2021年11月30日火曜日

字堂覚卍は茶をもたらしたか——宝福寺の歴史と茶栽培(その2)

前回からの続き)

宝福寺ではいつ頃、どのようにして茶の栽培が始まったのだろうか。

それを示す直接的な史料は今のところ見出すことができないため、いくつかあり得そうな道筋を考察してみたい。まずは、宝福寺の開基である字堂覚卍(じどう・かくまん)について考えてみる。

字堂覚卍については、『三国名勝図会』(巻之十一)の樋脇の「永禎山玄豊寺」の項に詳細な伝記(以下「覚卍伝」という)が掲載されている。『川邊名勝誌』、『本朝高僧伝』、『延宝伝灯録』にも覚卍の伝記が掲載されているが、これらは全て「覚卍伝」に基づいているようだ。

以下、「覚卍伝」に従って字堂覚卍の生涯を簡単に紹介する(なお「覚卍伝」は、貞享三年(1686)に玄豊寺に建立された石碑に刻まれているもので、覚卍死後約250年を経たものであるから伝説的な要素を割り引いて考える必要がある)。

字堂覚卍は鹿児島に生まれ、幼い頃から大変な俊英だったらしく、京都の南禅寺(臨済宗)で椿庭海寿(ちんてい・かいじゅ)に二十余年学び、応永9年(1402)帰郷した。覚卍は「日置郡藤氏」の家系らしいがその父母の名は明らかでない。家格的な後ろ盾がないにもかかわらず臨済宗における最高の寺である南禅寺(五山十刹制度における「五山之上」。足利義満以前は「五山第一」)に入ったということは、覚卍その人の力量が抜きんでたものだったのだろう。

ところが、帰郷した覚卍はエリートコースを捨てる。臨済宗の教えは覚卍を満足させることはできなかった。覚卍は「破鞋(はあい)庵」—破れわらじ—という庵を結んで世捨て人同然の暮らしをした。その時の偈にはこうある。「人有り、若し意の何如んと問えば、推し出す秦時の轆轢鑽(たくらくさん)。」これは、「どうしてあなたほどの人がそんなところにいるんですか? と問う人がいたら、無用の長物が押し出されただけだよと答えよう」というような意味である(秦時の轆轢鑽=役に立たない品を意味する禅語)。「破鞋庵」の楣(まぐさ)(出入り口の上部に取り付けた横木)にも、「秦鑽」(「秦時の轆轢鑽」を約めた言葉)と書いていた。南禅寺で二十余年修行して禅を究めたはずの覚卍は、自分を役立たずだと言っていたのである。この偈を不審に思った竹居正猷(ちくご・しょうゆう)(妙円寺・福昌寺第二世)がその意を尋ねたところ、覚卍は「私は道を理解せず、禅を理解せず、いたずらに“馬の角と亀の毛”(=存在しないものの譬え)を論じるだけの人間になってしまった」と答えたという。この頃の覚卍は生きる道を見失い、自嘲気味になっていたようである。

その後、覚卍は樋脇に移り玄豊寺を開く。なぜ世捨て人となった覚卍が寺を開基したのかは詳らかでない。その後、覚卍の人生は再び動き出す。加賀(石川県)の瑞川寺(曹洞宗)に行き竹窓智厳(ちくそう・ちごん)に学んだのである。南禅寺で臨済禅を学び、かえって道を見失った覚卍は、今度は曹洞禅を学んだ。同じ禅宗でも臨済宗は体制派的であり、曹洞宗は在野的である。この転宗によって覚卍は何かを摑んだように見える。そして応永21年(1414)、竹窓智厳の法を嗣いで帰郷した。覚卍は58歳になっていた。

帰郷した覚卍は烏帽子岳に住んでまたしても世捨て人的な生活をし、毎夜漁り火が見えるのを嫌って、より山奥の川辺の熊ヶ嶽に移ってきた、熊ヶ嶽でも「寒暑を避けず、草を編み衣となし、飢えれば則ち菓蓏(から)(木の実と草の実)を食べる」という生活をしたが、通りがかった猟人藤田氏が覚卍の行いに感銘を受け、覚卍のために庵を建てたのが宝福寺の始まりとなった。『川邊名勝誌』では応永29年(1422)が開基の年ということになっている。

その後、覚卍の声望はつとに高まり、非常に多くの人が覚卍を慕ってやってきた。宝福寺には「琉球」「筑前」「豊後」と名付けられた谷(三渓)があって、そこにはそれぞれの出身者がまとまって住んでいたということである。福昌寺第三世住持の仲翁守邦(ちゅうおう・しゅほう)もその徳を聞いて話を聞きにやってきた。先ほどの竹居正猷もそうだが、仲翁守邦も当時の薩摩における曹洞宗の最高権威である。わざわざ覚卍の話を聞きに熊ヶ嶽までやってくるというのは、覚卍の声望が非常に高かったことを物語る。それに対し、覚卍は次の偈を以て応えた。

玉龍は奮迅として烟霞に出ず、下りて訪う南山の瞥(ママ)鼻蛇。
碧漢は霈然(はいぜん)として法雨を傾け、寒林枯木、盡(ことごと)く花開く

この偈は当時の覚卍の心境を伝える数少ないものであるから、少し意味を繙いてみたい。現代語に翻訳すれば次のようになる。「玉龍が勢いよく、もうもうとした霞の中から出てきて、天から下り“南山の鼈鼻蛇(べっびだ)”を訪ねてきました。天(碧漢)はざあざあと法の雨を降らし、冬枯れの寒林枯木が悉く花開いております。」

「玉龍」とは言うまでもなく玉龍山福昌寺の仲翁守邦のこと。「南山の鼈鼻蛇」とは、『碧巌録』第二十二則に出てくる言葉で、スッポンのように鼻がつぶれた毒蛇(コブラ?)のことらしい。「鼈鼻蛇」が何の比喩なのかはいろいろな考えがあるが、要するに自らの中にいる怪物、迷いに覆われた「真実の自己」、といったようなものであると考えられている。覚卍は自分を「南山の鼈鼻蛇」に譬えた。「この迷妄の怪物のところへ、よく訪ねてきてくださいました」というところか。かつて自分を「秦時の轆轢鑽」に譬えた覚卍は、今度は自分を「毒蛇」と言っているのである。そして次の行の「寒林枯木」も覚卍が自身を重ねた言葉かもしれない。「大自然の中で仏の慈悲に包まれ、“寒林枯木”にも花が咲きました」という。同じ無一物の世捨て人的な暮らしであっても、破鞋庵時代とはちょっと雰囲気が違う。かつての自嘲気味な態度は消えてなくなり、自分が「鼈鼻蛇」「寒林枯木」であることを楽しんでいる様子すら感じられる。

こうして覚卍は永享9年(1437)に81歳で死亡した。そこから逆算すると、覚卍の生没年は1358〜1437年ということになる。

なお、瑞川寺が開かれたのは応永20年(1413)であるが、覚卍が法を嗣いだ58歳の時は1414年頃だから、創建間もない瑞川寺に行って一年しか修行せず法を嗣いだということになる。南禅寺で二十数年修行したのに比べると随分短い修行期間のような気がする。

