref.kagoshima.jp/ab04/kobunsyo/jorei/pbcom.html

これがなかなか問題の多いものなので、長くなるが少し考えてみたいと思う。

この「鹿児島県公文書等管理条例(仮称)の骨子案」(以下「骨子案」という)の内容をごくかいつまんで述べると、

(1)意思決定に至る過程等を合理的に跡付け、または検証することができるよう、公文書を作成する。
(2)公文書のうち、重要な情報が記録されたものは、保存期間満了後には知事に移管して「特定歴史公文書」とする。(それ以外は、保存期間が満了したら破棄する。)
(3)知事は「特定歴史公文書」を永久に保存し、その目録を公表し、一般の利用に供する。(4)公文書等に関し諮問するための「公文書管理委員会」を設ける。

というところである。要するに、保存期間が満了した重要な文書を永久保存していくためのルールがないので、それを定めましょう、というものだ。

ところがこの案には、大事なところにポッカリと穴が空いている。それは、「特定歴史公文書」を永久に保存するための方策が全く何も述べられていない、ということである。

文書を永久に保存する…なんて簡単なことではない。火災や水害、虫害、紫外線などから厳重に守らなくてはならないし、散逸や紛失の危険もある。引っ越しだってリスクだ。

実は私が文科省で働いていたとき、庁舎の建て替えがあった。具体的には、新庁舎建設の間、文科省は丸の内のビルに引っ越しし、その後霞ヶ関に戻ってきた。もちろんその時、文書は整理番号を書いたダンボールに入れて引っ越し作業をしたが、ハッキリ言って文書のうちいくらかは訳が分からなくなっていたと思う。なぜなら建て替え期間が4年間あったため、文書をダンボールに封入した人と、開封した人は別だった係が多かったからである。役所の人事異動のスパンは短いのだ。

その後、混乱した資料は霞ヶ関で再び整理しなおされたと信じたいが、あまりそうとも思えない。というのは、保存資料は地下倉庫にダンボールに入れたまま保管されている課が多かったが、そもそも地下倉庫に行くことも少なく、整理の人員も手当てされていなかったからだ。行政の保管する文書の量は膨大であり、片手間で管理していくことはできない。

であるから、国はもちろん、多くの自治体(都道府県)において、公文書を永久保存するための「公文書館」が設立されている。こうした公文書館は、災害を受けにくい立地(津波や水害がない)にあり、館内で火を使わず(ガスの給湯設備がないなど)、十分な耐震性をもった建物に収容されている。すでに全国40の自治体で公文書館が整備されているが、そのこと自体が、「公文書の永久保存には専用の建物が必要である」ことの証左である。

翻って、もう一度「骨子案」を注意深く読んでみると、「知事に移管した特定歴史公文書は,永久に保存するとともに,目録を作成して公表する。」とあるが、文書を物理的にどうするかは一言も述べていない。「知事に移管する」という意味はなんなのだろうか。素直に考えれば、知事直轄で「文書室」のようなものを設立してそこに移管するイメージだが、もしそうであればそう書くはずである。何も書いていない以上、「文書は、管理者を知事に変更した上で、引き続き担当課の書架で保存する」というように理解するのが自然だ。よくても県庁地下倉庫に移すくらいだろう。

この条例の目的の一つは、公文書等を「県民が主体的に利用し得る」ようにすることにあるが、「骨子案」では公表されるのが「目録」だけであるのがそうした脆弱な体制を物語っている。文書館、文書室のようなものがあるならば、目録だけでなく文書自体を公開していくことが可能であるのに、公開対象が「目録」だけなのは物理的にまとめて保存しないためだろう。これで「県民が主体的に利用し得る」のか、甚だ疑問である。

ということで、この「骨子案」の最大の問題は、「特定歴史公文書」を永久に保存するための施設(=公文書館)をどうするのかが書いていないことである。

しかしながら、「骨子案」の問題はこれだけではない。2つめの大きな問題は、保存期間が満了した公文書のうちのどれを永久保存するか、誰が判断するのか、ということである。

「骨子案」には、「実施機関は,保存期間が満了した公文書の取扱いとして,歴史公文書は特定歴史公文書として知事に移管し,その他の公文書は廃棄する。」とある。

ここでいう「歴史公文書」とは重要な公文書のことであるが、どれが重要だと誰がどうやって判断するのだろうか。「実施機関」は県庁とか教育委員会のことなので、「骨子案」を素直に読めば、「担当課が重要だと判断した文書は知事に移管(=永久保存)するが、それ以外は担当課の判断で廃棄する」ということになる。果たしてこれが適切なのか。

一般的な知名度はまだ低いが、永久保存するモノの選定・整理・保存・公開のプロを「アーキビスト」といい、欧米諸国では格の高い専門職である。というのは、永久保存するのか、それとも廃棄するのかという究極の選択を行うからであり、ある意味では真贋を見分ける骨董鑑定士のような位置づけがあるともいえる。

これまでの日本の行政では、振り返ってみれば重要な文書が、些細なものと見なされ、あるいは内容を確認すらされずに、書架がいっぱいになったからといった理由で廃棄されてきた。担当課担当係に、改まって文書の価値を問うたならば、もしかしたらそうした文書は残ったかもしれない。しかし多忙な業務の中で、文書の価値を問うというような悠長なことは現場の職員には難しい。やはりアーキビストがそこに一枚噛むことは必要だ。

だからこそ、全国の公文書館には専門の職員が配置されているのである。では「骨子案」ではどうなっているか。そうしたことを検討した形跡は「骨子案」のどこにも見当たらない。どうやら、これを考えた人は、どの文書が重要なのか簡単に判断がつくと考えているようだ。このままでは、文書の重要性の評価は人それぞれなので、ある課のある時期の文書はよく残っているが、隣の課の文書はほとんどない…というような粗密が生じることになるだろう。

