今年の「吹上浜 砂の祭典」は、運営側にもほんのちょっとだけ関わらせてもらった。観光協会の関係で、家内が出店(でみせ)の裏方や店番などをしたのである。
それで、「砂の祭典」についていろいろ思うことがあった。
一応、「砂の祭典」を知らない人のために説明すると、これはゴールデンウィークに砂でつくったたくさんの像(砂の彫刻)を展示するイベントで、それに付随して飲食ブースや雑貨ブース、そしてステージイベント(音楽や子ども向けショー)といったものが行われる。夜には音楽に合わせて打ち上げられる花火もあって、今までこの花火を見たことがなかったのだが、今年初めて見てみたら意外と迫力があってすごかった。オススメである。
肝心の砂像はというと、地元の小中学生のものから招待作家のものまでいろいろあり、海外からの招待作家の作品はとても精巧で見応えがある。ちなみにうちの娘(3歳)の一番のお気に入りは地元中学生(だったと思う)が作った人魚だった。
イベント期間は本体が5日間。その後チケットの値段が下がって、ほぼ観覧のみの期間が約1ヶ月ある。以前はもっと短かったようだが、せっかく作った砂像をすぐ壊してしまうのももったいないということでイベント期間が長くなったのだと思われる。
「砂の祭典」が始まったのはもう30年くらい前で、その当時は本当に吹上浜の汀(みぎわ)でやっていたと思う。子どもの頃に、一度行った記憶がある。その後会場が2回変わって、現在は「砂丘の杜 きんぽう」という松林に囲まれた場所でやっている。
さて、このイベントを間近で見てみて感じたことを述べてみたい。運営に携わっている人はカチーンと来るかもしれないし、いわば外野からの感想なので当を得ていない部分もあるかもしれない。素人の雑感として受け取っていただければ幸いである。
まず第1に感じるのは、「ちゃんと費用に見合った成果が出ているのか」ということである。
「砂の祭典」は一応実行委員会方式をとっていて、民間の参画もあるが、基本的には南さつま市役所が音頭を取ってやっているイベントである。予算の面は明らかになっていない(と思う)ので何とも言えないものの、少なくとも役場職員のかなりの数がこのイベントに動員されており、担当職員はゴールデンウィークなしで動かなくてはならず、その人件費だけでも相当だろう。要するに相当な労力がかかったイベントである。
ではこのイベントの成果は何なのかというと、多分役所的には入場者数で図っていて、近年(ここ10年くらい)はとにかくたくさんの人に来てもらおうということでイベントが拡大されてきたような気がする。
おそらく役所としては、砂の祭典を見に南さつまに来てもらって、南さつまを知ってもらう機会を増やそう、メディアに露出する機会を増やそう、という思惑なのだろう。実際、今年は熊本地震への支援を打ち出してNHKの全国版ニュースにも取り上げてもらっており、それなりに意味があるのは間違いない。
しかし税金が投入されている以上、たくさんお客さんが入ったらから良かったね、だけではなくて、ちゃんと費用対効果を検証しないといけない。それは単純な客数ではなくて、お客さんに南さつまの魅力を訴えられたかどうか、近隣への波及効果といったものも考察するべきだ。要するに大事なのは「お客さんを呼んでどうするのか」という目的意識であり、このイベントはディズニーランドとは違うのだから、客数(チケット売上)そのものが目的ではないということである。
その観点からイベントの費用対効果を(数字で計るのではないにしても)出して、今の拡大路線で行くのがよいのかどうか再考したらよいと思う。
第2に、地元の人々の心が離れてはいないか、ということがある。
これは多くの人から聞いたわけではないし、みんなはっきりとはそう言わないが、どうも「砂の祭典に関わるのが最近めんどくさくなってきた」というような人がかなり増えてきている気がする(といっても昔のことも知らないが)。
砂の祭典はその黎明期から市民の参画が進められてきており、砂像の製作はもちろん、実行委員会のメンバーなどいろんな面で市民が関わっている。私自身は直接に関わったことがないが、想像するに、その負担も結構あるのだと思う。
その負担を補う面白さがあればよいが、どうもそれが怪しくなってきているようだ。イベントとしての盛り上がりに欠けるとかそういうことではなく、運営面における長老主義(若い人の意見が通りづらいなど)やマンネリズムといったものが原因で、運営側に携わっても一つのコマとして扱われるといった雰囲気があるのではないかと思う。
イベントというのは生まれたての手作りの時が一番面白いもので、逆にイベントが大きくなっていくにつれて機械的に進める面が大きくなり、運営面でのやりがいが小さくなっていく。大きく成長してしまうと運営の責任も大きくなって無難なやり方を選択することが多くなり、個人のステキな「思いつき」は顧みられなくなってしまう。これはある面ではしょうがないことだ。しかし誰しも、自分のやりたいことがイベントを通じて実現できるとか、一人の人間として尊重・承認されるというようなことがないとわざわざ面倒毎を引き受けたりはしないものだから、やっぱり市民の遊び心を刺激するようなところがないと、ボランティアの人集めをしようとしても難しくなっていくと思う。
そして人々の心が離れてしまうもう一つの原因は、砂の祭典がかなり商業主義的になってしまっていることかもしれない。会場には、小中学生たちや役場職員、地元企業が一生懸命作った砂像も多く、砂像だけを見たらまだまだ地元の手作りイベントの雰囲気は残っている。商業主義的といっても、このイベントで大きな収益が生みだされているということもなさそうで、むしろ赤字が心配なくらいだ。だが集客に力を入れた結果、地元の文化や自然と関係のないものまで盛り込みすぎて、「祭典」の性格が揺らいでいる。ただ人が集まればよいということなら、集客力のある芸能人を呼ぶのが一番手っ取り早いが、仮にそういうことをすれば心ある人が真っ先に離れていくわけで、そういう路線になっていかないかとちょっと心配だ。
