真宗以外は廃仏毀釈等の政策で痛手を蒙っていたにしても、人々に馴染みが深かった禅宗や真言宗は少数ながら鹿児島に僧侶を派遣していたようであるし、東本願寺(真宗大谷派)も数名の僧侶を派遣し、西南戦争のゴタゴタに巻き込まれながら布教活動を行っていた。
そんな中で、西本願寺(真宗本願寺派)が圧倒的な存在感を持つに至ったのはなぜだろうか? これまでも触れたように、それには明治政府高官との人脈が影響してもいるが、もっと重要なことにその資金力がある。
何しろ、布教活動には金が必要だった。交通費や宿泊費はもちろんだが、それ以上に重要だったのは政官界への対策費用である。西南戦争の敗北で大分痛めつけられていたとはいえ、当時、鹿児島の政官界は士族に牛耳られていた。士族には目の敵にされていた真宗であるから、なんとかこれを懐柔し、地方政府の公認を得なくては布教活動をスムーズに進めることができなかった。
そのために、西本願寺は鹿児島県に対する積極的な寄附を行うのである。例えば、明治10年12月には西南の役の罹災救済費として1万円を、明治11年には学校奨励費として2000円を本山が県に寄附している。その後も、
- 明治13年、本山より産業奨励費として1万5000円。
- 明治15年、大谷家より病院附属建物を寄附。
- 明治16年、殖産奨励費として1万5000円(後の県立興業館の費用)。
- 明治17年、鹿児島別院より興業館における勧業博覧会へ1000円。
- 明治17年、鹿児島別院より宮崎監獄教誨所設置費へ600円。
この膨大な資金の源は、最初は京都の本山であったが、次第に本山は拠金をしなくなっていく。そもそも、布教活動の費用は獲得した信者からの寄附によって現地でまかなうのが基本であって、布教活動は金銭的に自立することが求められていた。むしろ本来は、逆に地方から本山へ年間3000円余りの冥加金(上納)を納めることになっていたくらいで、鹿児島の場合のように、本山が地方の布教事業のために大枚をはたくというのは異例なことであった。
しかし、西南戦争直後、鹿児島の市街地は焼け野が原になっていたから、仮に信者を獲得することができたとしても、信者からの寄附が望めないのは当然である。そこに生活していた人は何もかも失った状態から、まずは日々の暮らしを再建しなくてはならなかった。だから資金面において、西本願寺の開教史たちはすぐに苦境に陥ったのである。
であるから、自然のなりゆきで西南戦争の被害を受けていなかった南薩地域が資金源として重要になってくるのである。そして、西本願寺の布教活動を語るには、その活動を資金面で大きく支えた南薩の豪商「カネシチ」と「丁子屋」の存在を欠かすことができない。そこで、この2つの商家と西本願寺の関わりを少し詳しく見ていくことにしたい。
この2つの商家が本拠地としていたのは、南薩の万世という街である。旧加世田市にあり、当時の地名では大崎と言う。ここは古くより商港を持ち、貿易によって栄えた南薩の商業の中心地だった。この街で江戸時代中頃から勃興したのがカネシチと丁子屋の二大廻船問屋である。その商売は重なるところもあったが、概ねカネシチは呉服など衣料品、丁子屋は食料品を中心とした商いをしていたようである。両商家は数代にわたる婚姻関係で結ばれた親戚でもあり、共同して莫大な富を築き上げた。特にカネシチの邸宅は宏壮であり、京都から呼び寄せた庭師による優美で広大な庭園があったという。
明治のこの頃、カネシチの当主を森田寿香といい、丁子屋の当主を吉峯次右衛門といった。森田寿香は、紳士録などの公的記録では森田七左衛門とされていることもある。カネシチでは、代々「七左衛門」の名を受け継いで行くのが習いだったからだ。
