2011年のクリスマス、神奈川県から鹿児島県南さつま市大浦町の古民家へ家族で移住。 大浦町は、父方の故地ではあるもののいわゆるIターン。 田舎暮らしのありさまや感じたこと、考えたことのメモ。
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読書メモ(書物周游)
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2018年11月28日水曜日
保守主義者「玩古道人」——なぜ鹿児島には神代三陵が全てあるのか?(その18)
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明治20年12月、島津久光が亡くなった。 政府はこれを受けて、久光を国葬を以て送った。葬儀を取り仕切ったのは式部次官だった高崎正風。そして斎主を務めたのが田中頼庸であった。この人選には久光との関係が考慮されただろう。 高崎正風は、明治政府に出仕して以降は疎遠になっていたが...
2018年10月3日水曜日
つくりかえられた伊勢神宮—なぜ鹿児島には神代三陵が全てあるのか?(その17)
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田中頼庸は、明治7年の春、教部省から伊勢神宮に大宮司として赴任した。 この頃、教部省は各地の古社・大社に直接人を送り込むようになっていた。それは、いっこうに成果の上がらない大教宣布運動を続けるより、直接神社に手を入れることで信仰のてこ入れを図ったという面もあるし、また、官吏と...
2018年9月29日土曜日
三島通庸の「黄金の神殿」—なぜ鹿児島には神代三陵が全てあるのか?(その16)
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これまで、かなり詳しく神代三陵確定に至る経緯を見てきた。 神代三陵の確定については、そもそも歴史書で触れられること自体が稀だが、触れられる場合でも「薩摩閥の政治力を背景になされた」と簡単に片付けられる。しかしことはそう単純な話でもない。神代三陵を確定した時期は、確かに教部省を...
2018年8月20日月曜日
空前絶後の陵墓大量確定の中で—なぜ鹿児島には神代三陵が全てあるのか?(その15)
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田中頼庸が、神代山陵への遙拝を建白したのがいつのことだったのか、その建白書に日付が残っていないため正確には分からない。 だが建白書には教部省設置のことが書いてあるので、明治5年3月以降に書かれたものあることは確実である。また、このような政治的に機微な事案を鹿児島にいながらにし...
2018年7月13日金曜日
神祇官復興、薩人尽力——なぜ鹿児島には神代三陵が全てあるのか?(その14)
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明治5年、神祇行政を牛耳っていた津和野派が突如として教部省から排除された背景には、確かに薩摩閥の策動があった。 当時は岩倉使節団が外遊中であり、維新政府の首脳陣が不在になっていた時期である。特に薩摩閥の政治力が発揮しやすい状況でもあったのだろう。 しかし教部省に乗り込んで...
2018年6月25日月曜日
国学者の敗北——なぜ鹿児島には神代三陵が全てあるのか?(その13)
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神代三陵が全て鹿児島に治定された背景には、確かに明治政府における薩摩閥の政治力があった。田中頼庸の神代三陵遙拝の建白が受け入れられたのも、大雑把に言えば当時薩摩閥が当時強力な政治力を有していたからだ。 とはいっても、 あらゆる行政分野において薩摩閥の政治家・官僚が好き放題にで...
2018年6月1日金曜日
高屋山上陵の変転——なぜ鹿児島には神代三陵が全てあるのか?(その12)
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中央に取り立てられていった田中頼庸の動向を追う前に、彼が中央へ旅立つ直前に行った、神代三陵に関する仕事について触れておく必要がある。 頼庸は、鹿児島の神道国教化政策がクライマックスにさしかかっていた頃、神代三陵の調査を行い、明治4年には『高屋山陵考』を著して、ホホデミのミコト...
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