6月13日(土)、鹿児島市のレトロフトで「鹿児島磨崖仏巡礼vol.1」というイベントを開催した。畏友の川田達也さんとのコラボイベントである。
【参考】薩摩旧跡巡礼 ← 川田さんがやっているブログ
http://nicool0813.blog.fc2.com/
「鹿児島磨崖仏巡礼」というのは、私から川田さんに提案したプロジェクトで(そういえばこのブログではお知らせしていなかった)、鹿児島の磨崖仏を全部網羅したハンドブックを作ることを目標にしつつ、鹿児島の磨崖仏について二人で楽しむというもの。
具体的に何をしているのか? というと、実は磨崖仏を巡っているのは川田さんだけで、私は川田さんから送られてくる写真や情報を元に、与太話をするだけ(笑)
その与太話については、こちらのブログで公開している。
【参考】鹿児島の磨崖仏ノート
http://nansatz.wp.xdomain.jp/
そういうわけで、コラボプロジェクトといっても、二人が共同で何かをするという要素があまりないのが「鹿児島摩崖仏巡礼」。でも時には二人揃って何かやった方がよいし、どうせならもっと多くの人に楽しんでもらおうということで、半年に一度程度「中間報告会」を開いて、磨崖仏の面白さを訴えることにした。
それが、今回第1回目となった冒頭のイベントである(ちなみに全4回の予定)。
その内容は、最初の30分程度、磨崖仏の概論的なものを私が話して、次に今回オススメの磨崖仏3つを二人で解説した後、川田さんがいろいろな磨崖仏を写真で紹介する、というものだった。
また、今回はコロナのため人が集まりすぎるとよくないということで事前申込制とし、定員を25人にした(でも会場キャパの都合から次回以降も申込制にするかも)。当日急に来られなかった人もいたが、ほぼ満席となり、磨崖仏への関心の高さが窺えた。
が、ここで反省しておくと、どうもイベントの前半は、盛り上がりに欠けた(客席の反応が薄かった)ような気がする。ちょっと前置きが長かったのかもしれないし、説明が小難しすぎたのかもしれない。あるいは説明がちょっと大雑把すぎたという可能性も…。うーん、よくわからない。
途中休憩の時に、川田さんと「客席との距離を感じますね…」と焦って相談し、「磨崖仏の解説を理解してほしいのではなく、磨崖仏を楽しんでもらいたい、という方向性をもっと強く出そう」とちょっと方向転換して後半に臨んだところ、前半よりはよくなった(と思う)。
結果的には、参加されたほとんどの方が「鹿児島の磨崖仏って面白そうだな!」と思ってくれたのではないかと思う(完全に推測の自己評価です)。
ちなみに当日強調したのは、鹿児島の磨崖仏は音楽で譬えれば「インディーズバンド」みたいなものだということ。
全米大ヒット、とか、オリコン1位とか、あるいは国民的歌姫、そういう存在は、確かに多くの人に響くものだろうし、みんなが「すごい!」と認める。でも鹿児島の磨崖仏には、そういうすごいものはあまりない。そういう誰もが認めるすごい磨崖仏を見たかったら、臼杵磨崖仏、中国の龍門石窟、インドのアジャンター石窟なんかに行ったらいい。そっちの方が鹿児島の磨崖仏より遙かにすごい。
じゃあ、鹿児島の磨崖仏を見るのは、そういうすごい磨崖仏は遠くてなかなか見ることができないから、とりあえず地元の小さなもので我慢しておく、というような、手近な代替品なんだろうか?
もちろんそういう側面はある。私もアジャンター石窟とか行ってみたい。でも鹿児島の磨崖仏は、小規模なだけに個性がすごい。まるでキラリと光るインディーズバンドみたいなのだ。確かに大資本の力はないし、技術も高くはない。でも作った人の思想やデザイン力や、何だか分からない情念がダイレクトに表現されているのが鹿児島の小規模な磨崖仏なのである。
それは、決して万人受けするものではないかもしれない。でも友達から「○○ってバンドが面白いんだよね!」って勧められたら、5人に1人くらいはファンになっちゃうような、クラスの中だけで小さな流行が起こるような、そういう認められ方はする存在だと思う。
私はこのプロジェクトについては、社会に対して何を訴えるとかそういう大それた気持ちは全くないが、無名のインディーズバンドを友達に勧める程度の役割は果たしたいと思っている。
第2回の中間報告会は、たぶん2020年12月。よかったらお越し下さい。
2020年6月17日水曜日
2020年5月8日金曜日
隠さなければならない繁栄——秋目の謎(その2)
坂本家正面玄関 |
秋目は、かつては貿易で栄えた港町だった、と地元の人は誇る。
いくら史料の中で「秋目は貧乏で疲れた郷だ」と言われていても、秋目に残る遺物を見れば、それを額面通り受け取っていけないことが分かる。かつての貿易の跡がそこかしこに残っているからだ。
例えば、秋目には漢方医をしていた坂本家の屋敷がある。
この屋敷は、秋目の集落を見下ろす位置にあり、本宅、土蔵、そして庭園の跡が残る。本宅の怖ろしく立派な正面玄関だけでもかつての威風を窺うのに十分だが、大きな土蔵と巨大で手の込んだ石灯籠(中国製のように見える)が残る庭園跡は、有り余っていた富を感じさせる。
坂本家の石灯籠 |
それはさておき、このような立派な邸宅がある以上、秋目が貧乏な土地だったとは言えないのは明らかだ。確かに秋目には石高の大きな武士はいなかった。というよりも、水田が耕作可能な土地がほとんどなかったので、秋目全体の石高がとても少なかった。「石高制」の下では、少なくとも帳面上、秋目は石高の低い、貧乏な土地にならざるをえなかった。
だがそれを補って余りあったのが、貿易の利益であった。
薩摩藩は、鎖国体制下にあっても琉球を通じて中国と貿易を行っていた。その拠点が、山川港であり坊津港であった(「坊津」は、史料上では坊津諸港(坊、泊、久志、秋目)の総称として使われていることが多い)。
![]() |
坊津諸港 |
琉球は、元々は独立国であり、中国の冊封国であった。冊封国というのは、中国王朝を宗主国として奉ずる臣下の国ということである。例えば冊封国は、中国の暦(元号)を使う。また臣下として、定期的に中国に産物を進貢しなくてはならない。しかしこの進貢に対する返礼として、中国は貢納品以上の価値があるものを下賜してくれる。すると、この進貢は実質的には中国との官営貿易であるということになる。薩摩藩が目をつけたのはここである。
薩摩藩は琉球侵攻(1609年)によって琉球国を実質的には属国(植民地)としつつ、中国に対しては琉球を独立国にしつらえて中国の冊封体制に留まらせた。こうすることで琉球の進貢貿易を裏であやつって秘密裡に中国の産物を手に入れ、それを闇ルートで売りさばいて莫大な利益を得たのである。
この貿易は、秘密であっただけに史料上は明らかでないことが多いが、流通には藩営のものと私的な(民間の貿易商人による)ものがあったらしい。琉球〜中国間の貿易(進貢貿易)は国家間のものであったし、薩摩藩が厳密に管理していたはずだが、それ以外にも唐船(中国船)との私的な交易が散発的に行われたようだし、琉球〜薩摩、薩摩〜全国の流通は必ずしも藩営に限らなかった模様である。今であっても、公営の営利事業はほとんど決まって非効率で鈍重であり、思ったように利益が得られない。多分藩政時代でも似たようなものだったのだろう。その空隙を縫って貿易商品はいつの間にか民間に流出し(「抜け荷」)、全国に流通していった。
もちろん、藩としては貿易の利益を独占したかったので、民間の密貿易は好ましくなかっただろう。それに、琉球に薩摩からの民間の商船が自由に行き交っていれば、薩摩が琉球を植民地化したことが中国にばれてしまう危険がある。実際、明代には琉球と薩摩の関係は明に強く疑われていた。そのため、琉球に就航する薩摩船については、「あれはトカラの船で、薩摩の船ではありません」という苦しい言い訳をしていたのである。 もちろんトカラも薩摩の領土だったのであるが、トカラ(七島、宝島などと呼んでいた薩南諸島)も独立国であると薩摩藩は説明していたのだった。
しかしこのような無茶な言い訳がいつまでも通用するわけもない。トカラには独立国としての体裁がなく、虚構の国だったのだから当然だ。また琉球には薩摩藩から在番奉行などの役人も赴任しており、中国には薩摩藩の虚偽の説明は看破されていた。そこで薩摩藩は、琉球から薩摩藩の存在を完全に隠蔽する方策へと段階的に移っていった。
その隠蔽体制が完成するのが、享保3年(1718)頃である。そして翌年享保4年、密貿易の一大拠点だった坊津に「享保の唐物崩れ」と呼ばれる大事件が起こった。これは密貿易の大規模摘発事件である。これまでは民間の密貿易は黙認の状態にあったと見られる。しかしこの大規模摘発によって坊津で行われていた民間の密貿易は潰滅させられ、伝説では坊津は一夜にして寒村と化し、残ったのは婦女ばかりだったという。
この大規模摘発は、直接には幕府の密貿易対策に応える形で行われた。時の幕府では新井白石が「海舶互市新例」(正徳5年(1715))を定めて貿易制限を打ち出し、密貿易を徹底的に摘発する姿勢を見せていた。こうなると薩摩藩としても民間の密貿易を野放しにすることはできない。しかも先述の通り薩摩藩は中国に対しても琉球から薩摩船の存在を消し去らねばならないという事情があり、結果的に坊津の密貿易を潰滅させるという決断に至ったものと思われる。こうして、薩摩藩の海外貿易は、山川港における藩直轄の官営密貿易に一本化されることとなった。
なお「享保の唐物崩れ」は史料上には直接の証拠がないが、「坊村ノ内本坊下浜商漁姓氏録」という史料を見ると、享保を境として坊には海商の名が見えなくなるので、少なくとも坊の浦の民間貿易が大きな規制を受けたのは事実と考えられる。
ところが、である。
不思議なことに、秋目の墓地に残された墓石をつぶさに見てみると、古い墓石はあまりなく、享保あたりから急に高級で手の込んだ墓石が建立されているのである。明らかに、秋目は享保の頃から活況を迎えている。これはどういうことか。
答えは一つしかない。坊の港の密貿易が潰滅させられて、密貿易は「秋目」に移ったのである。
密貿易の一番の中心だったと思われる坊の浦には、坊津街道(薩摩街道)も通っており、表立って違法な貿易を行うにはあまりにも目立ちすぎた。一方秋目は、文字通り「陸の孤島」である。秋目からは隣の「久志」にすら明治時代まで道は通っていなかった。同じ「久志秋目郷」なのにもかかわらず。孤立した立地は、幕府の目、藩の目を避けるにはぴったりなのだ。
この、秋目に移ってからの密貿易は、それまでの密貿易とは性格が違った。それまでの密貿易は、確かに幕府には秘密だった。一方薩摩藩はこれを厳しく取り締まっていたわけではなかったので、藩に対してはあまり気を遣う必要はなかったと思われる。だが「享保の唐物崩れ」以降の民間の密貿易は、幕府と薩摩藩の両方に対して秘密にしなくてはならなかった。この二重の秘密貿易をここでは仮に「闇貿易」と呼ぼう。
この「闇貿易」こそが、おそらく秋目が「貧乏で疲れた郷」を装っていた理由なのである。石高の低い秋目にたくさんの富があれば、貿易で儲かっていることがバレてしまうからだ。そのため秋目の人たちは表立って富を誇示することはなく、少なくとも帳面上は貧乏であるように見せかけ続けた。
だが、今も残る豪華な墓石から判断すれば、享保以降の100年程度の間、秋目は空前の繁栄を享受した。ひょっとすると、瞬間的にはかつての坊の浦以上の繁栄だったのかもしれない。しかし坊の一乗院が度外れた貴重品を集積したようには、秋目には富の痕跡がない。墓石から判断する限り非常に裕福だったにもかかわらず、それを窺えるものは秋目にはそれほど多く残っていない。それが、闇貿易による隠さなければならない繁栄だったからだろう。それでも坂本家が坊津諸港の中で唯一残った漢方医屋敷だというのは偶然ではなく、秋目が「享保の唐物崩れ」以降にも貿易で賑わっていたことの傍証のように思える。
