2019年11月13日水曜日

永留さんのこと

11月7日、友人の永留純一さんが亡くなった。

永留さんには、来る11月22−23日に開催する「石蔵アカデミアwith Tech Garden Salon」というイベントで、「歩けば増える、好きな建物・まち並み」という演題で講演をお願いしていた。だが、その講演は永遠に聞けなくなった。

【参考】11月22日−23日、出張版石蔵ブックカフェで石蔵アカデミア4回やります!|“石蔵アカデミア with Tech Garden Salon”
https://so1ch1ro.wixsite.com/ishigura-bookcafe/post/11月22日-23日、出張版石蔵ブックカフェで石蔵アカデミア4回やります!

永留 純一 (LEAP編集部)
「歩けば増える、好きな建物・まち並み」
誰に会う用事も無く、一人でまちを歩く時間が大好きです。自宅や会社の近くでも、有名な観光地でも、予備知識なしに初めて訪れる有名ではないまちでも。ちょっとしたコツは、お笑いのセンスのようなもの。まちや通りの何気ない建物や看板などが、今日もあなたからの「ツッコミ」を待っています。

そもそも、このイベントの最初の構想を抱いたときから、講演をお願いする人のリストの筆頭にあったのが永留さんだ。

永留さんは、街なかの気になる建築の写真をよくFacebookに載せていた。取り上げられているのは、決して立派な、オシャレな、意匠を凝らした建築ではない。むしろまち並みに埋もれた、地味で、こぢんまりした建物が多かった。でもその建物は、どこか普通の建物とは違う面影があるのだ。なんだか変わったリズムで窓がついていたり、昭和のタイル張りがやたらと自己主張していり、変な方向に傾(かし)いでいたり…。永留さんは、設計した人、住んでいる人の、平凡な中に潜んだ「こだわり」や人間性が、チラっと表れたような、そんな建物の面影を切り取っていた。

私は、そういう永留さんの建築センスが大好きだった。

そこには、まち並みの中に生きる建築と、それを作った人、利用している人への温かい眼差しがあった。でもそこにちょっとしたツッコミをくわえて、クスっと笑っている感じが永留流の建築観賞術なのだ。

私は、この永留流の建築観賞術を多くの人に知ってもらいたかった。平凡なまち並みが、こんなにも面白い鑑賞対象になりうるということを、教えて欲しかった。

永留さんに講演をお願いしたのはそれだけではない。永留さんはそうした見方の背景となる理論的な部分もしっかりしていた。大学時代の話は伺ったことがないが、大阪芸術大学の大学院まで出られていたようである。その上、建設現場の仕事にも(かなり泥臭い部分の仕事にも)携わった経験があるそうだ。永留さんは、建築理論から建物を作る職人さんたちに至るまでの幅広い視野を持っていた。しかも永留さんは、建築のことばかりでなく、様々なことに好奇心を持ち、貪欲に学ぶ人だった。しばしば、意外なところで永留さんから教えられることがあった。

でも、永留さんとは、実は腰を据えて話をしたことがなかった。だから、私が永留さんに講演をお願いしたのは、その建築観賞術をみんなに知って欲しいというだけでなく、他ならぬ私自身が、永留さんの話をじっくり聞いてみたかったのだ。

ところが講演をお願いした時に、永留さんは条件を出した。もしかしたら、突然講演ができなくなるかもしれない、と。

なぜなら、末期の肺がんに冒されているから——。

これが今年の6月のこと。当時のメールを見返してみると、永留さんからは「生きていたらよろしくお願いします!」と書いてある。生きるか死ぬかの瀬戸際で、永留さんは講演をOKしてくれた。私は「当日ドタキャンでも構いません」と答えた。この際、そんなことはどうでもよくなった。

永留さんは、あまり人前に出て話をするタイプの人ではなかった。今まで、鹿児島国際大学でジェフリー・アイリッシュさんに呼ばれてヒトコマ講義を受け持ったのと、砂田光紀さんに呼ばれて串木野の留学生記念館で話したことがあったくらいだったようだ。だから永留さんは、自分なりの建築観について一度話したいという希望を持っていたみたいだ。「話したいことというか、まとめたいことは色々とあります」と永留さんは語った。そしてそれだけでなく闘病の励みとして、講演があるなら少なくとも11月まで生きないと!という気持ちになるんだと言ってくれた。

当時のメールには「中くらいの未来に人参を下げて、だましだましやっていこうと思います!」とある。

こうして、永留さんに依頼した講演は特別な意味を持つようになった。今回の講演はただの講演じゃない。大げさに言えば、永留さんの建築人生の集大成となるものなのだ。そこまで大それたものじゃなくても、最初にしておそらくは最後の、永留さんの一人舞台なのだ。私は、永留さんの講演を文字起こしして講演録にする計画を立てた。

私と永留さんの仲は、そんなに親しいものだったとはいえない。5年くらいの付き合いしかないし、実は一度もゆっくり二人で話したことはない。でも、いわゆる波長が合う、というか、多くを語らずともスッと言葉が通じる感じがあった。別段示し合わせていないのに、同じイベントで顔を合わせるといった機会も一再ならずあった。ほぼ同世代の、通じ合える友人だと私は思っていた。だから、友人へのプレゼントとして、一世一代の講演録を贈りたかったのである。棺桶の中に入れるプレゼントになるかもしれないとしても。

永留さんは、情報誌『LEAP』の編集部で働いていた。私も永留さんのお陰で、何度か『LEAP』に主催のイベントを取り上げてもらった。2019年11−12月号の『LEAP』でも、来る「石蔵アカデミア」を取り上げてくれた。こんな記事だ。

11月22日「石蔵アカデミア」に 建築に関する講座が登場 
南さつま市万世『丁子屋』で、石蔵アカデミアという講座が行われている。11月後半は出張版として、会場を南九州市市民交流センターひまわり館に移して、2日にわたり4種の講座が開かれる。建築ファン向けには11月22日午後からの「歩けば増える、好きな建物・まちなみ」。講師は筆者が務める。また、ほか3講座は各ジャンルの一流講師ぞろいなので、建物好きでなくとも文化の秋を感じてみて。

これは『LEAP』で永留さんが担当していた「建物ルーペ、まちのツボ」というコーナーでの紹介なのだが、「講師は筆者が務める」と書きながらその名前がどこにも書いていないのが、いかにも控えめな永留さんらしい。

この調整をしたのが9月の末。詳しいことは分からないが、この頃、永留さんは入院しながらできる範囲で仕事を続けていたのではないかと思う。講演まであと2ヶ月弱の時である。仕事を続けられているくらいなら、講演もなんとかできそうだ、と私は思っていた。いや、永留さん自身も、「講師は筆者が務める」と自分で書いているくらいだから、少なくとも8割方は講演可能だと思っていただろう。

だが、病魔は非情であった。それから約1ヶ月で、永留さんは帰らぬ人となった。享年45歳。早すぎる旅立ちだった。

永留さんは、鹿児島の文化を支える人の一人だった。永留さんは鹿児島の近現代建築を公開するイベントである「オープンハウス カゴシマ」の開催にも携わっていたが、このイベントにもその力が大きく与っていたのではないかと思う。決して表に出て華々しく活動するような人ではなかったけれど、欠くべからざる1ピースのような人が永留さんだった。

