2011年のクリスマス、神奈川県から鹿児島県南さつま市大浦町の古民家へ家族で移住。 大浦町は、父方の故地ではあるもののいわゆるIターン。 田舎暮らしのありさまや感じたこと、考えたことのメモ。
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読書メモ(書物周游)
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2018年6月25日月曜日
国学者の敗北——なぜ鹿児島には神代三陵が全てあるのか?(その13)
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神代三陵が全て鹿児島に治定された背景には、確かに明治政府における薩摩閥の政治力があった。田中頼庸の神代三陵遙拝の建白が受け入れられたのも、大雑把に言えば当時薩摩閥が当時強力な政治力を有していたからだ。 とはいっても、 あらゆる行政分野において薩摩閥の政治家・官僚が好き放題にで...
2018年6月1日金曜日
高屋山上陵の変転——なぜ鹿児島には神代三陵が全てあるのか?(その12)
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中央に取り立てられていった田中頼庸の動向を追う前に、彼が中央へ旅立つ直前に行った、神代三陵に関する仕事について触れておく必要がある。 頼庸は、鹿児島の神道国教化政策がクライマックスにさしかかっていた頃、神代三陵の調査を行い、明治4年には『高屋山陵考』を著して、ホホデミのミコト...
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2018年5月17日木曜日
皇軍神社と新しい神道——なぜ鹿児島には神代三陵が全てあるのか?(その11)
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廃仏毀釈の嵐が最後に残った名刹をも吹き飛ばそうとしていた明治3年11月、鹿児島の城下に奇妙な神社が創建された。その名も「皇軍神社」、訓じて「すめらみくさのかみのやしろ」という。 皇軍神社は、御軍神社という神社を母体にして創られたもので、翌月には軍務局の隣に遷座された。祭神は、...
2018年5月8日火曜日
日新公没後450年と、草の根の「日新公いろは歌フォトブック」
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2018年は、日新公没後450年である。 日新公とは、島津日新斎忠良(じっしんさい・ただよし)。島津中興の祖と言われる、加世田ゆかりの戦国時代の名君である。 日新公の生きた時代は戦乱の世であった。鹿児島でも、敵と味方が入り交じり、各勢力がモザイクのように絡み合っていた...
2018年4月4日水曜日
神道国家薩摩——なぜ鹿児島には神代三陵が全てあるのか?(その10)
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島津忠義夫人照子(暐姫)の墓(川田達也氏撮影) 鹿児島の後期廃仏毀釈は、苛烈であった。 藩内にあった1066ヶ寺が全て廃され、2964人の僧侶は全員が還俗させられた。仏教的なるものは悉く毀(こぼ)たれ、鹿児島から一掃された。日本国中を見ても、これほど徹底的な仏教の破壊...
2 件のコメント:
2018年3月25日日曜日
薩摩の国学と廃仏毀釈——なぜ鹿児島には神代三陵が全てあるのか?(その9)
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田中頼庸(よりつね)は、鹿児島で明治の改元(慶応4年、1868年10月)を迎えた。 そして翌明治2年、版籍奉還の後に藩校造士館「国学局」が設立され、頼庸はその都講として起用された。国学局は、学頭・学頭助・都講・授講以下の職員で構成されており、頼庸の待遇は今で言う教授クラスだっ...
2018年3月15日木曜日
田中頼庸と幕末の国学——なぜ鹿児島には神代三陵が全てあるのか?(その8)
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田中頼庸(よりつね)は、独立独歩の人であった。 彼には、師らしい師がいない。というのは、彼の家庭はあまりにも貧しく、入門の費用が払えなかったのだ。 それどころか、本一冊買うこともままならなかった。貧窮の中にいた頼庸を支えたのは学問への情熱であったが、その学問は独学すらも許...
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