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2021年2月26日金曜日

もうひとつの世界

娘から「お父さんは本なら何でも買ってくれるよね」と言われる。

自慢じゃないが(って本当に自慢じゃないが)、うちは貧乏である。世帯年収が150万円くらいしかない。田舎じゃなかったらとてもじゃないが生活できないレベルである。でも、子どもの本は割と気軽に買う。

勉強が出来るようになって欲しいとか、国語力がつくようにとか、物知りになって欲しいと思ってやっているわけではない。まあ、ちょっとは「文学に親しんで欲しい」という気持ちもあるが、ラノベみたいな本だって買ってあげるのにやぶさかではない。

なぜって、本は、我々が必要な「もうひとつの世界」をくれるものだからだ。

実は、娘には小さい頃、「もうひとつの世界」があった。所謂「イマジナリーフレンド(見えない友だち)」である。こちらに移住してきてから1年くらいの間、3歳だった娘は保育園でも特定の先生以外とは誰ともしゃべらず、もっぱら一人の世界に没入していた。ところが彼女の中ではそれは一人ではなく、見えない友だちがいたのである。

彼女は本当にその友だちが実在していると考えていて、一度親を連れ回して友だちの家に遊びに行こうとしたことがある(当然、家はみつからなかった)。

「今日は○○はこんなこと(←大抵は失敗)をした。○○はとてもナントカが好きなんだ。○○はいうことを聞かない」——娘からは、毎日、見えない友だちについての事細かな話を聞かされた。それは彼女にとって紛れもなく現実に見聞きした話だった。

もしかしたら、こういう話は少し異常に聞こえるかもしれない。でも実は、イマジナリーフレンドの存在は小さい子どもにはよくあることで、正常な発達過程に起こることである。ただ、その時には、彼女にとって移住後に激変した暮らしが、少しばかり受け入れがたいものだったのかもしれない、というのも事実である。

いや、仮に現実が受け入れがたいものでなくても、それどころか毎日が充実していたとしても、子どもでも、大人でも、我々は「もうひとつの世界」へ気軽に赴いて、少し羽を休めてみるということが、断然、必要だと私は思う。

もちろん「もうひとつの世界」は、人それぞれ違う。コスプレがそうだという人もいる。マンガを描いたり、ギターを弾いたり、温泉に入ることの場合もある。それは、ただ「趣味の時間も大事だ」ということではない。そうではなくて、この冴えない現実とは違った論理で作られた世界に身を置くことが、人間にはぜひとも必要なのである。

私にとって、それは本の世界だった。

どんなに忙しい時でも、寝る前のたった5分だけでも、私は本を開く。そうすると、嫌なことがあった日も、逆に浮かれて興奮していた日も、なにか憑き物が落ちたかのように心が静まり、安心して眠りに落ちることができるのである。

私の毎日はもちろん冴えないものだが(じゃなかったら年収150万円のわけがない)、かといって失敗の連続とか、ストレスが絶えないなんてこともなく、地味に穏やかに過ぎていくもので、それなりに満足している。ところがやっぱり、私から読書の時間を奪ったら、たぶん窒息してしまうだろう。この現実世界だけが、私の生きる世界なのであれば。

例えば、今読んでいる本はこんなところだ。

まずは最近出版されたジェームズ・フィッツロイ『ガメ・オベールの日本語練習帳』。これはTwitterでの友人が上梓した本。日本語が素晴らしく、しかも内容が深遠であり、もはや日本語の歴史にとって「事件」とも呼べるような本である。でも大切な本なので一度にあまりたくさん読まないようにしている。落ちついた時ではなく、ちょっとした空き時間に開く本である(そうしないとたくさん読んでしまうし)。

寝る前に読むのは、山本七平『現人神の創作者たち』。この本は江戸時代の儒者の正統に関する思想を読み解く本で、引用文の割合がものすごく大きい一方で解説は少ししかないので、けっこう難しい。この本は毎日3ページくらいずつ読んできた。もうすぐ読み終わる。

峰岸純夫編『家族と女性(中世を考える)』は、歴史上、女性の宗教活動はどのように行われてきたのだろうという興味から手にとったもの(本書のテーマは宗教ではないが)。論文集なのでこれもちょっとした空き時間に読んでいる。読書というよりは勉強的な本である。

それから、コーヒーを飲みながら読んでいるのは、『諸子百家』(筑摩 世界古典文学全集の一冊)。古典はコーヒーをお供に読むに限る。これも一度にたくさん読むことはなく、1節毎を味わいながら読む。「墨子」「荀子」「管子」と来て、つい昨日「韓非子」に入ったところである。

最後に、この頃は途中で止まってそのままになっているが、スタンダールの『パルムの僧院』(生島遼一訳)。これは面白くなくて止まっているのではなくて、あんまりにも面白いので、簡単に読み終わりたくなくて止めている(笑)この本は落ちついた時に開きたい。でもその「落ちついた時間」がなかなかないので読めずにいる、という面もある本である。