ちなみに、瑞川寺を開いたのは竹窓智厳の師匠にあたる了堂真覚(りょうどう・しんがく)であるが、『三国名勝図会』によれば、了堂真覚は市来氏に招かれ永和3年(1377)に市来の大里に萬年山金鐘寺(曹洞宗)を開基している。この金鐘寺は能登の総持寺の直末であったという。そして金鐘寺の二世となったのが竹窓智厳であり、加賀の瑞川寺はこの金鐘寺の末寺だったということである。なお宝福寺ははじめ瑞川寺の末寺であり、瑞川寺が破壊された後は金鐘寺の末寺となったという。

これらの事実関係は『三国名勝図会』以外の資料で跡づけることができないが、それを信頼するとすれば、覚卍は市来の金鐘寺で竹窓智厳や了堂真覚と出会い、臨済宗から曹洞宗に転宗して、瑞川寺の創建に伴って竹窓智厳と共に加賀へゆき、法を嗣いで帰郷したと考えるのが自然である。そうすれば瑞川寺での異常に短い修行期間も説明がつく。

また、了堂真覚と字堂覚卍という名前の類似を考えると、覚卍が禅への不信を乗り越え、再び禅の道に入ったきっかけはむしろ了堂真覚にあったように想像したくなる。「字堂」という法号は(ひょっとすると覚卍という諱も)了堂真覚によって与えられたものではないだろうか。覚卍は南禅寺時代と名前が変わっている可能性がある。

話がやや脇道に逸れたが、ともかく川辺の宝福寺を開基した字堂覚卍は、室町時代初期を生きた人物で、臨済宗から曹洞宗に転宗した僧侶、ということである。

覚卍が生きた時代、京都の寺院では闘茶といって茶の銘柄を当てる賭け事が流行していた。そしてこの頃、茶の栽培はほとんど寺院か寺院領の庄園で行われていたと考えられている。このことを踏まえると、覚卍は南禅寺時代に喫茶および茶栽培を知り、それを川辺の宝福寺にもたらしたと考えることはできないだろうか。

しかしそのようには考えられない理由がいくつかある。

第一に、その行状を見る限り、覚卍は賭け事の闘茶にうつつを抜かすような人物には思えないということである。南禅寺での修行を終えて破鞋庵を結んだ時も、川辺に来てからも、無一物を貫く清貧な暮らしをしており、むしろ闘茶のような遊興を嫌っていたと考えるのが自然だろう。

第二に、覚卍は徹底して「頭陀(ずだ)行(=托鉢行)」を実践しており、茶であれほかの農産物であれ、自ら生産などを行うことは考えられないということだ。「覚卍伝」によれば、八代当主島津久豊とその子忠国は覚卍に帰依し、宝福寺に「腴田(ひでん)(肥沃な田)を寄進したい」と申し出たものの、覚卍はこれを固辞し、「仏勅に遵い、頭陀を行う、以て其の身を終えん」と答えたそうである。そしてそれは覚卍のみならず、宝福寺の寺衆は皆それに倣っているということだ。中世においては、寺は寺地や庄園を持って生産活動を行い、一般よりも進んだ経済を営んでいたのであるが、宝福寺ではそのような生産活動は一切否定され、無一物を理想とする仏道修行が行われていた。それを考えると、嗜好品である茶の栽培を手がけるということは覚卍にはありえそうもないことだ。

そして第三に、もし覚卍が茶栽培をもたらしたとすれば、「覚卍伝」にそのことが書いていないのは不自然だということである。「覚卍伝」には多分に伝説的な事項を含めその生涯が述べられている。仮に覚卍が茶の栽培をもたらしていないとしても、そうした伝説を覚卍に付託してもおかしくないほどである。そう考えると、宝福寺での茶栽培は「覚卍伝」の撰述(=1686)の近過去に始まったことと認識されていて、とても覚卍まで遡らせることはできなかったのではないだろうか。

以上をまとめると、覚卍が宝福寺に茶栽培をもたらした可能性はほとんどないと結論づけることができる。

(つづく)

【参考文献】
伊吹敦『禅の歴史』
※冒頭の法統系図は『禅の歴史』所収の系図より抜粋し、覚卍関係を著者が追記して作成しました。

2021年11月26日金曜日

宝福寺での茶栽培の記録——宝福寺の歴史と茶栽培(その1)

南九州市川辺町清水には、かつて忠徳山宝福寺(曹洞宗)という寺があった。

宝福寺は「山ん寺」として知られた大きな寺院で、往時はお茶が栽培されていたという。その廃寺跡(今寺跡)には、その頃の名残と見られるチャノキが今でも自生しており、このチャノキは中国から渡ってきた原種の形質を保っていると言われている。しかしながら、宝福寺での茶の生産は記録が残っていないためよくわからないことが多い。そこで、既出の情報を整理し、宝福寺の歴史を振り返ってその茶生産がどのように始まったのかを推測してみたい。

まず、藩政時代(またはそれ以前)に宝福寺で茶栽培がされていたことを示す一次史料を見つけることはできなかった。編纂ものとしても、例えば江戸時代後期に編纂された『三国名勝図会』には宝福寺の項目があるが、茶が栽培されていたとは一言も書いていない。その記載の出典である『川邊名勝誌』も同様である。宝福寺跡にチャノキが自生している以上、かつての宝福寺で茶が栽培されていたことは確実と思われるが、名勝誌等になぜ記載がないのかは謎である。

次の二つの史料は、近現代の編纂ものだが宝福寺(または川辺)での茶の生産・流通について触れている。なお文章番号は便宜的につけた(以後同じ)。

【史料一】『川邊村郷土誌』
(一)「延享年間(二四〇四※)煎茶蒸茶各々少し宛(ずつ)江戸御用として買入度に付風味茶として差出べき様寶福寺に申付けらる」
(二)「寛政九年(二四五七)二月十五日茶園仕立方被仰渡候に付苗木二千三百八十株を新に植附其旨届出たり」
(三)「文久三年(二五二二)正月町名子源右衛門の子與八へ茶、卵一手買ひ纏め方差許され錢四十二貫文宛上納することを許可せらる」
(※原文ママ。皇紀による換算。以下同様。西暦換算では、延享年間=1744〜47年、寛政九年=1797年、文久三年=1863年。)
【史料二】『川辺町郷土誌』
(一)「熊ヶ岳の宝福寺では茶を毎年藩に上納して銭一貫文ずつを賜ったという」

これらの記載は、郷土誌編纂の際に何かの史料から抜き出したものと考えられるが、その原典を探し出すことが出来なかった。『旧記雑録』ではないかと考え、該当の年代を一ページずつめくりながら確認してみたがこれらの記事は存在していないようだ。原典史料をご存じの方は御高教いただけると有り難い。

原典史料が不明であるため、本来はこれらの記述はいくらか留保して考えなければならない。正確に原典を転記していないかもしれないし、原典史料の信頼性が低いかもしれない。しかし郷土誌編纂時には多くの人がチェックしたはずであり、ある程度確かなものとみなせると思う。