というわけで、第1と第2の問題点をまとめると、「骨子案」では「県は、公文書を保存していくための人もカネも出す気がないらしい」ということになる。こうなると、逆に「どうしてこんなやる気のない条例を作る気になったのだろうか?」という気すらしてくる。

実はこの「骨子案」は、県議会からの提言書を受けて出されたものだ。県議会の「政策立案推進検討委員会」によって今年の3月に提言された内容の一つが「公文書管理機能の充実・強化について」だったのだ。

【参考】令和4年3月|政策提言等に関する報告
http://www.pref.kagoshima.jp/ha01/gikai/topix/teigen/iinkai/documents/97389_20220304091431-1.pdf

その内容を乱暴にまとめると、「鹿児島県には保存期間が満了した公文書についての定めがなく、貴重なものが破棄されるおそれがあり、また永久保存の文書についても役所の中で保存されるだけで県民が利用出来ないため、公文書管理の条例を定めるとともに、将来的には公文書館的機能を有する体制を整備していくための検討委員会を設けるべきである」ということだ。

今回の「骨子案」が、これに沿ったものであることは一目瞭然だろう。

ところが! 「骨子案」のどこを見ても、こうした経緯は書いていない。一般の県民には、なぜ今公文書管理条例を定めようとするのか、どのような検討を経てこの案が作成されたのか、全くわからないのである。

一方で、「骨子案」の「条例制定の趣旨」にはこう書いてある。「公文書は,県民共有の知的資源であることを明確にすること等により,県民に対して政策形成過程のより一層の透明化を図るとともに,県民に対する説明責任を果たす。」

この文章は日本語がおかしいが(後段の主語がない)、それはともかく、「 県民に対して政策形成過程のより一層の透明化を図る」のがこの条例の趣旨のはずである。にもかかわらず、この条例自身がどのような経緯で検討されたのかが一言も書いていないとは、随分と皮肉なことだ。透明化を図ろうという気が本当にあるのか。

そもそも、この「骨子案」を一目見て感じるのは、内容があまりに簡略過ぎるということである。先述のように、既に各地の自治体により40の公文書館が設立され、また「公文書管理条例」も多くの自治体で制定されている。鹿児島は最後発の部類になるわけだが、最後発であるということは、いろいろな事例を参照することが出来る有利な立場でもある。各地の事例を研究し、実効的かつ費用対効果に優れた体制を構築すべきであるのに、少なくとも「骨子案」検討の段階ではそうした考えはうかがうことが出来ない。

例えば、日本で初めて公文書館をつくったのは山口県である(国立公文書館より先の昭和34年)。山口県では、旧萩藩主毛利家から寄託された「毛利文書」を中核として「山口県文書館」を作ったので、これは公文書館というより鹿児島で言えば黎明館に近い部分もあったが、より公文書館としての機能を強化すべく、最近「山口県公文書管理条例」の制定を目指している。

つまり、ちょうど今、鹿児島と同じく山口県では公文書管理条例を検討しているわけだが、その内容を見てみると雲泥の差がある。検討会の概要や配付資料を見て、その中身の充実ぶりに驚いた。

【参考】山口県公文書管理条例検討会について
https://www.pref.yamaguchi.lg.jp/soshiki/3/100391.html

特に好感を持った点は、第1に、これまでの公文書管理が十分でなかったという反省に基づき課題を抽出し、特に電子化に対応した措置も踏まえた条例を検討していること。第2に、これまでの文書管理と永久保存までのフローを詳細に見直すとともに、「特定歴史公文書」の範囲を明確に定義しようとしていること。第3に、そもそも公文書をちゃんと残していこうという意識で条例を制定しようとしていることである。

この検討会資料を見てから鹿児島の「骨子案」を改めて見てみると、そこに大きく欠落しているものに気付く。それは「課題」であり「危機感」だ。鹿児島の「骨子案」には、これまでの公文書管理が十分ではなかったという課題意識もなければ、しっかりとした体制を整えなければ公文書が散逸・破損してしまうかもしれないという危機感もない。だから切実感がなく、「人もカネも出す気がない」案を作ってしまうのだろう。

ところで、急に話が変わるようだが、江戸時代の鹿児島に伊地知季安(すえよし)という学者がおり、この人がまとめた『旧記雑録』という史料がある。これは薩摩藩関係の古文書の一大集成であり、薩摩藩研究にはかりしれない重要性を持っている。伊地知季安が『旧記雑録』をまとめなければ失われていた文書が多数収録されているからだ。今日の薩摩藩研究ができるのは伊地知季安のおかげと言っても過言ではない。

学者としての季安の特徴は、自ら歴史書を書くのではなく、その根本となる史料(当時の公文書にあたる文書(もんじょ))の収集と整理に執念を燃やしたことである。彼はもちろん自身でも歴史書も書いており、例えば薩摩藩における儒学の系譜を述べる『漢学起源』は重要な著作である。しかし、彼は自分の歴史研究だけでなく、歴史を残すために重要な古文書を残らず『旧記雑録』に収録しようとした。現実には、その編纂は季安(とその子の季通)を中心とした僅かな人員しか携わっていないので、完全というわけにはいかなかったものの、一個人がなし得る範囲を遙かに超えた文書群を作りあげた。彼こそは、鹿児島が誇る大アーキビストと言えるだろう。

他にも、朝河貫一によって有名になった中世からの貴重な文書群『入来文書』、戦国末期の地方政治のリアルを伝える『上井覚兼日記』、そして国宝『島津家文書』など、鹿児島には貴重な文書群が残されている。今でこそ鹿児島は過去の記録があまり大事にされていないが、古文書の世界を見てみれば、鹿児島は比較的多くの古文書(やその写し)が残っているところであるといえる。そしてそうした文書群が残ったのは、後世に伝えようと熱意を持って取り組んできた伊地知季安のような人たちがいたからこそなのだ。吹けば飛んでしまうような紙切れを何百年も保存してゆくためには尋常ならざる情熱が必要なのは間違いない。

