2017年4月30日日曜日

「砂の祭典」にかける想い——われわれはただ善良な住民であってはならない

たびたび書いてきたように、私は今年の「砂の祭典」の広報部員をしていて、その活動でこのたび「30回記念特別インタビュー」というものが公開されたのでお知らせしたい。

【公式】吹上浜砂の祭典|おかげさまで30回記念
※リンク先半ばくらいにあります。

この「砂の祭典」、一言でいうと「マンネリになっていないか?」というのが最大の課題で、10万人を動員するイベントに成長してはいるものの、「一度行けば十分」みたいな立ち位置にもなってきている。

それで、「例年通りで行きましょう」という雰囲気を壊すため、私は広報部会でもなんやかんやと文句を言ったり提案をしたりしてきた。最初は、「停滞した場で孤軍奮闘しても疲れるだけかも…」という危惧があったが、わざわざ部会に参画してくれた仲間や理解をしてくれたみなさん、受け止めてくれた事務局のおかげで思いの外楽しく充実した活動となり、すごくありがたかった。本当に感謝である。

で、その仲間たちの提案も含めて、今年の「砂の祭典」の広報ではいろいろ新しい取り組みがあるが、今回はその中の一つで私がメインに担当した「インタビュー」の話である。

以前「砂の祭典」についてのブログ記事でこういうことを書いた。
まずはこのイベントに関わっている人の生き生きとした姿を、どんどん発信していくことから始めたらよい。海外からの招待作家がどんな気持ちで南さつまに来たのか。実行委員会の人たちが何に悩み、何を目指しているのか。ボランティアの人たちの働きぶり。そして実質的な主催者である、南さつま市役所の職員の皆さんの熱い想い! そういうものをSNSとかリーフレットとか、様々な形で伝えていくべきだ。
砂像の素晴らしさを訴えるのもよいが、そこに「人」が見えなかったら感動も半減だと思うし、作り手の顔が見えてこそイベントは面白いと私は思うのである。

仲間からも同趣旨の提案があったので、「熱い想いインタビュー(企画名)」として「砂の祭典」に熱い想いで関わっている人たちを取り上げることになったのである。

それで、(1)本坊市長(実行委員長)、(2)中村築氏(実行副委員長で砂像製作の縁の下の力持ち的な人)、(3)常潤高校の先生(会場を彩る花の一部を育てている)、(4)六葉煙火(会場で毎夜行われる音楽花火イベントを担当)、(5)鮫島小代子氏(ボランティア・障害者関係)の5名のインタビューを行った。本当はあと3人くらいやりたかったが私の方の力不足もあってここまで…という感じだった。

vol.01 「砂をまちの魅力に」南さつま市長 本坊輝雄(吹上浜砂の祭典実行委員会 会長)
vol.02 「大地と海・松と砂」中村 築 砂の祭典実施推進本部 副本部長(日本砂像連盟所属)
vol.03 「無農薬での花の苗づくり」鹿児島県立加世田常潤高等学校 塩屋先生+福島先生
vol.04 「砂像があって花火が生きる」「六葉煙火」代表取締役社長 古閑潔さん、橘薗光宏さん
vol.05 「"砂"とともに歩んだ人生」(前編)(後編)南さつま市社会福祉協議会
ボランティア連絡会 会長 鮫島小夜子


あ、一応付け加えておくが、このセレクションは、あくまでもご縁に基づくものであって、この方々が「砂の祭典」関係者の中でも特に熱い人、なのかは検証してないのでその点は誤解なきように。砂像製作の人などには、もっともっと熱い人もいると思う。

で、インタビューについては、率直に言って、私自身がすごく面白かった!

やはり、なんでも熱意をもってやっている人の話というのは面白い。それに「砂の祭典」は今年で30回目である。30年もすれば子どもは大人になり、青年は壮年になる。「砂の祭典」はそれぞれの人生に深く関わっていて、このイベントはただ年に一度のお祭りだというだけじゃなく、もはやこの地域の人の人生を左右するほどの存在感があるんだということを再認識させられた。

特に面白かったのはトリに持ってきた鮫島さんのインタビュー。涙なしには語れないほどの話で、予定より1時間半くらい超過して行われたインタビューだった。というわけでvol.05だけでもぜひ読んで欲しい。

そして、このインタビューは、私自身が「砂の祭典」を見直すきっかけにもなった。最初は、確かにマンネリなイベントという印象が強かった。だが、細かく見てみれば、毎年抱負を持って取り組んでいる人がいるし、惰性で続けているだけのイベントではない。運営体制の中に「例年通りで行きましょう」という事なかれ主義が瀰漫しているのは事実としても、関係者の数は膨大だから想いの向かうところもいろいろあって、簡単に変えられるわけではないというのもわかった。そして「砂の祭典」は、外から見えるよりも、面白い場になっていると思った。

でも、だからといって、「砂の祭典はこのままの調子でずっと続けばいいよね」と思っているわけではない。インタビューの中でも、「もっとこうしたらいいのに」という声はたくさんあった。とりわけ「熱い想い」で取り組んでいる人に話を聞いたからこそ、変えていかなければならないという気持ちを新たにしたところである。