またこの他、【史料二】には、直接宝福寺に言及したものではないが次の記述がある。

【史料二】『川辺町郷土誌』
(二)「万治元年(一六五八)の検地では、田部田村に茶一斤二百三十匁が記録され、享保九年(一七二四)の内検では両添村に茶九十匁を生産したことになっている」
これらの記述から宝福寺での茶栽培について読み取れることを少し考えてみたい。

まず【史料一】(一)では、延享年間(1744〜47)に「煎茶蒸茶」を「江戸御用」として買い上げたいので「風味茶」を宝福寺に差し出すよう申しつけている。「江戸御用」が、江戸の藩邸における藩主の「御用茶」なのか、将軍に献上する「将軍家御用茶」なのか判然としないが、いずれにしても最高級品の茶が求められることは間違いない。当時の宝福寺では、薩摩藩内において最高級品の茶が生産されていたということになる。ちなみに、鹿児島県内で同じく茶が栽培されていた寺院として吉松の般若寺(真言宗)が知られている。『三国名勝図会』の「吉松」の項(巻之四十一)には次の記載がある。

【史料三】『三国名勝図会』(巻之四十一)
(一)[物産]「茶 當郷諸村の内に多く産す、名品種々あり、本藩の内、茶の名品は吉松、都城、阿久根を以て、上品とす、其の内にても吉松の産は、往古より特に久しく名品を出す、凡そ當郷の地は、茶性に相愜(かな)ひ、茶種を蒔ざれども、山林の間、天然に生じ易し、その名産ある推て知るべし」
(二)[般若寺]「茶園 當寺の境内に多し、名品にして、世に是を賞美す、名を朝日の森と呼へり」

『三国名勝図会』編纂の時点(天保期(1831〜45))では、既に宝福寺の茶は名品ではなくなっていたということなのか、または地域の特産品と呼べるものではなかったからなのか、宝福寺の茶についてはこの記事では触れていない。

なお【史料一】(一)の「煎茶」と「蒸茶」の違いはよくわからないが、少なくともこの頃の宝福寺のお茶は抹茶ではなかったようである(全国的な趨勢としても江戸時代には煎茶が一般的になっていた)。

次に【史料一】(二)を見ると、寛政九年(1797)に茶園の仕立て方について藩から申し渡しがあり、苗木2380株を新に植え付けた旨を届け出ている。これは宝福寺の茶栽培が実質的には藩の支配下にあることを示している。実際、それから数年後の文化期(1804〜18)には、薩摩藩は茶を藩の専売事業に位置づけ、この頃から藩の強力な奨励がなされている。しかしながらこれは逆にいえば自由な取引を禁じることでもあったので、あまりうまくいかなかったと言われている(以上『鹿児島県茶業史』による)。

また茶の苗木を2380株植え付けたということについては、当時は今のような密植が行われることはなかったと考えられるし、現代の茶園の標準的な植え付け本数が反当たり1500〜2000株であることを踏まえると、2反(20a)ほども増産したように見受けられる。機械化が進んだ現代ではこの程度の増産は容易だが、当時は全てが手作業であるためかなり力を入れた新植だったと思われる。

次に【史料一】(三)では、文久三年(1863)に町人と見られる与八が茶・卵の「一手買い」、つまり独占的な買い占めの権利を得て、その許可料が年銭42貫文だったとしている。これは宝福寺の茶とは書いていないので、ここで与八が「一手買い」を許された茶がどこで生産されたものだったのかは明確ではない。しかしながら、薩摩藩では茶を専売品にする以前から、茶には高額な税金がかけられていたので、民間の換金作物としてはあまり生産されていなかったと考えられる。また薩摩藩では、この記事の三年前である万延元年(1860)に茶の専売制度を解いて自由販売品にしている(『鹿児島県茶業史』)。そうした状況証拠からすれば、この記事は町人の与八が宝福寺の茶の卸売りの権利を得たというように読めると思う。

ところで【史料二】(一)では、年代不明ながら宝福寺では毎年藩に茶を上納し「銭一貫文」を賜ったというが、銭一貫文とは銭貨1000文のことで、現代の貨幣価値にするとだいたい1万円強になる。江戸時代のどのあたりを換算の基準にするかにより上下するるにしても、たいした金額ではない。文久三年(1863)に与八が茶の一手買いの権利を年額42貫文で手に入れたのを見ても、藩から下賜される金額としてはいかにも小さい。これは史料の誤記ではないかと考えられる。

最後に【史料二】(二)では、これらの資料中で最も古い年代である万治元年(1658)に、田部田村では茶が一斤230匁=約1.5kgが生産されていたと述べている。田部田村の検地結果であり宝福寺の茶生産ではないが、近世以前において茶の栽培が寺院を中心に行われていたことを考えると、宝福寺での茶栽培はこれに先駆けることは間違いないように思われる。

これまでの史料をまとめると次のように言うことができる。即ち「宝福寺の茶は少なくとも江戸時代の初期には栽培されており、江戸時代半ばには藩内における最高級品であった。しかしやがて『三国名勝図会』等でも特筆されるものではなくなっていき、十八世紀末には藩の強い統制を受けて増産するものの、やがて販売自由化された」ということになろう。そして明治初期の廃仏毀釈によって宝福寺が廃寺になることによって茶栽培も終了したのである。

(つづく)

【参考文献】
『鹿児島県茶業史』1986年、鹿児島県茶業振興連絡協議会編

 ※冒頭写真は宝福寺跡に今も自生するチャノキ

2021年11月11日木曜日

南さつま市議選。政策を「選挙公報」から見る

南さつま市議会議員選挙が行われる。この過疎地大浦町でも、(意外にも)連日街宣車が走り回っている。

前回、前々回の市議選では、私は議会の一般質問の数から議員の働きぶりを見てみる、という記事を書いた。

【参考】
「立候補しなかった人」の責任 (2017年)
「南さつま市 市議会だより」で市議の働きぶりを垣間見る (2013年)

しかし今回は有り難いことに約半数が新人の立候補である。これまでの議員の働きぶりを見るのにも意味はあるが、今回のように新人が多い場合には選挙への向き合い方としては偏っているので、今回は一般質問の数の分析は辞めることにする。

ところで、先日ある立候補者の方が、「市議選ももっと政策論をしなきゃならないのに、そういう話が全然無いのはよくないですよね〜」とぼやいていた。ところが、この人自身が街宣車での呼びかけばかりで、全然政策論を言わないので「そう思うならまず自分がしてくださいよ」と言ってしまった(笑)

でも、ここのような田舎町の市議選だと、実際ほとんど政策論など出てこない。まず市長の力が強大なので市議の力で実現できる政策があまりないということがあるし、選挙活動のメインが電話での投票依頼だから、ということもある。

そういうやり方がそれなりに働いていた時代はあったにしろ、「地方創生」が叫ばれている現在、市民→市議→市政というボトムアップ型のまちづくりが重要になってくると思う。となると、やはり市議の持っている政策的方向性はしっかり見た上で投票したい。