【参考】オープンハウス カゴシマ
http://openhousekagoshima.org/ 

私は永留さんの、少しはにかんだような、優しい笑顔が大好きだった。

お通夜でその永留さんと対面した。そこには壮絶な闘病の跡があった。こんな時期に講演をお願いするなんていうことは、本当はやらない方がよかったのかもしれない。少なくともご家族の方には、ご心配をかけたと思う。永留さん自身は「闘病の励み」とは言っていたが、心理的には負担だっただろう。正直、申し訳なかったと思う。

でも私は、この講演があったことで、永留さんの最後の半年が未来へ進むものになったんじゃないかと信じたい。それには価値があったんだと。

今はとても、「謹んでご冥福をお祈りします」なんて型どおりの言葉は出てこない。これを書き終えたら、永留さんとの思い出が過去のことになってしまうようで、書き終えるのが辛い気さえする。

お通夜から帰ってきたら、顎のあたりがズキズキと痛くなっていた。帰りの車中、ずっと歯を強く食いしばっていたのだ。

今も、これを書きながら涙が止まらない。

2019年8月10日土曜日

大浦町とコルビュジェの理想の農村——大浦町の人口減少(その1)

ここに、農村の地域計画の理想図がある。巨匠ル・コルビュジェが構想したものだ。

この農村のどこが理想的なのかというと、図の左端「1 国道または県道」が農村の中心部から遠く隔たっている、ということだ。

コルビュジェは、建築家としてのキャリアをスタートさせた当初から交通の問題を重視していたらしい。効率的な経済活動のためにはスムーズな交通が必要なのに、街の中心部には人家が密集するため交通が麻痺しがちだという矛盾をどう解消するか、また自動車が増えてくるにつれ、人々が安全かつ気持ちよく散歩することはできなくなる、というような問題意識から、コルビュジェは道路を役割ごとに分ける構想を抱いた。

といっても話は簡単で、高速交通を担う幹線道路、生活道路、歩道などを別々の道として通し、特に街の中心部を幹線道路が突っ切らないようにする、という都市計画を提案したのである。

日本だけでなくヨーロッパでも、街や村は街道沿いに栄えるものである。街道は街の中心であり、購買や人々の交流が盛んに行われていた。しかし自動車時代になると、古くからの街道は国道や県道としてたくさんの自動車が行き交うようになった。こうなると、街は中心を突っ切る幹線道路によって分断され、最も中心となるべき場所の活気が失われてしまう。

…とコルビュジェは考えたが、日本の現状からするとその考えはそっくり鵜呑みにするわけにはいかない。地方都市に行くと、ショッピングセンターやレストランや文化ホールがあるのはやはり国道沿いであって、そこはやはり活気の中心だからだ。

しかし同時に、自動車移動が中心の地方都市においては、その最も活気があるはずの区画に、ほとんど人が歩いていないということは、コルビュジェの危惧が全くの杞憂ではなかったことを示しているのである。

ところで、初めてこのコルビュジェの理想図を見た時、驚いた。というのは、この理想図が、私の住む大浦町の様子とソックリだったからなのだ。

Googleマップで見てみてもわかりづらいから、ちょっと簡単な図を書いてみたが、大浦町の様子はこのようになっている。

北の方に国道226号線が通っていて、街の中心はそこから奥まったところにあるのがポイントだ。これがまさにコルビュジェの理想図の通りなのである。

さらにそれだけでなく、農協や農産物の集荷施設、郵便局や学校の位置関係なども、あの理想図にかなり似通っている。まあこれらの施設の配置はどこの街も似たようなものだから措くとしても、かなりの程度、大浦町がコルビュジェの理想図を現実化した街だということは言えるだろう。

コルビュジェは、あの理想図を実際の街を観察した結果として描いたのではなくて、理論的に導き出した。ところが大浦町は図らずしてその理想を現実化していた。大浦町は、コルビュジェの構想の妥当性を検証する材料のひとつだと言える。

では大浦町は理想の農村と言えるのか? 答えはノーだろう。ここは昭和30年代から既に過疎化が進行し、全国で最も早く高齢化が進んだ地域のひとつである。例えば昭和60年の国勢調査では、鹿児島県の高齢化率(老年人口比率)が14.2%で全国3位であったが、その中でも大浦町は28.8%と鹿児島県全体の2倍もの比率(!)であり、県内第1位の高齢化自治体だったのである。

この頃は少子化ということは関係なかった時代で、この高齢化率の高さは人口流出のもたらしたものだ。この背景には大浦町の貧しさがあった。当時(昭和62年)の町民所得は全国平均のほぼ50%に過ぎない年収100万円ほどで、全国有数の貧乏自治体だった。それであるからどんどん若者は都市部へ出て行き、昭和30年に約7500人いた人口が昭和60年には約半分の約3800人に減少した。貧乏で、人がどんどん去っていった地域、それが大浦町だった。それが理想の農村とは、とても呼べないだろう。

コルビュジェの理想を現実化していた街は、コルビュジェが考えていた通りには発展せず、むしろ衰退していった。だが正確を期するなら、ここでひとつ付け加えなければならないことがある。実は元来、大浦町の国道は現在のように街の中心部から離れて通っていなかった。昔は普通の街と同じように、幹線道路が街の中心部を通っていたのである。

後に国道となる幹線道路が遠ざかっていったのは、戦前戦後を通じて推し進められた干拓事業によってであった。図では斜線で示したのが干拓地で、当然ここは元々は海だった。元来の幹線道路は海沿いを走る道で、その道沿いに大浦町の中心部もあった。ところが干拓事業によって海岸線が遠ざかり、それに応じる形で幹線道路も海沿いを走るように路線変更された。こうしてコルビュジェの理想図の通りの街が出来上がったのである。大体昭和40年代の頃と思われる。

大浦町は、コルビュジェの理想の農村となったにも関わらず、その後もどんどん衰退していった。東京や大阪に住む人からしてみれば、こんな日本の端っこの交通の便の悪いところが衰退するのはごく自然なことと思うだろう。でも実際は、大浦町はさほど山深い村ではなく、むしろ地形的には開けた方だし、近場の地方都市(加世田)への距離もそれほど遠くない。むしろ利便性のよい農村なのである。

先日南大隅町(大隅半島の南の端っこ)に行ったのだが、ここは非常に山深く、地形も険しいところで、さらに市街地からの距離もかなり遠い。正直「よくこんなところに人が住んでいるなあ!」と思ったくらいだった。でも昭和60年の時点では、大浦町はここよりもさらに高齢化した地域だったのである。

コルビュジェの理想の農村を具現化した街であり、さらに利便性もよい開けた場所であったにもかかわらず、なぜ大浦町は全国に先駆けて高齢化していったのか。

少し考えてみたい。

(つづく)

【参考文献】
『人間の家』ル・コルビュジエ、F・ド・ピエールフウ共著、西澤 信彌 訳
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2016/08/f.html
ル・コルビュジエとド・ピエールフウによる、住みよい家をつくるための都市計画提案の書
過疎化と高齢者の生活—老年人口比率33.1%の鹿児島県大浦町—」1990年、染谷俶子

2019年7月26日金曜日

「プレゼン」への杞憂

最近、「プレゼン」が表現方法として浸透してきた。

ここでいう「プレゼン」とは、多くの場合プロジェクタでスライドを使いながら聴衆に向かって話す、あれである。元々の「プレゼンテーション」はもっと広い概念で、「人に主張を理解してもらうための弁論」というくらいのものだと思うが、とりあえずここでは狭い意味で使う。