鹿児島を代表する民俗学者、下野敏見氏が著書の中で述べている。少し長いが引用する。
「しかしこの個性豊かな地方文化が現今はご承知のようにばっさりと切られ、あるいは無視されて消滅し去ろうとしている。(中略)かつてのいわゆる善良な民ならいざ知らず、われわれは文化の法則性を知っている上に一つのフェスティバルや一つのイベントに象徴される新文化らしきものを吟味し、批判し、時にはよそと比較して分析し、よりよい祭りや行事を創造することができるのである。それだけの力を地域住民が持っている時代になったのである。したがって、われわれはただ善良な住民であってはならない。その受動性のチャンネルを能動性のものに変えて地域文化の問題に取り組むべきであろう。(強調引用者)」(『東シナ海文化圏の民俗』)

「砂の祭典」には、正直、批判的な人も多くいる。毎年、あれだけの予算と労力をかけて意味があるのかとか、そもそも何のためにやっているのか、とか。いや、私自身が、どっちかというとその批判派である。

でも、そういう批判を「批判するだけなら簡単だ」などという言葉で片付けずに、運営側はしっかりと受け止め、地域文化を育む場として成長させていかなければならないと思う。そして批判する側は、ただ言うだけでなく、「よりよい祭りや行事を創造する」力を発揮していかなければならないと思う。「善良な住民」として思考停止するのは論外だが、斜に構えていてもいけない。

今回、私が「どっちかというと批判派」なのに「砂の祭典」の運営に関わったのは、そういう思いである。

…ところで蛇足だが、私の提出した原稿では「「砂の祭典」にかける想い」という企画名だったのに、いざ記事が公開されたら「30回記念特別インタビュー」という事務的なタイトルになっていたので若干残念である。他にも編集方針に言いたいことはあるが、基本的には私の原稿を尊重して掲載してくれた。全部読むと3万字はあると思うので読むのは大変だが、多くの人にぜひ読んでもらいたい。

2017年4月16日日曜日

たった一人の「エビネ展」

今年も大浦町で、「エビネ展」が開かれた。

みなさんはエビネを知っているだろうか? 若い人は知らないかもしれない。山野に自生するランの一種で、変異がとても大きいことから色や花弁の形に様々なバリエーションがあり、30年〜40年前くらいに日本中で大ブームになったことがある。

色や形の具合から、あたかも焼き物に銘がつけられるように株ごとに絢爛たる銘がつけられて、銘品は非常な高値で取引された。

ここ大浦町でも、エビネと言えば元来は趣味人が好きに育てる野草だったらしいが、ブームが始まった頃、ある人が育てていたエビネが1鉢10万円で売れるということがあり、それに目をつけた人たちが次々にエビネ栽培に乗り出した。そして変わった株を見つけたいと山野に自生するエビネを手当たり次第掘り出してしまったため、山にあるエビネは全部取り尽くしてしまったほどだという。こういうことが大浦町だけでなく、全国的に行われたそうだ。

ブームの当時は、普通のおばちゃんが10万円もするエビネの株を買うものだったらしい。この地域の最高価格の取引では、1株300万円もするものを買った人がいるという話である。その頃は平凡な株でも数十万は当たり前だったというから、とにかく多くの人が争って買い求めたのである。

どうしてそんなエビネバブルが起こったのかというと、人の持っていない珍しい花を咲かせたい、そして自慢したいという趣味人の気持ちがそれを支えていたのは当然として、それを加速させたのが、エビネは球根(※)で株を増やせるという特性だった。

だから、例えば1株を買うのに10万円かかったとしても、それを2株に増やして売れば20万円になる。10株に増やせば100万円にもなるのである。とすれば、仮に少し値下がりしたとしても十分元が取れるわけだ。そんなことから、一種の投機としてエビネが機能し、異常なる高値になったのであった。

しかしこの特性は、値下がりを宿命付けられてもいた。というのは、どんなに珍しい株であっても、それを一度売ってしまったらそこからドンドン増やされて貴重でなくなってしまうということだからだ。10万円の株が10倍に増やされたら、その株は1万円になるのが世の中の道理である。こういうことからブームのまっただ中でも価格の乱高下はあったらしい。そして、ある時値下がりして、それから値上がりすることはなかった。

ちなみにインターネットで調べてみると、ウイルスの蔓延によってダメになる株がたくさんあって栽培を諦めた人が多かった、という事情もあるらしいが、地元で話を聞く限りはそれは主要な要因ではないようだ。

また、山野のエビネが乱獲されたのは珍しいエビネを探し回ったためだが、人工交配と発芽の技術が確立して交配もののエビネが出回るようになると、自然にあるものよりずっと美しい花が咲かせられるようになり、自生品種の価値が下がった。そうなるとプロの園芸業者が一手に供給を押さえてしまうので、山で見つけてきたエビネが何十万円で売れるという一攫千金の夢がなくなってしまって、エビネが普通の人々の射幸心をあおるというこもなくなった。こうしてエビネに投機的側面がなくなって、エビネブームは終わりを告げた。

今でも昔のように趣味人はいるから、一株何十万円というエビネもあるそうだ。だが、昔と違って平凡な株なら二束三文で買えるし、一部の人しか育てていない。大浦町でも、エビネを育てているのは数人になった。