ところが先述のとおり選挙運動といえば「皆様お疲れさまです。○○をぜひよろしくお願いします。南さつま市のために頑張ります」みたいな街宣しかないので、どうも政策が分からない…と思っていたところ、「選挙公報があるじゃないか」ということに気づいた。

選挙公報には街宣車では言わない(正確には公選法の規定で「言えない」)いろんなことが書いてある。投票に当たってかなり参考になりそうだ。というわけで選挙公報から各候補の掲げる政策を全部抜き出そうとしたが、そうするとあまりに長くなるし、候補毎に記述のスタイルが違いすぎるので、思い切って次の方針でまとめてみることにした。

【方針1】選挙公報で最初に掲げている政策(以下「第一政策」という)を取り上げる
【方針2】スローガン的なもの(住みよい南さつま市へ! とか)や政治家としての理念は政策とみなさない
【方針3】図で表示されていてどれが第一政策なのか不明な場合、左上のものを便宜的にそれとみなす
【方針4】独断と偏見でコメントを付け加える

この方針の下でまとめたのが次の一覧である(届出順)。せっかくまとめたので、皆さんの投票行動に参考になれば幸いである。

坂本 あきひと

【第一政策】魅力ある街づくり
【コメント】そもそもこれが政策なのか迷った。ちなみに次は「スポーツを通した交流活動」だった。

山下 みたけ

【第一政策】ムダを徹底的に省き、行政改革を!
【コメント】これの具体策の一つとして「イベントなどの費用対効果の吟味を徹底」とある。砂の祭典について言っているのかもしれない。

松元 正明

【第一政策】(基本理念のみのため記載無し)
【コメント】基本理念の一番が「変えられないものは変えられないとして受け入れる心!」とあり、これが非常に独特。保守ということが言いたいのだろうか。しかし保守なら普通は「変えてはいけないものは変えない」となりそうなのにちょっと不思議だ。

きじま 修

【第一政策】交通弱者対策
【コメント】紙面では実際には理念の方がずっと大きく表示されていて、理念の1番は「変革する勇気」。松元氏と好対照。

清水 はるお

【第一政策】県内で一番高い介護保険料の引き下げを!
【コメント】これはずっと清水氏が主張してきたことである。ちなみに他の項目も非常に具体的な提案が多い(例:特老「和楽園」、坊津病院は公営で存続を)。個人的には「超大型洋上風力発電計画は中止」が好印象。

神浦 由美子

【第一政策】より子育てしやすいまちに!
【コメント】具体策の筆頭(と判断できる位置)に「男女共同参画の推進」とあるのがいい(全候補者中唯一)。なお政策ではないが、神浦氏は街宣車を使わずゴミ拾いしながら歩いて選挙活動をしているのがグッド。

竹内 ゆたか

【第一政策】高齢者や子供たちが住みやすい町にする
【コメント】具体策をみてみると、実際には高齢者向けが中心。ちなみに具体策の筆頭は「見守り活動」と「ゴミ収集支援」。

田中 ひろみ

【第一政策】安全で安心して暮らせます(仕事・防災・救急・福祉・教育)
【コメント】カッコ内筆頭に「仕事」とあるが、これは安全・安心とどう繋がっているのかよくわからない。ちなみにこの方は阿多自主防災組織会長・阿多消防協力会長らしく、防災には力を入れているようだ。

小園 ふじお

【第一政策】なにより、健全財政
【コメント】健全財政を強く訴えているのは小園氏のみ。そのうえ「なにより」とつけているのが特徴的。こういう方も議会には一人はいないといけないという感じがする。

おつじ さちお

【第一政策】子どもの見守り
【コメント】これに続いて「児童虐待、ネグレクト、いじめから子どもを守る環境を作っていきます」とあり、普通は「子育てしやすい環境づくり」とかなのに、厳しい境遇にある子どもを守ろうということを第一に掲げているのが目を引く。個人的な経験からきたものなのかもしれない。

すわ 昌一

【第一政策】(基本理念のみのため記載無し)
【コメント】「密を避けるためマイク要員をお願いしていません」等、コロナ禍対応の選挙活動をすると書いているのが特徴。

ひらがみ 純子

【第一政策】市民の感覚を忘れません
【コメント】これは「私の約束」とされておりこれが政策なのか微妙だが、2番目が「女性や弱者、少数派の意見を届けます」なので政策と判断した。「私の令和2年度の議員報酬は4,809,217円です。大切な市民の税金です。4年間の活動を審査してください」と書かれていたのがちゃんと「市民の感覚」を体現している。

神野 たかし

【第一政策】自然災害への防災予算を確保し、「事前防災対策」を
【コメント】2番目には「吹上浜沖洋上風力発電事業計画中止」が掲げられている。この方は当該事業への反対署名を集めた団体の事務局長を務めている。

石原 てつろう

【第一政策】第一次産業の育成を図ります
【コメント】ちなみにその具体策の一つは「特産物の販売促進に力を入れます」。全体的に非常にすっきりと重点政策がまとまっている見本のような選挙公報。

上野 あきら

【第一政策】農業を基本とした地域づくり
【コメント】候補者の本業は茶農家のようだ。「農業を基本とした地域づくり」が何を示しているのかいまいちわからないが、農家が中心になって地域おこしをしようということのように思われる。 

上村 研一

【第一政策】「コロナ災禍」分散型社会への転換時期
【コメント】全候補者中、おそらく最も文字数が多く、いろいろな分野のことが非常に短い言葉で書いてある。

大原 としひろ

【第一政策】子育て支援
【コメント】ただし政策列挙の前の文では「コロナ禍を乗り越えることが喫緊のテーマ」としており、何が第一政策なのか判断に迷った。

小薗 いくや

【第一政策】健康で安心できる暮らしの明日を考える
【コメント】「ふるさとの明日を考え、提案します」ということなので、政策というよりはこれからジックリ考えていきたいということなのかもしれない。

かとう あきら

【第一政策】より子育て世代にやさしい市へ
【コメント】全候補者中、唯一ちゃんとしたWEBサイトを開設していて、総花的であるが政策がしっかり掲載されている。職業が「冒険家」でぶっとんでいるのに内容は王道(笑)

くろせ 家盛

【第一政策】一次産業(農林水産業)の振興
【コメント】全候補者中、唯一の漁協関連の人。政策とは関係ないが、名前の「家盛」を何と読むのかわからない。名字じゃなくて名前の方をひらがなにすればよかったのにと思った。


以上、候補者20名の選挙公報を熟読した結果である。これまで選挙公報は「みんな似たようなことが書いてある」と思っていたが(いや、実際大同小異なのだが)、熟読してみると意外と個性が出ていて面白いと思った。みなさんにも選挙公報を熟読するのを勧めたいと思う。

なお、上記の一覧について、私が恣意的にまとめている部分があるんじゃないかと思った人もいるかもしれない。というわけで、検証のために選挙公報のコピーを掲載する(※順不同)。ただし公選法において、選挙公報をネットにアップすることの可否がよくわからなかった(そもそも想定されていないような感じ)。もしダメならご指摘いただければ幸いである。

 