こういう紹介の仕方をすれば分かるとおり、本の中に「もうひとつの世界」があるのではない。私が言っている「もうひとつの世界」は、本の中に描かれるファンタジー的な世界ということではなくて、本を読むことそのもので展開されていく、現実の日常生活とは違うレイヤーに存在する世界のことである。リアルとは違う「別の人生」と言い換えても良い。

そして、こういう本たちは、私の日常生活の一切に、ほとんど何の関わりももたない。時には仕事上の必要から本を読むこともあるが、基本的に私は「役に立たない」本ばかりを読んでいる。どうやら私の「もうひとつの世界」には、役に立つものはあまり存在していないらしい。いや、たぶん、ほとんどの人の「もうひとつの世界」は、現実には無用なものばかりが楽しく溢れかえっているのが普通だ。

****

このたびクラウドファンディングで、近所の空き家を「古民家ブックカフェ」にするための資金集めを始めた。

これは、田舎に徹底的に不足している「もうひとつの世界」の一部を具現化する試みでもある。田んぼと畑と山、学校と家、それからスーパーとガソリンスタンドだけがあるような田舎に育つのは、それはそれで悪くはないが、それだけだったらやっぱり窒息するんじゃなかろうか?

大げさな話かもしれないが、この「古民家ブックカフェ」が、誰かにとっての「もうひとつの世界」の入り口になれたら、と夢想する。森のような木々に囲まれ、古い記憶にあるおばあちゃんちのにおいがする、本がたくさん並べられた空間。冴えない日常から離れて、ほんの少しだけ身が軽くなるような、そんな場所ができたらいい。

「見えない友だち」と会えるような場所に。

 

 ↓クラウドファンディングへのご支援はこちらからお願いします。

2017年5月25日木曜日

仏間を板張りにしたら大成功!

昨年の「納屋リノベーション」に続いて、今年も小さいながらリノベーション(というよりリフォーム)を行ったのでご報告。

ごく普通の畳張りだった仏間を、板張りにしたのである。

でもこれは「ごく普通のフローリング」ではないというのが、今回のポイント。

そのことは後で書くとして、元々ここを板張りにしようと思ったのは、この部屋に本棚を置こうと思ったから。畳の上に本棚を置くと畳も痛むし、本棚も不安定になるし、そもそもこの部屋の畳張りがなんだかボヨンボヨンしていて根太(床板を支える横木)に不安があった。

リノベーション前の仏間
せっかくの畳のお部屋なのでもったいない気もしたが(実際、子どもは畳の部屋がいいと言っていた)、昨年の納屋リノベーションが想像の遙か上をいくステキさで仕上がったので、その時の工務店さん(craftaさん)にまたお願いした次第である。

最初は、ごく普通のフローリングにしてもらう予定でいた。でも確認のため畳を剥いで見てみると、薄汚れてはいるがなかなかしっかりした板張りになっている。これを廃棄してしまうのはもったいないと思い、工務店さんに「この板張りをそのまま活かして張り替えることってできませんかね…?」とお願いしてみた。

普通にフローリングにするのであれば6畳が10万円くらいで出来るそうだが、板を「生かし取り」(壊すのではなくまた使うことを前提に解体すること)するには手間がかかるし、いびつな板材を床にまた貼るのにも手間が掛かって、当然費用も増えるという。

正直、あまりお金に余裕はないが、同世代は新築の家を建てたり、マンションを購入しちゃったりしている時期である。子どもたちも「うちはボロだからいやだなあ!」「○○ちゃんのうちは新しくていいなあ!」とことあるごとに言ってくる。新築したりマンションを購入するよりは断然安いんだから、まいっか…、ということで手間の掛かる工事をお願いした。

実際床板を剥いでみると、松の板であることがわかった。床板としては高級な部類だと思う。

ちなみに根太はやっぱり貧弱で、極太の大引き(床下を支える大きな木材)が入ってるわりにはなぜか根太は折れそうなくらい細かった。どおりで床がボヨンボヨンしていたハズである。

そして、生かし取りした床材を水洗いしてもらうと予想通りなかなか見栄えもいい。釘穴がボカスカ空いているのはいいとしても、ゆがみも大きかった上、(予想してなかったが)板の厚みが相当バラバラだったので、正直なところ「これちゃんと貼れるんだろうか…!?」と心配になったし、工務店さんや大工さんも、この個性が強すぎる板材たちを目の前にして動揺しているように見受けられた。

だが実際に床が完成してみると、予想以上に素晴らしい出来になった!