「骨子案」を作った政策担当者に、そういう情熱はあるのだろうか。今まで述べてきたように、それが、どうもなさそうなのだ。とりあえずルールだけ作っておけばよし、というようなことにならないか心配だ。

もしかしたら、私の心配は杞憂なのかもしれない。山口県の「公文書等の管理に関する条例(仮称)素案」を見ても、実は鹿児島の「骨子案」とほぼ同様な内容だ(細かい点で雲泥の差はあるが)。県の担当者はこうしたものを参考にして「骨子案」をまとめたことは間違いない。公文書館の設立についても、県議会の提言の通り、条例に基づき設置される「公文書管理委員会」で検討する腹づもりなのだと思う。

しかし、であればこそ、そうした腹案がありながらも、形式的な内容の「骨子案」のパブリックコメントを出したのだとしたら問題だ。「県民に対して政策形成過程のより一層の透明化を図る」つもりがあるならば、丁寧に経緯を説明し、今後のロードマップを出した上で意見募集をしてもらいたいものだ。

意見募集の提出期限は11月21日まで。みなさんからもご意見をだしていただければ幸いである。

↓冒頭リンクと同じ
【参考】鹿児島県公文書等管理条例(仮称)の骨子案に対する御意見を募集します
https://www.pref.kagoshima.jp/ab04/kobunsyo/jorei/pbcom.html

※冒頭画像は、内閣府の「地方公共団体における公文書管理の取組調査」の資料から抜粋したものです。

2022年7月25日月曜日

洋上風力発電は、結局、全部カネの話。

先日の鹿児島県議会では、薩摩半島沖での洋上風力発電についての「国への情報提供」が見送られた。

ひとまずしばらくの間は、公式には話が進まないことになってホッとしているところである。

というのは、反対の署名運動が行われるなど地元での不評にもかかわらず、洋上風力発電はどんどん進んでいきそうな雰囲気になっているからだ。これまでの情報を整理して、その危惧をここに書いておきたい。

そもそも、薩摩半島沖での洋上風力発電事業については、2年前(2020年)の7月、東京のインフラックスという業者が計画を立ち上げたことで始まった。これについては私もブログ記事を書いて詳細に計画の杜撰さを糾弾した。

【参考】吹上浜沖に世界最大の洋上風力発電所を建設する事業が密かに進行中(今なら意見が言える)
https://inakaseikatsu.blogspot.com/2020/07/blog-post.html

また、続く記事では、この計画が国の洋上風力発電プロセスに全く則っていないものであることを指摘し、その背景を推測した。

【参考】インフラックス社が実現可能性の低い巨大風力発電事業を計画する理由
https://inakaseikatsu.blogspot.com/2020/08/blog-post.html

では、「国の洋上風力発電プロセス」とは一体何かというと、まずはある海域内において洋上風力発電事業を推進するという「促進区域」を国が定めることから始まるのである。その「促進区域」はどうして指定するのかというと、都道府県からの「国への情報提供」に基づく。これは「この海域が有望そうだから調査してください」という上申書である。

今回の県議会で見送られたのはこの「国への情報提供」である。なお、「促進区域」の指定自体は、必ずしも都道府県からの上申がなくてもできるらしいが、事実上、都道府県が前向きでない場所で国が先走っても無駄なのでこれが必須のプロセスとなっている。そしてもちろん都道府県は、地元の声を踏まえて上申するわけだが、その「地元の声」とやらはどうなっているか。

今、鹿児島県では薩摩半島沖での洋上風力発電事業に3事業者が名乗りを上げている。先述のインフラックス(いちき串木野市、日置市、南さつま市沖)の他に、三井不動産(阿久根市、薩摩川内市、いちき串木野市沖)、そして地元の南国殖産(阿久根市、薩摩川内市、いちき串木野市沖+甑島沖)である。

ということは、少なくともこの3事業者にとっては需要があり、特に地元の主要企業である南国殖産が手を上げていることは意味がある。これはこれで一つの「地元の声」である。

では県議会ではどうだったか。先日の「令和4年第1回定例会」の議事録を確認してみた。主な発言者と趣旨は以下の通りである。

宝来良治 議員(自民党) …洋上風力発電の可能性について問うもの。推進の立場。「県としても、積極的に地域課題として認識して、また地方創生の一翼として、大規模開発として、リーダーシップを取る覚悟が必要だと考えております」 
日高 滋 議員(自民党) …洋上風力発電の導入を期待するもの。推進の立場。「二〇二五年までの基盤形成に乗り遅れないためにも(中略)国への情報提供を行うべき」

具体的に洋上風力について質問したのはこの2名だけだが、2名ともが推進の立場なのが気になる。なおこれらの発言を受け、県では「国への情報提供」は見送ったものの、「かごしま未来創造ビジョン」に脱炭素社会の実現に向けた方策の一つとして「風力発電」を事例として追記したという。

ところで、この2議員はどうして洋上風力発電に前向きなのだろうか。その個別の事情は存じ上げないが、共に自民党であるし、基本的には「洋上風力発電の推進が国策になっているから」ということかと思われる。特に日高議員は質問においても国の政策について言及している。

政府・与党は洋上風力発電に前向きである。再生エネルギーの導入を促進し気候変動に対応する、といった大義名分は当然として、最近は政策的に再生エネルギーへの傾斜が明確になってきた。昨年改訂された「第6次エネルギー基本計画」においても、電力における再生可能エネルギーの割合を2030年に約40%へ引き上げ、2050年にはカーボンニュートラルを実現する、との野心的な目標が示されたところである。

自民党でも「再生可能エネルギー普及拡大議員連盟」が2016年に設立され、100名以上の国会議員が所属している。会長の柴山昌彦は「再生可能エネルギー最優先の推進役として活動する」と旗を振り、特に洋上風力はその軸であると位置づけている。「第6次エネルギー基本計画」が自民党からの提言を受けたものであることは言うまでもない。

