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2016年1月13日水曜日

「風景」について

こちらへ越してきてから、風景のことをよく考えるようになった。

南さつま市に地域資源と呼ばれるものはたくさんあるが、その中でも一番すごいのは間違いなく景観である。国道226号線沿いの「南さつま海道八景」、金峰の「京田海岸」、そして大浦の「亀ヶ丘」。こういう場所の景観は、鹿児島の本土では有数だし、全国的に見ても誇れるものだと思う。

だから、地域の発展のことを考えると、この風景という地域資源を活かそう! という話になっていく。私自身、この風景をもっと活かせないかと南薩のポストカードを作ったくらいである。

【参考】 南薩の風景ポストカード5種セット「Nansatz Blue」


実際、素晴らしい風景には大きな価値がある。国内旅行の主要目的は、風景と食事と温泉ではないかと思われるが、その中でも風景の存在は大きい。素晴らしい風景には、ただそれだけで人をそこへ連れてくるという力がある。

しかし、風景の価値というものをジックリと考えてみると、なかなか一筋縄ではいかない。

例えば、我が大浦町の越路浜という海岸で、バブル期に地元企業がリゾートホテルを建てる計画が持ち上がったことがある。結局その計画は実現しなかったが、もしステキなリゾートホテルが建っていたらどうなっただろう。

そうなっていたら、素晴らしい景観に惹かれて、今頃多くの観光客が大浦町を賑わせていたかもしれない。そしてその観光客のために飲食店や土産物屋がたくさんできて、その経済効果は年間10億円くらいになっていたかもしれない。

仮にそうなっていたとしたら、越路浜の風景の経済的価値は、10億円相当だと言えるんだろうか。 もしそうなっていたら、今の縹渺とした静かな海岸ではなくて、人や建物に溢れた全く違う海岸になっているかもしれないのに。

これは全く仮定の話だが、実際に似たようなことが起こっている地域もある。人があまり来なかったからこそ残っていた素晴らしい風景が、多くの人が来るようになるとどんどん変わって行く。自動販売機が置かれ、看板が乱立し、ゴミが捨てられる。風景を活かそうとして、逆に殺してしまうことになる。

風景を活かそうとしていろいろ活動することが、皮肉なことにその風景自体を変えていってしまうのだ。

だからといって、風景を手つかずのまま、人跡未踏のまま残しておくとしたら、その風景がいかに絶景であったとしても、その価値を活かすどころか、その価値そのものを考えることすらできない。誰も行けないアフリカの奥地の奥地に、どんなに素晴らしい風景が待っていたとしても、誰にも行けないなら風景としての価値はない。やはり、人が行けて、そこで五感で眺望を体験する、ということがなくては風景としての価値は考えようがない。

つまり「景観」は、人間社会となんらかの接点がなくては、そこからその価値を取り出すことはできないのである。しかし人間社会が関わる以上、絶対に手つかずにはならない。その風景は人間が手を加えたものにならざるをえない。

もちろん、これは程度問題である。しっかりと風景を守り、マネジメントすれば、最小限の人工物でほとんど自然そのままの景観を維持することはできる。風景との関わり方には、そういう節度が求められるのだ。

ではそういった風景への節度を保ちつつ、観光客を呼び寄せて、何億だかの経済効果がもたらされたら、その何億だかが風景の価値ということになるんだろうか。もしかしたら、風景の経済的価値、ということに限ったらそうなのかもしれない。でも、風景は人の心の中にあるものだから、経済的価値だけではその価値を考えることはできない。もっと多面的に考える必要がある。

南さつまにとっての素晴らしい風景の価値、いや、人間にとっての風景の価値、それをもうちょっとちゃんと考えてみたい。

(いつかにつづく)

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