確かに、ゆがみが大きい板材だったので、隙間はかなりある。段差も最大で5mmくらいある。釘穴を埋めるためのパテ跡も、気になる人には気になるかもしれない。

でも百年経った松の板の風情はまた格別でもある! 非常に表情が豊かで、語りかけてくるような床になった。

またしても想像の遙か上をいく出来映えである。ただキレイとか居心地がいいとかではなくて、創造力を刺激するような部屋になったと思う。床が変わるだけでこんなにも空間が変わってしまうのかとビックリした。

こうして素晴らしい床ができたのは、もともとの板材がよかったのもあるが、工務店さんと大工さんの技術と心意気のお陰である。隙間や段差が目立たないようにかなり工夫してくれたし、1000以上あったであろう釘穴を一つひとつパテで埋めてくれたし、見積もりにはなかったはずだがオイルも塗ってくれた。かなり労力(と頭)を使う作業で、新品フローリングにするのに比べ何倍も大変だったと思う。改めて工務店さんに感謝である。

ところで今年、うちが建ってからちょうど100年経ったらしい。100周年に生まれ変わったこの仏間をこれからどう活用していくか、とっても楽しみである。

2014年12月1日月曜日

大正時代の本棚がうちに来ました

先日、大叔母の身辺整理を手伝った。身辺整理というか、「もう家財道具のほとんどはいらない、何か欲しいものがあったら持っていって」というので、ただもらいに行ったという方が正しい。

それで、なかなか味のある本棚をもらってきた!

話を聞いてみると、これは元々私の曾祖父が持っていたもので、それを大叔父が引き継ぎ、それをさらに大叔母がもらったものらしい。話が随分ややこしいが、要は私の曾祖父の遺品の一つである。

(もう随分前に死んだ人だから名前を出してもいいと思うが)この本棚の持ち主であった私の曾祖父は丹下 栄之丞(えいのじょう)という人で、名門に生まれながら生来の冒険心の赴くままに生きて随分家族に苦労させたそうである。

例えば、錫鉱山の開発をしようと錫山を購入したものの、結局錫が出なくて大損したとか(ちゃんと調査せずに買ったんだろうか?)。他にも新規事業に手を出して無一文になったこともあるらしい。無一文になった曾祖父は、ツテから口永良部島の島守(しまもり)の職について家族で島へ移住したそうだ。「島守」というのが具体的になんなのか分からないが、大叔母によれば町長の次席にあたるもので、他の親戚によると竹林造成に関係する職だったともいう。

そんなわけで私の祖母は、口永良部島(屋久島の少し西にある島です)で少女時代を過ごし、一日三食とも魚を食べて育ったそうである。

ところで丹下家というのがどういう家柄なのかイマイチよく分からないのだが、丹下栄之丞は第11代目にあたり、初代は文久2年(1862年)に死んだ丹下 仙左衛門という人。丹下家の分家には女性で初めて帝国大学を卒業した丹下 梅子もいる。それなりの家格がある武家だったようである。

私は、そういう家系図的なことはさほど関心がないけれども、昔話は好きである。その栄之丞という人が、好き勝手して身代を取りつぶした話なんかは面白い。冒険心はあったがお人好しですぐに騙されるような人だったらしく、事業家には全然向いていなかったそうだ。ついでに言うと、その奥さん(つまり私の曾祖母)の方が立派な人だったということで、大叔母などが生きているうちにもっと話を聞いておきたいと思う。

ともかく、この本棚はそういういわれでもらってきたものである。ざっと考えて、丹下栄之丞は今から90年くらい前の人になるから、この本棚は約100年前の大正時代のものと考えて差し支えないだろう。蔵書も込みでもらってきたが(というのは、蔵書も不要なため処分してほしいとのことで)明治20年代の万葉集の注解書があったので、これはもしかしたら栄之丞の蔵書だったのではないかと夢想した次第である。

約100年前の(一般的な感覚からは)ぼろい書棚といっても、作りが非常にしっかりしていてガタピシ感もないし、何より古民家の我が家にぴったりだ。ステキな本棚が手に入ったので、これから本が入っていくのが楽しみである。

2013年5月18日土曜日

ぼんぼん時計はどうしてぼんぼん鳴るのか?

うちには、そんなに立派なものではないけれど、ゼンマイ式のぼんぼん時計がある。最初は使っていなかったのだが、古民家の内装は今風の時計とはしっくりこないので、古くから置いてあったこのぼんぼん時計を使わせてもらっている。

この時計、(ぼんぼん時計だから当たり前だが)正時になると「ぼーんぼーん」と鐘が鳴る。その音は、なかなか味があってよい。さて、ところで、どうしてぼんぼん時計はぼんぼん鳴るのだろう?

「もちろん、時刻を告げるためだろう」と思うかもしれないが、ではどうしてわざわざ時刻を告げる必要があるのだろうか? 今の時計では時刻を音で知らせる(打刻する)ものは少数派なのに、昔はこのぼんぼん時計が時計の主流だった。なぜ時計はぼんぼん時計でなくてはならなかったのか?

