2012年5月31日木曜日

ハスクバーナのチェンソーが実は安い

ヤフオクでハスクバーナのチェンソーを購入した。

といっても、チェンソーになじみがない人にとってはよく分からないだろう。ハスクバーナは、スウェーデンに本社を持つ世界的チェンソーメーカーで、いわば、チェンソーの世界での「憧れのメーカー」である。

要は、素人の私が持つのはおこがましいような一流メーカー品なのだが、予算とスペックを考慮して比較検討した結果、この「Husqvarna 445」に行き着いた。

本当は、整備のしやすさなどを考えて新ダイワゼノアあたりのプロ機を買いたかったのだが、中古でも結構な値段がして必要な排気量の機種だと予算オーバーだった。

一方これは、ハスクバーナ社のセミプロ機の位置づけなのだが、日本メーカーのプロ機並みの排気量と馬力がある。体格のよい欧米人向けだからなのだろうか…? また、メーカーによるリファビッシュ品で、中古ではあるがほぼ新品状態なので、中古品に心配されるような機械の疲労はない(と思う)。

3万2000円ということで凄く安いわけでもないが、命に関わる機械なのでジャンク品を買うより確かなものを買った方がいいし、元値の約8万円を考えるとお得であることは間違いない。それに、
  • 欧米のセミプロ機はパワーの割に安い。
  • 直輸入品なので、円高効果で安くなっている(はず…というかこれが大きい)。
  • 直輸入品なので、日本でのサポートが受けられず、取扱説明書も英語しかない。
  • ゼノアなどでは標準装備のイージースタート(エンジンをかけるのが楽)でない。
ということで、おそらく日本メーカーの同等品よりも割安であると思う。

これまでも家には父が買ったチェンソーがあったが、パワー不足で伐木の最中にエンストすることもあり、本格的な山の整備にはパワーのあるチェンソーが必須だった。専業で使うわけではないので安価なものを探していたが、比較検討の結果、ハスクバーナに行き着いたのは自分でも意外だ。他にも、円高のうちに高い外国製品を買っておいた方がいいかもしれない。BOSCHの工具とか。


【参考】Hasqvarna 445
排気量:45.7cc
出力 :2.1kw(2.8馬力)
ガイドバーサイズ:45cm(18インチ)/72コマ
チェーン:21BP・21VP
チェンピッチ:0.325”
重量 :5.1kg

2012年5月30日水曜日

洋画家・佳月 優さんに会う。

ギャラリー併設のサロンスペース
母校(東工大)の同窓会活動で知り合ったAさんから、日置市吹上町で自身のアトリエと「Gallery 野月舎(やがっしゃ)」を営んでいる洋画家の佳月 優さんをご紹介いただいた。

Gallery 野月舎(とアトリエ)は昭和60年に廃校になった野首小学校の校舎が利用されており、まるで時間が止まったような古い木造校舎が郷愁を誘う。ちなみにこの校舎、保存状態が元々よかったのではない。ギャラリーになる前は電子部品の会社がここを工場として利用していたためいろいろな手が入っていた上、廃屋同然になっていたという。それを、佳月さんが様々な人の協力を借りながら元来の姿に近づけ、魅力を引き出したのである。画家が廃校をギャラリーとして甦らせるというこの稀有な取組は、鹿児島県で唯一、文部科学省による「廃校リニューアル50選」に選ばれている。ともかく、ここは一見しただけで心臓を射貫かれるような素敵な場所だ。

佳月さんは、私とは初対面であるにもかかわらず、率直に、温和に、さまざまなことを語ってくれた。地域のこと、この校舎のこと、人との出会いのこと…。まるで、人の世の有様を静かに描いてくれるかのように。その話は非常に勉強になったのだけど、その話の内容をここに書くのは辞めておこうと思う。また、佳月さんについての下手な紹介もしないでおきたい。ちょっとWEBを検索すれば、こんな田舎で一人静かに絵を描いているのが不思議なほどの画才の人だということが分かるだろう。