2021年8月11日水曜日

小学校のPTA会長になりました

実は今年度、小学校のPTA会長になってしまった。

もちろん、人望があって選ばれた…とかではない。うちの娘たちが通う大浦小学校は全校の児童が約50人しかいない。保護者の数は30組くらいだったと思う。

PTA会長は6年生保護者から選ばれるとは決まっていない…のだが慣例的に6年生保護者が多い。うちの娘も、はや小学6年生。というわけで、いわば「順番」で回ってきたというのが実態である。

小さな小学校の場合、PTA役員をやらされる(確率が高い)というので敬遠する人がいると聞くが、小さな小学校のPTAの場合、PTAの役員も結構ラクである。メンバーには気心が知れた人が多いし、メンバーが少ないから連絡の手間もあんまりない(まあ最近はLINEとかでの連絡が多いが)。

ところが、PTA会長になるとやたらと会議があってこれが大変なのに、なってから気づいた。しかもその会議が、「こんな会議いるの??」というのが多い。

先日は、「第1回 南さつま市校外生活指導連絡会」という会議に出た。この会議は何かというと、校外生活指導……いわゆる「補導」の共通化を図るためのものである。

なぜ「補導」の共通化が必要かというと、例えばある地域では「午後7時以降は子どもだけで外出してはいけない」といった決まりがあるとする。7時半にコンビニの駐車場でたむろしている中学生に対して「こら、こんな時間にダメじゃないか」と「補導」した際、その子どもたちが隣の学区から遊びに来ている子どもたちで、「うちの地域だと8時まではOKとなってるんですけど?」と反論される場合がある。…だから共通化が必要、ということらしい。

特に夏は、夏祭りなどで遅い外出が多くなるので、それに先だって今の時期にこういう会議が行われるとのこと。

しかしながら地域の実態を考えると、こういう会議は不要である。なぜなら、大浦のような南薩の過疎地域には、「補導」の主な舞台であるゲームセンター、ボーリング場、カラオケボックスなどない。それどころかコンビニもなければ夏祭りもない(←コロナ禍だからないのではなくて元からない)。いわゆる「不良」がたむろするような場所がない…というか、不良少年少女がいない。というか子ども自体がいない。「補導」なんかいらないのだ。

南さつま市全体で言っても、「補導」が必要に思えるのは加世田中心部のみで、それにしても鹿児島市内の事情とはずいぶん違う。

そもそも、少年少女の「非行」を防がなければならないとして、もはやそれの主戦場はSNSなどバーチャルな世界に移行している。もちろん「補導」が必要な地域は未だにあるだろうが、特に田舎の場合はバーチャルの比重が大きいのだから、 こういう会議は全く不要だと思う。

じゃあ、なんでこんな会議が行われているのか? もちろん前時代からの名残ではあるのかもしれない。でもそれにしても、大浦なんか昭和40年代から過疎化しているところなので、「補導」が必要だった時代があるのか疑わしい。

実はこの会議にはもっと実務的な背景がある。それは、学校の先生にとって「補導」は職務ではない、ということだ。公立学校の教職員に超過勤務を命じることができる4原則というのがある。それは、

・実習
・学校行事
・職員会議
・非常災害などに必要な業務

である。「補導」はこのどれにも当たらない。だから学校長は先生に対して「夏祭りがあるから○月○日、××先生は補導をお願いします」とか命じることができない。もちろん、個々の先生が善意で補導活動を行うことはできるがそれは職務に位置づけられないボランティア活動である。

しかし現実に「補導」が必要な場所がある。夜遅くにゲームセンターで遊んでいる子どもは、家庭や友だち関係になんらかの問題を抱えていることが多く、ある意味では「補導」はそうした子どもに適切な支援を繋げていく機会となっている。

そこで鹿児島県では(というか多くの都道府県で同じだと思うが)、「補導活動」に対する予算を組んで、「補導」を行う先生に謝金を払う仕組みを作った。校長から命じられる通常の職務ではなく、県からの委託事業として「補導」を位置づけたのである。

ところが県が個々の先生と委託契約をするのは面倒だしあまり意味もない。そこで、各地に「校外指導連絡連絡会」みたいなのを作って、そこに補助金として予算を流すことにした。そして個々の先生には「連絡会」の方から謝金が支出されるのである。この会は、そのために存在しているといっても過言ではない団体なのである!

そして、各学校のPTA会長が、「こんな会議いるのかな〜?」と思いながらもその会議に出ている、ということになる。

この会だけではなく、そういうのが昔ながらの会議には多い。いや、最近出来た会議にもそういうのが多い。

現実的な課題解決に繋がるものだったら、大抵の保護者は喜んで参加する。しかし形式ばかりで、中身のない会議をやるからPTA活動が面倒なものに思うのである。

しかも現実の課題解決には繋がらない、というかむしろ現実を見てもいないのに、こういう会議はやたら大仰で立派な大義名分を掲げている。なんだかその態度にしらけてしまう。

そんなわけで、PTA会長になってみて一番思ったのは、「無駄な会議多すぎ、現実見てなさ過ぎ」ということなのだ。

「校外生活指導連絡会」みたいな会議には正直あんまり出たくないが、不登校や学級崩壊やDV被害や困窮家庭問題など、具体的な問題を解決していくための活動なら、PTA会長として微力ながら尽力していく所存です。

2021年2月26日金曜日

もうひとつの世界

娘から「お父さんは本なら何でも買ってくれるよね」と言われる。

自慢じゃないが(って本当に自慢じゃないが)、うちは貧乏である。世帯年収が150万円くらいしかない。田舎じゃなかったらとてもじゃないが生活できないレベルである。でも、子どもの本は割と気軽に買う。

勉強が出来るようになって欲しいとか、国語力がつくようにとか、物知りになって欲しいと思ってやっているわけではない。まあ、ちょっとは「文学に親しんで欲しい」という気持ちもあるが、ラノベみたいな本だって買ってあげるのにやぶさかではない。

なぜって、本は、我々が必要な「もうひとつの世界」をくれるものだからだ。

実は、娘には小さい頃、「もうひとつの世界」があった。所謂「イマジナリーフレンド(見えない友だち)」である。こちらに移住してきてから1年くらいの間、3歳だった娘は保育園でも特定の先生以外とは誰ともしゃべらず、もっぱら一人の世界に没入していた。ところが彼女の中ではそれは一人ではなく、見えない友だちがいたのである。

彼女は本当にその友だちが実在していると考えていて、一度親を連れ回して友だちの家に遊びに行こうとしたことがある(当然、家はみつからなかった)。

「今日は○○はこんなこと(←大抵は失敗)をした。○○はとてもナントカが好きなんだ。○○はいうことを聞かない」——娘からは、毎日、見えない友だちについての事細かな話を聞かされた。それは彼女にとって紛れもなく現実に見聞きした話だった。

もしかしたら、こういう話は少し異常に聞こえるかもしれない。でも実は、イマジナリーフレンドの存在は小さい子どもにはよくあることで、正常な発達過程に起こることである。ただ、その時には、彼女にとって移住後に激変した暮らしが、少しばかり受け入れがたいものだったのかもしれない、というのも事実である。