そもそも漢方医の存在自体が、貿易の存在を前提とする。漢方薬の原料は日本では採れないからだ。おそらく、秋目は闇貿易によって漢方薬を安く大量に入手し、それを富山の薬売りたち(「薩摩組」という富山の薬商が藩許を得て出入りしていた)へ売りさばいていたに違いない。
享保以降の闇貿易のことは、私の推測であって、これまでの研究では言われていないことである。秋目の墓石をもっと詳細に調査すれば、ちゃんと裏付けが取れるかも知れない。秋目の墓地は度重なる墓地整備(特に国道226号の拡幅工事の際の整理と鑑真記念館の建設)によって本来の墓域の数分の一に縮小されているので、 実は享保以前の墓石もたくさんあったのにそれが失われたという可能性もある。公的機関による詳細な調査が望まれる。
とはいえ、少なくとも秋目が貿易によって享保以降に活況を迎えたことは揺るがしがたい事実である。にもかかわらず、「秋目は貧乏で疲れた郷」だと自称していたというのは、その貿易が公にできないものだったから、以外には考えづらいのである。
(つづく)
【参考】正法寺|薩摩旧跡巡礼
http://nicool0813.blog.fc2.com/blog-entry-340.html
秋目の豪華な墓塔についてレポートしています。
【参考文献】
『海洋国家薩摩』2011年、徳永和喜
「坊津一乗院の成立について」2005年、栗林文夫
『鹿児島県の歴史』1973年、原口虎雄
2020年4月19日日曜日
(新)鹿児島県知事へお願いする5つのこと
(前回からの続き)
私は鹿児島にとって最も大事なのは「男女共同参画」だと思っているが、それ以外の点でもこういう鹿児島県になったらいいなと思うことがあるから、新知事(候補)へ向けてこの機会に簡単に書いてみる。
必要なこととしては、第1に図書館の充実。過疎地では、市町村にとって一定規模の蔵書を持つことは過大な負担だ(住民一人当たり蔵書数が大きいから)。だから人口減少時代のこれからは広域的な図書館政策が必要だと思う。鹿児島は東京から20年は遅れたところで、情報格差ももの凄いのだから(インターネットなんかではとても埋め合わせできないくらいの差がある)、図書館は地域の知の拠点であると位置づけて充実してほしい。蔵書数も増やして欲しいが、指定管理者制・司書の非正規化が進んだことの反省など制度面の見直しも必要である。
第2に、文化的活動への支援の拡充。例えば私がアーティストだったとして、鹿児島と東京のどちらが生きていけそうかと言えば、圧倒的に東京なのだ。発表の場も、理解してくれる人も、東京の方がずっと多いからである。だから、鹿児島で活動するアーティストや、文化活動に携わる多くの人には、もっと下駄を履かせてあげないと大変すぎると思う。例えば鹿児島の「アーティストバンク」に登録の人には、年間20万円の活動助成費を無条件で渡すくらいしたらどうだろうか(参考→ http://www.houzanhall.com/zaidan/project.html)。
また、鹿児島の文運を高めるため、出版助成もぜひやってほしい。今は印税で儲ける時代ではなく、もはや著者が出版社に金を出すような有様である。内容を問わず、1冊の出版あたり100万円くらいを助成するくらいやった方がいいと思う。この他、講演会への助成、文化活動の情報発信(鹿児島市には「かごしま情報センター」があるが全県的にもこういうのが必要)などを進めて欲しい。「発信する人を応援する鹿児島」をつくるのが鹿児島の文化環境の改善に役立つと思う。それから、黎明館の強化も必要だと思う。文化を高めることは、長い目で見れば質の高い観光にも寄与する。今の鹿児島の文化関連予算は僅かなので、それを2倍にしても金額的には小さいが、大きな効果が期待できる。
だから鹿児島県庁は、日本の公共土木事業をリードする、というくらいの気概を持って欲しい。それは施行の内容はもちろん、周囲と調和したデザイン、環境保護やメンテナンス性など、色々な観点から見て先進的なものであるべきで、そして設計段階からの地域住民と対話し、多くの人のアイデアや希望を踏まえる、というプロセスも一流のものであって欲しい。ぜひ県民にとって「開かれた公共土木事業」になることを切望する。

前回書いた男女共同参画の話も、「5 ジェンダー平等を実現しよう」に包摂されるものだ。この17の目標のいくつかについては、これ以外にも「鹿児島ではこうしたらいいのになあ」と思うこともあるが、あんまり細かい話になるので割愛する。この17の目標は理想の世界の実現に向けて非常に練られたものなので、大概の政党のマニフェストなんかよりずっと共感できる。にも関わらず、鹿児島県庁では今のところSDGsがほぼ黙殺されているような気がする。WEBサイトにも、通り一辺倒の説明が載っているだけだ。
【参考】SDGs(持続可能な開発目標)|鹿児島県
https://www.pref.kagoshima.jp/ac01/kensei/keikaku/chihousousei/sdgs/index.html
鹿児島市では、「かごしま環境科学未来館」でSDGsについてかなり取り上げられているみたいだが、鹿児島県としての動きは聞かない。SDGsは環境保護だけでなく、人権・教育・経済成長・エネルギー問題など幅広い問題を取り扱っているので、県政の柱として活かしてほしい。今現在、これを県政の柱とまで掲げている都道府県はないようなので、鹿児島県にはSGDsに先進的に取り組み、全国をリードして欲しいと思っている。
が、その基盤となる農業技術についてはぐらついているように感じる。例えば「普及指導員」の数がどんどん減らされているのだ。 「普及指導員」というと一般の方にはあまり馴染みがないかもしれないが、県の技術職員で農業技術の研究や農家への指導をする人である。農業は、自然のエネルギーを技術によって生産物へ変える産業である。だから、技術こそが生命線であり、その基盤を担ってきたのが「普及指導員」だったと思う。
それが、県庁の定員削減によってジワジワ減ってきている。同じく農業技術の要であった県立農業試験場(現・農業開発総合センター)は、農業大学校と共に(土地建物には)500億円以上ものお金をかけて移転・再編されたにもかかわらず、なんだか中身の方がスカスカになってきているような気がする。普及指導員の減少がものを言っているのではないか。
鹿児島はせっかくの農業県なのだから、「農業技術についてわからないことがあったら鹿児島に聞け」というくらいになって欲しい。普及指導員の定員を減らしている場合ではなく、むしろ増やすべきだ。農業技術を高めることが、農産物の品質向上や農家の所得向上をもたらすはずである。県は、食のブランディングとかマーケティングのようなことだけでなく、農業技術の向上という、行政しか取り組めないことにもっと注力すべきだと思う。
2015年に川内原発を再稼働させたときに、ちょっとだけ県民の問題意識が高まったものの、今はまた昔のように「何となく現状維持」になっていると思う。県は、薩摩川内市民には防災関係の説明会などしているが、それ以外には特に県民と議論しようという雰囲気もなく、むしろ触らぬ神に祟りなし的に、原発問題はそっとしておこうとしているようにも思われる。
だが2023年以降の川内原発をどうするのか、それを九電との密談で決めるのではなく、県民の意志を反映し、議論を積み重ね、公明正大に決断してほしい。今の鹿児島県に最も足りないのは、こういう住民参画型の合意形成のプロセスである。「原発について議論しましょう!」と言える県知事であって欲しい。
細かいことでは他にもいろいろ言いたいことはあるが、今思いついたのが上の5項目だからこのあたりで辞めることにする。この夏の県知事選、過去2回よりは政策的な議論が行われるのではないかと期待している。そして何より大事なのが「投票率」。みなさん選挙に行きましょうね!
私は鹿児島にとって最も大事なのは「男女共同参画」だと思っているが、それ以外の点でもこういう鹿児島県になったらいいなと思うことがあるから、新知事(候補)へ向けてこの機会に簡単に書いてみる。
鹿児島にもっと文化を!
文化はお金持ちの暇つぶしのためにあるのではなくて、人間的な生活に欠かせないものである(日本国憲法第25条「すべて国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」)。しかも、文化は「あたりまえ」の生活を違う角度から見る機会を提供する。だから文化は直接何かに役には立たなくても、経済やコミュニティや生活の向上に寄与する。しかも文化的なものが少ない地域はとびきり優秀な人達にとって魅力のないものに映る。だから文化後進地域である鹿児島は、もうちょっと真剣に文化的環境の充実に取り組まないといけない。必要なこととしては、第1に図書館の充実。過疎地では、市町村にとって一定規模の蔵書を持つことは過大な負担だ(住民一人当たり蔵書数が大きいから)。だから人口減少時代のこれからは広域的な図書館政策が必要だと思う。鹿児島は東京から20年は遅れたところで、情報格差ももの凄いのだから(インターネットなんかではとても埋め合わせできないくらいの差がある)、図書館は地域の知の拠点であると位置づけて充実してほしい。蔵書数も増やして欲しいが、指定管理者制・司書の非正規化が進んだことの反省など制度面の見直しも必要である。
第2に、文化的活動への支援の拡充。例えば私がアーティストだったとして、鹿児島と東京のどちらが生きていけそうかと言えば、圧倒的に東京なのだ。発表の場も、理解してくれる人も、東京の方がずっと多いからである。だから、鹿児島で活動するアーティストや、文化活動に携わる多くの人には、もっと下駄を履かせてあげないと大変すぎると思う。例えば鹿児島の「アーティストバンク」に登録の人には、年間20万円の活動助成費を無条件で渡すくらいしたらどうだろうか(参考→ http://www.houzanhall.com/zaidan/project.html)。
また、鹿児島の文運を高めるため、出版助成もぜひやってほしい。今は印税で儲ける時代ではなく、もはや著者が出版社に金を出すような有様である。内容を問わず、1冊の出版あたり100万円くらいを助成するくらいやった方がいいと思う。この他、講演会への助成、文化活動の情報発信(鹿児島市には「かごしま情報センター」があるが全県的にもこういうのが必要)などを進めて欲しい。「発信する人を応援する鹿児島」をつくるのが鹿児島の文化環境の改善に役立つと思う。それから、黎明館の強化も必要だと思う。文化を高めることは、長い目で見れば質の高い観光にも寄与する。今の鹿児島の文化関連予算は僅かなので、それを2倍にしても金額的には小さいが、大きな効果が期待できる。
開かれた公共土木事業へ
鹿児島は公共土木事業に依存した経済実態がある。それの是非はさておき、いつも気になっているのは、鹿児島の公共土木事業が、なんだか密室的・ブラックボックス的であることだ。鹿児島にとって公共土木事業が大事なのであれば、それを全国的に見て一流のものにするべきだと私は思う。だから鹿児島県庁は、日本の公共土木事業をリードする、というくらいの気概を持って欲しい。それは施行の内容はもちろん、周囲と調和したデザイン、環境保護やメンテナンス性など、色々な観点から見て先進的なものであるべきで、そして設計段階からの地域住民と対話し、多くの人のアイデアや希望を踏まえる、というプロセスも一流のものであって欲しい。ぜひ県民にとって「開かれた公共土木事業」になることを切望する。
鹿児島をSDGs先進県に!