素朴には、「昔は家に一つしか時計がなかったから、時計のない部屋にいても時刻がわかるように打刻したのではないか」と思われるが、これは実際には現実的ではない。ぼんぼん時計が普及した明治から昭和初期にかけては、家の中は薄暗かったので、屋内で何かの作業をするということ自体が少なく、作業の主体は外だった。家の中にいて時計を気にしなくてはならない状況というのは少なかっただろう。

そもそも、日本は古来より「不定時法」を使っており、正確な時間を気にして生活するということがなかった。不定時法とは、日の出と日の入りの時刻を基準に昼と夜をそれぞれ6等分して「巳の刻」とか「子の刻」といった約2時間1セットの目安を定める方法である。この不定時法は、当然ながら季節によって1セットの長さが変わり、あまり細かく時刻指定はできない代わり、日の出日没を基準にしているので農作業などの外労働の開始や終了とは親和性が高い。

不定時法による時計もないではなかったが、実用品というよりは大名などが持つ珍妙なコレクションとして作られたものが大半だった。17世紀中頃からはお寺の鐘による時報(時鐘)が普及したが、これもあまり厳密なものではなかった。日本では明治時代まで、時計よりも太陽に従った生活をしていたのである。

幕末から明治にかけて日本を訪れた外国人の多くが述べているのは、日本人がやたらとのんびりしていて時間に大変ルーズであるということだ。実はこれは近代化以前のヨーロッパでも同じで、職人は自分のペースで仕事をしていたということにかけては洋の東西を問わない。そもそも時間を基準にした労務管理というものは、大量の人員を投入して規律に従った生産を行う工場制手工業の登場によって生まれたものだ。時間に従って行動するという規範は、産業革命以前の世界には存在しなかったのである。

とはいえ、実は西欧と日本では、時計に対する感受性にはもともと少しだけ違いもあった。西欧では割と古くから1日を24等分する定時法が使われており、時計も普及していた。ぼんぼん時計の元祖と言えるStriking Clockは、教会や市庁舎に設置された鐘時計であるが、これは教会の典礼の時間を広く地域社会に知らせるために打刻したのである。決まった時間にお祈りをしなくてはならない、という習慣は、ヨーロッパの人々に「時計に従った生活」という近代社会の準備をさせたように見える。

しかし、西欧において定時法が採用されたより本質的な原因はもっと単純なことで、緯度の関係だ。ヨーロッパは高緯度の国が多く、夏は夜遅くまで太陽が沈まない。冬と夏では日の出日没の時間が数時間もずれてしまい、太陽に従っていては生活リズムがめちゃくちゃになる。そのため、太陽に頼らない客観的な時間を知る需要が高く、結果として時計が発達することになったのである。

逆に、中緯度にあった日本では、時計に従うよりも太陽に従う方が合理的だった。実際自分も農作業をしていると、作業の終了時刻は自然と日没が基準になる。農業だけでなく各種の職人などもそうだっただろう。今では、時間を守ることにかけては病的なまでの評判がある日本人だが、これは決して日本人の「国民性」などではなく、ごく近代に導入された習慣なのである。

ちなみに、田舎に来て驚いたことの一つに、立ち話などの長さがある。ふと近所の人と会って立ち話が始まると、平気で1時間くらいしゃべってしまう。立ち話くらいしか娯楽がない、ということもあるのかもしれないが、都会ではありえない光景だろう。田舎には、明治以前のノンビリとした時間感覚が残っているように思われる。

そのように、元々時間にルーズだった日本人が、どうしてやたら時間に厳しくなったのかはよくわからない。ただ、大急ぎで「近代国家」の国民をつくり上げなければならなかった明治時代以降、官民挙げて行われた様々な取組の結果であるとはいえる。

国として時間の基準を定めるため、1871(明治2)年に「午砲の制」が定められ、旧江戸城の本丸から毎正午に空砲を撃つようになったのがその嚆矢だ(追って各地方でも午砲は鳴らされた)。これは、「丑の刻」のような、ぼんやりとまとまった「時間帯」の感覚しかなかった日本人へ、「時刻」という瞬間の時間を認識させる初めての取組だったかもしれない。

ところで、最も早く西洋風の時間を必要としたのは鉄道業界だ。そもそも時間が定まっていなければ時刻表すらできないわけで、1873(明治6)年の「明治改暦」に先立って鉄道業界では既に定時法が採用されていた。この明治改暦というのは、太陰暦を太陽暦に、不定時法を定時法に一夜にして変えてしまうという随分乱暴な大改革だ。旧暦明治5年(1872年)12月3日を新暦明治6年(1873年)1月1日に変えたので、実は明治5年12月3日〜31日というのは存在しなくなったのである。