いや、仮に現実が受け入れがたいものでなくても、それどころか毎日が充実していたとしても、子どもでも、大人でも、我々は「もうひとつの世界」へ気軽に赴いて、少し羽を休めてみるということが、断然、必要だと私は思う。

もちろん「もうひとつの世界」は、人それぞれ違う。コスプレがそうだという人もいる。マンガを描いたり、ギターを弾いたり、温泉に入ることの場合もある。それは、ただ「趣味の時間も大事だ」ということではない。そうではなくて、この冴えない現実とは違った論理で作られた世界に身を置くことが、人間にはぜひとも必要なのである。

私にとって、それは本の世界だった。

どんなに忙しい時でも、寝る前のたった5分だけでも、私は本を開く。そうすると、嫌なことがあった日も、逆に浮かれて興奮していた日も、なにか憑き物が落ちたかのように心が静まり、安心して眠りに落ちることができるのである。

私の毎日はもちろん冴えないものだが(じゃなかったら年収150万円のわけがない)、かといって失敗の連続とか、ストレスが絶えないなんてこともなく、地味に穏やかに過ぎていくもので、それなりに満足している。ところがやっぱり、私から読書の時間を奪ったら、たぶん窒息してしまうだろう。この現実世界だけが、私の生きる世界なのであれば。

例えば、今読んでいる本はこんなところだ。

まずは最近出版されたジェームズ・フィッツロイ『ガメ・オベールの日本語練習帳』。これはTwitterでの友人が上梓した本。日本語が素晴らしく、しかも内容が深遠であり、もはや日本語の歴史にとって「事件」とも呼べるような本である。でも大切な本なので一度にあまりたくさん読まないようにしている。落ちついた時ではなく、ちょっとした空き時間に開く本である(そうしないとたくさん読んでしまうし)。

寝る前に読むのは、山本七平『現人神の創作者たち』。この本は江戸時代の儒者の正統に関する思想を読み解く本で、引用文の割合がものすごく大きい一方で解説は少ししかないので、けっこう難しい。この本は毎日3ページくらいずつ読んできた。もうすぐ読み終わる。

峰岸純夫編『家族と女性(中世を考える)』は、歴史上、女性の宗教活動はどのように行われてきたのだろうという興味から手にとったもの(本書のテーマは宗教ではないが)。論文集なのでこれもちょっとした空き時間に読んでいる。読書というよりは勉強的な本である。

それから、コーヒーを飲みながら読んでいるのは、『諸子百家』(筑摩 世界古典文学全集の一冊)。古典はコーヒーをお供に読むに限る。これも一度にたくさん読むことはなく、1節毎を味わいながら読む。「墨子」「荀子」「管子」と来て、つい昨日「韓非子」に入ったところである。

最後に、この頃は途中で止まってそのままになっているが、スタンダールの『パルムの僧院』(生島遼一訳)。これは面白くなくて止まっているのではなくて、あんまりにも面白いので、簡単に読み終わりたくなくて止めている(笑)この本は落ちついた時に開きたい。でもその「落ちついた時間」がなかなかないので読めずにいる、という面もある本である。

こういう紹介の仕方をすれば分かるとおり、本の中に「もうひとつの世界」があるのではない。私が言っている「もうひとつの世界」は、本の中に描かれるファンタジー的な世界ということではなくて、本を読むことそのもので展開されていく、現実の日常生活とは違うレイヤーに存在する世界のことである。リアルとは違う「別の人生」と言い換えても良い。

そして、こういう本たちは、私の日常生活の一切に、ほとんど何の関わりももたない。時には仕事上の必要から本を読むこともあるが、基本的に私は「役に立たない」本ばかりを読んでいる。どうやら私の「もうひとつの世界」には、役に立つものはあまり存在していないらしい。いや、たぶん、ほとんどの人の「もうひとつの世界」は、現実には無用なものばかりが楽しく溢れかえっているのが普通だ。

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このたびクラウドファンディングで、近所の空き家を「古民家ブックカフェ」にするための資金集めを始めた。

これは、田舎に徹底的に不足している「もうひとつの世界」の一部を具現化する試みでもある。田んぼと畑と山、学校と家、それからスーパーとガソリンスタンドだけがあるような田舎に育つのは、それはそれで悪くはないが、それだけだったらやっぱり窒息するんじゃなかろうか?

大げさな話かもしれないが、この「古民家ブックカフェ」が、誰かにとっての「もうひとつの世界」の入り口になれたら、と夢想する。森のような木々に囲まれ、古い記憶にあるおばあちゃんちのにおいがする、本がたくさん並べられた空間。冴えない日常から離れて、ほんの少しだけ身が軽くなるような、そんな場所ができたらいい。

「見えない友だち」と会えるような場所に。

 

 ↓クラウドファンディングへのご支援はこちらからお願いします。

2021年2月18日木曜日

日本のどこにいる人でも、蔵書数20万冊の図書館にアクセスできるように

「趣味はなんですか?」と聞かれたら、「調べもの」と答えている。

私の趣味は読書だと思われることもあるが、実はそんなにたくさん本を読むわけではない(年間にせいぜい40冊くらい)。そして、面白い本を読みたいという気持ちはほとんどなく、「あれってどうなってるんだろう?」と思って情報を求めて本を開くことがほとんどだ。

だから、自分で本も買うが(というより買える本は買って読む主義)、図書館も意外と使う。意外とどころか、何か本気で調べようと思ったら、すぐ買えるような本には載っていないことが大概だ。どうしても図書館の本に頼らなければならない。

資料のあたりがついていれば、国会図書館の遠隔複写サービスを使う。郷土資料だと、鹿児島県立図書館の遠隔複写も時々使う(でも、県図書の場合は料金を切手(か定額小為替)で送るという非効率的な支払い方法なのであまり使いたくない)。でも複写箇所がわからない場合が多数なので、やはりリアル図書館に行って調べないといけないことも多い。

だが、ここで問題がある。南さつま市の図書館が、貧弱すぎるのだ。もちろん、相互貸借(図書館が別の図書館から本を借りること)によって取り寄せることもできる。しかしその費用を負担しないといけない場合があるなど、気軽には使えない。やっぱり、手近に蔵書が豊富な図書館が必要だ。

そもそも都市と地方には、インターネットなどでは埋めようもない絶望的なまでの情報格差がある。それは、世界の多様性に関する認識の差を形成している。この情報格差を埋めるためにも、図書館の充実は大事である。図書館は、一人ひとりの多様な関心に応え、知らない世界への扉を開き、知りたいことを深めていく場所である。

ところで、もうこちらに移住してきてから約10年になるが、移住前に住んでいたのが神奈川県川崎市の高津区というところ。家から歩いて10分に高津図書館があって、時々足を運んだ。

実は、この高津図書館、住宅街の中にある図書館なのであるが、開架資料だけでいえば、鹿児島県立図書館並みの規模がある。もちろん高津図書館が特別なのではなくて、関東地方ではそのくらいが平凡な規模だ。そして蔵書数もさることながら、特に視聴覚資料(CDとか)は鹿児島の図書館とは全く比べることができないくらい充実している。図書館でCDが借りられるのでツタヤはいらないっていうくらいである。