プレゼン的なものはずっと前から重要だったが、最近PCスキルが普遍化してきたことやプロジェクタがかなり普及したことで、スライドを使うプレゼンが一般化し、また上手なプレゼンが多くなってきた。

もちろんこれはいいことだ。スライドを見ながら説明すれば複雑なことでもわかりやすく伝えられるし、いろんな情報を盛り込める。弁舌だけで人を熱中させるのは難しいが、写真や図や動画を一緒に使えば話はずっと生き生きする。 私は前から選挙演説を「プレゼン化」して欲しいと思っていて、あれこそプロジェクタを使って図やグラフを用いてやるべきだと思う。

ちょっと前(といってももう数年も前か)、サンデル先生の政治哲学の授業が流行ったことがあったが、あれもプレゼン的な授業だった。サンデル先生はそれほどスライドを使わなかったけれど、黒板ではなくてスライドをメインにして授業をするというのが大学の講義として新しかったと思う(あくまでも当時の日本の常識から見て)。その後TEDが世界中の優れた人たちのとびきりのプレゼンを配信するようになり、日本でもどんどんプレゼンの技術は高まっていった。

プレゼンには、人にうまく考えを伝えるためのノウハウがいっぱいあって、素晴らしいプレゼンは人を昂揚させ、楽しませ、感動させ、インスピレーションを与える。そういうプレゼンが出来る人は、ビジネスでも社会活動でも重宝される。私もプレゼンがもっとうまくなりたいと常々思っている。

が…、何かこの、「これからの社会にはプレゼン能力は必須!」とでも言わんばかりの雰囲気には違和感がある。

いや、上手なプレゼンはいいものだと思っている。問題は、それを聞く聴衆の姿勢の方である。

というのは、うまい話をするよりも、人の話を聞く方がずっと大事なことだと私は思っているからだ。そして、本当に大事なことは、ほとんどの場合、端正なプレゼンによって表明されるのではなく、遠慮がちに、ささやくような声で、むしろ呻きに似た形でしか表に出されないという現実があるからだ。いや、それどころか、人々の心の中にある一番大事な主張は、ずっと胸の奥にしまったままで、一生に一度も外に出されることはない、ということだってよくあることなのである。

そんな馬鹿な! と人は言うかもしれない。「言わなきゃわかんないだろ!」と。黙っていたら誰にも相手されないのだから。しかしそういう人達は、まさにそれが一番大事な主張だからこそ、それが非難され、黙殺され、蹂躙され、なかったことにされるのが怖ろしくて、黙っていたのである。

例えば、「私を一人の”人間”として扱ってほしい」といったような主張がそれだ。これまで人間並みに扱われなかった多くの人々——奴隷、女性、被差別階級といったような——は、そういうたった一つの重要な主張を、一生なしえないでいた。

それは過去の話ではある。でもこれは、現代でもそっくりそのまま当てはまるのだ。確かに奴隷はおおっぴらには存在しない。男女平等の世の中になった。少なくとも名目上は差別は撤廃された。それはそうである。しかし最も儲かる商売が「人を搾取すること」である以上、人を人間以下に貶めることで成り立つ社会構造は温存されているのである。

また、個人の内面の話だって、大事なことほど打ち明けられないのは誰しも経験があることだろう。誰にも理解してもらえない悩みや苦しみを抱えながら、表面的にはにこやかに、幸せそうに暮らしている人を私は何人も知っている。本当は、誰かに分かって欲しいと心の底で願いながら。

そういう人達の一番大事な主張は 、これからも端正なプレゼンで表明されることはないだろう。もちろん例外はあった。キング牧師の「私には夢がある」の演説はそのひとつだ。だがキング牧師の前に、「私を一人の”人間”として扱ってほしい」と主張して撲殺された人達がたくさんいたことを忘れてはならない。その死屍累々があったから、キング牧師が演説できたのである。人として当然の主張を行うにも「名演説」を必要としたのだ、ということは心に留めておかなくてはならない。

話がプレゼンから逸れたようだが、私には何か、プレゼンみたいにわかりやすい、人を魅了する、面白くてためになる、そんな話に慣れてしまうと、人間にとって本当に必要な、虐げられた人々の幽かな声を聞くための力、言葉を奪われた人々の言葉にならない声を聞く力が失われてしまうような、そんな気がして怖ろしいのである。

それは私の杞憂かもしれない。プレゼンは多くの社会的課題に目を向けさせ、貧困や環境問題の克服のためのアイデアを広めている。志も能力も高い人たちが、そのアイデアを世の中に広めるために、今日も聴衆を前に心を摑むプレゼンを行っている。プレゼンは目を背けたい現実を直視させるための手法にもなっている。

もちろん素晴らしいプレゼンを聞いても、その場で「へー!」と思うだけで何も変わらない人もいるだろう。でも聞かないよりはマシである。素晴らしいプレゼンのお陰で、世界は少しずつ良くなっていくと私は信じたい。

でも「これからの社会にはプレゼン能力は必須!」と考えて、なんであれ主張を行うには多くの人の共感を得られるようにスマートにまとめなくてはならない、という風潮になっていくとしたら問題だ。今はまだ、そこまではないとしても。

私たちは、時にはたどたどしい主張にも耳を傾けるべきである。いや、そういうものこそ、意識して聞かなくてはならない。まさか「プレゼンがヘタだ」ということで、主張そのものに聞く価値がないと判断するような社会にしてはいけないと思う。

2019年6月18日火曜日

飲み物の地産地消

資源ゴミ回収のたびに思うことがある。

南さつま市の資源ゴミ回収日は月1回。公民館に集まって、集落で協力してゴミを集める。

一ヶ月に1回しかないからかなりの量になるが、中でも分量が多いのがプラスチックゴミ、それからペットボトルと缶——つまり飲み物に付随するゴミだ。

だから思うのである。「私たちはこれだけの飲み物を、地域外からわざわざ買ってるんだよなあ」 と。

鹿児島は、地産地消の観点からみたらかなり恵まれた土地だ。食糧自給率は200%以上ある。肉や魚はほとんど地元で生産されたものばかり。野菜も夏の暑い時期を除いてほとんどは地元産である。

私自身は、農家として「地元で消費しないで大都市圏で高く売って欲しい」と思うこともあるが、わざわざ他所から買ってきて消費するよりは地元にあるものを消費した方が安上がりなだけでなく、資金の流出を防げるのだから合理的である。鹿児島県はただでさえ所得の低い土地柄なので、食べものに貴重な「外貨」を使ってはもったいない。

しかし、飲み物はどうか。鹿児島は焼酎と茶という非常に地産地消的な飲み物があるので、他の地域よりは飲み物も地産地消している割合は高いかもしれない。でも資源ゴミとして回収するペットボトルや缶を見ていると、ほとんどは地域外で生産された、大手飲料メーカーが作ったものばかりだ。

コーラやスポーツドリンク、缶コーヒー、ペットボトルのお茶、そしてもちろんビールや発泡酒、チューハイなどのお酒類。どれもこれも、大手飲料メーカーが作ったものばかりである。こうしたものは「規模の経済」(たくさん作れば作るほど安くつくれて儲かる)がきくので、肉や野菜のような食品よりもずっと大企業に支配されがちである。

もちろん、だからといって「われわれのお金が飲み物を通じて大企業に吸い上げられていく!」と憤る必要はない。なぜなら、こうした飲み物の売価のかなりの部分は流通コストだから、地元のトラック運転手なんかの雇用を生んでいるのである。それに仮にローカルな企業の製品しかなければ、それは割高なものになる可能性が高い。