だがこの改革でも、時間は定時法で計ると決めていたのだが、時間の基準はやはり太陽に置かれていた。具体的に言えば東京で太陽が南中(最も高く上がる)する時刻が正午と定められ、その時に午砲が撃たれたのである。これを「東京標準時」という。このころから西洋の時計は輸入されていたが、現在のように時報もなく、周りにも時計がなかったので、一番始めのころはやはり各地で日時計を作り、南中時刻にあわせて正午を定めていたらしい。

これが、グリニッジ天文台を基準にした世界標準時から算出される日本標準時に改められたのは明治21年(1888年)1月1日のことで、この日が一応日本における近代時間制度の完成した瞬間ということになるだろう。

さて、当時の時計というものは、大変狂いやすいもので、1週間もすると10分程度はすぐにずれてしまった。そこで頻繁に時刻合わせをしなくてはならないのだが、時報もテレビもラジオもない状態でどうやって時刻合わせをしたかというと、この午砲を基準にしていたのだ。正午になると午砲が「どーん」と鳴り響くので、この時に時計の針を正午に合わせたというわけだ。

随分長かったが、これでようやく、ぼんぼん時計がどうしてぼんぼん鳴るのかという謎を推理する材料が揃ったと思われる。

結論を言えば、これは時刻合わせのためなのではないだろうか。ぼんぼん時計が正午を告げ、その後しばらくして午砲が撃たれると、特に意識をしていないくても時計が狂っているのがわかり、時刻合わせの必要に気づく。もしぼんぼん鳴らなければ、意識してその時に時計の文字盤を見ていないと、それに気づけないのである。

ぼんぼん時計は明治期には米国から輸入されていたが、米国での事情も似たようなものだったと思われる。教会の鐘などと時計のズレを認識させ、時計あわせを催すためにぼんぼんと鳴る機能が付いていたのではないだろうか。つまり、コミュニティで正確な時間を共有するために、ぼんぼん時計はぼんぼん鳴ったのである。

これは、実際に自分がぼんぼん時計を使ってみての感想でもある。日本では都市部を除いて今でも正午や5時などにサイレンが鳴るところが多いと思うが、ぼんぼん時計の打刻とサイレンの時間がずれているとどうも気持ち悪くて、つい時刻合わせをしてしまう。仮の話だが、もし家の中に2つのぼんぼん時計があって、それぞれの打刻の時間がずれていたら、さらに気持ち悪いと思う。ぼんぼん時計がぼんぼん鳴るお陰で、特に意識していなくても頻繁に時刻合わせを行い、正確な時を刻むことができるのである。

ちなみに、正午や5時に鳴るサイレンというのは、午砲の直系子孫であって、午砲が廃止されたことを受けて、東京では1929年に始まったものだ。全国的には遅れて昭和初期までに午砲からサイレンに切り替わっている。現在では時を告げる機能よりも、防災関係の放送設備の試験放送・点検の意味合いが強いが、これは明治以来の時間意識醸成の取組の化石と言える。

このように考えると、ぼんぼん時計が廃れた理由もわかるだろう。もちろん、都市部への人口集中による住宅の狭隘化という形態的理由もないではない。狭い住宅に、かさばるぼんぼん時計を掛けるのはいかにも邪魔だからだ。しかし最も大きな原因は、時計があまり狂わなくなり、頻繁に時計あわせをしなくてもよくなったからではなかろうか。ぼんぼん時計は昭和30年代までは使われたようだが、それ以降は激減してゆく。これは、ちょうど正確なクオーツ時計が普及した時代と重なるのである。

なお、ついでに言うと、ぼんぼん時計が1時間(または30分)毎に鳴るのは、1時間という時間の長さを教えるためではなかったかという気もするのである。2〜3時間を単位に生きていた日本人に、1時間という時間の長さを沁み込ませるために打刻したのではないか。そうでなければ、深夜にまでわざわざぼんぼんと鳴って安眠を妨げるのはいかにも無粋だ。

ともかく、大急ぎの近代化を図るために日本人はいろいろなことをやったが、そのうちの一つに時間感覚の改革があったのである。今では、おそらく世界で最も時間に正確な産業活動がなされていると思われる。だが、世界一時間に正確な日本の電車が、しょっちゅう「人身事故」でダイヤを乱すのは、皮肉というより悲劇である。近代化というものは人間にストレスを掛けずにはおれないが、こと時間感覚の面に関しては、日本人は近代化しすぎたのかも知れない。田舎に来て立ち話の長さに驚いたけれども、実は長い立ち話をだらだらとする方がワールドスタンダードで、知り合いとばったり出会っても挨拶もそこそこにすれ違う方こそ、行き先を間違えた日本の近代化の結果なのだろう。

【参考文献】
『遅刻の誕生ー近代日本における時間意識の形成』2001年、橋本毅彦+栗山茂久編著

2013年1月10日木曜日

遺品整理は(面倒だけどやり始めると)面白い

昨年末、大掃除で少しだけ遺品整理をした。なかなか面倒な作業だったが、面白かったこともある。

うちは築約百年の古民家であるが、基本的には遺品の類はかなり処分されている。例えば古い家具とか衣類などは残っていない。が、仏壇周りだけは手つかずの状態で残っていて、収納スペースがもったいないので少し整理してみることにした。

