2011年のクリスマス、神奈川県から鹿児島県南さつま市大浦町の古民家へ家族で移住。 大浦町は、父方の故地ではあるもののいわゆるIターン。 田舎暮らしのありさまや感じたこと、考えたことのメモ。
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読書メモ(書物周游)
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2017年10月27日金曜日
島津久光と明治政府の対立——なぜ鹿児島には神代三陵が全てあるのか?(その6)
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島津久光 明治天皇が神代三陵を遙拝してから5日後の明治5年(1872年)6月28日、既に天皇は出発の予定になっていたが、悪天候のため鹿児島に足止めされていた。 そうした機会を捉え、島津久光は衣冠束帯の姿を整えて天皇の行在所に赴き、徳大寺宮内卿を通じ天皇に「14箇条の建...
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2017年9月24日日曜日
神代三陵が等閑視されていた理由——なぜ鹿児島には神代三陵が全てあるのか?(その5)
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明治天皇の鹿児島行幸(山内多聞 画) 前回に見たように、鹿児島に神代三陵があるという説は幕末までにかなり確立していた。 ただし、それらが鹿児島の中のどこにあるか、というと異説がいろいろとあり、幕末の時点でも決定打と呼べる説はなかった。何しろこの頃は、古代の考証といって...
2017年9月19日火曜日
薩摩藩の天皇陵への関心——なぜ鹿児島には神代三陵が全てあるのか?(その4)
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『神代山陵考』白尾国柱 著 これまで見てきたように、天皇陵は、幕末の頃は尊皇攘夷の象徴として、また維新後は「万世一系」の歴史的証拠として時の政権に利用されたのであった。 では、鹿児島にとって、天皇陵とはどんな存在であったのだろう。やはり薩摩藩も、天皇陵を政治的に利用し...
2017年8月25日金曜日
神話は現実化していった——なぜ鹿児島には神代三陵が全てあるのか?(その3)
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可愛山陵 天皇家が葬られているところ——山陵は、幕府にとってどのような存在だったのだろうか。そして、山陵と尊皇は、どのように結びついていたのだろうか。 山陵にいち早く注目した為政者は、徳川光圀である。光圀は、元禄7年(1694年)に神武天皇陵の修補を幕府に提案している...
2017年8月21日月曜日
「文久の修陵」と「尊皇の競争」——なぜ鹿児島には神代三陵が全てあるのか?(その2)
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明治政府は明治7年に、鹿児島の3ヶ所を、それぞれ 可愛(えの)山陵 、 吾平(あいら)山上陵 、 高屋(たかや)山上陵 であると指定した。明治政府は、鹿児島に神々の墓があると決定したのである。 どうして、このような決定がなされたのか、それを考えるには、少し遠回りするようだ...
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2017年8月20日日曜日
レヴィ=ストロースが鹿児島に来て——なぜ鹿児島には神代三陵が全てあるのか?(その1)
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高屋山上陵 鹿児島空港から車で15分くらい行ったところに、「高屋山上陵」という史跡がある。鬱蒼とした杉山の、長い長い階段を登ったところにそれはある。 これは、 ホオリのミコト (火遠理命)、いわゆる山幸彦の墓とされるものだ。山幸彦は、初代天皇である神武天皇の父親に当た...
2017年7月25日火曜日
美しく剪定されたイヌマキが一本残らず…
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南薩の柑橘農家にとって、防風垣は単なる風除け以上のものである。 柑橘の篤農家は、圃場の外郭に沿って植えられ、美しく剪定されたイヌマキの防風垣を誇りとしていて、柑橘の樹そのものと同じくらい、イヌマキに愛情を注いでいる人も多い。 入念に管理されたイヌマキは、まるでフランス...
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