2011年のクリスマス、神奈川県から鹿児島県南さつま市大浦町の古民家へ家族で移住。 大浦町は、父方の故地ではあるもののいわゆるIターン。 田舎暮らしのありさまや感じたこと、考えたことのメモ。
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読書メモ(書物周游)
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2019年2月24日日曜日
海からやってきた2頭のクジラ
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先日、笠沙の小浦に2頭のクジラが打ち上がった。 下の娘がクジラを見てみたいというので保育園から海岸まで直行。正確な場所は聞いていなかったが、行けば人だかりがあるだろうとタカをくくって進むと、果たして大勢の人が集まっているところがある。自宅から車で15分ばかりの岩場に巨大な...
2019年1月26日土曜日
かつ市の「本枯れ黄金だし」を全国に普及させるために
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「本枯れ黄金だし」を知っているだろうか? これ、枕崎のかつ市(中原水産)で売っているいわゆる「だしパック」。30パック入って2000円くらいの商品である。 【参考】本枯れ黄金だし|かつ市 http://www.katsu-ichi.com/ougon-honkare...
2019年1月14日月曜日
大坪白夢と面高散生
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改めて、明けましておめでとうございます。 昨年は、「なぜ鹿児島には神代山陵が全てあるのか」というマイナーなテーマの連載に余暇の全てを使ったため、ごく普通の話題を書くことが全く出来ず、読者の皆様(あんまりいないとは思いますが)には大変退屈な思いをさせました。改めてお詫び申し...
2019年1月1日火曜日
神話を再び神話へ——なぜ鹿児島には神代三陵が全てあるのか?(その20)
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終戦後の昭和20年(1945年)12月15日、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は「神道指令」として知られる指令を発した。 これは正確には「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件」という表題の指令で、その表題が示すとおり、国家神道を禁...
2018年12月30日日曜日
挫折した歴史編纂——なぜ鹿児島には神代三陵が全てあるのか?(その19)
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久光が病床に伏していた明治20年11月、政府の調査団が島津家を訪れ、同家が保存していた大量の歴史資料の提出を求めた。 明治18年(1885年)から、政府は歴史編纂に用いる史料収集のため全国に人を出張させ、史料の探索と写本の作成を行っていた。調査団を率いたのは、かつて久光に見い...
2018年11月28日水曜日
保守主義者「玩古道人」——なぜ鹿児島には神代三陵が全てあるのか?(その18)
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明治20年12月、島津久光が亡くなった。 政府はこれを受けて、久光を国葬を以て送った。葬儀を取り仕切ったのは式部次官だった高崎正風。そして斎主を務めたのが田中頼庸であった。この人選には久光との関係が考慮されただろう。 高崎正風は、明治政府に出仕して以降は疎遠になっていたが...
2018年10月3日水曜日
つくりかえられた伊勢神宮—なぜ鹿児島には神代三陵が全てあるのか?(その17)
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田中頼庸は、明治7年の春、教部省から伊勢神宮に大宮司として赴任した。 この頃、教部省は各地の古社・大社に直接人を送り込むようになっていた。それは、いっこうに成果の上がらない大教宣布運動を続けるより、直接神社に手を入れることで信仰のてこ入れを図ったという面もあるし、また、官吏と...
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