これらの動きは、一見、脱炭素社会に向けての前向きなもののようにも見える。しかし私には、洋上風力発電事業が一種の「利権」となりつつあるのではないかと感じられる。

例えば、先の自民党「再エネ拡大議連」の事務局長(秋本真利衆院議員)は、「風力発電業者5社から企業・個人献金合わせて3年間で、計1800万円以上を自身が代表を務める千葉県第9選挙区支部で受けている」という(「週刊新潮」2022年6月16日号)。

もちろん、それが業者との癒着や不正を直接意味するものではないが、そこに何の利権も存在しないといえばウソになる。

そもそも、洋上風力発電事業はとんでもなく巨大なお金が動く事業である。民間の行う事業としてはかなり大きい。吹上浜沖に100基の風車を設置するとなれば、事業規模は1000億円を超えるのではないかと思われる。とすると、その0.1%を見返りとして業者が政治献金しても1億円にもなる。これは、これまでの公共事業と違って国が巨額の予算を組む必要がなく、民間事業者がお金を集めて行うものなので、与党としては、ただ許可を与えるだけで政治献金が見込めることになり、非常に割がいいものではないかと思われる。

つまり洋上風力の場合、国はお金を出す必要がなく、許可だけで政治献金が期待できる。公共事業に大きな予算を付けづらい今の財政事情を考えれば、これは旨味のある話なのだ。また地方議員にとっても、合意形成を図ることで政治献金に繋げていける。別にカネで全てが動くというつもりはないが、巨額のカネが動く事業である以上、当然の話としてこういう「取引」が行われることになる。

ではその巨額のカネはどこから出てくるか。

これは基本的には、民間企業が投資家から集めたお金、ということになるだろう。こういう、環境保全に役立つ事業の債券を「グリーンボンド」と言う。「グリーンボンド」で集めたお金で事業を行い、債権者に返済していくわけだ。風力発電の場合は、FIT(固定価格買取制度)によって電力を高価格で販売することで、利益を生みだす。その価格は、我々が支払う電気代に上乗せされた「再エネ賦課金」で支えられている。

ということは、図式的に言えば、我々→(再エネ賦課金)→電力会社→風力発電事業者→投資家・政治家、というようにお金が環流していくことになる。これは、お金の潤沢なところから足りないところに行き渡っていく、という理想的な姿とは真逆で、お金のないところからお金のある所にお金が吸い上げられていく仕組みになっている。

お金の話が出たついでにいえば、多くの人が洋上風力発電に反対している中で、明確に賛成の意志を表示しているのが漁協であるということも、やはりカネがらみである。

先日の南さつま市議会では、地元の2漁協から別々に「洋上風力発電事業の推進について」といった陳情が提出された。なぜ漁協が賛成するのかというと、漁協は海域に「漁業権」という直接の利権があるので、もし風力発電事業が行われるとなればその補償金が見込まれるからである。このあたりの漁協というのは高齢化や漁獲量の減少によって活動が低迷しているから、補償金をもらった方が得だ…という判断なのだろう。

なお、風力発電の基体が魚礁になって魚が増える、という説もある。しかし補償金がなかったら漁協は賛成派にはならなかっただろう。なんだかんだ言って、全部カネの話に繋がっていく。

風力発電の推進は、地球環境保全に役立つ、という主張は嘘ではないとは思う。でも、地球環境に役立つはずだった太陽光発電のせいで、各地で山崩れが起こっており、治山治水の逆になっているのは事実である。またそうした被害を受けたパネルは産業廃棄物となっている。どうしてそんな無理のある地形に太陽光パネルが設置されたのかというと、要するに補助金狙いの杜撰な計画が各地で推進されたから、としか言いようがない。

実際、奈良県の平群(へぐり)町では、メガソーラーの建設差し止めの事件が起こっている。この場合、「環境のことなどどうでもいいから、儲かればいい」という事業者だったようだから建設が差し止められたが、他の業者も良心的なところばかりではないことは想像に難くない。

【参考】奈良県が止めたメガソーラー計画の現場から見えてきたもの
https://news.yahoo.co.jp/byline/tanakaatsuo/20210827-00255241 

結局、環境保全とか、気候変動などというものは、多くの事業者にとって大義名分以上の意味はないものだ。ただ利益が出れば、それでいいのだ。もちろん、それがわかっているから、国としては環境保全や気候変動に役立つ事業が儲かるよう、補助金をつけたり便宜を図ったりする。しかしそれが利権化することによって、さらに話はカネの話に傾斜していくのである。

結局、全部カネの話なのだ。

資本主義社会である以上、それは当たり前じゃないか! といわれれば、その通りである。しかし、吹上浜沖のような風光明媚なところに、わざわざ巨額のお金を投下して風力発電所を作るのは、単なる金の使い方としてもうまいやり方のようには思えない。それは我々の生活をよくするものではなく、単に「再エネ賦課金」を徴収するための集金装置に過ぎないからだ。

「再エネ賦課金」は、今3.45円/kWh。国全体では、2021年度で約2.5兆円にも上る。これは国が徴収しているのではなく、各電力会社が電気料金に上乗せして集めているので、この金額がどこか一箇所にあるのではないが、それでも毎年(!)これだけのお金が集められて、そして再エネ事業(太陽光発電や風力発電)に環流していっているということになる。

毎年2.5兆円あれば何が出来るか。例えば、国立大学の大学教育が無料に出来る。

再エネ推進が大事なことであるにしても、大学教育を無償化して人材育成を図る方が、長期的に見れば環境保全に役立つ。なぜなら、日本で公害問題が概ね解決されたのは、経済成長によって「環境も大事だよね」という意識が広まったことが一番のポイントだからだ。食うや食わずの生活をしていては、地球環境などという抽象的なものを守ろうという気にはならない。日々の生活に余裕があり、身の回りのことに不足しないようになってからこそ、地球環境の保全にも意識が向くのである。