「SDGs = Sustainable Development Goals」とは、国連で定めた「持続可能な開発目標」のことだ。だいぶ浸透してきたので今さらここで解説する必要もないだろうが、よりよい世界の実現に向け、2030年までに先進国・発展途上国の全ての国が達成すべき17のゴールと169のターゲットで構成される。SDGsは、発展が遅れた地域向けや国家的な目標も含むから、鹿児島の現状からするとピンとこない項目もあるが、その多くは鹿児島にとって非常に大事なことばかりである。
前回書いた男女共同参画の話も、「5 ジェンダー平等を実現しよう」に包摂されるものだ。この17の目標のいくつかについては、これ以外にも「鹿児島ではこうしたらいいのになあ」と思うこともあるが、あんまり細かい話になるので割愛する。この17の目標は理想の世界の実現に向けて非常に練られたものなので、大概の政党のマニフェストなんかよりずっと共感できる。にも関わらず、鹿児島県庁では今のところSDGsがほぼ黙殺されているような気がする。WEBサイトにも、通り一辺倒の説明が載っているだけだ。
【参考】SDGs(持続可能な開発目標)|鹿児島県
https://www.pref.kagoshima.jp/ac01/kensei/keikaku/chihousousei/sdgs/index.html
鹿児島市では、「かごしま環境科学未来館」でSDGsについてかなり取り上げられているみたいだが、鹿児島県としての動きは聞かない。SDGsは環境保護だけでなく、人権・教育・経済成長・エネルギー問題など幅広い問題を取り扱っているので、県政の柱として活かしてほしい。今現在、これを県政の柱とまで掲げている都道府県はないようなので、鹿児島県にはSGDsに先進的に取り組み、全国をリードして欲しいと思っている。
農業技術の向上
鹿児島の基幹産業は農業である。農業生産額は全国3位だ。私自身も百姓なので、農業振興は最も身近な話題である。これまでの鹿児島県政でも、6次産業化の推進や食のブランド化、海外への農産物の輸出などいろいろ取り組まれてきた。が、その基盤となる農業技術についてはぐらついているように感じる。例えば「普及指導員」の数がどんどん減らされているのだ。 「普及指導員」というと一般の方にはあまり馴染みがないかもしれないが、県の技術職員で農業技術の研究や農家への指導をする人である。農業は、自然のエネルギーを技術によって生産物へ変える産業である。だから、技術こそが生命線であり、その基盤を担ってきたのが「普及指導員」だったと思う。
それが、県庁の定員削減によってジワジワ減ってきている。同じく農業技術の要であった県立農業試験場(現・農業開発総合センター)は、農業大学校と共に(土地建物には)500億円以上ものお金をかけて移転・再編されたにもかかわらず、なんだか中身の方がスカスカになってきているような気がする。普及指導員の減少がものを言っているのではないか。
鹿児島はせっかくの農業県なのだから、「農業技術についてわからないことがあったら鹿児島に聞け」というくらいになって欲しい。普及指導員の定員を減らしている場合ではなく、むしろ増やすべきだ。農業技術を高めることが、農産物の品質向上や農家の所得向上をもたらすはずである。県は、食のブランディングとかマーケティングのようなことだけでなく、農業技術の向上という、行政しか取り組めないことにもっと注力すべきだと思う。
原発をどうするかは、ちゃんと議論して決めよう
原発の寿命は40年が目途というが、川内原発は2023年に建設から40年経過することになる。次の県知事の任期中には川内原発をどうするかの決断をしなくてはならない。しかし、脱原発するのか、それとも原発を使い続けるのかという知事自身の方針よりも大事なのが、県民の意志であると私は考える。2015年に川内原発を再稼働させたときに、ちょっとだけ県民の問題意識が高まったものの、今はまた昔のように「何となく現状維持」になっていると思う。県は、薩摩川内市民には防災関係の説明会などしているが、それ以外には特に県民と議論しようという雰囲気もなく、むしろ触らぬ神に祟りなし的に、原発問題はそっとしておこうとしているようにも思われる。
だが2023年以降の川内原発をどうするのか、それを九電との密談で決めるのではなく、県民の意志を反映し、議論を積み重ね、公明正大に決断してほしい。今の鹿児島県に最も足りないのは、こういう住民参画型の合意形成のプロセスである。「原発について議論しましょう!」と言える県知事であって欲しい。
細かいことでは他にもいろいろ言いたいことはあるが、今思いついたのが上の5項目だからこのあたりで辞めることにする。この夏の県知事選、過去2回よりは政策的な議論が行われるのではないかと期待している。そして何より大事なのが「投票率」。みなさん選挙に行きましょうね!
2020年4月12日日曜日
鹿児島を理想郷にするために一番大事なこと
7月に鹿児島県知事選がある(はず、コロナウイルスの影響で延期されなければ…)。
それで、この機会に新知事(現職が再選されたとしても)にぜひ取り組んで欲しいことがあるので書いておきたい。
それは、男女共同参画社会の実現である。これこそが、鹿児島にとっての最重要課題だと言っても過言ではない。
ちょっと待ってよ! と多くの人は言うだろう。「それよりも、全国でも最低水準の県民所得を何とかしてよ」とか、「基幹産業である農林水産業の振興が急務!」とか「人口減少・少子高齢化社会の対応こそが喫緊の課題だろ」とか。
もちろんそうした問題は大事である。そして男女共同参画なんかは「そりゃ大事かもしれないけど、余裕がある時にやればいいんじゃない?」というような話かと思われている。
だが私はそれは全く間違いだといいたい。
というのは、鹿児島の発展を阻んでいる最大の要因は、女性に対する差別なんじゃないかと思うからだ。
その理由をちょっと説明させて欲しい。
鹿児島は「優秀な人材がどんどん流出していく」という問題を抱えている。最も出来がいい高校生は東京の大学に行き、大概は東京の企業に就職するからだ。ところがこれには明確な男女差があり、女子生徒はあまり県外に出ていかない。
それどころか、女子生徒は大学にすらあまり行かせてもらえない。鹿児島県の女子の大学進学率は35%未満で、毎年全国最低である。ちなみに男子の進学率も40%程度で全国的にドベに近く、鹿児島県は大学進学者自体が少ない(ちなみに全国平均は53%くらい)。それでも男子の進学率は、女子のそれよりも5〜10%高い。このジェンダーギャップが鹿児島は大きい。男尊女卑のイメージがある九州内各県で比べても大きい。
【参考】データえっせい ← ※このブログを書いている舞田さんは鹿児島県出身
都道府県別の大学進学率(2019年春)
都道府県別の大学進学率(2018年春)
都道府県別の大学進学率(2017年春)
もちろん、鹿児島の女子が男子(や他県の女子)に比べ頭が悪いということはないから、他県だったら大学まで行っているような女子が、鹿児島県の場合は行かせてもらえない、ということを意味する。「女の子が大学に行く必要はないだろう。行かせる金もないし」で、優秀な女子生徒が満足な教育も受けずに地元の零細企業で働いているのである。
これ自体が大変な問題である。大学進学率を引き上げるのはお金の問題もあるからさておいても、男女の進学率は等しくあらねばならないと私は思う。けれども、今はその問題はひとまず措く。
それで、こうした状況の結果、良し悪しはともかく、鹿児島は、一流の男性は東京に流出していってしまう一方、一流の女性はさほど流出していない、という現状がある。
実際、自分の高校の同級生など考えても(一応、鶴丸高校という鹿児島の進学校の卒業です)、出来のよかった男の友達などほとんど本社東京の企業に就職しているのに、女の友達についてはかなりの程度地元に残っている。
鹿児島の女性には、男性に比べ優秀な人が多いのだ。
管見の限りでも、鹿児島でのキラリと光るプロジェクトには、必ずと言っていいほど女性が裏方で大活躍している。仕事が早くて正確で、気のきく女性がとりまわしていることが実に多いのである。
ところが、やはりプロジェクトの代表は男性であり、ほとんど仕事の中核を担っているその女性が、全然大した給料をもらっていないことも、また呆れるほど多いのだ。
要するに、鹿児島の女性には優秀な人が多いのに、正当に評価されていない!
そして、より損失が大きいと思うのが人事面だ。そういう優秀な女性は縁の下の力持ちみたいな立場ばかりで、プロジェクトリーダーみたいに前面に立つことは少ない。当然、課長や部長になる女性は少ない。市役所なんかは女性職員の方が多いのに、幹部職員になると急に男性ばかりになる。本当は幹部職員になるべき優秀な女性が影に隠れ、さほどでもない男性が幹部になってしまっている。
鹿児島県の事業所の課長相当職の女性比率は、2016年でたったの14%しかない。
【参考】県の女性活躍の現状について|鹿児島県
http://www.pref.kagoshima.jp/ab15/kurashi-kankyo/danjokyoudou/joseikatuyaku/joseikatuyakunogenjo.html
でも、経済でも、行政でも、パフォーマンスを上げる最高の策はいつでも「優秀なリーダーを選ぶこと」なのだ。優秀な女性にリーダーをしてもらった方が、経済も発展し、行政もよりよくなるに決まっているのである。
しかし、現実に人事を担当している人は言うかもしれない。「そんなこと言っても、女性が幹部職員になりたがらないんだもん」と。確かにそれはそうだ。
鹿児島には「女性が表立って活動しづらい風土」がある。男が前面に立った方が、何かとスムーズにいく。そういう風土から幹部職員を避ける女性も多い。でも同時に、女性が家庭の仕事のほとんどをしているという現実もある。幹部職員になっても、毎日の食事を作り、風呂を沸かし、洗濯をし、日々のこまごまとしたことをこなしていかなければならない。仕事と家庭の両立が困難だから、幹部職員を辞退している女性もまた多いのである。
単純化して言えば、一流の女性の力が活かされず、二流の男性が動かしているのが、鹿児島の社会なのだ。
そして優秀な女性ですらそんなに割を食っているのだとすれば、普通の女性はもっと割を食っていると考えるのが自然である。私は、鹿児島の女性がひどく差別されて苦しんでいるとか言いたいわけではない。鹿児島の女性は男性をうまく立てながら、したたかに立ち回る術をわきまえている。鹿児島のオバチャンにはとても元気で人生を楽しんでいる方が多く、「男尊女卑だから女性は泣いてばかりいる」なんてことはないのである。
だが、差別とは構造的な問題である。確かに鹿児島の女性は見えない何かで縛られている。自分の能力を十全に発揮させてもらえない状態にあるのである。
そもそも社会はだいたい半分ずつの男女で構成されている。その半分を縛るということは、片方の足を縛って歩いているようなものだ。鹿児島県は、ただでさえ僻地にあり、人口減少・高齢化に苦しんでいる。にも関わらず片足を縛って歩き、他の地域と競争していかなくてはならない。こんなバカな話はない。まず、その縛っている見えない何かを解くべきだ。
女性の力をちゃんと発揮すること、これは、単なる人権問題ではなく、経済を成長させる原動力になり、産業の振興に繋がり、また人口減少問題にも有効な手段なのである。女性が家庭から出て働くことは、一見出生率の減少を招くようだが、女性が働きやすい社会とは、子どもを産み育てやすい社会でもあるからだ。
だから私は、男女共同参画社会の実現が、鹿児島にとっての最重要課題だと言いたいのである。それは人権問題であるに留まらず、経済政策として推進するに足るものである。「経済政策としての男女共同参画」を、鹿児島県は進めるすべきである。
ただしこの論理展開には一つ注意しなければならないことがある。仮に経済的に不利になる場合でも男女共同参画は進めなければならない、ということだ。それは経済よりもっと大事な、人権に属する事柄だからである。だから「経済的に大事だから男女共同参画を進めなければならない」のだと勘違いしてほしくない。 そうではなく「鹿児島県の場合、幸いにして男女共同参画に経済合理性があるから、強力に推し進められるはずだ」と言いたいのである。
じゃあ具体的に何を実施すべきか?