しかし、地産地消が盛んな鹿児島県なのだから、「飲み物の地産地消」だってもっと進めても良い。大企業の製品を買う代わりに地元産のものを買えば、そのお金は地域内で循環できるのだ。

ところで、「南薩の田舎暮らし」では、このたび「南高梅とりんご酢のシロップ」をインターネットで発売開始した。炭酸や水で5倍〜6倍に割って飲む「ドリンクのもと」である。既に数年販売している「ジンジャーエールシロップ」の姉妹商品だ。

南高梅は同じ集落出身の梅農家から仕入れたもので、夏の暑いときに水で割って飲むとなんとも爽やかで美味しい飲み物になる。ちなみにインターネットでの販売は今年からだが、製品自体は2年くらい前から製造している(地元のみで販売)。

こんな小さな小さな商品で「飲み物の地産地消」を進めたいなんて大それたことは言えないが、私はもうちょっとこういうドリンク系の商品を増やしていけたらなあと思っている。そんなわけで、よろしくお願いいたします!



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2019年6月3日月曜日

薩摩藩の謎な馬生産「牧」を考える企画展

現在「歴史交流館金峰」で開催中の企画展「伊作牧~金峰山に守られた牧場~」を見て来た。

伊作牧(いざくまき)とは、金峰町から吹上町にかけてあった馬の放牧地である。企画展を見ていろいろ学びもあったし、新たに疑問点も出てきたので備忘を兼ねてちょっと書いておきたい。

薩摩・大隅は古代から馬の産地として知られ、戦国時代には馬の生産が盛んになったが、江戸時代になって軍馬の需要がなくなっても依然として馬の生産を続けた。歴代藩主は馬の生産に関心を示し、特に島津重豪と斉彬は品種改良や組織的生産方法の向上を目指したらしい。

ここで一つの疑問は、軍馬の需要がないのになぜ薩摩では(大隅にも牧はあったが薩摩の方が中心)盛んに馬の生産を行ったのか、ということである。時代劇等では武士が馬に乗っているので、「馬に乗るために育ててたんでしょ?」と思うかもしれないがそうではない。

というのは、実は江戸時代、多くの武士は騎馬することができず、乗馬する場合も馬はほとんど従者によって引き連れられゆっくり歩くだけであって、疾駆することは武士の威厳を損なうとすら考えられたフシがある。そもそも日本古来の馬具—鐙(あぶみ)とか轡(くつわ)—は優美ではあったが非実用的・非効率的であり、自由自在に騎馬するには向いていない。さらに重要なことは、日本の馬は去勢されていなかったうえにろくに調教されていなかったから、牡馬(オス)は性質が獰猛で人の言うことを余り聞かなかったということである。もちろん軍馬が重要な役割を果たした戦国時代では、馬は縦横無尽に乗りこなされていたのだろうし、相応の調教法が存在したのであろう。しかし泰平の世の中では騎馬は本質的に不要であり、騎馬や調教の技術は失われてしまい、馬を引き連れることは上級の武士のファッションにすぎなくなっていた。

にもかかわらず、薩摩では馬の生産が続けられていた。何のために? それがわからないのである。上級武士の見せびらかしとして馬が存在していたにしても、藩営で20もの放牧地を設け組織的に馬を生産していたところを見ると、薩摩藩では馬にそれ以上の価値を見ていたことは確実だろう。

ところが、その生産方法というのは全くお粗末なものだったのである。薩摩の牧というのは、簡単に言えば馬の自然放牧地のことだ。牧を管理する役人はいるが、基本的に馬を世話することはせず、交配・ 繁殖・成長は全て自然に任される。牧とは、単に馬が逃げないように半孤立の地域を設けるという意味なだけで、そこで馬の人為的生産・調教が行われるわけではないのである。

ただし付け加えておかなければならないのは、かなり手間を掛けて馬を生産した東北地方などであっても、近代的な意味での育種は行われなかった。東北では曲り家(まがりや)といって、母屋と厩(うまや)が繋がった建物で丁寧に馬を育てたが、それにしても去勢は全く行われず、人工的育種(優れた血統同士を人為的に交配させること)が積極的に行われた形跡はないようだ。なお、西洋では古代から去勢や育種の原理は知られており、家畜の基本的な飼養法となっていたことが日本とは趣を異にしていた。

さて、薩摩藩の牧では、去勢も人工交配もされない馬の集団がのびのびと原野を駆け回っていたのだが、要するにこの馬は家畜ではなくて紛れもなく野生馬だったのである。

この野生馬をひっつかまえて家畜馬にする行事が「馬追い」である。これは、牧の一端から一列にならんだ武士たちがローラー作戦で馬を寄せていき、最終的にはオロ(苙)という直径10mくらいの円形の土手の中へ追い詰めるものだ。二才馬(にせうま)という若い目的の馬を定めたら、オロの中をぐるぐる疾駆する馬に、数人がかりで土手の上から飛びついて捕獲し、轡をつけて出荷(藩に献上)する、というのが作業の流れである。

ちょっと変わっているのは、この「馬追い」に参加する武士たちの格好である。ふんどしいっちょにワラの腰簑をつけ、上半身は裸で赤いタスキのようなものをつける、というなんとも防御力の低い格好なのだ。しかも草鞋すら履かず裸足だった模様である。山野を疾駆するのに裸足では随分辛かっただろうし、この格好で最終的には野生馬に突撃するのだから命知らずもいいところである。

これは、道具もなにもなく裸同然の徒手空拳で野生馬を捕まえる危険きわまりない仕事であり、また非効率的な仕事でもあった。ローラー作戦で馬を追い詰めるので「馬追い」には数百人の人手が必要な上、しかも実際に捕獲できるのは一回に数頭でしかなかった。牧には数百等の馬の群れが棲息していたにもかかわらずである。

どうしてこのような非効率的な捕獲方法をとっていたのかも謎である。展示では、見世物・遊興的な側面が大きかったのではないかとされていた。確かに、この危険で派手な仕事は見応えがあったらしく、見物人が大勢訪れ、たびたび禁じられたものの懲りずにテキ屋的なものが出店していたらしい。「馬追い」はエンターテインメントであった。

ところがエンタメとして考えられないのが、同じ南さつま市の笠沙の野間半島にあった「野間牧」だ。江戸時代には野間半島は本土と砂州で隔てた島であり、そのため馬が逃げる心配がなく、牧が設けられたのである。この野間牧でも「馬追い」が行われたが、この頃の野間半島には道らしい道はなく、片浦から船で行く必要があり、「馬追い」に見物人が大勢来ることは考えられない。こちらではエンタメではありえなかったと思う。それでも非効率的な馬の生産が行われ、危険な「馬追い」をやっていたのはなぜだったのか…?