長期的に見れば、集客のためにサイドイベントをたくさん盛り込むよりも、価値の中心である「砂像」の文化をゆっくりと育んで、それを愚直に発信していくのがよいと思う。
そして第3に、「吹上浜 砂の祭典」と銘打ちながら、吹上浜とあんまり関係なくなっているということがある。
砂の祭典は、もともと日本三大砂丘の一つである吹上浜という地域資源を活かして何かやろう、ということで始まったイベントだったはずだが、客数増加などの都合で会場が「砂丘の杜 きんぽう」に移ったために、「吹上浜」を銘打ちながら会場からは海岸を見ることができない。初めて来た人は、「あれ、浜はどこにあるんだろう?」と思うに違いない。
会場から海を臨めなくても構わないと思うが、吹上浜との何らかの連結がなくては本当の観光資源を素通りさせてしまうことになりかねない。日本全国的に見ても素晴らしい白砂青松の砂浜「京田海岸」など、近隣には吹上浜の観光スポットがいくつかあるので、そういうところを地道に整備して(現在は駐車場などがない)、砂の祭典に来た人たちに回遊してもらうような工夫をしたらよい。
また、砂や砂丘というものについては現在は素材としてしか扱っていないが、観光の王道は風景と歴史と文化を体感するということにあるので、吹上浜と付き合ってきた南薩の人々の歴史を紐解くような工夫があるとさらによいと思う。
幸いにして、会場の近くには「沙防の碑」がある。このあたりの人は古くから浜から飛んでくる砂に苦労しており、これはその飛砂防備のために広大な松林を植林した宮内善左衛門を顕彰した石碑なのである。また、万之瀬川が運んでくるこの大量の砂は河川氾濫の原因ともなっており、今でこそ「砂」が地域資源となり砂の祭典のような楽しげなイベントをしているが、歴史的には「砂」は迷惑な存在だった。ただ砂像を見るだけでなく、ちょっと足を伸ばして「沙防の碑」まで見てそういった歴史を学べれば、より深いレベルでイベントを楽しむことができ、南さつま市への観光を楽しめると思う。
第4に、これが最も強く感じることであるが、顔の見えないイベントになってしまっている、ということだ。
例えば、お隣の川辺(南九州市)で毎年やっている「Good Neighbors Jamboree」というイベント。主宰の坂口修一郎さんを中心にして、面白いことをやる人の輪ができていて、その人の輪によってイベントが構成されている感がある。もっと卑近な例では、大浦でやってる「大浦 "ZIRA ZIRA" FES」という焼肉フェスでも、実行委員会の人たちが楽しんでやっているから、それに惹きつけられて多くの仲間がやってくる。
一方砂の祭典はどうか。運営側に入ったらまた違う感想を持つだろうとは思うものの、参加者の立場で見てみると、誰が楽しんでやっているのかイマイチよく分からない。WEBサイトでは実行委員会の挨拶文が出ているが、実行委員長の名前も分からないし、どういう人の輪があるのか見えてこない。当然、人の輪がないということはあり得ないので、何かしらの人の輪があるはずだが、その顔が外から見えないのである。
お祭りごとというのは、どんな充実したコンテンツを揃えてもそれだけでは十分でない。むしろ先ほども書いたように、商業主義的にコンテンツを充実させればさせるほど、人の気持ちというのは離れていく部分すらある。コンテンツを「消費」するだけの場になるからだ。では何が必要かというと、それは「人」である。どんなコンテンツもすぐに飽きられる。でも「人」にはなかなか飽きがこない。結局、人間にとって最大の関心事は「人間」なのだ。
お祭りは、人と人とが普段とは違った空気で出会う場所であり、何よりもまず人間性の発露でなければならない。大げさに言えば、お祭りとは「人間讃歌」でなければならない。どんな集客力のあるコンテンツも、そこにいる人間が「人生を楽しんでいる」という場の空気にはかなわない。砂の祭典にそれがあるか、ということが、今後のこのイベントの命運を分けると、私はそう思う。
「顔の見えない」とか「人間讃歌」とか、随分と抽象的なことを書いてしまったが、まずはこのイベントに関わっている人の生き生きとした姿を、どんどん発信していくことから始めたらよい。海外からの招待作家がどんな気持ちで南さつまに来たのか。実行委員会の人たちが何に悩み、何を目指しているのか。ボランティアの人たちの働きぶり。そして実質的な主催者である、南さつま市役所の職員の皆さんの熱い想い! そういうものをSNSとかリーフレットとか、様々な形で伝えていくべきだ。そういう人間の生き様は、決して「消費」されえない「コンテンツ」である。祭典の本当の価値は、砂像とかステージイベントではなくて、そこに関わる人たちの熱意に他ならないのである。そして、それを見て砂の祭典にやってきた人は、絶対に「南さつま」のファンになってくれるだろう。
というわけで、ここまで随分批判的なことを書いたけれども、四半世紀に渡って砂にこだわってきたという歴史は誇れると思うし、せっかく10万人近くの人が訪れるイベントへと成長したのだから、これをもっとよいものにしていって欲しい。
来年は確か第30回目となる節目の年だ。砂像による人間讃歌、そんな「吹上浜 砂の祭典」になることを切に希望する。
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