その意味で、地球環境保全にとって最大の敵は貧困である。貧困を撲滅し、高度な教育を受けた人材を増やすことが地球環境保全に繋がるのは間違いない。

それなのに、風力発電を含む再生エネルギー事業は、貧しいものになけなしの金を出させ、投資家にお金を流す仕組みだから納得できないのだ。もし日本にとって必要なものであれば、国が税金を使って建設すべきだ。民間事業者に任せるのではなく。

税金も貧しいものから収奪する面があるが、貧乏人からも一律の割合で金をとる再エネ賦課金よりはいくらかマシである。

結局、全部カネの話なのだとしても、カネの使い方が杜撰だから情けないのだ。鹿児島県の塩田知事は、「稼ぐ力」をいつも強調している。だが、こういってはなんだが、県民所得が全国最低レベルの鹿児島県民に「稼ぐ力」があるはずがない。だったらせめて、おカネの使い方くらいは未来志向でありたいものである。

2022年5月22日日曜日

スマートに支配されている社会よりも

先日、「生徒の自由は制限できて当然だという間違った考えについて」という記事を書いた。

【参考】
生徒の自由は制限できて当然だという間違った考えについて
http://inakaseikatsu.blogspot.com/2022/04/blog-post.html

そこでは、「自転車通学を許可制にするのはおかしいし、距離で制限されるのもおかしい」と述べていた。

その記事中には書かなかったが、私がこういう記事を書いただけで満足するわけもなく、当然中学校にも「私はこのように考えるので、ご検討をお願いします」と手紙で伝えていた。

またそれとは別に、ここでは詳しくは書かないが、学校を一歩出れば非常識な校則について見直すよう、教頭先生にいろいろと強く意見を言っていた。まだ子どもが中学校に入学したてなのに、校則についてアレコレ文句を言ってくる親も珍しいだろうが、私はなにしろ、理詰めで考えて間違っていることを放置するのは我慢がならないタイプである。

とはいえ、そういう学校への意見がすんなりと受け入れられると考えるほどウブではない。内心、「無駄かも」と思いながら学校に伝えていた。

ところが、先日あった中学校のPTA総会の場で、学校側からの説明があり、

  • 自転車通学については距離の制限を撤廃する。
  • 下着(インナー)の色の規制はなくす。
  • 靴下も白以外でもよいことにする。 

などなど、非合理な校則を見直すという方向性が示されたのである。ちなみに下着の色の規制は、昨年、白のみから茶・紺・黒なども認めましょう、という規制緩和が行われたところだったが、「そもそも下着の色を規制すること自体が非常識」と私も主張していた。おそらく他にもそういう意見があって、こうした校則の見直しが行われたに違いない。

ともかく、このことは素直に歓迎したいし、校則の見直しに着手してくださった先生方(特に校長・教頭)には感謝したい。 ちょうど昨年、文部科学省が非合理な校則について対処を求める通知を都道府県に出し、それに応じて校則の見直しが社会の趨勢になってきたことも後押ししたに違いないが、私も含め「これはおかしい!」との声が、変化を促した一番の原動力であったと思う。声を上げてよかった。

「そんなこと言ったって何も変わらないよ」ということは実際にたくさんある。でも、声を上げなければ何も変わらない。

そして、言うのはタダだ。それなら、無駄かもしれないが、とりあえず声を上げていく方がいい。 ちょうどタイミングが合えば、動かないと思っていたことも動くかもしれない。実際、今回校則の見直しが行われたのは、先ほど述べた文科省の通知や、人事異動(校長が変わった)や、いろいろなことが重なっていたおかげだと思う。

これは中学校だけでなく、国政なんかでも言えることだ。日本の政治・行政のダメなところは、はっきりしている。そして、どうしたら日本をよくすることができるか、処方箋はほとんど明確になっている。それなのになぜそれが実行されないか。

いろいろ理由はあるが、「それを求める声がない」からだ。

例えば、日本は奨学金の制度がダメすぎることは何十年も前から指摘されていた。日本で「奨学金」と呼ばれているのは単なる「教育ローン」であり、真の意味の奨学金をわざわざ「給付型奨学金」などと呼んでさも特別なものであるかのように見せかけてきた。教育を受けることは子どもたちの権利であり、奨学金ほど投資効果の高い投資はないにもかかわらず、教育を「自己責任」の領域のこととして金を出し渋ってきたのである。これが問題であるのは明らかだ。そしてそれを改善するための予算は、例えば社会保障や国防に比べると微々たるものなのだ。

にも関わらず、なぜ改善されてこなかったか。それは国民がその状況に「忍従」してきたからに他ならない。国家や上位権力に「忍従」することが「美徳」であると、我々は明治時代以来、ことあるごとに教え込まれてきた。

しかし「忍従」を美徳とする価値観はもう捨て去った方がよい。社会は自分たちの手で変えられると信じる方が、ずっと建設的であることがもはや明らかになった。

もちろん、国民が「忍従」を辞めれば、随分と騒々しい社会になるだろう。利害が真っ正面から衝突するような、不格好な社会になるかもしれない。ストライキが頻発してしょっちゅう電車が止まるような社会になるかもしれない。でも、不格好でも国民主権の社会の方が、スマートに支配されている社会よりずっとマシだ、と私は思う。

ちなみにまだ、校則以外も含め、中学校には「一体いつの時代の話だよ!」というようなことがまかり通っている。体育館のガラスを割って回るようなとんでもない不良がいた時代につくられた管理の仕組みが未だに生き残っているのである。

私はこれからも声を上げ続ける。学校にとっては面倒な保護者には違いない。中学校はたった3年間のことである。黙っている方がスマートなのかもしれない。でも子どものためになると思うことは、不格好に思われても声を上げていきたい。