それを解く鍵、かどうかはわからないが、引っかかるのは「馬追い」の時の半裸の格好だ。ちなみにこの時は髷も解いたらしい。馬をつまかえるにしてはみすぼらしすぎるこの格好に、「馬追い」の源流へのヒントがあるような気がする。効率的に馬を捕まえようとしたらありえない格好で行われるのは、馬を捕まえる以外の目的が元来あったような気がしてならない。

ともかく鹿児島ではこのように目的の不明な馬の生産が江戸時代を通して行われ、しかもわざわざ危険で非効率的な捕獲方法を採用していた。さらにそうして生産した馬は野生馬であり、去勢も施されず調教も不十分であったと推測されるため、有用であったか怪しいのである。何のためにこのようなことをやっていたのか本当によくわからない。

さらに展示を見て思ったことをいくつか。

牧には、牧神(まきがみ、マッガンサァと呼ばれる)が祀られるが、これは巨石であることが多い。伊作牧でもそうだし、吉野牧も巨石だ。牧神はなぜ巨石なのか。巨石でない祠式のものもあるから絶対ではないが、巨石と牧・馬との関係はいかに。

そして薩摩藩では、馬はどのくらいの価格で売買されたのか。藩営の牧では、馬追いで捕獲した馬は藩に献上(というより元々藩の所有物)されたが、捕獲したもののうちあまりよくない馬は百姓などに払い下げられたという。どのくらいの価格だったのかがわかれば、この粗放生産の理由がわかるかもしれない。また、薩摩藩の馬に関する法令も気になる所である。馬は藩の専売ではなかったとは思うが、法令上どのような規制がかかっていたか。

最後に、武士でなく百姓の世界での馬の生産・流通がどうであったのかということ。先述の通り牧の馬は百姓にも払い下げられたのであるが、百姓が運搬に使っていた馬も全てが牧出身であったとは考えられない。というのは、馬は去勢されていなかったから家畜馬も子どもを産んだに違いないからである。全国的にはそうした牛馬は馬喰(ばくろう)という人たちによって取引され、そうした人たちの宿場(馬喰宿)も設けられていた。そもそも野生馬を捕まえて調教するよりも、生まれた時から人の手で育てる方が調教は容易で有用な家畜にすることができるのは間違いない。家畜馬の子どもの方がずっと需要は大きかっただろう。百姓の場合見せびらかしで馬を使うのではなくて、現実的な運搬の必要性があるのだからなおさら気立ての良い馬が求められただろう。では鹿児島では馬喰はどう活動していたのか? それと牧の関係はどんなものだったのか? 気になることはいろいろである。

長くなったが、今回の展示は小規模なものながら薩摩藩の謎な馬生産を顧みる機会となり、私にとって大変ためになった。展示期間は残り僅かだが、ご関心の方はぜひ観覧をオススメする。またこの場を借りて、展示を担当した学芸員の方にも御礼申しあげます。

【情報】
企画展「伊作牧~金峰山に守られた牧場~」
開催期間:2019年3月16日(土)〜6月16日(日)9:00〜17:00
     ※休館日:月曜日(祝日と重なる日は翌日)
会 場:歴史交流館金峰
入館料:高校生以上300円、小・中学生150円、幼児無料(団体割引あり)
問い合わせ先:歴史交流館金峰 0993−58−4321

2019年5月20日月曜日

「制度の趣旨を逸脱」をめぐる総務省と自治体の「ふるさと納税」合戦

「ふるさと納税」の新基準に合致しない、ということで、鹿児島県では鹿児島市と南さつま市の税制優遇が9月で切られる、との新聞報道があった(全国では43自治体)。

総務省によれば「不適切な寄附集めをしていた」というのだ。南さつま市が不適切とされたのは、返礼率(総務省の用語では「還元率」)は3割以下でないといけないのに、業者に「奨励費」の形でキックバックし、実質返礼率をそれより上乗せしていたから、とされた。

この報道を見て、「ルールを逸脱して寄附をたくさん集めた南さつま市、けしからん!」と思った人もいるかもしれない。

しかし、ちょっと待って欲しい。私も「ふるさと納税」の返礼品を提供している事業者の一員である。内部から見た姿と報道された姿では大きな違いがある。行政からは反論しづらいところだと思うので、微力であるがちょっと思うところを述べてみたいと思う。

そもそも「ふるさと納税」が始まった2008年、今から約10年前には、これは地味な制度だった。寄附額も低調で、さほど注目もされていなかった。だが自治体が返礼品を充実させることにより次第にマーケットが巨大化していく。

「ふるさと納税」は、あくまでも自治体への寄附により税額が控除される制度であって、返礼品はオマケである。

でも、実質的には税学控除分でオマケを購入できることと意味は同じだから、「ふるさと納税」はEC市場(ネットショッピング市場)では、自治体が運営するディスカウントストアというような意味合いになってしまった。

こうして自治体には「ふるさと納税」のディスカウント合戦が湧き起こった。ある自治体などは、「返礼率は100%でもいい! 全部寄付者に還元するんだ!」というような極端なディスカウントをやるところも出てきた。

「寄附額を全額返礼品にまわしたら、自治体の手元にはお金が残らないわけだから、事務の手間がかかる分、損では?」と思う人もいるだろう。しかし自治体が集めたいのはお金ではなかった。「ふるさと納税」をきっかけにしてその地域のことを知ってもらい、ファンになってもらい、そして商品の愛用者になってもらうことが真の目的だったのである。

例えば南さつま市の地元企業は、全国に販路を持っているところは僅かであり、地方的な、地味な商売をしているところが多い。ところが「ふるさと納税」の波に乗れば、別段「ふるさと」を意識していなくても、美味しい肉や魚を安くで手に入れたい人がどんどん注目してくれるわけで、事業者はお金を掛けずにインターネットで全国に広報できるわけだ。そして返礼品を受け取った人の何割かは、今度は「ふるさと納税」と関係なく、その商品を買ってくれるお客さんになってくれるのである。

実際、私もポンカンを「ふるさと納税」の返礼品として出品したが、返礼品を受け取った方が次に普通の注文をくれたということが何件かある。

「ふるさと納税」なんていう制度が長続きするものではない、ということは明らかだから、存続している何年かの間に、地元企業のいくつかが全国にファンをつくり、販路を開き、拡大していくチャンスにできるなら、自治体の手元にさほどお金が残らなくったって、長期的に見れば十分おつりがくるのである。

2015年、2016年にふるさと納税日本一になった都城市は、まさにそういう考えから高い返礼率を設定するとともに、「日本一の肉と焼酎」に特化してアピールを行い、全国的にほぼ無名だった都城を一躍全国が注目する地域へ変えた。例えば2018年度の都城市は95億円もの「ふるさと納税」を集めているが、都城市の返礼率は55%程度と言われているから、地元企業の商品が52億円分売れた、というのと同じことなのだ。地方都市にとって、これはたいした経済効果と言わなければならない。

そしてより重要なことは、仮に「ふるさと納税」の制度が明日終了したとしても、都城市のお肉や焼酎を味わってくれた大勢の人たちは消えてしまうことはない、ということだ。きっとその何割かは、ディスカウント期間が終わったとしてもその商品の愛用者になってくれる。

「ふるさと納税」は、政策立案者が考えてもみなかったこうした効果の方がずっと大きかった。何億円寄付を集めた、ということよりも、オマケだったはずの返礼品によってお金以上の「繋がり」を構築できるかの方が重要になってきた。

ところがこれは表面上、「加熱する返礼品競争」と捉えられた。ディスカウント合戦だとみなされたのである。もちろん、寄附を集めたいがためにそういうエグい競争をした自治体はあった。でも多くの真面目な自治体は、「ふるさと納税」のプラットフォームを使って地元企業をEC市場に参入させ、全国に売り込んでいくためにこの機会を利用したのである。

しかし2017年4月、総務省は「本来の趣旨を逸脱している」として返礼率を3割以下にするよう自治体に通知。これを受けて南さつま市は、2017年9月、正直に返礼率を3割に見直した。

