ページ

2014年7月9日水曜日

鹿児島の醤油はいつから甘いのか

鹿児島の醤油は、ものすごく甘いことで有名である。

鹿児島県民は、学業や就職で首都圏に出ると醤油が塩辛いことに驚き、故郷の甘い醤油を懐かしんで、わざわざ醤油だけは鹿児島から甘いものを取り寄せる人もいる。そして逆に、県外から鹿児島に来た人は、甘い醤油に驚く。気に入る人もいるし、苦手に思う人もいて、観光地のレストランなどでは甘い醤油と普通の醤油が両方おいてあることも多い。

そして、県外からも、県民からも、甘い醤油は鹿児島の伝統である、と思われている。だが、それは本当だろうか?

実は、甘い醤油の歴史はさほど古いものではない。少し考えれば分かることだが、近代化以前の世界では砂糖はべらぼうな高級品であったから、これを塩辛い醤油に混ぜるというもったいない真似をするわけがない。

ではいつから鹿児島の醤油は甘いのだろうか。

ところで、 醤油や味噌といった調味料は、明治時代くらいまでは全国どこでも各家庭で作るのが普通だった。こうした調味料は各家庭の「味」であって、美味しい醤油や味噌を作れることが、奥方の誇りにもなっていたのである。

明治時代になって、圧搾機とか火入れ釜のような各種機械が輸入されるようになり、醤油醸造が工業的に営まれるようになってくる。依然として醤油や味噌は各家庭で作るものという考え方は根強かったが、次第に共同で作るようになり、やがて購入するものに変わっていった。それには、工業化に伴う、家庭の多忙化が関係している。

例えば味噌の場合、戦前から戦後にかけて購入商品の割合が増えてくるのだが、これは男衆が徴兵されたり、軍需工場で働かされたりしたことで農村が女性ばかりになり、人手が足りなくなったことが遠因である。忙しい中で、手間のかかる味噌づくりを省力化するため、集落共同での味噌づくりが奨励されるようになり、各家庭での味噌づくりが次第に減っていったらしい(鹿児島の場合。他県のことは知りません)。

醤油醸造の場合は味噌よりももっと手間がかかるわけで、味噌に比べると自家生産から工業生産に移り変わるタイミングは早く、 詳しくは分からないながら大正時代くらいには自家生産が下火になってきていたようである(同じく鹿児島の場合です)。

工業生産といっても、最初は家内工業的なものが中心で、村ごとに醤油屋さんがあるような感じだったが、昭和に入ってくると微生物学などに基づいて科学的に醤油が醸造されるようになり、また機械の大型化などで資本力の劣る小規模な醸造所が淘汰されていった。そんな中、太平洋戦争では鹿児島市内は空襲で焼け野原になってしまったので、醤油工場の多くが灰燼に帰してしまった。

戦後になると、食生活の向上に合わせて醤油もより高品質・衛生的なものが求められるようになった。昔ながらの醤油醸造は菌の扱いが職人の勘に頼っていた部分があり、温度管理なども十分に出来なかったので消費者の求める均質な商品を作るのが難しかった。そのため大型の設備を用いた醸造方法が中心になってきて、なおさら小規模な醸造所は生き残れなくなってきた。

そのため、県内の醤油醸造所は製麹・発酵・圧搾までの工程を共同化することにし、昭和42年(1967年)、隼人町に「生揚醤油共同生産工場」を設立した(写真)。現在では、鹿児島の醤油メーカーは数あれど、ほとんどがこの工場で醸造した生醤油を元にして、それぞれの味付けを行って醤油を製造・販売している。鹿児島の醤油は一見多様であるが、ほぼ全てこの工場の醸造がベースとなっているのである。

さて、鹿児島の醤油が甘くなったのは、戦後からこの共同生産工場が設立されるまでの間のようである。県内の多くの醤油工場が罹災してしまったため、この時期にはナショナルブランド(キッコーマン、ヤマサ、ヒゲタ、ヒガシマル、マルキン)が鹿児島に進出してきた。これら大手は、生産の合理化や機械化に積極的に取り組んで高い醸造技術を持ち、しかも安価な製品を生みだしていた。

生産力・販売力に長けるナショナルブランドに対抗するため、県の工業試験場では消費者・業界からの要望でサッカリンやシュガロンといった人工甘味料を用いた甘口醤油造りを研究、昭和32年(1957年)ごろに県内業者が共同して甘口醤油を売り出したのであった。普通の醤油では大手メーカーに対抗できないため、県民の嗜好に合わせた新たな商品として甘口醤油は開発されたのである。

というわけで、鹿児島の醤油が甘いことは50年くらいの歴史はあるが、それ以上ではなくさほど古い伝統とは言えない。しかも醤油の甘さは元々がサッカリンなどの人工甘味料のに由来していて、「鹿児島の甘い醤油の伝統」があるとすれば、それは人工甘味料の甘さである。