そして、直接詳しくは伺わなかったのだけれど、2006年に日展会員・審査員等の要職を辞し、無位無冠で活動されていると聞き、不遜ながら、官僚を辞めて南薩に移住してきた自分と重ね合わせた次第である。もちろん、キャリア官僚を辞める人間は多いが、日展の会員を辞める人間などほとんどいない。重ね合わせるのはおこがましいだろう。

しかし、当たり前のことを当たり前にやるという単純なことが、組織の枠の中で生きていると難しくなることがある。私の知る若手官僚の多くは、日本を変えたいという夢を持ち、能力もやる気もある素晴らしい人達だ。だが、組織の中で生きるうち、組織の限界を知り、人間関係に絡め取られ、個人の頑張りでは解決不能な問題に直面する。そして、自分の力ではどうしようもないのさ、とすら思わなくなり、組織の歯車になってゆくのが悲しい現実である。

さすがに、画家の世界にはこんなことはないだろうが、組織に依って生きるということに関しては、画家も官僚も似たような悩みを抱えているのかもしれない、と勝手に想像した次第である。もしかしたら、全然違うかもしれないが…。

それはさておき、吹上町の野首という辺鄙なところに、世にも素敵なギャラリーがあるということは、地域の人間としてもっと誇ってもよいと思う。「それより、コンビニやスーパーが欲しいなあ」というのは田舎に住んでいる人間としては切実な願いではあるが、世界的に見れば、こんなギャラリーが身近にある方が、よほど贅沢なのである

2012年5月27日日曜日

天国的に美味い青菜炒めの正体

ボランティアスタッフとして参加している「畑の学校〜ゆうき教室〜」の第2回目が開催された。

今回の作業は、
○ 個人用の畑にエンサイツルムラサキを植える。
○ 共同の畑に長寿草(一般には長命草と言われているもの)、里芋サツマイモ黄金千貫)、エンサイを植える。
というもの。

さて、今回植えたエンサイとツルムラサキというのは私はよく知らない野菜で、どんな収穫物があるのかわからないため、なんだか設計図のないプラモデルを作っているような変な気分になった。

そこで帰宅してからこれらの野菜について調べてみると、ツルムラサキについては、やはり見たことも食べたこともない野菜であるらしく、少しがっかり。しかし、エンサイについて調べてみると、思ってもみなかったことが判明した。

私はカタコトの中国人が経営する寂れた中華料理屋がなぜか大好きなのだが、昔から、そういう店で出てくる天国的に美味い青菜炒めの素材がなんなのか、いつも疑問に思っていた。ニンニク風味で塩味のシンプルな青菜炒めなのだが、これがめちゃくちゃに美味いのである。家でも作ってみたいが、その「青菜」というのが何なのか分からない。小松菜ではないし、ほうれん草でもないし、この茎の感じが他の野菜と違う…と。

それがこのエンサイだったのである。エンサイ(蓊菜)は、ヨウサイ(蕹菜)、空心菜、トンツァイなどとも呼ばれ、名称すら一定していない新参者の野菜なので、何度も店で食べながら、その素材を正確に認識していなかったのだろう。また、そもそも私が好きな寂れた中華料理屋では、素材などメニューに書いているはずもなく、それはただ「清炒青菜」みたいに(中国語で)表示されているだけなので、長い間わからなかったのである。

それにしても、都会から田舎に移住してきて不便なことは山ほどあるが、気軽に「カタコトの中国人が経営する寂れた中華料理屋」に行けなくなってしまったのは相当に残念だ。東京には、そういう店がどこの駅前にもあったので、特にありがたいとも思わなかったが、いざこうして行けなくなるととても淋しい。

その代わり、今度は自分でエンサイを栽培して、天国的にとはいかなくても美味しい青菜炒めを作ってみたいと思う。もちろん、鹿児島にも探せばそういう寂れた中華料理屋はあるのかもしれないけれど、そういう店はわざわざ行ったら面白くないのだ。そういう店には、連れ合いと「何を食べようか」という話がまとまらなくて、辺りに良さそうな店もなくて、最後の手段として、妥協の産物として、しょうがなく入る感じがサイコーにいいのである。