一方で、この通知を無視した自治体も多かった。というのは、通知があっただけで違反の罰則がなく、法的な拘束力がなかったのである。そもそも返礼率3割がなぜ適正かという論理的な根拠もなかった。なぜ返礼率が高いというだけで問題なのか、「競争が過熱している」というが、競争することがなぜ悪いのか、そういう観点は総務省通知には全くなかった。

確かに、「ふるさと納税」は金持ち優遇政策の一つである。金持ちほど得をする制度は、公共の仕組みとしてはあまり褒められたものではない。だがそれをいうなら、太陽光発電の補助金や売電価格保証だってそうだし、エコカー減税だって住宅ローン減税だってそうだ。貧乏人には縁のない、金持ち優遇政策である。なぜ「ふるさと納税」だけが狙い撃ちされなければならないのか、そこは謎だった。

だから多くの自治体が総務省通知を無視して高い返礼率を維持した。そこで馬鹿正直に返礼率を3割に低下させた南さつま市は、大幅な寄附減額に見舞われた。文字通り、正直者が馬鹿を見たのである。

これを受けて、南さつま市では2018年9月、返礼率は3割に維持したままで、「サービス向上費」として業者に15%キックバックする制度を始めた。総務省通知では、あくまでも寄付者への返礼率だけが問題で、自治体が事業者に補助することは何も言っていなかったからである。このようにして南さつま市は、返礼率は3割のままで、実質は寄付者に45%還元する仕組みにした。またこれに合わせて、ふるさとの納税事業者(返礼品を提供する事業者)によって組合(ふるさと納税振興協議会)を作り、より積極的に広報やキャンペーンなどに取り組んでいけるようにした。

ところがこの組合が設立された数日後、総務省は通知が十分な効力を持たなかったのを見て、都城市を名指しで批判し、高額な返礼品を送る自治体を制度から除外する方針を打ち出した。

あわせて10月、返礼率の全国調査が行われた。南さつま市では、別に悪いことはしていないということで、実質45%還元していることを回答。しかし全国で3割を越えたと回答したのはたったの25自治体に留まった。しかし返礼品競争が過熱していたのは事実だ(だから総務省は調査を行った)。多くの自治体では、はっきり言えばチョロマカシによって3割以内だと回答したのである。ここで、堂々と真実を報告した南さつま市を私は誇りに思う。

一方総務省は、多くの自治体が返礼率をチョロマカし、制度の趣旨に逸脱する競争が行われていると見て、2019年6月をもって、ふるさと納税の対象自治体を指定する新制度に移行することとした。南さつま市は上述の通り馬鹿正直に真実を報告していたため、暫定的に2019年9月まではこの指定を受けたが、他の自治体に比べ1年短い指定であった。要するに、6月〜9月の3ヶ月は暫定的に指定してやるから、その3ヶ月の間に返礼率を見直しなさい、というのである。なお、南さつま市は2019年3月に制度を見直し、返礼率を既に3割に低下させているから、おそらく来る9月には再指定を受けることができると思う。

さて、これまでの経過を見てみて、「ふるさと納税」をめぐる総務省の対応は極めてマズかったと言わざるを得ない。

「ふるさと納税」の自治体間競争が過熱したのの、どこに問題があったのか、そこを深く考えず、競争を抑制しようとしたのがいけなかった。そもそも「ふるさと納税」に限らず、政府は自治体間に競争の原理を持ち込もうとしてきたのが最近の流れだった。にも関わらず、実際に自治体間の競争が起きると、「競争が過熱」「制度の趣旨を逸脱している」などといい始めたのである。

そして「制度の趣旨を逸脱している」というのは、そもそもの制度設計が悪いことを自ら露呈しているようなものである。趣旨を逸脱して使える制度、というものがそもそも悪い。総務省は、制度設計が甘かったことを棚に上げて、自分の思うとおり動かない自治体にやきもきしているように見えた。だが10年前、制度の趣旨の通りに運用されていた「ふるさと納税」は寄附額も小さく、地味な目立たない制度だった。それがここまで盛り上がったのは、まさに「制度の趣旨を逸脱」したからであって、逸脱がなければ「ふるさと納税」などほとんどの人が顧みない失敗政策だっただろう。

だいたい、元来は地方の活性化政策だったはずの「ふるさと納税」なのに、実際に自治体が活性化に役立て、総務省の思惑を越えて意義深く活用したら、「制度の趣旨を逸脱している」としてそれに掣肘を加えるというのは、誰のためにやっている政策なのかわからない。「よくぞ我々の思惑を越えて、地方の活性化に役立ててくれました」と褒めてもいいくらいではないのか。総務省は「制度の趣旨」を守らせること自体が目的化しているように見える。

先日、南さつま市役所からふるさと納税事業者向けにお知らせがあった。そこには「再指定に向けても堂々と取組んで参る所存であります、皆様のご協力どうぞよろしくお願い致します」とあった。「堂々と」とわざわざ書いたのが奮っている!

無様なチョロマカシをせず、堂々と「ふるさと納税」に取り組んだ南さつま市は立派だったし、これからも堂々と取り組んで欲しいと思う。

でもチョロマカシをした自治体よりももっと無様だったのは、総務省の方だと思えてならない。

2019年5月4日土曜日

神武天皇聖蹟を巡る鹿児島と宮崎の争い——なぜ鹿児島には神代三陵が全てあるのか?(追補)

2017年の8月から、2019年の1月まで約1年半かけて、このブログで「なぜ鹿児島には神代三陵が全てあるのか?」という連載記事を20回に渡って掲載した。

だが、執筆構想にありながら敢えて書いていなかったことがある。「皇紀2600年事業」のことについてだ。これはこれで1つの独立したテーマなので、機会を改めて別にまとめようと思っていたのだ。

しかし、改めて20回のブログ記事を見直してみて、神代三陵の扱いが最高潮となったこの事業のことに触れないのは、いかにも画竜点睛を欠くというか、収まりが悪い気がしてきた。そこで、この連載記事はあまり人気がなかったことは十分自覚しているが、追補として「皇紀2600年事業」について書いてみたい。

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昭和15年(1940年)は、皇紀2600年に当たっていた。

皇紀、というのは、神武天皇の即位した年(西暦紀元前660年)を基準とする紀年法である。これは『日本書記』の記載に基づくものだったが、既に述べたようにこの年代はかつて国学者たちによってさえ疑問視されており、歴史的事実に基づいて定められたものではない。そういう疑問が国民にあったからなのかどうかはわからないが、皇紀は、明治政府が太陽暦を導入した明治5年(1872年)に導入されていたものの、日常の暦は元号のみで済ませ、皇紀は特別な場合にしか使われていなかった。それが昭和に入ると次第に多用されるようになっていく。日本を特別な国と見なす国家主義的な考えが瀰漫していくと同時にだ。

その極点とも言えるのが、「紀元二千六百年記念行事」であった。

紀元二千六百年記念行事は、式典や様々なイベントと記念事業で構成される国家的な祝祭行事である。これは長期化していた日中戦争による停滞感を一時でも吹き飛ばし、国威を発揚することによって戦争への国家総動員体制を構築する画期となった。この記念行事の幕開けとなったのが昭和15年2月11日の紀元節(神武天皇が即位したと言われる日を祝日として定めたもの)の祭典で、昭和天皇はその日次の詔書を渙発した。