でも「元々鹿児島の人は甘口の味付けが大好きで、醤油もその嗜好に合わせて甘くなっているのだから、そのものは古くからのものでないにしても、伝統に沿ったものであるといえるのでは?」と反論する人がいるかもしれない。このあたりでは「甘いは美味い」という、とりあえず料理は甘口にしておけば美味しいという格言(?)すらある。

しかし残念ながら、鹿児島の人は甘口の味付けが大好き、というのもさほど古いことではない。藩政時代の鹿児島の料理の実態はよくわからないが、明治期については若干の資料がある。例えば『薩摩見聞記』という本で、これは当時の鹿児島の庶民社会を知るのに格好の資料である。

この本は、本富 安四郎という人が書いた。本富(ほんぷ)は新潟から教師として明治22年(1889年)に鹿児島に赴任し、数年間滞在。そこで見聞した「異国情緒」ある事柄をまとめたのが『薩摩見聞記』である。

そこには、興味深いことがたくさん書かれていて、現在の鹿児島で伝統だと思われていることが当時には真逆であったり、逆に今と変わらない鹿児島県民の姿もある。この本の興味深い点については機会があればまた書いてみたいが、今注目するのは料理についてである。

『薩摩見聞記』の料理関係の記述を探してみると、「宴会」と「飲食物」という項があり、鹿児島の宴会が独特だ(大規模でくつろいだ雰囲気)ということと焼酎の話題が多い。食材については山海の恵みが豊かだという具体例を様々に挙げるが、料理の味付けについては特に記述がなく、本富は鹿児島の料理が取り立てて甘口だとは感じなかったようである。一言「塩梅(味付け)は鹿児島にては甘けれども村方にてはやや塩辛く」とあるくらいだ。

これについても、そもそも日本料理は世界的に見ればかなり甘口の味付けをする方で、海外から来た人に、「ジャガイモでもニンジンでも日本人は甘い味付けをするんだなあ」と思われるくらいであるから、ことさら鹿児島市街地が他県と比べて甘口の味付けを好んでいたとは思えない。

では、いつから鹿児島県民は料理に甘口の味付けをするようになったのだろうか?

これについては、確たる資料がないので憶測になるが、やはり戦後の現象だと思う。始めの方に述べたように、近代化以前の世界では砂糖そのものが超高級品であるため甘口の味付けには限界があった。ところが戦後、全国的に甘口の味付けが好まれるようになってくる。というのは、海外からの安い砂糖が入ってきて砂糖の価格がドンドン下がってきたからで、砂糖を比較的自由に使えるということに伴っての変化だっただろう。

そのために砂糖の消費量が増大したが、政府は砂糖購入による外貨の流出と国内砂糖産業への打撃を緩和するため砂糖の輸入量を制限。そのために人工甘味料の需要が高まってくるのである。特にサッカリンは砂糖の数百倍の甘みがあるため、砂糖の代用品として工業的に多く使われた。

鹿児島で甘口醤油が開発された1950年代は、ちょど砂糖が供給不足になり、人工甘味料が広く使われた時代と重なっている。これは推測だが、甘口醤油は、醤油自体の味がどうこうというよりも、料理の際の砂糖を節約するために好まれたのではないか。甘みの強い醤油を使えば、砂糖をさほど使わなくても甘辛い煮物ができるということで、節約志向の主婦に喜ばれたであろう。県民所得が低いことにかけては定評がある鹿児島県のことで、貧しさ故の苦肉の策が甘口醤油を生んだのかもしれない。

だが、1963年には粗糖が輸入自由化され、1970年代にはサッカリンに弱い発癌性があるとの疑いがあり発売中止になった(その後解除)。だいたい1960年代までが単純な砂糖の代用としての人工甘味料の黄金時代で、その後は砂糖の価格がかなり下がって供給も安定したため、「甘口醤油」の存在意義もさほどなくなったのではないかと思う。

しかし甘口醤油は鹿児島の新たな伝統となり、最近では観光客が鹿児島の甘い醤油が美味しいということで買い求めることも増えてきた。そもそも、鹿児島の料理自体が甘口醤油を前提として作られるようになり、甘口醤油なしでは「お袋の味」が再現できなくなってしまった。

鹿児島の甘口醤油が真の意味で伝統的でないからといって気後れする必要はない。しかし、鹿児島の醤油は甘くなきゃならない、と決めつける必要もない。私は甘い醤油も好きだし、キッコーマンの醤油も好きで、料理によって使い分けている。あまりよくないのは、ごく最近の現象に過ぎないものを伝統だと思い込み、狭量なナショナリズムに陥ることである。美味しいと感じるものを素直に追求して、新たな鹿児島の食文化をみんなで作っていけたら楽しい。

【参考文献】
『鹿児島の伝統製法食品』2001年、蟹江 松雄、藤本 滋生、水元 弘二著
『薩摩見聞記』1898年、本富 安四郎著

1 件のコメント:

  1. 丁子屋の吉峯幸一さんは、九大で発酵学を学んだ専門家ですが、サッカリンを加えることで麹菌を生かし「うまみ」がでると、以前話してくれました。

    返信削除