ササン朝ペルシアの最大版図(西暦621年) |
ユダヤ人はローマで他の人たちと様々な軋轢を抱えていた。その頃は皇帝崇拝が確立していく時期にあったが、自分たちの神以外の聖性を絶対に認めなかったユダヤ人たちは共同体から孤立しつつあり、反ユダヤ的な風説(例えばユダヤ人はロバを崇めているという嘘)が流布されていた。
また帝国には、借金を抱えて政治的不満を抱き、その不満をどこかにぶつけて憂さ晴らししたい人びとがたくさんいたようだ。「反ユダヤ」は、そういう輩にとって手っ取り早い「政治的主張」になっていたに違いない。
そういう状態の中、ある街でユダヤ人とギリシア人の偶発的衝突が起こった。ならず者のギリシア人がユダヤ人街で暴動を起こしたらしい。それに対してローマの軍隊は何もしなかったばかりかその機に乗じて自らもユダヤ人街で略奪行為を行った。これに刺激され他の都市でもユダヤ人居住区の焼き討ちが横行し、怒りに燃えたユダヤ人たちがエルサレムに集結してきた。そして自然発生的に戦闘へと突入し、西暦66年、「第1次ユダヤ戦争」が始まったのである。
だがユダヤ人たちはローマの軍隊に敗北し、この内戦は70年にエルサレムが陥落して終わった。そして壮麗なエルサレムの神殿は破壊され、街は廃墟になった。タキトゥスによればこの戦争で、(かなりの誇張があるにしても)119万7000人のユダヤ人が殺されたという。
この敗戦は、ユダヤ人たちの立場を一層弱いものにした。無益な反乱が起こったことで、反ユダヤ主義が正当化されたからだ。ユダヤ人への弾圧はローマ帝国によって組織的に行われるようになった。そんな中、エルサレム陥落から約50年後、ハドリアヌス帝はエルサレムの廃墟を取り壊し、新たなポリスを建てる計画を立案した。ハドリアヌス帝はユダヤ人に同情的だったと言われるが、かつての神殿の跡地にユピテル神を祀るローマの神殿が建てられることはユダヤ人には耐え難かった。これがきっかけとなって、再びユダヤ人たちが集結し、今度は偶発的ではなく計画的に、ローマ帝国対ユダヤ人の全面戦争が起こった。西暦132年のことであった(バル・コクバの乱/第2次ユダヤ戦争)。
この戦争でもユダヤ人は敗北した(135年)。そして古代ユダヤ国家の歴史はここに幕を閉じることになる。そしてエルサレムという本拠地を失ったユダヤ人の、長い長い流浪の旅(ディアスポラ)が始まった。最初は家を失ったユダヤ人の臨時的な移住から始まったのだろう。ユダヤ人はローマ帝国内にちりぢりになり、またローマ帝国に絶望した者たちは、帝国を離れて亡命していった。
有望な亡命先は、ローマと敵対関係にあったパルティアのバビロニアだった。パルティアはユダヤ人に対して融和的で、かなりの自治を認めていたようだ。そのためバビロニアには大勢のユダヤ人が集まった。
3世紀になるとパルティアが滅びササン朝ペルシアが興る。ササン朝は古代イラン文化の集大成とも言うべき国家である。ササン朝は後にゾロアスター教を国教化して宗教的に寛容でなくなるが、少なくとも初期はパルティアと同様にユダヤ人に融和的だった。
パルティアからササン朝に至る間、バビロニアではアーモーラーイームと呼ばれるユダヤ人の律法伝達者が次々に現れ、口伝律法を整理し、次第に精緻で巨大な宗教規則の体系(タルムード)を築き上げた。バビロニア時代は、イスラエルを失ったユダヤ人の、新たなアイデンティティの確立の時期にあたっていたように思われる。
そうこうしている間も、ユダヤ人は毎年の「仮庵の祭り」のためのシトロンを栽培し続けていた。どんな場所に流浪しようとも、律法に定められた毎年のシトロンは欠かさなかったはずだ。それどころかまさにこの頃、祭儀用のシトロンが満たすべきこまごまとした定めが作られたのだと思う。ユダヤ人のディアスポラは次第にその範囲を広げ、スペイン、北アフリカ、小アジア(トルコ)、エーゲ海の島々、ギリシア、イタリアなどに移住していったが、これらは全て柑橘類の生育適地だった。もしかしたらユダヤ人の移住地の選択は、シトロンが栽培可能であることが制約条件になっていたのかもしれない。
ユダヤ人はこうして、その長い流浪の旅で、各地へ柑橘栽培の技術と文化を伝えていった。
ところで、おそらくは西暦1世紀から2世紀にかけて、中東へ新しい柑橘が渡ってきた。ちょうどシルクロードや海上の交易が盛んになる時代で、多分交易によってそれは東方から運ばれてきた。その柑橘はオレンジである。といっても、この頃のオレンジは甘くなく、日本で言えばダイダイのような酸っぱいオレンジ(サワーオレンジ)だ。
ササン朝ペルシア時代には、当時の人がオレンジを食べていたという話がある。この食べても美味しくない柑橘の原産地は、おそらく柑橘の故郷である北インドで、そこから伝播していくのに随分時間がかかったが、確かにゆっくりと広まっていった。これは推測だが、オレンジは肉の味付けに使われていたのではないかと思う。ササン朝ペルシアが国教としたゾロアスター教は食に対するタブーがなく、現世の享楽を是としていたので豊かな食文化が花開いた。肉を美味しく食べるための工夫が酸っぱいオレンジでの味付けだったのではないだろうか。
そしてこの頃、サワーオレンジと、ユダヤ人たちが携えていたシトロン、この2つの柑橘が自然交雑し、(正確な場所はわからないながら)この中東で重要な新品種が生まれた。レモンの誕生である。3世紀後頃、ちょうどユダヤ人がバビロニアでタルムードの編纂に邁進している頃のことだった。後に世界中で栽培されることになるこの柑橘は、古代ペルシア文化とユダヤ人が交差したその時に生まれたものなのだ。柑橘の世界史における、新しい時代の始まりだった。
【参考文献】
『ユダヤ人の歴史(上巻)』1999年、ポール・ジョンソン、石田 友雄 (監修)
『ゾロアスター教』2008年、青木 健
”The Origin of Cultivated Citrus as Inferred from Internal Transcribed Spacer and Chloroplast DNA Sequence and Amplified Fragment Length Polymorphism Fingerprints" JASHS July 2010 vol. 135 no. 4 341-350, Xiaomeng Li et al.
冒頭画像:"Sassanian Empire 621 A.D" by Keeby101 - I used Photoshop, cropped the image, drew the borders, coloered the map and labeled all of the cities.. Licensed under CC BY-SA 3.0 via Wikimedia Commons.
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