これまでの男女共同参画政策は、市町村に計画を策定させたり、講演会を開催したりといったあまり実効的でないものが多かった。でも鹿児島県の意識の遅れを考えると、強力なアファーマティブ・アクション(差別是正のための優遇措置)が必要である。例えば、商工会・商工会議所の補助金で、女性幹部職員の比率で露骨に補助率が変わるといったようなことだ。女性の経営者なら補助金取り放題で、無利子融資が受けられて、それどころか税金も割引にするっていうくらいやったらいい。私の言う「経済政策としての男女共同参画」はそういうものである。
またそれとは別に、女子学生への教育の提供も進めなくてはならない。優秀な女子学生が大学にすら行かせてもらえないというのは社会的損失だ。女子への給付型奨学金を創設すべきだ。また現状で「女子は短大で十分」といった意識があることも踏まえ、鹿児島県立短大の教育の充実(予算を増やす)、私立の女子学校(鹿児島女子短期大学、純心女子学園など)への大幅な支援も行うのが有効である。
そうして初めて、鹿児島はようやく平均並みの「男女平等」が実現できると思う。 そしてそうなった時、鹿児島の経済は全国ドベの状態から脱出できると確信する。
今般のコロナ禍においても、台湾の蔡英文総統、ニュージーランドのアーダーン首相、ドイツのメルケル首相など、世界の女性リーダーが非常に頼りになるのを見せつけられた。政治家などは人々の意識を先導しなくてはならないのに、日本の場合は普通の人より意識が遅れたオジサンが政治を率いているのが悲劇である。鹿児島の新知事には、21世紀に生きる人間として真っ当な人権意識があることを見せつけて欲しい。
私は、鹿児島という土地が大好きである。でも、一つだけいただけないのが女性差別が激しいことだ。女性差別さえなくなれば、鹿児島はほとんど理想郷みたいなところである。「鹿児島から第二の維新を!」というのがよく言われるが、私はそれを率いる第二の西郷さんは、女性であって欲しいと思っている。
「どーせ鹿児島は歴史的に男尊女卑なんだから」などというなかれ。明治期までの鹿児島はそうでもなかった、ということを昔ブログに書いたことがある(下のリンク)。未来は変えられる。新知事には男女共同参画社会を実現させることを強く期待したい。
(つづく(男女共同参画以外にも言いたいことがあるのでついでに書こうと思います))
【関連ブログ記事】
鹿児島は歴史的に男尊女卑なのか
https://inakaseikatsu.blogspot.com/2015/09/blog-post.html
農村婦人、婦人部、農業女子
https://inakaseikatsu.blogspot.com/2016/03/blog-post_17.html
それで、この機会に新知事(現職が再選されたとしても)にぜひ取り組んで欲しいことがあるので書いておきたい。
それは、男女共同参画社会の実現である。これこそが、鹿児島にとっての最重要課題だと言っても過言ではない。
ちょっと待ってよ! と多くの人は言うだろう。「それよりも、全国でも最低水準の県民所得を何とかしてよ」とか、「基幹産業である農林水産業の振興が急務!」とか「人口減少・少子高齢化社会の対応こそが喫緊の課題だろ」とか。
もちろんそうした問題は大事である。そして男女共同参画なんかは「そりゃ大事かもしれないけど、余裕がある時にやればいいんじゃない?」というような話かと思われている。
だが私はそれは全く間違いだといいたい。
というのは、鹿児島の発展を阻んでいる最大の要因は、女性に対する差別なんじゃないかと思うからだ。
その理由をちょっと説明させて欲しい。
鹿児島は「優秀な人材がどんどん流出していく」という問題を抱えている。最も出来がいい高校生は東京の大学に行き、大概は東京の企業に就職するからだ。ところがこれには明確な男女差があり、女子生徒はあまり県外に出ていかない。
それどころか、女子生徒は大学にすらあまり行かせてもらえない。鹿児島県の女子の大学進学率は35%未満で、毎年全国最低である。ちなみに男子の進学率も40%程度で全国的にドベに近く、鹿児島県は大学進学者自体が少ない(ちなみに全国平均は53%くらい)。それでも男子の進学率は、女子のそれよりも5〜10%高い。このジェンダーギャップが鹿児島は大きい。男尊女卑のイメージがある九州内各県で比べても大きい。
![]() |
「データえっせい」より引用:2019年春の大学進学率 |
都道府県別の大学進学率(2019年春)
都道府県別の大学進学率(2018年春)
都道府県別の大学進学率(2017年春)
もちろん、鹿児島の女子が男子(や他県の女子)に比べ頭が悪いということはないから、他県だったら大学まで行っているような女子が、鹿児島県の場合は行かせてもらえない、ということを意味する。「女の子が大学に行く必要はないだろう。行かせる金もないし」で、優秀な女子生徒が満足な教育も受けずに地元の零細企業で働いているのである。
これ自体が大変な問題である。大学進学率を引き上げるのはお金の問題もあるからさておいても、男女の進学率は等しくあらねばならないと私は思う。けれども、今はその問題はひとまず措く。
それで、こうした状況の結果、良し悪しはともかく、鹿児島は、一流の男性は東京に流出していってしまう一方、一流の女性はさほど流出していない、という現状がある。
実際、自分の高校の同級生など考えても(一応、鶴丸高校という鹿児島の進学校の卒業です)、出来のよかった男の友達などほとんど本社東京の企業に就職しているのに、女の友達についてはかなりの程度地元に残っている。
鹿児島の女性には、男性に比べ優秀な人が多いのだ。
管見の限りでも、鹿児島でのキラリと光るプロジェクトには、必ずと言っていいほど女性が裏方で大活躍している。仕事が早くて正確で、気のきく女性がとりまわしていることが実に多いのである。
ところが、やはりプロジェクトの代表は男性であり、ほとんど仕事の中核を担っているその女性が、全然大した給料をもらっていないことも、また呆れるほど多いのだ。
要するに、鹿児島の女性には優秀な人が多いのに、正当に評価されていない!
そして、より損失が大きいと思うのが人事面だ。そういう優秀な女性は縁の下の力持ちみたいな立場ばかりで、プロジェクトリーダーみたいに前面に立つことは少ない。当然、課長や部長になる女性は少ない。市役所なんかは女性職員の方が多いのに、幹部職員になると急に男性ばかりになる。本当は幹部職員になるべき優秀な女性が影に隠れ、さほどでもない男性が幹部になってしまっている。
鹿児島県の事業所の課長相当職の女性比率は、2016年でたったの14%しかない。
【参考】県の女性活躍の現状について|鹿児島県
http://www.pref.kagoshima.jp/ab15/kurashi-kankyo/danjokyoudou/joseikatuyaku/joseikatuyakunogenjo.html
でも、経済でも、行政でも、パフォーマンスを上げる最高の策はいつでも「優秀なリーダーを選ぶこと」なのだ。優秀な女性にリーダーをしてもらった方が、経済も発展し、行政もよりよくなるに決まっているのである。
しかし、現実に人事を担当している人は言うかもしれない。「そんなこと言っても、女性が幹部職員になりたがらないんだもん」と。確かにそれはそうだ。
鹿児島には「女性が表立って活動しづらい風土」がある。男が前面に立った方が、何かとスムーズにいく。そういう風土から幹部職員を避ける女性も多い。でも同時に、女性が家庭の仕事のほとんどをしているという現実もある。幹部職員になっても、毎日の食事を作り、風呂を沸かし、洗濯をし、日々のこまごまとしたことをこなしていかなければならない。仕事と家庭の両立が困難だから、幹部職員を辞退している女性もまた多いのである。
単純化して言えば、一流の女性の力が活かされず、二流の男性が動かしているのが、鹿児島の社会なのだ。
そして優秀な女性ですらそんなに割を食っているのだとすれば、普通の女性はもっと割を食っていると考えるのが自然である。私は、鹿児島の女性がひどく差別されて苦しんでいるとか言いたいわけではない。鹿児島の女性は男性をうまく立てながら、したたかに立ち回る術をわきまえている。鹿児島のオバチャンにはとても元気で人生を楽しんでいる方が多く、「男尊女卑だから女性は泣いてばかりいる」なんてことはないのである。
だが、差別とは構造的な問題である。確かに鹿児島の女性は見えない何かで縛られている。自分の能力を十全に発揮させてもらえない状態にあるのである。
そもそも社会はだいたい半分ずつの男女で構成されている。その半分を縛るということは、片方の足を縛って歩いているようなものだ。鹿児島県は、ただでさえ僻地にあり、人口減少・高齢化に苦しんでいる。にも関わらず片足を縛って歩き、他の地域と競争していかなくてはならない。こんなバカな話はない。まず、その縛っている見えない何かを解くべきだ。
女性の力をちゃんと発揮すること、これは、単なる人権問題ではなく、経済を成長させる原動力になり、産業の振興に繋がり、また人口減少問題にも有効な手段なのである。女性が家庭から出て働くことは、一見出生率の減少を招くようだが、女性が働きやすい社会とは、子どもを産み育てやすい社会でもあるからだ。
だから私は、男女共同参画社会の実現が、鹿児島にとっての最重要課題だと言いたいのである。それは人権問題であるに留まらず、経済政策として推進するに足るものである。「経済政策としての男女共同参画」を、鹿児島県は進めるすべきである。
ただしこの論理展開には一つ注意しなければならないことがある。仮に経済的に不利になる場合でも男女共同参画は進めなければならない、ということだ。それは経済よりもっと大事な、人権に属する事柄だからである。だから「経済的に大事だから男女共同参画を進めなければならない」のだと勘違いしてほしくない。 そうではなく「鹿児島県の場合、幸いにして男女共同参画に経済合理性があるから、強力に推し進められるはずだ」と言いたいのである。
じゃあ具体的に何を実施すべきか?
