2014年1月18日土曜日

西南戦争と真宗布教——鹿児島本願寺派小史(2)

前回の記事で書いたように、鹿児島で西南戦争前夜に真宗が広められたのには政治的目的があった。鹿児島での信教自由を後押しした田中直哉にも、彼自身が真宗門徒であったということ以上に、真宗を政治利用しようとする思惑があった。

この頃の鹿児島というものは、新政府の言うことは聞かず、地租改正もせず(つまり税金を新政府に納めていなかった)、新政府の政策には不満を抱き、西郷隆盛が率いる「私学校」が鬱勃とした士族を多数抱えていた。一方で一般の民衆は、長い奴隷的支配の気分から抜け出すことができず、権利や義務といった現代的社会生活の枠組みを知らずにいた。乱暴に言えば、鹿児島は「士族による軍事独裁政権」の時代で、民衆は藩政時代と少しも変わらない、蒙昧な状態に置かれていたのであった。


例えば、他県では多くが民会(今で言う県議会)を設置していたが、鹿児島においては、県はもちろん市町村のあらゆるレベルでも民主的な議会が存在していなかった。民権家であった田中直哉がこうした状況を憂慮したのは当然だ。彼は新聞記者として政治の自由化を求め、その廉で投獄されたこともあった人物だ。ちょうどこの頃中央から鹿児島に帰郷し、鹿児島の民主化を図ろうと県令大山綱良に民会設置の働きかけをしたが、民度の低い鹿児島では時期尚早であるとして受け入れられない。

そこで田中は真宗による民衆の教化を発案するのである。宗教によって「智識を啓き権利義務の在る所を知らしめ」ようとし、また布教活動を通じて「軍事独裁政権」の中心であった私学校の内実を探ろうと、信教自由へ向けた建白書を大山県令に提出するのである。田中のこうした提言が、新政府からの人心の乖離や私学校の暴発を心配する大久保、そして鹿児島での布教を進めたい真宗にとって不都合な筈もなく、西本願寺は田中からの要請を受けて鹿児島に僧侶を派遣するのである。

しかし、元来が政治的使命を帯びた布教活動であるから、私学校からは疑いの目を向けられた。そうでなくても、鹿児島には約300年の真宗迫害の歴史があり、士族は真宗僧侶を軽蔑していた。田中の提言とは別に、信教自由の布達を受けて鹿児島の真宗門徒が西本願寺へ僧侶の派遣を要請したこともあり、西本願寺は数名の僧侶たちを「開教史」に任命して鹿児島へ送っていたが、なかなか布教活動は進まない。というのも、士族たちの反発が根強く、各地で説教の許可がなかなか下りず、また邪険な扱いを受けていたのである。

そんな中、田中は同行の中原尚雄らと共に私学校党に逮捕されてしまう。西郷隆盛の暗殺を企てたとの容疑であった。拷問の末に彼らは「自白」させられてしまい、私学校に挙兵する口実を与え、ここに西南戦争が勃発するのである。信教自由の布達から約半年後の明治10年2月のことであった。

こうなると、田中が糸を引いて鹿児島へ送られてきたと見られていた真宗僧たちもスパイではないかと疑われたのは無理からぬことである。事実、田中は士族たちの暴発を食い止めようと、布教活動の中で私学校の内実を探ろうともしていたわけで、全くの言いがかりでもなかった。そういうわけで、真宗僧侶は西郷暗殺の一味と同一視され次々と捕縛されていった。その端緒となったのが、本願寺から派遣された大洲鉄然(おおず・てつねん)の逮捕である。

後に赤松連城、島地黙雷と共に「本願寺の三傑」の一人とされる大洲鉄然を派遣するあたり、西本願寺の鹿児島布教への本気度が感じられるのであるが、大洲がスパイと目されたのも理由のないことではなかった。この頃の西本願寺は長州閥との関係が深く、特に大洲は長州(周防)出身で木戸孝允と懇意にしていた。私学校の暴徒たちから、大洲は大久保や木戸の密命を受けて鹿児島にやってきたと見なされたのである。大洲が戊辰戦争の頃には僧兵を率いて活躍した武闘派だったという来歴も影響していたのかもしれない。