内容は、本、写真(アルバム)、思い出の品(?)、という感じだが、今回手をつけたのは本である。残された本を見るだけでも、そこにあった人生を垣間見るようで面白い。本というものは、何か新しいことに取り組む時に参照することが多いから、ここに暮らしていた人がどういう希望をもって、何に挑戦していたか感じられるようである。

農村なので農業関係の本が多いのは当然として、栽培技術的なものではなく、例えば岩波書店の『村の図書室』シリーズなど、新しい農村を作っていこうとしていた当時の気運も感じられて面白い。この『村の図書室』は岩波書店が(かつて本を読まないと思われていた)農村の人々を啓蒙するため「農村青年」に向けて作った双書で、今で言う農文協の本みたいな存在のシリーズである。それから農村婦人活動に関する本も多い。どういう活動をしていたのだろうか。

だが、もっとも面白いものは、実はローカルな冊子だ。例えば、小学校の文集『大浦の子』、旧大浦町時代の広報誌といったものである。その中でも白眉は久保青年団発行の小冊子(文集みたいなもの)で、昔の青年団はこんなことまでやっていたのかと驚かされた。これらについては、いずれ内容を詳細に検証してみたいと思う。

それにしても、遺品整理というのはかなり大変な作業である。基本的には不要品なので本などもほぼ全部捨てることにしたが、それでも本の間に写真が挟まっていたりして油断がならない。けっこうな作業量なので委託は新しいビジネスになるのではと思ったが、調べてみると既にいろいろな業者がある。なんと遺品整理士という資格まで存在していた。その仕事内容は、遺品整理というより清掃や不要品処分が中心だが、これから団塊世代が老後を迎えるので今後成長していく産業だろう。

ところで、家具の処分などは委託できるが、(ローカルな)本や写真についてはどのように整理するのだろうか。遺族にとってはいらないものでも、貴重な歴史の証言者である場合もあるし、そこが遺品整理で一番面白いところなので、安易に処分しないようなやり方で処理してもらいたいものだ。何十年か経つと、民俗学の資料としてとても貴重になると思うので。

2012年8月21日火曜日

古民家の音響は、素晴らしい

意外かも知れないが、古民家の音響は極めていい。

私は一応ちょっとしたアンプで音楽を聞いているが、スピーカーはいらなくなったミニコンポのスピーカーだし、耳は悪いし、音に特別こだわるタイプではないけれど、それでも違いがわかるくらい、音の質がいい。

古民家の音響がよい理由は、その構造にある。

我が家は昔、天井裏で蚕を飼っていたようで、天井裏に割と広い空間がある。古民家であれば、蚕ならずとも米倉庫や藁置き場になっていたり、天井裏の空間が活用されていたことが多いだろう。

また、部屋の仕切りがあまりないことも相まって、オーディオから発せられた音がこの天井裏の空間を通じて家全体に共鳴し、よく響く。しかも、不明瞭な響き方ではなくて、一音一音が明晰に、繊細に鳴り響く。オーディオから一番離れた部屋にいても、音楽が不思議なくらい自然に聞こえる。これは、鉄筋コンクリートの建物に比べ、無用な音の反射がないからとも思う。コンクリートの壁は、むやみやたらに音を反射させるのでよくない。

つまり、古民家にオーディオを置けば、家そのものが楽器になり共鳴するのだ。特に中低音の響きには艶があり、中音域の奥行きが豊かに聞こえる。ジャズやクラシックを聴くのには最高の環境と思う。ただ、ポップスやロックで、高音がキンキンしているような曲の場合、もしかしたら迫力が削がれてしまっているような気もする。まあ、何事にも一長一短はある。

ちなみに、家そのものが共鳴するため、家の外にも音楽がよく聞こえ、都会であれば騒音問題になりそうなほどだ。ここは田舎で家もまばらだから深夜でもない限り気にする必要はないだろうが…。

古民家は音響がいいというのは何も私だけが言っているのではなく、ネットを見てみると結構いろいろな人が古民家で音響を楽しんでいるみたいだし、先日伺った美山のたけずみ屋さん たけずみ本舗では古民家にバカでかいスピーカーが鎮座して最高の音響環境を演出していた。

音響の基本はまず空間(部屋)であって、そう言う意味では、古民家はオーディオマニアの家として一つの選択肢だと思う。まあ、そのためだけの部屋(オーディオルーム)には及ばないのかもしれないが、リタイア後に、古民家に移り住むオーディオマニアがいてもおかしくないレベルだと思っている(私自身はオーディオマニアではないので戯れ言にすぎないけれど)。

2012年7月3日火曜日

古民家は、実は黴に弱い?