これまでの男女共同参画政策は、市町村に計画を策定させたり、講演会を開催したりといったあまり実効的でないものが多かった。でも鹿児島県の意識の遅れを考えると、強力なアファーマティブ・アクション(差別是正のための優遇措置)が必要である。例えば、商工会・商工会議所の補助金で、女性幹部職員の比率で露骨に補助率が変わるといったようなことだ。女性の経営者なら補助金取り放題で、無利子融資が受けられて、それどころか税金も割引にするっていうくらいやったらいい。私の言う「経済政策としての男女共同参画」はそういうものである。
またそれとは別に、女子学生への教育の提供も進めなくてはならない。優秀な女子学生が大学にすら行かせてもらえないというのは社会的損失だ。女子への給付型奨学金を創設すべきだ。また現状で「女子は短大で十分」といった意識があることも踏まえ、鹿児島県立短大の教育の充実(予算を増やす)、私立の女子学校(鹿児島女子短期大学、純心女子学園など)への大幅な支援も行うのが有効である。
そうして初めて、鹿児島はようやく平均並みの「男女平等」が実現できると思う。 そしてそうなった時、鹿児島の経済は全国ドベの状態から脱出できると確信する。
今般のコロナ禍においても、台湾の蔡英文総統、ニュージーランドのアーダーン首相、ドイツのメルケル首相など、世界の女性リーダーが非常に頼りになるのを見せつけられた。政治家などは人々の意識を先導しなくてはならないのに、日本の場合は普通の人より意識が遅れたオジサンが政治を率いているのが悲劇である。鹿児島の新知事には、21世紀に生きる人間として真っ当な人権意識があることを見せつけて欲しい。
私は、鹿児島という土地が大好きである。でも、一つだけいただけないのが女性差別が激しいことだ。女性差別さえなくなれば、鹿児島はほとんど理想郷みたいなところである。「鹿児島から第二の維新を!」というのがよく言われるが、私はそれを率いる第二の西郷さんは、女性であって欲しいと思っている。
「どーせ鹿児島は歴史的に男尊女卑なんだから」などというなかれ。明治期までの鹿児島はそうでもなかった、ということを昔ブログに書いたことがある(下のリンク)。未来は変えられる。新知事には男女共同参画社会を実現させることを強く期待したい。
(つづく(男女共同参画以外にも言いたいことがあるのでついでに書こうと思います))
【関連ブログ記事】
鹿児島は歴史的に男尊女卑なのか
https://inakaseikatsu.blogspot.com/2015/09/blog-post.html
農村婦人、婦人部、農業女子
https://inakaseikatsu.blogspot.com/2016/03/blog-post_17.html
2020年4月7日火曜日
豪華すぎる墓石——秋目の謎(その1)
私の住む大浦町の西側には、亀ヶ丘という丘があって、ここから眺める東シナ海の様子は、ちょっと他ではないくらいの壮大な絶景だ。
そんな亀ヶ丘の、大浦町と反対側、東シナ海側にあるのが「秋目(あきめ)」という土地である。
ここは、天平勝宝5年(753年)に鑑真が艱難辛苦の末にやってきたところで知られる小さな港町。町を見下ろす斜面の上には、「鑑真記念館」という展示館がある。
【参考】鑑真記念館(南さつま市観光協会)
https://kanko-minamisatsuma.jp/spot/7564/
秋目は本当に猫の額のようにこぢんまりした土地で、浦を正面に見る集落の他はほとんど平地もなく急峻な山に囲まれている。明治時代までは、道らしい道も通っていなかったから、どこかへ出かけるときは船で出て行ったようなところだ。
集落は、まだかろうじて人が住んでいるが、空き家ばかりだ。既に人の住む力よりも、自然の力の方がずっと強い。亜熱帯の植物がそこかしこに繁茂し、徐々に集落に迫ってきている。このままでは自然が集落を圧倒してしまい、近い将来、ボロブドゥールやアンコールワットのように密林に覆われてしまうのではないかと思われる。
鹿児島には、こういう寂れた港町がたくさんある。お隣の久志や坊津だってそうだ。かつて栄えた港町がいかに凋落したか、そういう昔話も掃いて捨てるほどある。だが秋目は、他の港町とは違う謎がある。
これから、その謎について少し語ってみたい。
鑑真記念館のすぐ下に秋目の墓地があって、そこに藩政時代の墓石がいくつか並んでいる。謎の入り口は、この墓塔群が豪華すぎることである。
ここに並ぶ最大級の墓石は、ほとんどが山川石でできている。山川石とは、その名の通り山川(現指宿市山川地区)で採れる石材で、ノコギリで切れるほど柔らかく加工に適すと同時に風化には強いという性質の石である。これは歴代の島津家当主夫妻の墓石に用いられた高級石材で、並みの人は使うことができなかった。
また最大級の墓石でなくても、秋目の墓地には山川石製の墓石が多い。この大きな墓塔群の裏手には昔の子どもの墓塔(小さな石に地蔵菩薩が刻まれる形式が多い)が整理(廃棄?)されて大量に積まれているが、それもほとんど全て山川石でできている。山川周辺は例外として、他の地域ではこのようにふんだんに山川石の墓石が使われることはない。
秋目は、子どもの墓塔までも山川石で作ることができるほど、豊かな地域であったということだ(もちろん、かつては子どもの墓塔を建てること自体も贅沢だっただろう)。
しかしここで不思議なことがある。『坊津町郷土誌』などを読んでも、秋目が豊かであったとは一言も書いていないのである。いや、それどころか、秋目はとても貧乏だった、と述べられているのだ。
江戸時代、薩摩藩では「外城制(とじょうせい)」というのがあった。薩摩藩は異常に武士の比率が高かったから、武士を城下町にまとめて住まわせることができなかったし、また防衛上・行政管理上の理由から、藩内を100あまりの「外城」という地域に分けて、武士をそこに分散して住まわせたのである。武士が住む集落を「麓(ふもと)」という。
江戸時代の当初、秋目は最小の外城として設置される。ところがあまりに小さすぎたのか、追って久志と合併して久志秋目郷(「外城」は「郷」に改称された)となった。代わって最小になったのが山崎郷(現さつま町山崎)らしい。しかし山崎郷がどんどん開墾して石高を大きくしていったのと対照的に、久志秋目は山に囲まれて開墾の余地はなかったから、明治時代までに久志秋目郷の石高は山崎郷を下回っていた。当然のことながら秋目には石高の大きな武士(郷士)は存在せず、武士といえども貧乏暮らしに耐えなければならなかった。
事実、秋目は藩からの要請に対して、「秋目は貧乏で疲れた郷で、船大工などをしながらやっとのことで武士としての務めを果たしているような状態ですから、○○は免除してもらえるようお願いします」といったような公文書をたびたび出しているようである。
では、秋目はごく上級の武士のみが立派な墓塔を建てていただけで、ほとんどの武士は貧乏だったということなのだろうか。
ところがまた不思議なことがある。実は秋目は藩政時代、ものすごく人口が多かったのである。明治時代の統計になるが、明治17年、秋目には1328人(うち士族402人)の人が住んでいた。一方、当時の加世田の人口は3488人だったという。面積で言うと、加世田は秋目のゆうに10倍以上はあるだろう。にも関わらず、加世田の人口の4割に当たる人がこの狭い秋目に住んでいたというのだ。とんでもない人口密度である。秋目が本当に「貧乏で疲れた郷」であれば、このような人口は維持しきれなかったはずである。
このように、秋目は、墓地の様子や人口から考えると非常に豊かな地域だったと思われる。しかし、史料上では貧乏な地域として登場する。
秋目は本当は、豊かだったのか、貧乏だったのか、どちらだったのだろうか?
(つづく)
【参考資料】
『坊津町郷土誌』1969年、坊津町郷土誌編纂委員会
『麓 街歩きマップ 2019』 2019年、鹿児島大学工学部 建築学科 鰺坂研究室
そんな亀ヶ丘の、大浦町と反対側、東シナ海側にあるのが「秋目(あきめ)」という土地である。
ここは、天平勝宝5年(753年)に鑑真が艱難辛苦の末にやってきたところで知られる小さな港町。町を見下ろす斜面の上には、「鑑真記念館」という展示館がある。
【参考】鑑真記念館(南さつま市観光協会)
https://kanko-minamisatsuma.jp/spot/7564/
秋目は本当に猫の額のようにこぢんまりした土地で、浦を正面に見る集落の他はほとんど平地もなく急峻な山に囲まれている。明治時代までは、道らしい道も通っていなかったから、どこかへ出かけるときは船で出て行ったようなところだ。
集落は、まだかろうじて人が住んでいるが、空き家ばかりだ。既に人の住む力よりも、自然の力の方がずっと強い。亜熱帯の植物がそこかしこに繁茂し、徐々に集落に迫ってきている。このままでは自然が集落を圧倒してしまい、近い将来、ボロブドゥールやアンコールワットのように密林に覆われてしまうのではないかと思われる。
鹿児島には、こういう寂れた港町がたくさんある。お隣の久志や坊津だってそうだ。かつて栄えた港町がいかに凋落したか、そういう昔話も掃いて捨てるほどある。だが秋目は、他の港町とは違う謎がある。
これから、その謎について少し語ってみたい。
鑑真記念館のすぐ下に秋目の墓地があって、そこに藩政時代の墓石がいくつか並んでいる。謎の入り口は、この墓塔群が豪華すぎることである。
ここに並ぶ最大級の墓石は、ほとんどが山川石でできている。山川石とは、その名の通り山川(現指宿市山川地区)で採れる石材で、ノコギリで切れるほど柔らかく加工に適すと同時に風化には強いという性質の石である。これは歴代の島津家当主夫妻の墓石に用いられた高級石材で、並みの人は使うことができなかった。
また最大級の墓石でなくても、秋目の墓地には山川石製の墓石が多い。この大きな墓塔群の裏手には昔の子どもの墓塔(小さな石に地蔵菩薩が刻まれる形式が多い)が整理(廃棄?)されて大量に積まれているが、それもほとんど全て山川石でできている。山川周辺は例外として、他の地域ではこのようにふんだんに山川石の墓石が使われることはない。
秋目は、子どもの墓塔までも山川石で作ることができるほど、豊かな地域であったということだ(もちろん、かつては子どもの墓塔を建てること自体も贅沢だっただろう)。
しかしここで不思議なことがある。『坊津町郷土誌』などを読んでも、秋目が豊かであったとは一言も書いていないのである。いや、それどころか、秋目はとても貧乏だった、と述べられているのだ。
江戸時代、薩摩藩では「外城制(とじょうせい)」というのがあった。薩摩藩は異常に武士の比率が高かったから、武士を城下町にまとめて住まわせることができなかったし、また防衛上・行政管理上の理由から、藩内を100あまりの「外城」という地域に分けて、武士をそこに分散して住まわせたのである。武士が住む集落を「麓(ふもと)」という。
江戸時代の当初、秋目は最小の外城として設置される。ところがあまりに小さすぎたのか、追って久志と合併して久志秋目郷(「外城」は「郷」に改称された)となった。代わって最小になったのが山崎郷(現さつま町山崎)らしい。しかし山崎郷がどんどん開墾して石高を大きくしていったのと対照的に、久志秋目は山に囲まれて開墾の余地はなかったから、明治時代までに久志秋目郷の石高は山崎郷を下回っていた。当然のことながら秋目には石高の大きな武士(郷士)は存在せず、武士といえども貧乏暮らしに耐えなければならなかった。
事実、秋目は藩からの要請に対して、「秋目は貧乏で疲れた郷で、船大工などをしながらやっとのことで武士としての務めを果たしているような状態ですから、○○は免除してもらえるようお願いします」といったような公文書をたびたび出しているようである。
では、秋目はごく上級の武士のみが立派な墓塔を建てていただけで、ほとんどの武士は貧乏だったということなのだろうか。
ところがまた不思議なことがある。実は秋目は藩政時代、ものすごく人口が多かったのである。明治時代の統計になるが、明治17年、秋目には1328人(うち士族402人)の人が住んでいた。一方、当時の加世田の人口は3488人だったという。面積で言うと、加世田は秋目のゆうに10倍以上はあるだろう。にも関わらず、加世田の人口の4割に当たる人がこの狭い秋目に住んでいたというのだ。とんでもない人口密度である。秋目が本当に「貧乏で疲れた郷」であれば、このような人口は維持しきれなかったはずである。
このように、秋目は、墓地の様子や人口から考えると非常に豊かな地域だったと思われる。しかし、史料上では貧乏な地域として登場する。
秋目は本当は、豊かだったのか、貧乏だったのか、どちらだったのだろうか?