2022年2月1日火曜日

ドルフィン跡のサッカースタジアムはさすがに無理です。

久々に「オイオイ」と思った。

鹿児島市の下鶴市長が、ドルフィンポート跡につくる鹿児島県の新体育館の隣にサッカースタジアムを作りたいといっている件だ。

しかも、県民の多くが「ぜひあの芝生は残してほしい」と言っているその緑地帯を移設すれば建設できるじゃないか、と主張している。さらに結婚式やコンサートにも使える施設とし、フィットネスクラブやワークスペース、保育施設や高齢者住宅を併設して「稼げるスタジアム」にすることを検討しているという(2月1日付南日本新聞より)。

たぶん、塩田知事がいつも「稼ぐ力」を強調していて、経済政策を重視する立場なので「稼げるスタジアム」と言っているのだろう。

しかしながら、実際に新体育館とスタジアムが併設されることを想像すれば、この計画には無理があることがすぐわかる。両方の施設で大規模イベントが行われることを考えてほしい。駐車場はすぐにいっぱいになり、多くの人は遠くのコインパーキングから歩かなければならない。しかも土地勘のない人にはどこにコインパーキングがあるのかもわからず、空き駐車場を探して街中をさまようことになる。

さらなる問題は帰りの時間だ。イベントの終了後には多くの人が一気に帰るわけで、ただでさえ常態化している夕刻の渋滞はすごいことになるだろう。

覚えている人も多いだろうが、2019年に鹿児島アリーナ(西原商会アリーナ)でB'zのライブがあったことがある。このライブの収容人数が5700人。この時は中央駅からアリーナまで臨時の市営バスがかなりの本数運行されていた。ライブのお客さんはマナーのいい人が多いのか特に混乱があったとは聞いていないが、当日の交通はかなり気が遣われていた印象だ。

それが、下鶴市長が作ろうとしているスタジアムの収容人数は「1万5千人から2万人が最適」だという。この人数が鹿児島県で最も交通量が多い箇所を移動すると思うとゾッとする。スタジアム構想は、景観面や緑地の関係で反対している人も多いが、そもそも交通計画だけを見ても破綻していると思う。

しかし、それすらもこの案件のヤバさの一面でしかない。

それは、これまでの新体育館の検討の経緯を知っている人からすれば明らかだ。

県の新体育館は、現体育館が1960年の建設で老朽化しつつあったため、もともとは1985年~94年度までの10年間に新設する予定だった。ところが、なぜだかこの計画は棚上げされ、2008年に伊藤祐一郎知事(当時)が、県庁東側(与次郎2丁目)に体育館を整備することを表明したことで動き出す。

県庁東側の土地はMBCの所有地だったが、その取得交渉の過程において県有地のドルフィンポート敷地との土地交換が俎上に上がると、伊藤知事は「むしろドルフィン敷地に県体育館を建てた方がいいのでは」と心変わりし、計画を拡大して「スーパーアリーナ」と呼ばれる構想を発表した。これが2013年。

「スーパーアリーナ」は「飲食店や展望スペースを備え、イベント会場としても利用できる、多くの人々が集う機能を有した総合的な施設」だということだった。ところがこの案は空から降ってきたような話で、内容の是非以前に唐突なことだったため県民の理解が得られず2015年に撤回。

2017年には三田園知事(当時)が、事実上凍結されていた新県体育館を早期整備することを表明し、2018年には鹿児島中央駅西口の県工業試験場跡地(武1丁目)を候補地として表明する。

しかしここには交通上の問題が大きく、しかも十分な駐車場が設けられないという致命的な問題があって断念。それで話が戻ってきて、やはり県庁東側はどうか? いや、県農業試験場跡地(谷山)はどうか? と議論が錯綜。結局、2019年には「県庁東側が現実的」としてMBCとの土地の譲渡交渉に入ったところを止めたのが現塩田知事だった。

塩田知事は、これまでの検討経緯が「土地ありき」のもので、「どのような施設が必要なのか」という観点からのボトムアッププロセスが欠落していたことを踏まえ、検討委員会を設けて改めて検討させた。そして委員会があるべき施設の姿を示し、それに応じて候補地を評価して選出されたのが「ドルフィンポート跡地」だった。

私自身は、ドルフィン跡は正直なところ交通の問題など考えても良策とは思えないが、それでも一応公開での議論の下で、透明性をもって検討したことは評価したい。そもそも新県体育館の方針が二転三転したのは、伊藤知事・三田園知事がどちらも「県立体育館をどこに作るかは俺が決める」みたいなことを言っていたためだ。

ここから導かれる教訓は、「県民の施設を、知事の一存でつくるようではダメ」ということに尽きるだろう。

ところが! 下鶴市長はこの経緯を全くご存じないと見える。スタジアム建設は下鶴市長の肝煎りなのでヤル気があるのは理解するが、全く内実が伴っていない。まさに伊藤知事・三田園知事の失敗の二の轍を踏んでいるようだ。

しかもその構想は伊藤知事の「スーパーアリーナ」と極めて近い。核心部分の価値があやふやだから、「これにも使えるしあれにも使える」と計画を肥大させただけのように見える。逆に本当にスタジアムが必要なのか疑問になってきた。

下鶴市長のスタジアム案は、「首長主導」「土地ありき」「あれこれ盛り込む」という、これまでの県体育館構想のダメなところだけを集めて作ったものだとすらいえると思う。

私は南さつま市民である。本来は、下鶴市長のやることにアレコレいうべきではないのかもしれない。しかし県体育館の隣にスタジアムができるとなれば、少なからず影響を受ける。下鶴市長は、これまでの県体育館建設のゴタゴタの経緯を踏まえた上で、わが身を鏡で見てほしい。