※ 冒頭の画像は検索したら出てきた「台湾料理 味仙」さんのサイトからの転載だが、まさに私が好きな青菜炒めのイメージぴったりなので使わせてもらった。著作権的に問題があったらゴメンナサイ。

2012年5月23日水曜日

秋目のアコウ——集落の永遠のモニュメント

鑑真上陸の地、南さつま市坊津町秋目に、「絞め殺しの木」として知られるアコウの巨樹がある。

目通り幹囲9.3m、樹高11m。容貌魁偉で堂々としたアコウである。樹齢は500年とも1000年とも言われる。その横には墓石など江戸時代の石造物も多数佇立しており、夜にこれを見たら、相当に怖ろしい姿であると思われる。

このアコウは、大きさが飛び抜けているわけではないが、際だった特徴が2つある。

1つ目は、(写真には写っていないが)藤と共生していることである。季節になると美しい藤と面妖なアコウの競演を楽しむことができるという。残念ながら今年は藤の季節は終わっていたので、来年リベンジしたい。このように藤と共生するアコウは、非常に珍しい

2つ目は、写真左下にあるように支柱根が門状に形成されており、その下に道が通っているということである。この道は、アコウの門をくぐって階段を上り、今では廃校となった秋目小学校跡地へと続く。在りし日は、小学生たちが毎日このアコウをくぐって登下校をしていたわけだ。子供たちは、この奇妙なアコウの門をどんな気持ちで通ったのだろう。怖かっただろうか、それともよき遊び友達として、木登りやかくれんぼを楽しんだのだろうか。

ちなみに、秋目小学校は昭和46年に大浦小学校に委託統合され消滅した。秋目集落は、その地形の急峻さ、交通の不便さから人口の減少が続き、空き屋が目立つとても寂しいところになりつつある。そんな人の営みをよそに、このアコウは魁偉な姿で旺盛に葉を茂らせ、未だ樹勢が衰える気配はない。この巨樹は、寂しくなりゆくこの集落の、永遠のモニュメントであるような気がした。

2012年5月21日月曜日

人配、海外移民、大都市への移住:南薩の人口流出

ここ南さつま市大浦町は、いわゆる「限界集落」を擁する寒村である。合併で南さつま市になる前の平成17年の国勢調査では、65歳以上の人口割合=高齢化率は、2400以上(当時)ある市区町村の中で、なんと35位の46.4%。

そんなところに家族3人で移住してきたので、歓迎されるかと内心期待していたら、実際はそうでもなかった。もちろん、喜んでくれる人もたくさんいたけれど、それよりも「なんでこんな所に来たんだ?」「都会にいた方がいいのに…」「馬鹿なことをしたな」というネガティブな反応が非常に多かった。

その理由は、「農業は大変で儲からない」とか「仕事がない」とかいうことなのだが、事実この地域から都会に出て働く人間は非常に多い。お年寄りにお子さんはどうしてますかと聞くと、「大阪にいる」「全員東京だ」といった大都市圏へ出ているケースがほとんどだ。

残念なことだが、田舎の生産性は多くの人を養うほど高くなく、農業はゼロサムゲーム(限られた資源の奪い合い)の側面があるために、余剰人口は他地域に出て行くほかないのである。

これは藩政時代でも同じだった。南薩は山がちで平野が少なく、台風被害も大きいことで土地の生産性が低い。また地形的にどん詰まりにあり逃散(逃亡)もできなかったため、食い扶持にありつけない困窮者で溢れていた。そのため時の政権(島津家)は、新田の開発や困窮者救済の名目で、余剰人口の強制移住政策を実施する。

この強制移住を「人配(にんぱい)」「人配り」「人移し」などという。17世紀中頃から始まり、明治直前まで続いた。移住先は、逃散の多発で荒蕪地化した北薩、薩摩半島に比べ人が少なかった大隅、新田開発の必要性があった宮崎県南部だった。 どのくらいの人が強制移住させられたのか定かではないが、これらの地域には南薩由来の地名や集落が残っているところを見ると、数千人規模の人口移動があったのではないかと思われる。