(つづく)
【参考資料】
『坊津町郷土誌』1969年、坊津町郷土誌編纂委員会
『麓 街歩きマップ 2019』 2019年、鹿児島大学工学部 建築学科 鰺坂研究室
2020年3月30日月曜日
稼いだお金を使える地域——大浦町の人口減少(その5)
(「共鳴する加速関係——大浦町の人口減少(その4)」からの続き)
「地方創生」に関していつも言われることがある。「稼げる地域」にならなきゃいけない、ということだ。
内閣府も「稼げるまちづくり」を標榜して政策パッケージをまとめているし、実際、限界集落から復活したような地域では、取り組みの根幹にちゃんとした「金儲け」の仕組みがある。
逆に、いくら地域住民がやる気でも「ボランティア活動でまちづくり」「生きがいづくり」「都会から来た人をおもてなし」みたいなことばかりをやっている地域は、(その活動自体は全然悪くはないのだが)結局は長続きしない。その活動が維持されるのに十分な利潤がないのだから。
だから誰しも「地方創生」のキーは「稼げる地域」になることだと考えている。
しかし大浦町の場合、干拓事業をはじめとした農業の近代化によって「稼げる地域」になったはずなのに衰退してしまった。
例えば 1960年、大浦町ではどんな農家でも、年間の農産物販売総額は100万円にも満たなかった。ところが干拓事業など基盤整備と機械化が進んだ結果、35年後の1995年には1000万円以上売り上げる農家が16戸が出現。そのうち8戸は2000万円以上も売り上げがあったのである(「農林業センサス」による)。
既に述べたように、規模を急拡大した農家には莫大な借金を抱えた人も多かったから、 売上の拡大はそのまま所得向上であったわけではなかった。でもその莫大な借金を返していけるだけの収入上昇があったのも間違いない。大浦は確かに「稼げる地域」になったのだ。
ではなぜ、木連口の商店街はシャッター通りになってしまったのか。
大浦の人々は、昔に比べてずっと豊かになった。にもかかわらず商店街からは活気が失われ、多くの店は消え失せてしまった。統計から見ると矛盾するようなことが、この50年で起きた。いや、これは大浦だけの話ではなく、日本の多くの農村的地域で共通して起こった奇妙な現象だ。
それは、お金の廻り方が変わってしまったからだ、と私は思う。
50年前の農業は、多くを人力に頼っていた。少ない売上は、ほとんど全部が人件費に回っていた。もちろん人件費といっても雀の涙のようなものだったし、家庭内での労働が多かったから給料として払われる分はさらに僅かだった。だが重要なことは、そのお金の使われ方が今とは違ったことだ。 人々がポケットの中に持っていた僅かなお金は、ほとんど町内の誰かに支払っていたのである。
だから、お金は地域内で循環する限り価値を生みだし続けた。
例えば単純化されたモデルとして、百姓のAさんと、漁師のBさんのみで構成された村の経済を考えてみよう。
まず1月に百姓Aさんが漁師Bさんに野菜を1000円で売る。そしてBさんはAさんに魚を1000円で売る、とする。ここでお金がどう動いたか見てみると、最初Bさんが持っていた1000円が、またBさんに戻ってきたということにすぎない。AさんもBさんも1円も儲けていない(手持ちのお金が増えていない)。しかし、お互いの手元には魚と野菜がある。
次に2月にも同じ取引が行われるとする。今度もお互いに野菜と魚を売り、手持ち資金は増減しない。同様にこれが12ヶ月間続いたとしよう。二人の経済はどうなっているか。Aさんの野菜の売り上げは1万2000円である。Bさんの魚の売上も1万2000円である。ただし、二人の手持ちのお金は1円も増えていない。もちろん魚や野菜が手に入ったので、それを自家消費するとすれば、数字に表れない利潤はある。
だがここで強調したいのは、この1万2000円ずつの売上に相当する取引が行われるのに、この経済にはたった1000円あればよかった、ということだ。1000円札が1枚あって、それが二人の間を行ったり来たりして、2万4000円分の取引が行われたのである。いやもっと言えば、それが1000円札である必要すらなく、仮に100円玉でも同じ取引が行われたということだ。かつての自給自足的な大浦町の経済も、おおよそこんなものだったと考えたらよい。
ポケットの中にあったお金が、町内の誰かの手に渡る。するとそのお金はまた町内の誰かの手に渡って、めぐりめぐって最初の人に戻ってくる。こうして、ほんの少しのお金はどんどん町内を回っていたのである。たった1000円しか存在していない現金が2万4000円の売上を生んだように、ポケットの中の僅かなお金はたくさんの売上に変貌するのである。
これが、昔の貧しい大浦町で、木連口の商店街が賑わっていたことの理由である。確かに人々は貧乏だった。だが昔の大浦町は良くも悪くも閉鎖的で、そのお金は地域内で循環していたから、人々が手元に持っている現金以上の価値が生みだされていたのである。
さて、今度は先ほどのモデルで、百姓Aさんが農業の機械化・大規模化などに取り組み、農産物を都会に売るようになったとする。Aさんは毎月3000円分の野菜を都会に売り(=年間3万6000円)、年間2万円の機械の費用を支払うものとする。今度はAさんは1万2000円分の魚を購入したとしても、手元に4000円手元に残る。確かにAさんは豊かになる。Bさんも漁業を同じように近代化させれば、二人とも豊かにはなる。自給自足的な経済よりも、都会にものを売った方が村は豊かになる。
見かけにはそうだ。しかしちょっと待って欲しい。野菜の売上3万6000円、機械の購入費用2万円は、どちらも村の外側で取引したお金である。先ほどのモデルでの野菜の売上1万2000円分は、村の中でお金が行ったり来たりして生みだされたものだったが、今度の3万6000円はいわば「外貨」である。もちろん「外貨」を稼ぐことはいいことだ。だがその稼いだお金のうち2万円は、逆に村の外側に出て行く。今度はAさんの取引の場は、村の外が中心になる。それは即ち、村の活気=村内の活動量が減少することをも意味する。
こうなると、村の中でお金が循環することはなく、村の外で稼いだお金を村の外で使う、ということになっていってしまう。Aさん個人の立場で考えれば村の外と取引する方が利潤は多いが、村のみんながそれをやれば村の経済は空洞化していく。
現代の農村は、全てがこの経済構造にあるといっても過言ではない。例えば私はかぼちゃをつくって農協に出している。そのかぼちゃは東京や大阪で売られる。もちろん柑橘類もそうだ。私はそうして稼いだお金をAmazonで使う(笑) 。だから大浦町の経済には、あまり貢献しない。
要するに、人は地元でお金を使わなくなった。だから大浦町の商店街は、町民が豊かになったのに衰退したのである。
そんなの当たり前じゃないか! と人は言うだろう。「地元経済の空洞化」なんて、それこそ何十年も前から言い続けられてきた。たったそれだけのことを、今までくだくだしく説明しすぎたかもしれない。でも私がこの言い古されたことに一つ付け加えたいのは、人々が地元のお店よりも遠くのディスカウントストアで買うようになったからそうなったのではなく、それは農業の機械化・近代化によって不可避的に起こった、ということだ。
農業機械メーカーは地域外にあるし、機械のお金を払うためには「外貨」を獲得する必要があるからだ。そして、機械化は大規模化をもたらし、大規模化は農業の人口減少をもたらした。それはさらに地域経済の空洞化を加速させた。
単純に言えば、農家は今まで「人」に払っていたお金を「機械」に払うようになった。費用という意味ではそれは同じだが、人に払ったお金は、地域の中を巡るお金になって、また誰かの収入となり、誰かの生活を支えていた。貧乏だった大浦町の木連口通りに、最盛期では11店もの理容・美容室があったのはそういうわけだ。稼いだ「外貨」は少なくても、その少ないお金が巡ることで雇用が生まれていた。人がたくさんいたから、人を相手にする商売も成り立った。
だが「機械」にお金を払うようになると、そういう循環がなくなった。農産物を都市部に売って稼いだお金で、都市部でできたものを買うのだ。それは、かつて1000円が1万2000円の価値を生みだしたように地域内を巡るお金ではなく、入って、そして出て行く、素通りする1000円なのだ。
これで、大浦が「稼げる地域」になったのにも関わらず、むしろ商店街が衰退していった理由がわかると思う。そして、おそらくそれが不可避的なものであったことも。
このように考えると、今の「地方創生」で盛んに言われている「稼げる地域」になれというスローガンは、不十分なものだとわかる。確かに稼げなくては地域が成り立って行かない。でも大浦のように、「稼げる地域」になっただけでは衰退を防げない。では何が必要か。これまでの議論で明らかだろう。
それは、「外貨」を稼ぐことより、「地域内でお金が循環する仕組み作り」である。
私たちはともすれば、「全国に売れる商品」の方が、地域内で消費されるありふれた商品よりもすごいものだと思いがちだ。しかし地域経済の全体像を考えた時、「全国に売れる商品」を持っている地域よりも、地産地消されるありふれた商品が豊富な地域の方がずっと豊かになる可能性があると言える。例えば(極端な例だが)ひたすらカカオ豆を生産するコートジボアールの村のような経済は、カカオ豆という「全世界に売れる商品」を持っているが豊かになれる可能性はほとんどない。一方で、鹿児島には「全世界に売れる商品」はほとんどないが、地産地消率の高さを考えると発展の可能性がずっと大きいのである。
では、「地域内でお金が循環する仕組み作り」とは具体的になんだろうか。遠くのディスカウントストアで買うのではなく、地域のスーパーや物産館でなるだけ買いましょう、という話なのだろうか。それも一手かもしれない。私はガソリンは(安い鹿児島市内ではなく)なるだけ地元で入れるようにしているし、少し割高でも地元スーパーを使う。でもそういうのは、心がけの話であって大勢に影響を与えない。なぜなら、ガソリンにしてもスーパーで売っているものにしても、ほとんどが他の地域から仕入れたものに過ぎないからである。
別の言葉でいえば、原価率が高い仕入れ商売は地域外との取引を仲介しているだけだから「地域内でお金が循環する」部分が小さいのである。しかし農村が文明的生活を送るために必要なものは、ほとんど全て地域外から購入しなくてはならない。ガソリン、PC、携帯電話、家電製品、車、生活に必要なあらゆるもの…。地域内でお金を循環させられないのは当然である。
だが文明的水準を保ちつつ地元で地産地消できるものもある。代表はサービス業だ。例えば美容室。大浦町には今でも美容室がいくつかあるが、こういうのはお金の循環に役立っている。他にも、マッサージ、ラーメン屋、飲み屋、福祉施設(デイサービス等)といったものは地域外のサービスでは代替できない。実際、人口減少した地域でもこういう職種は意外としぶとく残っている。
もちろん、 田舎であれば顧客の数は少ないからサービス業の経営は厳しい。しかし商売に必要な固定費は非常に低く抑えられるという利点もある。売り上げが少なくてもそれなりにやっていける環境がある。
それどころか、都会の商売は常に売り上げがないとすぐに経営が行き詰まるという欠点もある。売り上げも大きいがそれにかかる費用も大きいのである。田舎では固定費を抑えて、あんまり売り上げが無くても生きていける、というようなスタイルの商売が可能である。そういう面では、都会よりもかえって自由な発想でビジネスを組み立てられると思う。
だから「地域内でお金が循環する仕組み作り」は、地域の住民を相手にした、少ない売り上げでもやっていけるサービス業(のお店)をつくることだと思う。例えば、カフェ、飲食店、ヨガスタジオといったものが考えられる。
とはいえ、そうして出来たお店を地域住民が使わないことにはいくら固定費が安くても経営はやっていけない。地域のお店を積極的に使うという姿勢が必要なのはもちろんである。