この「エビネ展」を主催しているMさんもその一人である。というより、この「エビネ展」はかつてのエビネブームの置き土産として、Mさんがたった一人で続けているものである。販売するためではなく、育てているたくさんのエビネを見てもらうために。

私はこういう、たった一人になっても続けていくという心意気が好きである。こういう活動は悪く言えば自己満足で、そこから何も産まれないのかもしれないが、世間に迎合して流行りのことをするよりずっといい。

いや、一人になっても自分のやりたいようにさせてくれ、という気持ちこそが、健全な社会や文化を支えているのかもしれない。少なくともエビネを栽培する人が一人もいなくなってしまったら、かつて生みだされた絢爛たるエビネ銘品の数々は雲散霧消してしまう。それは日本の園芸文化にとって大きな損失である。そういう意味では、こういう頑固な活動は、何も産まないどころではなく、社会的にすごく意味があることのような気がする。

大げさに言えば、人類文化を支えているのはこういう人たちかもしれない。

※正確には球根ではなく、偽鱗茎(バルブ)というもの。

2017年4月11日火曜日

吹上浜の「木を植えた男」

以前にも少し書いたが、私は今年の「吹上浜 砂の祭典」の運営に携わっていて、特に広報の仕事を担当している。

だが賑やかなイベントの情報発信をするのは苦手なので、吹上浜の自然や文化についてちょっと発信できないかと思い、今調べ物をしているところである。

例えば、吹上浜の松林。

吹上浜は約40キロもある日本最長の砂丘であり、そのうち約25キロは広大な松林に覆われている。右を見ても左を見てもどこまでも続く、人工物の一切ない縹渺とした砂浜、そしてその砂浜と人界を隔てるかのように存在しているこの鬱蒼とした松林は、ちょっと圧倒される風景である。「砂の祭典」で南さつまを訪れた人には、ぜひ立ち寄ってもらいたい。

では、砂浜沿いにある広大なこの美しい松林は、どうやってできたのだろうか。

この松林は自然に生えてきたのではなく、砂丘からの砂の飛散を防止するためにわざわざ作られたものだ。宮内善左衛門という人が苦労して松を植えたと、「砂の祭典」会場の近くにある「沙防之碑」というのに書かれている。それは知っていたのだが、歴史を紐解いてみると話はそれだけではない。本当は「砂の祭典」ホームページ上で発表しようと思っていたがあまり一般受けする話でもないので、ここに書いてみたい。

吹上浜の海岸一帯は、藩政時代には薩摩藩の所有地で、かつては松だけでなく、樫やタブ、椎などが生い茂る広葉樹の森だった。この一種の防風林に守られた田畑を耕作しながら、地域の人々は細々と生活していたと思われる。

しかし江戸初期の1647年、突如としてこの森林に大規模な火災が発生し、七昼夜も燃え続け、森がことごとく焼失してしまった。今でも潟地を掘ると、その頃の焼けた丸太や焼けぼっくいが出てくるという。そしてこのため、東シナ海を吹きすさぶ強風が砂丘を抜け、集落を襲うようになった。大量の砂が、この風によって運ばれてきた。

集落を襲う飛砂はすさまじく、田畑は砂で埋まってしまい、小さな集落は舞い上がる砂で生活が出来なくなってきた。金峰町高橋の長崎集落というところは、村落や耕地が砂に埋まってしまうので3回も移住したという。今でこそ吹上浜には砂丘らしい砂丘はないが、古くは40メートルもある砂丘が各所に吹き上がっていたそうである。

この危機に立ち上がったのが、田布施郷(金峰町)の下級武士だった宮内 良門という人物だ。良門は、吹上浜に以前のような砂防森林を取り戻そうと考えた。一方で、薩摩藩もこの惨状を見て、何か対策をしなければならないと思っていた。そこで時の家老弥寝八郎右衛門は良門の熱心な願いを聞き入れ、良門を潟取締役(海岸林造成工事の責任者)に取り立てた。

願いが叶った良門はわざわざ砂丘の中に引っ越して、砂丘の緑化に一生を捧げた。飛砂に苦しめられていた周辺18集落の民に呼びかけて労力を出してもらい、集落毎に競争させるような形で防砂垣を作り、松の植栽を行った。この頃、良門が植えた松だけで2万5000本にも上る。良門は、遺言状で「子々孫々までこの松林をよく見廻り手入れしてほしい」と書き残している。こうして海岸には少しずつ緑が戻り、藩もその功績を認め以後3代に渡り宮内家に潟取締役の重責を務めさせた。

ところが宮内家も4代目になると潟取締役が廃止され、それまでのように松林を守り育てようとする熱意も消えてしまった。やがてせっかく作られた松林は荒れ果てて元の砂漠と化し、幕末の天保・嘉永・安政の頃に至ると暴風によって飛砂の害はいよいよひどくなり、54町歩(ヘクタール)もの耕地が砂で埋まってしまった。

時の藩主、島津斉彬は吹上浜の災害に心を痛めこの様子を視察。「これは聞きしにまさる砂漠である。金峰山までいったらやむだろう」といい、郡奉行関山鬼三太や見廻り役と相談したが、難工事を誰も引き受けようとせずどうしようもなかった。