梅雨である。本当に鬱陶しい。

鬱陶しいだけでなく、家中が黴(カビ)だらけになってしまう。畳の茣蓙は新しくしたので多少黴が生えるのは覚悟していたが、掃除しても3、4日でまた生えてくるというのは想像以上だ。

それだけでなく、もう黴が生えそうなものにはすべて生えてくる…というくらいあらゆるものが黴だらけになる。写真は、掛けてあった洋服が黴た様子だが、ブルーチーズみたいに全体に黴が生えている。これ、洗濯したら復活するだろうか…。

ところで、現代の木造住宅は機密性が高い上、外気との温度差が大きいので結露しやすく黴が発生しやすいと言われるが、うちは築百年近い古民家である。多少リフォームしているとは言え、基本構造は変わっていないのに、こんなに黴が生えるのは釈然としない。これまで住んできた「機密性の高い住宅」でもこんなに黴が生えたことはないのだ。

そもそも、伝統的日本家屋が黴に強い、ということは本当なのだろうか。高温多湿な日本の夏によく適応して風通しをよくしているとは言え、それが黴に強いということにはならない。例えば、 伝統的な保管庫、つまり「土蔵」は締め切りが基本であり、風通しをよくするよりもむしろ土壁による湿度調節機能によって黴を防いでいたと考えられる。

これは考えてみれば当然で、梅雨時は外気も過湿状態にあるわけなので、いくら換気をしても湿度が下がるわけではない。気温が高くなった時の雨上がりなどは、外気の方がムワっとして湿度が高いくらいだし、機密性が低いから黴が生えないというわけではないだろう。

ただ、空気の滞留するところには黴が生えやすいのは事実だ。つまり、家の風通しをよくすれば、黴の生える箇所は確かに減る。だから伝統的日本家屋では黴の生えるところは比較的少なかったのだと思う。ただ、それは黴対策=湿度対策が出来ていたからではなく、単に環境が外気と似ていたからであり、「日本家屋の知恵」などと誇るべきものではない。

そして、桐箪笥のような、それ自体に湿度調節機能が存在するような家具が発達したのも、家自体は黴に弱かったからではないかという気がする。つまり、伝統的日本家屋は、普通言われているのとは違って大して黴に強くなかったのかもしれない。ということは、我が家の黴との戦いは、これからも毎年負け戦になるのだろうか…。

2012年6月11日月曜日

(大好きな)シロアリが来襲…!

シロアリのカップルが成立するところ
ふと気づいたら、家がシロアリだらけだった。

今春、シロアリ防除はしたので、うちで発生したわけではなくて、どこからか飛来したシロアリの群れが侵入したということになるが、すごい数である。

1畳あたり10匹以上はいる。どこでも目を向ければ必ずシロアリが歩いているという風情でなんとも居心地が悪い。

最初のうちは、せっせと取り除いていたが、余りに数が多く、取っても取っても湧いて出てくるので、もはや戦意喪失してしまった。目に見えるところにこれだけいるので、天井裏などはものすごい数だろうし、百匹二百匹殺したところで大同小異だ。防除はしているので、きっと家には居着かないだろう(と信じているが、そうでなかったらどうしよう…)。

ところで、シロアリというのは面白い昆虫で、他の生物が食糧として利用できない木質(リグノセルロースというセルロースリグニン等の複合体)のみを養分として生きている。リグノセルロースというのは人間が化学的手法を使っても分解が難しい物質なのだが、シロアリは体内に非常に特殊なバクテリアたち(※)を飼っていて、このバクテリアたちに木質を分解させることによってこれを栄養化する。しかもこのバクテリアたちは、なんとシロアリの体内にしか棲息しておらず、シロアリの体外では(今のところ)培養できないという本当に変わった連中である。

分解が難しい木質を食糧とすることから、シロアリは木質の分解者として自然界の炭素循環における非常に重要な地位を占めており、仮にシロアリが不在であったら、地球上は倒木だらけであったろうと言われるほどだ。ちなみにシロアリの起源は、植物が本格的に木質を獲得したのと同じくらい古く、約3億年前に遡る。もしかしたら、シロアリと木は共進化したのかもしれない。

さらに面白いのは、シロアリはその全種が真社会性だということだ。「真社会性」というのは生物学の用語で、ごく簡単に言えば「群れに階級が存在し、特にその中に不妊の階級がある」ということだ。つまり群れには子孫を残せない集団がいて、そいつらは一生を働くだけで終わる。なんだか切ない話だが、生物学的には非常に面白い性質である。

そんなわけでシロアリには昔から関心があり、できることなら巣を継続的に観察したいくらいなのだが、うちは築百年近い純木造住宅なので、もし本当にシロアリが居着けば、ひとたまりもない。そもそも、窓も開けていないのにシロアリの群れが家の中に入ってくるくらい隙間だらけなのがまず問題で、うちにはシロアリ以外にもいろんな昆虫やなんだか正体がわからない生物(?)がたくさん居候している。家内は「こんなに棲みつくなら家賃を払って欲しい」とぼやいていたが、正直、シロアリには仮に家賃を払ってくれても棲みついて欲しくないと思う。