信教自由の布達があった明治9年の頃、森田寿香はいち早く真宗に帰依したようだ。早くも明治11年には、万世に説教所が開設されていることからもそれはわかる。これは今も街に残る顕証寺の濫觴となるもので、県内でも最も早くに開設した説教所の一つである。信徒総代は、森田寿香と吉峯次右衛門が共同で務めた。本堂と庫裡の建設に要した費用はほとんど全てこの2人でまかなったようである。どうやら、森田が最初に真宗に帰依し、弟分だった吉峯を引き入れる形で真宗の布教活動の支援が始まったらしい。
どうして森田寿香、おって吉峯次右衛門がいち早く真宗に帰依したのか、ということの真相は不明であるが、どうもこの両家には信教自由の前から真宗への信仰があったように思われる。というのも、鹿児島では真宗は禁教とされていたけれども、廻船問屋を営んでいる関係上、彼らは藩政時代より日本全国を廻っていたわけで、江戸や大坂(大阪)で真宗に触れていないわけがない。伝説では、丁子屋には、真宗への禁遏が激しくなったとき仏像を持って船に乗り、そのまま返ってこなかった祖先がいるそうである。
さて、森田寿香の名前が真宗布教活動の表舞台に出てくるのは、西本願寺鹿児島別院の本格的な本堂建築にあたって建築総裁に就任したとき、明治11年の秋が最初である。森田は総裁就任にあたって、さっそく500円を寄附してもいる。森田を建築総裁、つまり別院建築の責任者という重役に起用したのは、彼の指導力や経験を買ってのことであることはもちろん、豊富な財力も期待してのことであったろう。記録には残っていないが、おそらく、これに先立ってかなりの寄附をしていたに違いない。
別院建築は当初本堂3000円、書院3120円の予算であったが、建築のうちにいろいろと追加され、途中資金が足りなくなった。そこで、『鹿児島本願寺開教百年史』の記述によれば、「急遽、加世田まで岸大悟(※出納係)が出向いて、カネシチと丁子屋より1000円を用立てて」もらったそうである。この記述を読む限り、「カネシチと丁子屋にいけば、確実に金を貸してもらえる」という確信があったのだろう。金を貸すといっても、当然返すアテもなく、「お金を下さい」とは言いづらいから形式上貸借のカタチにしているだけで、その実態は寄附であった。
その後、明治12年に連枝(宗主明如の実弟)日野澤依が鹿児島巡教をした折にも、加世田に立ち寄った際はカネシチと丁子屋に泊まっており、両家は御召馬一匹を献上し、それに対して、日野は宗主の一行物、自身の額字を下付している。当時の馬といえば、今で言う5トントラックのような存在であるから、どのくらいの価値があるものかわかるだろう。
なお、明治15年に別院拡張の工事を計画した際も、金策にあたった伊勢田雲嶺は「早速加世田の森田寿香より800円を[…]借用」している。この「早速」という表現を見るにつけ、少しイジワルな言い方だが、別院が財政面で安易に森田を頼り、金を無心していた様子が窺える。
こうした調子で、西本願寺がことある事にカネシチ、丁子屋から寄附を受け、またそれを期待していたのは、公式記録を眺めるだけでありありと分かる。財政面でこのような影響力をもった存在は他にない。一体両家が累積でどれくらいの寄附をしていたのか今となってはわからないが、(顕証寺に宛てたものは別にして)おそらく2万円は下らないだろうというのが私の感覚である。現在の貨幣価値にして、4億円くらいだ。カネシチと丁子屋は、そういうお金を出すことができた豪商だったし、自分たちの生活を質素なものにしてでも、お寺の発展を願った敬虔な門徒だった。
この頃に両豪商からの支援を受けられたことは、西本願寺にとって随分大きなことだったと思う。おそらく、彼らからの支援なくしては、鹿児島の布教事業は20年は遅れたに違いない。現在鹿児島で真宗本願寺派が非常なる興隆を見せていることの理由の一つが、この両家の財政支援にあるといってもよいだろう。
しかし、西本願寺の活動における両家の存在感は次第に薄くなっていった。その理由としては、第1に、西南戦争からの復興が進んで鹿児島市街地の商業が盛んになり、南薩の重要性が相対的に減じてきたこと。第2に、明治30年に西本願寺の法主・大谷光瑞が鹿児島に下向し、島津氏との交誼を開いたことが挙げられる。これにより士族間にあった反真宗の敵愾心は随分柔らぎ、士族間へも真宗が浸透していった。