この危機に立ち上がったのが、宮内良門の子孫だった。弱冠33歳の宮内 善左衛門は文久元年(1861年)、農民の窮状を見かねて奉行所を訪れ、潟見廻り役をかってでて許可された。善左衛門は朝早くに麓(市街地)の家を出て砂丘まで歩き、夜遅くまで仕事をしたがそれでは能率が上がらない。そこで意を決して数戸を引き連れて、先祖と同様に砂丘(塩屋潟)に移住し、松の植樹に一生を捧げることにした。

すぐに資金は尽きてしまったが善左衛門は家業をなげうち、私財300貫(今の700〜800万円)を投じて砂防工事を継続。後任の郡奉行らも事業を督励し、翌年には藩主から内帑金(ないどきん=藩主のポケットマネー)も与えられた。こうして不毛の砂漠だった数百ヘクタールが松林に変じ、しかも住民12戸が移住して農漁業に従事して暮らしていくことが可能になった。

善左衛門のこうした功績は認められ、やがて数次にわたり大がかりな砂防工事が藩費で行われた。廃藩置県後は県の手に移ったが西南戦争のため中断し事業が頓挫。徐々に緑化は進められたが海岸線は遙かに長く、砂防林の完成を見ることなく、善左衛門は病に斃れて明治34年に73歳で亡くなった。病床にあっても涙を流して砂防工事の継続を訴えたという。

当時の県知事加納久宣はこの善左衛門の熱意に応え、国費支弁を政府に陳情。それが受け入れられて砂防工事が農商務省に移管。さらに明治30年には吹上浜一帯が「飛砂防止潮害防備保安林」と位置づけられ、本格的な植栽計画が開始された。やがて植栽範囲は要望に応じ加世田側にまで及んで、例えば明治33年には小湊に松苗38万9700本、明治34年には新川海岸にも38万9700本、というように営林署が大規模な植栽事業を敢行した。この植栽事業は昭和の初めまで続き、鹿児島県はこの広大な松林を保全するため、昭和28年(1953年)には一帯を県で最初の県立自然公園の一つとして指定した。

こうして、宮内良門が思い立ってから約300年をかけて、ようやく吹上浜の海岸は壮大な松林で覆われることになったのである。一人の人間の熱意、それが子々孫々にまで伝わり、遂には広大な自然をも変えた。前回の記事で述べた「愚公移山」という言葉、それを実際に成し遂げた人間が、宮内 良門とその一族であった。

今でこそ「砂の祭典」のようなイベントで砂は娯楽になったが、かつてこのあたりの人々は砂に苦しめられた。それを変えたのは、たった一人の「木を植えた男」だったのである。 ここを訪れたら、ただ松林を見るだけでなく、そういう人間の偉大なる営為に思いを馳せてもらいたい。

ちなみに善左衛門の子、宮内 敬二は初代田布施村長となり活躍したが、その子孫は知覧へと移住していったという。彼らは今どういう思いでこの白砂青松の海岸を眺めているのだろう。

【参考文献】
『加世田市史』1986年、加世田市史編さん委員会
『金峰町郷土誌 下巻』1989年、金峰町郷土史編さん委員会
『吹上浜砂丘松林の歴史—みんなの力で白砂青松を取り戻そう—』2000年、鹿児島県林業改良普及協会

2017年4月4日火曜日

枕崎「かつ市」の中原さん

隣町の枕崎市、そのシャッター街になりかけた目抜き通りの一角に、小さなかつお節屋が昨年ひっそりとオープンした。

このお店、「かつ市」という。

手がけたのは、地元企業の「中原水産」、その若社長の中原晋司さんである。

中原水産といえば、国道270号線を南下して枕崎へ入る、その出会い頭に当たる「平田潟」というところに、大きな工場があった。随分大きな商売をしていたそうである。しかしいつしか経営が悪化。この家業の危機をなんとかするため、地元に帰ってきたのが中原さんであった。

中原さんは、東京では外資系コンサルのマッキンゼーに勤め、華々しいビジネスの世界で生きてきた人である。「かつ市」は一見地味なかつお節屋であるが、最近は香港や台湾の人まで訪れる隠れた本格スポットになっているし、街としてもかつお節の輸出やフランスでのかつお節工場の設立など先鋭的なビジネス展開に目を引かれる。こういう僻地の零細企業としてはウルトラC級の実績が出てきているのも、中原さんの手腕に寄るところが大きいと想像される。

しかし、中原さんは、そういう華々しい世界でだけ活躍する派手な人ではない。(同じ大学卒ではないのだが)大学の同窓会繋がりで知遇を得て、直接お話しを聞く機会をいただいたのだが、そういう話は氷山の一角でしかない。

中原さんが帰郷して初めにやったことは、大リストラだそうだ。

赤字とはいえ主力だった製造部門を、断腸の思いで廃止した。大きな工場はガランドウになった。相当な決断である。そして販売のみに注力することにして、中原水産のビジネスを製造業から商社的なものに変えた。それで平田潟にあった広大な敷地が不要になって、事務・店舗機能のみの小さな社屋に変えることになった。そして出来たのが、「かつ市」である。

そう聞いて、驚いた。一見華々しく見える海外との取引や、「出汁の王国・鹿児島」といったプロジェクトの裏に、そんな苦しい内実があったのかと。そして、その苦しさを一歩一歩乗り越えながら、地味な仕事をクリアしていこうとする姿勢に頭が下がった。