2021年2月18日木曜日

日本のどこにいる人でも、蔵書数20万冊の図書館にアクセスできるように

「趣味はなんですか?」と聞かれたら、「調べもの」と答えている。

私の趣味は読書だと思われることもあるが、実はそんなにたくさん本を読むわけではない(年間にせいぜい40冊くらい)。そして、面白い本を読みたいという気持ちはほとんどなく、「あれってどうなってるんだろう?」と思って情報を求めて本を開くことがほとんどだ。

だから、自分で本も買うが(というより買える本は買って読む主義)、図書館も意外と使う。意外とどころか、何か本気で調べようと思ったら、すぐ買えるような本には載っていないことが大概だ。どうしても図書館の本に頼らなければならない。

資料のあたりがついていれば、国会図書館の遠隔複写サービスを使う。郷土資料だと、鹿児島県立図書館の遠隔複写も時々使う(でも、県図書の場合は料金を切手(か定額小為替)で送るという非効率的な支払い方法なのであまり使いたくない)。でも複写箇所がわからない場合が多数なので、やはりリアル図書館に行って調べないといけないことも多い。

だが、ここで問題がある。南さつま市の図書館が、貧弱すぎるのだ。もちろん、相互貸借(図書館が別の図書館から本を借りること)によって取り寄せることもできる。しかしその費用を負担しないといけない場合があるなど、気軽には使えない。やっぱり、手近に蔵書が豊富な図書館が必要だ。

そもそも都市と地方には、インターネットなどでは埋めようもない絶望的なまでの情報格差がある。それは、世界の多様性に関する認識の差を形成している。この情報格差を埋めるためにも、図書館の充実は大事である。図書館は、一人ひとりの多様な関心に応え、知らない世界への扉を開き、知りたいことを深めていく場所である。

ところで、もうこちらに移住してきてから約10年になるが、移住前に住んでいたのが神奈川県川崎市の高津区というところ。家から歩いて10分に高津図書館があって、時々足を運んだ。

実は、この高津図書館、住宅街の中にある図書館なのであるが、開架資料だけでいえば、鹿児島県立図書館並みの規模がある。もちろん高津図書館が特別なのではなくて、関東地方ではそのくらいが平凡な規模だ。そして蔵書数もさることながら、特に視聴覚資料(CDとか)は鹿児島の図書館とは全く比べることができないくらい充実している。図書館でCDが借りられるのでツタヤはいらないっていうくらいである。

こういう図書館に気軽にアクセスできるのは、それだけでアドバンテージだと私は思う。ただでさえ地方の子どもは不利な立場に置かれているのに、教育・文化の面で格差が再生産されるのはいただけない。

「どうせ鹿児島は文化のない野蛮な土地柄だから」と人はいうかもしれない。しかし、実はそうでもない。

試みに、高津区と南さつま市の図書館事情を比べてみるとそれが明白になる。公表された統計資料(平成30年度〜令和2年度のデータで構成)をもとにグラフを作ってみた。

 

川崎市高津区と南さつま市の図書館事情比較

蔵書数は、高津区の方が約29万冊で南さつま市より10万冊以上多い。なおグラフにはないが、図書館ごとで比べると、南さつま市で一番大きな加世田図書館の蔵書数が7万5000冊ほど。一方、高津図書館は約25万冊あるので、3倍以上の規模の開きがある。

もちろん、人口が全然違うのでこれは当然だ。高津区の人口は23万人以上あり、南さつま市と比べると20万人多い。ついでにいえば、南さつま市は高津区に比べ面積が17倍もあって、図書館が分立しているから、ただでさえ少ない蔵書がさらに分散している。

では、一人当たりの蔵書数で比べるとどうか。これが調べてみると面白いことで、実は南さつま市の一人当たりの蔵書数は3.80冊で、高津区の約3倍あるのである。

とすると、南さつま市は田舎で文化のない土地だから図書館が貧弱だ、とはいえない。それどころか、高津区に比べ一人当たり3倍も図書館にお金を使っているともいえる(本当は図書の予算決算で比べる必要があるが、その情報が手元にないのでだいたいの話) 。

要するに、南さつま市の図書館が貧弱なのは人口が少ないからであって、図書館にかける行政の熱意(予算)が少ないためではない、ということだ。

でも、図書館の価値は住民一人当たりの本の冊数で計れはしない。それどころか、人口100万人の都市でも、人口1000人の村でも、そこの図書館にあるべき本の冊数・多様性は同じだと私は思う。それは、図書館が住民の「知的な自由」を保障する場であるからで、田舎だからといって知的に不自由するのは仕方ないと諦めてはならない。

では、「知的な自由」を保障できる冊数はどれくらいかというと、日本語だとだいたい20万冊くらいだと思う。別に根拠はないが、いろんな図書館に行ってみての実感だ。これよりも少なくなると、世界の多様性を十分に蔵書で表現出来なくなり、知的世界へのアクセスに不自由をきたす。特に10万冊以下だとそれは非常に限られたものになる。

だから、「日本のどこにいる人でも、蔵書数20万冊の図書館にアクセスできること」が図書館行政の目標であるべきとだ、と私は思う。

でも南さつま市で20万冊の蔵書を揃えたら、一人当たり蔵書数はほぼ6冊。こんな予算はとても組めるものではない。

じゃあ、どうするか。答えは一つしかない。図書館を広域行政化するのである。

例えば南さつま市、南九州市、枕崎市が共同で図書館を運営すれば、蔵書数は30万冊を超えると思う。もちろん単純に蔵書数を足し挙げるだけでは、すぐに蔵書の多様性が増えるわけではないが、各市が独立するよりもずっと事態は改善される。さらに各館ごとに揃えていた資料が1つで済む場合も多いので、予算も節約することができる。

こういう広域行政化は、既にいろんな分野で行われている。例えば、ゴミ焼却場、屎尿処理場といったものである。市町村が組合を作って共同運営するのである。もちろん図書館でも、市町村連合によって他市町村の図書を相互に借りられる仕組みはすでに各地である(例:福岡都市圏(17市町で構成される連合))。