そういうわけであるから、政治的目的を帯びた鹿児島布教の活動は、西本願寺にとっては踏んだり蹴ったりな始まりであった。彼らは被害者であるだけでなく、行きがかり上ではあるにしろ、西南戦争勃発の間接的な原因を作ってしまった部分すらある。政治に利用されるだけでなく、政治を利用しようとした西本願寺のしたたかな姿勢は、ここでは裏目に出てしまったのだった。

だが、当時の西本願寺を政治とベッタリな阿諛追従の徒であると見るのは間違いだ。例えば大洲と同郷で西本願寺の改革を担った島地黙雷(しまじ・もくらい)は、神道国教化の宗教政策を厳しく批判し、政教分離をなさしめた立役者である。西本願寺は、政府に多額の献金をし、真俗二諦の名の下に民衆の教化に邁進したが、一方では政府の行き過ぎた神道優遇には釘を刺し、信教自由化を訴えたのであった。また、廃仏毀釈という愚行が全国に広がる前に食い止められたのも、西本願寺の政府への粘り強い働きかけがあったからこそとも言える。

そもそも廃仏毀釈は明治政府の政策ではなく、政府の神道国教化に迎合したいくつかの藩で起こった暴動のような現象であるが、これに最も抵抗したのが真宗の各寺であった。他の宗派が時の権力に迎合して大した抵抗もせずに廃寺を行い、次々と寺がなくなっていく中、強靱な信仰と団結によりただの一寺も潰さない覚悟で耐え抜いたのはただ真宗の僧侶たちのみであった。また、やむを得ず廃寺になった場合も、廃仏政策が終熄した後に速やかに再興する場合が多かった。真宗の徒は表向きには権力に従順にしつつも、実際には信仰を守り抜き、国家を出し抜いたのである。

数多くの宗派の中で、真宗のみがそうしたしなやかな対応ができたのは、長州閥との親しい関係や膨大な献金を可能とした資金力、そして天下に輝く法主の威光があった。明治政府は実質的にクーデターで成立した政権であったため、その存立基盤にあやふやなところがあった。王政復古を旗印にしてはいたが、その当時は天皇というものは一般には馴染みない存在で、偉いのか偉くないのかもよくわからないような状態だった。鎌倉幕府以来、約900年間、国のリーダーが「将軍」であったので、「天皇」は必ずしも人心を収攬する象徴となりえなかったのである。そんな中、天皇の行幸に当時「現人神」とされた本願寺の法主が恭しく同行する様子は、人々に天皇の権威をすり込ませるに十分だっただろう。

こうしたことから、明治初年の神仏分離、そして廃仏希釈、また明治4年に実施された寺領上知(寺の領地を国家に返上させる政策)など、仏教に不利な政策が矢継ぎ早に打ち出される中で、真宗はそれらからの被害をほとんど受けなかった唯一の宗派であった。そのため、明治中期以降、まずは復興に取り組まねばならなかった他宗派をよそに、真宗は鹿児島や北海道、そして続いては台湾、満州へと、積極的な布教活動を展開することができたのである。

鹿児島への布教も、決して政治的な打算のみでない、強靱な意志を持って進められた事業であった。大洲鉄然、そして開教史の僧侶が次々と捕縛されスパイの汚名を着せられようとも、西本願寺の姿勢はいささかも揺るがなかった。開教の拠点となるはずだった一宇が、設立から僅か1ヶ月で戦火により灰燼に帰しても、鹿児島へ真宗の灯を点さんとする熱意は変わらなかったのである。

【参考文献】
近代日本の戦争と宗教』2010年、小川原 正道
神々の明治維新―神仏分離と廃仏毀釈』1979年、安丸良夫

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