枕崎は、言わずとしれた「かつお節の街」である。が、その展望は必ずしも明るくない。

何しろ、かつお節を削って出汁を取る、ということを普通の人はしなくなった。恥ずかしながら私もその「普通の人」の一人である。味噌汁をつくる時は必ず昆布で出汁を取るが、かつお節までは削らない。そもそもかつお節削り器が家にない。

だから、(削らない1本のままの)かつお節を売る、というのはもうビジネスとして厳しくなった。削ったかつお節であっても、出汁を取る人がどんどん少なくなってきているわけで、削って売ったらいいという問題でもない。

そこに対して、中原さんは「出汁の美味しさを改めてわかってもらう」というこれまた地味な活動をしている。お店に来て下さったお客さんにはもちろん取りたての出汁を味わってもらうし、出張では「出汁ライブ」という出汁をとるパフォーマンスをしている。「出汁男」という、ちょっと滑稽な自称を使って。

先日「かつ市」に行ったら、わざわざ私一人のために出汁を取ってくれた。想像とは違って、決して面倒な作業ではない。意外なほど時間もかからない。それで、料理の格がグンと上がる出汁が取れる。これを体験した人は、少なくとも「出汁を取る」という一手間をかける抵抗感がなくなる。

中原さんが「出汁男」になってやるのは、こういう具合に一人ひとりの考え方を変えていこう、という地味な活動なのである。

——「愚公移山」という言葉がある。

昔の中国で、愚公という老人が、生活の邪魔になっていた山をなくしてしまおうと、家族と共に少しずつ山を切り崩しモッコで土を運びだすという気の遠くなる仕事に乗りだした。人は、そんな無理なことを年老いてからするなんてバカなことだと嘲笑したが、愚公は「子々孫々の代までかかっても、少しずつ山を切り崩していけば山は増えることはないのだからいつか山はなくなる」と一切意に介さない。この様子を見ていた山の神はこの旨を天帝に報告し、天帝は愚行に感心して、邪魔になっていた山を別の場所に移してやったということである。

こうした故事から、「愚公移山」といえば壮大な計画でもコツコツと一歩ずつやっていけばいつかは事を為す、という意味の四字熟語となった。

中原さんの仕事を見ていると、この「愚公移山」という言葉を思い出さずにはいられない。枕崎の置かれた状況は決して楽観的なものではないが、こういう人がいる限り、なんとか進んでいくに違いないと思わされる。

鳴り物入りで騒がれる「まちおこし」の活動を見ていると、どうも「ここをこうすれば一発逆転」みたいな発想があるところが多い気がする。埋もれた地域資源を活用しよう、ということ自体はいいことだとしても、その価値はちょっとやそっと広告するだけでは認識されないし、原石を磨いて商品にしてパッケージに入れて流通に載せて、という一つひとつの作業を積み重ねて行く以外に売り込む方法はない。小さな工夫で大きな成果をあげたい、と思うのは人情だが、そういう気持ちだけでは成果は上げられない。結局、何かを変えるには、少しずつ山を切り崩していくような地味な仕事を誰かがしなくてはならない。

そういう仕事をやる人が一人でもいるかどうか、そういうことに、街の命運はかかっていると思う。

中原晋司さんは、まさにそんな人の一人である。

2017年3月13日月曜日

農業に「移民」はいらない

今、日本は人手不足らしい。

特に人気のない職業の場合は。

「そんなの、待遇改善すればいいだけだろ!」というのが経営者以外の方々から言われている。その通りだと思う。だが農村の場合は、そもそも人がいない。それで、安易に外国人を入れようという話に進みがちである。「外国人技能実習生」という名の、低賃金出稼ぎ労働者の活用だ。

そもそも、外国人技能実習生、という制度は悪名高く、日本農業の恥部とも言える。研修の名の下に最低賃金を下回る待遇にしたり(違法)、相手の生活全般を握っているのをいいことに様々な費用をピンハネしたりといった話も聞く。全部が全部そういう悪用のケースではなく、企業と実習生が互いにうまくニーズを満たしあっているケースも多いが(そもそも外国人も自主的に来ているわけだから)、悪用しうる制度になっていること自体が問題だ。

高収益を挙げている成功した農家、という話をよく読んでみると、実際には外国人技能実習生を搾取しているだけの経営だったりする。農業技術なんて関係ない。1000円分の仕事をさせておいて500円しか支払わなかったら、大儲けするのは当たり前である。それは農業で儲けているのではなくて、搾取によって儲けているだけなのだ。

そして、搾取によって儲ける、ということほど確実な金儲けの道はない。一度「搾取」を覚えたら、そこから真っ当な商売に戻っていくのは大変なことだ。こうなると、「どうやったら合法的に搾取できるか」だけを考える商売になっていく。

こんな恥ずかしい仕組みを国策として推進しているだけでも大問題だが、最近はこれでも足りずについに「移民」の検討が始まっているらしい。この新しい「移民」が、「どうやったら合法的に搾取できるか」を目的としたものでないことを祈るが、そうでないにしても、都合よく使える人間を連れてこようという発想には違いない。

しかし、移民というのは出稼ぎ労働者とは全然違う。何しろ、用が済んだから帰って下さいというわけにはいかない。歳を取れば年金を与えなくてはならないし、病気になったら健康保険を適用しなくてはならない。生活に困窮したら生活保護を与えるべきだ。でも働き盛りの時には都合よく働かせておいて、移民がいざ保護を必要とする状況に陥ったら「自業自得だ。移民のために税金を使うなんて馬鹿げている」などと言いはしないだろうか?

