撤去されつつある荒瀬ダム |
といっても、実は私は「棚田再生!」などには否定的である。棚田のように一つひとつの耕作面が小さくて道が狭く、大型の機械が入らないような田んぼは管理にとんでもない労力がかかる。要するにコストがかかりすぎる。タダでさえ農業は収入が低く、経営の効率化が叫ばれている現在、棚田のような趣味的・余暇的なことに農家が手を出す余裕はない。
この研修の主催者は、鹿児島の「土改連」すなわち「土地改良事業事業団体連合会」であり、まさに「生産性の高い農地の集積が大事だからみなさんご協力ください」みたいなことを言い続けてきた団体である。棚田みたいな狭隘で形の悪い農地を崩して整地し直し、四角くて広い、使いやすい農地に変えてきた(「基盤整備事業」と言います)のが土改連なのである。その土改連が、かつて破壊してきた棚田を今になって称揚しているのはなぜなのか。棚田には景観や村おこし以外の価値があるのか、そういう興味を持って研修に参加したのである。
結論を言ってしまうと、その疑問は氷解しなかったし、ますます謎が深まった面もある。というわけで、とりとめのない内容になるが紀行文的に棚田を巡る旅のことを語りたいと思う。
さて、旅は球磨川を遡っていくもので、最初の休憩が道の駅「さかもと」。熊本県八代市、球磨川のほとりにある物産館である。
この物産館から少し先に、その筋には有名な「荒瀬ダム」がある。荒瀬ダムは、ちょうど今、日本で初めての本格的なダム撤去工事が行われている。これは老朽化によるものというよりは、元の景観や環境を復活させようという意図で行われるもので、このような理由でダム撤去の決定がなされたことは画期的なことであった。
荒瀬ダムは、地元の電力をまかなうために1955年に出来た。当時、熊本には既に水力発電所があったそうだが、その電力は北部九州に送られており熊本県民は宮崎から電力を購入していたそうである。そこで、今風に言えばエネルギーの地産地消のために作られたのが荒瀬ダムだった。そこから約50年、水利権の更新という行政上の問題をきっかけにして撤去の声が上がったのだった。
ダム撤去の費用はかなり高額であり、逆にダムを使い続ければ毎年1億円以上の純利益が見込めていた。電力需要の面で存在価値が低下していたとはいえ、数字には換算できない「環境」や「地元住民の気持ち」が優先されたことは、経済至上主義者だらけの日本では誇ってよいことだろう。
しかも地元にかかっていた垂れ幕の内容が意外で、「荒瀬ダム55年間ありがとう」みたいなことが結構書いてある。撤去運動の時はたぶん「ダムが環境悪化の犯人だ」みたいな、ダム悪玉論が展開されていたのではないかと想像されるが、いざ撤去にあたってダムへの感謝が表明されるというのは住民の穏当な感覚を示していて好感を持った。なにしろ、ダムが地元のために作られたのは事実で、確かに球磨川流域の人々の生活を支えた存在だったのである。
こうして荒瀬ダムのことを長々と書いてきたのは、撤去されるダムがこれから見る棚田の情景と重なったからだ。 ダムも棚田も、元々は経済的に重要な存在だった。今でこそ棚田は生産性が低い困った農地であるが、東アジアの各地に棚田が存在していることから分かるように、機械耕作以前の世界においては棚田は合理的な水田耕作法である。また、米もかつては今とは比べものにならないほど重要な作物で、江戸時代には米の石高が経済力そのものを示したし、明治維新後にも何をおいても米を作ることが求められた時もあった。
しかし時は移り、ダムも棚田も時代に合わなくなった。依然として細々と続けていくことはできても、それよりももっと効率のよい方法があるわけで、敢えて維持しなくてはならない理由がなくなった。それどころか、人の手が入る前の自然に戻す方がなおよい、という考えも出てきた。
そして、ダムは撤去された。
だが逆に、棚田は今になって見直されている。
ダムと同じように考えれば、棚田も自然に戻す方がよいように思う。棚田が経済的な役割を終えたのなら、樹が生い茂る山の景観へと戻していくべき、ということにならないか。その使命を終えたものを、敢えて延命する必要はないのではないか。
荒瀬ダムの景観は、そういうことを考えさせられた。
しかし当然、ダムと棚田は違う。ダムは自然環境に負荷を掛けるが、棚田は生物多様性を高める。ダムは特定の企業の利益になるが、棚田で儲ける人は(僅かな例外を除いて)いない。でも決定的に一番違うのは、ダムは醜く、棚田は美しい、ということだ。
この問題の本質を理解するには、経済とか環境とか、そういうことは二の次で、きっと、「美」とは何か、という問題を考えなければならないのかもしれない。
(つづく)
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