こういう図書館に気軽にアクセスできるのは、それだけでアドバンテージだと私は思う。ただでさえ地方の子どもは不利な立場に置かれているのに、教育・文化の面で格差が再生産されるのはいただけない。

「どうせ鹿児島は文化のない野蛮な土地柄だから」と人はいうかもしれない。しかし、実はそうでもない。

試みに、高津区と南さつま市の図書館事情を比べてみるとそれが明白になる。公表された統計資料(平成30年度〜令和2年度のデータで構成)をもとにグラフを作ってみた。

 

川崎市高津区と南さつま市の図書館事情比較

蔵書数は、高津区の方が約29万冊で南さつま市より10万冊以上多い。なおグラフにはないが、図書館ごとで比べると、南さつま市で一番大きな加世田図書館の蔵書数が7万5000冊ほど。一方、高津図書館は約25万冊あるので、3倍以上の規模の開きがある。

もちろん、人口が全然違うのでこれは当然だ。高津区の人口は23万人以上あり、南さつま市と比べると20万人多い。ついでにいえば、南さつま市は高津区に比べ面積が17倍もあって、図書館が分立しているから、ただでさえ少ない蔵書がさらに分散している。

では、一人当たりの蔵書数で比べるとどうか。これが調べてみると面白いことで、実は南さつま市の一人当たりの蔵書数は3.80冊で、高津区の約3倍あるのである。

とすると、南さつま市は田舎で文化のない土地だから図書館が貧弱だ、とはいえない。それどころか、高津区に比べ一人当たり3倍も図書館にお金を使っているともいえる(本当は図書の予算決算で比べる必要があるが、その情報が手元にないのでだいたいの話) 。

要するに、南さつま市の図書館が貧弱なのは人口が少ないからであって、図書館にかける行政の熱意(予算)が少ないためではない、ということだ。

でも、図書館の価値は住民一人当たりの本の冊数で計れはしない。それどころか、人口100万人の都市でも、人口1000人の村でも、そこの図書館にあるべき本の冊数・多様性は同じだと私は思う。それは、図書館が住民の「知的な自由」を保障する場であるからで、田舎だからといって知的に不自由するのは仕方ないと諦めてはならない。

では、「知的な自由」を保障できる冊数はどれくらいかというと、日本語だとだいたい20万冊くらいだと思う。別に根拠はないが、いろんな図書館に行ってみての実感だ。これよりも少なくなると、世界の多様性を十分に蔵書で表現出来なくなり、知的世界へのアクセスに不自由をきたす。特に10万冊以下だとそれは非常に限られたものになる。

だから、「日本のどこにいる人でも、蔵書数20万冊の図書館にアクセスできること」が図書館行政の目標であるべきとだ、と私は思う。

でも南さつま市で20万冊の蔵書を揃えたら、一人当たり蔵書数はほぼ6冊。こんな予算はとても組めるものではない。

じゃあ、どうするか。答えは一つしかない。図書館を広域行政化するのである。

例えば南さつま市、南九州市、枕崎市が共同で図書館を運営すれば、蔵書数は30万冊を超えると思う。もちろん単純に蔵書数を足し挙げるだけでは、すぐに蔵書の多様性が増えるわけではないが、各市が独立するよりもずっと事態は改善される。さらに各館ごとに揃えていた資料が1つで済む場合も多いので、予算も節約することができる。

こういう広域行政化は、既にいろんな分野で行われている。例えば、ゴミ焼却場、屎尿処理場といったものである。市町村が組合を作って共同運営するのである。もちろん図書館でも、市町村連合によって他市町村の図書を相互に借りられる仕組みはすでに各地である(例:福岡都市圏(17市町で構成される連合))。

ただ、ただの市町村連合の場合は、選書などは各市町村でやるため、必ずしも規模の経済がきくわけではない。やはり市町村組合のようなもので共同運営することがよいと思う。

ちなみに、組合立図書館のススメは、1963年(昭和38年)に『中小都市における公共図書館の運営』というレポートで述べられ、ごく少数ではあるが設置されたことがある。ただその頃はどんどん経済成長していく局面だったので組合立にしなければならない予算面の事情がなくなっていったことと、図書館業界でも賛否が分かれたらしく普及しなかった。

だが今は、指定管理者制度の普及、図書館司書の非正規雇用化、予算の減少などで図書館業界が非常に苦しい局面になっているので、組合立図書館のメリットは大きくなっていると思う。

ところで、これから、南さつま市には南薩地区衛生管理組合のゴミ処理場が出来る(南薩地区新クリーンセンター(仮称))。この組合は、枕崎市、日置市の一部、南さつま市、南九州市で構成されるものである。今のゴミ焼却場は、大量のゴミを処分でき、むしろ燃やすゴミが少ないと非効率になるため広域連携が普通になってきた。こういう連携が広がることはいいことだ。

ゴミ処理に広域連携ができて、図書館にそれができないわけがない。南薩各市の行政のみなさんに、ぜひご検討いただきたい。

2021年2月16日火曜日

大浦小学校で学びませんか? 大浦町への移住のススメ

来年度から、大浦小学校の3・4年生が複式学級になる。

「複式学級」とは、2学年の合計が17名に満たない時に、学年を合併して設置されるものである。要するに、3・4年生が一つの教室で、一人の先生から学ぶ。片一方に問題を解かせている間にもう片方に教える、という感じの授業をやるということだ。

大浦小学校の来年度の3・4年生は合わせて15名。あと2人足りない。実はうちの次女が来年の3年生。このままだと、次女は複式学級で学ぶことになる。

といっても、複式学級は、悪いことばかりではない。

一番いいのは、子どもたち同士の教え合いがあることで、これは普通学級よりも優れた点であるとさえいえる。それに、鹿児島のような過疎地では既にかなり多くの複式学級が設けられているので、先生方の指導の経験も豊富である。複式学級は何が何でも避けるべきものではない。

とはいえ、できれば普通学級の方がいい。というのは、担任の先生の負担が大きいからである。2学年教えても給料が2倍になるわけでもない。子供にとっては悪いことばかりではないが、先生にとっては負担増でしかないのが「複式学級」である。だから出来れば避けたい。

それに、規定の人数に7人も8人も足りないのならすぐに諦めるが、足りないのは2人。2人の転入があれば普通学級になる。

そんなわけで、ダメもとは承知で「大浦小で学びませんか? 大浦町に移住しませんか?」とブログで訴えてみることにした。

【参考】大浦小学校
http://www.minamisatsuma.ed.jp/jr/oourasyo/02burogu.html

大浦小学校の児童数は大体50名強くらい(来年度の人数はまだわかりません)で、1学年は大体10人くらいである。教室も広々使えるし、校庭や体育館もゆとりがある。当然、ソーシャルディスタンスはバッチリである。

コロナ対策関係なく、施設を広々使えることは子どもたちの心にいい影響があると思う。また、校庭は全面芝生なのが先進的で、すごく気持ちがいい。

施設面は、広々使えるだけでなく内容も充実していて、昨年度には全教室にエアコンが配備された。トイレも改修されてとってもキレイである(当然洋式)。個人的には、もうちょっと図書室の蔵書が充実するといいなと思っているが、児童数との比率で考えると新刊本は多く、図書室も充実している方ではないかと思う。