イスラーム世界最大の学者とも言われるイブン=ハルドゥーンが、歴史を動かす力を考究し尽くした大作『歴史序説』で14世紀に強調している。社会を成立させる基礎は「連帯意識」にあると。社会は容易には壊れないが、みなが同じ社会を構成する「同胞だ」という意識がなくなれば、その社会はあっけなく崩れてしまう。世界の歴史を見ても、国家というものは敵国との戦争で滅びるよりも、社会の分裂によって瓦解することの方が多い。

移民とは、他の国の人間を「同胞」として迎え入れることでなくてはならない。でなければ、社会に分断をもたらす。我々は外国からの労働者を、「同胞」として迎え入れられるほど、「世界市民」へと成長しているだろうか?

「五族協和」「八紘一宇」を掲げた戦前の人々は、そのスローガンを実践はしなかったが、少なくともそういった大義名分がなければ他国の併合はできないと思っていた。ただ力によって人々を支配するのではなく、もともと我々は一つなんだという建前を必要とした。しかし今の、移民についての検討はどうだろうか。誰を同胞として迎え入れるか、という観点はほとんどないように見える。ただ、都合のよい人を連れてこようという話にしか見えない。建前だけの大義名分すら、そこにはない。

私は鹿児島生まれではあるが、ここ南薩には一応Iターンで移住してきた。自分自身は地域によく受け入れてもらっていると感じているが、決して順調な移住だけではないこともいくつか見て来ている。最近は、行政が移住を強く推進していて、ちょっとしたブームになってきているようだ。だがその移住は、「同胞」を迎え入れようというものになっているだろうか。ややもすれば、地域にとって都合のよい人材のみを求めるものになっていないか。

もちろん、わざわざ外から人を受け入れようということになれば、都合の悪い人が来てもらっては困る、というのは自然な感情である。できれば有為の人材に来てもらいたい、というのは当たり前だ。そのために魅力的な仕事を用意したり、環境を整えたりすることはいいことだ。だがそれをするのなら、今、現にそこへ住んで仕事をしている人の待遇改善をするほうがよいのではないか。

「そんなこと言っても、農村には人がいない。集まらない」という声が聞こえてきそうである。農業だけでなく農水産物の加工なんかも、外国人技能実習生でなんとか人をやりくりしているところは多い。

しかし自分自身が農業に取り組んでみてわかった。少なくとも、農業は決して3K(きつい、汚い、危険)の仕事ではない。きつくもないし汚くもないし、それほど危険でもない。泥で汚れてもそれは別に汚くはない。むしろ土というものは清浄なものだ、ということが最近分かってきた。昔なら人糞の撒布なんかもあって事実汚かったのかもしれないが、今はそういうこともほとんどない。そして、「きつい」は全然当てはまらない。人間にとっていちばんきついのは、何をおいても人間関係である。上司や客から罵倒されて働く職場がいちばんきつい。少なくとも農業(独立自営農)にはそういう精神的きつさは全くない。体力的にきついのは時々あるが、最近は機械化が進んでいるからどんどん楽になってきている。

ただ、別のK、すなわち「稼げない」はあるかもしれないと思っている。でもそれにしたって、稼げない仕事ばかりになってきている昨今、農業だけが特に稼げないというわけでもなさそうだ。こう考えてみると、農村に人がいない、農業に人が集まらないというのは、それほど必然ではないと思う。外国人労働者に頼らなくても、農業の魅力だけで人集めはできると私は思う。

外国人技能実習生がいなかったら、農業が成り立たない! なんていう人がいるかもしれない。米国の農業も、メキシコからの移民に大きく依存していた。EU先進国の農業も、東欧などからのEU内移民によって成り立っていた部分は大きいらしい。農業は、やはり低賃金労働者を必要とする産業であることは確かである。しかしこの南さつま市大浦町では、今のところ外国人技能実習生は一人もいないようである。日本の端っこで、僻地というハンデを抱えながらも、地元勢でそれなりに農業をやってきている。外国人技能実習生がいなくても、現に成り立っているではないか。

農村に人がいない、それは大問題には違いない。

しかし、ルネサンスの旗手となった全盛期のフィレンツェの人口が、たった4万5千人くらいである。南さつま市の人口が、約4万人弱で同じくらいだ。フィレンツェは世界の富を牛耳っていたし、こんなに高齢化していなかったし、ヨーロッパ中から俊英が集まっていたから人口が同じくらいだからといってもそれを比べるのはおかしいかもしれない。

だが、我々一人ひとりができることの可能性は、ルネサンス時代と比べて千倍にも広がっている。志を同じくする人が10人でも集まれば、世界を変えることだって不可能ではない時代に我々は生きている。人が少ないからお先真っ暗、というのはあまりに短絡的なのではなかろうか。