ただ、ただの市町村連合の場合は、選書などは各市町村でやるため、必ずしも規模の経済がきくわけではない。やはり市町村組合のようなもので共同運営することがよいと思う。

ちなみに、組合立図書館のススメは、1963年(昭和38年)に『中小都市における公共図書館の運営』というレポートで述べられ、ごく少数ではあるが設置されたことがある。ただその頃はどんどん経済成長していく局面だったので組合立にしなければならない予算面の事情がなくなっていったことと、図書館業界でも賛否が分かれたらしく普及しなかった。

だが今は、指定管理者制度の普及、図書館司書の非正規雇用化、予算の減少などで図書館業界が非常に苦しい局面になっているので、組合立図書館のメリットは大きくなっていると思う。

ところで、これから、南さつま市には南薩地区衛生管理組合のゴミ処理場が出来る(南薩地区新クリーンセンター(仮称))。この組合は、枕崎市、日置市の一部、南さつま市、南九州市で構成されるものである。今のゴミ焼却場は、大量のゴミを処分でき、むしろ燃やすゴミが少ないと非効率になるため広域連携が普通になってきた。こういう連携が広がることはいいことだ。

ゴミ処理に広域連携ができて、図書館にそれができないわけがない。南薩各市の行政のみなさんに、ぜひご検討いただきたい。

2021年1月18日月曜日

「農地利用最適化推進委員」になりました

今年から「農地利用最適化推進委員」になった(任期は3年)。

「農地利用最適化推進委員」(それにしてもけったいな名前…)とは何かというと、ものすごく簡単にいうと「議決権のない農業委員」である。

では「農業委員」とは何かというと、「農業委員会」の構成員である…というような話をしていくと大変にややこしい上に、あまり意味もない(笑)ので、その話はやめにして、ザックリ言うと「今年から農業委員会の仕事の一部をやることになった」ということである。

「農地」というのは、宅地のようには自由に取引できないようになっている。取引だけでなく農地を他の用途に使うこと(「農地転用」という)や、貸し借りについても規制されていて、農業委員会の議決を経るようになっている。

また、農業委員会には貸し借りの仲介、つまり不動産屋的な機能もある。最近では、荒れそうな農地を誰か適当な人に耕作してもらう、というような仲介が期待されている。

じゃあ、私はこれからそういう農地の不動産屋の仕事をするのかというと、実はそうではなくて、主な仕事はハンコをもらうことである。

どういうことかというと、うちの地域では(たぶん多くの地域で)土地は所有して耕作するよりも、借りて耕作するのが一般的なので、大量の農地の貸し借りが生じている。となると土地の一筆毎に「貸し借りの証文」を作ることになる(「利用権設定」という)。そして、その証文を作るところまでは事務局で作ることができるが、実際に地主にハンコをもらうという作業を誰がやるかという話になる。

というのは、農地を借りたい人(農家)は自分が申請してくるのだから簡単として、問題は地主の方である。大浦町のような高齢化・過疎が進んだところの場合、地主というのは大抵が高齢者であって、それどころか既に死んだ人であることも多いからである(←土地の相続登記がされていないということ)。

まあ実際には、権利関係がひどく錯綜していたり(登記上の名義人と現に所有している人が無関係であるとか)、そもそも誰の土地なのか分からなかったりする場合は、公式の「利用権設定」自体を諦めることが普通なので(こういう、農業委員会を通さないで土地を借りるのを「闇小作」という)、それほど大変なケースは少ないが、それでも地主さんの家を探し出して、ハンコをもらうのは結構大変である。

というわけで、私がやるのは、地主さんの家を探して農地の「貸し借りの証文」にハンコを押してもらにいく、という泥臭い仕事なのである。

実は、この仕事をやることになったのは、自発的な理由もある。ハンコをお願いしにいくのは当然やりたい仕事ではないが、農業委員会の仕事は勉強になるんじゃないかと思ったからだ。農地を巡る法律や規制、国の政策も学べるし、やはり農地の動きは地域の実態の一側面を写していると思う。この仕事を通して、そういうのを知ることができるのは楽しみである。

でも、そういう理由がなかったにしても、大浦町のように過疎が進んだところでは、何にせよなり手がいないので、順番にみんながやっていくような仕事なのである。そういう順番が、私にも回ってきたわけだ。

ところで、農業委員・農地利用最適化推進委員は、「特別職の地方公務員」である。例えば消防団員も「特別職の地方公務員」だし、嘱託員もそうだったと思う。要するに「役場の仕事を公的な身分をもって手伝う人」である。

それで、てっきり「雇用契約」みたいなのがあるのかと思っていたら、全くなくてちょっとビックリした。辞令一枚である。そういえば消防団員になった時もそういうのはなかった。これは「特別職の地方公務員」だからなのかと思っていたが、思い返してみると、自分がかつて国家公務員になった時も辞令一枚だったような気がする。雇用契約書の一枚もなかった。

日本の役所には、そもそも被用者と雇用者が対等な形で契約するという概念がなく、上意下達的に辞令一枚で「任用」する。要するに公務員の雇用は「○○市役所で働きなさい」といった命令の形式なのである。これは誰しも思うように時代錯誤だ。ちゃんと雇用の条件を明示して、双方が同意するという形で任用するべきだ。正式な公務員の場合は「地方公務員法」の規定でもしかしたらやりづらいのかもしれないが、「特別職の地方公務員」の場合は「地方公務員法」が適用されないので、やろうと思えば出来ることだと思う。

といわけで、私は「農地利用最適化推進委員」としてこれからハンコをもらう仕事をするが、自分がそういう仕事をするのを了承したという契約書にハンコを押すということはなかったのである。

こんなユルい体制でいいんだろうか(笑)