そして明治維新を迎えても、余剰人口問題は解決しなかった。そもそも地域産業の根幹が農業である以上、土地を相続できない農家の次男三男は他地域に出て行くほかない。こうして国内の産業が未熟な中、働き口がたくさんあった海外への移住が始まるのである。

まず、明治から昭和初期にかけてはハワイを経由した米国への出稼ぎ。そして、昭和初期から戦前まではブラジル、そして戦後はカリフォルニアを中心とした米国へと移民の目的地は変わっていく。ブラジルやカリフォルニアへは出稼ぎというよりは永住目的が中心で、これらの地域では鹿児島県人の存在感は際立っていた。鹿児島から7000人以上が移民したブラジルでは最初の県人会を設立しているし、戦後米国への移民の3分の1が鹿児島県出身だったのである。帰る場所のない鹿児島の農家の次男三男は、新天地での農業に賭けたのだった。

そして、その移民の多くが南薩出身だった。鹿児島ブラジル移民の約40%が川辺郡(枕崎、坊津、加世田、知覧)と揖宿郡(頴娃)からだったし、 鹿児島カリフォルニア移民の出身は頴娃と知覧に集中している。こうした移民は政府や県によって奨励され、半ば騙されるような形で移民させられた人も多いと聞く。人配は戦後まで続いたのである。

高度経済成長期には国内産業が成熟し海外移住はほとんどなくなり、国内の大都市圏への移住や出稼ぎがメインになる。人配はなくなったが、南薩から人が流出していく構造は藩政時代から変わらない。もちろん現代において都会へ出て行く若者は、かつての人配のような悲壮感もなく、移民のような辛苦を味わうこともないだろう。閉鎖的な田舎を厭って出て行く人も多いと思われる。しかし、生まれ育った土地を離れざるを得ない地域というのは寂しいものである。

それを考えると、よそ者がこうして移住してくることにあまり好意的でないのは当然だ。とはいえ、人口が流出してばかりでは地域の活力が失われるし、よそ者の目を通して見ることによる地域の価値や魅力の再発見もあるのではないかと思う。改めて田舎の価値が見直されている現代、都市から田舎への流れが各地で出来つつある。微力ながら、そういう流れの一筋になるべく、地域の方に認められるように、そして地域発展にも役立てるように頑張りたい。


【参考文献】
移民研究と史料 ─ 鹿児島県の場合 ─』2010年、原口邦紘
鹿児島県南薩地域からの海外出稼ぎ者と海外移民: 米国カリフォルニアへの渡航者を中心に』1985年、川崎澄雄
平成17年国勢調査 都道府県・市区町村別統計表』2005年、総務省

2012年5月19日土曜日

鹿児島ではありふれているが、全国的には希少な果物:ビワ

庭にあるビワがたわわに実っている。しかし、剪定をあまりしてこなかったために高木化しており、上の方の果実は収穫不可能。

下の方にある実だけ採ったが、果実の8割は収穫できない高所にあるので恨めしい。8月になったら剪定し、来年はより多くの実が収穫できるようにしたい。

鹿児島ではビワは非常によく見る庭木で、初夏の果物としてありふれているが、全国的には希少価値がある。というのも、ビワはとても傷みやすいので市場流通がしにくく、大都市近郊の限られた産地でしか大規模生産が行われておらず生産量が少ない。埼玉生まれの家内も食べたことがなかったそうだ。ビワを食べてみた第一印象は、「ナシの味に似てる…」とのこと。

 これは鋭い感想で、ビワはバラ科ナシ亜科に属し、ナシとは近縁なのだそうだ。

ところで、ビワは我が国でかなり古くから栽培されてきた植物で、少なくとも奈良時代からの1000年以上の栽培の歴史がある。もっとも、江戸時代以前のビワは小さくあまり甘くなかったようで、実を食べていたと言うより、薬用樹として葉や根を採っていたようだ。今でも、ビワは葉で皮膚病(ニキビとかイボとか)を治したり、ビワ茶として飲んだり、民間療法でよく使われている。