「地方創生」のためには、もちろん「稼ぐ力」も大事だが、「稼いだお金をどう使うか」ももっと重要なことなのだ。せっかく稼いだ「外貨」をAmazonで使ってしまっていては、そのお金は地域経済を素通りする。だから「お金の使い方」を少し変えるだけで、もしかしたらその地域はもっと多くの人を養えるようになるかもしれないのである。
かつての大浦町は、貧しくてもたくさんの人が住み、活気に溢れたところだった。そして「理想の農村」になるよう努力した。広大な干拓地を造成し、農地の効率化を行い、積極的に機械化を推し進め、他の地域に先駆けて農業の近代化を達成した。しかしそれが不可避的に招いたのが、鹿児島県でも最も急速な人口減少であった。その背景には、人々のお金の使い方の変化がかなり大きく影響していたと私は思う。大浦町は「稼げる地域」にはなったが、お金を町内で使わない地域になっていたのである。
もう一度言うが、お金は地域内で循環する限り価値を生みだし続ける。大浦町が失敗したことが一つあるとすれば、それはお金が循環する経済を創り出せなかったことだ。
でもまだ遅くはないのである。町内でどうにかするのは無理だとしても、「南薩」くらいの単位であれば、そういう循環はまだまだ可能だ。
大浦町には干拓や基盤整備された効率的な田んぼがある。悪条件の山村に比べたら間違いなく「稼げる地域」だ。あとは「稼いだお金を使える地域」にもなれば、その時に本当の意味での「理想の農村」になれるのだと、私は思っている。
(おわり)
【参考文献】
「大浦町の農民分解と今日の農業問題」2002年、朝日 吉太郎
「地方創生」に関していつも言われることがある。「稼げる地域」にならなきゃいけない、ということだ。
内閣府も「稼げるまちづくり」を標榜して政策パッケージをまとめているし、実際、限界集落から復活したような地域では、取り組みの根幹にちゃんとした「金儲け」の仕組みがある。
逆に、いくら地域住民がやる気でも「ボランティア活動でまちづくり」「生きがいづくり」「都会から来た人をおもてなし」みたいなことばかりをやっている地域は、(その活動自体は全然悪くはないのだが)結局は長続きしない。その活動が維持されるのに十分な利潤がないのだから。
だから誰しも「地方創生」のキーは「稼げる地域」になることだと考えている。
しかし大浦町の場合、干拓事業をはじめとした農業の近代化によって「稼げる地域」になったはずなのに衰退してしまった。
例えば 1960年、大浦町ではどんな農家でも、年間の農産物販売総額は100万円にも満たなかった。ところが干拓事業など基盤整備と機械化が進んだ結果、35年後の1995年には1000万円以上売り上げる農家が16戸が出現。そのうち8戸は2000万円以上も売り上げがあったのである(「農林業センサス」による)。
既に述べたように、規模を急拡大した農家には莫大な借金を抱えた人も多かったから、 売上の拡大はそのまま所得向上であったわけではなかった。でもその莫大な借金を返していけるだけの収入上昇があったのも間違いない。大浦は確かに「稼げる地域」になったのだ。
ではなぜ、木連口の商店街はシャッター通りになってしまったのか。
大浦の人々は、昔に比べてずっと豊かになった。にもかかわらず商店街からは活気が失われ、多くの店は消え失せてしまった。統計から見ると矛盾するようなことが、この50年で起きた。いや、これは大浦だけの話ではなく、日本の多くの農村的地域で共通して起こった奇妙な現象だ。
それは、お金の廻り方が変わってしまったからだ、と私は思う。
50年前の農業は、多くを人力に頼っていた。少ない売上は、ほとんど全部が人件費に回っていた。もちろん人件費といっても雀の涙のようなものだったし、家庭内での労働が多かったから給料として払われる分はさらに僅かだった。だが重要なことは、そのお金の使われ方が今とは違ったことだ。 人々がポケットの中に持っていた僅かなお金は、ほとんど町内の誰かに支払っていたのである。
だから、お金は地域内で循環する限り価値を生みだし続けた。
例えば単純化されたモデルとして、百姓のAさんと、漁師のBさんのみで構成された村の経済を考えてみよう。
まず1月に百姓Aさんが漁師Bさんに野菜を1000円で売る。そしてBさんはAさんに魚を1000円で売る、とする。ここでお金がどう動いたか見てみると、最初Bさんが持っていた1000円が、またBさんに戻ってきたということにすぎない。AさんもBさんも1円も儲けていない(手持ちのお金が増えていない)。しかし、お互いの手元には魚と野菜がある。
次に2月にも同じ取引が行われるとする。今度もお互いに野菜と魚を売り、手持ち資金は増減しない。同様にこれが12ヶ月間続いたとしよう。二人の経済はどうなっているか。Aさんの野菜の売り上げは1万2000円である。Bさんの魚の売上も1万2000円である。ただし、二人の手持ちのお金は1円も増えていない。もちろん魚や野菜が手に入ったので、それを自家消費するとすれば、数字に表れない利潤はある。
だがここで強調したいのは、この1万2000円ずつの売上に相当する取引が行われるのに、この経済にはたった1000円あればよかった、ということだ。1000円札が1枚あって、それが二人の間を行ったり来たりして、2万4000円分の取引が行われたのである。いやもっと言えば、それが1000円札である必要すらなく、仮に100円玉でも同じ取引が行われたということだ。かつての自給自足的な大浦町の経済も、おおよそこんなものだったと考えたらよい。
ポケットの中にあったお金が、町内の誰かの手に渡る。するとそのお金はまた町内の誰かの手に渡って、めぐりめぐって最初の人に戻ってくる。こうして、ほんの少しのお金はどんどん町内を回っていたのである。たった1000円しか存在していない現金が2万4000円の売上を生んだように、ポケットの中の僅かなお金はたくさんの売上に変貌するのである。
これが、昔の貧しい大浦町で、木連口の商店街が賑わっていたことの理由である。確かに人々は貧乏だった。だが昔の大浦町は良くも悪くも閉鎖的で、そのお金は地域内で循環していたから、人々が手元に持っている現金以上の価値が生みだされていたのである。
さて、今度は先ほどのモデルで、百姓Aさんが農業の機械化・大規模化などに取り組み、農産物を都会に売るようになったとする。Aさんは毎月3000円分の野菜を都会に売り(=年間3万6000円)、年間2万円の機械の費用を支払うものとする。今度はAさんは1万2000円分の魚を購入したとしても、手元に4000円手元に残る。確かにAさんは豊かになる。Bさんも漁業を同じように近代化させれば、二人とも豊かにはなる。自給自足的な経済よりも、都会にものを売った方が村は豊かになる。
見かけにはそうだ。しかしちょっと待って欲しい。野菜の売上3万6000円、機械の購入費用2万円は、どちらも村の外側で取引したお金である。先ほどのモデルでの野菜の売上1万2000円分は、村の中でお金が行ったり来たりして生みだされたものだったが、今度の3万6000円はいわば「外貨」である。もちろん「外貨」を稼ぐことはいいことだ。だがその稼いだお金のうち2万円は、逆に村の外側に出て行く。今度はAさんの取引の場は、村の外が中心になる。それは即ち、村の活気=村内の活動量が減少することをも意味する。
こうなると、村の中でお金が循環することはなく、村の外で稼いだお金を村の外で使う、ということになっていってしまう。Aさん個人の立場で考えれば村の外と取引する方が利潤は多いが、村のみんながそれをやれば村の経済は空洞化していく。
現代の農村は、全てがこの経済構造にあるといっても過言ではない。例えば私はかぼちゃをつくって農協に出している。そのかぼちゃは東京や大阪で売られる。もちろん柑橘類もそうだ。私はそうして稼いだお金をAmazonで使う(笑) 。だから大浦町の経済には、あまり貢献しない。
要するに、人は地元でお金を使わなくなった。だから大浦町の商店街は、町民が豊かになったのに衰退したのである。
そんなの当たり前じゃないか! と人は言うだろう。「地元経済の空洞化」なんて、それこそ何十年も前から言い続けられてきた。たったそれだけのことを、今までくだくだしく説明しすぎたかもしれない。でも私がこの言い古されたことに一つ付け加えたいのは、人々が地元のお店よりも遠くのディスカウントストアで買うようになったからそうなったのではなく、それは農業の機械化・近代化によって不可避的に起こった、ということだ。
農業機械メーカーは地域外にあるし、機械のお金を払うためには「外貨」を獲得する必要があるからだ。そして、機械化は大規模化をもたらし、大規模化は農業の人口減少をもたらした。それはさらに地域経済の空洞化を加速させた。
単純に言えば、農家は今まで「人」に払っていたお金を「機械」に払うようになった。費用という意味ではそれは同じだが、人に払ったお金は、地域の中を巡るお金になって、また誰かの収入となり、誰かの生活を支えていた。貧乏だった大浦町の木連口通りに、最盛期では11店もの理容・美容室があったのはそういうわけだ。稼いだ「外貨」は少なくても、その少ないお金が巡ることで雇用が生まれていた。人がたくさんいたから、人を相手にする商売も成り立った。
だが「機械」にお金を払うようになると、そういう循環がなくなった。農産物を都市部に売って稼いだお金で、都市部でできたものを買うのだ。それは、かつて1000円が1万2000円の価値を生みだしたように地域内を巡るお金ではなく、入って、そして出て行く、素通りする1000円なのだ。
これで、大浦が「稼げる地域」になったのにも関わらず、むしろ商店街が衰退していった理由がわかると思う。そして、おそらくそれが不可避的なものであったことも。
このように考えると、今の「地方創生」で盛んに言われている「稼げる地域」になれというスローガンは、不十分なものだとわかる。確かに稼げなくては地域が成り立って行かない。でも大浦のように、「稼げる地域」になっただけでは衰退を防げない。では何が必要か。これまでの議論で明らかだろう。
それは、「外貨」を稼ぐことより、「地域内でお金が循環する仕組み作り」である。
私たちはともすれば、「全国に売れる商品」の方が、地域内で消費されるありふれた商品よりもすごいものだと思いがちだ。しかし地域経済の全体像を考えた時、「全国に売れる商品」を持っている地域よりも、地産地消されるありふれた商品が豊富な地域の方がずっと豊かになる可能性があると言える。例えば(極端な例だが)ひたすらカカオ豆を生産するコートジボアールの村のような経済は、カカオ豆という「全世界に売れる商品」を持っているが豊かになれる可能性はほとんどない。一方で、鹿児島には「全世界に売れる商品」はほとんどないが、地産地消率の高さを考えると発展の可能性がずっと大きいのである。
では、「地域内でお金が循環する仕組み作り」とは具体的になんだろうか。遠くのディスカウントストアで買うのではなく、地域のスーパーや物産館でなるだけ買いましょう、という話なのだろうか。それも一手かもしれない。私はガソリンは(安い鹿児島市内ではなく)なるだけ地元で入れるようにしているし、少し割高でも地元スーパーを使う。でもそういうのは、心がけの話であって大勢に影響を与えない。なぜなら、ガソリンにしてもスーパーで売っているものにしても、ほとんどが他の地域から仕入れたものに過ぎないからである。
別の言葉でいえば、原価率が高い仕入れ商売は地域外との取引を仲介しているだけだから「地域内でお金が循環する」部分が小さいのである。しかし農村が文明的生活を送るために必要なものは、ほとんど全て地域外から購入しなくてはならない。ガソリン、PC、携帯電話、家電製品、車、生活に必要なあらゆるもの…。地域内でお金を循環させられないのは当然である。
だが文明的水準を保ちつつ地元で地産地消できるものもある。代表はサービス業だ。例えば美容室。大浦町には今でも美容室がいくつかあるが、こういうのはお金の循環に役立っている。他にも、マッサージ、ラーメン屋、飲み屋、福祉施設(デイサービス等)といったものは地域外のサービスでは代替できない。実際、人口減少した地域でもこういう職種は意外としぶとく残っている。
もちろん、 田舎であれば顧客の数は少ないからサービス業の経営は厳しい。しかし商売に必要な固定費は非常に低く抑えられるという利点もある。売り上げが少なくてもそれなりにやっていける環境がある。