そして、大浦小学校のよい所は、児童全員が名前で呼び合うところで、和気藹々(あいあい)とした雰囲気だ。どうして名前で呼び合うのかというと、大浦の地元民には限られた姓しかないので、例えば一学年10人しかいないのに徳留さんが2人いたりする。だから自然と名前で呼び合う文化が、何十年も前からできていた(多分創立時からだと思う)。 

もちろん、名前で呼び合うからといって仲良しばかりとは言い切れないが、大浦の子どもはのびのびしていて、あまりギスギスしていないことは事実だ。自然豊かで広々とした環境は子ども(だけでなく大人も)の精神を落ちつけると言われているがそれは本当だ。

では大浦小のよくない点は何かというと、私が思うに英語教育が本当にダメである。小学校の英語教育は始まったばかりなので、他の小学校と比べてどうなのか評価できないが、都市部の小学校と比べればかなり見劣りがするのは否定できない。

あと、少人数であるためのデメリットはもちろんある。例えばクラブ活動の種類が限られたり、チームスポーツがルール通りに出来なかったりすることである(1学年10人くらいだとサッカーの試合なんかはできない) 。でも少数の天才を除いて小学校の頃からスポーツ漬けになる必要はないので、それほど大きなデメリットではないと思う。

そしてこれは大人側の事情だが、保護者の人数が少ないのでPTAの役員がすぐに回ってくるのもよくない点である。しかし、大浦の場合はほとんど全て地の人で構成されているので、PTAとかにはみんな協力的で運営はスムーズである。ベルマークの集計みたいな徒労的作業もない。

どうせ田舎の遅れた学校でしょ? と思うかも知れないが、実はそれほど遅れた考えはなく(例えば運動中に水を飲むなとか、かけ算の順序がどうこうといった類)、何より先生たちの雰囲気がユルい。なお大浦小は、先生たちにとっては人気の場所であるらしく、楽しく授業ができる学校のようである(問題児・問題親が少ないのが理由らしい)。

総合的に言えば、大浦小学校はかなりよい学校だと私は思っている。まあ、いい学校だと思っていなかったら、ここで「大浦小で学びませんか?」なんていうわけがないのだが…(笑)

では、大浦に移住するとなれば、大浦がどんな町かということが気になるだろう。というわけで、私の目から見た大浦町のポイントをまとめてみる。

大浦町は、南さつま市の一部(大字)であり、今の人口は1800人くらい。このブログでもたびたび書いてきたように高齢化率の高さは県内でも有数だ。

でも、意外と若い人も元気なのが大浦のよいところで、田舎にありがちな長老主義(○○さんの言うことは絶対、みたいな)は大浦には希薄である。 

というのは、大浦は集落ごとの独立性が高く、よくも悪くも集落が全ての単位となっているので町全体を支配するような権力が生まれづらい土地である。逆に言えば「町一丸となって」みたいなのはあんまりないのが大浦だ。これは当然、現代的な態度に結実していて、割とみんな他人のことに無関心で、自分のことに没頭しているのが大浦町民だと私は思っている。住民同士の相互監視みたいな息が詰まる雰囲気は大浦にはない。こういうのは都会の人がイメージする田舎とは違うところだと思う。

だから、小学校の児童が少ないことは、子供同士の人間関係が濃密であることを意味し、かえって煩わしい部分があるように思うかも知れないが、大浦の場合は「みんな”仲間”でないとダメ」みたいな空気はあまり感じない。うちの子も、みんなで遊ぶより一人で本を読んでいる方が好きな所があるが、それで浮いちゃったりすることはない(ようだ)。大人数での集団生活になじめない子どもにはいい環境だ。

そして大浦のよいところは、町の中心にスーパーや農協、郵便局、銀行、役場の支所、ガソリンスタンドなどが揃っていて、町を出なくても生活ができるところである(そんなの当たり前じゃないか、と都会の人は思うだろうが、これが出来る町は優秀)。

さらに、加世田(とりあえず生活必需品は何でも揃う地方都市)まで車で30分、鹿児島市までも車で1時間半程度でいけるので、それほどの僻遠の地ではない。うちから最寄りのコンビニまでは車で25分、最寄りの(?)イオンまでは車で1時間20分。「遠いよ!」と思うか、「意外と近い」と思うかはあなた次第である(笑)

ところで私はこちらに移住してくる時、別に深くは考えていなかったが、いろんな地域を見ていると、立地面で「この町に移住してたら後悔したかも」と思うような場所もあることがわかった。例えば、最寄りのスーパーまで車で20分かかるとか、地方都市まで車で1時間近くかかるとなると、生活の質が違ってくると思う。大浦は、鹿児島の本土の端っこの方にあるのは事実だが、生活圏という意味ではそれほど端っこではないのがいいところなのだ。

ただ、大浦には仕事があるのかというと、残念ながら農業と福祉(老人ホーム)以外にはあまり仕事はない。でも加世田あたりに通勤すると考えれば、都会にあるようなオフィス仕事は少ないとしても、それなりに仕事はあると思う。そもそも田舎は慢性的な人手不足なので、職種を選ばなければ生きていくことは出来るだろう。

なお、大浦は僻地なのにもかかわらず光回線は通っているので、インターネットを使った仕事の人も大丈夫である。

しかし、大浦には致命的な短所がある。町内に不動産屋がないので、仮に移住したいと思っても物件を探すことがほとんど不可能なのである。空き家の数は膨大だが、地元の人でもどこの空き家が活用可能な物件なのかよくわからず、さらに家財道具が置きっぱなしになっているなどですぐには使えない空き家も多い。実際、大浦に移住する最大のハードルはここだと思う。

でも諦めるのはちょっと待って欲しい。大浦小学校は、2021年4月から「小規模校入学特別認可制度」の指定校(=特認校)となる。南さつま市の特認校制度は、簡単にいうと「加世田小学校の学区に住んでいる人は、希望すれば特認校に通学できる」というものだ。

【参考】特認校制度(南さつま市小規模校入学特別認可制度)
http://www.city.minamisatsuma.lg.jp/shimin/kyoiku-bunka-sports/gakko/tokunin/e020124.html

なので、加世田小学校区(加世田の中心部及び津貫地区)に住所があれば大浦小学校に通うことができる。

だから、本当に地域外から大浦に移住しようと思ったら、まずは加世田のアパートなどを借り、1年くらいかけて大浦に家探しをするのがいい(PTAの時とかに「家を探してるんです」と言えばどこかで話が繋がるのでは)。多分、家賃はタダみたいな家が見つかると思う。ただし加世田在住の間は、スクールバスはもちろん通学に使える路線バスもないので、送り迎えは親がする必要はある。

というわけで、万が一、この記事を読んで「移住して子どもを大浦小に通わせようかな?」と思った方がいたら、コメント欄で連絡くだされば、私の出来る範囲のお手伝いはします。もちろん子どもが小学3・4年生でなくても歓迎です。

※冒頭写真は、昨年の大浦小学校運動会の様子。