「(前略)今や非常の世局に際し斯の紀元の佳節に当たる。爾(なんじ)臣民宜しく思を神武天皇の創業に騁(は)せ、皇国の宏遠にして皇謨の雄深なるを念ひ、和衷戮力益々国体の精華を発揮し、以て時艱の克服を致し、以て国威の昂揚に勗(つと)め、祖宗の神霊に対へんことを期すべし」(原文カタカナ、適宜句読点を補った)

つまり、日中戦争の遂行のため今は「非常の世局」になっているが、日本を建国した神武天皇に思いを馳せ、力を合わせて難局を乗り越えて祖宗の神霊によい報告が出来るように、というのである。明治維新にあたっても「王政復古の大号令」において「神武創業の始めに基づき」として神武天皇が理想として持ち出されたが、日中戦争においても神武天皇の武のイメージが喚起されたのであった。「紀元二千六百年記念行事」は、遂行中の戦争を神武天皇の勇ましい建国の事績——東征——になぞらえる役割も果たした。

記紀の神話では、日向にいた神武天皇は東によい土地を求め都を作ろうとし、筑紫、安芸、吉備の国などを通り河内へ辿り着いた。そして土地の神と戦になり一旦紀国へ退避。そして戦を交えつつ八咫烏(やたがらす)の案内で宇陀(うだ)(奈良)に赴き、八十梟帥(やそたける)や土蜘蛛などと呼ばれた土地の蛮族を破り進撃した。こうして6年間に及ぶ戦いを制し、神武天皇が「都を開き、八紘(あめのした)を掩ひて宇(いへ)にせむこと、亦可(よ)からずや」と述べて都を置いたのが橿原だった 。この肇国の戦いを「神武東征」という。日中戦争はこの古代の東征と重ね合わせられ、「聖戦」と位置づけられたのである。

紀元二千六百年の記念式典は11月10日に皇居外苑で開催され、参加者は重臣や海外からの賓客、各界の代表及び各府県・市町村からの代表5万5千人。さらにこれにあわせて、海軍の観艦式、陸軍の観兵式、美術展覧会、競技大会など各種の催しが前後して行われ、またこの年は全国の神社でも紀元節が大祭として挙行された。さらに実際には戦況の悪化により中止になったものの、計画段階では万博の開催及びオリンピックの招致までが行われていたのである。まさにこれは、国家神道始まって以来、最大の国家的祭典であった。

そして「紀元二千六百年記念行事」の一環として、全国を巻き込んだ国家神道的な記念事業(正確には「紀元二千六百年奉祝記念事業」という)もまた遂行された。

記念事業の中心は、(1)橿原神宮の拡張並びに神武天皇陵の参道整備、(2)宮崎神宮の拡張整備、(3)神武天皇聖蹟の調査保存と顕彰、(4)歴代天皇陵の参拝道路整備である。 橿原神宮は、神武天皇が大和で初めて宮を置いたとされる場所に明治23年(1890年)に創建された神社で、宮崎神宮は東征以前に神武天皇の宮があったとされる場所に古くからあった神社である。もちろん両方とも主祭神は神武天皇。そして「神武天皇聖蹟」とは、神武天皇の事績に関係がある地に顕彰碑を建設する事業である。この記念事業は、神武天皇を顕彰するとともに関係神社の整備拡張を行い、あわせて歴代天皇陵の整備を進めるものだったといえる。

この事業の一環で、昭和天皇は6月に関西に行幸し、伊勢神宮に参拝した後、神武天皇陵及び橿原神宮、仁孝天皇陵、孝明天皇陵、英照皇太后(明治天皇の嫡母)陵、明治天皇陵、昭憲皇太后陵に親拝、東京に還幸後、大正天皇陵にも親拝した。幕末明治の頃に重要視された歴代天皇陵は、大正時代にはどちらかというと考古学の対象となっていたが、戦争のさなかにあって再び政治的に注目されてきたのである。

記念事業は、(1)と(2)は神武天皇の顕彰において当然の事業であったし(4)も単純な整備であったからスムーズに遂行されたものの、問題を孕んでいたのは(3)の「神武天皇聖蹟」であった。この調査研究を担当したのは文部省であったが、全国に伝承がある神武天皇縁の地のうち、どこを聖蹟として決定するか難しい判断を迫られたのである。

特に話がもめたのが候補地「高千穂宮(たかちほのみや)」であった。高千穂宮はヒコホホデミから神武天皇までの3代の宮居であったとされ、この伝承地を巡って鹿児島県と宮崎県が激しく争ったのである。

そもそも、鹿児島には神武天皇ゆかりの地は多くない。鹿児島は神代三代の神話のフィールドではあったが、その次の神武天皇となるとさほど伝説はなかった。文部省が「神武天皇聖蹟」の予備的調査として昭和11年(1936年)に関係府県に資料提出を求めたときも、鹿児島県はその対象になっていなかった(宮崎、大分、福岡、広島、岡山、大阪、奈良、和歌山、三重に照会)。文部省は『日本書紀』や『古事記』に基づいて調査研究を行うとしていたが、記紀における神武天皇の事績は日向が出発点で薩摩・大隅は全く出てこないのだからこれは当然だった。

ところがこれに鹿児島県は反発。鹿児島県は昭和14年(1939年)に改めて自らにも照会するように文部省に求めたらしい。鹿児島は神代三代の神話の舞台であり、特に調査対象に挙がっていた「高千穂宮」の真の伝承地は霧島の高千穂峰付近(鹿児島神宮近く)であると主張した。文部省は元々「高千穂宮」を宮崎県北部にある高千穂町付近として考えていたのであるが、鹿児島県はこれに真っ向から反対したのだ。

しかしこれには宮崎県も譲れないわけがあった。宮崎県は神代三陵を鹿児島に政治力によって奪われたことを忘れていなかった。これまでも述べたように、神代三代の舞台は宮崎であるという主張があったにも関わらず、明治7年の神代三陵の治定において宮崎説は一顧だにされていない。しかも当時の宮崎県は県境の変転など相次いでいたためそれどころではなく反論もできなかった。その恨みが尾を引いていたのだ。

既に明治25年(1892年)、宮崎県は「古墳古物取締規則」を制定し、古墳の保護や開発の制限、発掘調査と出土品の届出などを定めている。宮崎県は、県内にある古代の遺物を積極的に保護することによって、自らが神話の源流であることの物証を保全しようとした。これは日本で最初の地方政府による古墳や埋蔵物に関する法令で、埋蔵物保存行政において画期的なものであった。

さらに大正元年(1912年)、宮崎中部の西都原古墳群の学術発掘調査が有吉忠一知事によって発案され実行された。真の神話の地が宮崎であったという主張を学術的な調査によって確固たるものにするのが目的だった。その有吉知事は「古墳保存ニ関スル訓令」において、「我が日向国は皇祖発祥の地にして霊蹤遺蹟到る処に存在するを以て、苟も原史時代に遡り建国創業の丕績(ひせき)を討(たず)ねて之を顕彰せんとせば其考証に資すべきもの」は宮崎県以外にないと宣言した。 政治力によって鹿児島が神代三陵を手に入れたのなら、宮崎県は学術研究の力でそれを取り戻そうというのである。有吉知事は大正4年(1915年)で退任したものの、宮崎県を建国の聖地として位置づける調査研究はその後も続いた。紀元二千六百年記念事業は、かつてのルサンチマンを晴らすための絶好の機会だった。