私自身は、外国人がたくさん日本に来て、日本の遅れた文化を変えてくれたら面白いと思っている。何にでも印鑑がいるとか、FAXで請求書を送らなきゃならないとか、上司には「了解しました」ではおかしいとか、そういうどうでもいい、「伝統」でもなんでもないことはどんどん破壊すべきだ。しかし移住にまつまわる話を聞いていて感じるのは、同じ日本人の移住者すら、「同胞」と見なしてくれない地域はまだまだ多いということだ。

だから都合のよい外国人労働者を連れてくることよりも、今社会に生きる人の可能性を、もっともっと押し広げることこそが必要だと思う。待遇を改善し、人間らしい暮らしを送れるようにすること。人生を楽しめること。ステキな思いつきを現実に変えられる余裕を持つこと。誰を搾取するでもなく、人生を謳歌できるようにすること。

そんな生き方ができるようになれば、「人手不足」は自然と解消されるだろう。

【2017.3.15アップデート】
適正に「外国人技能実習」の制度を使っている方が不快に思われる書き方をしていた部分があったので、若干改めました。

2017年2月11日土曜日

「クラウドファンディング」の想い出


またまたクラウドファンディングの話。

発端は何だったかというと、私が主催する「海の見える美術館で珈琲を飲む会」の問い合わせメールだった。「今年はいつ開催するんですか?」という面識のない方からの問い合わせ。

その問い合わせには普通に返答したのだが、その方はクラシックのギタリストだという。前回の「海の見える美術館で珈琲を飲む会」はギターの即興演奏をメインイベントに据えたので、ギタリストからの問い合わせがあるなんて面白いなあ、なんて思っていたところ、暫くしてからまたその方からのメールが。

初めてのブラジル音楽のCDをリリースするにあたり、資金をクラウドファンディングで集めているので、よかったら協力して欲しいという。
このような形でCDを製作することを、皆さんどう思われるかな・・・ととても勇気が要りましたが、何かを実現するために恥も外聞もないと思いました。
と書いてある。直接会ったこともない人に、自分のためにお金を出してくださいなんてなかなか言えないことだ。いや、友人にだって言いづらい。そういうメールが来たのも何かの縁である。さっそくYoutubeにアップされたサンプル音源を聴いてみた(冒頭のYoutube動画)。

……これは、すばらしい! 私の好きな、ノリノリではなく哀愁の深い、陰影のあるブラジル音楽ではないか! ブラジル音楽には別に詳しくないので、ブラジル音楽としてどういうレベルにあるのか、なんて私には皆目判断ができないが、他の曲も聴きたくなる、そんな演奏である。

このギタリスト、竹之内美穂さんという。

【参考】竹之内美穂ホームページ
【参考】ギタリスト竹之内美穂日記。

竹之内さんは鹿児島市出身で、今も鹿児島を拠点に活動しているクラシックギタリスト。私もWEBサイトを見て知ったので、下手な紹介はしない。詳しくは上のWEBサイトをご覧ありたい。

それで、早速小額ではあるが3500円分支援をした(この支援を「パトロン」という)。

この前のテンダーさんのクラウドファンディングに続いての支援に、「この人いつもは貧乏自慢してるくせに、本当は金持ってんじゃないの?」と思うかもしれないが、誤解しないでほしい。私の年収は100万円ちょっとしかない! 本当にドビンボーである。国民年金すら支払い猶予してもらってる有様である。

そんな私がどうして(たぶん自分よりは余裕のある人に対して!)パトロンになっているかというと、これは10年前の経験が元になっている。

私は、もう随分長くHEATWAVEというバンドのファンなのだが、2005年くらいにこのバンドはレコード会社を離れて自分たちで新しいアルバムを作ろうとしていた。それで製作資金を捻出するためファンにカンパを呼びかけたのである。1口3000円。要するに事前にアルバムを買って下さいみたいなお願いだったように記憶する。「クラウドファンディング」という言葉もまだなかったころである。支払い方法もちょっとめんどくさかったような気がする(でも郵便振替とかではなかったような…)。これは、今だったら「クラウドファンディング」だろう。

私は、このバンドのCDはだいたい買っていたから、たぶん新しいCDも出来たら買うはずだった。だからカンパに協力するのはやぶさかではなかったのである。が、「まあコアなファンも多いバンドだし、別に私がしなくてもCDは出来るだろ」と思っていた。

2006年になってめでたくCDはリリースされた。やっぱりすぐに買った。「land of music」というアルバムだ。そして、ライナーノーツの後ろのページには、このCDへのカンパに協力してくれた大勢のファンの名前が全て、めちゃくちゃ小さい文字で印字されていた。当然、そこに私の名前はなかった。CDはリリースできたのだから、「別に私がしなくてもCDは出来るだろ」という私の見込みは正しかったし、そこに自分の名前がなくて残念という気もそれほどしなかった。

だが私は理解したのである。そこに並んだ、めちゃくちゃ小さな字で名前が書かれた人たちと、自分の間の懸隔に。商品が出来てからお金を出すのと、まだ何も出来ていない頃にお金を出すのは、同じお金でも違う意味があると。

大げさに言えば、新しいアルバムのためのカンパに協力した人たちは「創造的行為」をしていた。少なくとも、クリエイションに参与していた。CDを買っただけの私は、それをただ消費しているだけだった。まだ見ぬものに金を払うのは、もしかしたら無駄になるかもしれないが、ただ消費者であるだけの存在から抜け出す行為でもあったのである。

