唐突だが、「社会を明るくする運動」って意味あるのだろうか?
毎年この時期になると「社会を明るくする運動」というノボリが道ばたに立てられて、標語みたいな横断幕が掲示される。
これは多分全国的なもので、各地で同様のノボリや横断幕が掲げられていると思う。都会に住んでいた時はその存在を忘れていたが、田舎のなんもない道にこれが掲げられているとそれなりに目立つ。これを各所に掲示する役場職員の手間も(全国各地でやっていることを思えば)厖大だろうに、これ、一体何の役に立っているのだろうか?
多分答えは「ほとんど何の役にも立っていない」。というか、「運動」という名前がついているが実際には具体的な「運動」はなくて、せいぜいごく一部の都市で作文コンテストの結果発表があったりそれっぽい講演会が開かれたりするくらいで、全国的に見ればこの「運動」の最も枢要な活動は、役場職員がノボリと横断幕を掲示するというものだろう。これは典型的なスローガン行政、つまり標語などを掲示するだけで中身のない社会主義国的な行政手法だ。
日本の行政には、こうした何の意味もないことは長続きするのに、本当に求められていることや有意義なことは泡沫のように消えて行ってしまうという悲しいサガがある。この「運動」も何かの支障になるというわけではないし、掲示する手間も各自治体だけで考えればさほど大きいものではない。表立って実施に反対しなくてはならない理由もないから法務省に従っておくか…というような考えで全国でやられているのではないか。この「運動」は今年で65回目らしいが、よくぞこんな無意味なものが65回もの歴史を積み重ねたものである(多分当初は意味があったんだと思いますが)。
しかも、この「運動」の政策目的は何かというと、「社会を明るくする運動」というスローガンからは全然わからないもので、これは犯罪を犯した人や非行少年が社会復帰することを後押しすることなのである。
これ自体は必要なことで、後ろ指指されるようなことをすればすぐに村八分になりがちな日本社会には大切な目標である。それに、その存在がつい忘れられがちな保護司(これは国家公務員なのに無給という奇妙な職業。犯罪を犯した人の後見活動などをする)にも、「社会を明るくする運動」の時にやや表立って活動する機会(街頭での呼びかけ・講演など)が与えられるのも重要だ。私はこの「運動」の唯一の意味は、保護司のみなさんのプレゼンスを高めるということだと勝手に思っている。ついでに言うと、実は私の曾祖母も保護司をやっていたらしい。
で、問題はそういう政策目的から考えて、「社会を明るくする運動」はちゃんと役立っているかということである。こういう無意味なスローガン行政を全国で展開するより、小さくてもいいから中身のある活動を進めていく方がずっといいことではなかろうか。同じ厖大なコストをかけるなら、もっと今の時代にあった内容に変えていくべきだ。
ともかく、この「社会を明るくする運動」のノボリは、無批判に前例と慣例を尊んだり、上級官庁の言うことに素直に従ったりといった、日本の行政の主体性のなさの象徴のような気がしてしまう。何より、「実質的に意味がなくても問題にしない」という姿勢の現れだと感じる。
実際には、「社会を明るくする運動」自体にそんなに目くじらを立てる必要はない。でも、実質的に意味がなくても一度確立したものはずっと続いていくという日本の悪弊は、例えば八ッ場ダム(作る必要はないのに中止できない)とか諫早干拓(米は減反しつづけているのにどうして干拓する必要があるのか)みたいな大規模公共事業において先鋭的に表出している。意志決定の中枢には、「これもう意味ないんじゃない?」と疑問を呈する人が必要である。
一方、「一度確立したものはずっと続いていく」というのは、悪弊でもあるが同時に歴史的視点からは貴重な性質でもある。例えば雅楽の楽器(笙とか龍笛とか)は千年前からほとんど形を変えていないが、これはその「悪弊」が遺憾なく発揮されたためである。西洋の楽器はこの300年を見てもどんどん機能的に演奏しやすく発展してきたのに、雅楽の楽器には全く改良が施されていないのだ。改良されていないことを良しとするか悪しとするかは人それぞれだとしても、多分日本の雅楽が残っていなかったら永久に失われてしまった音楽があったことを思うと、人類史の一齣を保存するという価値はあった。
だから「前例踏襲」も極めれば立派といえば立派なんだろう。しかしそのせいで、実質的に意味あることが後回しにされているとしたら残念だ。「社会を明るくする運動」みたいなことがそこらじゅうに溢れていて、社会(というより地域行政)の発展を阻害しているような気がして仕方がない。
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