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2014年12月11日木曜日

経済が発展する原動力(その2)

(前回から引き続き『発展する地域 衰退する地域』について)

地域の経済発展の大きな原動力が「輸入置換」にある、というのは認めるにしても、多くの地方都市で行われている「工場誘致」もその原動力にならないのだろうか。

日本では(というより世界の多くの都市で)企業の工場を誘致することは重要な経済政策とされている。農村的な地域に工場が一つできるというのは地域経済にとっては随分大きなことで、数百人(または数千人)の雇用が生まれ、それによって人口が増える。また、工場が払う税金(地方法人税や固定資産税)は地方の財政を豊かにする。

特に工場が払う税金は地方政府にとって大きな魅力である。農村的な地域においては住民の住民税というのは微々たるものなので、独自財源の殆どが工場からの納税、というような地域もけっこう多いのではないかと思う。

だから、地方政府(県、市町村)は工場誘致に力を入れることが多い。広い道路に面した安い土地を用意して工業団地を作り、豊富な水や電気、そして教育された労働者(工業高校がありますとか)を売りにして企業を呼び込もうとするのである。そういう努力は、経済発展の原動力にはならないのだろうか?

だが著者は、工場誘致(著者の用語では「移植工場」という)には否定的である。いっときはよいかもしれないが、長い目で見ると経済発展には寄与しないという。

その理由は主に2つある。第1に他地域の資本によって運営される工場は、材料調達などを他地域に負っていることが多いため(要するに地域内に下請けを出さない)、地域内の生産物の多様化に寄与しないということ。第2に、好条件に惹かれて移入してきた工場は、よりよい条件のところが見つかればさっさと出て行ってしまうということ、の2つである。

重要なのはもちろん第1の方で、経済が発展するには地域内で多様な生産活動が行われなくてはならないのに、工場はそれにさほど寄与しない。例えばもしその工場が、系列内で完結した部品調達の仕組みを持っているとすれば、地域の人びとが行うのは組み立て作業に過ぎず、要するにその地域は単純労働者のベッドタウンになってしまう。

とすれば、地域内の人びとがインプロヴィゼーション(あり合わせのもので行う創意工夫)を行う余地はないわけだ。だから経済発展に寄与しないというのである。

しかしこれは、あまりに単純すぎるストーリーではなかろうか。仮にその地域が単純労働者のベッドタウンになるにしても、ある程度の人口が維持されるならそこにはそれなりにビジネスチャンスが生まれるであろう。焼き鳥屋ができたり、クリーニング店ができたりする。そういうものは、小さいながら「輸入置換」の一環であるし、地域住民の才覚を発揮する場にもなるのである。

だから、第1の理由は私にとってはあまり説得力がない。しかしながら、工場誘致は次善の策であるということもまた事実である。工場誘致のアピールポイントである、安い土地、豊富な水や電気、それに教育された労働者、そういうものが本当に地域にあるのなら、他の地域の誰かにそれを使ってもらうのではなく、他ならぬ自分たち自身で使う方がよいのである。

著者が何度も強調して述べているのは、経済発展のためには、「他地域のためだけでなく、自分たち自身のために豊かに多様に生産」することが必要だ、ということである。地域が発展していくということは、地域の人びとが自分たち自身のために生産し、消費し、投資していくという循環的プロセスがなくてはならない。どこかの活気ある都市に供給するだけの経済には限界がある。要するに、持てる力は自分たちのために使うべきなのである。

ついでに、第2の点にも反論したいことがある。著者は、好条件に惹かれてやってきた工場はすぐに移転してしまうというが、それは地域発祥の企業でも同じことではないだろうか。

いきなり話が地元の具体例になるが、加世田にかつてイケダパンというパン屋の工場があった。鹿児島の人はよく知っている企業だと思う。イケダパンは、加世田時代には随分郷土愛があって、地元の祭りやスポーツ大会に出場するなど、地域の活動にかなり貢献していたようである。しかし商売が大きくなるにつれ、僻地にあるデメリットが大きくなり、重富の方へ移転していった。こちらには高速道路も鉄道もあり、空港も近い。高速道路も鉄道なく空港からも遠い加世田は、大きな商売をするには適していないから、出て行ったのは当然だ。

商売が適地を求めて移動していくのは自然の摂理であって、地域の人のために生産する企業だったら移動していかない、というのは幻想に過ぎないと思う。

ただ、他所から好条件を求めてやってきた工場は、地元発祥の企業に比べて移動していきやすい、ということは言えるだろう。著者がこのことを問題にするのは、冒頭に述べたように工場誘致は農村経済にとって大きな影響があるため、それがどこかへ移っていってしまったあとの経済的空白もまた大きいからである。

そして一度都市的になった地域は、かりに都市的生産が衰退しても、元の農村的地域に戻ることはない。なぜなら、農村とはただ人家がまばらで自然が豊かな場所だということではなく、農村の文化がある場所だからである。一度失われた文化を再興するのは非常に困難なことで、百年単位の時間がかかる大仕事なのだ。そして衰退した都市的地域は、最悪の場合スラム化する。

であるから、工場誘致はリスキーだというわけである。

にしても、ケインズがいうように「長期的にみたら我々は全て死んでいる」のであり、衰退した後のことまで考えて経済発展を躊躇するのは深謀遠慮が過ぎる。せいぜい、工場による景気は一時的なものだから、経済が盛んなうちに地域の自生的な産業を育成しましょう、という教訓として受け取るのがよいと思う。

というわけで、著者は工場誘致に対して否定的で、地域の経済発展の原動力になりえないという立場を取るが、私はそれには懐疑的である。

ただ、工場誘致が次善の策であることも事実だし、それ以上に重要なことは、決して、望み通りのおあつらえ向きな工場が、都合よく来てくれるわけがないという非情なる現実である。いつまでも工場が移入してこないことを不満に思うくらいなら、持てる力を自分たちで使うべきだ。

日本各地に、入居者待ちの「工業団地」がある。定員一杯というのは稀だろう。広い区画が丸々空いていることも多い。そういう土地をいつまでも遊ばせておくより、それを地域の人びとで使うべきだ。資本がない、人材がいない、販路がない、ノウハウがない。商売を始めない理由なら山ほどある。しかし地域を発展させる根源的な力は、地域の人びとの中にしかない。工場誘致はそれが表出するきっかけを作るだけなのだ。

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