その時である。これから、誰かが何かをしようとしているとき、カンパしていたら積極的に協力してあげようと思ったのは。譬え自分が貧乏であったとしてもだ。

しばらくそういう機会は訪れなかったが、最近はクラウドファンディングがだいぶ普及してきたから、やろうと思えばいくらでもパトロンになれる。もちろん貧乏だから、そういうのにドンドン金を出していこうなんてとても出来ないが、縁があるものには、僅かずつでも協力していきたい。

先日紹介したテンダーさんのクラウドファンディングもまだまだパトロン募集中である。募集期間が終了間際まできているが、まだ半分もお金が集まっていないようで心配だ。ぜひ成功させて欲しい。
↓支援はこちらから。
鹿児島の廃校に、家も作れる日本最大のファブラボ「ダイナミックラボ」を作る!(Campfire)

というわけで、クラシックギタリストの竹之内さんの新しい一歩も、成功することを祈っています。
↓支援はこちらから。
実力派クラシックギタリストが変貌!耳欲をそそるブラジル音楽CDをリリースします。

2017年2月2日木曜日

【急告】大坂小跡を日本最大のファブラボにする大プロジェクトがカンパ中!

南さつま市金峰町の大坂(だいざか)で、電気水道ガスを契約しない(ある意味)最先端の暮らし、を送っている友人テンダーさんが、どえらいプロジェクトを立ち上げた。

廃校になった大坂小学校の校舎をまるまる借り切って、これを「ファブラボ」にしてしまおうという壮大な構想である。

「ファブラボ」というのは、ものすごく簡単に言うと「みんなが使える工作室」のことだ。大坂小学校を巨大な工作室に見立てて、ここをみんなでいろいろ作れる場所にしてしまおうというワケである。売り文句は「家も作れる日本最大のファブラボ」! 

ここだけの話、実は私も大浦町にファブラボを作ったら面白いんじゃないかと以前思ったことがある。というのは、ちょっとした工作をしてみるとすぐに分かるが、何か作ろうと思ったらまず重要なのは道具である。そして、その道具を揃えるのにはけっこうお金がかかる。毎度使う道具だったら買いそろえるのもやぶさかではないが、1年に1度くらいしか使わない径のスパナなんかを揃えておくのは(お金と)勇気がいる。でもそういうのを、何人かで共同購入すれば負担も少ないし、無駄も省ける。農業をやっているとちょっとした工作機械が必要になることが多いから、農家の多い大浦では「農家用の」ファブラボがあったら面白いんじゃないかと思ったのだ。

その考えは、結局実現しようという具体的な動きまでには至らなかったが、その考えを何倍も大きく深くした構想を、このたびテンダーさんがぶち上げてくれた。

具体的にどんな施設にしたいのか、というのはテンダーさん自身の書いている説明を読んで頂くとして、これは単なるDIYセンターじゃないというのは強調しておきたい。DIYというより、物事をイチから作り出すことを通じて、社会の仕組みまで見直してみよう、いっそのこと、新しい社会の仕組みまでここからつくってみよう! みたいなところまで到達するのが目標(なんじゃないかと私は思っている)だ。

私は、そこまで大それたことまでには考えが及ばないごく普通の人間だが、そんな私でも期待していることは、こういう施設があることで、自分の手で新たな価値を作り出す人たちが南さつまに集まってくるんじゃないか、ということ!

今の南さつま市民が「自分の手で新たな価値を作り出す人」じゃないかというとそんなことはない。農業をしていたら「日々之DIY」みたいなもので、コンクリも打てば溶接もする、水道工事もしちゃうという人は稀ではない。 でもそれに、もっと違う観点や技術や生き方を身につけている人が加わったら、もっと面白いものが生みだされるんではなかろうか。いや、絶対そうなるはずだ。そう考えただけでワクワクものである。

この舞台となる大坂、というところを知らない人のために付け加えておくと、霊峰・金峰山の裾野にあたる地区で、南さつま市の中では端っこの辺鄙な山の中だが、鹿児島市には一番近い地区である。ここに日本最大級のファブラボが実現したら、南さつま市のみならず鹿児島市の人たちにもかなり利用してもらえることは間違いない。

で、この壮大な構想に必要な資金であるが、現在テンダーさんが「クラウドファンディング」を展開しているところである。「クラウドファンディング」とは要するにインターネットを通じたカンパのこと。このカンパの〆切が2月27日目標金額は250万円! このどえらいプロジェクトにかかる金額としては破格に安いが、これでも南さつま市始まって以来の巨大クラウドファンディング案件であろう。

というわけで、私も早速このカンパに協力した(「パトロンになる」というらしい。)ところである。テンダーさんは私よりもずっと人脈も知名度もあるので、ここで私がお知らせしてもあまり意味はなさそうだが、今のペースではカンパが集まっても目標達成が難しそうという感じがするので、これをお読みのみなさん、ぜひ彼にご協力をよろしくお願いいたします! ちなみに私は2万円しました!

↓クラウドファンディングへのご協力はこちらから(3000円〜です)
鹿児島の廃校に、家も作れる日本最大のファブラボ「ダイナミックラボ」を作る!(Campfire)
※カンパのお礼としていろんなメニューが準備されているのでそれにも注目。