ちなみに、これに関し
仏典『大般涅槃経』の中でビワは大薬王樹と呼ばれ、優れた薬効があると伝えられる。
例えば、「大薬王樹、枝、葉、根、茎ともに大薬あり、病者は香をかぎ、手に触れ、舌で舐めて、ことごとく諸苦を治す」と記されている。
という情報がネットにはまことしやかに書かれているが、これは本当だろうか。

気になって『大般涅槃経』を調べてみたが、そういう記載はない。確かに薬になる樹として「薬王」というのが出てくるが、これがビワであるとは一言も書いておらず、また「枝、葉、根、茎ともに大薬あり…」云々という記載もない。どうも、誰かがうろ覚えで書いたことが広まってしまったように見受けられる。

なお、鑑真が中国から枇杷療法を伝えたという伝説もあるらしい。しかし、こちらの伝説も信憑性は怪しい。もしかしたら、枇杷療法に権威付けをしたい人がお経や鑑真を利用し、故事来歴を捏造したということなのかもしれない。1000年以上続く民間療法なのだから、今さらそんな権威付けなど必要ないような気がするのだが。

【補足】
『大般涅槃経』の英訳はあるが、日本語訳は部分的にしかチェックしていないので、もしかしたら私が見ていない部分にビワ=大薬王樹の記載があるのかもしれない。が、英訳で省かれるようなものではないし、同経の話の筋からして、多分ないと思う。「薬王」の記載も、「仏の教えは薬王と同じくらいありがたいものだ」という譬えの中で出てくる。

【補足2】2012/6/20アップデート
大乗仏典の現代語訳をされている加藤康成先生にtwitterでご教示願ったところ、やはり『大般涅槃経』にはビワの記載はないということだった。これはネットにはびこる誤情報の一つということが分かってすっきりした。加藤先生にはこの場を借りて改めて御礼申し上げたい。

2012年5月18日金曜日

重曹でうどん粉病の防除ができるらしい

かぼちゃがうどん粉病に冒されている。

うどん粉病というのは、文字通りうどん粉を葉にまぶしたような症状が特徴的な、よくある野菜の病気である。

このかぼちゃは出荷用ではなく、勉強の一貫として作っているのであまり農薬は使いたくないなあと思っていたところ、先輩農家のKさんから「硫黄粉剤っていう、"農薬にして農薬にあらず”の薬剤があるよ」と教えてもらい、初期症状のうちは何度かコイツを振りかけてみた。

硫黄粉剤とはまさに硫黄の粉末で、使用回数にも使用時期にも規制がないという、極めて安全な農薬なのだが、安全なだけに効果は緩やかで、病気の進行を若干遅らせることはできるが、止めることはできない(そもそも、予防薬なので当然だが…)。

そんなこんなでどんどん病気が進行する中、普通に農薬を使っては面白くないので、どうしようかと案じていたら、家内から「重曹もうどん粉病の防除に使えるらしい」との情報が。こういう意外な情報を見つけてくるのが家内の面白いところである。

調べてみると、安全性が確認され規制の必要のない農薬を「特定農薬(特定防除資材)」といい、生物以外では食酢と重曹がこれに指定されている。効果のほどは確かではないが、勉強のために育てているかぼちゃなので、試行錯誤をするのはその趣旨に適う。そこで早速重曹の100倍希釈液で病気に冒された葉を洗ってみた(適正な希釈倍数は不明)。

かなり病気が進行している葉もあるので、これで病気が完全に防除できるとは思えないが、どれくらい効果があるのか確かめてみたい(もしかしたら全然ないかもしれないが…)。

【結果】2012/6/21 アップデート
結局、効果があるのかないのかよくわからなかったというのが結論。うどん粉病は進行すると普通の薬剤でも効果があまりない場合も多いということだし、まあ、効いていたとしても僅かだと思う。なんとなく、菌の飛散は若干抑えられたのではないかという気がしたけれど…。