一方の鹿児島県は、そもそも明治7年の神代三陵の治定の段階においては主体的にそれを求めていたわけではなかったが、治定から約50年が経過し、鹿児島こそが建国の聖地であるということが既成事実化していた。今さら建国の聖地としての位置づけを奪われることはあってはならなかった。

鹿児島県は「紀元二千六百年記念行事」を行うための大規模な官民協働組織「紀元二千六百年鹿児島県奉祝会」を立ち上げ、鹿児島こそが建国の聖地であるという考証を「神代並神武天皇聖蹟顕彰資料」(第1輯〜第6輯)としてまとめ、昭和14年に矢継ぎ早に刊行した。その第6輯『肇國の聖地鹿兒島縣』では、神代三代及び神武天皇の活動舞台が鹿児島県であることについて「記紀以下の神典に照して甚だ顕著であつて、一点の疑義を挿(はさ)むべきでないと思ふ」と強く結論づけている。

そういう事情があったから、発案段階では宮崎県に内定していたはずの「高千穂宮」の議論はもめにもめたらしい。「神武天皇聖蹟」の調査は当然畿内が中心だったが、委員の調査出張が最後まで行われたのは鹿児島・宮崎だった。特に昭和15年4月以降、他の候補地全てが決定を見た後も最後まで「高千穂宮」を鹿児島と宮崎のどちらに指定するか、両方指定するかの結論は出ず、続けて3回も調査委員が鹿児島・宮崎に出張した。結局、どう指定しても禍根が残るということだったのか、委員会は「徴証が十分でない為、聖蹟の決定をなし難い」として決定自体を見送った。

結果、奈良県7ヶ所、大阪府4ヶ所、和歌山県4ヶ所、岡山、広島、福岡、大分各1ヶ所の計19ヶ所が「神武天皇聖蹟」として昭和15年8月までに順次指定され、追って立派な顕彰碑が建てられたのだった。鹿児島と宮崎は、こうして選考からあぶれたためいわば痛み分けではあったものの、元来記念事業に宮崎神宮の整備拡張が掲げられていた宮崎県は、鹿児島県が「建国の聖地」として決定されるのを阻止した形になり一矢報いる形となった。

そして文部省の決定を不服とした両県は、それぞれ独自に古代の顕彰事業を行うのである。

鹿児島県では、同奉祝会が昭和15年の11月、次の通り「神代聖蹟」として「高千穂宮」を含む10ヶ所、「神武天皇聖蹟」として5ヶ所の計15ヶ所を指定し、翌昭和16年までにそれぞれ顕彰のための石碑等を設置した(括弧内は当時の所在町村)。

【神代聖蹟】
  • 神代聖蹟笠狭之碕瓊瓊杵尊御上陸駐蹕之地(笠沙町) ※3ヶ所
  • 神代聖蹟竹島(笠沙町)
  • 神代聖蹟長屋(加世田町、万世町、笠沙町)
  • 神代聖蹟瓊瓊杵尊宮居址[前ノ笠沙宮](加世田町)
  • 神代聖蹟竹屋(加世田町)
  • 神代聖蹟瓊瓊杵尊宮居址[後ノ笠沙宮](万世町)
  • 神代聖蹟大山祇神遺址(阿多村)
  • 神代聖蹟瓊瓊杵尊宮居址[可愛宮](高城村)
  • 神代聖蹟高千穂美宮(隼人町)
  • 神代聖蹟西洲宮(高山町)
【神武天皇聖蹟】
  • 神武天皇御降誕伝説地水神棚(高山町)
  • 神武天皇御駐蹕伝説地若尊鼻(敷根村)
  • 神武天皇御駐蹕伝説地宮浦(福山町)
  • 神武天皇御駐蹕伝説地篠田(清水村)
  • 神武天皇御発航伝説地肝属川河口(東串良町、高山町)
この他「鹿児島県奉祝会」では、 神話ゆかりの地として霧島神宮や鹿児島神宮の顕彰や整備を行うとともに、神代三陵の顕彰を行い、また可愛三陵と高屋山上陵については参拝道路改良工事を行った(ただし道路改良工事については国からの委嘱に基づいたもの)。現在の両山稜の参拝階段などは、この時に整備されたものである。

一方、宮崎県も負けてはいなかった。宮崎でも鹿児島と同様に設立されていた「紀元二千六百年宮崎県奉祝会」が、神武天皇にゆかりある神社などを「紀元二千六百年記念祭顕彰聖蹟」として指定し石碑を建立(ただし指定場所の全体像は未詳)。また古代の宮崎についてさらに研究を深めていくため、「上代日向研究所」を設置した。

さらに「八紘一宇」の文字を掲げた巨大な塔「八紘之基柱(あめつちのもとはしら)」を宮崎市に建設。「八紘一宇」とは、この頃には「日本が世界を征服して一つにする」という理想として使われた言葉であり、この塔は建国の聖地としての宮崎の正統性を主張し、国家神道の一大モニュメントとして構想されたものであった。なおこの塔は下北方古墳群や生目古墳群、大淀古墳群など多数の古墳に囲まれた立地となっているが、それはおそらく偶然ではないのだろう。

このように鹿児島・宮崎の両県は、建国の聖地としての立場を奪い合い、ライバル意識がエスカレートして大仰な記念事業を実行したのである。それは結果的に戦争遂行に向けた国威発揚と国家神道意識の高揚をもたらし、国家総動員体制へ自主的に向かって行ったと見ることも出来る。紀元二千六百年式典が挙行される一ヶ月前の10月12日、大政翼賛会が発足し、日本は一国一党の挙国一致体制へ歩みを進めていた。「紀元二千六百年記念行事」の祝祭気分の裏で、後戻りできない領域へ進んでいたのである。

ただし勘違いしてはならないのは、「紀元二千六百年記念行事」は全国的に見れば、戦争中のガス抜きともいうべきお祭り騒ぎではあったものの、鹿児島や宮崎、そして事業の中心であった奈良のように神がかり的な神武天皇の顕彰に取り組んだ地方は他にないということだ。紀元千二百年奉祝会が組織されたのも、鹿児島、宮崎、奈良の三県のみであった。

国策を受けて多くの各府県でも記念事業が実行されたが、それは図書館や体育館の設置など戦中に予算が付きづらかった施設の建設を記念行事の大義名分を利用して実施した場合が多く、それすらもやらなかった県では「記念造林」や「開墾」でお茶を濁した。戦争の遂行のため予算も限られており、神武天皇の顕彰などに取り組んでいる余裕はなかったのだ。

多くの府県が冷ややかに紀元二千六百年記念事業を見つめる中、鹿児島と宮崎のこの事業に対するヒートアップぶりは奇異な感じがしないでもない。『日本書紀』にも『古事記』にも、はっきりと日向と神武天皇の結びつきが書いてある宮崎はまだしも、記紀の記述では神武天皇との関連が弱い鹿児島が、ここまで血道を上げたその遠因は、明治7年の神代三陵の治定にあったのだろう。

かつて押しつけられたはずの「建国の聖地」は、いつしか鹿児島のアイデンティティになっていたのかもしれない。

【参考文献】
『週報 第213号』1940年、内閣情報部
「制度としての古墳保存行政の成立」尾谷 雅比古(『桃山学院大学総合研究所紀要』第33巻第3号  2008年)
『神武天皇聖蹟調査報告』1942年、文部省
『陵墓と文化財の近代』2010年、高木 博志
『鹿児島県史 別巻』1943年、鹿児島県