それどころか、都会の商売は常に売り上げがないとすぐに経営が行き詰まるという欠点もある。売り上げも大きいがそれにかかる費用も大きいのである。田舎では固定費を抑えて、あんまり売り上げが無くても生きていける、というようなスタイルの商売が可能である。そういう面では、都会よりもかえって自由な発想でビジネスを組み立てられると思う。
だから「地域内でお金が循環する仕組み作り」は、地域の住民を相手にした、少ない売り上げでもやっていけるサービス業(のお店)をつくることだと思う。例えば、カフェ、飲食店、ヨガスタジオといったものが考えられる。
とはいえ、そうして出来たお店を地域住民が使わないことにはいくら固定費が安くても経営はやっていけない。地域のお店を積極的に使うという姿勢が必要なのはもちろんである。
「地方創生」のためには、もちろん「稼ぐ力」も大事だが、「稼いだお金をどう使うか」ももっと重要なことなのだ。せっかく稼いだ「外貨」をAmazonで使ってしまっていては、そのお金は地域経済を素通りする。だから「お金の使い方」を少し変えるだけで、もしかしたらその地域はもっと多くの人を養えるようになるかもしれないのである。
かつての大浦町は、貧しくてもたくさんの人が住み、活気に溢れたところだった。そして「理想の農村」になるよう努力した。広大な干拓地を造成し、農地の効率化を行い、積極的に機械化を推し進め、他の地域に先駆けて農業の近代化を達成した。しかしそれが不可避的に招いたのが、鹿児島県でも最も急速な人口減少であった。その背景には、人々のお金の使い方の変化がかなり大きく影響していたと私は思う。大浦町は「稼げる地域」にはなったが、お金を町内で使わない地域になっていたのである。
もう一度言うが、お金は地域内で循環する限り価値を生みだし続ける。大浦町が失敗したことが一つあるとすれば、それはお金が循環する経済を創り出せなかったことだ。
でもまだ遅くはないのである。町内でどうにかするのは無理だとしても、「南薩」くらいの単位であれば、そういう循環はまだまだ可能だ。
大浦町には干拓や基盤整備された効率的な田んぼがある。悪条件の山村に比べたら間違いなく「稼げる地域」だ。あとは「稼いだお金を使える地域」にもなれば、その時に本当の意味での「理想の農村」になれるのだと、私は思っている。
(おわり)
【参考文献】
「大浦町の農民分解と今日の農業問題」2002年、朝日 吉太郎
2020年3月14日土曜日
突如として出現しただだっ広い公有地をどう使うか
国道226号の、大浦の入り口にある物産館「大浦ふるさとくじら館」の、その隣に、昨年、結構広い土地が出現した。
ここは以前田んぼだったところだが、湿田だったためか、それとも水がなかったためか、それはよくわからないけれども、とにかく耕作放棄地になっていた。
それが、土砂の搬入地となり、あれよあれよという間にかさ上げされ、サッカーフィールドくらいの広さのなだらかな台地になった。この土砂というのは、国道226号線を南下したところに昨年掘削した「笠沙トンネル」を掘った時に出たものだ。
要するに、「笠沙トンネル」を掘った土が大浦に運ばれて、その土で結構だだっ広い土地が出現したわけだ。
このことはちょっとした機会に耳に入ることがあったし、ここへ土砂が搬入してくる時も「笠沙トンネルの土砂を運んでいます」みたいな表示があったから、みんなわかっていたことだろう。
ただ、わからないのは、この新しくできた土地をどう使っていくのか、ということである。
「大浦ふるさとくじら館」には駐車スペースはたくさんあるが、そのほとんどが裏手の第2駐車場で正面側にはあんまり車は駐められない。混雑期にはすぐに駐車場に入りきらなくなってしまうので、駐車スペースの増設が求められていた。ということで、この新しいスペースの一部は「くじら館」の駐車場になる、という話がある。
しかしそれは道沿いのごく一部で済んでしまう。残り90%以上の広い土地は、どうやって使うのだろう?
私は常々、鹿児島の公共事業は、説明不足が致命的欠陥だと思っている。というか、正確に言えば「地域住民に事業内容を説明しないといけない」という考え自体がほとんどないように見える。
今思い出したが、以前もそういう記事を書いたことがある。
【参考記事】大浦川の改修工事にこと寄せて
https://inakaseikatsu.blogspot.com/2015/01/blog-post_23.html
関東の方だと、公共事業だけでなく民間の大工事(巨大なビルの建設等)においても、工事現場の説明版に「このような工事をしていて、完成予想図はこれです」みたいなことが説明されるのが普通である。 ところが鹿児島の場合、法律によって表示しなくてはならない工事概要の他に、完成予想図などが掲示されることは極めて稀な気がする。
一昨年、加世田の本町公園(南さつま市観光協会の隣の公園)が大改修した時も、完成予想図一つ掲示されていなかったように思う。もしかしたら本町の住民には説明会があったのかもしれないが、仮にあったとしても、広くお知らせして要望や意見を聞くといったようなことはなかった。あくまでごく一部の関係者で情報共有しておしまいなのだ。
みんなが使う公園ですらこういう感じだから、今回のように土砂搬入がメインの工事で事業内容がほとんど説明されないのはまあ当然である。
私は、公共土木事業には反対ではない。ただ、事業内容がブラックボックスで決まり、住民との対話もなく、「由らしむべし、知らしむべからず」式に上から与えられるだけの公共土木事業はまっぴら御免なのだ。せっかく実施する土木事業だから、住民の夢や希望が詰まったものであってほしい。せっかくお金を使うのだから、より愛される施設になってほしい。そのためには、「開かれた公共土木事業」になる必要がある。
特に鹿児島の経済は公共土木事業に負っている部分が大きいのだから、日本の公共土木事業をリードする、というくらいの気概を持って欲しい。それは施行の内容はもちろん、周囲と調和したデザイン、環境保護やメンテナンス性など、色々な観点から見て先進的なものであるべきで、そして設計段階からの地域住民と対話し、多くの人のアイデアや希望を踏まえる、というプロセスも一流のものであって欲しいと思う。
……ちょっと話が広がりすぎたが、話を戻すと、昨年、大浦にだだっ広い公有地が突如として出現したわけだ。これをどう使うのか?
私はアイデアのない人間なので広い芝生の公園にするくらいしか思いつかないし、それすらも維持費を考えるとグッドアイデアとは言えない。でもだからといって、土砂搬入したところをなし崩し的に藪にしてしまうというのは、公共事業としてちょっと問題ありだ。市の方で何か考えがあるならそれを住民に示して意見を聞いて欲しいし、何も考えがないならなおさら意見を聞いて欲しい。その結果、どうしようもないよね、といって藪になるなら全然OKである。
もちろん、役所が住民と対話するにあたっては、住民の方にもそれなりの見識が求められる。そういう説明会をすると、文句を言いたがりの「話が通じない人」がしゃしゃり出る、という問題も確かにあって、役所が敬遠するのも無理はない面がある。
しかし大浦は小さなコミュニティーである。穏当な対話が成立すると信じる。この土地をどう使うか。または使わないか。そんな対話が始まることを期待している。
ここは以前田んぼだったところだが、湿田だったためか、それとも水がなかったためか、それはよくわからないけれども、とにかく耕作放棄地になっていた。
それが、土砂の搬入地となり、あれよあれよという間にかさ上げされ、サッカーフィールドくらいの広さのなだらかな台地になった。この土砂というのは、国道226号線を南下したところに昨年掘削した「笠沙トンネル」を掘った時に出たものだ。
要するに、「笠沙トンネル」を掘った土が大浦に運ばれて、その土で結構だだっ広い土地が出現したわけだ。
このことはちょっとした機会に耳に入ることがあったし、ここへ土砂が搬入してくる時も「笠沙トンネルの土砂を運んでいます」みたいな表示があったから、みんなわかっていたことだろう。
ただ、わからないのは、この新しくできた土地をどう使っていくのか、ということである。
「大浦ふるさとくじら館」には駐車スペースはたくさんあるが、そのほとんどが裏手の第2駐車場で正面側にはあんまり車は駐められない。混雑期にはすぐに駐車場に入りきらなくなってしまうので、駐車スペースの増設が求められていた。ということで、この新しいスペースの一部は「くじら館」の駐車場になる、という話がある。
しかしそれは道沿いのごく一部で済んでしまう。残り90%以上の広い土地は、どうやって使うのだろう?
私は常々、鹿児島の公共事業は、説明不足が致命的欠陥だと思っている。というか、正確に言えば「地域住民に事業内容を説明しないといけない」という考え自体がほとんどないように見える。
今思い出したが、以前もそういう記事を書いたことがある。
【参考記事】大浦川の改修工事にこと寄せて
https://inakaseikatsu.blogspot.com/2015/01/blog-post_23.html
関東の方だと、公共事業だけでなく民間の大工事(巨大なビルの建設等)においても、工事現場の説明版に「このような工事をしていて、完成予想図はこれです」みたいなことが説明されるのが普通である。 ところが鹿児島の場合、法律によって表示しなくてはならない工事概要の他に、完成予想図などが掲示されることは極めて稀な気がする。
一昨年、加世田の本町公園(南さつま市観光協会の隣の公園)が大改修した時も、完成予想図一つ掲示されていなかったように思う。もしかしたら本町の住民には説明会があったのかもしれないが、仮にあったとしても、広くお知らせして要望や意見を聞くといったようなことはなかった。あくまでごく一部の関係者で情報共有しておしまいなのだ。
みんなが使う公園ですらこういう感じだから、今回のように土砂搬入がメインの工事で事業内容がほとんど説明されないのはまあ当然である。
私は、公共土木事業には反対ではない。ただ、事業内容がブラックボックスで決まり、住民との対話もなく、「由らしむべし、知らしむべからず」式に上から与えられるだけの公共土木事業はまっぴら御免なのだ。せっかく実施する土木事業だから、住民の夢や希望が詰まったものであってほしい。せっかくお金を使うのだから、より愛される施設になってほしい。そのためには、「開かれた公共土木事業」になる必要がある。
特に鹿児島の経済は公共土木事業に負っている部分が大きいのだから、日本の公共土木事業をリードする、というくらいの気概を持って欲しい。それは施行の内容はもちろん、周囲と調和したデザイン、環境保護やメンテナンス性など、色々な観点から見て先進的なものであるべきで、そして設計段階からの地域住民と対話し、多くの人のアイデアや希望を踏まえる、というプロセスも一流のものであって欲しいと思う。
……ちょっと話が広がりすぎたが、話を戻すと、昨年、大浦にだだっ広い公有地が突如として出現したわけだ。これをどう使うのか?
私はアイデアのない人間なので広い芝生の公園にするくらいしか思いつかないし、それすらも維持費を考えるとグッドアイデアとは言えない。でもだからといって、土砂搬入したところをなし崩し的に藪にしてしまうというのは、公共事業としてちょっと問題ありだ。市の方で何か考えがあるならそれを住民に示して意見を聞いて欲しいし、何も考えがないならなおさら意見を聞いて欲しい。その結果、どうしようもないよね、といって藪になるなら全然OKである。
もちろん、役所が住民と対話するにあたっては、住民の方にもそれなりの見識が求められる。そういう説明会をすると、文句を言いたがりの「話が通じない人」がしゃしゃり出る、という問題も確かにあって、役所が敬遠するのも無理はない面がある。
しかし大浦は小さなコミュニティーである。穏当な対話が成立すると信じる。この土地をどう使うか。または使わないか。そんな対話が始まることを期待している。
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