(※)正確にはバクテリアだけでなくて、原生生物も含む。

【参考文献】
シロアリ腸内原生生物と原核生物の細胞共生」2011年、本郷裕一

2012年1月28日土曜日

古民家——適材適所の家づくり、山づくり

古民家を隅々まで掃除すると、改めてその構造と材の使い方の丁寧さにハッとする。

構造材には堅く頑健な重い木を、意匠や建具には加工しやすい柔らかく軽い木を使っている。しかも、求められる強度に合わせてその太さを変え、木目と節の見え方まで計算されているように見える。

まさしく、「適材適所」だ。

現代の建築のことはよく分からないが、基本的には材が規格化されているし、普通住宅ではこのような細かい気遣いはなされていないのではないかと思う。

これに関してもう一つ驚くのは、これらの材は全て自家林あるいは集落の山から調達してきたものだということだ。現代では、どこからでも材木を仕入れることが可能だろうが、昔は材も自給自足していたので、これらの材は全て手近にあったものである。

ということは、構造材、内装材、仕上げ材などになり得る木を予め植えてなくてはいけない。つまり、家づくりの前に、山づくりがなくては適材適所の家はできなかったことになる。改めて、昔の人の、自然を管理する術には賛嘆せざるを得ない。

2012年1月25日水曜日

古民家の掃除でボロぞうきんが現代美術に

古民家の掃除は大変である。

掃除というのはどんな家でもそれなりに大変だが、古民家へ移住したての掃除はかなり大変だ。

そもそも、何十年間も溜まった汚れを落とすのは骨が折れる。これは、普通の中古住宅にはないだろう。

そしてもう一つは、必ずしも汚れを落とすのが家にとっていいわけではない、ということだ。つまり、数十年を経た材のその風合いまで落としてしまっては味気ない。だから、例えば「激落ち君」のようなものを使って汚れを落としてしまうと、材の風合いが落ちてしまったりする。

古民家の掃除は、汚れを落とすのではなくて、家を美しくすることでなくてはならない。

そこで、掃除の中心はぞうきんでの水拭きになる。そして、ぞうきんは写真のようにボロボロになってしまう。この穴だらけのボロぞうきんは、まるで、現代美術の立体作品のようで、つい写真を撮ってしまった。

2012年1月23日月曜日

古民家の物件を見つける一つの方法

全国のいろいろな自治体がやっていると思うが、「空き屋バンク」というのがある。私の住む南さつま市にも、それはある。

私は、狙ってそうなったわけではないけれど、一応「古民家」と呼ばれるものに住んでいる。古民家には、今の家にはない魅力があるから、多くの人が憧れる。しかし、古民家の物件を見つける手段はあまりない。それは、古民家と呼ばれる物件が、通常の不動産マーケットに出にくいことによる。

そこで、もし、古民家の物件を探している人がいたら、地域の「空き屋バンク」をチェックするのは損ではない。「空き屋バンク」というのは、空き屋になった住居を自治体に登録しておき、希望者が参照できるシステムで、通常、普通の不動産情報誌(例えばSUUMOとかCHINTAIとか)と同じ機能を果たす。

一見「そんなのは行政がやらなくても、民間の不動産屋に任せればいいじゃないか」と思うが、存在意義はある。なぜか。

まず、田舎の空き屋というのは、通常の不動産マーケットには相容れない物件が多い。築年数が何十年を超えていたり、住むために大規模な改修が必要だったり、そもそも、持ち主が貸すことにあまり積極的でなかったりする(これが一番大きい)。

そこを、「地域資源を生かす」という名目で行政が不動産業者との橋渡しをするわけだ。田舎では、行政と人々の暮らしは近い。役場の人に「○○さん、空き屋にするなら、空き屋バンクに登録しておきませんか?」と勧められて登録するのは、不動産屋に仲介を依頼するよりもずっと敷居が低い。

だから、古民家みたいな、普通の不動産マーケットには出にくい物件が、そこには登録されていたりする。 南さつま市の空き屋バンクのWEBサイトを見ていてびっくりしたのは、建築年次が明治18年の物件が成約を見ていたことだった。明治18年といえば、1885年。築130年近い古民家だ。こんなのは、普通の不動産情報誌には、まず出てこない。

ただ、南さつま市の空き屋バンクに登録されている数は、まだそんなに多くない。実際には、空き屋となっている建物はずっとたくさんあるので、もし空き屋を持っている人で貸してもいいと言う人は気軽に登録して欲しいし、またそれを促す意味でも、空き屋を探している人には積極的に使ってもらいたいと思う。