そして第3に、商業都市としての万世の凋落も挙げなくてはならない。海運の時代から鉄道を中心とする陸運の時代になり、商港を擁する意味が低下したことが大きい。さらに、時代は下るが支那事変が勃発すると、多くの物資が統制されて当たり前の商売は営めなくなっていった。特に呉服が中心的商材であったカネシチの場合はこれが致命的な打撃になった。呉服は切符制の配給品となって組合が扱う品となり、南薩の呉服を一手に引き受けていたというカネシチの販路が取り上げられたのであった。
一方で、「真俗二諦」を掲げて政府に迎合した真宗は、次第に戦争協力へとひた走っていく。軍人への布教はもちろん、他を圧する従軍布教僧を戦地に送り、国家への忠心は念仏と一体であるとし、多くの兵士が「南無阿弥陀仏」と唱えながら天皇に命を捧げたのであった。実は、カネシチの跡取りも満州で戦死している。そのために、この歴史ある大商家は遂に断絶することになった。今では、カネシチ(森田家)の邸宅があった場所は、電器店がある他は寂しい空き地と変じてしまっている。今も残る万世の丁子屋の、右隣の土地である。
そして今では、カネシチの森田寿香と丁子屋の吉峯次右衛門が、鹿児島の西本願寺の興隆にどれだけ大きな貢献をしたか知っている人はほとんどいない。京都の本山にある、親鸞聖人の墓がある大谷墓地、まさにその親鸞聖人の墓のほど近くに、鹿児島からはたったの3家のみが墓を持っていて、それが森田家、吉峯家、そしてこれまで説明していなかったが海江田家なのだという。それだけが唯一、明治の昔に真宗布教に邁進した人物の記憶を留める遺産である。
ちなみに、この3家は西本願寺鹿児島別院の初代勘定役(財務担当)であって、海江田家も「カネヒラ」という屋号で廻船問屋を営んでいた市来の豪商である。実に、鹿児島の真宗本願寺派というものは、藩政時代からの豪商を味方につけたことで大きくなった教団なのである。
しかし、今では西本願寺鹿児島別院自身が、そういった歴史には無頓着なようである。寄附というのは物質的な見返りを期待してやるものではないから、それもしょうがないことだろう。しかし、報恩(仏恩に報いよ)ということを重視する真宗であるから、たまには俗世の恩義も思い出したらよい。石碑を建てるとか、ことさらに顕彰する必要はないし、地元の人もそんなことは求めていない。
ただ、今南薩の経済は元気がない。特に万世などは、鉄道網から外れたことをきっかけに、かつての賑わいの片鱗すらも感じられない有様である。今では高齢化と人口減少に喘いでいる。こうした状況を打破するのは、人々の努力と創意工夫しかないが、それに別院も少しだけ力を貸してくれてもよいのではないだろうか。例えば、顕証寺を使って法話を行うでもよい。それに私は、お寺というのは田舎の重要なインフラだと思っている。なぜなら、帰省する人々の窓口にもなっているからだ。お寺を情報発信の場やイベント会場として使うこともできよう。
今こそ、真宗は真俗二諦を掲げるべき時である。真諦=念仏による往生と、俗諦=地域経済の発展は矛盾しないというべきだ。私も、形式上ではあるが、門徒の末席を汚すものである。お寺という財産を、未来のために活かす時が来ていると思っている。
【謝辞】
本稿を書くにあたって、丁子屋さん(吉峯家)に取材させていただきました。この場を借りて厚く御礼申し上げます。
【参考資料】
『本願寺開教五十年史』1925年、本願寺鹿児島別院 編
『鹿児島本願寺開教百年史』1987年、開教百年史編纂委員会(代表 槇藤 明香)
『市来町郷土誌』1982年、市来町郷土誌編纂委員会 編
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